アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索

メンズエステサロン
【エルセーヌMEN】

メタボリック対策やヒゲ脱毛など、男の魅力を引き出すエステ体験実施中!
<< 2023年05月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
最新記事
最新コメント

2023年05月31日

ジョン・ドルトン
John Dalton‗5/31改訂【科学的アプローチで原子論を提唱】

こんにちはコウジです!
「ドルトン」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】




【スポンサーリンク】
【1766年9月6日~1844年7月27日】

_

先ずドルトンを検索で調べると同名の学校法人が出てきますが、
本記事は英国生まれの物理学者にして化学者である人物に関する記載です。

_

若き日のドルトン



ドルトンは若い時代に大変苦労をしています。



先ず、家族がクエーカー教徒であった為に

大学に入れませんでした。当時の英国は

イングランド国教会に属していない宗派は

差別を受けており、ドルトンはクエーカー教徒

だという理由で大学に入る事が出来なかったのです。

_

その業績を考えてみると

何より原子説の提唱が大きいです。

_

ドルトンが研究していた18世紀初頭の

物理学会では「物質の根源」を考えるにあたり

直接原子核に相互作用を与えて結果を

考察する理論的な土壌は乏しかったのです。

_

実際にドルトンは化学的な反応の

側面からアプローチしていき、今でいう

「倍数比例の法則」の論拠を考えていく中で、

その考え方が如何にして成立するかを考え、

反応に関わる物質の質量比率を考えた帰結として、

原子を想定したのです。そういった考察の中では

原子の大きさが主たる関心事でなくても良いのです。


ドルトンの業績


後の原子核反応における考察では

反応に関わる距離や、反応に無関係な距離

が大事になってくるのです。

_

それに反してドルトンの時代の感心事

の中心は反応自体がいかにして想定できるかであって、

純度を高めた物質の集団同士が反応して

別の物質に変質するかという現象が感心事なのです。

_



また、定量的評価での「ジュール」という物理量

の導入でもドルトンは大きな仕事を残しています。

また、ドルトン自身が色覚異常の人だった為に

色覚の研究でも仕事を残していて

「ドルトニズム (Daltonism)」

という言葉が今でも使われています。





【スポンサーリンク】


以上、間違いやご意見があれば以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが、必ずお答えします。
nowkouji226@gmail.com


2022/01/07_初回投稿
2023/05/31_改定投稿


(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
イギリス関係
ケンブリッジ関連
電磁気関係


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


【2022年1月時点での対応英訳】


Dalton of the young day


Dalton has a hard time very much in his younger days.


At first he was not able to enter the university because his family was a Quaker. In the U.K. at the time, the denomination which did not belong to an English national church received discrimination, and Dalton was not able to enter the university for a reason to be a Quaker.
_
A proposal of the atomism is big above all when I think about the achievements.
_
The theoretical soil which gave an atomic nucleus interaction directly on thinking about the root of the material in Physical Society of the early 19th century when Dalton studied it, and examined a result was poor.
_
He actually assumed an atom as the conclusion that thought about the mass ratio of the material concerned with a reaction while he thought about whether the way of thinking did how it, and it was established while Dalton approached it from the side of the chemical reaction and thought about a ground of "the law of multiple proportion" to say in now. The size of the atom does not need to be main interest in such consideration, too.


Business results of Dalton
Distance about reaction and the distance that is unrelated to a reaction become important for the consideration in the later nuclear reaction.
_
I meet you how the center of the feeling mind of the times of Dalton can assume reaction itself against it, and a phenomenon whether the groups of the material which raised purity react, and changes in quality to a different material is feeling mind.
_


In addition, Dalton leaves big work by the introduction of the physical quantity called "Joule" by the quantitative evaluation. In addition, because Dalton oneself was a color-blind person, even a study of the sense of color leaves work unfinished, and the word "ドルトニズム (Daltonism)" is still used.

2023年05月30日

ジャック・C・シャルル
5/30改訂【温度と体積の関係を定式化|水素の気球で有人飛行】

こんにちはコウジです!
「シャルル」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】


 
【スポンサーリンク】
【1746年11月12日生まれ ~ 1823年4月7日没】



シャルルの生い立ち


その名を全て書き下すと、


ジャック・アレクサンドル・セザール・シャルル
:Jacques Alexandre César Charles


カールという名前をフランス風に読むと
シャルルとなるそうです。


また、セザールって
ミドル・ネームもフランス風だったのですね。


物理学で出てくるシャルルは
フランスに生まれた発明家にして物理学者
にして数学者、そして気球乗りです。


物理学者としては
ボイル・シャルルの法則で有名ですね。


それと同時に水素を使った気球で
初めて飛行した人なのです。



シャルルの研究業績


シャルルは
@「ボイルの法則」や、
Aキャヴェンディッシュの仕事の研究や
BJ・ブラックら当時最新の仕事を研究していき、
「水素の物性」に着目し続けました。


水素の比重が空気に比べて、とても軽いのでシャルルなりの発想で考え、水素を気球に応用出来ると考えたのです。「水素の比重が軽い」という事実を「水素の塊は浮かぶだろう」と考えていったのです。そこでシャルルはプロトタイプの気球を設計しロベール兄弟に製作を依頼しました。パリの工房で気球を作り始めたのです。材料としてはゴムをテレピン油に溶かし、絹のシートにテレピン油を塗った物を使っています。



シャルルの有名な実験


1783年8月27日にシャルルとロベール兄弟は、今のエッフェル塔がある場所で世界初の水素入り気球の飛行試験を行いました。その場所には御爺さんだったベンジャミン・フランクリンもアメリカから見に来ていたそうです。そして、ベンジャミンフランクリンはその年の暮れには別の気球を使って有人気球の初飛行を行っています。


この時には「王家からルイ・フィリップ2世が率いた一団が見ていて、着陸時に馬で気球を追いかけ、シャルルと同乗していたロベールが気球から降りる際に気球が再び浮かないよう押さえつけた」、というエピソードが残っています。【カッコ内の引用はwikipediaから】
まさに国中の人が注目していたイベントだったのですね。


40万人がシャルルの初飛行を見たと言われています。特にプロジェクト資金集めとして募金を募ったのですが、応じた数百人は特等席で離陸を見れたそうです。その席にはアメリカ合衆国大使としてのベンジャミン・フランクリンもいました。この時代から挑戦を通じて国際交流が実現していたのですね。また、シャルルの尊敬していたジョセフ・モンゴルフィエも居たそうです。


そうした冒険家が残した法則がシャルルの法則です。
V1/T1 = V2/T2 として簡単化出来ますが、
異種気体の体積と温度の関係を簡単に
表していますね。実験、経験から事実が
導き出される良い例だといえます。



スポンサーリンク】




以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
この頃は全て返信できていませんが
頂いたメールは全て見ています。
適時、返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2021/01/22_初稿投稿
2023/05/30_原稿改定


(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
フランス関連のご紹介
熱統計関連のご紹介
力学関係のご紹介


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


【2021年8月時点での対応英訳】



About sharles 


If you write down all the names, Jacques Alexandre César Charles


If you read the name Karl in a French style, it will be Charles. Also, the middle name of Cesar was French.



Charles's work


Charles, who appears in physics, is an inventor, physicist, mathematician, and balloonist born in France. He is famous as a physicist for Boyle-Charles' law. At the same time, he was the first person to fly on a hydrogen balloon.


Charles is actually


@ "Boyle's Law" and


A Research on Cavendish's work


B J. Black and others researched the latest work at that time,


He continued to focus on the "physical characteristics of hydrogen."


He thought that the specific density was much lighter than that of air, so he thought of it as Charles's idea and could apply it to balloons. So Charles designed a prototype balloon and asked the Robert brothers to make it. He started making balloons in a workshop in Paris. The material used is rubber dissolved in turpentine and coated on a silk sheet.



Charles's famous experiment


On August 27, 1783, the Charles and Robert brothers conducted the world's first flight test of a hydrogen-containing balloon at the location of the current Eiffel Tower. At that time, his grandfather Benjamin Franklin also came to see him from the United States. And Benjamin Franklin made his first flight of a popular balloon at the end of the year using another balloon.


At this time, "a group led by Louis Philippe II was watching from the royal family, chasing the balloon with a horse at the time of landing, and holding down the balloon so that it would not float again when Robert, who was on board with Charles, got off the balloon." The episode remains. [Quotation in parentheses is from wikipedia]
It was an event that people all over the country were paying attention to.


It is said that 400,000 people saw Charles' first flight. In particular, we raised funds to raise funds for the project, but it seems that hundreds of people who responded were able to see takeoff in the special seats. There was also Benjamin Franklin as the United States Ambassador to the seat. From this era, international exchange has been realized through challenges. There was also Joseph Montgolfier, whom Charles respected.


The law left by such adventurers is Charles's law. It can be simplified as V1 / T1 = V2 / T2, but it simply shows the relationship between the volume and temperature of different gases. I think this is a good example where facts can be derived from experiments and experiences.

2023年05月29日

A・ヴォルタ 
5/29改訂【実験的で静電容量を観測し電荷と電位を明確に区別】

こんにちはコウジです!
「ヴォルタ」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】



 ボルタについて


ボルタの名は正確には


アレッサンドロ・ジュゼッペ・アントニオ・


アナスタージオ・ヴォルタ伯爵


:Il Conte Alessandro Giuseppe Antonio Anastasio Volta_


という長い名前ですが日本では単純に「ボルタ」


と表現しています。以後この表記を使います。


ボルタはイタリアに生まれ物理学の研究者となります。


 

 ボルタの業績


特筆すべきは実験的に静電容量を観測し、


電荷と電位を明確に分けて議論する土壌を作りました。


初学者には混同されがちですが
電位と電圧(電位差)は明確に
異なる概念です。アースして低電位側を
地球の地面と同じ電位状態にした時に
完全に両者は一致しますが通常は異なります。


電位は場合に応じて変動して当然の物理量です。


電荷の蓄積である電位をボルタは定量的に表現し、
電位の差を使って電圧(電位差)を明確に
出来る様にしました。その功績は電位差の
単位であるボルトとして残っています。


ボルタはまた、電池の発明でも成果を残しました。
世界初の電気貯蔵装置の開発です。
無論、初期の電池には
危険性・貯蔵量・電圧の持続特性
といった点で現代の物と見劣り
するでしょうが電気を貯めて持ち運び
する発想は素晴らしいものです。
現代でも発展を続ける大事な技術です。



ボルタとナポレオン 


最後に、ボルタはナポレオンが大好きでした。
逆にナポレオンもボルタに敬意を示します。
そんな関係ですから、ナポレオンの在位中に
ボルタは伯爵の称号を与えられています。





テックアカデミー無料メンター相談
【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/10/01_初稿投稿
2023/05/29_改定投稿


旧サイトでのご紹介
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
イタリア関係のご紹介
力学関係のご紹介

電磁気学関係


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


【2021/8/14時点での対応英】



About Volta


The name of Volta is exactly the long name of Alessandro Giuseppe Antonio Anastasio Volta_: Il Conte , but in Japan it is simply expressed as "Volta". We will use this notation hereafter. Volta was born in Italy and became a physics researcher.



Job of Volta


Of particular note is the experimental observation of capacitance and the creation of a soil for discussions that clearly separate charges and potentials. Often confused by his beginners


Potential and voltage (potential difference) are distinctly different concepts. When grounded and the low potential side is in the same potential state as the earth's ground,They are exactly the same, but usually different. The electric potential fluctuates depending on the case and is a natural physical quantity.


The potential, which is the accumulation of electric charge, is quantitatively expressed, and the voltage (potential difference) can be clarified using the difference in potential. The achievement remains as a bolt, which is a unit of potential difference.


Volta has also been successful in inventing batteries.
He is the development of the world's first electric storage device.
Of course, for early batteries
Hazard, storage capacity, and voltage persistence characteristics
Inferior to modern ones in that
You will do, but you can store electricity and carry it around.
His ideas he makes are wonderful.
It is an important technology that continues to develop even today.



Volta and Napoleon


Lastly,
Volta loved Napoleon.
On the contrary, Napoleon also pays homage to Volta.
Because they are such two people, during Napoleon's reign
Volta has been given the title of Count.



 

2023年05月28日

シャルル・ド・クーロン
【「ねじり天秤」での実験で微細な力を考察】

こんにちはコウジです!
「クーロン」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1736年6月14日生まれ ~ 1806年8月23没】



 クーロンの人物像


クーロンの名前は正確には


シャルル=オーギュスタン・ド・クーロン


(Charles-Augustin de Coulomb)


と記載されます。フランス人です。調べてみると


もともとクーロンは測量の仕事などもしていました。


時代柄、色々な分野で功績を残しています。


 

 クーロンの研究生活


まず、力学的な側面では摩擦に関する研究があります。


とても意外な側面だと思えました。電磁気学で著名なクーロンが


表面状態の考察をしているのです。


電磁気の担い手はとても微細な存在、電子であるのに反して


摩擦現象はそれら微細粒子が物凄い数集まって


相互作用の複雑な運動した結果として論じられる現象なのです。


後述する「ねじり天秤」のデリケートさとは結びつきませんでした。


 

クーロンは特定の機械が動く時点を考察しています。


「部品間での摩擦とロープの張力」を考慮して


機械全体での動きを論じています。


詳細を追いかけたらきっと


現代の我々から見ても興味深い筈です。


工学的な側面と表面物性からアプローチして


細かく考察すると面白い筈です。そして何より、


当時の視点からは革新的な研究だろうと思えます。


 

 クーロンと電磁気学


電磁気的な側面では「ねじり天秤」での実験が有名です。


微細な力を検知出来るような仕組みで導体表面


での帯電状態を計測したのです。生活の視点では、


力学は目で見て分かりやすく、電磁力学は目で見て


分かり辛いと言えます。それだから、今でも


静電気でびっくりしたり、手品の種として


電気的性質が使われたりします。


当然、今でも高電圧の配線は子供の手の


届かない所に敷設され、運用されているのです。


クーロンは結果的に電荷に働く力は距離の自乗


に反比例すると示しました。こうした電磁気学における


業績が広く認められ、クーロンの名前は電荷の単位


として今も使われています。クーロンの考えは


後の電磁気学、長い目で見れば


場の理論につながっているのです。


〆 




テックアカデミー無料メンター相談
【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
問題点に対しては適時、
返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/09/29_初稿投稿
2023/05/28_改定投稿


(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
フランス関連のご紹介
電磁気学関係
量子力学関係


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


【2021年8月時点での対応英訳】



About Coulomb


The name of Coulomb is written exactly as Charles-Augustin de Coulomb. He is french When I looked it up, Coulomb was also doing surveying work. He has made achievements in various fields due to his time.



Coulomb job


First, on the mechanical side, there is research on friction. This fact seemed to be a very surprising aspect. Coulomb, a well-known in electromagnetism, considers the surface state.


The bearer of electromagnetism is a very fine existence, an electron, whereas the friction phenomenon is a phenomenon that is discussed as a result of the complicated movement of the interaction by gathering a tremendous number of these fine particles. It was not related to the delicacy of the "torsion scales" described later.


Coulomb considers when a particular machine will move. He discusses movement throughout the machine, taking into account "friction between parts and rope tension". If he chases the details, it will surely be interesting to us today. It should be interesting to approach him from the engineering side and the surface physical characteristics and consider it in detail. And above all, from the perspective of those days, it seems to be an innovative research.



 Electric side of Colomb job


On the electromagnetic side, experiments with "torsion scales" are famous. He measured the state of charge on the surface of the conductor with a mechanism that could detect minute forces. From the perspective of life, mechanics is easy to understand visually, and electromagnetic dynamics is hard to understand visually. Therefore, they are still surprised by static electricity and electrical properties are used as a seed for magic tricks.


Of course, high-voltage wiring is still laid and operated out of the reach of children. Coulomb eventually showed that the force acting on the charge is inversely proportional to the square of the distance. His work in electromagnetism has been widely recognized, and the Coulomb name is still used as a unit of charge. Coulomb's ideas led to later electromagnetism, the theory of fields in the long run.

2023年05月27日

J・L・ラグランジュ
5/27改訂【変分の原理を考案|解析力学を発展】

こんにちはコウジです!
「ラグランジュ」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1736年1月25日生まれ ~ 1813年4月10日没】


 

その名を全て書き下すと、


ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ


Joseph-Louis Lagrange



ラグランジュの生きた時代


ラグランジュはイタリアのトリノで生まれ


プロイセン王国・フランスで活躍しました。


そんな彼の生きた人生は革命の起きていた時代でした。


同時代のラボエジェが処刑された事に際し
ラグランジュは何故自身が生き延びたか
自問自答したと言われています。
何故ならラグランジュはマリー・アントワネット
先生を務めていたからです。


 

ラグランジュの業績 


学問の世界でラグランジュは多大な業績を残しています。


物理学者というより数学者としての仕事に思えてしまいます。


力学体系の整理をしてラグランジュ形式と言われる


理解を進めています。私も学生時代に


ラグランユアンと呼ぶ関係を多用しました。


解析力学と呼ばれる分野で、


ラグランジュ方程式につながります。


後の数論につながる議論もしていますし、


天体に関する研究等もしています。


 

 考え方の有効性


ラグランジュの解析的な考えが有効だったのは


各種物理量を一般化して変分と呼ばれる類の


数学的な形式につながるからです。


後の量子力学はニュートンの作った微積分


だけではなく物理量の関係を


ラグランジュの使ったような関係で表現します。


つまり、


「ラグランジュアン」と呼ばれる数学形式を使います。


また、ラグランジュはエネルギー保存則から


最少作用の原理を導きその考えは力学に留まらずに


電磁気学・量子力学でも使われています。


こういった定式化でのパラダイムシフトが


後の体系に不可欠です。


 

ラグランジュの未定乗数法や


定式化されたラグランジュアン


は誰しもが認める見事なものです。


そして、ラグランジュの名は


今でもエッフェル塔に刻まれています。


彼の残した仕事と栄誉と共に。




テックアカデミー無料メンター相談
【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
次のアドレスまでお願いします。
最近は返信出来ていませんが
全てのメールを読んでいます。
適時返信のうえ改定を致しします。


nowkouji226@gmail.com


2020/10/02_初稿投稿
2023/05/27_改定投稿


(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
フランス関連のご紹介
熱統計関連のご紹介
力学関係のご紹介


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


(2021年8月時点での対応英訳)


If you write down all the names,


Joseph-Louis Lagrange



The era of Lagrange's life


Lagrange was born in Turin, Italy and was active in the Kingdom of Prussia, France. His life was a revolutionary era.


When his contemporary Labo Eger was executed, Lagrange might have asked himself why he survived.


Because he was a teacher of Marie Antoinette.



Lagrange's achievements


In the academic world, Lagrange has made great achievements. He seems more like his job as a mathematician than as a physicist.


He organizes the mechanical system and promotes the understanding of what is called the Lagrangian form. I also used a lot of relationships called Raglan Yuan when I was a student.


In a field called analytical mechanics, it leads to the Lagrange equation. We are also discussing things that will lead to later number theory, and we are also doing research on celestial bodies.



Effectiveness of thinking


Lagrange's analytical idea was effective because it generalizes various physical quantities and leads to a kind of mathematical form called variation.


Later quantum mechanics expresses not only the calculus made by Newton but also the relationship of physical quantities with the relationship used by Lagrange. In other words, it uses a mathematical form called "La Grand Juan".
In addition, Lagrange derives the principle of minimum action from the law of conservation of energy, and the idea is used not only in mechanics but also in electromagnetism and quantum mechanics. A paradigm shift in these formulations is essential for later systems.


The Lagrange's undetermined multiplier method and the formalized Lagrange Jean are undisputed and stunning.


And the name of Lagrange is still engraved on the Eiffel Tower. With the work and honor he left behind.


2023年05月26日

ジェームズ・ワット
5/26改訂【産業革命時に蒸気機関を改良しフライフォイールを発明】

こんにちはコウジです!
「ワット」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】




【スポンサーリンク】
【1736年1月19日生まれ ~ 1819年8月25日没】




 ワットとはどんな人でしょう


ワットは蒸気機関の改良を通じて産業革命に
大きな成果を残したイギリスの偉人です。

イギリスにおいて産業革命が起きて、
年4回の耕作が行われ始めていき、多くの
農業従事者が自営業から雇われ農夫となったり、
植民地からの労働力を含めて人が大きく動き、
工場稼働率が高まっていきます。

急激に市場が拡大して産業が大きく変化していくのです。
そうした時代に蒸気機関や紡績機に対しての
技術開発に対する研究の重要性は増していきました。

 

そんな中、ワットはグラスゴー大学でジョゼフ・ブラックら

の協力を得て工房を作り作業を続けます。

蒸気機関を対象に研鑽を続けます。

 ワットによる蒸気機関の開発


ワットは具体的な改良には蒸気機関における凝縮器の設計をします。具体的には排熱効率を見直すことによってロスを減らして出力効率を大きく高めたのです。当初の設計でシリンダー部での熱の出入りが非効率である事情に着目していて、そこを改良した訳です。ポールトンという資金面での協力者も得て、ワットは事業化に成功して成功を修めます。

ワットが最終的に成功を収めた話を初めにしましたが、

実際の所は製品化までに大きな道のりがありました。

当時の加治屋さん達は今と比べて精度の低い生産過程

を当たり前だと思っていたので、ミリ単位

(場合によっては更に高精度)の加工を

現在考えるような誤差範囲でこなしていく事は

出来なかったのです。蒸気機関の性質上、

ピストンとシリンダー間の寸法誤差は

大きく性能を損ねます。丸い形で摺動方向に

延びていくピストンとシリンダーの精度を

上げていく事は大変な作業だった筈です。最終的には

大砲製造に向けて開発された「精密、中ぐり技術」

を使い製造していきます。また一方で、ワットはこれらの

製造に関わる技術に対しての特許習得にも

配慮しなければなりませんでした。

そういった創意工夫を重ねる中でワットは

関連会社の仕事として「鉱山の揚水機械」

の仕事を受けます。それは大変大きなもので、

直径127センチメートルのシリンダーをもった

7メートル以上の大きさの機械でした。

あまりに大きいので専用の建屋を建てて

運営していたそうです。その後、

機械に色々な改良を加えていきます。

益々効率的な機械になっていったのです。

 そのほかのワットの業績


現代の自動車のエンジンで当たり前に使われている、フライホイールもワットの発明です。回転ムラを無くして機械を円滑に動作させることで動きの効率を上げて振動を抑え、耐久性を向上させるのです。

何より、

ワットはそうした仕事の中でエネルギーの定式化を進め

力(Newton)の概念から仕事量(Watt)の概念を発展させました。

多くの人々から尊敬を受けました。考え抜いた
討論をして自分の見識を広げていった人でした。
近年、イギリスのお札に肖像画が用いられています。


【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近は全て返信出来てませんが
必要箇所は適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2021/07/07_初回投稿
2023/05/26_原稿改定


旧舞台別まとめ
舞台別の纏め
時代別(順)のご紹介
イギリス関係のご紹介
力学関係のご紹介
熱統計関連のご紹介


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


 

(2021/年8月時点での対応英訳)

What kind of person is Watt?


Watt is a great British man who has made great strides in the Industrial Revolution through the improvement of steam engines.

Due to the Industrial Revolution in Britain, four farms are cultivated a year, farmers are hired from self-employment to become farmers, people including labor from the colony move significantly, and the factory utilization rate increases. In the meantime, the market will expand rapidly and the industry will change drastically.

In that era, the importance of research on technological development for steam engines and spinning machines increased.

Meanwhile, Watt continues his work at the University of Glasgow with the help of Joseph Black and others to create a workshop. He continues his studies on steam engines.

Development of steam engine by Watt


As a concrete improvement, in the design of the condenser in the steam engine, Watt reduced the loss and greatly increased the output efficiency by reviewing the exhaust heat efficiency. His original design focused on the inefficiency of heat in and out of the cylinder, which was improved. With the help of Paulton, a financial collaborator, Watt succeeds in commercializing it.

We started with the story of Watt's ultimate success, but in reality there was a big road to commercialization.

At that time, Kajiya and others took it for granted that the production process was less accurate than it is now, so it was possible to handle machining in millimeters (or even higher precision in some cases) within the margin of error that we are currently thinking about. I didn't. Due to the nature of the steam engine, dimensional errors between the piston and cylinder will significantly impair performance. It must have been a difficult task to improve the accuracy of the piston and cylinder, which have a round shape and extend in the sliding direction. in the end

We will manufacture using the precision and boring technology developed for cannon manufacturing. On the other hand, Watt had to consider obtaining patents for these manufacturing technologies.

While repeating such ingenuity, Watt receives the work of "pumping machine of the mine" as the work of the affiliated company. It was a very large machine, over 7 meters in size with a cylinder with a diameter of 127 centimeters.

It was so big that he built and operated a dedicated building. After that, he made various improvements to the machine. It has become an increasingly efficient machine.

Other Watts achievements


The flywheel, which is commonly used in modern automobile engines, is also Watt's invention. By eliminating uneven rotation and operating the machine smoothly, the efficiency of movement is increased, vibration is suppressed, and durability is improved.

Above all, Watt proceeded with the formulation of energy in such work and developed the concept of work (Watt) from the concept of force (Newton).

He was respected by many. He was a person who had a well-thought-out discussion and broadened his insight. In recent years, portraits have been used on British bills.




2023年05月25日

平賀源内5/25改訂【秩父で鉱山を開設|オランダからエレキテル等を日本人に紹介|啓蒙】

こんにちはコウジです!
「平賀源内」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1728年生まれ ~ 1780年1月24日没】



平賀源内について
少し時代が古いです。平賀源内は江戸時代、
田沼意次が老中を務めていた時代で
多彩な能力を発揮しています。物理学関係に留まらない。
埼玉県秩父市で鉱山開発を行い、
炭焼き、通船の指導を行いました。 


そもそも、平賀源内は讃岐の国に生まれています。
家祖は信濃源氏の平賀氏。平賀氏は武田氏に敗れ、
一度、改姓して源内の時代に平賀姓に復姓しています。



時代考察


 

科学史の観点から平賀源内の時代を考えてみると欧米と日本の時代のずれを感じます。その「ずれ」は大きなものでニュートンがバローからルーカス職を受けたのが1664年、万有引力を定式化したのが1665年であることを思い起こせば西洋と日本の隔たりはとても大きいです。そんな時代には源内は未だ生まれていません。


加えて、平賀源内が「発明」したであろうものの独自性を考えていくと「新規性」という部分が殆ど見受けられません。内容は後述しますが、後世に残して人類の財産と出来るものは作り出せなかったのです。無論、当時の人々には目新しく、庶民に啓蒙をして意識を変えていった業績は大きいです。


だがしかし、「数学」なりの学問体系を整えてはいません。足し算引き算が出来ても「微分。積分」それなあに?って有様でした。教育制度が大きく異なる事情があるのですが、結果は大きく異なるのです。日本ではその後、
数理学の学問体系は数百年間未開のままでした。



平賀源内の業績


 

平賀源内が手掛けた分野は医学、薬学、漢学、


浄瑠璃プロデュース、鉱山の採掘、金属精錬、


オランダ語、細工物の販売、


油絵、俳句と多岐にわたりました。


その一つが「発明」で平賀源内は物理現象の啓蒙に一役買っているのです。所謂、エレキテルの紹介ですね。エレキテルは不思議な箱で内部にガラスによる摩擦起電部と蓄電部を持っています。実の所、平賀源内が発明したというよりオランダ製の物を平賀源内が紹介した訳ですが江戸時代の庶民達には摩訶不思議な魔法に見えたでしょうね。


なにより、平賀源内の現象理解は現在の学問体系


とは大きく異なっていたようです。


念の為にコメントしておくと、新しい考えを作り出して発表して他の国の人に内容を問いかけたりする動きは見受けられません。鎖国の時代ですからね。平賀源内の時代から百年以上後に海外の学問理解を学び、自ら論文を書いていき、世界に内容を問いかけるのです。そこまでの道のりは、まだまだ長いのです。平賀源内はそんな時代の先人でした。


そして、
文化的な功績も、そこかしこに残しています。
有名な言葉遊びで源内が作者であろう
と言われている句を最後にご紹介します。


京都三条糸屋の娘 姉は十八・妹は十五
諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す



【スポンサーリンク】



以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが
必ず返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/09/18_初稿投稿
2023/05/25_改定投稿


(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
日本関連のご紹介


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


(2021年8月時点での対応英訳)



about GENNAI


It's a little old story. Hiraga Gennai is demonstrating a variety of abilities during the Edo period and when Tanuma Okitsugu was a senior citizen. It goes beyond physics.


In the first place, Hiraga Gennai was born in Sanuki Province.


His ancestor is Mr. Hiraga of Shinano Genji Family. Mr. Hiraga was defeated by Mr. Takeda, and once changed his name to Hiraga in the Gennai era.


If you think about the times in Hiraga Gennai from the perspective of the history of science, you can feel the difference between the times of Europe, America and Japan. The "deviation" is large, and the gap between the West and Japan is very large, recalling that Newton received the Lucas job from Barrow in 1664 and formulated universal gravitation in 1665. In addition, when considering the uniqueness of what Hiraga Gennai would have "invented," there is almost no "novelty." I will explain the contents later, but I could not create something that could be left as a property of humankind for posterity. Of course, it was new to the people at that time, and although it was a great achievement to educate the common people and change their consciousness, it has not prepared an academic system like "mathematics". Even if addition and subtraction are possible, "differentiation. Integral" What is it? It was like that. There are circumstances where the education system is very different, but the results are very different. In Japan, the academic system of mathematics has remained undeveloped for hundreds of years since then.



Work of GENNAI


Hiraga Gennai's fields ranged from medicine, pharmacy, Chinese studies, joruri production, mine mining, metal refining, Dutch, craft sales, oil paintings, and haiku.


One of them is "invention", and Hiraga Gennai plays a role in enlightening physical phenomena. This is the introduction of so-called Elekiter.


Elekiter is a mysterious box that has a glass triboelectric generator and a power storage unit inside. As a matter of fact, Hiraga Gennai introduced a Dutch product rather than an invention by Hiraga Gennai, but it seemed like a mysterious magic to the common people in the Edo period.


Above all, it seems that the understanding of phenomena in Hiraga Gennai was very different from the current academic system.


If you comment just in case, there is no movement to create and announce new ideas and ask people from other countries about the content. More than 100 years after the time of Hiraga Gennai, he learned to understand foreign scholarship, wrote a treatise himself, and asked the world about the content. The road to that point is still long. Hiraga Gennai was a pioneer of that era.

2023年05月24日

L・オイラー
【単眼の巨人(サイクロプス)|自然対数を定式化】

こんにちはコウジです!
「オイラー」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1707年4月15日生まれ ~ 1783年9月18日没】


L・オイラーのLはレオンハルトのLです。



オイラーの業績 


スイスのオイラーは当時の18世紀の数学界の中心でした。その後の世に数学が厳密になっていく一方で、モデルが洗練されていくのですが、それを使いこなす為の基礎を固めました。その活動範囲は多岐にわたります。他の人が見つけたと思っていた業績が、実はオイラーの仕事の焼き直しだったりした事が多々あったそうです。後に出てくるガウスと合わせて数学界の二大巨人であると言われているのです。加えて、


オイラーは右目を失明していたので


「単眼の巨人(サイクロプス)」


と数学界で呼ばれていたそうです。


まさに怪人ですね。同時に


天文物理学でも業績を残しています。物理学で使う数学手法も残しました。オイラーが定式化した自然対数と三角関数の関係は私自身も何度も何度も、繰り返し使いました。



オイラーの人生 


さて、オイラーの人生における転機は大学時代に師となるベルヌーイがその才能を見出したタイミングでした。神学の道を目指していたオイラーの両親をベルヌーイが説得してオイラーは数学の道を選びます。


 

オイラーは招かれて外国で数年過ごしたりしながら研究を続けましたが、視力が低下していき遂には失明してしまいます。それでもオイラーは精力的に論文執筆の活動を続けました。頭の中で計算式を操り、口頭で協力者に内容を伝え、文章に起こしてもらい、論文を次々と完成させたのです。


そんな困難の中、


オイラーは晩年の研究を続けていました。


人生をかけた研究だったと思います。



〆最後に〆




テックアカデミー無料メンター相談
【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが
必ず返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/09/26_初稿投稿
2023/05/24_改定投稿


旧舞台別まとめ
舞台別の纏め
時代別(順)のご紹介
スイス関係のご紹介

量子力学関係


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】



【2021年8月時点での対応英訳】


L. Euler's L is Leonhard's L.



Job of Euler


Euler in Switzerland became the center of the 18th century mathematics world at the time, laying the foundation for mastering sophisticated models while mathematics became more rigorous in later generations. The range of activities is wide-ranging. In many cases, the achievement that others thought they had found was actually a rehash of Euler's work. He is said to be one of the two giants in mathematics, along with Gauss, who will appear later. father,


Euler was blind in his right eye, so he was called "monocular giant (cyclopes)" in the mathematical world. It's just a monster. He also has a track record in astrophysics.


Euler also left behind the mathematical techniques used in physics. I myself used the relationship between the natural logarithm and trigonometric functions formulated by Euler over and over again.



LIFE of  Euler


Now, the turning point in Euler's life was when his teacher Bernoulli discovered his talent during his college days.

Bernoulli convinces Euler's parents who were aiming for the theological path, and Euler chooses the path of mathematics.


Euler was invited to spend several years abroad and continued his research, but his eyesight deteriorated and he eventually lost his eyesight.


Still Euler is energetically


He continued his treatise writing activities.


Euler manipulated the formulas in his head, verbally communicated to his collaborators, had them transcribed, and completed his treatises one after another.


In the midst of such difficulties, Euler continued his studies in his later years. I think it was a study that took his life.


2023年05月23日

ベンジャミン・フランクリン
5/23改訂【米国建国の父|外交官|物理学者|天文学者】

こんにちはコウジです!
「ベンジャミン・フランクリン」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1706年1月17日生れ-1790年4月17日没】



 米国建国の父ベンジャミン


その名はベンジャミンフランクリン


:Benjamin Franklin,_


グレゴリオ暦1706年1月17日の生まれですが、


ユリウス暦では1705年1月6日にあたります。


そんな両方の暦を使う時代に生まれた人でした。


フランクリンは政治家として、外交官として、著述家として、物理学者として、また気象学者として活躍します。後述する13徳を実践する謙虚な人であって努力家です。それに加えて実務家です。フランクリンの残した「フランクリン自伝」はアメリカのロング・ベストセラーの一つとなっていて今でも100ドル札には肖像人物としてベンジャミンフランクリンが使われています。(2021年3月調べ)広くアメリカ人に愛され続けています。



 フランクリンの業績


フランクリンの業績として有名な物は凧を使った雷の実験です。フランクリンはライデン瓶の実験がされていると聞き電気に興味を持ちました。1752年に雷鳴り響く嵐の日に凧をあげました。その時、地上側の凧糸の先にワイヤーで接続したライデン瓶を連動させることでその時の上空の帯電状態を示す作業をしました。


非常に直接的な実験ですがその電圧が数億ボルト(流れる電流が数十万アンペア超)とも言われる現象に対してベンジャミンフランクリンが、どの程度の理解をもって納得しながら実験の設定を行ったかについては、大きな問題を感じます。そう言った意味で物凄く怖い実験計画だったのでしょう。


実際に21世紀になってから、アイドルのコンサートでの落雷事故があった事は記憶に新しいでしょう。フランクリンの時代に検証実験を試みて多数の死者が出た事実もある事から「絶対に真似をしてはいけない」実験であると言えます。その実験を行ったフランクリンの勇気は手放しで賞賛出来ない部分がありますが、それを踏まえて考えてみても、人々に尊敬される偉人なのです。

フランクリンの偉業は他にも続き、避雷針、燃焼効率の


高いストーブ、遠近両用眼鏡を次々と発明しました。


そして、フランクリンはその発明に対して


特許はとらないで社会に還元しました。


アメリカ独立宣言の起草にも加わっていたと言われます。



フランクリンの13徳


自らの自律心でコツコツと独学で事を成し遂げてきた


フランクリンは13徳と呼ばれる戒律を実践していたと言われます。


最後にご紹介させて下さい。


13徳(Wikipedeaより引用)週に一つずつ各徳目に身を捧げました


◆節制 :
飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。


◆沈黙 :
自他に益なきことを語るなかれ。

駄弁を弄するなかれ。


◆規律:
物はすべて所を定めて置くべし。

仕事はすべて時を定めてなすべし。


◆決断 :
なすべきをなさんと決心すべし。

決心したることは必ず実行すべし。


◆節約:
自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。

すなわち、浪費するなかれ。


◆勤勉:
時間を空費するなかれ。

つねに何か益あることに従うべし。
無用の行いはすべて断つべし。


◆誠実:
詐りを用いて人を害するなかれ。

心事は無邪気に公正に保つべし。
口に出だすこともまた然るべし。


◆正義:
他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを

与えずして人に損害を及ぼすべからず。


◆中庸:
極端を避くべし。たとえ不法を受け、

憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。


◆清潔:
身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。


◆平静:
小事、日常茶飯事、

または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。


◆純潔:
性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、

これにふけりて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、又は自他の平安
ないし信用を傷つけてはいけない。


◆謙譲:
イエスおよびソクラテスに見習うべし。



【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2021/04/02_初稿投稿
2023/05/23_改定投稿


纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
アメリカ関係へ

電磁気関係


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】



(2021年8月時点での対応英訳)-



American great Franklin


His name is Benjamin Franklin, _ Gregorian was born on January 17, 1706, but in the Julian calendar died on January 6, 1705. He lived in an era when he explained using both calendars. Franklin is active as a politician, diplomat, writer, physicist, and meteorologist. He is a humble and hard worker who practices the 13 virtues described below. He is also a practitioner. Franklin's "Franklin Autobiography" has become one of America's longest-selling books, and Benjamin Franklin is still used as a portrait on the $ 100 bill. (Surveyed in March 2021) He continues to be widely loved by Americans.



 Job of Franklin


One of Franklin's most famous achievements is the experiment of lightning with a kite. Franklin was interested in electricity when he heard that Leyden jars were being tested. He flew a kite in 1752 on a thunderous stormy day. At that time, he worked to show the state of charge in the sky at that time by interlocking a Leyden jar connected with a wire to the tip of the kite string on the ground side. It is a very direct experiment, but about how Benjamin Franklin convinced him to set up the experiment with respect to the phenomenon that the voltage is said to be hundreds of millions of volts (current flowing over hundreds of thousands of amperes). Feels a big problem. It will be fresh in my memory that there was a lightning strike at an idol concert in the 21st century. It can be said that it is an experiment that "never imitate" because there is a fact that a large number of people died when trying a verification experiment in Franklin's time. Franklin's courage to carry out the experiment has some parts that cannot be praised, but even if you think about it, it is certain that he is a great man who is respected by people.


Franklin's feat continued, and he invented lightning rods, combustion-efficient stoves, and bifocals.


And Franklin gave back to society without his patent for his invention.



Thirteen Virtues


He is said to have been involved in the drafting of the United States Declaration of Independence.


Franklin, who has accomplished things by himself with his own autonomy, is said to have practiced a commandment called 13 virtues.


Let me introduce you at the end.


[13 virtues (quoted from Wikipedea, devoted to each virtue once a week)]




  1. ◆Temperance. Eat not to dullness; drink not to elevation.

  2. ◆Silence. Speak not but what may benefit others or yourself; avoid trifling conversation.

  3. ◆Order. Let all your things have their places; let each part of your business have its time.

  4. ◆Resolution. Resolve to perform what you ought; perform without fail what you resolve.

  5. ◆Frugality. Make no expense but to do good to others or yourself; i.e., waste nothing.

  6. ◆Industry. Lose no time; be always employ'd in something useful; cut off all unnecessary actions.

  7. ◆Sincerity. Use no hurtful deceit; think innocently and justly, and, if you speak, speak accordingly.

  8. ◆Justice. Wrong none by doing injuries, or omitting the benefits that are your duty.

  9. ◆Moderation. Avoid extremes; forbear resenting injuries so much as you think they deserve.

  10. ◆Cleanliness. Tolerate no uncleanliness in body, clothes, or habitation.

  11. ◆Tranquility. Be not disturbed at trifles, or at accidents common or unavoidable.

  12. ◆Chastity. Rarely use venery but for health or offspring, never to dullness,
    weakness, or the injury of your own or another's peace or reputation.

  13. ◆Humility. Imitate Jesus and Socrates.


(I quoted these from Wikiledia.)

2023年05月22日

ダニエル・ベルヌーイ
5/22改訂【数学を駆使して「流体力学」を発展】

こんにちはコウジです!
「ベルヌーイ」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1700年2月8日生まれ ~ 1782年3月17日没】



 ベルヌーイ一族


ダニエル・ベルヌーイの名前でダニエルって大事です。
科学史に詳しい人ならピンと来るのですが、
ベルヌーイ一族は沢山、
科学史に出てきます。


3世代で8人が著名人です。



先ず、今回取り上げたダニエルはスイスに生まれ3兄弟で、全て物理学者・数学者です。また、ダニエルの父の世代にも何人かの学者が居るようで、ダニエルの叔父の仕事を父が引継ぐ場面もあったようです。


 

 ダニエルベルヌーイとその父


また、こんな事もありました。


1734年のパリ・アカデミー大賞で父のヨハンと息子のダニエルが同時に賞を受賞した事が父の名誉を傷つけダニエルはベルヌーイ家から出入り禁止の扱いを受けます。


父は死ぬまでダニエルを恨んでいました。有名なダニエルの流体力学に関する著作でヨハンによる盗用もあったようです。家名が重い故に、ヨハンは名誉で目がくらみ、良識を忘れています。


そんな事もありましたが、ダニエルは研究を続け、パリ・アカデミー大賞の受賞も10回になったようです。何よりニュートン力学と数学を考え合わせ「流体力学」を発展させました。非粘性流体に対する「ベルヌーイの法則」は有益で、変形する物体にニュートン力学の適用範囲を広めています。


そうした仕事は船舶の運航等に大変、役立ちました。


 


 



テックアカデミー無料メンター相談
【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/10/30_初回投稿
2023/05/22_改定投稿


(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
スイス関係のご紹介
フランス関連のご紹介
力学関係のご紹介


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】




(2021年8月時点での対応英文)


Daniel is important in the name of Daniel Bernoulli. If you are familiar with the history of science, it will come to you, but there are many Bernoulli families in the history of science. Eight people are celebrities in three generations.


First of all, Daniel, who was born in Switzerland, has three brothers, all of whom are physicists and mathematicians.


Also, it seems that there are some scholars in Daniel's father's generation, and there was a scene where his father took over the work of Daniel's uncle.


Also, there was such a thing.


The simultaneous award of his father Johann and his son Daniel at the 1734 Paris Academy Awards hurts his father's honor and Daniel is banned from the Bernoulli family.


His father had a grudge against Daniel until his death. It seems that there was plagiarism by Johann in the famous work on fluid dynamics of Daniel. Because of his heavy family name, Johann is dazzled by honor and forgets good sense.


However, Daniel continued his research and seems to have won the Paris Academy Awards 10 times. Above all, he developed "fluid mechanics" by considering Newtonian mechanics and mathematics.


"Bernoulli's principle" for non-viscous fluids is useful and extends Newtonian mechanics to deforming objects.


Such work was very useful for the operation of ships.


2023年05月21日

コリン・マクローリン
5/21改訂【ニュートンを紹介|一般関数の級数展開】

こんにちはコウジです!
「マクローリン」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1698年2月 ~ 1746年6月14日】



 マクローリンについて


マクローリンの名を耳にするのは


数学の講義ではないでしょうか。


物理学者というよりも数学者ですが


一昔前の物理学と数学は境目があいまいでした。


その名を全て記すとコリン・マクローリン


(Colin Maclaurin)です。


Wikipedeaで「マクローリン」という言葉だけで検索したら
ロボットアニメが出てきたりしますが、
「マクローリン展開」で検索すると一発です。
  



マクローリンの業績について


クローリンは特に彼の名にちなんだ展開で有名です。
その内容は「0を中心としたテイラー展開」であって、
とても特別な場合なのですが
その有益性は非常に大きいのです。
その有益性は単純な私達では思い付かなかったでしょう。


込み入った話をすると、マクローリンが定式化した
数学的な定式化は「任意の関数の級数への分解」です。
任意の関数が持つ変化率を、
1次成分の寄与、2次成分の寄与、3時成分の寄与、、、
と分けて表現していくのです。


 



マクローリンと残した仕事 


 マクローリンは英スコットランドに生まれました。
ニュートン_と仕事をする中で彼の信頼を得て、
大学への推薦状を書いてもらう程でした。


マクローリン自身もニュートン_の考えに惚れ込んでいて、
ニュートンの紹介を目的として出版活動をしていました。
こうした仕事を通じてスコットランド啓蒙運動
に勤しんだ【いそしんだ】のです。


多くの人は高校時代以降に数学を使わなくなるでしょうが、
実生活の中で数学の世界はとても役に立っています。
特に、今回ご紹介しているマクローリンの考えは
一般関数の級数展開といった考えにつながり、
その考えは最終的にデジタル回路における近似処理
に繋がるのです。スマホの中とかの回路での処理原理です。
一般の人は意識しませんが恩恵を受けています。


理工学系の過程に進む初学者は出来るだけ
数学と産業のつながりを意識して下さい。
一見関係ないように思える数学の世界も、その概念を
土台として現代の応用技術が成り立っているのです。


無意味無乾燥に思える講義の内容が
貴方の人生で思わぬ成果を生む場合があります。



〆最後に〆


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/11/06_初稿投稿
2022/10/23_改定投稿



【スポンサーリンク】

 

(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
イギリス関係のご紹介


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


(2021年8月時点での対応英訳)



About McLaughlin


Isn't it a math lecture that you hear the name of McLaughlin? He is a mathematician rather than a physicist, but a decade ago physics and mathematics had a vague line. The name is Colin Maclaurin.


If you search for "Macroline" in Wikipedea, you will see robot animation, but if you search for "Macroline expansion", it will be one shot.
Twice



About McLaughlin's achievements


McLaughlin is especially famous for his developments. The content is "Taylor development centered on 0", which is a very special case, but its usefulness is very great. Its benefits would not have come to our minds simply.


To put it in a complicated way, the mathematical formulation that McLaughlin formulated is "decomposition of an arbitrary function into a series". The rate of change of an arbitrary function is expressed separately as the contribution of the primary component, the contribution of the secondary component, the contribution of the 3 o'clock component, and so on.



Work left with McLaughlin


McLaughlin was born in Scotland, England.
While working with Newton, he gained his trust and even got a letter of recommendation to the university. McLaughlin himself fell in love with Newton's ideas and was publishing for the purpose of introducing Newton. Through these jobs, I worked for the Scottish Enlightenment Movement.


Many people will stop using math after high school, but the world of math is very useful in real life. In particular, the idea of ​​McLaughlin introduced this time leads to the idea of ​​series expansion of general functions, and that idea eventually leads to the approximation processing in digital circuits. It is a processing principle in a circuit such as in a smartphone. The general public is not aware of it, but they are benefiting from it. Beginners who advance to the science and engineering process should be aware of the connection between mathematics and industry as much as possible.


Even in the world of mathematics, which seems unrelated at first glance, modern applied technology is based on that concept. The content of a lecture that seems meaningless and dry may produce unexpected results in your life.

2023年05月20日

P・V・ミュッセンブルーク
5/20改訂【ライデン便を発明し静電気の基礎を確立】

こんにちはコウジです!
「ミュッセンブルーク」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】




【スポンサーリンク】
【1692年3月14日-1761年9月19日没】


 ライデン瓶を考案したミュッセンブルーク


その名はピーテル・ファン・ミュッセンブルーク

;Pieter van Musschenbroek。

ライデン瓶の発明で知られているオランダの物理学者です。

ポンプや顕微鏡、望遠鏡を作る職人の子として生まれます。

何より、最初の蓄電器であるライデン瓶

を作ったことで知られています。

ラテン語学校でギリシア語・ラテン語・フランス語・英語、ドイツ語などを学んだ後にライデン大学で医学博士となります。当時の学識の付け方は今と大きく異なっていたようですね。そして、ロンドンで当時の大物である物理学者ニュートンの講義を受けています。

その後、ミュッセンブルークは数学、哲学、医学、占星術の教授を歴任します。占星術は当時の教養の中で合理的な学問体系であると考えられていて、少し前の時代には王家に使えていたノストラダムスが天文学と占星術を修めていたという史実もあります。そして、ミュッセンブルークが1726年に刊行した「Elementa Physica」では広くニュートンの理論をヨーロッパに広めています。

 ミュッセンブルークと帯電現象の理解


その後、

静電気の力を中心にミュッセンブルークは関心を深め、ガラス瓶の中に充満した水の中で帯電した棒が反発しあう現象を形にします。非常に効果的な装置で水の中で実験を行うことで、重力の効果を浮力の効果を打ち消して微細な反発力をとらえられます。

また、支点を介した二つの棒が重力と直角方向に開いていくので
開いた角度がθの時に重力の分力が


Sinθで考えられるのです。

数学上、θが0の近傍ではSinθが殆ど0なのです。

上記の数学的な仕組みで、@荷電現象で生じた力とA師であるニュートンの明確にした力が釣り合い、平衡を保っています。その様子は少し感動できます。後の時代に動的な電磁気学が発展していきますがミュッセンブルークは静電磁気学の土台を作ったのです。

理論で期待される効果が目視で確認できます。浮力が重力を打ち消す効果と分力でSinθだけ考えればよい事情が相まって電気による微細な反発力が目に見える効果として現れます。開き角度が狭い時点では殆ど重力の効果がない形で帯電に起因する力が可視化出来るのです。

 

それまで帯電棒をこすり続けたりしなければ示せなかった「静電容量に起因する力」をミュッセンブルークによって示しました。後の電磁気学の発展に繋がる成果です。確かな一歩が残されたと言えるでしょう。



テックアカデミー無料メンター相談
【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2021/07/01_初回投稿
2023/05/20_改定投稿


(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
オランダ関係のご紹介へ
イギリス関係のご紹介

電磁気関係


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


(2021年8月時点での対応英訳)

About Musschenbrook 


Its name is Pieter van Musschenbrook

; Pieter van Musschenbroek.

Musschenbruck is a Dutch physicist as we know for the invention of the Leyden jar. He was born as a child of a craftsman who makes pumps, microscopes and telescopes. He had best known for making his first capacitor, the Leyden jar.

He had become a Doctor of Medicine at Leiden University after studying Greek, Latin, French, English, German, etc. at a Latin school. It seems that his way of learning at that time was very different from that of now. And he had taken a lecture in London by the then-big physicist Newton.

After that, Musschenbrook was a professor of mathematics, philosophy, medicine and astrology. Astrology is considered to be a rational academic system in the culture of the time, and there is a historical fact that Nostradamus, who was used for the royal family a while ago, studied astronomy and astrology. And in "Elementa Physica" published by Musschenbrook in 1726, Newton's theory had widely spreaded in Europe.

Method of Musschenbrook


After that, Musschenbrook deepened his interest around the force of static electricity, and formed a phenomenon in which charged rods repel each other in the water filled in a glass bottle. By conducting experiments in water with a very effective device, the effect of gravity can be canceled by buoyancy and with a minute repulsive force, we had be able to  capture.

Also, since the two rods that pass through the fulcrum open in the direction perpendicular to gravity, we had been able to consider the component force of gravity in Sinθ when the opening angle is θ.

Mathematically, Sin θ is almost 0 near θ of 0.

You can visually confirm the effect expected in theory.

The effect of buoyancy canceling gravity and the fact that only Sinθ needs to be considered as a component force combine to make a minute repulsive force due to electricity appear as a visible effect. When the opening angle is narrow, the force caused by charging can be visualized with almost no effect of gravity.

Work of Musschenbrook


Musschenbrook showed the "force due to capacitance" that could only be shown by rubbing the charging rod until then. It will lead to the later development of electromagnetism.

It can be said that Musschenbrook has left a solid step.

2023年05月19日

建部賢弘(たけべ かたひろ)_
5/19改訂【江戸時代に生まれ和算を大成した数学者】

こんにちはコウジです。


「建部賢弘」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1664年(寛文4年)6月 〜 1739/8/24】



和算の大成者である健部賢弘


建部賢弘は日本の数学者で、和算を大成した人物です。
江戸時代1664年生まれです。


関ヶ原の合戦が1600年で江戸太平の世の中が200年ほど
だったことを思い返せば建部はまさに江戸時代の中期
に活躍したと言えますね。


時は享保の時代で8代将軍の暴れん坊将軍「徳川吉宗」
の信頼を得ます。そして享保四年(1719年)「日本総図」
を作成します。また、
師である関孝和の業績に関する著作を多数残しました。


その内容は歴史的な記述というよりも内容に深く入り込んでいます。いわば数学の側面からの解説書であったようです。



関孝弘の考察を建部が補う 


そもそも、関孝和は沢口一之が残した『古今算法記』での
未解決問題を関さん独自の点竄術を使って解決していました。


そこで「関さんの悪い所」なのですが、
省略し過ぎで難しい本だったのです。


面白いのは関西系の数学者からツッコミ食らっていた訳です。


「頑固な江戸のおじいちゃん」が関西人から
ツッコまれていたのですが、建部さんは
丁寧な解説で「正しいでしょう?」
って感じの話し方が出来たのです。


きっと関西人たちも納得したはずです。関西人であれ関東人であれスッキリした瞬間です。


そして、師匠の関孝和と建部賢弘と建部賢明の三人で全20巻の「大成算経」をまとめました。


「大成算経」は当時の和算をまとめ上げた秀作として評価され続けています。



円に対しての建部の業績


建部賢弘の大きな業績として円に対しての定量的な追及があります。物凄い精度で円について考えていったのです。


そもそも、精度の高い真円が描けたとしてもその円での半径とこの長さの関係は自明ではありません。


今でこそ、子供たちも3.14…と記憶していけるのですが理論的に真円が描けたと考えた時の弧の長さは「三角関数を使って級数を作り極限」を求めていくしかありません。


三角関数、級数、極限といった概念を和算の中で正確に使っていくデリケートさが求められるのです。


建部賢弘は丁寧に言葉を選んで誰でもわかる表現をして未知の世界に挑んでいったのです。


建部以前の時代から使われていた正多角形を円が囲む近似から考えていきました。


建部は逆に正多角形に円が囲まれた部分を想像して、円の面積がA以上B以下であると証明していくのです。


そして円弧の長さがα以上β以下であると証明していったのです。


そして建部賢弘は円周率を41桁まで正確に出したのです。世界的に考えても数値的な解法として優れた業績でした。



その他の建部の業績


その他にも建部賢弘は多くの業績を日本に残しましたが、以下備忘録的に羅列します。


・指数1/2の二項級数の近似解法を紹介
・ディオファントス方程式の近似解法を紹介
・帰納法に基づいた数値解析の方法論を紹介
・無限の概念を「不尽」として導入
・三角関数の内容を表の形で明示


そして今、日本数学会では建部賢弘特別賞や建部賢弘奨励賞


という形で若手数学者を奨励する賞を設けています。
建部賢弘のように


若かりし人が
新しい分野を開いていく姿を数学会は期待しています。






エンジニア転職保証コース
【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが
必ず返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2022/10/06_初稿投稿
2023/05/19_ 改訂投稿


(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
日本関連のご紹介


(2022年10月時点での対応英訳)


Katahiro Tatebe was a Japanese mathematician and a great exponent of Japanese arithmetic.
He was born in 1664 during the Edo period.


The Battle of Sekigahara took place in 1600, and the Edo period lasted about 200 years.
If we recall that the Battle of Sekigahara took place in 1600,we underground the peaceful Edo period lasted for about 200 years
The time was the Kyoho period, and he was active in the MiddleEdo generation.


The time was in the Kyoho period, and Takebe gained the trust of the 8th shogun, "Tokugawa Yoshimune," the ruffian and tyrant shogun.
And Tatebe produced the "General Map of Japan" in 1719.


In addition
Tatebe also wrote many works on the achievements of his mentor, Seki Takakazu.
The contents of these works are not so much historical descriptions as commentaries .
The contents of these works seem to have been commentaries from a mathematical point of view rather than historical descriptions.



Seki and Takebe


To begin with, Seki Takakazu solved the unsolved problems in Sawaguchi Kazuyuki's "Kokin Keiken" by using Seki's original point-falsification technique. However, the book was difficult to read because of the excessive "omissions" as "Seki's bad point.


What is interesting here is the fact that Kansai mathematical persons had criticized Takebe . The stubborn old man from Edo was getting flack from the Kansai people, but


Mr. Tatebe was able to give a polite explanation and say, "Isn't that right? He was able to speak in a way that made the Kansai people understand.


I am sure the Kansai people must convinced. It was a moment of great clarity, even for Kansai people.


And then, his master Seki Takakazu, Tatebe Masahiro, and Tatebe Tatebe Kenmei together produced a 20-volume book, "The Great Calculation Sutra," which they had published in 1949.
The "Taisei Keikyo",Everybody had highly regarded as an excellent work that summarized the Japanese mathematics of those time.


One of Tatebe's major achievements was his quantitative pursuit of the circle. He thought about the circle with tremendous precision. Even if a highly accurate circle could be drawn, the relationship between the radius and the length of the circle would not be self-evident.


Nowadays, children can memorize the rate,3.14..., but theoretically, when a perfect circle is drawn, the length of the arc can only be obtained by using trigonometric functions to create a series and finding the limit.



Rate of circle


The concepts of trigonometric functions, series, and limits must be used with delicacy and precision in Japanese arithmetic.


Kenhiro Tatebe carefully chose his words to express them in a way that anyone could understand, challenging the unknown.


Tatebe began by considering the approximation of a circle enclosing a regular polygon, which had been used since the pre-Tatebe era, and then, conversely, imagined the area of a circle enclosed by a regular polygon, proving that the area of the circle is greater than A and less than or equal to B.


Takebe then used a circle with an arc length of at least α and less than or equal to B. He then proved that the length of the arc is greater than or equal to α and less than or equal to β.



How many obtained


Then, Kenhiro Tatebe obtained pi to exactly 41 digits. This was an outstanding achievement in numerical solving, even when considered on a global scale.



Other wiorks of Takebe


Kenhiro Tatebe also left many other achievements in Japan, which are listed below as a reminder.


Introduced a forbidden solution method for binomial series with exponent 1/2.
Introduced an approximate solution method for Diophantine equation.
Introduction of a methodology for numerical analysis based on induction
Introduces the concept of infinity as "inexhaustibility
・Contents of trigonometric functions are clearly stated in the form of tables.



Kenhiro Tatebe Encouragement Award.


The Mathematical Society of Japan now offers prizes to encourage young mathematicians in the form of the  Katahiro Tatebe Special Prize and the Katahiro Tatebe Encouragement Prize.
We hope to see young people like Katahiro Tatebe
to open up new fields of study.


Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

2023年05月18日

アイザック・ニュートン
5/18改訂【微積分を駆使して空間・時間・力を明確に定式化】

こんにちはコウジです!
「ニュートン」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1642年12月25日 ~ 1727年3月20日】



物理学を変えたニュートン


物理学でのパラダイムシフトを語るうえで
外せない人物が、このニュートンでしょう。


物理学に於いてそれまでの常識を覆しました。
数学を駆使して物理学を大きく変えています。


今では世界で彼の名を冠した科学関係の雑誌が
刊行されている程です。
多くの人がその名と業績を知っています。


イギリスで生まれたニュートンはケンブリッジでアイザック・バローに師事し研究をしていきます。家庭的に問題を抱えていたことに加えニュートンは体も小さく体力も無かった為に紆余曲折の下でアイザック・バロー教授と出会ったのです。


特に大きな転機となったのは学位を習得する時期にペストがヨーロッパ中に大きな被害をもたらし、ケンブリッジも封鎖された時期があったのです。その時期にニュートンは地元に戻り思索の時間を多くとれたのです。その時間が1665年の万有引力発見に繋がります。



ニュートンの業績 


ニュートンが示したものは大きいのです。


力が「相互作用」であって小さなリンゴと大きな地球が


相互作用するように、全ての物質が相互に作用して、


互いに引き合う事象を見出しました。


ニュートンの著書「プリンキピア」の中で法則として体系化しました。その数学的定式化として微分の考え方を使って洗練された形を残し、その後の学問の発展に大きな基礎を築いています。



ニュートンの足跡 


何年もの後にマッハが「力学の哲学的批判史」の中で独自の空間概念の定式化を批判しますが、それもニュートンの整理・確立した空間概念、慣性の法則、などがあって初めて気づき得る話なのです。


特に神との関りにおいてニュートンは「人格神に対する信仰を固辞している」(ハイゼンベルグ「現代物理現象の自然像」(1955)より)という指摘が重要です。神を想定して「絶対空間」を想定している時点で、後世の相対的(人間的)思想とニュートンの理解体系は少しずつ乖離していくのです。


 実際にはアインシュタインが空間の相対性を明確化する中でも基礎理論としてのニュートン力学は依然として有益な理論なのですが、特に20世紀初頭の物理学の進展で適用範囲に大きな疑問を投げかけました。ニュートンの力学を土台の一つとして更に量子力学が出来てくるのです。


その他、ニュートンの業績は光学、微積分学、と尽きませんが空間・時間・力を明確に定式化した点が後世の我々にとっても、物理学にとっても何より大きいと思えます。


ニュートンは人々の物に対する考え方を大きく変えました。



【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近は全てに返事が出来ていませんが
問題点には適時、返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/09/02_初版投稿
2023/05/18_改定投稿


旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
イギリス関係のご紹介
ケンブリッジ関連
力学関係


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


(2021年8月時点での対応英訳)



The Newton


This Newton is a must-have person when talking about the paradigm shift in physics.Newton overturned conventional wisdom in physics. He uses mathematics to make a big difference in physics.


Nowadays, science magazines bearing his name have been published in the world. Many know the name and his achievements. Born in England, Newton will study under Isaac Barrow in Cambridge. In addition to having problems at home, Newton met Professor Isaac Barrow under twists and turns because he was small and weak. A particularly big turning point was when the plague caused great damage throughout Europe during his bachelor's degree and Cambridge was also blocked. At that time Newton returned to his hometown and had more time to think about him. That time will lead to the discovery of universal gravitation in 1665.



Newton’s Work


What Newton has shown is great. He found that all matter interact and attract each other, just as forces are "interactions" and small apples and large earths interact.


It was systematized as a law in Newton's book "Principia". He used his idea of ​​differentiation as his mathematical formulation to leave a sophisticated form, laying a great foundation for the subsequent development of scholarship.


Newton’s Footprint


Years later, Mach criticizes Newton's concept of space in "History of Philosophical Criticism of Mechanics", but it is a story that can only be noticed with Newton's organized and established concept of space, the law of inertia, etc. It is.


In addition, Newton's achievements are not limited to optics and calculus, but the fact that space, time, and force are clearly formulated seems to be greater for us in posterity and for physics. Newton has changed the way people think about things.


2023年05月17日

ロバート・フック5/17改訂【ばねの運動に働く力学を法則化した英国人】

こんにちはコウジです!
「フック」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1635年7月28日生まれ ~ 1703年3月3日没】



ボイルの助手フック


イギリスに生まれたフックは若い時代にボイル


下で実験助手を務め、様々な経験を積みます。


そしてまた、ユークリッドの原論や、光の屈折


など様々な考え方を身に着けていきます。


フックの情報を調べてみると性格的側面で、


人間関係の問題を抱えていったように思われます。


そもそもフックの父は英国国教会の聖職者でした。


2人の兄も聖職者として人生を歩んでいるようです。



フックの美学


そんな家庭で育ったロバート・フックは


科学・数学といった理論の世界で神に通じる


美学を構築していったのではないでしょうか。


宗教的側面は精神的な土台として考慮すべきです。


そこから生まれる高潔な理想と現実世界での不条理が


彼の抱えていた問題だったのです。


数学で「問題の壁を乗り越えた時の感動」や


「誰の手も借りずに新しい発見をした時」の


感謝は完全に人に伝えられない部分だと思えます。


そこで感動の共有が出来なかったとしたら、


フックはきっと孤独を感じたのです。





この紹介を書くにあたり調べ直してみた所、最終的にフックは寂しい人生を送っています。フックには子孫が居ませんでした。また、同時代のニュートンに比べ業績は見劣りします。年配のフックをニュートンは敬っていたようですが最後はどうしても論戦になり、科学的な思考の深さと明快な視点で反論されてしまったのでしょう。


とはいえ、その業績は特筆に値します。



フックの業績 


有名な仕事はバネでの、フックの法則です。


ばねに働く力が長さの一乗に比例するという法則は


非常に明快で今でも色々な分野に応用されています。



また、惑星間に働く力が距離のマイナス2乗に働く


という法則もフックの発案であるという主張もありました。


もはや今となっては真相は不明です。


理論として体系立てることも大事ですが


先ずは気付きを与えるという事も大事です。


その意味でフックは議論をしてたというだけで


素晴らしいと感じます。




【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近は全てに返事が出来ていませんが
問題点に対しては
適時、返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/09/11_初版投稿
2023/05/17_改定投稿


 

(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
イギリス関係のご紹介
オックスフォード関連
力学関係


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


(2021/8//3時点での対応英文)



Hook in yonger Days


Born in England, Hook worked as an experimental assistant under Boyle when he was young and gained a lot of experience. And again, he learns various ideas such as Euclid's Elements and refraction of light. Looking at Hook's information, he seems to have had a relationship problem on the personality side. In the first place, Hook's father was a priest of the Anglican Church.


It seems that the two older brothers are also living their lives as priests. .. Robert Hooke, who grew up in such a family, may have built a divine aesthetic in the world of theory such as science and mathematics. Religious aspects should be considered as a spiritual foundation.



noble ideals and Hook


The noble ideals and absurdities of the real world that emerged from it were his problems. In mathematics, gratitude for "impression when overcoming a problem wall" and "when making a new discovery without the help of anyone" seems to be a part that cannot be completely conveyed to people. If you couldn't share the excitement there,


Hook must have felt lonely. After re-examining it when writing this introduction, Hook is finally living a lonely life. Hook had no descendants. Also, his achievements are inferior to his contemporaries Newton. It seems that Newton respected the elderly Hook, but in the end it was a debate, and he would have been argued with his depth of scientific thinking and a clear perspective.



Hook's Work


However, his achievements deserve special mention. His famous work is Hooke's Law in Spring. The law that the force acting on a spring is proportional to the first power of length is very clear and is still applied in various fields.


It was also argued that the law that the force acting between planets acts on the minus square of the distance was also the idea of ​​Hook. The truth is unknown now. It is important for him to systematize as a theory, but it is also important to give awareness first. In that sense, Hook feels great just because he was having a discussion.



2023年05月16日

アイザック・バロー
5/16改訂【幾何学的に微積分を考えニュートンを育てた】

こんにちはコウジです!
「バロー」の原稿を改定します。


むろん背景はケンブリッジ大学。


今回の主たる改定はタイトルの再考と加筆です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1630年10月生まれ ~ 1677年5月4日没】



 バローとルーカス職


今回のご紹介するバロー教授は
イギリス・ケンブリッジ大学の数学者です。
バローはケンブリッジ大学での
ルーカス教授職に初めて任命されています。
ルーカス職とはケンブリッジ内大学の称号(職位)で
クール(Cool)な物理学者に国王から贈られる称号です。
特に数学系の理解が高い人物に贈られます。



 筆者とバローの出会い


私がバローの名を初めて知ったのは
高校の時の英語の教材で、
次の様な文章だった気がします。


Just under three hundreds years ago,
the professor of mathematics
at Canbridge did distinctly unusual
thing. He decided one of his pupil was..…


上記英文での教授がバロー先生で
その後に出てくる弟子(生徒)がニュートン
なのです。バローはニュートン
ルーカス職を譲ります。彼の方が
職位に相応しいと判断したのです。


異例な判断だったようですが
その後のニュートンの業績を考えると
バローの判断は素晴らしいと分かります。
因みにその後、名誉あるルーカス職は
ディラック
ホーキング

引き継いでいきます。



 バローの業績


上記、英語の文書が書かれた時代
から更に時代は進んでますが、
バローの残した業績は物理学のみ
ならず、工学、ひいては産業に
大きな成果を残しています。


具体的にバローが残した業績で
特筆すべきは微分と積分が
真逆の数学的行為であると幾何学的
に証明した事だと言われています。
今では当たり前なのかも知れません
がバローが整理、体系化した結果
なのです。


また正割(secant; セカント・Arccos;アークコサイン)関数
の積分を「閉じた式」で表現しました。ここで
閉じた式と表現しましたが無限に続く漸化式や、
点線(・・‣)を含む式は使わない表現です。


こうした整理・体系化をバローは進めました。
ニュトンに教授職を引き継いだ後は
神学の研究に移ったと言われています。
 



〆最後に〆


【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/10/06_初稿投稿
2023/05/16_改定投稿


(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
イギリス関係のご紹介
ケンブリッジのご紹介


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています)】


【2021年8月時点での対応英文】



 Barrow and Lucas


Professor Barrow is a mathematician at the University of Cambridge, England. Barrow has been appointed for the first time as a Lucas professor at the University of Cambridge. The Lucas professor is the title (position) of the University of Cambridge and is given by the king to a cool physicist. It is especially given to those who have a high understanding of mathematics.



 My Memory


The first time I learned the name of Barrow was in English teaching materials when I was in high school, and I think it was the following sentence.


Just under three hundreds years ago,
the professor of mathematics
at Canbride did distinctly unusual
thing. He decided his pupil his was ..…


The professor in English above is Mr. Barrow, and the disciple (student) who appears after that is Newton. Barrow hands over Lucas to Newton. He decided that he was more suitable for his position.


It seems that it was an unusual decision, but considering Newton's subsequent achievements, Barrow's decision is wonderful. By the way, Dirac and Hawking will take over the prestigious Lucas profession after that.



 Barrows work


Although the times have progressed further from the time when the above English documents were written, Barrow's achievements have made great achievements not only in physics but also in engineering and eventually in industry.


Specifically, it is said that what is remarkable about the achievements left by Barrow is that he geometrically proved that differentiation and integration are the opposite mathematical acts. It may be natural now, but it is the result of Barrow's organization and systematization.


 

2023年05月15日

クリスティアーン・ホイヘンス
5/15改訂【オランダ物理学の黎明期に光学を研究】

こんにちはコウジです!
「ホイヘンス」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1629年4月14日‐1695年7月8日】



ホイヘンスの生い立ち


ホイヘンスはオランダ物理学の歴史を感じさせます。


17世紀前半からホイヘンスのような大物が出てくるのです。 


オランダの名家にホイヘンスは生まれ、ライデン大学では


数学と法律を修めました。物理学はその知見を活かす


フィールドだったとも言えます。特に


数学で優秀さを発揮していたと言われています。


光学でのモデルは幾何学的なイメージを


しっかり作ると分かり易く,話が整理しやすいのです。



ホイヘンスの業績


物理学関係の業績としては何より光学での業績が


顕著です。所謂、ホイヘンスの原理は後の物理学者達


が波動を考えていく上でとても有益だった筈です。


波の性質が突き詰められていき、縦波とか横波とか


周波数とか周期とか最終的には波面や、さざ波も、


光も同じ定数で表現出来る現象となるのです。


この理解が重ね合わせの原理の土台として役立ち、


振動解析や音響解析へと話が進んでいくのです。



ホイヘンスから繋がる人脈


更に20世紀初頭にエーレンフェストアインシュタインがホイヘンスの母校であるライデン大学で議論していた事を鑑みると、人々の繋がりに小さな感動さえ覚えます。加えてライデン大学ではローレンツカメリー・オネスも研究を進めていくのです。


科学での一番最初の障壁は一般化を含めた理解だ


と感じます。一般の人々にも説明出来る


「言葉」を出来るだけ沢山、科学者が


作り出すことが大事です。その点で


ホイヘンスは初めの難しさを超えたのです。


 

ホイヘンスの他の業績


別途、ホイヘンスは土星の衛星タイタンの発見したり、振り子の原理を理解して時計を制作したり、オリオン大星雲を発見してスケッチしたり、その進取の精神には驚かされます。特に1675年に世界で初めて火薬を使った往復型の内燃機関を形にしているそうです。ニュートンのプリンキピア刊行が1687年ですので、「瞬時に伝番していく撃力」に関する考察を、ホイヘンスが独自に形にしていると想定されます。特筆すべき一面かと思えます。


なお、いわゆるエーテルの存在をホイヘンスは想定して


後の物理学に議論の土壌を残しました。


この功績も非常に重要だと思います。



〆最後に〆


 



テックアカデミー無料メンター相談
【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/10/18_初版投稿
2023/05/15_改定投稿


旧舞台別まとめ
舞台別の纏め
時代別(順)のご紹介
オランダ関係の紹介へ       
ライデン大学のご紹介へ
電磁気学の纏め
量子力学関係


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


(以下は2021年8月時点での対応英訳です)



Base of Huygens's LIFE


Huygens was born into a well-known Dutch family and studied mathematics and law at Leiden University. It can be said that physics was a field where he could make use of his knowledge. He is especially said to have showed his excellence in mathematics. An optical model is easy to understand if you make a solid geometric image, and it is easy to organize the story. His physics-related work is particularly remarkable in "Optics". The so-called "Huygens principle" should have been very useful for later physicists to think about waves.



Huygens's work


The nature of the wave is scrutinized, and it becomes a phenomenon that the longitudinal wave, the transverse wave, the frequency, the period, and finally the wavefront, the ripples, and the light can be expressed by the same constant. This understanding serves as the basis for the principle of superposition, and the discussion progresses to vibration analysis and scale analysis.



Huygens's reration


Also, given that Ehrenfest and Einstein were discussing at Leiden University, Huygens' alma mater, at the beginning of this century, I am even impressed by the connections between people. In addition, Leiden University will also pursue research by Lorenz and Kamerlingh Ones.


I feel that the very first barrier in science is understanding, including generalization. It is important for scientists to create as many "words" as possible that can be explained to the general public. In that respect, Huygens surpassed his initial difficulties.



Huygens's other works


You will also be amazed at the enterprising spirit of discovering Saturn's moon Titan, understanding the principles of the pendulum to make watches, and discovering and sketching the Orion Nebula. Especially in 1675, it is said that the world's first reciprocating internal combustion engine using gunpowder was formed. Since Newton's Principia was published in 1687, it is assumed that Huygens has uniquely shaped his thoughts on "instantaneous transmission power." I think this is a noteworthy aspect.


Huygens also left the ground for debate in later physics, assuming the existence of so-called ether. I think this achievement is also very important.

2023年05月14日

ロバート・ボイル
5/14改訂【「元素」を想定し混合物と化合物を明確に区別】

こんにちはコウジです!
「ボイル」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1627年1月25日生まれ ~ 1691年12月31日没】



アイルランドの貴公子ボイル


その名は正確には


サー・ロバート・ボイル: Sir Robert Boyle_


英国アイルランド生まれの物理学者です。


初代コーク伯爵リチャード・ボイルと


キャサリンの間に7番目の男子として生まれ


アイルランド現地の家庭に里子に出されます。


その結果、ボイルはアイルランド語を


理解し、通訳レベルまで習得しました。


ボイルはフランス人の家庭教師と


海外旅行をしていて、1641年冬には


イタリアのフィレンツェで過ごし、


ガリレオ・ガリレイの教えを受けます。


ガリレオは1642年に亡くなりますが、


まさに晩年のガリレオと接したのですね。


今の日本人ならボイルは中学生の年齢でしょうか。


多感な時期に良い刺激を受けた事でしょう。



帰国後のボイル


1644年に大陸の長旅を終えるとボイルは


多くの時間を科学に使い、後の王立協会


に繋がる集まりである「ロンドン理学協会」、


別名、「不可視の学院」とも呼ばれた集まりに


参加するようになります。


ボイル家の先代が亡くなって


いましたので、ボイルはアイルランドでの


立場もあったのですが、ロンドンで頻繁に


会合が開かれた事情もあり、ボイルは最終的には


オックスフォードに移り住みます。


実験器具が入手し辛いといった切実な


側面もあったようです。



ボイルとその法則


その後、フックを助手としてボイルは空気


ポンプを制作して圧力の研究を始めます。


フランスのパスカルが同じ時代に研究をしていること


を考えると当時の物理学会での関心が


圧力にあった事が分かりますね。ニュートン力学


が成立していない時代には「力を加える」こと


よりも「圧力を加える」方が定量的に現象を把握出来る


作業だったとも言えるでしょうか。フック


ボイルの助手なので、ばねに関わる力の定式化が


出来ていないと思われます。そんな時代に力は


重力と関連して評価するしかなかったのでしょうか。


個人的に関心を持ってしまいました。


やがてはボイルの研究は圧力と体積との関係を


示す、ボイルの法則に繋がります。


ただ1660年迄にボイルは


「体積は圧力に反比例する」と明言していて、


書物での記録はあるようですが、


温度や分子量との関連を含め、


現象の定式化には至らなかったようです。


『実際の定式化はヘンリー・パワー


Henry Power FRS (1623–1668))によって


1661年になされているようです。』


【以上、3行は英語版Wikipedia情報】


このボイルの考案した「ボイルの法則」が一つの基礎となり


熱・統計力学の土台が構築されていきます。


更にこの後、


J・C・シャルルが考案した「シャルルの法則」が


温度との関係を与えますので高校レベルの知識として


「ボイル・シャルルの法則」が確立される訳です。


低圧力・高温度の条件下で、異なる気体間で法則が成


り立つことは自明ではないのですが


経験的法則として成り立ち、


後に様々な方式で発展していきます。


最後に、ボイルは錬金術の伝統を受継いで


いましたが、近代的な視点を持ち「元素」を想定して、


混合物と化合物を明確に区別した点で秀でています。


ボイルが明確にしたパラダイムシフト


は非常に大きな業績だと言えるのではないでしょうか。



【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/11/04_初稿投稿
2023/05/14_改定投稿


(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
イギリス関係のご紹介
イタリア関係のご紹介

オックスフォード関連
熱統計関連のご紹介


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


【対応英訳】



His name is Sir Robert Boyle.


He is a physicist born in Ireland, England. He was born as the seventh boy between the first Earl of Cork Richard Boyle and Catherine and is fostered in a local Irish family. As a result, Boyle understood Irish and mastered it to the level of an interpreter.


In his younger days, Boyle travels abroad with a French tutor and spends the winter of 1641 in Florence, Italy, where he is taught by Galileo Galilei.


Galileo died in 1642, and Boyle had in contact with Galileo in his later years. Is Boyle the age of junior high school for Japanese people today, isn't it? He would have been well inspired during a sensitive period.


After completing his long journey on the continent in 1644, Boyle spent a lot of his time in science, attending a gathering that later led to the Royal Society, also known as the "London Science Society," also known as the "Invisible College." 


Boyle had a position in Ireland because the predecessor of the Boyle family had died, but due to frequent meetings in London, Boyle eventually moved to Oxford.


He seems to have had an urgent aspect that it was difficult to obtain laboratory equipment. After that, with Hook as his assistant, Boyle created an air pump and began researching pressure.



Pascal in France 


Considering that Pascal in France was doing research at the same time, you can see that the interest at the Physical Society  at that time was about" pressure ". In an era when Newtonian mechanics was not established, it can be said that "applying pressure" was a task that could quantitatively grasp the phenomenon rather than "applying force". Since the hook is a boil assistant, it seems that the force related to the Spring has not been formulated. Was force only evaluated in relation to gravity in such an era?



I'm personally interested. Boyle's research eventually led to Boyle's law, which shows the relationship between pressure and volume.


However, by 1660, Boyle had stated that "volume is inversely proportional to pressure," and although there seems to be a record in his book, the phenomenon was not formulated, including the relationship with temperature and molecular weight. It seems.


"The actual formulation seems to have been done in 1661 by


Henry Power FRS (1623–1668))."


[The above 2 lines are English translation version of Wikipedia information]



Boyle-Charles's law


The "Boyle's Law" devised by Boyle will be the basis for building the foundation of statistical mechanics. Furthermore, after this, "Charles's law" devised by JC Charles gives a relationship with temperature, so "Boyle-Charles's law" as high school level knowledge is established. It is not obvious that the law holds between different gases under low pressure and high temperature conditions, but it holds as an empirical law and later develops in various ways.


Finally, Boyle has inherited the tradition of alchemy, but excels in having a modern perspective and assuming "elements" to make a clear distinction between mixtures and compounds. It can be said that the paradigm shift that Boyle clarified is a very big achievement.


2023年05月13日

ブレーズ・パスカル
5/13改訂【「人間は考える葦である」】

こんにちはコウジです!
「パスカル」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】




【スポンサーリンク】
【1623年6月19日 〜 1662年8月19日没 】


数学者にして哲学者のパスカル


フランスに生まれたブレーズ・パスカルは


物理学者にして数学者にして哲学者です。


17世紀頃までの自然科学に関わる学者達は


細分化が出来ていない傾向があり、


時代を感じさせる部分でもあります。


 

そして何よりパスカルといえば、その残した言葉、


「人間は考える葦である」がまず思い浮かびます。


思考法を確立していった人であって、


その点では古代ギリシャの哲学者に近い印象です。


中世に至るまでの人間の歴史には「科学的な側面」を


あまり感じません。経験の蓄積、文化の蓄積から生じた


機能美があるのですが、素材も含めて経験からの


アプローチが大きかったのではないでしょうか。


 

無論、思想の停滞は今迄に沢山の場で


論じられてきた話題だと思えます。話戻って、


パスカルは考え続けた人でした。



パスカルの業績 


パスカルの遺稿集であるパンセは有名です。


総合的に物事を考えています。


死後、遺品整理で改めて分かったのは


「神」をも思考の対象として考えて、


様々な思考を繰り返し


確率論、優先順位を考え、様々な証明方法


を使っていたということです。


 

実際に分かり易い例として、


数学の上では三角形の内角の和を考えた時に


合計180度であると子供時代に証明していたようです。


平行になる工夫をして補助線を一本引く


だけなのですが、それを思い付いたときは


どれだけ嬉しかったことでしょう。


きっと感動があったはずです。



パスカルが残した沢山の発明


 

物理学の面では圧力に関する


パスカルの原理が有名で


その後、今に至るまで油圧機器に多用されてます。


またパスカルは実業家としての側面も持っていて、


今日で言うバスのシステムを乗り合いタクシー


という形で実現しています。


 

またパスカルは


子供時代から機械式計算機の制作をしています。


徴税吏員である父親の仕事軽減が目的だったようです。


少し、ほのぼのする逸話ですね。また、


昔フランスでの500フランにパスカルの顔


が描かれていたようです。そしてパスカル


は39歳で亡くなっています。


何よりも圧力の概念を面積との関係で確立していき、


後の定量的議論の土台として確立した


功績は大きいのではないでしょうか。


現在では圧力の単位としてパスカルは名を残してます。



フランスの誇る偉人ですね。




以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】



(対応英訳)


 Blaise Pascal ,Born in France, is a physicist, mathematician and philosopher. Until around the 17th century, scholars involved in the natural sciences tended to be undivided, which is a part that makes us feel the times.


And above all, when it comes to Pascal, the remaining word, "human beings are reeds to think about," comes to mind first. He was the one who established the way of thinking, which gives an impression close to that of an ancient Greek Philosopher. I don't really feel the "scientific side" of human history up to the Middle Ages.


There is a functional beauty that arises from the accumulation of experience and culture, but I think the approach from experience, including the materials, was the main part of Way Of Tinking. Of course, the stagnation of thought seems to be a topic that has been discussed in many places. Returning to the story, Pascal was the one who kept thinking. His collection of Pascal's manuscripts, Pensées, is famous. He thinks about things comprehensively.



After his death,


what he learned from his relics was that he also considered "God" as an Object  Of Thought, repeated various thoughts, considered probability theory and priorities, and used various proof methods. ..


As a practically straightforward example, he seems to have proved in his childhood that mathematically, when considering the sum of the angles of a triangle, the total is 180 degrees. He only draws one auxiliary line, but how happy he was when he came up with it. He must have been impressed.



Pascal’s works


In terms of physics, Pascal's principle regarding pressure is famous, and since then, it has been widely used in hydraulic equipment. Pascal also has an aspect as a businessman, and realizes the Bus System that we call today in the form of a shared taxi.


Pascal has also been making mechanical calculators since his childhood. It seems that his purpose was to reduce the work of his father, his tax collector. It's a little heartwarming anecdote. Also, it seems that Pascal's face was drawn on 500 francs in France long ago. And Pascal died at the age of 39.


Above all, he established the concept of pressure in relation to area, and I think he has made great achievements in establishing it as the basis for later quantitative discussions. Today, Pascal has left its name as a unit of pressure.
He is a great man in France.

2023年05月12日

ヘンリー・パワー:H Power FRS
‗5/12改訂【圧力と体積の関係の定式化】

こんにちはコウジです!
「パワー」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1623年生れ ~ 1668年没】


ヘンリー・パワー:Henry Power FRS



ヘンリー・パワーの来歴


ヘンリー・パワーは日本ではあまり聞かれない名前です。
調べてみると英国物理学で「しっかりとした仕事」をしています。
それにも関わらず日本ではあまり紹介がされていません。
日本語版ウィキペディアでの紹介が無く、
紹介は英語版のみです。


実際には
「圧力と体積の関係の定式化」を考えていくともう少し後の時代に
ウィリアム・へンリーという別人も「気体の研究で出てくる」ので
注意が必要です。ヘンリーの法則はヘンリーパワーとは無関係のようです。
今回ご紹介するヘンリー・パワーは
王立協会で初めて選出された フェローの なかの1 人です。


具体的にパワーは、1641 年にケンブリッジで有名な
「クライスト カレッジ」で文学士号を得ました。
パワーは 1663 年 に王立協会のフェローに選出されています。
パワーと準男爵 ジャスティ・ニアヌス イシャムは、
最初に選出されたメンバーなのです。



ヘンリー・パワーの業績


パワーの唯一の出版された著作は「実験哲学」です。
3 冊のからなる彼の本は、それぞれ観測の方法論(corpuscularian theory)
と粒子理論を扱っています。また、
ヤコブス・グランダミクス(ジャック・グランダミ、1588–1672)
の論文に対して反論をしています。


ボイルの法則との関連も特筆すべきです。
あらかじめ行った実験で、パワーは、後に「ボイルの法則」
として知られるガスの圧力と体積の関係を発見しました。


圧力と体積の関係は、「実験哲学」でヘンリーが紹介しています。
しかし、それにもかかわらず、「実験哲学」の出版とリチャード・タウンリーの
唯一の仕事との混同がされているようです。


ボイルの理論への言及は、「実験哲学」の出版よりも 1 年先行し、
ボイルのアイデアの上記宣伝と、貴族の科学者としてパワーは有名なので、
パワーの理論が「ボイルの法則」として知名度があります。


ボイルはタウンリーが唯一の研究者であると誤解して、
パワーの貢献が歴史上ほとんど失われているのです。
最後に、英語版ウィキペディアからパワーの業績部分を抜粋します。
ご参考としてください。(以下6行抜粋)


Henry Power discovered the relationship between the pressure and volume of a gas that later became known as Boyle's law. This relationship was outlined in "Experimental Philosophy". However, many may argue nevertheless that a prepublication manuscript of "Experimental Philosophy" cited the hypothesis as the sole work of Richard Towneley.


Boyle's mention of the theory preceded the publication of "Experimental Philosophy" by one year, which, combined with Boyle's promotion of the idea and his significant status as an aristocratic scientist, ensured the theory would be known as "Boyle's Law". Boyle attributed Towneley as the sole researcher, ensuring that Power's contributions were all but lost to history.




【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
問題点に対しては
適時、返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2023/04/07‗初稿投稿
2023/05/12‗改訂投稿


旧舞台別まとめへ
舞台別のご紹介へ
時代別(順)のご紹介
力学関係
電磁気関係
熱統計関連のご紹介
量子力学関係


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


(2023年4月時点での対応英訳)


 Perdonal History of Henry Power


Henry Power is a name not often heard in Japan.
I looked it up and he has "a solid job" in British Physics.
Despite this, it has not so famous much in Japan.
in addition,
There is no introduction on the Japanese version of Wikipedia,
The introduction is in English only.


in fact
Considering the "formulation of the relationship between
pressure and volume", in a little later era
Another person named William Henry also "appears in the study of gases," so
Caution is required.


Henry's law seems to have nothing to do with Henry power.
Henry Power to introduce this time
One of his Fellows who was first elected to the Royal Society.


Specifically Power was founded in Cambridge in 1641 by the famous
He earned a Bachelor of Arts degree from 'Christ College'.
He had power in which he was elected a Fellow of the Royal Society in 1663.
Power and his Baronet Justy Nianus his Isham,
I am the first elected member.


Achievements of Henry Power


Power's only published work is "Experimental Philosophy".
His three books each deal with a corpuscular theory.
and particle theory. again,
Jacobus Grandamicus (Jacques Grandami, 1588–1672)
I am arguing against the paper of


He is also notable for his connection with Boyle's law.
In his preliminary experiments, power was later found in "Boyle's Law"
discovered the relationship between gas pressure and volume known as .


The relationship between pressure and volume is outlined in "Experimental Philosophy".
But nevertheless the publication of "Experimental Philosophy" and Richard Townley's
It seems that there has been confusion with only one job.


References to Boyle's theory preceded the publication of "Experimental Philosophy" by a year,
Because of the above publicity of Boyle's ideas and his power as an aristocratic scientist,
The theory of power became known as "Boyle's Law".


Boyle misunderstood that Townley was the sole researcher,
The contribution of power is largely lost to history.
Finally, I will excerpt Power's achievements from the English Wikipedia.
Please use it as a reference. (6 lines below)


Henry Power discovered the relationship between the pressure and volume of a gas that later became known as Boyle's law. This relationship was outlined in "Experimental Philosophy". the sole work of Richard Towneley.


Boyle's mention of the theory preceded the publication of "Experimental Philosophy" by one year, which, combined with Boyle's promotion of the idea and his significant status as an aristocratic scientist, ensured the theory would be known as " Boyle's Law". Boyle attributed Towneley as the sole researcher, ensuring that Power's contributions were all but lost to history.



2023年05月11日

ルネ・デカルト 
5/11改訂【我思う、故に我あり|近代(合理)哲学の祖】

こんにちはコウジです!
「デカルト」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1596年3月31日〜1650年2月11日没】



デカルト概説


ルネ・デカルト(仏: René Descartes)は、


フランスに生まれた哲学者にして、数学者です。
そして。合理主義哲学の祖でもあります。
一般には近世哲学の祖として知られています。


「我思う、ゆえに我あり」の言葉は有名です。


思索の主体と対象を考えている命題で、


当時主流だったスコラ哲学による考え方と大きく異なります。


スコラ哲学時従えば、信仰とは元来、自己を捧げる事で成立する行為で、


信仰が人間では作り上げられない「真理」の獲得へと繋がっていくのです。


当時流行していたスコラ哲学の保守的な考え方にデカルトは疑問を抱き、


新しい哲学的な命題を打ち立てたのです。


太陽の光が大地に降り注ぐように、


人間の理性が自然に活動する中で真理へと


近づいていけるであろうという考えがデカルトの信念なのです。



デカルトの修業時代


経緯を考えていくと、デカルトは
イエズス会の学校に所属して研鑽を進めます。


先ずイエズス会のラ・フレーシュ (La Flèche) 学院
に入学します。当時、


イエズス会の学校はフランスに15校。


その中でもフランス王アンリ4世自身が


関わっていたラ・フレーシュ学院です。


当時はとても有名でした。


 

ラ・フレーシュ学院ではフランス中から
優秀な教師、生徒が集まっていました。


プロテスタントは「信仰と理性は調和しえない」
という教義に基づきます。


それに対してカソリックを掲げるイエズス会は
理性を信仰に取り入れて
スコラ哲学を
教育カリキュラムに取り入れていました。


更に自然科学の前進となる考えも好意的に取り入れていて、


ガリレオ・ガリレイが望遠鏡で初めて木星の衛星をとらえた時には


学院ではお祝いの催しが開かれたそうです。


デカルトが教えを受けた学院での教義の中では哲学は不完全なもので、


「その完成には哲学が必要である」と断言しています。


デカルトは学院で論理学・形而上学・自然学、占星術、


秘術(今で言う魔術の系統)を学んでいきます。


とりわけ自然科学の中で数学を好んで数学的な論法で


議論する事もありました。そうした基礎教養を身に着けた後に



デカルトの遍歴時代


遍歴の時代をデカルトは過ごします。


22歳のときにデカルトはオランダで軍隊に参加します。


対象の時期は80年戦争での休戦期間なので、


デカルトの実戦参加は無かったであろうという考えが定説です。


それよりも寧ろ、軍隊の中での最新兵器の
開発にデカルトは興味を持ちました。


優秀な技術者と交流して知見を広める事が
大きな軍隊参加の目的の一つでした。



ベークマンとの幸運な出会い


後にデカルトはイザーク・ベークマンという人物


に出会い知的な刺激を受けます。ベークマンは医者でありながら


自然科学や数学に長けていました。


ベークマンからデカルトが知った概念は次のようなものです。
@原子の概念、
A真空の概念、
B運動保存の概念、です。


それらは現代の物理学へと繋がっていく概念です。
この時期にそうした概念の「基礎」が出来てきたのですね。
そしてベーグマンはコペルニクスの考えに共鳴していて指示していました。
ベーグマンと共にデカルトは思想を発展させていきます。
自由落下に対して見識を深め、
水圧に対して見識を深め、
三次方程式などの数学的な概念も発展させていきます。






以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。



nowkouji226@gmail.com

2022/10/02_初稿投稿
2023/05/11‗改訂投稿

(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
フランス関連のご紹介



【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


(2022/10月時点での対応英訳)



About Descartes


René Descartes was a philosopher and mathematician born in France.
And. He is also the founder of rationalist philosophy.
He is generally known as the founder of early modern philosophy.


He is famous for saying, "I think, therefore I am. It is a proposition that considers the subject and object of contemplation.


This is a proposition that differs greatly from the viewpoint of Scholastic philosophy, which was the mainstream at the time.


According to the Scholastic philosophy, faith is an act that is originally formed by offering oneself.


Faith leads to the acquisition of "truth" that cannot be created by human beings.


Descartes questioned the conservatism of the scholastic philosophy


and Descartes questioned the conservatism of scholastic philosophy and formulated a new philosophical proposition.


Just as the sun's rays fall on the earth. As the sun's rays fall on the earth,


the natural activity of human reason Descartes' belief is that


we can come closer to the truth through the natural activity of human reason,


just as the sun's rays fall on the earth.



scholl days of Descartes


Descartes belonged to the school of the Jesuits,


where he studied. He first entered the Jesuit Institute of La Flèche.


At the time, there were 15 Jesuit schools in France.


Among them was the famous La Flèche Institute, where King Henry IV of France himself had involved.


There, excellent teachers and students gathered at that Jesuits.


Protestantism is based on the doctrine that "faith and attitude cannot be reconciled.


The Jesuits, on the other hand, were catholic, and they adopted reason


as an aggressor and incorporated scholastic philosophy into their educational curriculum.


They also favored ideas that advanced the natural sciences,


and celebrations they held at the Institute when Galileo Galilei first observed


the moons of Jupiter through his telescope.


In the doctrine of the Institute where they taught Descartes, philosophy was incomplete.


In the doctrine of the Institute where Descartes was taught,


philosophy is incomplete and "needs philosophy for its perfection".


Descartes studied logic, metaphysics, natural science, astrology, and the mystic arts


(the lineage of what we now call witchcraft) at the Institute.


He was especially fond of mathematics in the natural sciences,


and sometimes used mathematical arguments in his discussions.



itinerancy of Descattes


After acquiring such a basic education, Descartes spent a period of itinerancy.


At the age of 22, Descartes joined the army in the Netherlands.


They said that he would not have fought in actual battles during this period,


as it was a period of truce during the 80 Years War.


Rather, Descartes had been interested in the development of the latest weapons in the army.


It seems that his goal was to interact with excellent engineers and broaden his knowledge.



Meet with Beekman


Descartes then met Isak Beekman, they gave an intellectual stimulus with each other.


Beekman was a doctor. Beekman also had knowkedge in the natural sciences and mathematics.


Descartes learned the following concepts from Beekman.
(1) the concept of the atom,
(2) the concept of the vacuum, and
(3) the concept of the conservation of motion.


These are concepts that lead to modern physics.


It was during this period that Desvarts got the "foundation" for such concepts.


And Beegman was sympathetic to and directed Copernicus' ideas.


Descartes developed his ideas together with Beegman.


He gained insight into free fall, he gained insight into water pressure,


and he also developed mathematical concepts such as cubic equations.


(At first, I translated with www.DeepL.com/Translator (free version) and collected)

2023年05月10日

ヨハネス・ケプラー:Kepler
5/10改訂【年間の観測情報から数学を使い天文学を確立】

こんにちはコウジです!
「ケプラー」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1571年12月27日生まれ ~ 1630年11月15日没】



ケプラーの生い立ち


ドイツのヴァイル(Weil-der-studt(1935年の記載))
に生まれたケプラーは天文学者にして数学者、
哲学者、占星術師でありました。


そして、不幸な家庭環境で育ちます。
ケプラーの母は薬草治療をしてました。楽しい思い出は
「家族で月食を見た」くらいだったと言われています。


ケプラーは数字を厳密に扱う反面で無頓着な側面


もあったと言われています。例えば自分の名前を書くときに


kepler, keppler, khpler, kepierusを同じ時期に使っていた
(アーサー・ケストラー著「ヨハネス・ケプラー」より引用)


と言われています。 なにより、  


ケプラーの天文物理学の仕事として素晴らしい点は、


年間の観測情報から数学を使った考察を進め、


天体の星達が(基本的には平面上で)楕円軌道を描く


とか公転周期と面積速度の関係を導き出すといった


秩序だった理論的な結果を導き出した点です。


ケプラーは「数学モデル」を物理学に当てはめた


初めての物理学者だったという事実も見逃せない点です。


今では当たり前に思えるのですがケプラーの時代は


物事を考える土壌が出来上がっていませんでした。


更に実験を結びつけて議論の裏付けをとり、


後の時代の物理学者たちは説得力を増すのです。


 

そんなケプラーは幼少期に苦労します。


ケプラーの父は家族の為に傭兵として戦いに参加します。


ケプラーが5歳から17歳の間、頑固で喧嘩好きな父は家族と離れ


暮らしていました。そして八十年戦争と呼ばれた戦いで、父は


ネーデルランド(現.オランダ)で亡くなったと言われています。


そしてケプラーは幼少時代に
神学校に通い教養を身に付けます。
そこでは
日常会話もラテン語で行われる、厳格な教育がなされました。
後のケプラーのドイツ語で書かれた手紙などの文体は
「天真爛漫で泥臭く魅力的であるものとなっており、
あたかも厳しい講義室から解放されて、
田舎の縁日か何かで楽し気な歌声をあげている、
というような響きがある。」と評されています。
(アーサー・ケストラー著「ヨハネス・ケプラー」より引用)
逆説的ですがラテンの教養はケプラーの人生に
重要な
効果を与えていたのではないでしょうか。 


また、ケプラー本人は天然痘にかかり視力低下にあい、
一生続く苦難を受けました。また天然痘では、、、
ケプラーは妻子を失ってしまいます。



ケプラーの業績


 

そんなケプラーは天文学者として地動説に出合いました。


特にコペルニクスがコペルニクス的転回を打ち出した


タイミングでケプラーは天文を学びましたが、


ケプラーはコペルニクスを全面的に支持します。


そういった考え方を読んで推し進めるケプラーを


今度はガリレオ・ガリレイが支持します。


そして何よりケプラーはティコ・ブラーエに出会います。



ケプラーと科学の進歩


科学が飛躍的に進化する時代があると思えますが、


ケプラーの前後の時代はまさに、そんな時代でしょう。


この時代の動きがあったからこそ、後の時代の思索の中で


力学が生まれてきて、電磁気学が生まれてきたのです。


20世紀の初頭にも国を超えて人々が議論して


科学技術に大きな進展が見受けられました。


そんな視点で「社会史」の側面を垣間見ながら


「科学史」を考えてみると人類の進化を感じられます。


私が「進化」と呼んだ「変化」が好ましいか


という議論がありますが、私は好ましいと思います。


可能性が広がるからです。


技術(知見)を制御する責任は別問題で別に議論します。


 

ティコ・ブラーエは遺言で集めた膨大な


データを遺産としてケプラーに残しました。


価値ある貴重なデータをケプラーがが受け取り


そして整理して様々な法則を作り出します。


2人の業績から今に残るケプラーの法則が完成したのです。


惑星の運動は体系立てて幾何学上で表現されています。


ケプラーは星を考える枠組みを作り出したのです。


そして次なる様々な理論体系に繋がっていったのです。



〆最後に〆


【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/10/19_初版投稿
2023/05/10_改定投稿


旧舞台別まとめ/
舞台別の纏め
時代別(順)のご紹介
デンマーク関係の紹介へ
ドイツ関連のご紹介へ


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】



(対応英訳)


Kepler's Birth Born


Kepler's Birth Born in Germany, Kepler was an astronomer, mathematician, philosopher, and astrologer. And Kepler's mother was doing herbal remedies. The great thing about Kepler's work in astronomical physics is that it advances mathematical consideration from annual observation information, and the stars of the celestial body draw elliptical orbits (basically on a plane), orbital period and area velocity. It is the point that we have derived an orderly theoretical result such as deriving a relationship. It is also worth noting that Kepler was the first physicist to apply a "mathematical model" to physics.


Kepler struggles in his childhood. Kepler's father participates in the battle as a mercenary for his family. While Kepler was between the ages of five and 17, his father lived away from his family. Kepler's father died in the Netherlands in a battle called the Eighty Years War. In addition, Kepler himself suffered from smallpox and suffered from his poor eyesight for the rest of his life. Also in smallpox, Kepler loses his wife and children.



 Kepler's Work


Kepler came across the heliocentric theory as an astronomer. Kepler learned astronomical, especially when Copernicus launched a Copernican Revolution, but Kepler fully supports Copernicus. Galileo Galilei now supports Kepler who read such an idea. And above all, Kepler meets Tycho Brahe.


It seems that there is an era in which science will evolve dramatically, but the era before and after Kepler is exactly such an era. It seems that the movement of this era was the reason why mechanics was born and electromagnetics was born in the thoughts of later times.


Even at the beginning of the 20th century, people from different countries discussed and made great progress in science and technology. If you think about "history of science" while glimpsing the aspect of "social history" from that perspective, you can feel the evolution of humankind. There is some debate about whether "change," which I called "evolution," is preferable, but I think it is preferable. Because the possibilities open up. Responsibility for controlling technology is discussed separately on a separate issue.



Kepler's Data


Tycho Brahe left Kepler with the vast amount of data he collected in his will as his legacy. Kepler receives valuable and valuable data and organizes it to create various laws. From the achievements of the two, Kepler's law that remains today was completed.


The movement of planets is systematically and geometrically represented. Kepler created a framework for thinking about stars. And he was connected to the following various theoretical systems.



2023年05月09日

ガリレオ・ガリレイ
【近代科学の父、天文学の父|数学的モデルを作り実験】

こんにちはコウジです!
「ガリレオ」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1564年2月15日生まれ ~ 1642年1月8日没】



ガリレオの生きた時代


イタリアのガリレオ・ガリレイの名は世界中で
近代科学の父、天文学の父として知られています。


数学的なモデルを確かにして現象から
パラメターを選びその数値を観測可能な
道具を選ぶ事で実験検証する手法は
ガリレオが確立したものです。


そして、
ガリレオの生誕年での西暦はユリウス暦で
死没年の西暦はグレゴリオ暦です。


ガリレオ・ガリレイはそんな
2つの暦を使う時代に生きていました。


そんなガリレオが生きた時代には自然科学の考えに対して


暗黒の時代背景がありました。教会が力を持ち、


表現が不適切とされた時には社会的な制裁を受けました。


ジョルダーノ・ブルーノという哲学者は火炙りに処されています。


ブルーノの断罪は多岐に渡ります。


その中の一つが天体関連です。


当時の教会の考えでは、地球が太陽や土星の様に


運行してはならないのです。今では理不尽とも思えますが。



ガリレオの研究環境と業績


そんな時代の中でガリレオも艱難辛苦に晒されます。


権力争いに巻き込まれ、天体に関する考えから


異端審問を受け、社会的立場を悪くします。


軟禁状態にあり、体調も悪くなっていきます。


そんな有り様を知ったデカルトは論文発表を控えた


と伝えられています。更にはガリレオは失明します。


これは一説には過度の天体観測のせいだとも


言われています。ただ、その後も息子や弟子達の


助けを借りて出版をしたり振り子時計を発明したりしています。


振り子の等時性をもとにして,周期を起点に考えていき、


時を刻む仕組みを設計していたのです。


まさにプロトタイプの精密機械ですよね。


そして、最後は77歳で亡くなっています。



〆最後に〆




テックアカデミー無料メンター相談
【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/10/22_初回投稿
2023/05/09_改定投稿


(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
イタリア関係のご紹介
力学関係のご紹介


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】





(対応英訳)


First, Galileo's birth year is the Julian calendar and the death year is the Gregorian calendar. Galileo Galilei lived in an era of using these two calendars.


The name Galileo Galilei of Italy is known all over the world as the father of modern science and the father of astronomy.


Galileo has established a method for experimentally verifying by making sure of a mathematical model, selecting parameters from phenomena, and selecting tools that can observe the numerical values.


When Galileo lived, there was a dark background to the ideas of the natural sciences. He was subject to social sanctions when the church was powerful and improperly expressed. A philosopher named Giordano Bruno is burned at the stake.


Bruno's condemnation is wide-ranging. One of them is related to celestial bodies. The idea of ​​the church at that time was that the earth should not operate like the sun or Saturn. It seems unreasonable now.


In such an era, Galileo is exposed to hardships.


He gets caught up in a power struggle, gets an inquisition from his thoughts on celestial bodies, and makes his social position worse. He is under house arrest and his condition is getting worse.


It is reported that Descartes, who knew such a situation, refrained from publishing his treatise.


Furthermore, Galileo loses his eyesight. It is said that this is due to excessive astronomical observation in one theory. However, he has continued to publish and invent pendulum clocks with the help of his sons and disciples.


Based on the isochronism of the pendulum, he started thinking from the cycle and designed a mechanism to keep track of time. It's a prototype precision machine, isn't it?


And he finally died at the age of 77.

2023年05月08日

ジョルダーノ・ブルーノ
5/8改訂【宇宙の無限を説き異端審問を受けた殉職者】

こんにちはコウジです!
「ジョルダーノ・ブルーノ」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1548年生まれ ~ 1600年2月17日没】


ジョルダーノ・ブルーノはイタリア生まれの哲学者にして


ドミニコ会の修道士です。ルネッサンスの時代の人で


有名なガリレオ・ガリレイと生きた時代が重なります。


科学者のご紹介という視点からは少しずれますが、


自然観の変遷という観点から科学史の中で論じます。


 

コペルニクスの時代から時が過ぎ、


教会の世界観は変化しています。


当時のヨーロッパの人々の世界観について


教会が支配的立場をとるのです。その中で、


現代の我々の視点からは当時人々の不合理さは


受け入れ難いです。最終的にはブルーノは


火炙りに処されてしまいます。宇宙は有限ではなく無限で、


地球や太陽も星の中の1つ、というブルーノの考えは


当時の社会的な価値観と合いませんでした。


当時としては不愉快な考えだとも思われたのです。


そして火あぶり。酷い話です。


 

何よりも、ブルーノは


ドミニコ会の修道士でした。


「神の作りたもう世界は限り無い」


という信念をもっていて、


権威に立ち向かいつつも


彼なりに良心的な判断をして


考え方を構築していったのです。


 

数学的モデルで検証して欲しかった。


実験結果と照らして判断して欲しかった。


科学が得意な人々と議論して欲しかった。


私は勝手に、そう思います。


 

最後に、ブルーノの名誉回復の話です。


20世紀になってヨハネ・パウロ2世の時代に


過去の見直しが成され、ブルーノの処刑は不当である


として、異端判決を取り消しています。新しい発想を


作り出したブルーノが再評価されたのです。


今、ブルーノは思想の自由に殉じた


”殉職者”として評価されています。





テックアカデミー無料メンター相談
【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/10/23_初回投稿
2023/05/08_改定投稿


(旧)舞台別
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)
イタリア関係
力学関係


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


(対応英訳)


Giordano Bruno is an Italian-born philosopher and Dominican monk. Bruno lives with the famous Galileo Galilei.


This paper discusses Bruno in the history of science from the perspective of nature.


 

Time has passed since the days of Copernicus, and the world view of the church has changed. The church takes a dominant position in the worldview of the European people at that time. Among them, the absurdity of people at that time is unacceptable from our modern point of view. Eventually Bruno will be burned at the stake. Bruno's idea that the universe is not finite but infinite, and that the earth and the sun are one of the stars, did not fit the social values ​​of the time.


It seemed like an unpleasant idea at the time. And Bruno burns at the stake. It's a terrible story.


Above all, Bruno was a Dominican monk.
He had his belief that "the world created by God is endless," and he built his mindset while confronting authority and making his own conscientious decisions.


He wanted it to be verified with a mathematical model. He wanted him to judge in the light of the experimental results. He wanted to discuss with people who are good at science. I think so without permission.


Finally, the story of Bruno's rehabilitation. In the 20th century, during the time of John Paul II, and the heretical judgment was revoked, saying that the execution was unjustified. Bruno, who created a new idea, was re-evaluated. Bruno is now regarded as a free-spirited line of duty death.


2023年05月07日

ティコ・ブラーエ5/7改訂【ケプラーを助手として独自の宇宙論(宇宙体系)を展開】

こんにちはコウジです!
「ティコ・ブラーエ」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】


【1546年12月14日生まれ ~ 1601年10月24日没】



【スポンサーリンク】
【;Tycho Brahe‐1546年 ~】


ティコ・ブラーエはデンマークの貴族です。


多彩な能力を持っていて天文学で業績を残した他に、


作家・占星術師・錬金術師としても活動していました。


実際そうした活動領域の「あいまいさ」は当時の科学者


と呼ばれていた人に広く見受けられる傾向で、


自然科学が広く行き渡った我々の時代からは全く


想像出来ない環境です。概念的に今でも


心理学やマーケティングでペルソナという概念が


使われていたりしますが、当時は真面目に悪魔の存在


が信じられていたりしました。むしろ悪魔の概念を、当時の


キリスト教会の指導者達が利用した面もあります。


 

さて、意外なエピソードとして


「ティコ・ブラーエの鼻」の話があります。


その鼻は若き日の決闘によって鼻梁が無くなっていて、


それ以降、ティコは金属製の付け鼻をしていたのです。


ティコ・ブラーエの考え方では


地球が世の中の中心にあり、太陽は地球の


周りを回転していると考えていました。天動説です。


天体運動を考えた時にプトレマイオスの


「アルマゲスト」という著作が有名で、慣性を考慮せずに


「地球が動くなら空の鳥は西に流されていく」だから


(実際には)「地球は動かない」人々は信じていました


確かに相対的な位置関係としては


太陽の動きは説明出来ますが、後の学者達


が整理した色々な星のデータベースと


整合性がとれる考えではありませんでしたでした。


特に、コペルニクスの著書である「天球の回転について」


をティコ・ブラーエは所蔵していて


綿密な書き込みをしていたという研究報告もあります。


当時のコペルニクスの著作は売れていない本だったよう


ですが天体関係者達のネットワークの中で「天体の…」


「良書」だと噂され議論の題材となっていたのです。


そのようにして、ティコ・ブラーエが科学的アプローチを


続ける中で当時の知見を使って判断していたのです。


ただ何より、ティコ・ブラーエの観測データは


正確無比でした。後にデータを引き継いだ


ケプラーがコペルニクス的転回をして地動説の知見


に立ち返り、データをもとに地球が自転しながら


太陽の周りをまわる理論を打ち出します。


全体的に見て、ティコ・ブラーエの考えは間違いでしたが、


星の観測の業績としてはとても大きかったと言えるでしょう。


また、色々な人の業績がつながっていく視点で見た時に、


ティコ・ブラーエの残したデータが後に使われていた事実は


とても重要だといえます。間違った点があったことは事実ですが、


ティコ・ブラーエ彼はそれでも追及を続けていて、


彼の残したデータをもとに後の人々が議論をして、


宇宙の理解へと進んでいったのです。


現代の考えに近づきロケットが飛び知見が重なり、


これからも進化するのです。





テックアカデミー無料メンター相談
【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/12/22_初版投稿
2023/05/07_改定投稿


(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
デンマーク関係の紹介へ
力学関係のご紹介


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】



(対応英訳)



Tycho Brahe is a Danish aristocrat.
In addition to his versatile abilities and achievements in astronomy,
He was also active as a writer, astrologer, and alchemist.
Also, as a surprising episode, there is a story about "Tycho Brahe's nose".
The nose of Tycho Brahe has lost its bridge
due to a young duelSince then, Tycho has had a metal nose.


Tycho Brahe thought that the earth was at the center and the sun was rotating around the earth.


It is true that the movement of the sun can be explained as a relative positional relationship, but it was not an idea that was consistent with the database of various stars organized by later scholars.


In particular, there is a research report that Tycho Brahe possessed Copernicus's book "On the Revolutions of the Heavenly Spheres by Nicolaus Copernicus of Torin 6 Books" and wrote it in detail. That is how Tycho Brahe used his knowledge at the time to make decisions as he continued his scientific approach.


But above all, the observation data of Tycho Brahe is
It was unmatched in accuracy. Kepler, who later took over the data, makes a Copernican revolution, and based on the data, he proposes a theory that the earth rotates around the sun.


Overall, Tycho Brahe's idea was wrong, but it was a huge achievement in star observation.


Also, from the perspective of connecting the achievements of various people, the fact that the data left by Tycho Brahe was used later is very important. It's true that there was something wrong, but Tycho Brahe was still pursuing,


Based on the data he left behind, later people argued and proceeded to understand the universe.


Rockets will fly closer to modern ideas, and knowledge will overlap, and they will continue to evolve.

2023年05月06日

ゲオルク・レティクス_
5/6改訂【コペルニクスと天動説をまとめた】

こんにちはコウジです!
「レティクス」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【1514/2/16 〜 1574/12/4】



天文学のパイオニア・レティクス


その名はGeorge Joachim Rheticus または Rhäticus, Rhetikus と記します。
(外国の方ですから正確にコピペしました。)
天文学者レティクスはオーストリアに生まれました。


フェルトキルヒ、チューリッヒ、ウィッテンベルクでレティクスは数学的な素養を収めた後に1537年にウィッテンベルク大学で教授として働きだします。そして、その二年後から二年間の間、コペルニクスと共に暮らします。影響を与えあっていたのです。


当時の学問体系を考えたらニュートン力学も成立していませんし、
電磁気に関する理解もありません。道具立てとして使える学問は
天文学と数学なのです。


あえて他の道具を考えていくとすれば
ユダヤ教の発展と共に伝わってきた
「カバラ」
と呼ばれる数の体系です。キリスト教の色々な
話に基づき
数字一つ一つに意味を付けていきます。
13や7が比較的幸運な番号であるといった次第に
一つ一つの数字に意味が加わるのです。


数秘術としてカバラは占い師が受け継いでいる体系です。
中世には王家の意思決定などの時に(真面目に)「議論」
カバラの流儀で交わされて実際の祭り事が行われていました。


有名な人ではミッシェル・ノストラダムスはフランス王家に仕え、
カバラの思想に基づき助言を与え地位を確立しています。
レティクスも何人かのパトロンのもとで研究を続けます。



レティクス時代の宗教と政治


また、当時の宗教が政治的にも力を持っていた側面が大きいです。
特に中世以前はキリスト教の教えに従い
協会自治区が地方のあちらこちらにありました。

そうした経緯で、1096年から1303年にかけての期間に十字軍の時代には
聖地を確保するために十字軍が組織され、
大規模な軍事行動が行われました。


斯様な時代背景のもと、16世紀前半に
宗教改革をしたマルチン・ルター(1483- 1546)
によるコペルニクス(1473 - 1543)への批判が有名です。


宗教が科学に対する影響は大きいのです。ルターは
聖書の一節であるヨシュアによる


「日よとどまれ」(ヨシュア10:12〜13)


という言葉に着目しています。


「地球が動いているのではなくて太陽が動いている」
という概念が聖書の中での世界観が天文学にも
適用される事が好ましい世の中だったのです。


実験と経験を重視して考える思考はルター思想の中では目立ちません。
ルターによれば千年以上前に著された聖書の言葉が何より重いのです。
それだからルターはコペルニクスの考えを受け入れていないのです。


教会が権威を持ち堕落しているとの批判的な観点からルターは
神の言葉としての「聖書の文言」を大事にする聖書絶対主義を掲げました。


キリスト教の中でもプロテスタントとカソリックが
天文学に対して異なる見解を示します。


科学に対してキリスト教が偏見を持っていた事情は1973年に
ヨハネ・パウロ二世が「ガリレオ裁判の過ち」を
公式に謝罪するまで続きます。



レティクスとコペルニクス


精力的にレティクスはコペルニクスを支持し続けました。
時代背景にも関わらずに天動説を進めていきます。

コペルニクスの死後まもなく発刊された
「天球の回転について」

において天動説を形にします。


後世の天文学者が大事に使っていく概念を作り上げたのです。
いわゆる「コペルニクス的転回」が大部分の人に
理解されなかった時代に、レティクスは理解と復旧を進めたのです。






テックアカデミー無料メンター相談
【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2022/10/05_初版投稿
2023/05/06‗改訂投稿


舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
電磁気関係
オーストリア関連のご紹介


ーこのサイトはAmazonアソシエイトに参加していますー


(2022年10月時点での対応英訳)



Rheticus is an astronomer


I write down the name with George Joachim Rheticus or Rhäticus, Rhetikus.
(because he was foreign one, I copied and pasted it exactly.)
Rheticus is an astronomer born in Austria.


After having put the mathematical quality in felt Kirch, Zurich, Wittenberg, Rheticus begins to work as a professor in Wittenberg University in 1537. And, during two years after two years later, Rheticus lived with Copernicus. They affected each other.


The Newton dynamics was not there at that time, and there was no understanding about the electromagnetism, too. They must study Dynamics to be usable as preparations was astronomy and mathematics.



Era of Rheticus 


There was a system of the number called "The Cabala" that came with development of Judaism if I think about other learmings daringly. They add a meaning to one one number based on Christian various stories. They gave a meaning  to each gradually each number to be the number, that 13 and 7 are relatively lucky.


This thought is the system which a fortune-teller still inherits as a number secret art. They had done such a "discussion"  at the time of decision making of the royal family seriously in the Middle Ages, and every real festival was held.


Michelle, nostole dams served a French royal family in the famous people and Michelle gave advice based on Cabara and establish a position.
Rheticus continues studied it with some patrons, too.


On the oyher hand, the side that religion at the time had power politically was very strong. There was an association autonomous district in local many places according to Christian teaching before the Middle Ages in particular. They had organized Crusade to secure a "sacred place as process" in the times of the Crusade during a period from 1096 through 1303, and they had carried out a large-scale military campaign.



Rheticus and Religion


Copernicus criticism by Martin Luther who did the Reformation in the cause, the early 16th century of the background in such times has it pointed out. Religion has a big influence on science. By Jehosua who is one node of the Bible as for Luther "stay a day", and pay the attention to the word (Jehosua 10:12 - 13).


It was the world where it was preferable for a view of the world in the Bible, "the earth did not move, and the sun moved" to be applied to astronomy. The thought to focus on an experiment and experience in the thought of Luther, and to think about is not founded. Words of the Bible written according to Luther more than 1,000 years ago are heavy Important above all.


Because it is it, Luther does not accept a thought of Copernicus. Luther raised the Bible aesthetic absolutism to take good care of "the words of the Bible" as words of God from a critical point of view that Chnrch was corrupted if they paid a church for too many authority.


In addition, Protestantism and a Roman Catholic show a different opinion for astronomy in Christianity.
that the circumstances that Christianity prejudiced against for science continue until John Paul II apologizes for "the mistake of the Galileo trial" formally in 1973


Rheticus continues supporting Copernicus without being concerned in the background in those days and pushes forward the Ptolemaic theory.


Rheticus made the Ptolemaic theory a form in "about the turn of the celestial sphere" published soon posthumously of Copernicus. Rheticus made up the concept that a later astronomer used carefully. In the times when so-called "Copernican change" was not understood by most people, Rheticus pushed forward understanding and restoration.


 

2023年05月05日

コペルニクス
【1473年2月19日生まれ ~ 1543年5月24日没】5/5改訂

こんにちはコウジです!
「コペルニクス」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】



コペルニクスの若き時代


コペルニクスは王領プロイセンの一部であった現在のポーランドで生まれました。特に第2次大戦までのナショナリズムの時代には、その地に生まれた人々はドイツ人であると言われたりしていましたが、今日ではドイツ系ポーランド人と呼ばれることが多いです。地中海沿岸で生まれた科学の芽が世界中へと広がっていきます。天文学の知見も色々な所で議論されます。


プトレマイオスの時代からコペルニクスの時代まで千数百年が経っている点も指摘すべきです。後に考察しますがプトレマイオス後の長い期間の常識をコペルニクスは覆します。世界観の転換です。 


生活の面を考えていくとコペルニクスは職業として天文学に専念出来る仕事に従事していませんでした。日々の仕事としては宗教の布教に伴う様々な仕事をしていたようです。そんなコペルニクスは若い時代にイタリアに2度留学に出ておりボローニャ大学とパトバ大学で、それぞれ法律と医学を学んでいます。



コペルニクスの経済的な仕事


様々な仕事の一つとして、


コペルニクスは聖堂参事会の財産管理


をしていましたが、その仕事の中で


「悪貨は良貨を駆逐する」


という概念を初めて用いています。


良質のお金は各人の手元に残されて、


流通する貨幣は質の悪いものになっていくのです。


流通紙幣の品質に関連した議論です。


そういった社会的な活動もしていたという事実は


特筆すべきです。いずれにしてもコペルニクスは


知識人としての活動を続けていました。半面で、


時代の流れがありドイツ騎士団がポーランド王領


プロイセン内ヴァルミアに侵攻する中で


コペルニクスの生活は変わっていきます。



コペルニクスの宗教的側面


宗教的なコペルニクスの人生の側面を


考えてみると、教会側からコペルニクスが


何時も批判にさらされていた訳ではないようです。


コペルニクス自身が教皇に『天球の回転について』


と名付けた著書を献呈していたりする事実も有り、


コペルニクスと教会側との一定の良好な関係があります。


その半面でガリレオの時代には同書が閲覧出来ない


措置が取られていたり、著名な


宗教家であるルターが考えを批判をしています。


コペルニクスは聖書の考えに沿わないと解釈したのです。


幾多の時代の世界観を大きく変える議論だったのです。


別途、地動説を唱えていたプトレマイオスの論陣も、また


当時の科学的な知見に立脚して議論を進めていますが、


その中ではまだ確立されていなかった「慣性」という概念が


理論に必要だった筈だと後に科学史で議論されています。


ちなみに、コペルニクス以前の時代の天体運動の常識では


プトレマイオスの「アルマゲスト」という著作が有名で、


慣性を考慮せずに「地球が動くなら空の鳥は西に流されていく」


だから(実際には)「地球は動かない」といった判断基準


で話を進めていました。



コペルニクスと学問


さて、1539年にヴィッテンベルク大学の教授であった


ゲオルク・レティクスがコペルニクスを尋ねましたが、


面会の中でレティクスはコペルニクスから地動説の思想を


説明してもらい得心し、その考えを継承・発展したい


と思うようになりました。コペルニクスとレティクス


師弟関係が始まっていくのです。



コペルニクスが直面した「天体と人体」の関係 


こんな話を私が調べていき興味を持った点は


コペルニクスが研究領域を確立していく道筋です。


当時は天文学という学問分野は明確にありませんでしたが、


コペルニクスは医学を修める中で、医学の学問体系に


含まれていた「天体と人体」という関連に着目して、


基礎分野となる天体の知識が当時不足していた事実


に気付くのです。今の我々にとって(一見すると)


天体の運動は月くらいしか人間に関係があると思えません。


関連を極めていく事情も釈然としない部分があります。


また、当時の天文の知識は不十分だった筈です。


いわゆる「天動説」に立脚した理解体系では


「つじつまの合わない」事態に突き当たったはずです。


彼らの自然との対話の中で、


レティクスはコペルニクスの理論を急速に吸収し、


理論体系の流布へ向け出版をするように


コペルニクスに進言します。。そうした話を受け


コペルニクスは自らの理論を纏めていこうと考えました。



「天球の回転について」の出版 


1539年にはレティクスが自身の天文学の師、


ヨハネス・シェーナーに長い手紙を送りました。


その手紙の中においてコペルニクスの理論の抜粋


を盛り込んでいます。その写しをレティクス


グダニスクの出版業者に持ち込み、翌年には


「最初の報告」として出版しました。そこでコペルニクスは


レティクスと共に執筆を進めました。その2年後には


「天球の回転について」の草稿が完成し印刷されたのです。


所がレティクスのライプツィヒ大学の数学教授への


就任に伴い、レティクスが後任指名した神学者


アンドレアス・オジアンダーが校正を続けます。


しかしそうした中、コペルニクスは脳卒中で倒れ、


半身不随となり、完成した製本原稿を読むことは


できませんでした。最終的に仕上がった印刷物は、


コペルニクスが亡くなった当日に


彼のもとに届いていたという逸話が残っています。


享年70歳の生涯でした。



〆最後に〆




High-Performer
【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2021/04/01_初版投稿
2023/05/05_改定投稿


纏めサイトTOPへ】
舞台別のご紹介へ】
時代別(順)のご紹介】
イタリア関係のご紹介へ】
ドイツ関連のご紹介へ】
力学関係のご紹介へ】


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】




対応英訳


 Copernicus was born in  Poland


Copernicus was born in what is now Poland, which was part of the Royal Prussia. Especially in the era of nationalism until World War II, it was said that the people born there were Germans, but today they are often called German Poles. Copernicus did not engage in astronomy-focused work as his profession. As for his daily work, he seems to have done various jobs associated with the mission of religion. Copernicus went to Italy twice when he was young and studied law and medicine at the University of Bologna and the University of Padua, respectively.


As one of those jobs, Copernicus managed the property of the Chapter Chapter, and in that job he used the concept of "bad money drives out good money" for the first time.


Good quality money is left in the hands of each person, and the money in circulation becomes poor quality. This is a discussion related to the quality of banknotes in circulation. The fact that he was also involved in such social activities is noteworthy. The life of Copernicus changes as the Teutonic Order invades Warmia in Polish Royal Prussia.



Another aspect of Copernicus 


Commenting on that aspect of Copernicus's life, it seems that Copernicus was not always criticized by the church. There is also the fact that Copernicus himself dedicates a book entitled "On the Revolutions of the Heavenly Spheres by Nicolaus Copernicus of Torin 6 Books" to the Pope, and a certain good relationship with the church side can be seen.


On the other hand, in Galileo's time, measures were taken to prevent the book from being read, and prominent Luther criticized it. It was an argument that drastically changed the world view of many times.


Separately, Ptolemy's argument, which advocates the heliocentric theory, is also proceeding with discussions based on the scientific knowledge of the time, but the concept of "inertia", which had not yet been established, must have been necessary for the theory. It was later discussed in the history of science.


Now, in 1539, Georg Joachim Reticus, a professor at the University of Wittenberg, asked Copernicus, where he was convinced that Copernicus explained the idea of ​​the heliocentric theory, and would like to inherit and develop that idea. It came to be. The teacher-apprentice relationship between Copernicus and Retics begins.


What I was interested in investigating such a story is the way Copernicus establishes his research area. At that time, the academic field of astronomy was not clear,



Many aspect of Copermolcus


While studying medicine, Copernicus focused on the relationship between celestial bodies and the human body, which was included in the academic system of medicine, and realized that he lacked knowledge of celestial bodies, which is the basic field at that time. At first glance, for us now, the movement of celestial bodies seems to be related to humans only for the moon.


There is a part that is not surprising even in the circumstances that go extremely far there.


Also, the knowledge of astronomical science at that time must have been insufficient. The understanding system based on the so-called "Geocentric theory" must have encountered a situation that "doesn't make sense".


In such a dialogue with nature, Retics rapidly absorbs Copernicus's theory and advises Copernicus to publish it for the dissemination of the theoretical system. .. In response to such a story, Copernicus decided to put together his own theory. In 1539 Retics sent a long letter to his own astronomy teacher, Johannes Schöner.



Last ofCopermocus 


The letter contains an excerpt of Copernicus's theory. Retics brought a copy to a Gdansk publisher and published it as the "first report" the following year. So Copernicus worked with Retics. Two years later, the draft of "On the Revolutions of the Heavenly Spheres" was completed and printed.


With the appointment of Retics as a professor of mathematics at Leipzig University, the theologian Andreas Oziander, appointed by Retics, will continue to proofread.


However, in the meantime, Copernicus suffered a stroke and became paralyzed and could not read the completed bound manuscript. There is an anecdote that the final printed matter arrived at Copernicus on the day he died.
At that time, He was 70 years old.



2023年05月04日

クラウディオス・プトレマイオス‐5/4改訂【三角法を考案し天動説の体型を考案】

こんにちはコウジです!
「プトレマイオス」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【_83年頃 - 168年頃】



アルマゲストの著者プトレマイオス


(ラテン語表記: Claudius Ptolemæus)


天動説を強力に展開した書籍である「アルマゲスト」を
著したプトレマイオスは古代ギリシアの天文学者(の祖)で
古代ギリシャ語では Κλαύδιος Πτολεμαῖος, と表記されます。
プトレマイオス後、中世のケプラーやガリレオの登場する時代まで
プトレマイオスの学説は広く支持され
その後の神学の理論的な基礎にもなっていきます。


天動説は地球が世界の中心近辺にあり、太陽や月は地球の周りを
ほぼ円形上の軌跡をたどって移動しているという理論です。
プトレマイオスはアルマゲストで地動説の理論的な枠組みを作り上げ
当時の観測レベルでつじつまの合う天文体系を作り上げたのです。



中世における天文学の進展


その後、多くの観測がなされ、中世に至って「ティコ・ブラーェ」
等の観測データをケプラーが体系立てるまでは主に天動説が正しいと
思想の世界では一般に信じられていました。


さて、一般の人々が「天文学」をどう考えているかを考えてみます。
天文学は慣れ親しんだ夜空を表していて非常に分かりやすいです。
ところが、その内容を考えていくと内容はほとんど理解しません。


多くの人は中学生くらいの時期に天文学を教養として勉強しますが
大抵はほとんど忘れます。特に定量的な表現は忘れます。
太陽の質量がどのくらいであるとか、地球との距離がどのていどあるか
などの値を正確に言える人がどのくらいいるでしょうか。
1000人に一人もいないと思います。試験前に勉強して
後に忘れて、忘れたことは気にしません。大事ではないのです。


それだから、詳しいことはどうでもよくて天動説でも地動説でも
どちらでもいいと思います。どちらでも説明がつくのです。



プトレマイオスの業績


プトレマイオスの作り上げた三角法は重要です。
三角関数表作成とともに発展してきました。
三角法は今の三角関数の起源となっています。


三角法は弦の長さと円弧の長さの関係を使っています。
現在使われている三角関数が角度と弦の長さを使っている
関係の基本となっているので三角法は重要です。


建築現場でも多用しています。自動車や航空機の設計でも
三角関数は必須です。



〆最後に〆


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com




【スポンサーリンク】


2022/10/04_初回投稿
2023/05/04_原稿改訂


纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
力学関係のご紹介


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


(2022/10月時点での対応英訳)



Author Ptolemy of the almagest


Ptolemy who wrote "Almagest" which is the book which presented the Ptolemaic theory strongly is transcribed into ΚλαύδιοςΠτολεμαῖος by the Ancient Greek in astronomers (father) of the ancient Greece.
The theory of Ptolemy is supported widely until the times when Kepler and Galileo of the Middle Ages appear, and it is in the later theological theoretical basics afterwards.


The Ptolemaic theory has earth in the world central neighborhood and is a theory that the sun and the moon almost trace the trace in the circle around the earth and move.
Ptolemy built up a theoretical frame of Copernican theory in almagest and built up a correct astronomy system of the consistency at an observation level at the time.



Astronomical progress in the Middle Ages


Much observation was accomplished and were able to believe observation data such as "Tycho ブラーェ" generally afterwards in the world of the thought to the Middle Ages until Kepler put up a system if the Ptolemaic theory was right mainly.


I think about how general people are thinking about "astronomy" here.
The astronomy expresses the night sky where I got used to and is very plain.


However, most of the contents do not understand it when they think about the contents.
Many people study astronomy as culture at the time of a junior high student, but almost usually forget it. I forget the particularly quantitative expression.
How much will the person whom mass can say a value which degree distance with the earth has how long to exactly with sun be?
I think that there is no it in 1,000 people. I study before an examination and I forget it afterwards and do not mind that I forgot it. It is not important.


Because it is it, the detailed thing does not matter, and even the Ptolemaic theory is the Copernican theory, but thinks that both are enough. Either is explicable.



Achievements of Ptolemy


In addition, the trigonometry that Ptolemy made up is important.
It developed with trigonometric function tabulation.
The trigonometry is the origin of the present trigonometric function.


The trigonometry uses the relations of the length of the string and the length of the arc.
The trigonometry is important now as it is the basics of the relations that a used trigonometric function uses an angle and the length of the string for.


I use many it in the building site. The trigonometric function is required by the design of a car and the plane.

2023年05月03日

アルキメデス
5/3改訂【兵器を発案し円周率を推定(幾何学的考察)】

こんにちはコウジです!
「アルキメデス」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】




【スポンサーリンク】
【紀元前287年頃 〜 紀元前212年】



多彩な人であったアルキメデス



【英:Archimedes・希: Ἀρχιμήδης】
アルキメデスは、古代ギリシアの数学者で、物理学者で、
技術者で、発明家で、天文学者です。
古典古代においてのトップクラスの科学者といえます。
鉤爪の兵器や光線の兵器を発案して、多角形をつきつめて
円周率を推定していたりしました。


アルキメデスは古代ローマ時代に生きた人で、

その生涯は、アルキメデス亡くなった後に、
後の世界の歴史家たちによって
記録を元に推定されました。

歴史上の人物は誰しも記録に頼る
部分があるのですがアルキメデス
の場合は特に死後何百年経ってから
編纂されたとされており、それ故に
不確かな部分が多いです。何より
アルキメデスは多くの仕事を残しました。



アルキメデスの業績



アルキメデスの友人等が、
その伝記を残しておらず、
正確にわかっているのは
戦記に裏付けられた
最後の瞬間だけなのです。

アルキメデスがローマ軍の
シラクサ攻囲戦で死んだことが、
彼の死に関する故事の記述から
正確に判明しているのです。
例えば、アルキメデスの生年は、
死んだ日時の年齢から逆算して
「推定」されています。


アルキメデスの関心は美学に基づいていて、
純理論による論理体系の構築が特徴です。そして半面で
実利的な有用性が顕著です。具体的にアルキメデスの原理とは、
アルキメデスが発見した流体力学での法則です。
圧力というパラメターを発見される前に、
圧力のもたらす(半面的な)効果を利用しました。
論理的に考えていき対象があった部分の
空間が及ぼしている力を浮力として考えたのです。

定式化された形としては、
「流体(液体や気体)中の物体は、対象となる物体が
【押しのけている流体の重量】と同じ大きさで
(ベクトル的に)逆向きの浮力を受ける」
という原理です。他、円周率や数列で
アルキメデスは仕事を残しています。



アルキメデス最後の逸話



話戻って、アルキメデスの亡くなる時のお話です。
その評判を知っていた指揮官・マルケッルスは、
アルキメデスには危害を加えないよう指示しました。

彼の家にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは
砂盤(今でいえばノートの役割)に描いた図(円形)
の上で、何か考えこんでいました。
入り込んだ部屋がアルキメデスの部屋だとは理解していない
ローマ兵が名前を聞きましたが、没頭していたアルキメデス
は無視し、そのことに兵は腹を立てアルキメデスを殺したのです。


アルキメデス最期の言葉は
「私の円をこわすな!」(Noli turbare circulos meos!)だったと言われています。そのローマ人は命令に反し、アルキメデスを殺害してしまったのです。



そして、後にアルキメデスを殺害してしまった事をとても遺憾に思い、苦慮したと言われています。




はじめての副業コース
【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com
2022/01/06_初稿投稿
2023/04/03‗改訂投稿


纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


【2022年1月時点での対応英訳】

[English: Archimedes / Greeks: Ἀρχιμήδης]
Archimedes is an ancient Greek mathematician, physicist, engineer, inventor, and astronomer. He is one of the top scientists in classical antiquity. He devised claw weapons and ray weapons, and used polygons to estimate pi.

Archimedes was a person who lived in ancient Roman times, and his life was estimated based on records by historians of the later world after Archimedes died.

Every historical figure relies on records, but Archimedes is said to have been compiled hundreds of years after his death, so there are many uncertainties. Above all, Archimedes left a lot of work.

Archimedes' friends and others have not left the biography,

and only the last moment supported by the war record is known exactly.

Archimedes died in the Roman siege of Syracuse, exactly as the story of his death reveals.

For example, Archimedes' year of birth is "estimated" by back-calculating from the age of his death.

Archimedes's interest is in the construction of a logical system based on a pure theoretical structure based on aesthetics, and the practical aspect is remarkable.

Specifically, what is Archimedes' principle?
It is a law in fluid mechanics discovered by Archimedes.
Before discovering the parameter of pressure
He took advantage of the one-sided effect of pressure.
The part where there was an object to think logically
He considered the force exerted by space as buoyancy.

As a formalized form,
"An object in a fluid (liquid or gas) is a target object.
With the same size as [the weight of the fluid being pushed away]
Receives buoyancy in the opposite direction (vectorly) "
Is the principle. In addition, in pi and sequence
Archimedes is leaving work.

Returning to the story, it is the story of Archimedes' death.
Marcus, a soldier who knew his reputation,
He ordered to his stuff as Archimedes not to harmed !
When Roman soldiers entered his house, Archimedes
Figure (circular) drawn on the sandboard (the role of a notebook now)
On top of that, Archimedes was thinking about something.
The Roman doesn't understand that the room he entered is

Archimedes' room.

Roman soldiers heard the name, but Archimedes was absorbed
Ignored, and the soldiers got angry and killed Archimedes.

Archimedes' last words
"Don't break my circle!" (Noli turbare circulos meos!)

It is said that it was. Military personnel violate orders, about Archimedes.
He is said to have suffered because he was very regrettable to had  killed Archimedes.

2023年05月02日

こんにちはコウジです!
「デモクリトス」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



【スポンサーリンク】
【BC460年頃 ~ BC370年頃】




 原子論の始まり


デモクリトスは、古代ギリシアの哲学者です。苗字と名前がありそうだから調べてみたら見つかりません。この時代には未だ無いのかも知れません。何よりデモクリトスは初期の原子論を明確に示した人です。

デモクリトスはレウキッポスを師匠として、その理論を確立しました。ベルシャの僧侶やエジプトの神官に学び、果てはインドやエチオピアまで出かけて見聞を広めたそうです。そんな活動的な人生を歩んでいて、仕舞いには生活に困るようになってしまい、最後は故郷のご兄弟に扶養の世話になっていたそうです。ただ死後はデモクリトスの著作物の公開朗読によって多額の贈与を受け国葬されたと伝えられています。

デモクリトスと統計的総合作用


 小さな単位元を設けて統計的な総合作用として特定の物体を考えていく「手法」がデモクリトスによって始められました。世界解釈として非常に重要です。ハイゼンベルグはその著書「現代物理学の自然像」(1955)において指摘しています。
「デモクリトスは次の命題を立てている。『甘いもの、または酸っぱいものはただ見かけだけであり、色はただ見かけだけであり、実際にはただ原子と空間があるだけである。』 」


デモクリトスは統計的な手法を発展させられる時代には生きていませんが、「統計的考え方の土壌を作った」と断言できます。
食物は、燃やしてしまえば匂いも舐めた味もほぼ均一化されるのです。
人間生活の上で大事なものは対象物の、@特定時間での統計的法則性でありまた、観測する(または過去の事象の場合はパラメターを採取する)Aタイミングなのです。結果として統計的な作業の結果は事実の近似として「統計の解」が求まります。その「解が最適解であるか?」という議論が出来るのです。


また、上記@、Aと最適解の判断が、会話の中で出来ていない人は残念な人として扱われてしまいます。皆さん、少しでも良い議論を交わして下さい。

デモクリトスは哲学、詩学、倫理学、数学、天文学、音楽、生物学などで博識を示し、「知恵 (Sophia)」の異名を受けていました。私の視点では(物理学の観点から)原子論を創り出した点が特に重要です。

物質根源への定性的アプローチ 


物質の根元についての学説は、(後の)アリストテレスが完成させた四大元素(火・空気・水・土)が別途あって、時代ごとに原子論か四代元素かのどちらかが主流となって人々は根源物質を考えていました。デモクリトス以後、原子論は長らく反主流でしたが、ジョン・ドルトンの時代に彼によって優勢となりました。

【ドルトン以降の原子論は、デモクリトスの説と全く同じではありません。】ドルトンの時代には対象原子の質量やサイズに関する議論は無かったようですが、物質の根源物質を原子として考えて、元素の種類があると考えたのです。

実際には核反応で原子は変化していきますが、日常生活を
支えている物質が「元素」という最少単位を使って表現出来る
とデモクラテスは議論していったのです。
化学的手段が無い時代に、こうした基礎知見を
確立できたのは驚くべき考察録です。


デモクリトスの導き出した洞察は
後の物理学の発展に大きく寄与しました。
どんどん現在でも知識が深められているのです。



〆最後に〆




【スポンサーリンク】


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2021/10/06_初版投稿
2023/05/02_改定投稿


纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
イタリア関係のご紹介
ドイツ関連のご紹介
力学関係のご紹介


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】


(2021年10月時点での対応英訳)



The beginning of atomism


Democritus is an ancient Greek philosopher. I can't find it when I look it up because his last name and name are likely to be there. It may not be there yet in this era. Above all, Democritus is a person who clearly showed the early atomism.


Democritus established the theory with Leucippus as his mentor. He learned from Bersha monks and Egyptian priests, and eventually went to India and Ethiopia to spread his sights. He was living such an active life, and his disposition made him difficult to live, and in the end he was taken care of by his brothers in his hometown. However, after his death, it is reported that he was given a large gift and was state funeral by public reading of Demox's work.


Democrates has shown knowledge in philosophy, poetry, ethics, mathematics, astronomy, music, biology, etc., and has been nicknamed "Sophia". From my point of view, it is especially important that I created atomism (from a physics point of view).



Qualitative approach to material origin


The theory about the roots of matter has four major elements (fire, air, water, and soil) completed by (later) Aristotelis, and either atomism or the fourth element is the mainstream for each era. People were thinking about the source material. Atomism has long been anti-mainstream since Democrates, but was dominated by him during the time of John Dalton. [Atomism after Dalton is not exactly the same as Democritus's theory. ] It seems that there was no discussion about the mass and size of the target atom, but I thought that the source substance of the substance was considered as an atom and that there were different types of elements. In reality, atoms change due to nuclear reactions, but Democrates argued that substances that support daily life can be expressed using the smallest unit called "elements." It is a surprising record that we were able to establish such basic knowledge in an era when there was no chemical means. The insights derived by Democrates contributed significantly to the later development of physics. Knowledge is being deepened steadily even now.


〆Finally〆

2023年05月01日

こんにちはコウジです!
「ピタゴラス」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】






【スポンサーリンク】

【BC582 ~ BC496】

謎に包まれたピタゴラスの人生


ピタゴラスは古代ギリシャの数学者です。

皆さんもピタゴラスの定理(三平方の定理)

という言葉は聞いた事があると思います。

初等幾何学で出てくる話で、色々と応用が効きます。

同じギリシャのデモクラテスは朗らかなイメージ

なのに対し、ピタゴラスのイメージは暗く

謎に包まれています。トルコの辺りで生まれた

らしいと言われています。そして、

その後は現代に余り情報が残っていません。そもそもピタゴラスが組織したと言われた教団は秘密主義を徹底して、組織内の話しを外部に漏らすことを厳しく禁じました。実際に秘密結社ですから掟に背いた時は罰を受け、海に突き落とされたそうです。

何度聞いても残酷な話しみたいで、その時代の人は泳げなかったから死刑に相当しました。たまたま漁師で泳げる信者が浮かんできたとしたら、船から棒で突かれたりしたのでしょう。こうした秘密主義の教団だったので、ピタゴラスの肖像画も見れませんし、遺稿も無いそうです。

我々がピタゴラスの人物像を垣間見れるのは2次情報で、教団との関わりが無くなってきた御弟子さんの話とか著作物なのです。そうした2次情報によると、ピタゴラスの若い時代にはエジプトやインドを旅したりしていて、幾何学、天文学、算術、比率、宗教密儀、ゾロアスター教などに関わりピタゴラスは知識を深めました。

 ピタゴラスの独自性


ピタゴラスの考え方で特徴的なのは「あらゆる事象には数が内在している」という客観的な事実の提唱でした。確かに後の理解で整理すると、その時々に万物には質量があり、「固体・気体・液体」といった状態があり、空間上で占めている体積があって、その時の温度があります。

各種パラメターを使い、後の学者たちはそれぞれの関係を法則化して体系化していくのですが、それは後の話です。そうした議論の土壌をピタゴラスじは作り始めたと言えます。非常に大きな進歩だったと思えます。音楽の世界や天文の世界でも数(数値)が大きな役割を果たすことをピタゴラスは示したのです。

ピタゴラス学派の活動と顛末


エジプトでは幾何学と宗教の密儀を学び、フェニキアで算術と比率の知識を得て、ゾロアスター教の司祭のもとで学んだといわれています。そうした修行・研修の時期を過ごした後にピタゴラスはイタリア半島を拠点とし活動しています。

色々な人々をピタゴラスは言動で惹き付け、やがては沢山の弟子を集めピタゴラス学派(ピタゴラス教団)と呼ばれる団体を組織します。この組織にはいつしかパトロンが出来たりした時期もあったのですが、組織に対抗する人も出てきたりして、最終的には暴動が起きてしまいピタゴラスも殺されてしまったようです。

〆最後に〆


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。

nowkouji226@gmail.com


【スポンサーリンク】


2021/10/07_初回投稿
2023/05/01_改定投稿


纏めサイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
イタリア関係のご紹介
ドイツ関連のご紹介
力学関係のご紹介


【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】




(2021年10月時点での対応英訳)



The mysterious life of Pythagoras


Pythagoras is an ancient Greek mathematician. I think you have heard the term ”Pythagorean theorem” (three squares theorem). It is a story that comes out in elementary geometry, and it can be applied in various ways. The same Greek Democrates has a cheerful image, while the image of Pythagoras is dark and mysterious. They said Pythagoras to have been born around Turkey. and,

After that, there is not much information left in modern times. The sect, which they said to have been organized by Pythagoras in the first place, strictly prohibited the leakage of stories within the organization to the outside. Since it is actually a secret society, he was punished when he violated the rules and had pushed into the sea.


No matter how many times I heard it, it seemed  for me like a cruel story, and people of that era couldn't swim, so it was equivalent to the death penalty. If a believer who happened to be a fisherman had been floating, they would have stabbed  with a stick from the ship. Since it was such a secretive cult, we could not see the portrait of Pythagoras, and there was no manuscript.


For the Pythagoras's era is extreemly old. What we can get a glimpse of is the story and copyrighted work of the disciple who has lost his connection with the cult in the secondary information. According to such secondary information, Pythagoras traveled to Egypt and India when he was young, and he deepened his knowledge about geometry, astronomy, arithmetic, ratios, religious esoterics, Zoroastrianism, and so on.



Uniqueness of Pythagoras


A characteristic of Pythagoras's thinking was the advocacy of the objective fact that "every event has a number inherent in it." Certainly, if we summarize it later, there is a mass in everything at that time, there is a state such as "solid / gas / liquid", there is a volume occupied in space, and there is a temperature at that time.


Using these various parameters, later scholars will systematize and systematize their relationships, but that is a later story. Pythagoras created the ground for such discussions. I think it was a huge step forward. Pythagoras has shown that he also plays a number of major roles in the world of music and astronomical.



Activities and consequences of the Pythagorean school


Pythagpras had said to have studied geometry and religious esoterics in Egypt, gained knowledge of arithmetic and proportions in Phoenicia, and studied under a Zoroastrian priest.


After spending such training and training, Pythagpras had based in the Italian Peninsula. Pythagoras had attracted various people with words and deeds, and eventually gathers many disciples and organizes an organization They called the Pythagorean School (Pythagorean Church). There was a time when a patron had formed in this organization, but some people opposed the organization, and they said that Pythagoras was eventually rioted and killed.