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2020年03月13日

国民の権利制限も、緊急事態宣言とは? 「伝家の宝刀」歯止めに危ぶむ声 新型コロナ特措法成立





 




 国民の権利制限も 緊急事態宣言とは? 

 「伝家の宝刀」歯止めに危ぶむ声 新型コロナ特措法成立


           〜47NEWS 共同通信・松本鉄兵 3/13(金) 17:32配信〜


        3-13-20.jpg

               参院本会議 3月13日午後

 新型コロナウイルスの感染拡大に備える改正新型インフルエンザ等対策特別措置法が13日、参院本会議で可決・成立した。中でも注目されて居るのが同法に規定されて居る「緊急事態宣言」だ。
 発令されると、強制的に国民の権利が制限される可能性がある。野党の一部や法学者等は「立憲主義の根幹が脅かされ兼ね無い」と危ぶんで居る。

        3-13-21.jpg

           関西空港の到着便に乗り込む検疫官 2009年5月


 ▽特措法の経緯は

 2013年に施行された特措法は、2009年に世界的に大流行した新型インフルエンザを切っ掛けに作られた。特定の医療機関に受診を希望する人が殺到。空港の機内検疫等水際対策の実効性に疑問の声が出た他、ワクチン接種を巡る政策も迷走した。
 特措法はこの時の課題を踏まえ、民主党政権時代の2012年に成立した。施行は翌年4月。新型インフルエンザや再興型インフルエンザ・新感染症が対象だった。

 安倍晋三首相は3月2日の参院予算委員会で、今回の感染症が「未知の新感染症には該当しない」として、法改正で適用出来る様にしたい考えを表明した。只立憲民主党等は「改正しなくても特措法を適用出来る」と主張し、政府対応の遅さを批判して来た。
 今回の改正では、暫定的な措置として新型コロナ感染症が対象に加わっり14日にも施行される。期間は施行日から2年を経過する日迄の間と為る。政府は政令で1年間と定める考えを示して居る。

        3-13-22.jpg

   2月29日 無観客試合と為ったプロ野球・ロッテ&楽天のオープン戦 ZOZOマリンスタジアム

 ▽緊急事態宣言とは

 国会審議等で特に注目されたのが「緊急事態宣言」の扱いだ。私権が制限され兼ね無いからだ。只緊急事態宣言自体は、今回新たに盛り込まれた訳では無く、2012年当時から発令を懸念する声が出て居た。これ迄発令された事は無い。ではどの様な場合に緊急事態が宣言されるのか。要件は曖昧だ。同法によると、

 @国内で感染が発生し A「全国的かつ急速な蔓延」により、国民生活や経済に「甚大な影響を及ぼし、又はその恐れが在る」場合だ。

 施行令では、季節性インフルエンザに比べて、重篤と為る症例の発生頻度が「相当程度高い」事等を挙げる。政府対策本部長である首相がこれ等要件に該当すると判断した場合、期間や区域を決めて国会に報告するとして居る。政府は、専門家の意見を踏まえて判断するとして居る。

 宣言が発令されると、都道府県知事は、期間や区域を定めた上で、住民に不要不急の外出自粛を要請出来る。又多くの人が利用する学校や社会福祉施設、映画、音楽、スポーツ等の「興行場」の使用制限を要請・指示出来る。
 病院が不足する様な事態では、所有者等の同意を得て土地や建物を使用出来る。一定の条件を満たせば同意が無くても使用出来る。医薬品や食品の所有者が売り渡し要請に応じ無い場合は収用の強制措置も可能だ。又事業者には保管を命令出来る。運送事業者には緊急物資の輸送を要請・指示出来る。

 ▽懸念
 
 緊急事態宣言に付いて、菅義偉官房長官は「現時点で直ちに出す状況に無い」と説明。同法を担当する西村康稔経済再生担当相も「万が一に備えて準備するものだ」と強調する。
宣言は非常時ノミに限定される「伝家の宝刀」だとも言う。只強い権限を含む為、どの様に歯止めを掛けるかは大事なポイントだ。改正案の成立に当たっては与野党が協議。

 @ 止むを得無い場合を除き、国会に事前報告
 A 緊急事態宣言は専門的な知識に基づいて慎重に判断
 B 施設の利用制限等を要請する際は経済的不利益を受ける者への十分な配慮
 C 政府対応の客観的・科学的検証

 
等を付帯決議に盛り込んだ。立憲民主党や国民民主党等は付帯決議によって「国会の関与が強まる」として賛成に回った。特措法を造った民主党の流れを汲む立民・国民両党としては反対し辛い事情もある。
 一方、新型コロナ対策で対応が遅れたと批判されて居る安倍政権は、野党を巻き込み「一体感」を演出する狙いがあったとの見方もある。

 それでは、付帯決議は十分と言えるのか。付帯決議は、条文修正が見込め無いと判断した野党が、主張を反映させる為に類似の内容を盛り込む事で与党と妥協する時に使われる事がある。一定の政治的な効果は有っても法的拘束力は無く事実上店晒しに為る例も少なく無い。
 立民の山尾志桜里衆院議員等は3月12日の衆院本会議採決で、党の賛成方針に従わず造反した。山尾氏は「私権制限を伴う法案は、各議員が賛否を通じて責任を負う国会承認が必要だ」と述べた。共産党の穀田恵二国対委員長は「市民の自由と人権に幅広い制限をもたらす。衆院内閣委員会の審議時間が僅か3時間で採決する等断じて許せ無い」と批判した。

 元上智大教授の田島泰彦氏等憲法学者や弁護士等による有識者グループは「強権的な宣言の実施は、真実を隠ぺいし政府への建設的な批判の障壁と為る」等とする緊急声明を発表し、法改正の撤回を求めて居る。
 憲法改正を目指す自民党は、大規模災害時に内閣に権限を集中する「緊急事態条項の新設」を改憲案に掲げて居る。今回の特措法改正が「改憲への地均(じなら)し」と為ら無いか懸念する声も出て居る。


                  以上









 新型コロナ特措法で報道介入? 

 混乱招いた副大臣の勇み足 政府慌てて火消し


              〜J-CASTニュース 3/13(金) 18:20配信〜


         3-13-23.jpg 内閣府の宮下一郎副大臣

 新型コロナウイルス感染症を適用対象に加える新型インフルエンザ等対策特別措置法改正案を巡り、政府の報道介入を懸念する声が上がって居る。
 内閣府の宮下一郎副大臣が衆院法務委員会で、特措法上、報道機関に「放送内容に付いて変更、差し換えをして貰うと云う事は本来の趣旨に合う」と答弁した為だ。野党の追及に、西村康稔経済財政・再生相は「そう云う法律では有りません」と、放送への介入を事実上否定した。

 マスコミは政府の言い為りに?

 2020年3月13日に成立した特措法では、新型インフルエンザ等の緊急事態において、首相や都道府県知事が「総合調整に基づく所要の措置が実施され無い場合であって、新型インフルエンザ等対策を的確かつ迅速に実施する為特に必要が有ると認める時は(中略)指定公共機関に対し、必要な指示をする事が出来る」と明記されて居る。この指定公共機関にはNHKが含まれる。

 2020年3月11日の衆院法務委で、立憲民主党の山尾志桜里衆院議員は、NHK以外の民放も指定公共機関に指定し得るか政府側に質問した。宮下氏は「違法では無い」と答弁し  「今回、民放は指定しませんけれども、法の枠組みとしては、民法を指定して、そうした事で有れば、今この情報を流して貰わ無いと困ると云う事で指示を出す。そして放送内容に付いて変更・差し換えをして貰うと云う事は本来の趣旨に合う。そう云った事は有り得るものだと思います」と報道規制も可能で有るとの見方を示した。

 飽く迄仮定の話だと強調

 立憲の杉尾秀哉参院議員はこの答弁に反発し、13日の参議院内閣委で改めて政府の見解を質した。西村氏は「民放の報道機関は指定はして居りませんし、今後その様な事は想定して居りませんが、仮にそう為った場合、その様な責務を有する意図で話したと(宮下氏から)聞いて居る」と答え、飽く迄仮定だと強調。
 指定公共機関のNHKへの指示の例としては「新型インフルエンザ等の感染が広がったとしても、NHKの業務を確り果たして貰う為に指定公共機関として平素から、例えば消毒液を設置するとか、マスクを備蓄するとか、或は訓練を行ったりと言った事」等を挙げた。

 杉尾氏は「コノ法律は自分達が制定した立場でも御座いますので、旧民主党時代に出来た法律ですので、今回はそれに沿った対応をしたい」としつつ「言論・表現の自由に介入し兼ね無い様な答弁が出て来ると極めて重大な疑義が生じる」と迫ると、西村氏は「当然、放送の自由が有りますし、コノ法律に基づいて放送内容に要請や指示を行う事は有りません。そう云う法律では有りません。その事を強く申し上げたい」と述べた。

 宮下氏も13日の法務委員で「NHKや民間テレビ局の放送事業者に対する放送内容の総合調整や指示は放送法(3条)により行う事が出来ない」と答弁を撤回。各メディアによれば、その後の理事会で「放送法との整合性を整理し切れ無いまま、誤解に基づいて発言した。撤回し、お詫びする」と謝罪した。


                      以上









 新型コロナ特措法成立 首相が「緊急事態」判断

               〜共同通信 3/13(金) 16:33配信〜


      3-13-20.jpg

  新型コロナウイルスの感染拡大に備える改正特措法が可決・成立した参院本会議 13日午後

 新型コロナウイルスの感染拡大に備える改正新型インフルエンザ等対策特別措置法が13日午後、参院本会議で、自民・公明両党と立憲民主・国民民主・日本維新の会・社民各党等の賛成多数で可決・成立した。14日に施行。
 全国的かつ急速な蔓延で、国民生活や経済に甚大な影響を及ぼすと首相が判断すれば緊急事態宣言を出し、都道府県知事が外出自粛や休校措置を要請出来る。野党内には宣言すれば、国民の私権制限に繋がり兼ね無いとの懸念も出て居る。
 共産党と「れいわ新選組」は採決で反対した。政府は専門家の意見を踏まえ、感染拡大の状況を見極めて緊急事態宣言の必要性を判断する方針。


                  以上








 改正特措法は 報道規制の道具に為り得る

 緊急事態対処法である新型コロナ特措法の大きな罠

         〜専修大学ジャーナリズム学科教授 山田健太 3/13(金) 18:01〜


         3-14-1.jpg

 「今回、民放は指定しないが、法律の枠組みとしては民放を指定して『今、この情報を流して貰わ無いと困る』と云う事で指示を出す。そして放送内容に付いて変更・差し替えをして貰うと云う事は、本来の趣旨に合う・・・そう言った事は有り得るものだ」

 新型インフルエンザ等特別措置法の改正案が審議されて居る最中の3月11日、衆院法務委員会で山尾志桜里・立憲民主党議員「緊急事態宣言が出た際、首相から必要な指示を受ける『指定公共機関』に民放テレビ局は指定されるか」との質問に対する政府答弁である。
 本日13日に成立し、明日14日に施行される予定の同法には、緊急事態宣言によって直接的な報道規制が可能で有る事を、改めて確認して置いた方が好かろう。

 番組変更指示は有り得る

 ヤッパリ・・・予想通りの政府の認識だ。宮下一郎・内閣府副大臣のコノ答弁に対し、13日に為って西村康稔・特措法担当大臣(経済再生担当大臣・全世代型社会保障改革担当大臣・新型コロナ対策担当大臣・内閣府特命担当大臣)は「この新型インフルエンザ特措法の制定時の議論も踏まえて、民放テレビ局等は指定しない事としている」と、この答弁を事実上修正した事に為って居る。

 しかし、宮下副大臣は先の答弁の前段で既に「法的には指定し得るが、実際には新型インフル特措法制定時の議論を踏まえ、指定し無い」と答弁して居るのであって、大臣が改めて何を修正したのか不明だ。少なくとも、発言のポイントである番組変更の指示が出来るかどうかに付いては一切触れて居ない。その意味する処は、番組変更の指示可能性は有ると云う事だ。
 法案の成立を目指したが為か、宮下副大臣自身、13日に為って衆議院法務委員会の理事会において、撤回、謝罪したと伝えられて居るものの、十分な説明は為され無いママである。

 この緊急事態対処法たる特措法では、NHKが「指定公共機関」とされて居り、政令によって直ぐに民放テレビ局や新聞社への拡大も可能である。国会を経る事無く、現政権お得意の閣議決定で十分だ。そして政府対策本部長(総理大臣)等が、指定公共機関に「新型インフルエンザ等対策に関する総合調整を行う事が出来る」(法20・24・36条)と定められて居る。
 更に「総合調整に基づく所要の措置が実施され無い場合」には、指定公共機関に「必要な指示をする事が出来る」(法33条)と為って居るのだ。冒頭の宮下副大臣の<指示>はこれを指して居る。

 他の類似法から規制の類推可能

 では一体、どの様な「指示」が出されるのか。参考に為るのは、他の緊急事態対処法における「指定公共機関」に対する指示内容だ。新型コロナ特措法では具体的な記述が無いものの、所謂有事法体系の内情報伝達に関わる規定を持つのは以下の法律だ。

 武力攻撃事態対処法(2003年)
 武力攻撃事態施設利用法(2004年)
 国民保護法(2003年)


 この中で、施設利用法17・18条では「電波の利用指針」が定められて居り、大臣は電波法に基づき、放送免許の条件を変更出来る事に為って居る。有事に為った場合、政府が放送局の改廃を自由に行う事が可能で有る事を指す(詳細は、拙著『3.11とメディア』トランスビュー、参照)
 これ等の法律では、国や自治体が「国民に対し、正確な情報を、適示に、かつ適切な方法で提供し無ければ為ら無い」と、先ず公的機関の義務を謳う。その上で、指定公共機関に対しては「国民の保護の為の措置に関する情報に付いては、新聞・放送・インターネットその他適切な方法により、迅速に国民に提供する様努め無ければ為ら無い」として居る。

 この規定によって報道機関は、政府の発表情報を報道する事実上の義務を負う事に為ったと解されて居る。憲法上の表現の自由との兼ね合いで、罰則の適用から外し「努力義務」として居るが、政府意向に反する可能性がホボゼロな事は、現在の法に基づいた運用から明らかだ。

 政府指示を撥ね退ける力は無い
 
 その最も判り易い実例は選挙報道だろう。政府は度重ねて、放送法や公職選挙法の「政府解釈」を報道機関に押し付け「公正な報道」を「数量公平」で有る事とし、公職選挙法上の選挙期間以外も含め、一方的な政府批判(与党候補者批判)を「偏向報道」として厳しく抗議・批判して来た。
 その結果、テレビやラジオの放送局は勿論の事、多くの新聞社においても、必要以上に数量的な平等性に縛られ、自由な選挙報道が出来ない状況が続いて居る。言わば、政府の意向を遵守すると云う状態が生まれて居ると云う事だ。

 そうした中で、今回の一連の新型コロナ禍においても、政府の方針や施策に異を唱える報道に対し、政府が公式に反論すると云う事が起きて居る。前の記事でも触れた内閣官房・公式ツイッターによる特定番組批判などがそれに当たる。
 これに関し、安倍晋三首相は9日の参院予算委員会で、伊藤孝恵・国民民主党議員の質問に答え「政府が正しい情報を発信して行くのは当然の役割」と述べ、内閣官房ツイッターは問題無いとの認識を示して居る。首相自ら、言わば情報の統制を行う姿勢を示して居ると云う事に為るだろう。

 法の危険な性格や適用条件の欠如

 最後に念の為もう一度、法がどう云う定めをして居るか見て置こう。政府対策本部長(総理大臣)が「国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与える恐れ」があって「全国的かつ急速な蔓延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼし、又はその恐れがある」の条件が揃ったと判断した場合「緊急事態宣言」を発令出来るとされて居る。(法32条)
 具体的な判断基準が有る訳では無く、首相が「いまだ!」と思えば明確なエビデンス無しでも、何時でも「緊急事態宣言」を発令出来てしまうのである。

 歯止めとして、法の規定に有る「政府対策本部(新型インフルエンザ等対策本部)」の下での「諮問委員会(有識者会議の下に設置された基本的対処方針等諮問委員会)」の意見を踏まえる事(法18条4項)や、付帯決議で盛り込まれた「国会事前報告」が有るとされる(「特に緊急の必要が有り止むを得無い場合を除き、国会へその旨及び必要な事項に付いて事前に報告する」)しかし、これ迄の学校一斉休校や入国制限等の決定過程を見ても、何処までこうした歯止めが有効かは不明である。

 そうである為らば、緊急事態宣言の発令は少なくとも現時点において有っては為ら無い。ダメの理由を3つだけ挙げて置く。

 第1に、何よりもコノ法律は、数有る緊急事態法制の中でも取り分け「曖昧で強力」なものである。緊急事態の定義が曖昧で恣意的運用の危険性が高いと云う事だ。しかも、その影響が大きく、私達の私有財産の没収の他、移動・集会・表現の自由等広範囲な人権制約と云う甚大な影響をもたらす。
 だからコソ、キチンとした議論や条件整備が必要だが「審議不十分で前提条件が欠如」して居る。今回の改正の為の国会審議も実質ゼロと云っても好い状況だし、2012年の法成立時の審議時間も僅か9時間で、当時野党の自民党は審議に十分加わって居ない。

 そして第2に、十分な情報提供・意思決定の判断根拠の提示や説明責任の発揮と言った、最低限の法適用の前提条件が揃って居ない。
 そして第3に「不要だしデメリットが大き過ぎる」と云える。

 今現在、現行法でどうしても出来ない事の説明が為されて居ない。と云う事は、要ら無いと云う事に為るのではないか。しかも、現在でも一部で発生して居る同調圧力がより顕在化し、例えば予防接種をして居ないと学校への登校を認め無い、と言った事が生まれ兼ね無いし寧ろ容易に想定される。法が施行される今、改めてその運用の有り方が問われる。


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 山田健太 専修大学ジャーナリズム学科教授 専修大学ジャーナリズム学科教授・学科長、専門は言論法、ジャーナリズム研究。早稲田大学大学院、明治大学大学院でも情報法を教える。日本ペンクラブ専務理事のほか、放送批評懇談会、自由人権協会、情報公開クリアリングハウスの各理事、世田谷区情報公開・個人情報保護審議会委員などを務める。主な著書に『沖縄報道〜日本のジャーナリズムの現在』『法とジャーナリズム 第3版』『放送法と権力』『見張塔からずっと 政権とメディアの8年』『言論の自由 拡大するメディアと縮むジャーナリズム』『ジャーナリズムの行方』『3・11とメディア』『現代ジャーナリズム事典』(監修)など。東京新聞、琉球新報、神奈川新聞にコラムを連載中。

                   以上



 





 新型コロナ 専門家は「新感染症」 

 法改正根拠に異議 参院内閣委

               
                 〜毎日新聞 3/13(金) 17:36配信〜


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 新型コロナウイルス感染症を新型インフルエンザ等対策特別措置法の対象とする同法改正案が与野党の賛成多数で可決された参院内閣委員会 国会内で2020年3月13日午後3時25分 川田雅浩撮影

 13日の参院内閣委員会では、参考人として呼ばれた専門家が新型コロナウイルスは「新しい感染症」と指摘した。政府は新型コロナを、新型インフルエンザ等対策特措法の規定が適用出来ない「既知の感染症」と位置付け、適用出来る様法改正を野党に呼び掛けた経緯が有る。法改正の根拠に一石を投じた格好だ。

          3-14-6.jpg 尾身茂氏

 政府専門家会議の副座長を務める尾身茂・地域医療機能推進機構理事長は、新型コロナを「純粋に公衆衛生・感染症学的な立場から言えば新しい感染症」と語った。判断の理由に付いて「殆ど誰も免疫を持って居ない」事を挙げた。但し尾身氏は「私はヤヤ政治と離れた人間。法律改正(の是非)にコメントは控えたい」と付け加えた。

 元々特措法は、対象と為る疾病の一つに「新感染症」を挙げて居る。野党はコレに当て嵌めれば法改正せずに新型コロナにも適用出来ると主張して居た。首相は2月29日の記者会見で新型コロナを「未知のウイルス」と表現したものの、野党に法改正の協力を呼び掛けた3月4日の党首会談後、記者団には「既知の感染症」と強調し、発言が変遷して居た
。 【飼手勇介】

                    以上



 





 全てチグハグ 新型コロナ対策で露呈した首相「側近政治」の弊害

              〜まぐまぐニュース! 3/13(金) 5:00配信〜

 〜新型コロナウイルス対策を巡っては、その全てが後手に回り、場当たりの感すら漂う安倍首相の決断。隣国の台湾が次々と有効な対策を打ち出し感染拡大防止に大きな効果を上げて居ますが、何故我が国はこの様な状況と為って居るのでしょうか。
 元全国紙社会部記者の新 恭さんが自身のメルマガ『国家権力&メディア一刀両断』で、その原因を探って居ます〜


 チグハグな新型コロナ対策は側近政治の弊害か

 時節柄、皆内揃って、家でゴロゴロして居れば、その内新型コロナウイルスとやらも退散して呉れそうなものだが、人間、食って行くには籠ってばかりも居られ無い。防疫と経済をどう折り合い付けて、国を航路上に保って行くかは、船頭で有る安倍首相の舵捌き次第。
 とは云え、水際作戦の失敗と言い唐突な学校閉鎖と言い、遣る事為す事がチグハグな処を見ると、この濃霧の中を潜り抜けて、東京オリンピックに辿り着くには。最早奇跡を祈るしか無さそうである。

    3-13-25.jpg 流行作家・百田尚樹氏

 時は令和2年2月28日の夜。東京は永田町のド真ん中、安倍首相の公邸に当世の流行作家、百田尚樹氏と売り出し中の右派論客・有本香氏のご両人が招き入れられた。夕食を共にする為である。気が合う二人との会食とは云え、よりによって、国民に痛みを強いるイベントの中止や学校の臨時休校を、一国の首相が粛然と呼び掛ける前夜の事。
 余程深いワケが有るのではないかと、記者達が色めき立つのも無理は無い。何しろ、百田氏は安倍首相をして「有名に為られる前から私は百田さんの作品の愛読者」と云わしめた作家だ。その人が昨今、ツイッター上で安倍政権に手厳しい意見を吐いて居る。

 「鳩山由紀夫・菅直人以上に無能な首相」これは、安倍首相には骨身に応える言い草で有る。何かと云えば民主党政権を持ち出して、安倍政権の良さをアピールしたがるオコチャマ宰相なのだから。そして同じ日に百田氏は「今後1ヵ月、中国と韓国からの入国を全面禁止」とツイートした。

     3-13-26.jpg 売り出し中の右派論客・有本香氏

 その頃、右派の政治家や論客の間で、習近平氏を国賓として日本に招くのはケシカラン、と云う空気が一段と広がり、安倍首相への風当たりが強く為って居た。安倍首相はネットで褒めそやして呉れる応援団の声を楽しみにし、心の支えにして居るフシがある。取り分け、百田氏や有本氏の様な影響力が有る著名人はお宝だ。

 勿論ツイッターの上ではあっても、安倍首相に連れない素振りをする百田氏には、それ為りの計算が無かったとは言えまい。糸を引いた処に食らい着いて来た一国の宰相の居城に乗り込んで、特別な持て成しを受けた百田氏等は満足度100%だった様だ。

 <2月29日の百田氏ツイート>で、言うべき事は言ったと云うのだから「中国と韓国からの入国を全面禁止」と云う主張も当然、伝えたに違い無い。安倍首相が、何故か市中感染が広がって居る今頃に為って、中国と韓国からの入国者を2週間に渉り指定場所に足止めさせる水際対策を表明したのは、習近平国家首席の国賓来日の延期が発表された3月5日の事だった。その3日前のツイッターに、百田氏はこう投稿した。
 正か、百田氏の言う事をそのママ実行した訳では無いだろうが「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」の意見も聞いて居ないらしく、ホボ安倍首相の独断専行だったのは確かな様である。

 支離滅裂ながら思い着く限りの手を打ち、実行力あるリーダー像を自己演出した積りでも、巷の意見は「遅過ぎる」のオンパレードだ。最早水際作戦の段階は終わったと、百田氏為らずとも思うだろう。だが内閣支持率の急落で、安倍首相は失地回復に焦って居る。
 それが、この処の政策判断に現れて居るのかも知れない。特に学校閉鎖のもたらす市民生活への影響は甚大だ。

 事実、学校閉鎖に科学的根拠が無い事は、3月10日の参院予算委公聴会で、公述人の尾身茂・地域医療機能推進機構理事長、上昌弘・医療ガバナンス研究所理事長が揃って認めて居る。専門家会議のメンバーでもある尾身氏は「安倍首相の何とかしたい気持ちは理解出来る」と、配慮を滲ませた。
 専門家の意見を聞こうとしない側近政治は肝心な処でボロを出す。そう云えば、何と安倍首相がイベントの開催自粛を要請したその日に、地元仙台市内で政治資金パーティーを開いた総理補佐官が居た。

     3-13-27.png 秋葉賢也 安部首相補佐官

その補佐官、名前は秋葉賢也と云うが、本人はコウ開き直る「危機管理をして行く立場に居ますのでね、延期も検討したが、東北は6県共感染者が出て居ない。感染者が居る東京と違うんですよ」

 日本列島にウイルスの関所が有る訳でも有るマイに、ヨクゾ、戯けた事が言えるもんだ。こう云う人物がこの国の「危機管理」を、総理側近として担って居ると云うのだから、堪ったもんじゃ無い。人物鑑識眼の乏しさか、お友達優遇か、詰まる処自業自得とは云え、安倍首相は何とも能天気な側近に囲まれて、頭の整理が着か無い事だろう。
 海外出張する度に女性官僚を高級ホテルのコネクティングルームに侍らせて居た和泉洋人総理補佐官等も、国会やメディアの追及から逃げ捲くるのに躍起で、とても的確な判断が出来る状態では無さそうだ。

 何はトモアレ、専門家会議が新型コロナ流行の長期化見通しを表明した以上、延々と「自粛、自粛」で経済を犠牲にする訳にも行かない。何処かの時点で安倍官邸も頭の切り替えをする必要が出て雇用。そう為ると、今安倍首相が全力で取り組むべきは医療体制の確立だ。
 今、この感染症の受け入れが可能なベッド数は全国で5000程度だと云われるが、コレでは甚だ心許無い。人工呼吸器の数が足りるかどうかも不安が有り、厚労省は2月5日付で、感染症指定医療機関と結核指定医療機関を対象に人工呼吸器の保有数等を調査する様各都道府県に指示して居る。

 感染爆発状態で死亡者数が半端じゃ無いイタリアでは、引退した医師の現場復帰を呼び掛けて、医療従事者不足を補おうとして居るらしい。重い患者に必要な人工呼吸器が足りず、最早医療崩壊に近いのではと推測されるが、無論それはヨソゴトに非ず。
 余程病院側が用心して掛から無いと、潜在感染者から医師や看護婦がウイルスを移され、院内感染が広がって、一定期間その病院の診療がストップする。ソンな病院が増えて行けば、ことは新型コロナだけの問題では無く、国の医療そのものの崩壊に繋がり兼ね無い。

 福島第一原発事故は「東日本壊滅」を招き兼ね無い程「国家存亡の危機」だったが、元福井地裁裁判長、樋口英明氏が語る「二つの奇跡」により免れた。
 偶さかの工事の遅れと設備のズレで4号機プールに水が流れ込んだ事。2号機の原子炉の欠陥部分から蒸気が漏れ圧力が逃げた事。本来ならマイナスである二つの偶然が、奇跡的にプラスに働いたのであった。

 安倍政権の後手後手としか思え無い対策逐次投入が劇的な効果をもたらし、特効薬も見付かって全世界の感染拡大が終息、ギリギリで東京オリンピックの開催に漕ぎ着けると云う奇跡がこの日本で再び起こって欲しいものだが、奇跡は度々起こら無いから奇跡なのである。
 安倍政権は反知性主義と言われて来た独特の見せ掛け政治から脱し、最悪のケースも想定した上、お友達の進言よりも科学的知見に基づく危機対応政策を打って行くべきであろう。


         image by 首相官邸 MAG2 NEWS   以上



 



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佐藤浩市主演「Fukushima 50」は何故賛否両論を呼ぶのか?




 





 佐藤浩市主演 「Fukushima 50」は何故賛否両論を呼ぶのか?

            〜日刊ゲンダイDIGITAL 3/13(金) 9:26配信〜


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         主演の佐藤浩市(C)2020『Fukushima 50』製作委員会

 賛否両論が出るのは分かって居た。公開されたばかりの「Fukushima 50」だ。しかも、賛否の振り幅が自棄に大きい。大ザッパに、原発問題に深く迫れ無い浅い中身と云うのが低評価の理由だろうか。プロの書き手が、特にシビアだ。
 それに対し、高い評価は描かれた人達への賛辞が目立つ。ネットのレビューを見ると、一般の人の賛同の声が多い。
 映画は、2011年の3月11日、東日本大震災により起こった福島第1原発の事故を描く。その最中、作業員達は如何に原発の暴走を止め様としたか。その際の作業員達の描かれ方において、賛否が起きたのだと推測出来る。

 筆者の意見を述べる。兎に角、見て居る間中、恐ろしくて仕方無かったとハッキリ言おう。それは被災された方々も含め、あの時空間を同時に生きて居た多くの人達に取って、全く知ら無い事が描かれて居たからに他なら無い。あの時、作業員達は、自身の命と向き合って居たのである。
 当時の感覚で云えば、原発の状況に関しては、実体の定かでは無い報道と、全く科学的では無い希望的観測が入り交じって居たと思う。映画は、その無知振りをストレートに突いて来た。そこを先ず、自身の事として見るべきだろう。そこから、色々な事を考えて見る。そう云う映画ではないのか。

 賛否両論は好い。ドンドン、論議を進めるべきだ。只その前に、東日本大震災から9年が経ち、新型コロナウイルスが拡大する真っ只中の今、本作が果たす意味には計り知れ無いものが有ると言って置きたい。最前線で戦って居る人達の事を忘れては為ら無いのだ。本作が、次なる原発映画への橋渡しに為る事を願わずには居られない。


         大高宏雄 映画ジャーナリスト    以上









 佐藤浩市 総理揶揄 で炎上のトラウマ消えず>「エゴサーチ俳優」に

             〜週刊女性PRIME 3/12(木) 16:00配信〜


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                    佐藤浩市

 震災に伴い発生した福島第一原発事故。この影響で、福島県ではピーク時に16万人以上が避難を余儀無くされた。東日本大震災の発生から今年で9年を迎えるが、3月6日に福島第一原発での事故を描いた映画『Fukushima50』が公開された。

 「放射能汚染による未曾有の大災害を食い止め様と苦闘した、現場作業員達の姿を描いた社会派映画です。原子炉から最も近い中央制御室を指揮する当直長を佐藤浩市さんが演じ、原発の最高責任者である発電所所長を渡辺謙さんが演じています」(スポーツ紙記者)

 事故の影響で、日本が壊滅的被害を受ける可能性が在った瀬戸際の5日間を、佐藤と渡辺のW主演で再現。他にも火野正平や佐野史郎・吉岡里帆等、実力派と人気キャストが勢揃い。佐藤は、映画の宣伝活動と為るインタビュー取材を積極的に受けて居り「原子力は本当に諸刃の剣なんですよね。何を肯定し何を否定するのか、簡単には測れない」と、今回の映画に付いても熱き思いを語って居る。

 1年前の炎上が脳裏に焼き付いて・・・

 しかしこんな一面も。「インタビュー時の雑談で、冗談混じりにこう云う事言ったら炎上しちゃわ無いかな?ナンて、弱気な事を口にして居るんです。どうやら昨年のアノ出来事がトラウマに為って居る様で・・・」(芸能プロ関係者)

 その出来事とは、昨年5月に公開された映画『空母いぶき』に付いて受けたインタビューでの発言がキッカケだった。

 佐藤は同作で総理大臣役を演じて居り、雑誌のインタビューで「ストレスに弱くて、直ぐにお腹を下してしまうって云う設定にして貰った。体制側の立場を演じる事に対する抵抗感が、未だ僕等の世代の役者には残って居る」と語ったのだが・・・
 「このインタビューの一部分だけがSNSで拡散されると、作家の百田尚樹氏や幻冬舎の見城徹社長が〔安倍首相を揶揄している三流役者が、偉そうに!!〕と噛み突き炎上しました。佐藤さん側も言いたい事は色々と在った様ですが、トラブルを避ける為、敢えて相手の土俵に乗らずに静観したそうですよ」(前出・スポーツ紙記者)

 炎上騒動から1年が経とうとして居るが、佐藤の脳裏には、あの時の恐怖が今も染み付いて居るそう。

 「今回もインタビューを精力的に熟して居ますが、自分の発言がネットで炎上して居ないか、自分の名前で評判を検索するエゴサーチをして居るそうです」(前出・芸能プロ関係者)
 
 押しも押されもせぬ実力派俳優の佐藤だが、若い頃には父親との確執も。

 「佐藤さんは二世俳優で、若い頃から父親の三國連太郎さんと比べられて、悩んだ過去が有るんですよ」(同・芸能プロ関係者)
 
 どうしても評判を気にしチヤウのは昔からのクセかも。


                  以上



 





 冷却機能停止 私は顔が引き攣る様な衝撃を受けた
 
 東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと


             〜幻冬舎plus 菅直人 3/13(金) 6:00配信〜


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 福島第一原子力発電所 津波来襲状況 撮影2011年3月11日(出典 東京電力ホールディングス)  

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                    菅直人

 東日本大震災から丸9年。地震・津波の多大な被害に加え、私達の暮らしを大きく変えた原発事故。アノ危機に政府はどう対応したのか。起きた事を詳(つまび)らかに記した『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』(菅直人著、2012年10月刊)から、一部を抜粋してお届けします。


 序章・・・覚悟

 大震災と原発事故から一年半が経過した現在でも、最初の一週間の厳しい状況が頭に浮かぶ。大震災発生の3月11日から一週間、私は官邸で寝泊まりし、一人の時は総理執務室の奥に在る応接室のソファーで防災服を着たママ仮眠を捕って居た。
 仮眠と云っても、身体を横にして休めて居るだけで、頭は冴えわたり、地震・津波への対処、そして原発事故が何処迄拡大するか、どうしたら拡大を阻止出来るのかを必死で考えて居た。熟睡出来た記憶は無い。

 チェルノブイリ原発事故と東海村JCO臨界事故

 震災に付いては、1995年の阪神・淡路大震災の記憶が鮮明で、初動の重要性を考え、先ず自衛隊の出動を急いだ。原発事故に直接遭遇したのは、勿論初めての経験だった。原発事故の怖さは、チェルノブイリ事故が起きて暫らくして事故報告書を読み、或る程度理解して居た。しかしそれがマサか日本で起こるとは考えて居なかった。

 ソ連(当時)のチェルノブイリ原発事故は、日本とは違う黒鉛炉と呼ばれる古い型の原子炉で起きて居り、操作ミスが重なり核反応が暴走して爆発し、大量の放射性物質が放出された。当時は原子炉も旧式で、ソ連の技術レベルが十分で無い為に起きた事故と理解して居た。
 日本は世界でもトップレベルの原発技術を擁して居り、技術者も優秀で、日本の原発でチェルノブイリの様な事故は起きる筈は無いと信じて居た。

 しかしこれは、原子力ムラの作った原子力の安全神話で有った事を、嫌と云う程思い知らされる事に為った。これ迄日本で起きた最大の原子力事故は、1999年の東海村JCO臨界事故だった。核燃料を扱う会社の杜撰な管理から生じた臨界事故で、二人の作業員が被曝によって亡く為った。
 当時、私は関心を持って詳しく調べたが、人為的なミスから生じた事故で、大きな原発事故に繋がる様な事故とは認識し無かった。今考えると、人間はミスを犯すものであり、それを前提に原発事故に備え無くては為ら無いと云う教訓を生かせ無かった事を反省して居る。

 福島原発事故

 私は東京工業大学で応用物理を専攻した。原子力に付いては、学生時代に学んだ基本的な知識がある程度で、原子炉を設計したりした事は無く、原子力の専門家では無い。しかし、文系出身の政治家よりは多少の「土地勘」があり、原発事故の状況を把握する上で役立った。

 福島原発に関しては、地震発生後間も無く、自動緊急停止装置が働き、全ての原発が停止したと云う報告が有った。それを聞いて、ホッとしたのを覚えて居る。しかしその後、津波の襲来と共に全電源の喪失、更に冷却機能停止の報告が届いた。
 私は顔が引き攣る様な衝撃を受けた。原発は停止後も冷却を続け無ければメルトダウン・炉心溶融を引き起こす事を知って居たからだ。

 私は、今回の事故迄、福島原発の現場に行った事は無かった。事故発生直後、秘書官に調べさせると、福島第一原発には、6基の原発と7つの使用済み核燃料プールが有り、更に12キロ程離れた第二原発にも4基の原発と4つの燃料プールが在った。
 発電容量は第一原発の6基で469・6万キロワット、第二原発の4基で440万キロワット、合計して909・6万キロワットと為る。
 チェルノブイリ原発の1号から4号迄を合わせた発電容量は380万キロワットなので、その約2・4倍だが、チェルノブイリで事故を起こしたのは4号炉だけなので、福島第一と第二原発の核燃料や核廃棄物の量はチェルノブイリ4号炉の何10倍と云う量に為る。

 私は、福島県に東京電力の原発がこれ程集中して設置されて居た事に改めて驚き、もしこれ等の原発が制御不能に為ったらどう為るかを考え背筋が寒く為った。そしてその事は現実と為った。


 ※次回「初動」は3/15公開予定です

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 菅直人 1946年山口県宇部市生まれ 衆議院議員・立憲民主党最高顧問 弁理士 1970年東京工業大学理学部応用物理学科卒 社会民主連合結成に参加し1980年衆議院議員選挙に初当選 1996年「自社さ政権」での第1次橋本内閣で厚生大臣に就任 同年、鳩山由紀夫氏等と民主党を結成し党代表に 2010年6月第94代内閣総理大臣に就任

                   以上



 



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セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』C



 
 




 セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』C


 セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』(1979年、草思社)より

 第一章「生活」部分のまとめ そのC


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 ヒトラーの成功と失敗のその実態に付いて・・・ヒトラーの成功は相手が弱かったから

 ◆ ヒトラーが成し遂げた大成功の実態

 ヒトラーの成功は1930年から1941年までの12年間の間にだけ起きて居て、ヒトラーはそれ以前にも、それ以降にも、全く成功を収めて居ない。只その12年の間では、ヒトラーは、国内政治でも外交でも、そして軍事面でも、彼の遣った事は殆ど全てが成功し世界を驚嘆させた。
 処がその12年間以外では寧ろ失敗ばかりで、ソコでの彼は殆どどうしようも無い能無しの様でしか無かった。

 ヒトラーが天才的な能力を示したのは「世界大恐慌」(1929年10月〜)発生後の1930年から、独ソ戦(1941年6月〜)が開始される迄の期間に起こって居る。

 ※ 経済安定期間中のナチスの選挙

 1924年5月   32議席・・・国家社会主義自由運動 (NSFB)として参加
 1924年12月   14議席・・・国家社会主義自由運動 (NSFB)として参加
 1928年5月   12議席・・・再結成された国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAPナチ党) として参加

 ※ 世界恐慌後のナチスの選挙

 1930年9月  107議席・・・第二党に躍進。
 1932年7月  230議席・・・第一党に躍進。
 1932年11月  196議席・・・議席を大きく落とすも第一党を保持。選挙後、ヒトラーが首相に就任。(ヴァイマル共和体制最後の選挙)


 ※ ヒトラー内閣成立後のナチスの選挙

 1933年3月  288議席・・・選挙後の3月23日に全権委任法が成立。その後、7月までにナチ党以外の全政党が解散に追い込まれ、7月14日には政党新設禁止令が制定される。
 1933年11月  661議席・・・ナチ党のみによる選挙。 
 1934年に、ヒンデンブルク大統領が死去し、首相職に大統領職が統合され、更にヒトラーはドイツ国防軍最高司令官と為って全権力を握り、内政的にはコレ以後は何も手に入れるものが無く為る。


 ※ 外交政策上の成功を収めた4年間

 1935年・・・ヴェルサイユ講和条約に違反して一般義務兵役を施行。⇒だが何も起こら無い。
 1936年・・・ロカルノ条約に違反してラインラントに進駐し、これを再武装化。⇒だが何も起こら無い。
 1938年・・・3月にオーストリアを併合。⇒だが何も起こら無い。
        9月にチェコのズデーテン地方を併合。⇒だが何も起こら無い。
 1939年・・・チェコのベーメンとメーレンを保護領にし、バルト地方のリトアニアのメールを占領する。

 ここで外交政策上の一連の成功は終わり、以後、ヒトラーは抵抗を受けるが、しかしそこから今度はヒトラーの軍事上の成功が始まる。

 ※ 軍事上の成功を収めた2年間

 1939年・・・ポーランド征服。(第二次世界大戦の勃発)
 1940年・・・デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク占領。フランス征服。
 1941年・・・ユーゴとギリシアの占領。ヒトラー、ヨーロッパ大陸を征服する。


 ナチ党はヒトラーの加入によって大きな成長を遂げるが、しかし世界恐慌の発生によって議席を飛躍的に増加させる迄は、1925から1929年の間まで、ナチ党は名も無い小党のママだった。そして1923年にヒトラーが武力革命を目指して起こしたミュンヘン一揆も失敗。又独ソ戦が始まった1941年以後も、ヒトラーは矢張り全く成功を手にし無かった。彼の軍事行動は挫折し、敗北は重なり、同盟国は脱落し、敵の連合国は持ち応えた。
 ヒトラーの失敗は、成功後、好い気に為ったり、油断したりしてその成功を失ったと云うものでは無い。ヒトラーは、失敗して居た時も、成功を収めて居た時も、ズッと変わらぬ同じヒトラーのママだった。

 独ソ戦の開始と為るロシア攻撃は、ヒトラーの没落の始まりと為ったが、これも、それ以前の彼の軍事的成功による思い上がりによって起こされたものでは無く、ヒトラーによるロシア攻撃は、彼が長年熟慮した上で決めた主要目標であり、その事は既に1926年に発表された『わが闘争』の中に書かれ、理由も述べられて居た。
 1941年の対米宣戦布告にしても、これもヒトラーの自惚れと云うより、寧ろ絶望の余りの産物として出されたものだった。ヒトラーは成功を収めても油断したり慢心したりする事は無かったが、失敗した場合でも、ヒトラーには自分の一度決めたコースに固執して譲ら無い頑なさが有った。

 ヒトラーの成功曲線の秘密を解く鍵は、ヒトラーの側の何等かの変化に有るのでは無く、それはヒトラーが相手にした敵の方の移り変わりにある。ヒトラーの成功は、強い敵は愚か、粘り強い敵に対してサエ、決して得られ無かった。
 1920年後期のヴァイマル共和国や、1940年のイギリスでサエ、彼には強過ぎたのだった。ヒトラーは、弱者がシバシバ強者を出し抜いて勝つ時の様な着想の豊かさや機敏ささえ持っては居なかった。ヒトラーの勝利は全て、実際に抵抗するのが不可能か、その意志の無い敵から得たものだった。

 国内政治面では、彼はヴァイマル共和国に止めを刺したが、それはこの共和国が既に空洞化し、実際上見捨てられて居る時だった。外交面では、彼は1919年のヨーロッパの平和体制をお払い箱にしたが、それはこの体制が既に内部から崩壊仕掛かって居て、維持出来ないと分かって居た時だった。何れの場合も、彼は倒れつつ在るものを倒したに過ぎなかった。
 ヒトラーが数々の成功を収めた1930年代は、それ以前と以後と違って、例外無く弱い敵を相手にして得られたものだった。

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 ● ヒトラーに倒された時には既に"死に体"だったヴァイマル共和国

 ヒトラーは世界恐慌発生後の1930年9月の総選挙で最初の大きな成功を勝ち得たが、ヴァイマル共和国の命脈は、この年既に尽きて居た。ヴァイマル共和国は「ドイツ社会民主党」(SP)と、自由主義左派の「ドイツ民主党」(DD)と、カトリックの「中央党」Zentrumら中道左派の三党連合によって創設されたが、この三党は帝政末期の1918年10月の段階で、既に帝政内で議会主義化を成し遂げて居た。
 そして1918年11月に、ドイツを帝国から共和国へと変える「ドイツ革命」を達成した後、国会でヴァイマル連合を形成し、ヴァイマル憲法を制定し、統治に着手して行く事と為ったが、しかしヴァイマル連合が当初考えて居たヴァイマル憲法とは、皇帝を排除した共和制では無く「議会主義帝政」の憲法を実質的に模倣したものを作ろうとして居た。

 ドイツを帝政から共和制へと変える「ドイツ共和国」樹立宣言は、ヴァイマル連合のドイツ社会民主党 SPDの幹部だったフィリップ・シャイデマンから発せられたものだったが、これは、ドイツの敗戦の混乱時に、ヴォルシェビズムによるロシア革命と同じ共産主義革命をドイツ国内で実現すべく「社会主義共和国樹立宣言」を発しようとしたスパルタクス団の行動を潰す事を優先して出されたもので、帝政の崩壊迄は、当時のヴァイマル連合の望むものでは無かった。

 ドイツ社会民主党SPDは左派の社会主義政党だったが、帝政の打倒を目指す共産主義革命はヴァイマル連合の構想には 合わ もので、その 急進左派の共産革命運動は徹底的にヴァイマル連合から弾圧された。しかしこの処置に深い恨みを抱いた左翼の中から執拗な反対派が生み出され、これにより彼 はヴァイマル国家を決して受け入れず、これと和解しない勢力と為った。
 又、ヴァイマル連合では左翼による帝政打倒の共産革命を恐れて、妥協的な共和国家の樹立を受け入れることとしたが、その事が、強力で執拗な右翼の反対派を造る事にも為った。彼等はドイツ共和国樹立後も、依然として陸軍と官僚組織の殆ど全ての公職を占めて居た為、彼等右翼の方が左翼の反対派よりズッと危険な存在だった。

 ヴァイマル国家は、最初から、公職に就いて居る者の中に数え切れ無い程多くの憲法の反対者を抱えて居た。ヴァイマル共和国は誕生した当初から、常に左右からの蜂起に揺さぶられて、この共和国が長生きするとは誰も思わ無かった。
 ヴァイマル連合は、スパルタクス団の乱を鎮圧した直後に行われた「1919年ドイツ国民議会選挙」では、連合(ドイツ社会民主党、中央党、ドイツ民主党)で76.2%の票を集める大勝利を収めたものの、しかし敗戦国ドイツに捕って屈辱的なものと為ったヴェルサイユ条約調印後に行われた「1920年ドイツ国会選挙」では、ヴァイマル連合は早くも議席の過半数を失い、以後それを取り戻す事の無いママに終わった。

 早くも危険な状態に陥ったヴァイマル共和国だったが、1925年から1929年迄の数年の間は「黄金の20年代」と呼ばれ、比較的統治が安定した。その理由は、先ず、有能なグスタフ・シュトレーゼマン外相によって、賠償の重荷の軽減が為された事に加え、アメリカの借款が控え目な経済の繁栄をもたらして呉れた事と、
それとこの数年間だけは、ヴァイマル国家を否定しつつ、アラユル省や庁に確りと根を降ろしていた強力な右翼反対派が、この時は一時的に国家に対する反対を放棄して、理性的共和主義者と為って呉れた事が、共和国の存命に繋がった。
 それ等の事が、このヴァイマル共和国と云う実は「共和主義者の居ない共和国」を生き永らえさせる要因と為った。

 右翼反対派が1925年から1929年の間だけ、ヴァイマル共和国に対する敵対心を解いたのは、1925年4月に、ヒンデンブルク大統領が選出されたからだった。世界大戦の英雄で帝政時代の元帥たる人物を頭に頂いた事により、この共和国は、それ迄断固として拒否して居た右翼に捕って、突然受け入れられる様に見えて来たのだった。
 カトリックの「中央党」Zentrum と、自由主義右派の「ドイツ民主党」DDP と、「ドイツ人民党」DVPの中道三党が、保守主義の「ドイツ国家人民党 」DNVPと組んで連立の右派政権を造って居た1925年から1929年までの間、反対派右翼の和解姿勢は続いた。

 しかし1928年に行われた「1928年ドイツ国会選挙」によって、この妥協的右派連合も終焉を迎える。この頃は「ロカルノ条約」の締結や「ドーズ案」によるアメリカからの資金援助でドイツの社会や経済が安定して居た為、此処で再びヴァイマル共和政が肯定的な評価を受け、ヴァイマル共和政を作った「ドイツ社会民主党」(SPD)が再評価を受ける事と為ったのだった。そしてその選挙結果、久し振りの社民党首班政権である第2次ヘルマン・ミュラー内閣が成立。
 ミュラー内閣は社民党(SPD)・中央党 (Zentrum) ・ドイツ民主党 (DDP) ・ドイツ人民党 (DVP) ・バイエルン人民党 (BVP) による大連立政権を組み、ヴァイマル共和政下では最長を記録する内閣と鳴った。

 しかしその一方、保守・右翼陣営は惨敗。与党を組んでいた「ドイツ国家人民党 」(DNVP) は三分の一近くの議席を失って73議席にまで落ち込んでしまった。野党と為った保守主義のドイツ国家人民党 (DNVP) は、新しい指導者ヒューゲンベルクの元に再び厳しい反共和国家路線に戻り、又、カトリックの中央党 (Zentrum) でさえ、同じく新しい指導者カースの元に、何等かの権威主義的政権の必要性を口にする様に為り、そして国防省においても、政治好きのフォン・シュライヒャー将軍によってクーデター計画が練られる迄に為った。
 右派は、この1928年選挙の様な大敗を二度と起こしては為らないと、その為に、ビスマルク時代のドイツ帝国の様に、議会と選挙に左右される事の無い、永続的な右翼政府の存在が必要だと考え始める様に為った。彼等は、議会による支配からサヨナラした大統領政権の誕生を望んだ。


                   以上 おわり


 




 ENEOS



セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』B



 セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』B

 セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』(1979年、草思社)より
 

 第一章「生活」部分のまとめ そのB



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 ヒトラー自身による大衆を扇動する才能の発見と、その唯一無二の才に目覚めたヒトラーの何人にも責任を負わ無い「総統」就任への決意の芽生え。それとヒトラーの自殺に対する認識の有り方等に付いて。

 ・大衆を扇動する才能を自ら発見したヒトラー

 ヒトラーは第一次世界大戦末期の1918年11月に、ドイツ帝国が国内の社会主義者の起こした反乱「11月の犯罪(ドイツ革命)」によって敗戦へと追い込まれた日に政治家と為る決意をする。それがヒトラーの1918年11月の「心の目覚めの体験」

 ヒトラーが政治家に為ると思い立った時に決めた政治的決意は、過つての「11月の犯罪(ドイツ革命)」を再び戦争(第二次世界大戦)を起こす事によってもう一度やり直し、11月の犯罪を起こした社会主義者やユダヤ人も抹殺した上で勝利し、歴史を正しく修正しようと云うものだった。そんなヒトラーは続いて1920年2月24日「心の目覚めの体験」に続く「悟りの体験」を持つに至る。
 その悟りの体験とは、ヒトラーが或る大集会で初めて演説を遣って圧倒的成功を収めた体験で、それは、自分の「弁舌力」を発見した体験だった。

 実に種々雑多の人間の集まりを、それが大きく、雑多で有れば或るだけ巧みに、一つの等質的な、自在に操る事の出来る大衆に変える能力。即ち、大衆を先ず一種の「忘我状態」に移し、次いで彼等を或る種の「集団恍惚状態」に入れるヒトラーの有名な能力。
 しかしそれは元々雄弁によるものでは無く、ヒトラーの演説とは、ユックリと時折言葉に詰まったりしながら始まり、余り論理的構成も無く、時には殆ど明確な内容も無い事があった。しかも、その演説する声と云えば、シワガレテ耳障りな、喉に引っ掛かる様な声だった。

 ヒトラーの弁舌力は、雄弁では無く、或る種の催眠能力、集団的下意識が人の云う為りに為ろうとする用意が有る時、それを引っ掴んで自在に操る集中的な意志力が生み出す能力だった。

 ・「大衆を操る者」としての才能の目覚めが更に「総統フューラー」就任への決意に

 ヒトラーは、戦友の間で、話題が彼の内心の関心事で有る政治とユダヤ人の問題に為ると、何時も沈黙して居るのに、急に堰を切った様に喋り出し、剥きに為る事が在った。当時は、それによって単に奇異な感じを与え「頭のへんな奴(シュピンナー)」と噂されるだけだった。
 処がこの「頭のへんな奴(シュピンナー)」が、今度は「大衆を操る者」としての「太鼓叩き」「ミュンヘンの王様」としての自分を発見した時、見損なわれた者の密かな若い自負が、これによって成功した者の酔った様な自信に変わった。そこから次第に、革命的な決意、総統に為ろうとの決意が生じて来た。

 この決意は、在る特定の出来事から生じたものでは無く、その頃ヒトラーは未だ「宣伝演説家」民族を覚醒させる運動の「太鼓叩き」に為った事で満足して居た。しかし、大衆を扇動すると云う誰にも無い確かな力を持って居たと云う発見に加え、彼自身考えられる全ての競争者よりも自分の方が、政治的にも知的にも優れて居ると云う感状が次第に生じて来る様に為り、他のドイツの戦争遂行の指導者や、右翼運動家への敬意も消えて要った。
 更には、政権における官職の配分や上下の関係等では無く、何でも出来る全能の地位、如何なる憲法或るいは三権分立によっても妨げられず、集団指導にも拘束され無い恒久的独裁者の地位迄をも求める様に為って行った。

 1918年11月の「ドイツ革命」によって誕生した「ヴァイマル共和国」は、ドイツ革命を起こした革命家からも、又その敵からも承認されず「共和主義者の居ない共和国」等と揶揄され、帝政が消滅した後のドイツには満たされ無い一種の空白の状態が生まれた。
 負けた戦争への悲嘆と屈辱的な強制された平和条約の憤りは、失われた皇帝の代償として、国民の大部分が「ひとりの者」に憧れる様に為った。歴史家のヤーコブ・ブルクハルトによれば、1920年代の初頭に「以前の権力に類似した何かへの憧れが止み難いものに為り」その憧れが「或る一人の者へと向かわせる」様な気分が生じて来たと云う。

 そしてヒトラーは、そんな世間に蔓延して居た、万人が待ち望み奇蹟を期待して居る「その人物」に、自ら為ろうと決意した。1924年、獄中で『わが闘争』を口述筆記。1925年、出所後「国家社会主義ドイツ労働党・NSDAP」を再結成。1933年、ナチ党・NSDAP が政権を掌握。1934年「長いナイフの夜」によって突撃隊幕僚長エルンスト・レームを処刑し、突撃隊を初めとする党内外の政敵を粛清。
 同年、ヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体させ、更に「指導者兼首相・Führer und Reichskanzler であるアドルフ・ヒトラー」個人に大統領の職能を移した。
 但し「故大統領に敬意を表して」大統領・Reichspräsident と云う称号は使用せず、自身の事は従来通り「Führer・指導者」と呼ぶ様国民に求めた。

 ・余人には代えられ無い唯一無二の自分の存在が、ドイツの未来と運命を左右すると云う自意識の芽生え

 ヒンデンブルグの死去によって、ヒトラーは、何人にも責任を負わ無い「総統」の完全な全権を獲得。そしてヒトラー45歳の時、遂にドイツ帝国総統に就任。
 しかしそれと同時に、彼には、残されて居る寿命の間にドレだけ自分が国内政治上及び外交上の計画を実現出来るかと云う問題が起こった。詰まり、自分の政策と政治的時間表を、この世で予想される自分の生命の長さに従わせると云う決意を固めた。

 ナチス党は、ヒトラーに捕って彼の個人的な権力掌握の道具に過ぎなかった。党は政治局を持った事が無く、彼は党の中に後継候補が台頭して来る事を許さなかった。自分の寿命の尽きた後の事を考えたり、配慮したりするのを彼は拒否した。一切が自分によって行われ無ければ為らない様にした。だが、その為に彼は時間に追われる事と為り、その事は必然的に性急な、そして現実に即さ無い政治的決断を下さざるを得ない様にした。
 1918年11月の敗戦の屈辱を覆す為の大戦争の決行も、彼が生きて居る内に必然と為ったが、ヒトラーは無論その事を公然と語った事は無かった。

 しかしヒトラーはその過つての内心の自分の決心を、1945年2月、連合国の包囲が迫って来る中、ベルリンの官邸地下壕で、ボルマンへの最後の遺書の様な口述において、全てをアカラサマに認めた。ヒトラーは戦争を一年遅れて、詰まり1938年でなく、1939年にヤッと始めた事を「だが、どうしようも無かったのだ、イギリス人もフランス人もミュンヘンで私の要求を全て受け入れたのだから」と、嘆いた後、続けて「宿命的な事だが、私は全てを一個人の人間の短い生命の間に遣り遂せねば為らないのだ・・・・・・他の者には幾らでも時間が有るのに、私には僅か数年と云う惨めな時間しか無い。他の者なら後継者が現れるのを知って居るのに・・・・・・」と語った。

 ヒトラーは、ドイツの歴史を彼個人の生活史に組み入れ、従わせ様とする決意を有して居た。彼は1939年初頭にルーマニアの外相ガーフェンクがベルリンを訪問した時「私は今50歳だ。私は55歳や60歳に為ってからで無く、今戦争を始めたい」と云って居た。
 そして同じ1939年11月23日には、将軍達を前に、西方攻撃を促す様に迫って、

 「最後の要因として、憚りながら、私と云う人間が余人を以て代えられ無い事を挙げねば為らない。如何なる軍人も、又如何なる市民も私に代わる事は出来ないであろう。暗殺の企みは繰り返されるかも知れない・・・・・・ドイツ帝国の運命は一に私に懸かって居る。私はコレを基準に行動する」とも云って居た。
 ヒトラーには、歴史をヒトラー個人の生活史に、国家と民族の運命を自分の生涯に従属させ様とする決意があった。1937年11月5日、「ホスバッハ議事録」に書き留められている秘密談話には、ヒトラーの絶対権力者就任と戦争に対する決意が、明らかな兆候として最初に示されて居た。
 ヒトラーの自信を迷信的なものに迄高め、自らをドイツに等しいとするだけで無く、ドイツの存続も滅亡も自分の生と死に組み込ませ、従属させる権利を与えられた特別の選ばれた者と云う感情が生まれた。

 ・ヒトラーの自殺に対する意識

 ヒトラーは失敗する度に自殺を考えた。ヒトラーは、ドイツの運命を自分の生命に依存させるだけで無く、同時にその生命を何時でも放り捨てる用意があった。
 ヒトラーはスラーリングラードの後、パウルス元帥がロシア側に降伏して、ピストル自殺し無かった事に付いて、その時の失望を「過つて我が事終わると知った最高司令官が自刃した様に、この男は自殺すべきなのだ・・・・・・この惨めな世界に留まる義務が無く為る時、人は自分をこの苦境から救って呉れる数秒を何と恐れることか」と云った、怒りの爆発で晴らした。

 そして7月20日の暗殺未遂事件の後では「私の生命がコレで終わって居たら、私個人に捕っては、それは心配と眠れぬ夜と酷い神経症からの救いだったと云っても許されるだろう。一秒のホンの何分の一かで、人は一切から解放され、安らぎと永遠の平和を得られるのだ」とも云って居た。
 ヒトラー個人の生活は全く空虚だったので、逆境に為れば彼に捕って維持するだけの価値が無かった。ヒトラーの政治生活は殆ど最初から一切か無だった。その無が現れて来た以上、自殺はマルで一人での様に生じた。自殺するだけの勇気はヒトラーは常に持って居た。


              Cにつづく



 



 







 

セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』A




 セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』A


 セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』 (1979年、草思社)より

 第一章「生活」部分のまとめ そのA


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 ヒトラーが第一次世界政戦終結後に政治家に為る事を決め、そしてその時に彼が抱いた9つの「政治的決意」と、ヒトラーが第二次世界大戦をどの様なものにして行こうと考えて居たのかと云う構想に付いて。

 ・ヒトラーの9つの「政治的決意」

 ヒトラーが第一次世界大戦終結後に固めた9つの「政治的決意」


 第一、1918年11月の様な状況に為っても今後は革命を不可能にしようとの決意。
 第二、1918年11月の様な状況をもう一度出現させ様との決意。そうで無いと第一の決意が宙に浮いてしまうから。
 第三、負けた或は負けたとされた先の戦争(第一次世界大戦)を再開する決意をする事。
 第四、その戦争を潜在的な如何なる革命勢力も存在しない国内体制の基に再開する。
 第五、一切の左翼政党の廃止に迄持って行く。一緒に全ての政党を廃止してしまっても構わ無い。しかし、右翼政党を支えて居る労働者階級迄要ら無いと云う訳には行か無いので、彼等を政治的に「国家主義」の味方にする。
 第六、労働者階級の為に社会主義を、兎に角一種の社会主義が必要に為る為「国家社会主義」を提供して行く。
 第七、マルクス主義の根絶。
 第八、マルクス主義の政治家と知識人の抹殺。
 第九、ヒトラーの昔からの念願だったユダヤ人の撲滅


 ヒトラーは第一次世界大戦終結後、後に「我が生涯における最も困難な決意」と述べた彼がイヨイヨ政治家と為ろうとした決意を固めるのだが、それを可能にしたのは大戦末期に、ドイツで起こった1918年の「ドイツ革命」だった。

 「ドイツ革命」とは  世界史の窓より

 第一次世界大戦の末期の1918年10月、ドイツ海軍が無謀な出撃命令を拒否して、キール軍港の水兵反乱が起きると、その動きは忽ちに全国に広がり、各地で労働者と兵士が連帯して労兵評議会レーテが結成された。
 ベルリンでは11月9日にそれ迄戦争に協力して来たドイツ社会民主党も戦争中止皇帝の退位を認めざるを無く為り、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命して、ドイツの帝政は崩壊した。
 同日、社会民主党のエーベルトを首相とする政府が成立「ドイツ共和国」が発足した。こうして第一次世界大戦はドイツが敗北して終わり、ドイツ第二帝国は崩壊しドイツ共和国が成立した。

 この「ドイツ革命」が、初めてドイツの政党に国家権力への道を開き、同時に従来の政党体制を激しく揺さ振り、新しい政党にも機会が与えられる事と為った。その時ヒトラーはオースリア国籍のドイツ人だったが、革命が王侯の支配や貴族の特権を除去して居たので、最早彼がドイツの政治家に為るのに社会的障壁等存在などせず、又、当時の所謂「ドイツ・オーストリア」の合併は、戦勝国から禁止されたものの、国境の両側で1918年以降は熱狂的に希望される様に為って、オーストリア国籍だからと行ってドイツ国内で外国人だと見做される事は殆ど無かった。


 ・「1918年の犯罪・ドイツ革命」を無かった事にするのがヒトラーが抱いた最大の政治的決意

 ヒトラーは、1918年のドイツ革命の敵「11月犯罪」の断固たる敵として政治に足を踏み入れた。1918年11月の体験が、彼を目覚めさせた。1918年11月は、彼が政治家に為る決意の切っ掛けと為った。実際にその決心をしたのは1919年秋の事で「ドイツに二度と1918年11月が在っては為ら無いし、またその様な事は起こさせ無い」と云うのが、ヒトラーの最初の政治的決意だった。そして彼が生涯において成し遂げた事は、唯一この目標だけだった。

 ドイツの右翼は、ドイツは戦争に負けて居ないのに、十一月革命を起こした社会主義者の「背後からの一突き」で遣られたのだとして、彼等はドイツ革命を「十一月の犯罪」と呼んだが、ヒトラーが抱いた政治的決意とは、先ず第一に、1918年11月の様な状況に為っても今後は、革命を不可能にしようと云う決意だった。

 ・「1918年の犯罪(ドイツ革命)」を無かった事にする為に、第二次世界大戦を起こして歴史を正しく修正し無ければ為ら無いと云うヒトラーの政治的決意

 しかし既に起こってしまったドイツ革命(十一月の犯罪)を覆すには、もう一度革命前の様な状況を作り出さ無ければ為らない。その為にもう一度革命前と同じ状況を出現させ様と云うのが、ヒトラー第二の決意。そしてその為には、負けた・負けたとされたアノ戦争を再開し無ければ為ら無いと云うのが、ヒトラーが抱いた「わが生涯における最も困難な決意」の内の第三の決意。

 ・二度と「1918年の犯罪(ドイツ革命)」を許さ無い為の「ファシズム」による「一党独裁」体制の確立

 ヒトラー第四の政治的決意は、再開したその戦争は、如何なる革命勢力も存在し無い国内体制の基に、再開される必要があると云うもので、そこから第五の決意として、一切の左翼政党を廃止に持って行くと云う事が導き出されて行く。(⇒ファシズムによる一党独裁の確立)

 ・左翼政党を支える労働者階級を取り込む為に、ドイツを国家が社会主義を行う「国家社会主義」の国にする

 ヒトラー第六の政治的決意は「1918年の犯罪(ドイツ革命)」を引き起こした左翼を潰す為には左翼政党を支える労働者階級を取り込む必要があり、その為に敢えて、国家が社会主義を国民に提供する「国家社会主義」を導入すると云うもの。

 ・「国家社会主義」以外の社会主義撲滅の為マルクス主義者の根絶と抹殺

 そして国家が提供する以外の社会主義を無くす為ヒトラーは、第七の決意としてマルクス主義者の根絶と、第八にマルクス主義の政治家と知識人の抹殺が必要だとした。

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 ・ユダヤ人の抹殺

 そして最後、ヒトラー第九番目の政治的決意は、彼の昔からの念願だったユダヤ人の地上からの抹殺。彼に取って都合が好いのは、当時マルクス主義の政治家や知識人にユダヤ人が多く居た事だった。しかしヒトラーが抱いたこの全構想は、それ自体が一つの間違いの上に築かれて居た。
 ヒトラーのみ為らず当時の多くのドイツ人達は、彼等が「11月の犯罪」と呼ぶドイツ革命は、その革命戦争の敗北の原因に為ったと誤って考えて居たが、事実としてはそうでは無く、実際には飽く迄ドイツ十一月革命は第一次大戦の「敗北の結果」によって齎されたものだった。

 ・ヒトラーが抱いて居た第二次世界大戦の構想

 初めにヒトラーには、打ち切られた戦争(11月革命によって打ち切られた第一次世界大戦)を何としてでも再開すると云う決意だけがあった。ヒトラーはその新しい戦争を、単に旧い戦争の繰り返しにはせず、第一次世界大戦中とその後で敵の同盟を破壊した対立を利用して、新しい有利な同盟関係の基に計画しようと考えた。
 「わが闘争」に書かれている最終的結論では、イギリスとイタリアを同盟国又は好意的中立国と予定し、オーストリア・ハンガリーの後継国家とポーランドとを支援民族にし、フランスは前以て除去する必要のある第二の敵とし、ロシアをドイツの生活空間、即ち「ドイツのインド」とする為に占領し、恒久的に服従させる主要敵とすると云う構想だった。

 第二次大戦の基礎に在ったのはこの構想だったが、イギリスとポーランドが彼等に割り振られた役割を受け入れ無かったので、初めから予定通りには行かなかった。ヴァイマル政権時代のドイツの細かい歴史に付いては、以下のまとめもご参照ください。

『ナチスの台頭に至るまでのドイツ(ヴァイマル)共和国の変遷』 https://ncode.syosetu.com/n6472fe/
『ヒトラーが政権を掌握するまでの略歴(神野正史『世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した』等からのまとめ)』 https://ncode.syosetu.com/n3752fe/


          A以上 Bにつづく



 



 




セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』@




  セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』@ 

  セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』(1979年、草思社)より


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 第一章「生活」部分のまとめ その@

 ヒトラーの人生と彼の内面的性質に付いて


 ・ヒトラーの人生と彼の内面的性質

 ヒトラーの一生は56年の生涯だが、最初の30年と続く26年との間には深い断層がある。1919年迄は弱さと不能の時代だったが、1920年以降は力と業績の時代と為った。しかしコレは横に切った断面では無く、縦に切られた裂け目であって、それ以前も以後も、ヒトラーの個人的生活の異常な貧困と政治的生活及び政治的経験の異常な強烈さとは並存して存在をして居た。

 戦前の怪し気なボヘミアンの時に彼は既に、恰も最高の政治家であるかの様に、時代の流れの中で動いて致し、そして総統フューラーと為り、ドイツ帝国首相と為っても、彼の個人的生活は成り上がりのボヘミアンそのママだった。
 ヒトラーの生涯には、その以前にも以後にも、通常、人間の生活に重み暖かさ品位を与える者・・・詰まり教養・職業・愛情とか友情・結婚・父親であると言ったものが全て欠けて居た。それは、彼の政治と政治的情熱を度外視すると、内容の無い生活であり、重みの無い簡単に投げ捨てられる生活だった。
 事実、何時自殺しても好いと云う気持ちが、耐えずヒトラーの全政治生活に付き纏って居て、そして実際、最後には、自明の事の様に自殺を遂げた。

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 ・ヒトラーの女性関係

 ヒトラーは結婚もせず子供も持たず、女性との恋愛も彼の生活で異常に小さな役割しか果たさ無かった。彼の生涯には二・三の女性が居たが、彼は彼女達を添え物の様に扱い幸福にはして遣ら無かった。
 エーファ・ブラウンは耐えず傷付けられる苦しみを受け「彼は私を決まった目的の為にしか必要とし無い」と行って、二度自殺を図った。彼女の前の女性、ヒトラーの姪ゲリ・ラウバルは、恐らく同じ理由からか、実際に自殺した。

 ・ヒトラーの友人関係

 ヒトラーは友人も持た無かった。運転手とか護衛とか秘書とか、目下の者達と何時間も一緒に過ごすのが好きだったが、彼は一人で喋るだけだった。本当の友達関係は生涯拒否した。ゲーリング(党の古強者のひとり、空軍最高司令官)ゲッベルス(党の古強者のひとり、宣伝相として有名、ヒムラー(党の古強者のひとり、秘密警察を握る親衛隊の全国指導者、と云った人達との関係は、常に冷たく距離を置いたものだった。
 ヒトラーの側近の古強者の内で、彼が初期の頃、"君・僕”の親しい関係に在った只一人の男、突撃隊長のレームを彼は射殺させた。その主たる理由は、彼が政治的に邪魔に為って居たからだった様だが、だが、過つての親しい友人関係さえ、ヒトラーの政治目的遂行の為には、何の妨げにも為らなかった。

 ・ヒトラーの教養

 ヒトラーは悪い点数を貰った二・三年の実業学校での教育だけで、彼はキチンとした教育を受けた事が無かった。彼が実際に通じて居たものは、前線兵士として実地の経験によって得た、軍事的な事柄と軍事技術上の知識だけだった。その他の点では、彼は一生を通じて典型的な半可通だった。
 政治上の領域に関しても、熱心な韻文愛好家程度の知識は持って居たが、生齧りの知識や間違った知識を好んで大衆の前で振り回し、何でも人より好く知って居る様な顔をしては、聴衆が何も知ら無いのを好い事に、こうした好い加減な知識で威圧した。

 ・ヒトラーの職業

 職業においても、ヒトラーは職業を持った事も、求めた事も一度として無かった。政治に関しても、政治は彼の生き甲斐だったが、決して彼の職業とは云えなかった。ナポレオン、ビスマルク、レーニン、毛沢東と云った人物と比べて、彼等の内の誰をトッテモヒトラーの様に、只もう政治家でしか無く、他の全ての面ではゼロだったと云う者は居ない。
 四人とも全て高い教養を持ち「政治に足を入れ」歴史に名を残す前に、将軍とか外交官とか弁護士・教師と云った職業を持ち、それで実力を示して居た。又四人とも結婚をし、夫々大い為る愛情を知って、それが彼等偉大な人達に人間味を与えて居る。が、ヒトラーにはそうした人間味が欠如して居た。

 ・自己批判能力の欠如と肥大化した万能感

 ヒトラーに有っては、彼の性格・彼の個人的本質の発展とか成熟と云う事が全然見られ無い。彼の性格は早くから固定してしまった。より適切に云えば、止まってしまった。そして驚くべき事に、ズッとそのママで、何かが付け加わると云う事が無かった。
 無謀・復讐心・不誠実・残酷と云った否定的な特性は云う迄も無く、温和な愛すべき人と宥和する性向が一切欠け、意志力・大胆・勇気・ねばり強さと云った彼の肯定的な特性でサエ、それは全て「冷酷」な面に表れて居た。

 ヒトラーには、自己批判能力が完全に欠如して居て、ヒトラーはその全生涯を通じて全く異常な迄に自分に逆上せ上がり、ソモソモの初めから最後の日迄自己を過大評価する傾向があった。

 ・ヒトラーの人生と彼の政治的テーマ

 ヒトラーの政治的伝記に付いては、コレは彼が最初に公衆の前に登場する大分前に始まり、七つの段階と云う飛躍があった。

 1、生き甲斐の代償としての政治への早くからの熱中
 2、最初の(未だ私的な)政治的行動としての、オーストリアからドイツへの移住
 3、政治家に為る決意
 4、大衆演説家としての自己の催眠術的な能力の発見
 5、総統に為ろうとする決意
 6、自分の政治的時間表を予想される自分の寿命に従わせる決意(コレは同時に戦争への決意と為る)
 7、自殺の決意

 第一次世界大戦前のヨーロッパは、今日のヨーロッパよりズッと政治的だった。それは帝国主義的な列強のヨーロッパで、列強は絶えず角逐し普段に陣取り争いを遣り、絶えず戦争の用意をして居た。それは或は赤色革命のヨーロッパで、当時、ブルジョアの常連が集うどのテーブルでも、プロレタリアの行くどの飲み屋でも、常に政治議論が交わされて居た。
 政治は当時、殆ど全ての人に取って、特に熱烈な政治への関心に目覚めた青年ヒトラーに取って、それは全面的に生き甲斐だった。ヒトラーの芸術的功名心は18・19歳にして挫かれたが、功名心そのものは彼の新しい関心領域へと持ち込まれて行った。

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 ・ヒトラーの政治思想(反ユダヤ主義・大ドイツ国家主義・社会主義)

 1910年代のヴィーンでは、国家主義と社会主義は大衆を動かす力強い合言葉だった。しかしヒトラーの政治的世界観の基礎と云えるものは、国家主義と社会主義の融合体では無く、国家主義と反ユダヤ主義の溶け合ったものだった。ヒトラーの反ユダヤ主義は殆ど彼の生まれ付きのもので、民族主義的で大ドイツ主義の国家主義も、彼のヴィーン時代に生じて居たものだが、社会主義はどう見ても後年の付け足しだった。
 ヒトラーの反ユダヤ主義は、東ヨーロッパの産物。西ヨーロッパではドイツにおいても反ユダヤ主義は世紀末には退潮で、ユダヤ人の同化と統合が望まれ盛んに進行して居た。

 だが多数のユダヤ人がユダヤ人街としてのゲットーに、民族の中の隔離された民族として存在して居た東と南ヨーロッパでは、反ユダヤ主義は風土病的で凶悪な様相を呈し、ユダヤ人の同化と統合に向かわず、廃棄と根絶の方向を取って居た。
 そしてヒトラーの生まれたオーストリアのヴィーンには、この凶悪なユダヤ人に逃げ道を与え無い反ユダヤ主義が深く入り込んで居た。此処でヒトラーは反ユダヤ主義と知り合った。しかし、此処で若きヒトラーがどの様にして反ユダヤ主義と知り合ったのかは判らず、ヒトラーにどんな不快な経験があったのかと云う事も不明。

 が『わが闘争』には、ヒトラーに取って、ユダヤ人が別の人間であると判れば、それで「彼等は別の連中だから、居なく為らねば為らない」との結論を出すに十分だと書かれて居るだけだった。但し、この青年の心に深く確りと喰い込んだ凶悪な反ユダヤ主義は、差し当たり彼自身の生活には何等具体的な結果ももたらさなかった。
 だが、ヴィーン時代のもう一つの産物である大ドイツ国家主義はそうでは無く、それは1913年、ヒトラーに、ドイツへ移住しようとの決意を生んだ。

 ・オーストリアからドイツへの移住

 青年ヒトラーは、自分をオーストリア人では無く、ドイツ人、それも貧乏クジを引いてドイツ帝国の建設とドイツ帝国とから不当に締め出され、見捨てられたドイツ人だと思って居るオーストリア人だった。そうした感情は当時の多数のオーストリア人に共通するものだった。
 全ドイツを後ろ盾にすれば、オーストリアのドイツ人はこの多民族国家オーストリアを支配し、思う様に動かす事が出来る筈だった。処が彼等は1866年にドイツから締め出され、自分の国では少数民族と為ってしまった。

 ※当時のオーストリアは現在のチェコスロバキア・ハンガリー・ポーランドの一部、ユーゴスラビアを含む他民族国家で在り、正にそれ故にこの国はビスマルクのドイツ統一から除外された。この為、それ迄ドイツを背景にオーストリアで優越的地位を占めて来たドイツ系の人々は俄かに危機に晒された。
 そこで彼等はハンガリーのマジャール人貴族と手を結び、その結果、オーストリア・ハンガリーの二重王国が出来上がったが、これ以後も多数の民族の民族主義に悩まされる事と為る。第一次世界大戦でこのオーストリア・ハンガリー帝国が解体して多数の小国家が生まれた。

 結論を出すのが得意な専念ヒトラーは、早くから酷く極端な結論を出して居た。それは、オーストリアは崩壊する、そして崩壊の過程から大ドイツ国家が生まれ出て、全てのドイツ系オーストリア人を包含し、同時にオーストリアに生まれる小さな国々をその重さで再び支配すると云うものだった。
 心の中で彼は最早オーストリア・ハンガリー帝国の臣民では無く、この来るべき大ドイツ帝国の市民だと思って居て、ソコから彼は自分自身に付いての極端な結論を引き出した結果、1913年の春、国外への移住を決意するに至った。

 ヒトラーはオーストリアの兵役を逃れる為に、ヴィーンからミュンヘンへと移住したが、それは兵役拒否や臆病からでは無く、ヒトラーは、自分自身が内心で訣別して居るオーストリア・ハンガリーの他民族共存を理想とする主義の為や、又既に最期を見切って居る国の為に戦いたく無かっただけだった。
 1914年に第一次世界大戦が発生すると、ヒトラーはオーストリア陸軍では無く、ドイツ陸軍へと直ちに志願した。第一次大戦への従軍で、ヒトラーは政治的に満たされて居たが、只彼の反ユダヤ主義だけが満たされ無いで居た。ヒトラーの思いでは、第一次世界大戦の戦争を利用して、ドイツ国内の「国際主義」を撲滅すべきだと考えて居た。

 ヒトラーはその「国際主義・Internationalismus」と云う単語の末字の「s」を、「ß (エスツェット)」と書いて居た。詰まりヒトラーに取っての 「国際主義・Internationalismus」とは、反ユダヤ主義に付いての事を意味して居た。


  Aにつづく


 



 
 




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