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2020年12月31日

H・A・ローレンツ_1853年7月18日 ~ 1928年2月4日【10/24の原稿】

年も暮れていきますね。
今年誕生したこのブログは初めての年越しを迎えます。
継続してご覧頂いている方々、ありがとうございます。
来年以降も読みやすく分かり易いブログを目指すと共に
より物理学への関心を深められるように致します。
どうぞ宜しくお願い致します。

以下に10/24投稿のローレンツのの原稿を残します。
彼は20世紀初頭の変革期のキーマンの一人だと思います。
ご覧ください。

リンクのついた原稿は改定しています。

【以下は初稿】
その名は正確にはHendrik Antoon Lorentz。
です。オランダに物理学で有名なライデン大学
がありますが、ローレンツはそこの出身です。
この大学では他に、
エンリコ・フェルミ、
西周、
ヘイケ・カマリン・オンネス、
アルベルト・アインシュタイン、
クリスティアーン・ホイヘンス 、
フィリップ・シーボルト、
ポール・エーレンフェスト
が学んだり教えたりしていました。
他、オランダで個人的に関心があるのは
デルフト工科大学で低温物理学で有名な拠点
ですので別途、取り上げたいと思います。





さて話戻ってローレンツですが、
電気・磁気・光の関係を解きほぐしました。
特にアインシュタインが
特殊相対性理論を論じる際に起点の一つに使った、
光速度不変の概念はローレンツが導いた
変換に関する考察があって成立しています。

無論、アインシュタインは、
その業績を高く評価してローレンツを
「人生で出会った最重要な人物」
であったと語っています。





ローレンツの業績は、また時間を作って
書き足したいと思います。
そして、ご臨終の時が来たのです。
ローレンツの葬儀当日は追悼の意を込め、
オランダ中の電話が3分間電話が止められました。
王立協会会長だったアーネスト・ラザフォードが
お別れの言葉を述べる中で多くの人が彼を惜しみました。









以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/12/24_記





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posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

2020年12月30日

メインサイトのTOPを再更新しました【改定】


主サイトでのTOP写真からの
リンクを再更新しました。
エルヴィン・シュレディンガー_に記事へのリンクを入れて
ポール・ディラックにリンクを入れています。
本日、時間がとれたら
他の人々にもリンクを入れていきたいです。

https://fanblogs.jp/nowkouji226/archive/146/0

なお、12/30現在で総ての既投稿分記事に対して改定を行いました。
順次それが本ブログに投稿されていきますが、一月初旬から
第二回目の投稿改定をしていく積りです。
その際には以下、留意します。

@関連して紹介していない人物がいないか再考する事
Aサイト閲覧者が興味を広げられるべく外部リンクを使う
Bページ内リンクを効率的に使う

このサイトで想定しているペルソナは
物理学に関心を持つ全ての人々ですが、
特に考えているのは、そんな人々が更に更に興味を深め
結果として物理の世界をより深く考察できる環境を
作っていく事が出来たら良いと考えています。

以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/12/30_改定向けに投稿






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posted by コウジ at 09:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

ガリレオ_ブルーノ 【10/23~10/24の記事】

年の瀬もくれていきますね。明日、
門松とか飾ったら一夜飾りになってしまう
から、皆さん今、お忙しい頃かと。
私は読み貯めた新聞とか見てます。

日経新聞で隠岐 さや香さんという科学史家
が科学の恩恵について語っていました。
特に自然科学は人類共通の知見ですが、
米中の政治判断がそこに影を落としてますね。
同感です。欧州の役割に期待。話し戻して、、、

以下に10/20・10/21の原稿を残します。
リンクのついた各項は適時改定致します。

@ガリレオ・ガリレイ

Aジョルダーノ・ブルーノ



(ガリレオの記事)
先ず生誕年の西暦はユリウス暦で
死没年の西暦はグレゴリオ暦です。
ガリレオ・ガリレイはそんな
時代の境い目に生きていました。

ガリレオ・ガリレイの名は
イタリアにおいて近代科学の父、
天文学の父として知られています。
数学的なモデルを確かにして
現象からパラメターを選び
その数値を観測可能な道具を選ぶ
事で実験検証する手法はガリレオ
が確立したものです。





そんなガリレオが生きた時代には
自然科学の考えで暗黒の背景が
ありました。教会が力を持ち、
表現が不適切とされた時には
社会的な制裁を受けました。
ジョルダーノ・ブルーノという
哲学者は火炙りに処されています。

ブルーノの断罪は多岐に渡りますが
その中の一つが天体関連です。
教会の考えでは、
地球が太陽や土星の様に運行
してはならないのです。
今では理不尽とも思えますが。





そんな時代の中でガリレオは艱難辛苦
に晒されます。権力争いに巻き込まれ、
天体に関する考えから異端審問を受け、
社会的立場を悪くします。軟禁状態にあり、
体調も悪くなっていきます。そんな
有り様を知ったデカルトは論文発表を
控えたと伝えられています。

更にはガリレオは失明します。
これは一説には天体観測
のせいだとも言われています。
ただ、その後も息子や弟子達の
助けを借りて出版をしたり
振り子時計を発明したり
しています。そして、最後は
77歳で亡くなっています。













ブルーノ
ジョルダーノ・ブルーノはイタリア
生まれの哲学者です。以前に紹介した
ガリレオと生きた時代が重なります。
自然観の観点から科学として論じます。





現代の我々の視点からは
当時の不合理さは受け入れ難い
です。最終的にはブルーノは
火炙りに処されてしまいます。
宇宙は有限ではなく無限で、
地球や太陽も星の1つ、
というブルーノの考えは
当時の社会的な価値観に
合いませんでした。





そして何より、ブルーノは
ドミニコ会の修道士でした。
神の作りたもう世界は限り無い
という信念をもっていて、
権威に立ち向かいつつも
彼なりに良心的な判断をして
考え方を構築していったのです。

数学的モデルで検証して欲しかった。
実験結果と照らして判断して欲しかった。
科学が得意な人々と議論して欲しかった。
私は勝手に、そう思います。





最後に、ブルーノの名誉回復の話です。
20世紀になってヨハネ・パウロ2世
の時代に過去の見直しが成され、
処刑は不当であると、違憲判決を
勝ち取っています。新しい発想を作り
出したブルーノが再評価されたのです。
今、ブルーノは思想の自由に殉じた
殉職者として評価されています。













以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/12/23_記
/




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posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

2020年12月29日

ティコ・ブラーエ_ エーレンフェスト_【10/20~10/21の原稿】

以下に10/20・10/21の原稿を残します。
リンクのついた各項は適時改定致します。

@ティコ・ブラーエ
Aポール・エーレンフェスト

【@ティコブラーエ原稿】
ティコ・ブラーエはデンマークの貴族です。
そして多彩な能力を持っていて
天文学で業績を残し、作家・占星術師・
錬金術師としても活動していたようです。
また、意外なエピソードとして
ティコ・ブラーエの鼻の話があります。
その鼻は若き日の決闘によって鼻梁が
無くなっていて、それ以降、ティコは
金属製の付け鼻をしていたのです。





ティコ・ブラーエの考え方では
地球が中心にあり、太陽は地球の周りを
回転していると考えていました。
確かに相対的な位置関係としては
太陽の動きは説明出来ますが、後の学者達
が整理した色々な星のデータベースと
整合性がとれる考えではありませんでしたでした。





ただ、ティコ・ブラーエの観測データは
正確無比でした。後にデータを引き継いだ
ケプラーがコペルニクス的転回をして
データをもとに、地球が自転しながら
太陽の周りをまわる理論を打ち出します。





ティコ・ブラーエの考えは一部間違い
でしたが、業績としてはとても大きかった
と言えるでしょう。









【Aエーレンフェスト原稿】
エーレンフェストは統計学と量子力学を
洗練された形で結びつけたと言えるでしょう。
2つの指標。期待値と波動関数を結びつけました。





オーストリアに生まれウィーンで育った
エーレンフェストは研究生活において
非常に恵まれていたと思います。
まず、ボルツマンの講義を受ける環境をもち、
熱力学の運動論に大変、感銘を受けます。
ミクロの世界と可視下で想像できる質点の世界
を繋げる事が出来たのです。
小旅行でローレンツに出合い互いに刺激を受け、
その後、アインシュタインと交友関係を結びます。
二人は共にユダヤ系でしたので多くの
思想・話題を共有したことでしょう。





冒頭に、エーレンフェストは2つの指標。
期待値と波動関数を関連付けたと記載しましたが
期待値とは簡単に言えば平均値の事です。
例えば、距離で考えてみると
精度を上げるほど実測値には幅が出てきます。
4.155oだったり4.154oだったりします。
そこで数回の測定の平均値をとって
確からしいと思われる数値を決めます。期待値です。
期待値という言葉を使う時には
分散値とか誤差とか併記され統計的な
処理がなされていると思って下さい。
【より細かい話としては離散値だけでなく連続値
 に対して期待値・分散値を考えていきます。】

また、エーレンフェストが考えた他方の概念である
波動関数は、細かい世界を表現するにあたり
観測にかからない物理量を表現する表現方法です。
ミクロの物質には粒子性と波動性が混在するからです。

エーレンフェストの定式化した考えによると
波動性が顕著に表れていると思える現象でも
その運動量や速度が求まり粒子と比較して
議論する事が可能です。2つの手法が繋がるのです。





エーレンフェストは優れた教育者でした。
ライデン大学の教授を務めた彼のもとには
多彩な人材が集まり育っていきました。
彼は弟子達をヨーロッパの研究機関で修行する
事を進め、海外の違った環境で研究をする
事を奨励しました。
ヘンリク・クラマースジェラルド・カイパー
などが学生として所属、
グンナー・ノルドシュトルム、エンリコ・フェルミ、
イーゴリ・タム、オスカル・クライン、
ロバート・オッペンハイマー、ハイゼンベルク、
ポール・ディラックが外国人研究者として
長期間研究をしました。

そして晩年、エーレンフェストは
重度のうつ病に苦しんでいたようです。
アインシュタインが仕事量を減らすように
職場に働きかけたたようです。
最後はダウン症だった末っ子Wassikを打ち殺し
自らも命を絶ちます。
ご冥福をお祈りするしか出来ません。
彼が考え抜いた末の結論だったのです。

そして、エーレンフェストが始めた
ライデン大学での夜間・物理学コロキウムは、
今でも「Colloquium Ehrenfestii」と呼ばれ、
続いているそうです。













以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/12/22_初版投稿





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posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

2020年12月28日

トップページからのリンクを更新しました。 。

以下、写真内容のリンクを更新しました。

第4回ソルベー会議メンバーについて

最近思い出したのですが、エーレンフェストの
自宅前でアインシュタインとローレンツが写った
写真がありました。
ゆくゆくはそんな話も含めていきたいと思います。
【大晦日にローレンツの原稿を改定する予定です。
現時点ではローレンツ稿は改定中故、ご了承下さい。】





以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/12/28_記





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posted by コウジ at 15:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 科学史

大貫 義郎_1928年 ~ ご存命中



大貫義郎は坂田昌一に教えを受け、
群論を使った素粒子論の構築を
行いました。そもそも低温物理学
では名古屋で発展してきた部分があります。



本ブログの別項で中嶋貞雄とバーディン
のエピソードをご紹介しましたが、
後にノーベル賞を受賞する二人、
益川敏英と小林誠は大貫義郎が育てました。



ダイソン・私も使ってます♪

大貫義郎は素粒子を構成する素子の
対象性に着目して、数学的手法として
群論を使って整理していきました。
より詳細には、坂田モデルにおける
基本粒子同士の入れ替えに対して
素粒子としての性質が変わらないと
いう考え方を足掛かりに群論を組み
立てたのです。






そうした組み立てを使い大貫義郎は
クォークを明確に分類、整理した
のです。






以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/12/21_初版投稿





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2020年12月27日

ヨハネス・ケプラー_1571年12月27日 ~ 1630年11月15日【10/19時点の原稿】

この日に生まれた偉人を紹介します。
今まで中々そういった視点は持てませんでした。
私は別に誕生日のブログを運営していますので
いつか連動させてご紹介したいと思います。

10/19時点での原稿は改定致します。

【別途、以下に草稿を残します】
ケプラーは天文学者にして数学者、
哲学者、占星術師でありました。
天文物理学の仕事で素晴らしい点は、
年間の観測情報から数学を使った考察から
天体が楕円軌道を描くとか
公転周期と面積速度の関係
を導き出すといった理論的な結果
をケプラーが導き出した所です。









ケプラーは幼少期に苦労します。
父は家計を支える為に傭兵として
戦いに参加します。ケプラーが
5歳から17歳の間、家族と離れ
暮らしていました。そして
八十年戦争と呼ばれた戦いで
ネーデルランドで亡くなります。
加えてケプラーは天然痘にかかり
視力低下にあい、一生苦労しました。
また天然痘でケプラーは
妻子を失ってしまいます。





ケプラーは天文学者として地動説
に触れました。特にコペルニクス
がコペルニクス的転回を打ち出した
所でケプラーはコペルニクスを
全面的に支持します。そういった
考え方を読んだケプラーを
今度はガリレオが支持します。
そして最後にケプラーは
ティコ・ブラーエに出会います。

ティコ・ブラーエが集めた膨大な
データを遺産としてケプラーが受け取り
そして整理して様々な法則を作り出します。
互いの業績から今でも残るケプラーの法則
が完成したのです。惑星の運動は体系立てて
幾何学上で表現されています。ケプラーは
星を考える枠組みを作り出したのです。











posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

2020年12月26日

レントゲン_テスラ_エジソン_ホイヘンス【10/15~10/18の原稿】

@~Cの4稿で内容を改定します。また、
その後に初稿を残しますのでご参考にして下さい。

@ヴィルヘルム・C・レントゲン
Aニコラ・テスラ
Bトーマス・A・エジソン
Cクリスティアーン・ホイヘンス

【@レントゲン】
レントゲンと言えば、その人の名より
その名の装置が思い浮かぶでしょう。
以下ではレントゲンは人の名前として
使っていきます。

レントゲンの時代にはH・ヘルツ等
によって真空放電や陰極線の議論が
なされていました。今風に考えたら
対象は単なる粒子とか波ではなく、
2面性をもった波動関数で記述される
電子であると言えますが。
レントゲンの時代には不明確でした。





まずレントゲンは実験結果を
重視してます。X線が人体を透過した
後の写真を大衆に見せました。
ネーチャやサイエンスといった
有名雑誌に投稿し、議論して
事実を明らかにしていきました。

その方法は先ず磁場に作用する
陰極線の実験を積み重ねます。
陰極、陽極、検出対象として
色々な物資を試し、
鉛は通さずガラスは透過する
といった事実を明確にします。

説明が細かくなり恐縮ですが、
陰極線の陰極・陽極間に検出対象があり、
検出対象から放射されるのがX線です。
検出対象に蛍光物資を使った所が
レントゲンのオリジナリティですね。
そうした仕組みで磁場から力を
受けないX線を発見して、
突き詰めていったのです。

その後の成果で原子が崩壊・融合する過程で
放射線が出てくる知見が集約されてくる訳ですが、
後の素粒子での議論につながる種が、
レントゲンによって沢山まかれていた訳です。





また、レントゲンを偲ばせるエピソード
をいくつかの紹介します。
まず、レントゲンは自らの独自技術に
対して特許を申請しなかったと言われ
ています。科学の成果は万人が享受すべき
だというレントゲン独特の考えです。

また、レントゲンは第一回目の
ノーベル賞を受けていますが、
賞金に手を付けず、
全て大学に寄付しています。

そして愛妻家だったと思います。
レントゲン自身はガンで亡くなりますが
年上だった奥様に先立たれてから
数年後の事でした。今でもよく
紹介されている写真は奥様の手を
X線が透過した姿でした。
皮膚を透過したX線が骨の形を
リアルに映し出し、その薬指には
はっきりと結婚指輪が見えます。





【Aテスラ原稿】
テスラはオーストリア帝国に生まれ
アメリカに渡ります。かのエジソン
のもとで働いていましたが独立して
高電圧の変換をして発表をしたり
回転界磁型の電動システムを実用化
して供電社会の礎を築いたりしました。

エジソン陣営との対立は送電方式の
考え方の対立が大きかったようです。
エジソンが直流による電力事業
を考えていたのに対して
テスラは交流による電力事業
に利点があると考えていました。





幸運な事にテスラはプレゼンテーション
が上手でした。学会での発表に
ジョージ・ウェスティングハウスが
感銘を受け資金供給を受け始めます。

最終的にはナイアガラの滝を使った
発電システムの実現に繋がり、
テスラは成功を収めました。





数々の事業を成功へ導いたテスラですが、
色々な別れがあり晩年は寂しい老後
を送っていた様です。テスラは独身でした。
そしてテスラは今、
磁場の単位と会社の名前に
自身の名を残しています。
数トンの重さがあったと言われる
彼の発明品や設計図はFBIが写しをとったあとに
母語へと返されています。




【Bエジソン原稿】
エジソンはアメリカの発明家です。
彼の逸話を聞くと、閃きの喜びとか
達成時の感動が沸き起こります。
エジソンの発明品は蓄音器、電灯、
活動写真と多岐にわたります。

研究所はニュージャージのメンロパークにありました。
個人的な話になり恐縮ですが、初めて買ったCDが
ボンジョビの「New Jersey」でした。何となく私が
想像してた同州の楽しそうで何かを生み出す雰囲気は
エジソンが研究所を構え、活動する中で
生まれた部分もあるのですね。きっと。





エジソンは幼少時代から苦労を重ねています。
彼が残した有名の言葉を改めて書き下します。
「天才は99%の汗と1%の才能(で出来ている)」
睡眠時間を削り、時に発想に浸り現実を忘れ
次から次へと発明を繰り返しました。
図書館に籠り独学で色々なことを学び
正規の教育を受づに試行錯誤を繰り返します。

例えば、算数で「1+1=2」と教わっても
「二つの粘土を混ぜた時に一つになるのに
何故この場合は1ではなく2なのか??」
という視点を持ち反論しています。
こんな話が語りつかれている自体が
いかにもアメリカ的なのかな?
と思いますが、思考の柔軟性を保ち続ける
為には必要な吟味であるとも言えます。





その後、投票記録の機械、株式相場表示機、
電話、蓄音機、白熱電球と発明を続けます。
蓄音機を世間に広めた時は
「機械の中に人が居るわけがない!」
と驚きの反論を受けたほどです。

晩年は会社経営から身を引き、
霊界との交信が出来るかといった
関心を持ち試行錯誤していました。
多くを残して84歳で亡くなっています。






【Cホイヘンス原稿】
ホイヘンスはライデン大学では数学と法律を修めました。
物理学はその知見を活かすフィールドだったとも言えます。

特に、光学での業績が顕著です。
所謂、ホイヘンスの原理は後の物理学者達が
波動を考えていく上でとても有益だった筈です。
波の性質が突き詰められていき、
縦波とか横波とか周波数とか周期とか
最終的には破面に立つさざ波も、光も
同じ定数で表現出来る現象となるのです。

一般の人々にも説明出来る言葉を
出来るだけ沢山、科学者が作り出すことが大事です。
その点、ホイヘンスは初めの難しさを超えたのです。






また、
土星の衛星タイタンの発見したり、
振り子の原理を理解して時計を制作したり、
火薬を使ったエンジンの、制作したり、
オリオン大星雲を発見してスケッチしたり、
その新規性には驚かされます。

またホイヘンスは、いわゆるエーテルの存在を想定して
後の物理学に議論の土壌を残しました。
この点も重要だと思います。
posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

F・W・マイスナー_1882年12月16日 ~ 1974年11月16日



その名は正確には
フリッツ・ヴァルター・マイスナー_
Fritz Walther Meißner (Meissner)。
ドイツ・ベルリン生まれの物理学者です。



(無料レッスンいかがですか?)

ミュンヘン工科大学でプランクの師事を
受けた後に物理工学院で研究を進めます。
マイスナーが関心を持っていたのは
超伝導でした。1920年頃に色々な物資で
転移が起きる事を確認しています。
タンタル(化学記号はTa、転移温度4.47K)
ニオブ(化学記号はNb、転移温度は9.25K)
チタン(化学記号はTi、転移温度は0.4K)
トリウム(化学記号はTh、転移温度は1.38K)
に対して相転移を確認した後に化合物に
着目してNbCにおいて10ケルビンを超える
転移温度を確認しています。





その後、マイスナーはいわゆるマイスナー効果
を発見していてます。この現象は協同研究者の
オクセンフェルトの名前と合わせて
マイスナー―オクセンフェルト効果と呼ばれる
こともあります。また性質の側面から完全反磁性
とも呼ばれます。磁性を使って超電導現象を特徴
づけているとも言えます。



以上、間違い・ご意見は
次のアドレスまでお願いします。
最近は返信出来ていませんが
全てのメールを読んでいます。
適時返信のうえ改定を致しします。

nowkouji226@gmail.com

【舞台別のご紹介】


2020/12/19_初回投稿
2021/01/22_改定投稿






OJISAN.png


2020年12月25日

ボゴリューボフ_ホーキング_広重 徹_久保 亮五_坂田 昌一_ウィリアム・トムソン_マリ・キュリー【10/8~10/14の原稿】

@~Fの7稿で内容を改定します。また、
その後に初稿を残しますのでご参考にして下さい。

@ニコライ・N・ボゴリューボフ
Aスティーヴン・W・ホーキング
B広重 徹
C久保 亮五
D坂田 昌一
Eウィリアム・トムソン
Fマリ・キュリー

【@ボゴリューコフ原稿】
名前から分かるかとおもいますが、
ボゴリューボフはロシアの物理学者です。

ボゴリューボフ変換と呼ばれる考えを打ち出し
行列形式で表された状態遷移を対角化しています。
それはつまり、定常状態を作りだしています。
つまり、数学的にいう固有値問題に帰着させて
定常的な状態を表現しているのです。

この定常状態を使い、ボゴリューボフは
現実にヘリウムの超流動状態を表しました。
ボーズ粒子の超流動をボゴリューボフ変換で示し
フェルミ粒子の超電導をボゴリューボフ変換で
示す訳です。役にたちますね。





【Aホーキング原稿】
ホーキング博士は相対論を含めて宇宙の理論を考えました。
特にブラックホール、量子的効果、その生成から消滅に至るまで
を突き詰めていった博士です。

博士の両親は共にオックスフォードに学んだ血筋で
オックスフォードで物理学を学びます。
大学時代はボート部に所属して大学院進学時は
成績も芳しくなかったようです。しかし、
ホーキング博士ケンブリッジに進みます。

何より博士は若くして筋萎縮性側索硬化症(ALS)
を患い、大きな困難に立ち向かいます。
当時は命を落とす病であるといわれ、
意思伝達・行動範囲拡大の為に
独自の技術を使いこなしていきます。

ブラックホールに関する研究を進め進化を考え
中心部に存在するであろう特異点を考え
「特異点と時空の幾何学」の論文をまとめ上げます。
またホーキングは、タイムマシーンの実現の為には
無限のエネルギーが必要であるとの考えを持ち、
タイムマシーンの実現可能性を否定しています。

そして、偉人の人生も終わりを迎える時が来ました。
ホーキングはケンブリッジ大学近くの自宅で
最期を迎えました。そして今、ホーキンスは
ニュートンの墓の近くに埋葬されています。









【B広重徹原稿】
広重博士は最初、京大大学院を
ドロップアウトしてます。
世相としても色々あった時代に
研究者としてのスタート時期だったので
大変だったろうかと思います。広重徹は
初め素粒子論を専攻していた様です。

吉岡斉の文章からも感じられますが、
広重徹の考え方でも、社会の中で占める
科学史の大きな役割を感じます。
社会から過度な期待と、
ある意味で無理解な評価を冷静に話して
一般人に理解してもらう事が大事です。
私も科学史の文章を作っている一人と
考えると、見の引き締まる思いがします。

話し戻って、広重徹は30代で博士課程を
終えて(於、名古屋大学)
40代で早くして亡くなります。
もう少し話しが聞きたかったなぁ、
って感じですね。
その後、斯様な議論は無いかと。

また、広重徹の奥様が自分史を
残していたのでリンクします。
広重徹のお人柄が偲ばれるかと。
http://www.asahi-net.or.jp/~fv9h-ab/kamakura/DrMiki.html







【C久保亮五原稿】
久保亮五と同名(漢字違い)の別人が居ますが、
以下記載は統計力学で私が使った教科書の著者です。

久保亮五は学者肌の家系に育ち、
父の仕事で子供時代には台湾へ移住してます。
高校まで台湾で過ごし、帰国後に旧制高校へ入学、
東大へ入学、助手、助教授、教授をつとめました。

久保亮五の仕事で特筆すべきは物性論での成果で
ゴムの弾性に関する研究、線形応答論を使った
フーリエ変換NMRへの応用があげられます。

久保亮五の考えたNMRの概説を以下記載します。
先ずフーリエ変換は単純には時系列の波形を
周波数軸に変換して解析する技術です。
数学的に確立されたフーリエ変換を基礎に
電子回路を考えて離散化された電気信号に対して
マトリクス変換を加えるイメージです。

診察で実際にNMRを使った経験のある人は
その中で測定を受けている時を思い出してください。
頭の中を調べる時等、強磁場を二次元的に与えます。
その時に大きな音がしますが、
そのインパルス的な情報を機械的に処理して
周波数応答に関する情報を得ます。
結果的に吸収スペクトルを測定することで
各スピンの情報を集め、
そこから最終的には
断面の画素像を処理します。
最終的な写真で見える画像は、
これらの処理の結果です。

そして今、久保亮五はこの世に居ませんが、
その仕事を応用したNMRは世界中の病院で
患者達の情報を集めています。
きっと今、この瞬間も。









【D坂田昌一原稿】
坂田昌一は素粒子を研究した物理学者です。
湯川秀樹、朝永振一郎らと同じ時代を生き、
議論を交わし、物理学会を切り開きました。

また坂田昌一の奥様の信子さんは
SF作家・星新一の従兄弟にあたります。

坂田昌一の理論物理学での業績は
電磁場の量子化に関するものが
あげられます。当時は場を量子化する
時に電子の質量が発散する事が
問題でした。その問題に対して
坂田昌一は中間子を導入して説明します
が、この量子電磁力学での問題は
最終的には朝永振一郎がくりこみ理論
によって完全に解決します。
また坂田昌一は湯川秀樹の中間子に
関する論文で協同執筆者を務めています。

また坂田昌一の業績としては、
陽子・中性子・ラムダ粒子を基本粒子
と考え、その構成に対する坂田モデル
もまた、特筆すべきでしょう。
それぞれ次世代の議論へと繋がった、
素晴らしい成果です。

【Eトムソン原稿】
その名を正確に記すと、
初代ケルヴィン男爵ウィリアム・トムソン
William Thomson,
1st Baron Kelvin OM, GCVO, PC, PRS, PRSE

トムソンは熱力学や電磁力学で
沢山の研究成果を残してます。
彼は僅か10歳でグラスゴー大学へ入学
しました。トムソンの父がグラスゴー大
で教鞭をとっていた時事はある様ですが、
それを別にしても早熟ぶりに驚かされます。
その後、トムソンはケンブリッジで勉学
を進め、22歳でグラスゴー大学の教授になり、
イギリスの大学で初めての物理学研究室
を立ち上げました。

1845年の論文では、ファラデーの理論を
数学的に整え回路近辺の空間を考えてます。
この発表は後のマクスウェルに示唆を
与えたと言われています。後の電磁場
の考え方に原型を与えたのでしょう。
また、トムソンな数学でのベクトル
を使い始めた人であると言われています。

物理学者としては別にJ・J・トムソンが居ます。









【Fキューリー原稿】
その名はマリア・スクウォドフスカ=キュリー
Maria Salomea Skłodowska-Curieですが
フランス語でマリ・キューリと呼ばれる
事が多いです。彼女は物理学と化学で
2度ノーベル賞を受けています。





マリ・キューリの父は研究者でしたが
貴族階級の出自故に、帝政ロシアの
支配下の元で教壇に立つことを禁じ
られていました。

マリ・キューリは10歳をなる前に
大変苦労します。父の非合法の講義
が発覚して職・住を失い、母の結核
による他界があり、更には投機での
失敗もあり、親戚等の世話になります。





そんな時期にマリ・キューリにも恋をした時代
があったようです。当時、マリ・キューリ
は家庭教師を生業としていましたが、
カジュミェシュ・ゾラフスキという青年と
恋仲に落ちます。共に避暑旅行に出かけたり
して幸せな時間を過ごしましたが、最終的
には破局を迎えました。この事が
マリ・キューリのパリ行きに繋がった様です。

パリでもマリ・キューリは苦労します。
屋根裏部屋に住んで寒い時には
持っている全ての服を着ながら
勉学に励みます。そんな生活は
大学の学部を卒業する迄、続きました。





そんなマリ・キューリに漸く光明がさします。
知り合いを通じてピエール・キューリ
と出会ったのです。

そのピエール・キューリは国外で
評価を受けていて1893年には英国の
ケルヴィン卿が訪ねてくるほどでした。
ところがピエール・キューリは
勲章を辞退するような性格で
ひたすら研究に励んでいました。

そんな二人が惹かれ合い、認め合い、
マリの帰国後もピエールは恋文を
贈り続け、遂には簡素な結婚式をあげます。
幸せなん結婚生活だったと思います。
祝いの宴もなく、結婚指輪も無い、つつましい形式でしたが
祝い金で買った自転車に乗り、
フランスの片田舎へと新婚旅行に旅立ちます。





料理を頑張り、長女に恵まれながらも学問を続け、
ベクレルの見出した放射線に対して二人は研究していきました。
そこで。光や温度といったパラメターではなく
ウラン含有量の含有量が放射現象には本質的である
との結論を得ます。その後、マリとピエールの夫妻は
元素の精製に心血を注ぎます。
同位体の存在に近づいていったのです。





関心のある精製にキューリー夫妻は全てを注ぎ込みます。結果として、
夫ピエールは度重なる発作に苦しみ、妻マリは神経衰弱から睡眠時遊行症
に陥ります。その中で第二子を流産してしましました。
そうした犠牲を払い、新しい概念の提唱に至ります。すなわち、
特定元素は別の元素へ変化し得る、という事実です。

そして、その過程で放射線を放出して一見エネルギー保存の法則
に相反する変化を起こしますが、それを追って
ラザフォードらが研究成果を次々に発表します。
そして夫ピエールが放射線に医学的効果を期待出来る
と発見をしていくのです。ラジウムの効果でした。

当初は、妻マリーの博士学位習得が放射線研究の目的であったのですが
最終的にはマリー・ピエール・ベクレルに対してノーベル賞が贈られます。
苦労してきた二人にとって、まさに栄誉の極みでした。

所が、その後突然の不幸が訪れました。夫ピエールが46歳の若さにして
交通事故で命を落とすのです。妻マリーは悲痛にくれます。当然でした。
その後、傷が癒えるまでに多くの物が必要でしたが、最終的に
妻マダムは夫ピエールの大学での職位と実験室の後任を引き継ぎます。
研究者として活動を始めたのです。

この内容に関してはいずれ追記したいと思います。
いつか、書き足すに値する部分だと思えます。
ケルビン卿・カメリーオネス・アインシュタインといった
当時の綺羅星の物理学者が彼女と交流を持ちました。





そして、
何より悲しかったのは放射線のもたらした弊害です。
研究の過程で放射線被曝が重なりマリーは
頭痛・耳鳴り・怪我がなかなか治らないといった障害に
悩まされ続けます。そして終には死に至りますが、
当時はまだその関連性が明確ではなかったようです。

波乱に満ちたマリー・キューリの人生は幕を閉じましたが
その後人々は彼女の残した物を高く評価しています。
1995年、夫妻の墓はパリのパンテオンに移されました。
フランス史の偉人の一人として今でも祭られています。
そして、物理の世界の偉人として世界中で語り継がれています。






【原稿此処まで】









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時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。

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2020/12/23_投稿





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アントニオ・ヴォルタ_ルイ・ラグランジュ_マリ・アンペール_ハンス・エルステッド_ブレーズ・パスカル_アイザック・バロー_R・ヘルツ【10/1~10/7の記事】

@~Fの7稿で内容を改定します。また、
以下に初稿を残しますのでご参考にして下さい。

@アントニオ・ヴォルタ
Aルイ・ラグランジュ
Bマリ・アンペール
Cハンス・エルステッド
Dブレーズ・パスカル
Eアイザック・バロー
Fハインリヒ・R・ヘルツ

【@ボルタ初稿】
ボルタの名は正確にはアレッサンドロ・ジュゼッペ・アントニオ・アナスタージオ・
ヴォルタ伯爵:Il Conte Alessandro Giuseppe Antonio Anastasio Volta_という
長い名前ですが日本では単純に「ボルタ」と表現しています。以後この表記で。

ボルタはイタリアに生まれ物理学の研究者となります。

特筆すべきは実験的に静電容量を観測し、
電荷と電位を明確に分けて議論する土壌を作りました。
初学者には混同されがちですが電位と電圧は明確に
異なる概念です。アースして低電位側を地球の地面
と同じ電位状態にした時に両社は一両者は一致しますが
通常は異なります。変動して当然の物理量です。
電荷の蓄積で電位を定量的に表現し、
電位の差を使って電圧(電位差)を明確にしました。
その功績は電位差の単位であるボルトとして残っています。

ボルタはまた、電池の発明でも成果を残しました。
世界初の電気貯蔵装置の開発です。
無論、初期の電池には危険性・貯蔵量・電圧の持続性
といった点で現代の物と見劣りするでしょうが
電気を貯めて持ち運びする発想は素晴らしいものです。
現代でも発展を続ける大事な技術です。

最後に、ボルタはナポレオンが大好きでした。
逆にナポレオンもボルタに敬意を示します。それだから、
ナポレオンの在位中にボルタは伯爵の称号を与えられています。











【Aラグランジュ原稿】
ラグランジュはフランスに生まれ革命の時代を生きました。
同時代のラボエジェが処刑された事に際し
ラグランジュは何故自身が生き延びたか自問自答しました。
特に彼はマリー・アントワネットの先生を務めていたからです。

学問の世界ではラグランジュは多大な業績を残しています。
物理学者というより数学者として力学体系の整理をして
ラグランジュ形式と言われる理解を進めています。
私も学生時代にラグランユアンと呼ぶ関係を多用しました。
解析力学と呼ばれる分野で、ラグランジュ方程式につながります。
後の数論につながる議論もしていますし、
時代がら天体に関する研究もしています。

ラグランジュの解析的な考えが有効だったのは各種物理量を
一般化して変分と呼ばれる類の数学的な形式につながるからです。
後の量子力学はニュートンの作った微積分だけではなく
物理量の関係をラグランジュの使ったような関係で表現します。
また、ラグランジュはエネルギー保存則から最少作用の原理を導き
その考えは力学に留まらずに電磁気学・量子力学でも
使われています。
こういった定式化でのパラダイムシフトが後の体系に不可欠です。

ラグランジュの未定乗数法や定式化されたラグランジュアン
は誰しもが認める見事なものです。
そして、ラグランジュの名は今でもエッフェル塔に刻まれています。
彼の残した仕事と栄誉と共に。











【Bアンペール原稿】
アンペールの名は右ねじの法則で有名です。
つまり、一般的な右方向(時計方向)に
回していく事で進むねじを使った例えです。
そのねじを手に取ってみた時に
ネジ山のイメージが磁場で
ネジが進んでいく方向が電流の進む方向です。

別のイメージで例えると直注電流が流れる時に
ネジの尖った方が電気の流れる方向で
ネジ山方向が磁場の発生するイメージです。

このアンペールの例えはとても直観的で
分かり易いと思えます。学者が陥りがちな
独善的説明ではなく、誰に伝えても「おおぉ。」
と感動出来る事実の伝達方法ですね。
また、アンペールはこの事実を伝えるために
二本の電線を平行に使い、
電気が流れる方向を同じにしたり・反対にしたりして
その時に電線が引き合い・反発する例を示しました。
この事は通電時の地場のイメージから明らかです。
導線の周りに発生する磁場を想像してみるとよいのです。
今でも子供に示せる素晴らしい実験だと思います。





【Cエルステッド原稿】
その名は
ハンス・クリスティアン・エルステッド
; Hans Christian Ørsted

デンマーク黄金時代と呼ばれる時代があり
その時代のリーダーでした。
思考実験の概念を始めに打ち出した
人と言われています。正に
パラダイムシフトを起こした人です。
コペンハーゲンで活躍していて
其処は後に量子力学が出来ていく上で
重要な議論が交わされる場になります。

また、エルステッドは
童話作家のアンデルセンとは親友です。
また、エルステッドの兄弟はデンマーク
首相を努めました。

物理学者としての業績として大きいのは
電流が作る磁場の定式化です。
後のビオ,サバールの法則に繋がります。
エルステッドが物理学と深く関わる
きっかけとなったのはドイツのリッター
という物理学者との出会いでした。
エルステッド独自のカント哲学に
育まれた思想は後の物理学にはっきりした
方向性を与えたと思います。

エルステッドは多才な人物で、
博士論文ではカント哲学を扱っています。
他に美学と物理学でも学生時代に
賞を受けています。電流と磁場の関係も
カント哲学での思想、自然の単一性
が発想の根底にあったと言われています。

晩年は詩集を出版しています。
気球から始まった文章でした。





【Dパスカル原稿】
パスカルの残した言葉、
「人間は考える葦である」
がまず思い浮かびます。
パスカルは考え続けた人でした。

パスカルの遺稿集であるパンセは有名です。
総合的に物事を考えています。
死後、遺品整理で改めて分かったのは
神をも考え、思考を繰り返し
確率論、優先順位、証明方法
を使っていたということです。

数学の上では三角形の内角の和が
180であると子供時代に証明していた
と言われています。

物理学の上では圧力に関する
パスカルの原理が有名で
その後、油圧機器に多用されてます。

またパスカルは実業家として
の側面も持っていて、
今日で言うバスのシステムを
乗り合いタクシーという形で
実現しています。またパスカルは
子供時代から機械式計算機の制作を
しています。徴税吏員である父親
の仕事軽減が目的だったようです。
少しほのぼのですね。

昔フランスでの500フランにパスカルの顔
が描かれていたようです。そしてパスカル
は39歳で亡くなっています。現在では
圧力の単位としてパスカルは名を残しています。
フランスの誇る偉人ですね。





【Eバロー原稿】
今回の記事は数学者です。
バローはケンブリッジ大学での
ルーカス教授職に初めて任命されました。

私がバローの名を初めて知ったのは
高校の時の英語の教材で、次の様な
文章だった気がします。
Just under three hundred years ago,
the professor of mathematics
at Canbride did distinctly unusual
thing...

上記英文での教授がバロー先生で
その後に出てくる弟子がニュートン
なのです。バローはニュートンに
ルーカス職を譲ります。彼の方が
職位に相応しいと判断したのです。

異例な判断だったようですが
その後のニュートンの業績を見ると
バローの判断は素晴らしい。因みに、
その後名誉あるルーカス職は
ディラックやホーキンスが
引き継いでいきます。

上記、英語の文書が書かれた時代から
更に時代は進んでますが、
バローの残した業績は物理学のみ
ならず、工学、ひいては産業に
大きな成果を残しています。

また、バローが残した業績で
特筆すべきは微分と積分が
真逆の数学的行為であると幾何学的
に証明した事だと言われています。
今では当たり前なのかも知れません
がバローが整理、体系化した結果
なのでしょう。





【Fヘルツ原稿】
ハインリヒ・R・ヘルツのRは
ルドルフ(Rudolf )のR。

元来、ヘルツは気象学に関心を持っていました。
1878年 ミュンヘン工科大学では指導教官が
気象学者の ベゾルトでしたが、そこでは
さしたる業績を残していないようです。
後の師ヘルムホルツのもとで
液体の蒸発に関する論文や
新型の温度計に関する論文を
まとめた程度だと言われてぃす。

所で、19世紀終わり頃迄は電磁波の
伝達物質としてエーテルという物質
が想定されていました。確かに
波を伝える伝達物質、別の言葉を使うと
媒質といった物があり波は伝わります。
水という媒質があり表面で波紋が伝わり、
空気という媒質があって音が伝わる訳です。 
1881年にマイケルソンが実験でエーテル
を否定したタイミングでヘルツは
マクスウェルの方程式を再度考え直します。
電磁波の存在を煎じ詰めて
実用的なアンテナを考案しました。

現代の整理された考え方によると、
電磁波は真空中であっても伝わります。
例えば太陽光は大気圏に届く前に
真空中を伝わってくるのです。
そこにはエーテルは存在しません。
エーテルの仮定は観測にかからないばかりか、
地球の自転運動・公転運動に対して
説明がつかないのです。

別途、ヘルツは電磁波発信の
装置を開発して電磁波の送受信
の実験を繰り返しました。
送受信間にガラスを置くと
電磁波が通じ難くなると確認しました。

そして、実験で人々にガウス・マクスウェル
の理論を現実の世界とより近づけました。
ヘルツは周波数の単位に名を残しています。







【原稿此処まで】










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2020/12/23_投稿





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中嶋 貞雄_1923年6月4日 ~ 2008年12月14日





映画監督で似た名前の方が居ますが
あちらは貞夫と書きます。
こちらは貞雄と書きます。

中嶋貞雄は私が昔使っていた教科書の著者
でした。超伝導現象の理論化に先鞭
をつけた方です。



中嶋貞雄は低温物理の物性に関わる
研究をしていきました。そんな中で
名古屋で会議の席で、くりこみ理論を
応用した電子物性の議論をします。
それをアメリカのバーディンが着目
し、コピーを中嶋に求めました。
その時点ではカメリー・オネスの
超伝導現象は実験的に示されていま
したが理論的説明はなされてません。
バーディンはそれを作ろうとしてた
のです。

中嶋はきっと研究の方向性に確信を
持った事でしょう。後に名古屋駅で
バーディンにコピーを渡します。
バーディンは帰国後に英訳し、
クーパー対のアイディアを盛り込み
BCS理論を完成させます。日本で無く
アメリカで生まれた事が残念ですが、
そうした議論の場は日本でも芽生えて
いたのです。



私は科学技術は人類が共有する財産
だと思っています。それだから、
コピーを届けた中嶋貞雄の行為は立派
だったと感じています。若い研究者達も
知を共有して育んで欲しいと思います。
そうした行為が、ひいては日本の発展に
繋がっていくかと。



ダイソン・私も使ってます♪










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2020/12/19_初版投稿





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2020年12月24日

オイラー_レンツ_ガウス_クーロン_オーム【9/26~9/30の原稿】

以下に草稿を残します。各項は適時改定致します。

@オイラー
Aレンツ
Bガウス
Cクーロン
Dオーム



【@オイラー原稿】
L・オイラーのLはレオンハルトのLです。

オイラーはガウスと並ぶ数学の大家
ですが、同時に天文物理学でも業績
を残しています。物理学で使う数学
手法も残しました。オイラーが
定式化した自然対数と三角関数の関係は
何度も何度も繰り返し使いました。

さて、オイラーの人生における転機は
大学時代に師となるベルヌーイが
その才能を見出したタイミングでした。
神学の道を目指していたオイラーの
両親をベルヌーイが説得して
オイラーは数学の道を選びます。

オイラーは招かれて外国で数年
過ごしたりしながら研究を続け
ましたが、視力が低下していき
遂には失明してしまいます。

それでもオイラーは精力的に
論文執筆の活動を続けました。
頭の中で計算式を操り、
口頭で協力者に内容を伝え、
文章に起こしてもらい、
論文を次々と完成させたのです。








【Aレンツ原稿】
レンツはドイツ系ロシア人物理学者で
ロシアで生まれてます。

レンツは若き日にオットー・フォン・コツェブー
が中心となった第3回の世界一周調査のメンバー
として海洋環境の物理的側面を調査しています。
レンツは色々な港に立ち寄り海水成分を調べたり
したのでしょうか。私ならそこで釣りをして
生物学の研究に協力もしたいと思います。

さて、レンツの業績として有名なのは
レンツの法則ですね。その内容は変動磁場
との関連で、誘導起電力が発生しますが
その方向が初めの磁場発生を妨げる
方向に発生する。というものです。
実例としてコイルに磁石を近づけると
コイルに電流が発生して、それ故に
コイルが磁石化して磁石とコイルが
反発します。感覚的に分かり辛いのは
磁石から出る磁力線が空間を
伝わる様子です。現代の理解では
真空中でも伝わる電磁波ですが
レンツがもたらした様な知見があって
初めて分かると思います。それだから
実験を繰り返し、定式化した事は
とても素晴らしいと思います。
このレンツの法則は現代ではブレーキ
に応用されたりしています。

レンツの時代はマクスウェルと近く、
この時代は電磁気学が完成していく
時代だと捉える事が出来るでしょう。
現代人が使いこなす言葉、電磁波・
原子・電子・光電圧・・・
そういった知見のない中で磁力と電力
を関連させてエレクトロニクスへと
繋がっていく理論大系を作っていった
のです。まさにパラダイムシフトの
連続でした。目に見えない法則を使い
今やリニアモーターカーが動き回るのです。

またレンツは、ジュールの法則を独立して
導いていました。







【Bガウス原稿】
ガウスは18世紀の数学者にして
物理学者にして天文学者です。

業績として大きいのはガウス分布、
ガウス関数、ガウスの最小自乗法、
ガウスの法則等でしょう。
電荷量が取り囲む曲面から計算される。
といった有名な法則です。
また、
よく使われているCGS単位系の中に
ガウス単位系とも呼ばれる単位系があります。

パトロンが生活を支えたり
していたという時代背景もあり
ガウスは教授となる機会は無かった
ようですが、デデキンドとリーマン
は彼の弟子だったと言われています。





【Cクーロン原稿】
クーロンの名前は正確には
シャルル=オーギュスタン・ド・クーロン
(Charles-Augustin de Coulomb)
と記載されます。彼はフランス人です。調べてみると
もともとクーロンは測量の仕事などもしていました。
時代がら色々な分野に功績を残しています。

まず、力学的な側面では摩擦に関する研究があります。
「部品間で摩擦とロープの張力」を考慮して
機械全体での動きを論じています。
工学的な側面と表面物性からアプローチして
細かく見てみたいところではありますが、
当時の視点からは革新的な研究だろうと思えます。

電磁気的な側面では「ねじり天秤」での実験が有名です。
微細な力を検知出来るような仕組みで
導体表面での帯電状態を計測したのです。
生活の視点では、力学は目で見て分かりやすく、
電磁力学は目で見て分かり辛いと言えます。
それだから、今でも静電気でびっくりしたり、
手品の種として電気的性質が使われたりします。
当然、今でも高電圧の配線は子供の手の届かない所
に敷設され、運用されているのです。
結果的に電荷に働く力は距離の事情に反比例すると示し
クーロンの考えは後の電磁気学、
長い目で見れば場の理論につながっていきます。









【Dオーム原稿】
オームの法則で有名です。
オームの法則は定量的に回路を論じるときに不可欠で
非常に明快なので小学生レベルから説明出来ます。
子供に科学を教える時に理解しやすく、
実験的と原理がつながる事例として明快です。

オームは独学で数学、特に幾何学を習得していて
研究生活に入る前に教師として生計を立てている時期がありました。
その後、プロイセン王に幾何学に関する原稿を送り、評価を受け
ケルンのギムナジウムで物理学を教える機会を得ます。
そこでの実験室で設備が充実していたことは
その後のオームにとってとても良かったと思います。

オームの法則は、実の所はイギリスのキャヴェンディッシュ
が先に発見しているようですが、ご存命中に発表しませんでした。
オームはキャヴェンディッシュと意見交換することなく
独自に法則を確立していて論文にまとめました。

また、オーム自身は導体内での電子の挙動に関して
近接作用の結果として論じていたようですが
そんなエピソードからも目に見えないミクロな現象を
組み立てていく為に検証をしていく難しさを感じます。

そんな困難の中、原理を確立して社会に意義を問いかけ
現代に多大な功績を遺したオームの名は抵抗値の単位
として今後も使われていきます。






posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

大河内正敏 _1878年12月6日 ~ 1952年8月29日



大河内正敏は旧上総大多喜藩主にして
子爵であった大河内正質の息子として
生まれました。学習院初等科に進み、
大正天皇と共に学びます。

また大河内とは珍しい名字だなと思って
いたら奥様も大河内家から娶っていて、
華麗なる一族を感じさせました。政界で
は子爵議員として貴族院で議員を二期
務めます。若かりし無名の田中角栄を
可愛がっていたといわれます。
理化学研究所の3代目所長に就任したした
時は理研研究員にして、貴族院議員で子爵、
そして東京帝大教授でした。



大河内正敏は東大で物理学を学んでまし
たが時節柄、寺田寅彦と飛行弾丸の研究
をしていたようです。物理学を駆使すれ
ば流体力学や表面の解析が出来ます。



大河内正敏が進めた具体的な別の活用事例
としては、ピストンの開発があります。
ここでもシリンダー内の熱流体解析や、
摂動面の摩擦を解析出来ます。この研究は
後の株式会社、リケンにつながります。
戦後このグループは、GHQより十五大財閥の
一つとして指定を受けます。



こうした業績を残して今、大河内正敏は
埼玉県にある平林寺で永眠しています。









以上、間違い・ご意見は
次のアドレスまでお願いします。
最近は返信出来ていませんが
全てのメールを読んでいます。
適時返信のうえ改定を致しします。

nowkouji226@gmail.com

【舞台別のご紹介】


2020/12/17_初版投稿
2021/01/21_改定投稿





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2020年12月23日

山川 健次郎_フレミング_ランダウ_ピーター・デバイ【09/22~09/25の記事】

以下に草稿を残します。各項は適時改定致します。

@山川 健次郎_1854年9月9日 ~ 1931年6月26日(日本)
Aピーター・デバイ_ 1884年3月24日 ~ 1966年11月2日
Bランダウ_1908年1月22日 ~ 1968年4月1日
Cジョン・A・フレミング_1849年11月29日 ~ 1945年4月18日

【@山川健次郎の草稿】




山川 健次郎は日本初の物理学者です。
その家は会津藩の家老家で
戊辰戦争では健次郎は白虎隊に所属、
落ち延びた後に米国留学を果たし、
最終的には東大総長・京大総長を務めます。

実は私の家祖が会津藩・彰義隊でしたので
個人的に親近感を持っていたのです。ご縁を感じました。





山川健次郎は国費留学生として
イェール大学で学位を修めます。
また、東京駅の設計に携わった建築家・辰野金吾とは
奥様を通じて親戚関係となっています。

山川健次郎のお人柄を表すエピソードとして
日露戦争に関するものがあります。
当時、彼は東大で総長を務めていましたが、
愛国心に満ちた健次郎は陸軍に詰め寄り、
一兵卒として従軍させろ、と担当を困らせたそうです。
個人・家族・所属国家と意識が繋がっていたのですね。
その時にはもはや、賊軍だった頃の意識は無いのでしょう。





山川健次郎の時期の物理学会は諸外国との交流を感じさせません。
特にコペンハーゲン学派が次々と新しい知見を
もたらしていた時代に日本の物理学は黎明期にありました。
後の時代に原子核内の相互作用を解き明かしていく
若者達を育てていく時代だったのです。





山川健次郎自身の研究成果は余り伝えられていませんが
それよりも寧ろ、後輩達を育てる為の土壌を育んでいた
と考えるべきでしょう。

ただ、この時代に千里眼を巡る話題が世間を騒がせていましたが
それに対して山川健次郎は批判的で
冷静な立場をとっていたと伝えられています。







【Aフレミングの草稿】
まず、フレミングはケンブリッジで
マクスウェルの師事を受けました。

フレミングは左手の法則で有名です。
簡単に言えば「左手で直行三軸を作った時に
長い指から・電(でん)・磁(じ)・力(りょく)です。
より、細かく説明すると磁場中に電気が流れていると
その導線に対して力が生じます。
電(でん)・磁(じ)・力(りょく)をそれぞれ
q(でん)・B(じ)・F(りょく)で考えて
荷電粒子の速度をvとすると、外積:×を使って
F=q(v×B) です。高校レベルの天下り的な覚え方
ですが、現象として実験事実に即していると考えると
非常に洗練された結果であるとも言えますね。

また、真空管の発明者としても有名です。
今日の電子工学の始まりだとも言われています。
工学の世界で色々な発明を重ねました。

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【Bランダウの草稿】
ランダウは有名なユダヤ系ロシア人の科学者で
日本でも教科書を目にしたことがあるのではないでしょうか。

さて、ランダウは石油技術者の父と教育者の母から生まれます。
12歳で微分法を理解し、14歳で国立大学に入学、
物理数学科と化学学科を同時に履修します。
19歳で学士の称号を得るとレニングラード物理工学研究所で
電磁場注中での電子性質である量子電磁気学を研究していきます。
その後。コペンハーゲンにあるボーアの研究所で大きな影響
を受けました。その後、ケンブリッジでディラック・カピッツァ
と共同研究を進め所謂「ランダウ反磁性」の研究をまとめます。
その後にチューリッヒでパウリと共同研究をした後に
ランダウはレニングラードに戻りました。

ランダウの幸せだった時期を中心に記載しましたが
モスクワの研究所で要職を務めていながらスターリン批判
をしたことで刑務所に服役したり交通事故にあったりしています。
水素爆弾の製造にも不本意ながら加担しています。そして
60歳でこの世を去ります。

ただ、ランダウの業績は不変です。準粒子・フェルミ流体や
ギンツブルグ&ランダウ理論は低温凝縮系の世界を
大きく進ませました。







【Cデバイの草稿】

先ず、比熱の定式化でデバイは名を残しています。
そして電子の双極子モーメントを使って誘電率の
説明をしました。これに関しては別途、
確認して追記したいと思います。
そして。デバイは概念の中で単位として名を残しています。

さて比熱のモデルですが、今日では一般的に
アインシュタイン・モデルとデバイ・モデル
が使われます。アインシュタインのそれは
拘束された原子核のがバネでつながれたイメージ
です。対してデバイ・モデルは音子(フォノン)が
箱の中を動き回るモデルであって外界とのリンクは
箱の出口となるドアで表されています。

こういった概念をまとめているフリー・サイトを見つけましたので
以下にURLを記します。ご参考にして下さい。


(ときわ台学さん)




(別リンク)




また、先ほど追記したいと記しましたので、
このブログの今後につき今後の筋道を表明
した方が明快な気がします。
先ず、項目数が100くらいになったら、
まとめの項を設け各項目を整理します。
そして、その後はその整理に従い
項目内を吟味して項目毎に改定します。
全てで作業したら半年以上かかりますね。
その後、項目の増補と削除を重ね、
一年を目処に繰り返していく予定です。

具体的に、上記方針で
運営していき、以後は記事を個別に改定していく
事を原則とするつもりです。

そういった作業で記事の精度を高め、
ページ間の関連性を作っていき
より充実した内容を目指します。

ブログの志向としてはWikipediaの正確性をもとめつつ、
日本における民間人が理解出来て興味が持てる
内容を目指します。昨今、米中の対立を意識して
文章において中立的立場を心がけます。
特に、兵器開発に対する立場としては反対ですが、
産業として兵器産業が成立している事実も理解し、
加担はしないけれども特定企業の名をあげて
非難しないようにします。所属している人が居て
その人に家族・恋人がいる場合が想定されるからです。

posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

田中舘愛橘_1856年10月16日 ~ 1952年5月21日





田中館愛橘、
その名は愛橘と書いてあいきつ、
と読ませます。生まれた年は
旧暦の時代で安政3年9月18日です。
【新暦で1856年10月16日です】
没年は新暦での昭和27年です。
先祖に南部藩の赤穂浪士と呼ばれた
方が居たそうですから、そうした
イメージから語り出したいと思います。
時代の変革期に若き日を過ごしました。



さて、田中館愛橘の父方は兵法師範の
家系であり、愛橘は藩校である作人館に
学びます。作人館での同窓生には原敬
がいて後輩には新渡戸稲造がいました。
存じませんでしたが立派な学校ですね。
東京に出て慶應義塾に通いますが
学費が高額なので東京開成高校に
進みます。

今で言えば東大教養学部のイメージ
でしょうか。そこで愛橘は山川健次郎
から物理学を学びます。政治にも
関心を持っていたようですが、山川から
諭され、我が国の理学での遅れを挽回
せんと愛橘は物理学を志しました。



1879年に東大で外国人教師である
メンデンホールとユーイングが
エジソンの発明したフォノグラフ
を日本に紹介しましたが、田中館愛橘は
早速試作を行いました。その音響や振動
の解析を行っています。1880年には
メンデンホールによる重力観測に参加し、
東京と富士山で観測作業を行いました。
当時の世界1の高精度方位計であると
称えられた電磁方位計を愛橘は制作しました。



ダイソン・私も使ってます♪

田中館愛橘は明治16年12月に福岡に帰っていた
父・稲蔵が割腹自殺したとの知らせを受けて
帰郷します。そしてその年に東京大学助教授
となりました。詳細は追って調べます。この時期
気になる動きです故。





その後、田中館愛橘はイギリスでケルビン卿に師事し
、大きな影響を受け、生涯を通じてケルビンを敬愛し
ました。その後1890年にヘルムホルツのいたベルリン
大学へ転学、電気学などを学びます。この時代の電気
に対する理解は、後ほど項を改めてマクスウェルらと
関連して語ります。愛橘は東京帝大理科大学教授となり
後にに理学博士の学位を受けます。更にデンマークの
コペンハーゲンで開かれた万国測地学協会 第14回総会
で地磁気脈動や磁気嵐の発表をします。

また時代柄もあって、田中館愛橘は陸軍や海軍
に対して貢献します。地磁気測量では指導の
中心的な役割を果たしています。旅順での戦闘
の際には敵情視察用の繋留気球の制作を依頼
されています。それが愛橘と航空研究のきっかけ
となりました。田中館愛橘は中野の陸軍電信隊内
での気球班で気球研究を始め、制作および運用法
を指導しています。試行錯誤の末に気球を完成させ、
旅順戦で戦闘に使用されています。




そして田中館愛橘が60歳になり、教授在職25周年
のパーティで愛橘は辞職する旨を伝えました。
後の東大での定年退職制度に繫がっていきます。
また、田中館愛橘は数多くの人材を育てました。
教え子としては長岡半太郎、中村清二、本多光太郎、
木村栄、田丸卓郎、寺田寅彦などが居ます。それ故、
愛橘は「種まき翁」、「花咲かの翁」と呼ばれた
そうです。95歳7か月の天寿を全うしました。





以上、間違い・ご意見は
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【舞台別のご紹介】


2020/12/16_初版投稿





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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ_1736年1月25日 ~ 1813年4月10日



ラグランジュはフランスに生まれ革命の時代を生きました。
同時代のラボエジェが処刑された事に際しラグランジュは何故自身が生き延びたか自問自答したのではないでしょうか。何故なら彼はマリー・アントワネットの先生を務めていたからです。





学問の世界ではラグランジュは多大な業績を残しています。物理学者というより数学者として力学体系の整理をしてラグランジュ形式と言われる理解を進めています。私も学生時代にラグランユアンと呼ぶ関係を多用しました。解析力学と呼ばれる分野で、ラグランジュ方程式につながります。後の数論につながる議論もしていますし、時代がら天体に関する研究もしています。

ラグランジュの解析的な考えが有効だったのは各種物理量を
一般化して変分と呼ばれる類の数学的な形式につながるからです。後の量子力学はニュートンの作った微積分だけではなく物理量の関係をラグランジュの使ったような関係で表現します。また、ラグランジュはエネルギー保存則から最少作用の原理を導きその考えは力学に留まらずに電磁気学・量子力学でも使われています。こういった定式化でのパラダイムシフトが後の体系に不可欠です。

ラグランジュの未定乗数法や定式化されたラグランジュアン
は誰しもが認める見事なものです。そして、ラグランジュの名は今でもエッフェル塔に刻まれています。彼の残した仕事と栄誉と共に。























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2020/10/02_初稿投稿
2021/01/07_改定投稿





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2020年12月22日

平賀源内・パウリ・ゾンマーフェルト・オッペンハイマー・E_テラー【9/18~9/22迄の投稿】

以下順番にリンクのついた原稿を個別に改定します。
また、その後に初稿を残します。

@平賀源内_1728 ~ 1780年1月24日
Aヴォルフガング・E・パウリ_1900年4月25日 ~ 1958年12月15日
Bゾンマーフェルト_1868年12月5日 ~ 1951年4月26日
CJ・R・オッペンハイマー_1904年4月22日 ~ 1967年2月18日
Dエドワード・テラー_1908年1月15日 ~ 2003年9月9日

【@平賀源内_9/18の原稿】
少し時代が古いです。
平賀源内は江戸時代、田沼意次が老中
を努めていた時代で多彩な能力を発揮
しています。物理学関係に留まらない。

そもそも、平賀源内は讃岐の国
に生まれます。家祖は信濃源氏の平賀氏。
平賀氏は武田氏に敗れ、一度、改姓して
源内の時代に平賀姓に復姓しています。

平賀源内が手掛けた分野は医学、薬学、
漢学、浄瑠璃プロデュース、鉱山の採掘、
金属精錬、オランダ語、細工物の販売、
油絵、俳句と多岐にわたりました。

その一つが発明で平賀源内は
物理現象の啓蒙に一役買っているのです。
所謂、エレキテルの紹介ですね。
エレキテルは不思議な箱で
内部にガラスによる摩擦起電部、
蓄電池を持っています。
実の所、平賀源内が発明したというより
オランダ製の物を平賀源内が紹介した
訳ですが江戸時代の庶民達には
摩訶不思議な魔法に見えたでしょうね。
また、平賀源内の現象理解は現在の学問体系
とは大きく異なっていたようです。


バイト探しは【プチジョブ】


【AE・パウリ_9/19の原稿】
パウリの排他率律で有名です。
排他律を排他率と書いてしまいがちですが排他律です。
またはパウリの原理と呼ばれています。
1945年にアインシュタインの推薦でノーベル物理学賞を受けています。
ミドルネールのエルンストはパウリが尊敬するマッハに由来します。
父方はユダヤ人で有名な出版社を経営していたようです。

さて、排他律の具体的な内容に関してですが、
ナトリウムの分光実験から話が始まります。
再現性の高い事実として磁場付加時の分光は
電子の自転に由来するという仮説を立て、
後にそれをスピンと呼ばれます。新しい量子的自由度です。
後に行列力学を基盤とした定式化を行い数学的に表現します。

個人的に興味を引くのはミュンヘン大学でパウリが
ゾンマーフェルトの師事を受けている点です。
私が薫陶を受けた先生がゾンマーフェルトを研究していて
マッハの名前もその先生から教えてもらいました。
そして、マッハ・ゾンマーフェルト・パウリとつながったのです。

私の頭の中での奇妙な三角関係はさておき、
パウリは人間的にも面白いところがあります。
博士号を習得した直後、パウリはゾンマーフェルトに
独逸語での百科事典の記事執筆を依頼されます。
内容は相対性理論で二か月ほどをつかって完成させました。
結果はアインシュタインの査読にかなう見事なもので
今日においても読み応えのあるものとなっているそうです。

更に妙な繋がりは心理学者C・G・ユングとの関連です。
パウリは離婚後に精神を病んでいた時期がありました。
今や、夢分析の世界で有名なユングに完璧主義者のパウリ
が出合ったのです。先生と生徒という関係を築き、
生徒としてユングにパウリは科学的な批評を加えます。
互いに有益な関係だったのでしょう。

そして、パウリは最後まで愛したものを愛し続けました。
戦争での苦難の時代の後に帰国して、病床でも完璧主義者として
見舞客と議論を続けました。その中で語り継がれている話ですが、

もし、パウリが神に謁見したら、
神に微細定数 1/137.036...の
理論的根拠を尋ねたとしたら、
神様は物凄い速度で計算式書き連ねるだろう。その後、
きっとパウリは「違う!」と唱え話し続けるであろう。

よもや、神様さえも「あ!」と唱えるのではないか、
と不遜にも想像してしまいました。



【Bゾンマーフェルト_9/20投稿】
ゾンマーフェルトは
パウリとハイゼンベルクの指導をして
育て上げた事で有名です。
個人的な印象では積分の経路に
工夫を凝らす人だという印象です。
そこがまさに電子軌道の自由度を
考える事に繋がっていたかと。

ゾンマーフェルトの考えは
単純な円軌道で電子が運動しないで
楕円の軌跡を描く筈だと言う物です。

こういった話をしていて感じるのは
どうやっても見えない世界に
何とか形を与える事は素晴らしい、
と云うことですね。

実際に形を与える事は文化的発展
に繋がり世界を変えていくのです。
ダイナミックな世界かと。

日々の暮らしでは
感じられない世界です。





【Cオッペンハイマー_9/21投稿】
オッペンハイマーは原爆の父と呼ばれている側面もありますが、
UCB(バークレー校)では学生からオッピーと呼ばれていました。
彼の人生は喜怒哀楽に満ちています。

個人的な着眼点としては彼もユダヤ系の血を引いているという点です。
ヒットラーが民族としてのユダヤ人に焦点を当て迫害し、敵視していた
現実は動かしがたい事実です。強制収容所に連行されるような世相の中で
ユダヤ人達は非常な危機感を感じていたはずです。その危機感の中で
20世紀初頭の歴史は、天才たちが育ち・団結して新しい物を生み出し
ていたのではないでしょうか。この考えは幾多の人が繰り広げてきた
のではないかと思えますが、再度私も強調します。
具体的にはアインシュタイン・ボルン・そしてオッペンハイマーです。
(今は此処迄しか思い浮かびませんが後日、追記することになるでしょう)
それ程に
今世紀初頭の物理学の進展は急でした。その進展は物理学に留まらず、
工学、産業、果ては1979年ロシア革命に始まる社会体制の変化
にも繋がっていったと言えるのでは無いでしょうか。

実際、オッパンハイマーは最終的に6つの言葉を操ります。
少年時代には鉱物学・数学・地質学・化学に関心を示し
ハーバードを三年で終えてケンブリッジに留学します。
そこから理論物理学のゲッティンゲン大学に進み
ボルンと出会います。オッペンハイマーはボルンの
指導の下で研究を進め、
共同でボルン・オッペンハイマー近似等の業績を上げます。

その後、アメリカに戻りカリフォルニア工科大学やUCBで
教鞭をとりますが、第二次大戦勃発に伴いオッペンハイマーは
ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命されます。
ここで原爆を開発したのです。この仕事は、
世界のパワーバランスを変え、後の世界を大きく変えました。

晩年、オッペンハイマーは成し遂げた仕事の意味を自問し、
後悔の言葉さえ残しています。戦争時代の原爆開発・使用は
国としてのアメリカの中で必要と判断されていましたが
現代ではそれを使い各国が持つだけで攻撃対象とされたり
外交で脅迫の道具として使われていたりします。
そういったことにつながった発明をオッペンハイマーは
「罪」として捉え水爆の開発には反対していたりもしました。
オッペンハイマーには別の罪もあります。オッペンハイマーは
冷戦時代なので、学生時代からの共産党とのつながりを指摘され、
最終的には赤狩りの標的とされ続けていました。
常時FBI(司法省管轄のアメリカ連邦捜査局)の監視下にあったのです。
1965年、がんの為にニュージャージーの自宅で静かに生涯を終えました。
合掌









【DE・テラー_9/22の記事】
エドワード・テラーは水爆の父と呼ばれ、
晩年のオッペンハイマーと対立します。

エドワード・テラーはハンガリーのブタペストで
弁護士の父と4か国語を使う母から生まれました。
ユダヤ系であったエドワード・テラーの父は職を追われ、
ハンガリー・ドイツ・アメリカと移住を重ねました。
ただ、学問の世界では良い出会いに恵まれています。
ハイゼンベルグの下で博士論文を書き、
ボーアとの居たコペンハーゲンで有益な時間を過ごします。

アインシュタインと共にエドワード・テラーは原爆の研究を
アメリカ政府に働きかけ、実際にその計画は進んでいきます。
そんな中、友人のランダウがソ連政府に逮捕された時期に
反共思想を持ちます。オッペンハイマーとの確執の
始まりが続きます。特に兵器としての利用に関しては
エドワード・テラーとオッペンハイマーは対極の立場をとります。

実際、
エドワード・テラーは原爆・水爆と兵器の開発の中心に居ました。
水爆を「My・Baby」と呼んでいたと言われています。
その立場は変わらず、生涯その事を悔いることはなかったと言われています。










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セシル パウエル_1903年12月5日 ~ 1969年8月9日



単なる偶然の産物かも知れませんが、
今回ご紹介するセシル パウエルと
ハイゼンベルクとゾンマーフェルトは
同じ誕生日でした。また、また、
西川 正治も同じ誕生日でした。





さて今回の紹介はセシル パウエルですが、
原子核乾板に素粒子の軌跡を記録する方法
を改良しました。当時は未知なる粒子が
次々と発見され様々に予想されていた
のですが、観測手段も試行錯誤が成され
ていました。霧箱で飛んでくる粒子の
軌跡を捉えたり、高い山の上で観測して
飛来宇宙線の大気減衰を克服したり
写真技術を活用したりしました。
パウエルの手法は写真のイメージから考える
のでしょうか。更に確認したいところです。



またパウエルは湯川秀樹が予想した
パイ中間子の観測・発見の為に
研究スタッフを派遣しています。生成後の
寿命が短く地表に到達できないパイ中間子
観測の為にボリビアにあるアンデス山脈の
標高5000mの山から上記乾板を使って発見
しています。ダイナミックな観測だった
と言えるでしょう。他、気球を使い
高度を確保したりもしています。
観測の為に様々な工夫をこらして
結果を得ています。





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2020/12/15_初稿投稿
2021/01/21_改定投稿






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2020年12月21日

BCS理論の3人【9/15~9/17投稿分】

以下三人分の原稿を改定します。言うまでもなく
超電導現象の理論的裏付けを解き明かした3人です。草稿を記載するのでご参考にして下さい。

ジョン・バーディーン
_1908年5月23日 ~ 1991年1月30日
レオン・クーパー
_1930年2月28日 ~(ご存命中)
ロバート・シュリーファー _1931年5月31日 ~ 2019年7月27日

【@バーディン原稿9/15投稿】
本稿は何度か追記する事になるでしょう。
とても関心のある低温電子物性だからです。

さて、バーディンは二回のノーベル賞を受けています。
一回目はトランジスタの発明、二回目は以下の
BCS理論です。

前述したカメリー・オネスの発見以後、
色々な考えが試みられたでしょうが、
イリノイ大学のバーディンを中心とした
3人がBCS理論を確立します。
バーディン、クーパー、シュリーファ
3人の頭文字を使いBCS理論と呼ばれます。
このコンビの始まりはバーディンが
クーパーを招聘する事から始まります。
そこにバーディン研究室の大学院生、
シュリーファが加わり研究が進みます。

その中身はフォノンを介した電子対が
スピンを打ち消し合って結合する
という理論でした。相転移温度を
その理論で説明し、今日の超伝導理論の
基礎となっています。

そもそも、金属中を移動する電子を単純な
質点のモデルで考えると正の荷電をもった
原子核の間を負の電荷が自由自在に
動き回る事は到底出来ません。何らかの相互作用
が起きて抵抗に繋がります。ところが、
電子の波動関数を考え、波動的側面が顕著に
現れる状態を作っていくのが超伝導現象
と言えます。その条件として大事な尺度
の一つが温度だったのです。







【Aクーパー原稿_9/16投稿】
初めに、本稿は関連用語の解説が
中心となリます。今後も含め、
分かり易い内容にしたいので
超伝導現象を明らかにした方が良い
と感じたからです。既に内容を
ご承知の方にはしつこく感じるかと。
そうでしたらごめんなさい。

クーパーはバーディン等と共に
BCS理論を確立しました。
クーパーはユダヤ系です。
賢い人種ですね。

そもそもBCS理論の大事な考え方
であるクーパー対をクーパーは
26歳の時に纏めています。

さて、本題。1911年のカメリー・オネス
の発見により通常の伝導性とは異なる
超伝導状態が存在すると明らかになりました。
定量的には絶対零度近くの
マイナス273℃=ゼロ・ケルビン(k)に近づくと
超伝導現象が起きます。その時は抵抗値ゼロです。
例えばニオブ(Nb)は9.22ケルビンで
超伝導状態になります。超伝導状態への
転移を上手く説明した理論がBCS理論で
あってそこでのCはクーパーの名前に
由来します。

ここで別の側面から超伝導状態を考えます。
温度を下げ相転移温度で超伝導現象が起きると
電流を流した時に抵抗値がゼロになりますが
同時に相転移温度で磁界に対して
変化が生じます。現時点での応用として
リニアモーターカーがあげられます。
細かくは超伝導体の内部で内部磁場が
ゼロになり、外部からの磁界を遮断します。
超伝導状態になった時に磁石が浮かぶ
写真は有名な例えですね。更に磁石は
極性を持ちますから、ラダーと呼ばれる
軌道で極性を切り替えていく事で
リニアモーターカーは進むのです。
この完全反磁性またはマイスナー効果
と呼ばれる現象は超伝導現象での
特徴の一つです。

ここで関連して磁力線について
整理したいと思います。
ご存知の通り磁石はNとSからなり
磁力を持ちます。一般的に模式図で
示される様に磁力線は片方から他方へ
ゆったりした曲線で繋がっていきます。
所が超伝導現象では内部へ磁力線が
侵入出来ない様な現象が起きます。
相転移の前後で形が突然変わります。
更には変化の違いで第一種超伝導体
と第二種超伝導体に物質によって分かれます。

これらの現象を理解する為にクーパー等
が確立したBCS理論が役立つのです。

この考えが発展していき、現代では相転移の温度が
どんどん高くなっています。実用上は常圧化で相転移を
起こすことが大事になっていますので
液体ヘリウムよりも安価な液体窒素で冷やせる
事が望ましいのです。実際、液体窒素の沸点は−196℃
ですので現在は、液体窒素で冷やす事で
相転移を実用出来る素材を中心に研究が行われて居ます。
さらなる進展に期待しましょう。





【Bシュリーファー原稿_9/17投稿】
BCS理論を作った3人のなかで
SはシュリーファのSです。

シュリーファはもともとMITで
半導体の研究をしていました。
半導体表面での電子の振る舞いを
研究していて、後に超伝導に移ります。

シュリーファがBCS理論をまとめた後、
世界での研究は常温での超伝導実現
に向けた研究が進んでいます。
高圧環境下で現象を起こしたりして
マイナス百数十ケルビン程度まで
転移温度は近づいてきています。
私が研究していた時代には
青学の秋光先生や東工大の細野先生
が挑んでいました。それぞれご存命
かと思われますので詳細は控えます。
科学史と言うより最前線に近いかと。

話し戻って、シュリーファは
晩年に自動車事故を起こし
人を殺めてしまい、懲役を課されています。
晩年に残念な事です。




posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

仁科 芳雄_1890年12月6日 ~ 1951年1月10日



仁科芳雄は稀代の人たらし
だったと言われています。
人に入れあげ、彼の元に人が集まり、
人々を育てあげた凄さがあります。





仁科本人はニールス・ボーアのもと
で育ち、その自由闊達な学風を持ち込み
日本で多くの学者を育てました。
1928年にオスカル・クラインと
コンプトン散乱の有効断面積を
議論しています。また帰国後には
ハイゼンベルクやディラックを
日本に招待して理解を深めています。
また、師であるボーアも日本に
呼び寄せています。



研究内容として仁科はサイクロンの
建設を進め様々な成果をあげてます。
そのサイクロンを大型化する際には
仁科は大変苦労しています。先行する
カリフォルニア大学のローレンスとは
日米関係に伴い関係が悪くなっていき、
終戦共にサイクロンはGHQにより
東京湾に破棄されてしまいます。



戦後には仁科は理研の所長を務め、
科研製薬の前身で社長を務めましたが、
肝臓ガンを患い61歳で亡くなります。
放射線被ばくの影響もあったであろう
と言われています。多くの人材育成に
捧げた人生だったと感じています。





以上、間違い・ご意見は
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2020/12/13_初版投稿
2021/01/22_改定投稿





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2020年12月20日

19世紀生まれの偉人達のまとめ_【9/14投稿分】

リンクのついた原稿は改定します。

【9/14時点の情報を残します。ご参考に】

これまでこのブログで取り上げた人々の中で
19世紀に生まれている方をまとめました。ご参考に。

サティエンドラ・ナート・ボース_1894年1月1日 ~ 1974年2月4日
石原純(あつし・じゅん)_1881年1月15日 ~ 1947年1月19日
エルンスト・マッハ_ 1838年2月18日 ~ 1916年2月19日
ルートヴィッヒ・E・ボルツマン_Ludwig Eduard Boltzmann,_1844年2月20日 〜 1906年9月5日
ロバート・ミリカン_1868年3月22日 ~ 1953年12月19日
マックス・プランク_Max・K・E・L・Planck_1858年4月23日 ~ 1947年10月4日
J・C・マクスウェル:James Clerk Maxwell_1831年6月13日 ~ 1879年11月5日
シュレディンガー_1887年8月12日 ~ 1961年1月4日
ルイ・ド・ブロイ_1892年8月15日~1987年3月19日
長岡半太郎_1865年8月19日 ~ 1950年12月11日
レオン・フーコー_Foucault_1819年9月18日 ~ 1868年2月11日
カメリー・オネス_Heike Kamerlingh Onnes_1853年9月21日 ~ 1926年2月21日
ニールス・ボーア_1885年10月7日 - 1962年11月18日
寺田 寅彦_1878年11月28日 ~ 1935年12月31日
マックス・ボルン 1882年12月11日 ~1970年1月5日
J・J・トムソン_1856年12月18日~1940年8月30日









posted by コウジ at 10:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

西川 正治_1884年12月5日 ~ 1952年1月5日



西川 正治は寺田寅彦の指導を受け
物理学を学んでいきます。特に、
彼は竹や麻等の植物由来の構造体
に着目して繊維構造物質に対して
電磁波がどう作用するか考えました。



手法としてはX線回折を駆使して
スピネル群結晶内の電子配置を
決定しています。




そもそも、電子は不可視の存在ですが、
電磁波に対して作用して結果を残すので
その結果を画像で解析すれば結晶内での
微視的な電子配置の情報が得られるのです。
新しい計測手法を手掛かりに西川正治は
解析していったのです。



西川正治はそうした業績を残しながら
二人のお子様を育て、其々が学者として
名を残しています。また、同時に
幾人もの弟子を育て日本物理学会に
今も続く、大きな足跡を残しています。





以上、間違い・ご意見は
次のアドレスまでお願いします。
最近は返信出来ていませんが
全てのメールを読んでいます。
適時返信のうえ改定を致しします。

nowkouji226@gmail.com

【舞台別のご紹介】

2020/12/13_初稿投稿
2021/01/07_改定投稿





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2020年12月19日

J・J・トムソン_【原稿改定】

トムソンは同位体の発見者です。
指導者としてはラザフォード、
オッペンハイマー、ボルンの師であり
物理学の発展に大きく貢献しました。

また、電子の実在を形にしていった
一人でもあります。電子を発見したか
については異論があるかも知れませんが
いくつかの洗練された実験で、
トムソンは電子の単位量を決めて
特定原子の同位体をしめしました。

そして今、いくつもの偉業を遂げ
J・J・トムソンの亡骸は
ニュートンの墓のすぐ近くに眠っています。
英国の生んだ偉人として。





サイト運営者の皆さん。見てみて下さい。
posted by コウジ at 21:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

ボーズとフェルミと長岡半太郎

以下に3つの記事の改定前原稿を残します。
其々のリンクのついた原稿は改定致します。

【ボースの原稿】 【フェルミの原稿】 【長岡半太郎の原稿】 



【以下に9/12投稿のボーズの原稿を残します】
ボーズ(BOSE)は珍しいインド人物理学者です。
以下、ボーズの名前に濁音がついていますがご了承下さい。「ズ」の所。
BEC(ボーズアインシュタイン凝縮)・ボゾンといった用語で議論
していた時代の癖がどうしても消えません。そもそも、
ここに拘っている人は少ない印象です故。

さて、インドは独自の数学体系を持ち
計算(暗算)方式も独自の形式を持ちます。
そんな学問体系で素粒子の世界に挑んだボーズは
統計力学で今世紀初頭にEinsteinと共に
今でいうBOSE粒子群(BOSON)の振る舞いを定式化するのです。

前段の知識として後世の理解で整理すると
素粒子はスピン角運動量の数でBOSONとFERMIONの
二種類に分かれます。いわゆる凝縮系の世界でも
BOSONは特異な振る舞いを示します。
具体的にBOSONとは光子、音子、ウィークボソン、グルーオン、
π中間子やK中間子、D中間子、B中間子はスピン0、ρ中間子、等で
スピンの奇遇性からボゾンに分類されて、
BOSE−EINSTEIN統計に従います。

ただ残念な事に西洋の学者と異なり、
インド系のボーズは「人となり」が伝わっていません。
何よりボーズの業績である、BOSONで名を残しています。
私がインドに行って調べたいくらいですが
あいにく機会ができません。いつか調べてみたいと思っています。









【以下9/13投稿のフェルミの原稿です】
フェルミはイタリアのローマに生まれアメリカで死没しています。
その業績は社会的側面が大きいものもある一方で
純理論を突き詰めた後世の誰しもが使う原理・概念もあります。
まさにパラダイムシフトを起こした立役者です。

そもそも、フェルミは学生時代から抜きん出た優秀さを備えています。
一歩一歩、フェルミは議論を展開してノーベル賞を受け、
その授賞式の際にイタリアからアメリカに亡命しました。
その後。フェルミは有名なマンハッタン計画に参画し、原子力発電所
の創設に携わり、フェルミは社会を大きく変えていきます。
アメリカを中心とする資本主義圏が自由を謳歌した点で
フェルミの業績は計り知れないです。反面でスリーマイル島の事故や
福島での原発事故を思い起こすと、気楽に賞賛ばかりはしていられません。

このブログの中で私が何回か主張しているように識者が
知恵を集結して問いかけなければいけません。かっての
ラッセルーアインシュタイン宣言のように。一方で
我々、大衆も皆さんが分かる範囲の言葉を使い意見を交わさねば。
民衆の英知を集結させるべきです。政治家に頼れない昨今です。

さてフェルミに戻します。フェルミは純理論の中で
スピン角運動量に関して議論を進めました。別のご紹介でボゾン・アインシュタイン
の系を紹介しましたが、フェルミとディラックは別の粒子群に着目します。
後世の理解ではスピン角運動量が半整数(1/2とか3/2とかいった数)
の粒子はフェルミ粒子(フェルミオン)と呼ばれボゾンとは別の振る舞いを示します。
具体的なフェルミオンとしてはクォークや電子、ミュー粒子、ニュートリノ、陽子、中性子
もフェルミ粒子の仲間です。伝導率の物性を議論するときには欠かせません。

こうして沢山の業績を世に残し、フェルミは天に召されました。
彼は病床で点滴が落ちるのを眺めて、その流速を出していたと言われています。
フェルミこそ、生粋の物理学者でした。謹んでご冥福をお祈り致します。









【9/13投稿の長岡半太郎の原稿です】
この長岡半太郎も湯川秀樹同様に大村藩の流れ。
学生時代は山川健次郎やボルツマンに学ぶ。

長岡半太郎の研究業績として大きいのは、
なんと言っても原子モデルでしょう。
トムソンがブドウパンの中のブドウの形で
電子の存在を仮定していたのに対し、
長岡半太郎は原子の周りを電子が回転
する土星のようなモデルを提唱しました。

今日の物理学、特に量子力学的な知見では
不完全なモデルとも言えますが、
長岡半太郎のモデルは当時の原子モデルを
大きく変えた点で高く評価出来ると思えます。
素晴らしいパラダイムシフトでした。



タグ:ボーズ
posted by コウジ at 19:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

朝永 振一郎_1906年3月31日 ~ 1979年7月8日【9/12の原稿】

9/12時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します

私が使っていた教科書【Diracの「量子力学」】の訳者です。

朝永振一郎のご先祖様は大村藩((現在の長崎県内にありました)
の流れをくみます。父は京都大学哲学科教授でした。
また、朝永振一郎は今でいう筑波大学の前身となる
大学で教鞭をとり、最終的には学長を務めます。
東京に生まれ京都で育ち、世界で議論しました。

朝永振一郎の研究業績で私が最も偉大であると思えるのは
繰り込み理論です。ファインマン・ダイアグラムと呼ばれる
不可思議な模式図で表現される現象、
素粒子の反応過程での数学的矛盾を見事に解決しています。
ファインマンの経路積分にも数学的な美点を感じますが
朝永振一郎の理論の方が直感に訴える説得力を持っている
と思えました。好みといえば好みの問題ですが。

朝永振一郎の理解で量子電磁気学の整理が進み、
素粒子物理学が大きく進歩したのです。

朝永振一郎はまた晩年、大学入学以前の若者に対し
科学的な啓蒙を進めていたと聞いています。

そういえば、朝永振一郎は湯川秀樹と同期でした。
それぞれの形で当時の物理学で完成形を作り上げたのです。



posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

2020年12月18日

ロバート・ミリカン_1868年3月22日 ~ 1953年12月19日【9/12の原稿】

9/12時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します

ミリカンは非常に優れた米国の実験家でした。
光に粒子性と波動性がある事を実証していく段階で
波動性を前面に出した理論を展開していきます。

ただ、実験事実として粒子性を使った実験が
非常につじつまの合う結果を出していたことに
ミリカン自身も自問自答を繰り返しただろうと思えます。
結果としてアインシュタインが論じた光電効果を
ミリカンも理論的に裏付けます。

また、電気素量を導き出した実験も見事です。
金属板の間の油滴の運動を考え、ミリカンらは
重力の効果に対してクーロン力の兼ね合いを考えて
厳密に計測値が求まる油滴の重量から電気素量を導きます。

この2つの業績でミリカンはノーベル賞を受けました。
また、ミリカンは非常に優れた教育者として
多くの教科書を世に送り、その中で少し先んじた概念を紹介しています。
更にミリカンはカリフォルニア工科大学の創設に大きく関わりました。
今でも同大学に彼の名を冠した建物があるそうです。
【そもそも米国の通例で、1号館と言う代わりに
ミリカン・ホールという名をつけたりします】



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2020年12月17日

ロバート・フック_【原稿再投稿】

9/10時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します

この紹介を書くにあたり調べ直してみた所、
フックは結構、寂しい人生を送っています。
フックには子孫が居ませんでした。
また、同時代のニュートンに比べ業績は見劣りします。
年配のフックをニュートンは敬っていたようですが
どうしても論戦になり、科学的な思考の深さ、
明快な視点で反論されてしまいます。

とはいえ、その業績は特筆に値します。
有名なのはバネに関するフックの法則です。
ばねに働く力が長さの一乗に比例するという法則は
非常に明快で今でも色々な分野に応用されています。
また、惑星間に働く力が距離のマイナス自乗に働く
という法則もフックの発案であるとされています。
理論として体系立てることも大事ですが
先ずは気付きを与えるという事も、
大事だと私は思います。









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2020年12月16日

南部 陽一郎_【9/10の原稿】

9/10時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します

【9/10の原稿】
南部 陽一郎は戦時に研究を志し、
陸軍のレーダー研に配属されます。

戦後、南部 陽一郎朝永振一郎のグループで研究を続けます。
物質を構成する原子を考えていく、今に続く
素粒子論を完成させていきます。

南部 陽一郎もまた、中間子をひもとき、
素粒子間の総合作用・その形成に関して
実験事実とつじつまの合う理論を展開していきます。

南部 陽一郎自発的対称性の破れでノーベル賞を受賞しています。

そういえば、南部洋一郎は
学生時代に使っていた教科書の著者でした。
ただ、その時点で米国の国籍を得ていた記憶があり、
研究者に対しての日本での待遇に疑問を抱いたものです。

私は理論物理学の研究室に所属していましたが、
卒業後も研究を続けて研究者として身を立てている仲間は
今では数えるほどしかいません。
多くは私のように、民間の会社に所属して物理学とは全く
関係のない業務に従事しています。

少子化という流れもありますが、
名誉職としての教授に対して日本社会の扱いは
低いとも感じていました。それだから
南部 陽一郎がアメリカに帰化した気持ち
少しも理解できます。


posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

2020年12月15日

寺田 寅彦_1878年11月28日 ~ 1935年12月31日【9/9の原稿】

9/9時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します

寺田寅彦は物理学者にして俳人です。

熊本の高校で英語教師として赴任していた夏目漱石と出会います。
後に文学にかかわるのはこの出会い大きかったといわれています。
贅沢な人生ですね。夏目漱石の作品「吾輩は猫である」の中では
寒月君として登場する作品のモデルとなっていて
作品を通じて御人柄に触れた人も多いのではないでしょうか。

研究の点でも枠にとらわれない視点を持ち実績を残しています。
その中でも評価が高いのはラウエの業績に刺激を受けた研究で
「X線の結晶透過」についての発表が有名です。
先進的な結晶解析に関して考察をを進めています。

研究をふりかえると、長岡モデルの長岡半太郎に教えを受け
学生結婚をして、その妻に早く先立たれ、
東京帝国大理科大学で教鞭をとった後ベルリン大学
で地球物理学を研究し、理化学研究所、 東京帝国大学地震研究所
で研究を続けました。57歳で亡くなられています。

posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

2020年12月14日

マックス・プランク_【2021/9/8原稿改定】

9/8時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します

【現在の】ドイツ生まれのプランクは
前期量子論の主要メンバーの一人です。
微視的な物理量を特徴づける定数:プランク定数を提唱して
微視的な知見において不連続量を導入しなければいけない
と結論付け体系化しています。

プランクのの考え方はとても大事な概念で、
量子力学の根幹をなしています。
後付けで考えていくと、取り得る状態が不連続故に
行列力学で時間発展が記述出来て状態の遷移が
表せるのです。

パラダイムシフトという点で考えていくと
まず、ここでのハードルをクリア出来たのは
物理学にとって大きな一歩であったと言えます。

御多分に漏れず、
プランクは戦争の時代を生きたので大変苦労しております。
アインシュタインなどのユダヤ人迫害に対して
ヒットラーに直接意見を述べたりしています。
また、二男がヒットラーを暗殺に加担したので
プランク自身も国賊のそしりを受けています;。

色々とあったプランクの人生ですが、
プランクの残した業績は決して消えません。
彼の残した研究所は21世紀になっても最先端の研究を
続けています。



私おすすめのサーバーです。

posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

2020年12月13日

オランダ関係の人々

初稿投稿時では殆どライデン大学の
関係者ばかりですね。現在では
デルフト工科大学で超電導関係の
成果が伝わっています。
追って補足出来たらいいですね。
ご存命中の人も紹介したい部分です。

内容の重複になる部分もありますが
改めて紹介させて下さい。以下、列記します。

クリスティアーン・ホイヘンス _1629年4月14日 ~ 1695年7月8日


ハンス・エルステッド
_1777年8月14日 ~ 1851年3月9日


H・A・ローレンツ
_1853年7月18日 ~ 1928年2月4日


ヘイケ・カマリン・オンネス_ 1853年9月21日-1926年2月21日



アルベルト・アインシュタイン_1879年3月14日 - 1955年4月18日
【研究で長期滞在】


ポール・エーレンフェスト_1880年1月18日 ~ 1933年9月25日



エンリコ・フェルミ_1901年9月29日 ~ 1954年11月28日



ポール・ディラック
_ 1902年8月8日 ~ 1984年10月20日【研究で長期滞在】


ハイゼンベルク 1901年12月5日 ~ 1976年2月1日【研究で長期滞在】

他、フィリップ・シーボルト、西周





以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/12/13_記





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posted by コウジ at 11:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 科学史

湯川秀樹_【原稿改定】

9/7時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します

【以下は9/7の記事】
湯川秀樹は朝永振一郎と同じ時代を生きています。
互いに刺激しあう関係を築き、共に時代のテーマに取り組んでいます。

湯川秀樹の関心は物質の相互作用にあり、
重力・電磁力以外の微細粒子間の相互作用を引き起こす「強い力」
に着目して議論を進めました。

湯川秀樹の時代には場の考えが発展していて
原子の中での相互作用を湯川秀樹は中間子という概念で
更に広げていったのです。ボゾンの一つとして中間子を仮定して
強い力を説明してみせたのです。

その業績は京都大学の原子力研究を初めとして
日本の物理学者たちに引き継がれています。

個人的な関連では私が幼少時代を過ごした東京板橋にあった
理化学研究所の分室で教鞭をとっていたようです。
少し時代がずれますが、私の故郷で活動していたと思うと不思議な気持ちです。
ノーベル賞受賞者の朝永振一郎もそこに居ました。

また、湯川秀樹はラッセル=アインシュタイン宣言にも参加しています。
以前のブログでもこの関連の話は盛り込んでいますが
私は研究者が異議を唱えても社会が破滅的な兵器を作る現実を
大変、問題だとに思っています。アインシュタインであれ
湯川秀樹であれアシモフであれ社会が叡智を集結して対応することを夢見ています。

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2020年12月12日

アルベルト・アインシュタイン_【原稿改定】

9/6時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します

【9/6の原稿です】

現時点で最も有名な物理学者ではないでしょうか。アインシュタインは
パラダイムシフトという点で近年、物理学に大きな変化をもたらしました。

特に、1905年に26歳のアインシュタインは3つの歴史的な論文を発します。
「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」です。
光量子化説は光の性質を突き詰め量子化しているもの、
ブラウン運動は花粉の動きから分子の乱雑な動きを解析、
特殊相対性理論は光速度に近づく物体の考察。
こういった考察から空間・時間の概念を変え、
ミクロの物質の考察を進めています。

ユダヤ系であるので彼は大変苦労しています。
当時のドイツはナチスの時代ですから
ホロコーストが実際にあったのです。
また、アインシュタインはドイツの為に
原爆の製造をすることに貢献出来た筈です。

実際には崩壊していくドイツ帝国を去り
アメリカでマンハッタン計画に加わります。
個人の物理学者として
多少の無力感を感じていたのではないでしょうか。

苦労人のアインシュタインは数々の名言を残していますが、
私が好きな言葉を最後に残します。アインシュタインの意志の強さを感じます。

「think and think for months and years. Ninety-nine times, the conclusion is false.
  The hundredth time I am right.」
私は、数ヶ月も何年も考え続けます。99回まで、その結論は正しくないですが、
 100回目に正しい答えを出すことができるのです。

posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

2020年12月11日

今後の私のサイト運用方向

師走もそろそろ中盤に差し掛かろう
としています。寒さ厳しくなりますね。
そんな中、私のブログが纏っていない
気がするので、仕切り直しをして
今後の運用方向を明確にします。

内容はファンブログとSeeSaaと
ワードプレスで作成したブログ
の位置付けです。
内容としては科学史に関するブログと
生活の中での雑記なのです。

科学史のブログに関しては
ファンブログを全ての記事を残す書庫、
SeeSaaを対応したミラーサイト、
ワードプレスで作成した物は纏めサイト
として運用します。纏めサイトでは最新
記事のみを残します。ミラーサイトは
時期をみて全て英訳します。

雑記では現在は纏め記事を毎日あげて
いましたが記事数を絞りたいので
日々の更新に纏めへのリンクをつけます。

斯様に考えて見やすいサイトを
目指しますので、
今後も宜しくお願い致します。




以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/12/11_記

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ルートヴィッヒ・E・ボルツマン_【原稿改定】

9/5時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します。

彼、ボルツマンの墓にはS=k LogWと書かれています。
ここでいうSとはエントロピーというパラメターで
事象の乱雑さを示します。
ボルツマンが生み出した概念です。

乱雑さは統計力学で温度T、容積V、圧力P等と関連して
ボルツマンの関係式として定式化されました。

彼の研究業績の中で特に関心をもつのは
原子論に関しての関わりです。
当時、観測に直接かからない原子は
色々な見方をされていました。
結果として
対立する考えが学会で生じていて
原子モデルを使うボルツマンと、
実証主義で理論を進めるマッハの間で論争が続きます。
そして、残念なことに晩年は精神障害に悩み、
自ら命を絶つという悲しい最期をとげてます。
彼はピアノが好きでした。




花を手向ける場所がありますよね。

posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

2020年12月10日

カメリー・オネス_【原稿改定】

9/5時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します。

【9/5の原稿です】

「ライデン大学実験物理学教授」この称号が
彼の人生をよく表しています。
生涯ライデン大学で教鞭をとり、
実験によってかってない世界を切り開きました。

特に温度を下げていく過程で
電子の振る舞いがどうなるか。
それに対しての回答として
超電導現象を示しています。
実験的に再現性のある現象として示す事で
さらなる理論の土台を築いたのです。

格子間を運動する電子が電気的性質、
熱特性的性質を温度変化に応じて
どう変えていくかに対して
異なる考えがあった時に物性を実験によって
明確にしたのです。
絶対零度では抵抗はゼロになりました。
予想した結果を出したのです。



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2020年12月09日

J・C・マクスウェル_【原稿改定】

9/4時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します。

【以下に9/4の原稿を残します】

電磁気学を確立しました。
マクスゥエルが場の理論の基礎を作りましたが、
電場と磁場の関係をマクスゥエル方程式
にまとめ上げ定式化をしたのです。
更には、直行する電場と磁場からなる「電磁波」
の関係を数式にあげ、その進行相度が
光速度となることを導きました。

当時の物理学者は多元的に現象を論じていて
マクスウェルも光学・熱力学で業績を残します。
電磁波が光学的に縦波・横波で議論されています。
現代では高校レベルの知識ですが
当時、説明するのは大変だったと思います。

マクスウェルの業績で個人的にもっとも
評価したいのは場の考えの確立です。
静的な意味での場と時系列で変化する
動的な意味での場は大きく違うと思えます。
マクスゥエルは後者の意味の場を
定式化して後の理論家達に道を示した
パイオニアでした。




こつこつポイントいかがですか?

posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

2020年12月08日

A・H・ルイ・フィゾー_1819年9月23日 〜 1896年9月18日



その名は正確には、アルマン・イッポリート・
ルイ・フィゾー(Armand Hippolyte Louis Fizeau,
1819年9月23日 - 1896年9月18日)
地上で光速度を始めて測定した人で、
フランス人です。





フィゾーの実験として有名な物は1849年に回転歯車を使った公開実験です。明快に原理を示して光速度を数値化しました。

フィゾーの示した数値が重要なのは、後に明らかになっていきますが、光が電気と関係してるからです。後にマクスウェルが電磁気学をまとめる中で、自分の理論での計算結果とフィゾーの示した値がとても近い事実に気付きます。それはきっと、今風に言えば、電磁波の伝播速度が光速度に近い、という事実なのでしょう。

また、フィゾーはドップラー効果も予見してます。この言葉はスマホ入力で一発変換されていますが、フィゾー等が確かにしていった概念なのです。

フィゾーが実験を繰り返す困難は測り知れません。当時は未だレーザー光線も無かったでしょうし、当然デジタルのカウンター等も無いので、計測系のイメージだけでも大変だったでしょう。





私が何より興味深いのはフィゾーの
頭の中にある理論的な考察が
閃きによって実験に昇華するプロセスです。
フィゾーは理論的な原理を優れた実験で
わかり易く示したと思います。





以上、間違い・ご意見は
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【舞台別のご紹介】


2020/12/01_初版投稿
2021/01/07_改定投稿





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2020年12月07日

トピック 有馬朗人死去

先程、発表になったトピックです。
東大学長を務めた有馬朗人氏が
亡くなりました。享年90歳。
謹んでお悔やみを申し上げます。

有馬朗人は原子核物理学の世界で
貢献をしていて、特に
有馬・堀江理論(配位混合の理論)、
相互作用するボゾン模型の提唱、
クラスター模型への貢献、
の3つの業績が有名です。

また、政界においても活躍され、
特にゆとり教育の推奨が知られています。
有馬朗人が勧めたかった当初の教育は
世界史と日本史を共に学ぶ事で
知識をより豊かに身に着けていく試み
であって、現場に話が伝わった時点では
全く別の解釈として伝わっていた。
有馬朗人はその解釈を非常に
遺憾に感じて居たようです。

他にも色々と語りたかったでしょう。
ご冥福をお祈りします。

【トピックス】JAXAのカプセル帰還

今日は日経新聞の記事から
トピックスをお届けします。
JAXAが打ち上げた小惑星探査機
はやぶさが2月6日未明に天体から
物資を持ち帰りました。



カプセルを切り離したはやぶさ2は
別の惑星探査のミッションに旅立って
います。約350人の観客を集め
相模原市淵野辺にあるJAXAでは
パブリックビューが開かれて
いたようです。



相模原市のJAXAはもともと東大の
付属機関が前進でペンシルロケット
を飛ばした時期から衛星研究の拠点
です。そこでのメンバーが喜んで
いたようです。





また筑波のJAXAはNASDAの流れ、
調布のJAXAは航空研の流れですが、
その話は別の機会に譲ります。

先ずは、おめでとうございます。





以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。

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2020/12/07_記





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マイケル・ファラデー_【原稿改定】



【9/3時点での原稿を残します。】
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します。



【以下に9/3の原稿を残します】

電磁力学の礎を築きました。
近接作用・変動した時の作用などを一つ一つ
実験で明らかにしていきます。優れた実験家でした。

伝記を読んでいて思うのは、ファラデーはとても
庶民的な感覚を持っていたということです。
人々がどう思っているか、というより感じているかを
他の科学者よりも共感できる点が多いかと思います。
一緒にお酒でも飲めたら色々語れるでしょう。

子供向けにクリスマスレクチャーをしたり、
ろうそくの科学をひも解いてみたり、
一人で考えを極めていく他に
社会全体の意識を高めていこうとしていた
と感じられます。私もこの点は見習いたいです。

晩年、ナイトの称号を辞退し、クリミア戦争時に
兵器開発の依頼に対して言葉を残していますので
結びの言葉と致します。
私はファラデーの感性が好きです。

(兵器を)「作ることは容易だ。
しかし絶対に手を貸さない!」
(Wikipediaより引用)




無料レッスンいかがですか?

posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

2020年12月06日

舞台別のご案内【11/1の原稿】

以下に11/1の原稿を残します。そして本日、

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します。

古今東西、様々な科学の議論がなされてきましたが
このホームページでもそろそろ議論の場所を意識したい
と考えました。科学技術が世界共通の財産である、
と言いたいですね。いつまでも。

<国別>

アメリカイェール大_UCB_等】
イギリス【ケンブリッジ大_オックスフォード大_等】
イタリア
【ボローニャ大学、パドヴァ大学、等】
オーストリア_
オランダ【ライデン大_デルフト工科大_等】
ドイツ【プランク研究所_等】
デンマーク【コペンハーゲン大学・ボーア研究所_等】
日本東京大学_京都大学_等】
フランス【ソルボンヌ大学、等】

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2020/11/01_初稿投稿
2020/12/05_改定投稿





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posted by コウジ at 10:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 科学史

イギリス関係の人々

物理学はヨーロッパ全域で議論されていましたが、
特にイギリスで培われた部分が大きいです。
誰しもが認める偉大な議論の歴史があります。
今回、列挙出来て少し嬉しいです。ご覧下さい。


アイザック・バロー
_1630年10月 ~ 1677年5月4日


アイザック・ニュートン
_Newton_1642年12月25日 ~ 1727年3月20日


コリン・マクローリン
_1698年2月 ~ 1746年6月14日


ウィリアム・トムソン
_1824年6月26日 ~ 1907年12月17日


第3代レイリー男爵_J・W・ストラット
_1842年11月12日 ~ 1919年6月30日


初代のネルソン卿__ラザフォード男爵_アーネスト・ラザフォード_

Ernest Rutherford, 1st Baron Rutherford of Nelson, OM, FRS,
_1871年8月30日 ~ 1937年10月19日


ニールス・ボーア
_1885年10月7日 ~ 1962年11月18日【イギリスへ留学】


ジェームズ・チャドウィック
_1891年10月20日 ~ 1974年7月24日【イギリスへ留学】


アーサー・コンプトン
_1892年9月10日 ~ 1962年3月15日


ポール・ディラック
_ 1902年8月8日 ~ 1984年10月20日


ハンス・A・ベーテ
_1906年7月2日 ~ 2005年3月6日【イギリスへ亡命】


B・D・ジョゼフソン
(Brian David Josephson, 1940年1月4日〜 )


スティーヴン・W・ホーキング
_1942年1月8日 ~ 2018年3月14日


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2020/12/06_初稿投稿
2021/01/04_改定投稿





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posted by コウジ at 10:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 科学史

アイザック・ニュートン_【原稿改定】



以下に9/2時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します。

【以下に9/2の原稿を残します。】

パラダイムシフトを語るうえで外せないのがこのニュートンでしょう。
それまでの常識を覆しました。

力が相互作用であって小さなリンゴと大きな地球が作用する際に
全ての物質が相互に作用して、互いに引き合う事象を示しました。法則として体系化しました。
その数学的定式化において洗練された形を残し、
その後の発展に大きな基礎を築いています。

のちにマッハが「力学の哲学的批判史」の中で
ニュートンの空間概念を批判しますが、
それもニュートンの確立した空間概念、慣性の法則、などがあって
初めて気づき得る話なのです。

その他、ニュートンの業績は光学、微積分学、と尽きませんが
空間・時間・力を明確に定式化した点が後世の我々にとって大きいと思えます。
人々の物の考え方を大きく変えました。





ダイソン・私も使ってます♪

















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2020/11/21
_記





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2020年12月05日

オーストリア関係の人々

オーストリア関連の人物を纏めました。
量子力学を巡る科学史の観点から考えた時に
ボルツマンの没年がアインシュタインの革新的
論文発表が行われた「奇跡の年」に近い事実に気づきます。
そして、ボルツマンの薫陶を受けたエーレンフェストが
量子力学と統計力学を、より強く結びつけたのです。

逆説的ですが、現代の我々にとっては、
関連した全てのイベントを現場で理解出来ない故に
現代の理解が本質の理解に繋がると感じました。
オーストリアを中心に考えた時に、
個々の物理学者の視点に立って、
ミクロの世界を理解していく作業を追いかけていく作業は、
物理を学んでいく初学者にとって有益な作業となる事でしょう。きっと。

そしてその後に、シュレディンガーが
波動力学を形にするのです。
そこには哲学的とも言える考察があった気がします。

では、皆さんの視点でご覧下さい。

エルンスト・マッハ_ 1838年2月18日 ~ 1916年2月19日

ルートヴィッヒ・E・ボルツマン_Ludwig Eduard Boltzmann_1844年2月20日 〜 1906年9月5日

ニコラ・テスラ_1856年7月10日 ~ 1943年1月7日

ポール・エーレンフェスト_1880年1月18日 ~ 1933年9月25日

シュレディンガー_1887年8月12日 ~ 1961年1月4日


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2020/12/05_記





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R・P・ファインマン_【原稿改定】

以下に9/1時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します。

【以下に9/1の原稿を残します。ご参考にして下さい】

学生時代に使っていた教科書の著者でした。
量子電磁気学の業績で朝永振一郎とともに
ノーベル賞を受賞しました。

他、真っ先に思い出すのは経路積分で
数学的な定式化が驚異的に思えました。

また、素粒子の反応を模式化した
ファインマンダイアグラムは視覚的に、
直感的に秀逸です。本当に天才の技に見えました。

そういえば、アインシュタインとともに
原爆開発の計画であるマンハッタン計画に参画しています。




posted by コウジ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 原稿改定

2020年12月04日

イタリア関係の人々

古代より地中海気質を受け継ぎ、
独自のラテン系文化を作り上げてきたイタリアですが、
物理学関係、数学関係でも多彩な人材を育んでいます。
何よりも歴史ある国ですね。生誕順にご紹介します。


ジョルダーノ・ブルーノ
_1548年 ~ 1600年2月17日


ガリレオ・ガリレイ
_1564年2月15日 ~ 1642年1月8日


ロバート・ボイル
_1627年1月25日 ~ 1691年12月31日


アントニオ・ヴォルタ
_1745年2月18日 ~ 1827年3月5日


エンリコ・フェルミ
_1901年9月29日 ~ 1954年11月28日


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2020/12/04_記





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posted by コウジ at 19:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 科学史

フランス関係の人々

今回、時間が出来たのでフランス関係の人々を纏めました。
フランス人として意識していませんでたが、
蒼々たるメンバーですね。年代順にご覧下さい。
【最新の原稿は随時更新していきます。】


ブレーズ・パスカル
_1623年6月19日 ~ 1662年8月19日


ロバート・ボイル
_1627年1月25日 ~ 1691年12月31日

ダニエル・ベルヌーイ_1700年2月8日 ~ 1782年3月17日


ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ
_1736年1月25日 ~ 1813年4月10日


シャルル・ド・クーロン
_1736年6月14日 ~ 1806年8月23

ポール・ランジュヴァン (Paul Langevin、1872年1月23日 – 1946年12月19日

アンドレ=マリ・アンペール_André-Marie Ampère, 1775年1月20日 - 1836年6月10日


ルイ・コーシー
_1789年8月21日 ~ 1857年5月23日

N・L・S・カルノー_1796年6月1日 ~ 1832年8月24日


レオン・フーコー
_Foucault_1819年9月18日 ~ 1868年2月11日


マリ・キュリー
_1867年11月7日 ~ 1934年7月4日


ルイ・ド・ブロイ
_1892年8月15日~1987年3月19日


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時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。

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2020/12/04_記





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posted by コウジ at 12:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 科学史

ニールス・ボーア_【原稿改定】

以下に8/31時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します。

【8/31の時点での原稿です】

前期量子論において先駆的な理論を提供し続けました。

当時は不完全であった原子モデルを洗練させて、
原子模型を提唱します。そもそも光学顕微鏡レベルで
見えない世界に対して考察を止めることなく
量子力学を確立していきます。

その中でも本質的なボーアの量子条件を用いて
様々な現象を説明してみせます。
長さスケールで10の‐23乗のスケールでの議論では
エネルギーなどの観測値がとびとびの値を示す事象を
その世界での本質的な性質であると示しました
原子半径、磁気的性質も現代では、
その形式で考える法がわかりやすい訳です。




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2020年12月03日

マックス・ボルン_【原稿改定】

以下に8/30時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します。

【以下に8/30の原稿を残します】

ユダヤ系ドイツ人故、戦時は大変苦労しています。
何より前期量子論において確率解釈を提唱しています。

本国で教授職を解雇されたりしているので
反戦の姿勢、非核の姿勢を貫き
ラッセル=アインシュタイン宣言にも参加しています。
この点ではドイツに残り原爆開発に参加していた
ハイゼンベルグとは全く別の人生を歩んでいます。
ちなみに、ハイゼンベルグはボルンの門下生です。

また、彼の解釈で有名なやり取りがあります。
【出典はWikipedeaから:
アインシュタインの有名な言葉「彼(神)はサイコロを遊びをしない」
は1926年にボルンに当てた手紙の中で述べられたものである。】
確率解釈は人類の思想にとって大きなパラダイムシフトです。

また、孫の一人に歌手であるオリヴィア・ニュートン・ジョン
が居ました。私も今回原稿を書く際に分かったのですが意外です。

関連URL(YouTubeへ:)
https://www.youtube.com/watch?v=E-JGTk_WM1k

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2020年12月02日

レオン・フーコー_【原稿改定】

以下に8/29時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定致します。

【以下に8/29の原稿を残します】

フーコーの振り子で有名です。
1851年のパンテオンの公開実験で
仮説を実証してみせます。

私が何より興味深いのはフーコーの
頭の中にある理論的な考察が
閃きによって実験に昇華するプロセスです。

ありきたりですが、我が子の無限の
可能性を伸ばしてあげたい。
とも考えています。:^)




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2020年12月01日

江崎玲於奈_【原稿改定】

以下に8/19時点での原稿を残します。
ご参考として下さい。

リンクのついているもともとの原稿
は改定しません。
リンクのみを改定します。江崎玲於奈氏はご存命中なので
記事の内容は改定しません。関連諸氏が利益・不利益を受ける
可能性があるので、これ以上の言及は差し控えます。

ご承知置き下さい。


【以下は8/27時点での原稿です】

格安ドメイン名取得サービス『エックスドメイン』


江崎玲於奈は先の世界大戦時代の
物理学者です。電子デバイスを発明して
グスタフ国王からノーベル賞を受けました。
量子力学を深く理解し原理を応用しています。

江崎玲於奈は学者という立場で活躍した後、
筑波大学等で教育者として活躍しています。
第2通目の人生をしっかり歩んでいて、
とても尊敬出来ます。






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【学術論文書く時は英語必須です】
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