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2020年05月11日
秀頼は大坂で死なず? 秀頼生存説に迫る!
豊臣家殲滅に執念を燃やす家康
前回のブログでは「大坂夏の陣」というタイトルながら、真田幸村を中心に語ったので豊臣家滅亡については触れませんでした。
徳川家康(4月17日付ブログ参照)は関ヶ原の戦い(9月15日付ブログ参照)の勝利によって実質的には天下を取りましたが、五大老として「豊臣家の家臣」という立場を否定したわけではありません。
ですから家康は、関ヶ原についても表向きは(秀頼公をたぶらかす佞臣・石田三成を討つ)という大義名分で戦ったとしています。
とは言うものの、世間的には誰の目にも家康は既に天下人として映っていました。
しかし、家康自身はまだ決して安泰だとは思っていませんでした。
なぜなら、秀吉の死後、家康自らが天下取りへの野望を顕わにしたのと同様に、自分の死後、豊臣恩顧の大名が秀頼を担ぎ上げて徳川政権に反旗を翻すかもしれないと考えていたからです。
家康はそれを阻止するため、自分が生きているうちに何としても豊臣家を滅ぼしておく必要があったのです。
というわけで、今回は大坂夏の陣における豊臣秀頼と、“その後”について語りたいと思います。
豊臣家の最期
慶長二十年(1615年)5月8日、前日に真田幸村も討死し、いよいよ追い詰められたのが大坂城の豊臣秀頼とその母・淀殿でした。
豊臣秀頼
二人は徳川軍の攻撃で炎上した大坂城本丸を離れ、本丸北側の山里曲輪に逃れていました。
その間、秀頼の側近・大野治長は、秀頼の妻で徳川秀忠の娘である千姫(2月5日付ブログ参照)を逃がして秀忠のもとへ送ることで、秀頼と淀殿の助命に一縷の望みを懸けたのです。
しかし、あくまで豊臣家殲滅を目指す家康はこれを許さず、山里曲輪の攻撃を命じました。
最後の望みを絶たれた秀頼と淀殿はついに自害して果てたのです。
燃え盛る大坂城と共に、豊臣家はここに滅亡しました。
その後、大坂城を脱出した秀頼の遺児・国松丸も間もなく捕えられ、京の六条河原において処刑されました。
国松丸はこの時わずか8歳でした。
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鹿児島に落ち延びた秀頼 !?
このようにして大坂夏の陣は終わり豊臣家は滅亡したのですが、なんと自害したはずの秀頼には生存説があるのです。
生存説の根拠となったのが、秀頼が亡くなった時の状況です。
秀頼は山里曲輪で自害したのですが、その後徳川軍の攻撃で山里曲輪が炎上したため、中にあった焼死体のどれが秀頼のものか判別できなかったのです。
このことから、巷では“秀頼は落城のどさくさに紛れて脱出した”との噂がまことしやかに囁かれました。
長崎の平戸にある東インド会社の商館長だったリチャード・コックスも、当時の日記に「秀頼は生きているという噂がある」と記しています。
これらの噂を裏付けるかのように、この頃京や大坂では
「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたよ鹿児島へ」
という童謡が流行ったといわれています。
実際、鹿児島市内には秀頼の墓が存在し、秀頼にまつわる伝承なども数多く語り継がれているのです。
また、平戸藩主だった松浦静山(まつら せいざん)の著した『甲子夜話』によると、「大坂夏の陣の後、一人の浪人が鹿児島にやってきたが、いつも大酒を飲んでは暴れるので周囲の人々を困らせていた」という話あります。
実はこの人物こそ秀頼であるらしいと、地元ではもっぱらの噂になったといわれています。
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天草四郎は秀頼の子だった !?
秀頼生存説にはさらなる続きがあります。
寛永十四年(1637年)に起きたキリシタン最大の反乱・島原の乱(10月25日付ブログ参照)で一揆方の総大将となった天草四郎が、実は秀頼の子だったというものです。
秀頼は鹿児島に逃れた後、地元の娘との間に子ができて、その子は「豊臣秀綱」と命名され、その後天草地方に渡ってキリシタンになったとされています。
しかも、天草四郎が秀頼の子だとする証拠もあるといいます。
それは、戦いの時に総大将が掲げる「馬印」です。
天草四郎は島原の乱の時、“千成瓢箪”(せんなりびょうたん)の馬印を掲げていたといわれています。
この千成瓢箪は秀頼の父である秀吉が使用していた馬印として有名であることから、天草四郎が豊臣家と深く関わりのある人物だと推測されるのです。
もし、天草四郎が秀頼の子だとすれば、島原の乱にも新たな見解が生まれることになります。
それは、島原の乱鎮圧に老中の松平信綱が派遣されたことです。
九州地方の農民反乱のために、幕府の中核である老中がわざわざ江戸から乗り出すのは異例のことです。
これはつまり、徳川幕府の威信に懸けて、豊臣家の末裔である天草四郎を確実に滅ぼさなければならなかったからではないでしょうか?
こう考えると、島原の乱は大坂の陣の続きだったと言えなくもないですね。
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まとめ
- 徳川家康は自分の死後に豊臣家が反旗を翻すことを案じて、生きているうちに豊臣家を滅ぼした
- 豊臣秀頼は死後にその遺体が判別できなかったため、生きて鹿児島に落ち延びたという説がある
- 島原の乱の総大将・天草四郎は鹿児島に落ち延びた秀頼の子だという説もある
秀頼もそうですが、源義経にしても織田信長にしても、死後に遺体が発見されない、あるいは判別できないと、生存説が囁かれるものですね。
2020年04月22日
道三は信長をどう見たのか? 聖徳寺の会見
聖徳寺?正徳寺?
前回のブログでは斎藤道三の生涯について語りましたが、道三は娘婿となった織田信長をどう見ていたのでしょうか?
“美濃のマムシ”斎藤道三と“尾張の大うつけ”織田信長が初めて顔を合わせた出来事を聖徳寺の会見というのですが・・・これ、つい最近まではどの文献を見ても「正徳寺」の表記になっていたのです。
僕も「正徳寺」と記憶していたので(あれっ?)と思い確認してみたのですが、やはり現地でも「聖徳寺」となっています。
先日放送されたばかりの大河ドラマ『麒麟がくる』でも「聖徳寺の会見」のタイトルでした。
「聖徳寺」が正しい表記ならば、なぜ今までほとんどの文献には「正徳寺」と表記されていたのでしょうか?
僕なりにいろいろ調べてみましたが・・・どうもはっきりしたことはわかりません。
なので、最近「聖徳寺の会見」を知った方には、「正徳寺?漢字間違ってるよ!」と厳しく指摘しないで頂きたい。(笑)
さて、この聖徳寺の会見ですが、(舅と婿の関係とはいえ、こんな大物同士が直接会って話をすることなどあるだろうか?)と、会見の信憑性に疑問符が付けられています。
ですが、逆に考えると“マムシ”の異名を持つほど一癖も二癖もある道三が、会ってもいない“大うつけ”(大バカ)と呼ばれていた信長を気に入って信用したりするでしょうか?
やはり、道三は直接会って自分の目で信長という男を確認したからこそ、その後の信頼関係が生まれたと考えられます。
というわけで、今回は聖徳寺の会見について語りたいと思います。
家督を継いでも“うつけ”ぶりは相変わらず
天文十七年(1548年)織田信秀の嫡男・信長と、斎藤道三の娘・帰蝶が結婚しました。
この時、信長が15歳、帰蝶は14歳だったといわれています。
しかし、父の信秀が亡くなり織田家の家督を継いだ後も信長の“大うつけ”は治らず、傅役の平手政秀が責任を感じて諫死(かんし=悪行を諫めるための自殺)するほどでした。
信長の悪評を耳にした道三の家臣たちは事あるごとに信長のうつけぶりを道三に報告しましたが、道三は家臣たちの話を決して鵜呑みにせず、噂話など信用しませんでした。
しかし同時に、道三は
(これほど悪評高い信長とは、一体どのような男なのか?)
と、逆に興味が湧いてきたのです。
そこで、道三は信長と直接会ってみることにしました。
会見の場所は濃尾国境にある富田村の聖徳寺に決定しました。
現在の聖徳寺跡
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道三の度肝を抜いた信長の軍装備!
天文二十二年(1553年)4月下旬、道三は初めて娘婿の信長と会うことになりました。
それにしても、実の娘の結婚から5年も経って初めて娘婿と会う・・・戦国時代の政略結婚とはこんなものだったのです。
しかし、そこは“美濃のマムシ”と呼ばれた曲者の道三、ただ会うだけでは相手の本性はわからないと思い、一計を案じます。
会見の前に、信長がやってくる美濃街道沿いの民家に道三自ら隠れて、そこからこっそり信長の本性を暴いてやろうと考えたのです。
そして、ようやく現れた信長一行を見て、道三は思わず息を飲みました。
信長は700〜800の兵を引き連れ、その兵たちは鉄砲をおよそ500挺、そして三間半(約6b)もある長槍500本を携えていたのです。
鉄砲と長槍という先端兵器をこれだけ大量に所持することなど、当時はとても考えられず、道三がかなり驚かされたことは言うまでもありません。
しかし、肝心の信長は髪を雑に束ね、腰にはひょうたんをいくつもぶら下げて、虎皮の袴を着るという噂通りの大うつけスタイルだったので、道三は少々がっかりしながらも内心ではホッとしていました。
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大器の片鱗を見せた信長
信長の行列を見送った後、道三も聖徳寺に向かいました。
道三は、もし信長が先ほどのうつけスタイルのまま会見場に現れたら「無礼者!」と一喝してやろうと思っていました。
ところが、信長は瞬時に髪を結い直し、きちんと長袴を穿いた見事な正装で道三の前に現れたのです。
思いもよらない信長の変身ぶりに圧倒された道三に対し、信長は堂々と構え、道三にも一顧だにしません。
この状況に慌てた道三の家臣が「こちらが山城殿(道三)でござる」と信長に紹介すると、信長は
「・・・であるか」
と、一言だけ答えたといいます。
会見後の帰り道、道三は明らかにショックを受けている様子が見て取れました。
心配した家臣の猪子兵介が道三を慰めようと「何を見ても上総介殿(信長)はたわけでござりますな」と声を掛けると、道三は
「たわけ?ならば尚更残念だ。我が息子たちはそのたわけの門外に馬を繋ぐことになるだろう」
と、嘆いたそうです。
門外に馬を繋ぐとは、臣従、つまり信長の家臣になって従うという意味です。
道三は(息子たちが偉大な人物に従うなら納得するが、大バカ野郎と思われてる奴に服従させられるのでは何ともやりきれない)と皮肉ったのでしょう。
道三だけは“大うつけ”と呼ばれていた若き信長が大器であることを見抜いていたのですね。
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まとめ
- 聖徳寺の会見とは、舅と婿の関係である斎藤道三と織田信長が初めて顔を合わせた出来事
- 道三は会見前密かに信長の様子を観察したが、信長の最新鋭の軍備を見て圧倒された
- この会見で道三は信長が本当は“大うつけ”などではなく、かなりの大器であることを見抜いた
長良川で息子に討たれた道三が「美濃を信長に譲る」と遺言した理由がわかるような気がしますね。
2020年04月01日
東尋坊の伝説
北陸の景勝地に伝わる伝説
前回のブログでも触れましたが、一昨日は志村けんさんが亡くなった訃報を聞いて一日中落ち込んでいました。
いくら芸能人とはいえ、自分が子供の頃から現在までテレビを通して慣れ親しんだ方が亡くなると、こんなにも辛い気持ちになるものなのかと痛感させられます。
志村さんはお酒が好きで、銀座の馴染みの店では「コロナで客が来なくなっても俺が来る」と話していたそうです。
ですが、せめて今の時期だけでも外で呑み歩かず、家呑みにして下さっていたら、こんなことにならなかったかもしれないと思うと残念でなりません。(※勿論、外呑みが感染の直接原因とは断定できませんが)
加藤茶さんが「ドリフの宝、日本の宝を奪ったコロナが憎いです」とコメントされていましたが、全く同感です。
さて、新型コロナウイルスの影響により、お子さんがいる家庭では春休みでも出掛けられない日々が続いていることと思います。
そこで今回はある有名な観光地にまつわる伝説について語りたいと思います。
皆さんは東尋坊(とうじんぼう)という場所をご存知ですか?
福井県の越前海岸にある有名な景勝地ですので、行かれたことがある方も多いのではないでしょうか。
日本海の荒波が打ち寄せ、雄大な景色を一望できる素晴らしい場所なのですが、地元の人には春先にとても海が荒れることで知られています。
そして、海が荒れる理由には、“ある言い伝え”があるのです・・・・。
怪力自慢の暴れん坊
昔、越前(福井県)に次郎市という若者がいた。
次郎市は子供の頃から体が大きく、かなりの怪力で暴れん坊として知られていた。
大人になって酒を覚えてからは、酔うと手が付けられないほど暴れ回るようになり、次第に皆が次郎市を遠ざけるようになった。
このままではろくな者にならないと自覚した次郎市は、自ら仏門に入ることにした。
次郎市は平泉寺の東尋坊という坊舎(僧侶が住む場所)に住んだことからその名を名乗るようになった。
その頃、平泉寺では若い僧たちと住職が対立していて、彼らは住職を追い出して平泉寺を自分たちのものにしてしまおうと企てた。
それを知った東尋坊は「仮にも仏に仕える身分の者が己の欲に駆られてそのような事を考えるべきではない」と彼らを強く戒めた。
彼らは東尋坊と激しく言い争ったが、東尋坊は決して彼らに妥協しなかった。
やがて彼らは邪魔な存在である東尋坊を殺してしまおうと考えるようになった。
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断崖から突き落とされた東尋坊
東尋坊の怪力と強さを知る彼らはまともに戦っては束になってもかなわないと思い、一計を案じる。
北陸にも春の気配が感じられるようになったある日、彼らは「この近くにとても見晴らしのいい岩場がある。そこで海を眺めながら酒でも呑まないか?」と東尋坊を誘った。
東尋坊は(ようやく彼らも改心して自分と仲直りする気になったのだろう)と喜び、何も疑うことなく誘われるままについていった。
絶景の岩場で開かれた僧たちの酒宴は大いに盛り上がった。
東尋坊も勧められるがままに酒を呑み、かなりの酔いが回っていた。
そのうち、彼らの一人が海を指さして「あの沖に見える船はどこの船だろう?」と東尋坊に聞いた。
東尋坊はふらふらと千鳥足で岩場の先端へ行って身を乗り出し船を確認しようとしたその時、
「今だ!」
という掛け声を合図に、彼ら全員で東尋坊を海へ突き落してしまった!
その直後、突然上空に暗雲がたちこめ、強風と共に滝のような大雨が降りだし、激しい雷鳴が轟いて岩場に雷が直撃した。
以来、旧暦の4月5日前後になると、東尋坊では必ず強風が吹き海が荒れるという。
この時期の強い季節風を地元の漁師たちは
「東尋坊の怨霊が暴れる」
と言って恐れ、決して船を出さなかった。
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他にもある東尋坊の由来
東尋坊には他にもこんな言い伝えがあります。
平泉寺の僧・東尋坊には「あや姫」という美しい娘を巡り真柄覚念(まがら かくねん)という恋敵の僧がいました。
平泉寺の僧たちがこの地を訪れ酒盛りをしていた時、真柄覚念は東尋坊に岩場の上で酒や肴をすすめて泥酔させ、隙を見て断崖から海へ突き落としてしまいました。
その後、東尋坊の無念のためか、49日間にわたって海は大荒れとなったといいます。
また、東尋坊の名前の由来には次のような話もあります。
「人は死ねば西方浄土へ導かれるが、悪僧は東を尋ねる」
・・・とすると、次郎市は悪童だったから平泉寺の東尋坊に住まわせたんでしょうね。
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まとめ
- 北陸の景勝地・東尋坊は昔この名の僧が断崖から海へ突き落とされた伝説から命名された
- 東尋坊が突き落とされた旧暦の4月5日頃には東尋坊の怨霊により必ず海が荒れるという言い伝えがある
- 東尋坊の名前の由来は「悪僧は死ぬと東を尋ねる」から
僕が子供の頃に見た『まんが日本昔ばなし』では、この話は「とうせん坊」というタイトルで、岩手県に伝わる伝承として描かれていました。
2020年03月02日
なぜ秀吉は利休を切腹させたのか?
多くを語らないまま切腹した利休
前回のブログでは利休が確立した「侘び茶」の精神と豊臣秀吉との信頼関係について語りました。
利休と秀吉は茶の湯を通じて信頼関係を築いたものの、あくまで簡素・閑寂を旨とする侘び茶を尊ぶ利休とは対照的に、茶道においても豪華絢爛な華やかさを好む秀吉の考え方には根本的に大きな隔たりがありました。
こうした考え方の違いが、やがて両者の間に確執を生むことになったのかもしれません。
天正十九年(1591年)2月、利休は秀吉の勘気に触れたとして突如堺へ追放処分となり、その後切腹を命じられます。
この時、利休の身を案じた五大老の一人・前田利家が「大政所(秀吉の母)か北政所(秀吉の正室)に助命をお願いすれば許される」と利休に話しました。
しかし、利休は
「茶匠として天下に名の通った私が、命が惜しいからといって女に頭を下げられようか?」
と言って利家の申し出を断ったのです。
当初、秀吉が利休に命じたのは「謹慎処分」だったのですが、いつまで経っても詫びる気のない利休に秀吉は業を煮やし、ついに京都に帰還させて切腹を命じたといいます。
秀吉があれほどの信頼関係にあった利休を切腹させた理由とは一体何でしょうか?
というわけで、今回は利休切腹の謎について語りたいと思います。
1.利休の娘を秀吉に差し出すことに応じなかったため
秀吉は女好きとして有名だったので、これは有力な説の一つとされています。
ある時、鷹狩りに出掛けた秀吉は、たまたま利休の娘・お吟を見かけ、その美しさを見初めて自分の側室になることを要請しました。
しかし、お吟はこの要請に困惑し、利休も「自分の娘を差し出したから秀吉に認められたとは思われたくない」と秀吉の申し出を頑なに拒否しました。
やがて、秀吉の度重なる圧力に耐えかねたお吟はとうとう自害してしまったのです。
秀吉は、お吟が自らの命を絶ってまで自分を拒んだこと、さらに利休も「拒む娘を秀吉の側室に差し出すくらいなら自分は死んでも構わない」と話したことに激しい怒りを覚えたといいます。
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2.茶道具を法外な高値で不正に取り引きしたため
利休が秀吉の茶頭という立場を利用して茶道具を不当な高値で売りつけたり、不正に鑑定していた罪を咎められたからとする説です。
秀吉に仕えてからの利休は天皇にも認められ、「天下一の茶匠」と呼ばれるほど茶道において高い権威を誇っていました。
その上、商人でもある利休が茶器の鑑定や売買などに与える影響は絶大だったと言われています。
つまり、どんな茶器であろうと利休が一言褒めれば、その価値はたちまち跳ね上がってしまうのです。
ここに目を付けた茶道具を扱う商人が、茶道具の売買において利休にワイロを渡して茶道具に高値を付けさせ、不正な取り引きをしたといいます。
そして利休はこうした行為を重ねることで莫大な利益を得たというのです。
しかし、何事にも質素を好み「侘び茶」の神髄を追及した利休が、欲に目が眩んで茶道を汚すような不正行為に及んだとはちょっと考えられません。
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3.利休が大徳寺の山門に自らの木像を設置したため
一般的に最も有力とされているのがこの説です。
天正十七年(1589年)、京都の大徳寺が寺の改修工事を行なった際、利休は私財を投じてこの改修に協力しました。
この時、雪駄履きで杖を突いている利休の木像を大徳寺の大きな山門に設置したのです。
当然、ここを訪れる人は山門の下を通って境内に入ることになります。
大徳寺は朝廷の人々さえも訪れる格式の高い寺院だったので、山門に木像を設置するということは、ここを訪れる天皇や秀吉の頭を木像の足で踏みつけるに等しい不敬極まりない行為とされてしまったのです。
木像の設置を知った秀吉は、「利休が自らの威光を振りかざす思い上がった行為だ!」と激怒しました。
しかし、木像の設置は利休自らの意志でやったことではないのです。
大徳寺の山門を作る費用の多くを利休が負担してくれたので、これに感謝した大徳寺の僧侶が利休の木像を作り山門に奉納したというのが真相です。
秀吉は利休の木像を市中引き回しにした後、この木像に切腹後の利休の首を踏ませる形で京都の一条戻橋に晒したのです。
この残酷な晒し方にも秀吉の怒りの激しさが表れていますね。
まとめ 利休切腹の理由
- 娘を秀吉の側室に差し出すことを利休が拒んだため
- 利休が自らの立場を利用して茶道具の売買に不正を働いたため
- 大徳寺の山門に利休の木像を設置して訪れた天皇や秀吉に侮辱を与えたため
その他にも秀吉側近の石田三成による陰謀説などが囁かれていますが、これはあくまで噂の域を出ず、確証はありません。
2020年02月17日
平将門にまつわる伝説
大都会の中心に佇む異空間
日本の名立たる大企業のオフィスが集まり、高層ビルが立ち並ぶ東京・大手町。
この大都会東京の中心といってもいい大手町の一角に防護壁に囲まれた、まるで別世界のような空間があります。
それが、平将門の首塚です。
初めてここを訪れた人は、違和感を禁じ得ないと思われます。
なぜなら、周囲の近代的な高層ビル街とは真逆ともいえる、古めかしい祠が祀られているからです。
前回のブログでは将門の生涯について語りました。
しかし、反乱を起こして討たれ、そこで全てが終わっていたら、将門はこれほど有名な武将として語り継がれることはなかったでしょう。
将門は討死した後にも怪異譚を残しており、さらに現代でも“東京の守り神”として多くの人々に崇められているのです。
その死後から千年以上経っているのに、なぜ現代も“将門伝説”が語り継がれているのか?
というわけで、今回は将門の伝説について語りたいと思います。
怨霊伝説の始まり
天慶三年(940年)2月14日、朝廷に反旗を翻した将門は、平貞盛と藤原秀郷の連合軍に討たれました。
将門は首を斬られた後、京都に運ばれ七条河原にその首を晒されます。
ところが、将門は自らの死を認めていなかったのです。
将門の首は三ヶ月経っても腐ることなく、目は大きく見開いた状態で見物に来た人々を睨みつけたといいます。
そんなある日、藤六左近という歌人が将門の首の前で
「将門は米かみよりぞきられける たはら藤太(藤原秀郷のこと)がはかりことにて」
という歌を詠んで将門の霊を弔おうとしました。
つまり、(お前は秀郷に討たれ、首を斬られて死んだのだ)と、将門の首に教えようとしたのです。
しかし、将門の首は「しい」と不気味に笑っただけでした。
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胴体を求めて空を飛ぶ首
その後、しばらくの間は目を閉じて静かにしていたのですが、やがて将門の首は歯ぎしりをしてわめき出しました。
すると、地鳴りや稲光とともに将門の首は動き出し、
「我が胴体はどこにいるのだ、この首を繋いで今一度戦をするぞ!」
と叫んだのです。
その後もこれが毎夜続いたので、京の人々は恐怖におののきました。
そして、ついに将門の首は胴体を求めて関東へ向かって空を飛んで行ったのです。
しかし、将門の首は自分の胴体に辿り着く前に力尽き、落下してしまいました。
その落下した場所が現在の首塚なのですが、胴体に辿り着けなかった将門の首はその無念から毎夜怨念の叫び声を上げ、人々を恐れさせました。
そこで、地元の人々は将門の荒ぶる魂を鎮めるため、付近の社を改修して将門の霊を祀りました。
これが現在の神田明神であり、江戸の総鎮守となりました。
ちなみに、神田とは将門の首が探し求めていた「体」が訛って「神田」になったといわれています。
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首塚を巡る怪事件
将門を祀る首塚は古くから付近の人々に崇められており、今も毎日手を合わせに来る人が絶えません。
と言うのも、この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという言い伝えがあるからです。
大正十二年(1923年)9月に起きた関東大震災の後、大蔵省(現・財務省)の庁舎を建てるため首塚を取り壊す計画がありました。
しかし、この計画に関わった大臣や官僚に不審死や怪我人が続出してしまったため中止になりました。
さらに、第二次大戦後、GHQが丸の内周辺の区画整理の一環として、首塚のある一帯を駐車場にしようとしました。
ところが、その工事中にブルドーザーが横転し運転手が死亡、その後も工事関係者が謎の死を遂げてしまったため、やはり計画は中止になったのです。
このように、将門の首塚には偶然という言葉だけでは片付けられない、何か神秘的な力があるといわれています。
なので、ここに手を合わせに来る人は、何も祟りを恐れる人ばかりではありません。
首塚に行くと、境内にカエルの置物が多数奉納されているのを目にします。
これは、将門の首が京都から飛んで帰って来たことから、「必ず帰る(カエル)」に掛けて旅の安全を祈願するためです。
また、左遷になった会社員が元の会社に戻ってこられるよう祈願したりもするそうです。
いかにもオフィス街らしい願掛けですね。
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まとめ
- 平将門が有名な武将なのは反乱を起こしたからだけでなく、その死後も様々な伝説を残しているから
- 将門の首は胴体を求めて京都から関東へ飛び、首が落ちた場所が現在の首塚で、将門を祭神として祀ったのが神田明神
- 将門の首塚は過去に除こうとして祟りが起こったが、現在は「東京の守り神」として多くの人に崇められている
将門の首塚は“都内最強のパワースポット”とも言われていますが、訪れる際はくれぐれも失礼のないようお気を付け下さい。