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2022年11月18日

つきまとう女 3



あの北海道ツーリングから3ヶ月。
俺は今、都内の駅前広場のベンチに座っている。
夏の暑さも終わり、街に冬の気配が漂う秋風の季節だった。
季節の流れに街の色が移ろうように、3ヶ月で俺の人生も大きく変わった。
あの日、俺と一緒に北海道を旅したバイクはもう居ない。
トラックと正面衝突を起こし、跡形も無く大破した。
俺はその事故で、左脚と左腕。左側の鎖骨と肋骨4本を骨折する、重傷を負った。全治5か月と診断された。
生きていただけで有難いが、全治5か月の人間を、俺御会社は不必要と判断し、書類一枚の郵送で解雇した。
おかげで、バイクも失い、仕事も失い、残ったのは僅かばかりの貯金と、ポンコツの身体だけだった。
幸い、後遺症も無く回復しそうな感じではあるが、左腕の回復が妙に遅い。
左脚、肋骨、鎖骨はもう殆ど治っているのに、左腕は未だに折れたままだ。
医者も不思議がっていた。俺も不思議だ。
あの時、俺が何故事故を起こしてしまったのか、記憶が無い。
医者は、事故のショックに因る、一時的な記憶障害と言っていた。
だが、今はそんなことはどうでもいい。
俺はすっかり社会から逸脱していた。
例え怪我が癒えても、俺には帰るべき職場も無い。
俺はすっかり生きていく自信を失っていた。
このまま俺は社会不適合者として、枯葉の様に朽ち果てるのではないだろうか。
そんな事ばかり考えていた。

俺が今、駅前広場のベンチに座っている理由は、一週間前の出来事に遡る。
俺は病院に行く為に、この駅を利用している。
俺の体は、俺の思うように動いてくれない。
不意に人の波に足を取られて転倒した。
そんな時、俺を助けてくれる人間は皆無だ。
ほんの少しだけこちらに目線をくれるだけで、人々は通り過ぎていく。
別にそれでも良かった。助けて欲しいとは思わない。
妬む気持ちや、恨めしいという気持ちは無い。ただ自分が惨めで仕方なかった。
弱いということは、孤独で惨めな感情を引き立てる。毎日が泣きたい日常だった。

駅前広場のベンチに座り、俺は休んでいた。
人々の流れを見ながら、俺はかつての日常を思い出していた。
あの頃に戻りたい。過去に戻れたら、どんなに良いだろうか。
不意に若い男が、俺の横に座った。
若い男はタバコに火を点け、煙を空に向かって吐き出した。

「お兄さん、やばそうだね」

若い男が俺に話しかけてきた。俺は黙って人々の流れを見ていた。

「別に怪しいもんじゃないよ。ただ今のお兄さん見てると、助けが必要なのかなって思ってさ」
「助け?助けなんか要らないさ。体が治れば、俺だって自力で生きていける」

若い男は、溜息をつくように煙を吐き出す。

「その体はもう治らないよ。治ったとしても、また同じ事を繰り返すだけだ」

俺は黙って人々の流れを見る。言い返す気力も湧かない。

「一週間後にさ、またここに来てよ。そしたら俺たちが、お兄さんの力になるからさ」

そう言って若い男は、その場から立ち去った。
俺は虚空を眺めていた。
俺はあんな奴に、あんな事を言われるまでに落ちぶれたか。

その日の夜、俺はアパートのベッドの上で横になっていた。
姐が時折俺の面倒を見に来る以外に、誰も訪れない。
俺は孤独な狭いアパートの中で、ただ天井を眺めていた。
暫くして眠りに落ちると、不意に目が覚める。
天井に穴が開いている。それも人一人通れそうなほどの大きな穴が開いていた。
突然現れた天井の穴に驚いた俺は、体を起こそうとするが、まるで拘束具で縛り付けられたように体が動かない。
俺は一瞬パニックを起こしかけた。
天井を一点に見つめたまま、身動き一つ取れない。
なんとか体を動かそうと足掻く俺の耳に、何かが這いずるような音が聞こえた。
音の発信源は天井の穴の中。
俺の全身に警戒信号が流れ出す。嫌な気配が天井の穴の中から満ち溢れていた。
俺は目を閉じた。これは夢なのだと自分に言い聞かせた。
起きろ!起きろ!起きろ!
必死で念じた。
目を開けた次の瞬間、俺は我が目を疑った。
あの北海道で遭遇したキチガイ女が、天井の穴の中に居る。
俺の心臓は、張り裂けんばかりに強く鼓動した。
キチガイ女は、黙ってこちらを見ている。
身動き一つ取れない俺は、ただひたすら震えていた。
キチガイ女の口が、モゴモゴと奇妙な動きをする。
まるでガムを噛むような素振りの後、女の口からゆっくりと血が流れ落ちてきた。
その血が滴となって、俺の顔にこびりつく。
女の口から吐き出された血は、人の血とは思えない冷たさだった。
死体の血。俺の頭の中で連想した物はそれだった。
俺は絶叫した。誰でもいい。気付いてくれ。誰か助けてくれ。
俺の顔を埋め尽くすほどに、尚も女は血を吐き出し続けている。
俺は叫んだ。心の底から叫んだ。助けを求め、狂ったように叫んだ。
すると女は、穴から這いずるように身を乗り出すと、そのまま天井から落ちて来た。
俺の心臓は停止寸前だった。
落ちて来た女は、天井にぶら下がるように首を吊っていた。
冷たい無表情な顔で、俺を見下ろしている。
女の口からは、大量の血が流れ出ていた。
冷たい血が、女の白いワンピースを赤く染める。
唐突に、女の首のロープが切れる。
まるで操り人形の糸が切れた様に、女は力なく俺の腹部に落下した。
俺の恐怖は頂点に達していた。
這いずるように、女の顔が俺の耳元に近づく。

「もうお前は私のなの……」

そう言いながら女は、俺の体を弄る。
俺は恐怖で涙が止まらなかった。

「許してくれ、助けてくれ」

懇願することしか俺には出来なかった。
女は俺の口に、ねじ込むような不快なキスをしてきた。
俺は泣きながら、くぐもった声で絶叫した。
その刹那、女は消えた。
俺は大量の汚物を口から吐き出した。

朝、目覚めた俺の周囲は、俺の吐いた汚物にまみれていた。
鏡を手に取り、顔を見る。女の血は付いていない。
ベッドの周囲にも女の血は無かった。天井にも穴は無かった。ただ俺のゲロだけが散乱していた。
俺は荷物をまとめると、アパートを飛び出した。

昼間は駅の構内で休み、夜はファミレスで明かした。
俺はもう、一人になる環境に耐えられなかった。
誰でも良いから、人の居るところに居たかった。
そんな生活が一週間続いた。俺の心身は限界に近づいていた。
癒えきらない体。慣れない生活環境。俺の中で色々なものが崩壊した。
ほんの少し前まで、俺はバリバリ仕事をこなし、一端の社会人として生きてきた。
それが今じゃ、ホームレスと変わらない。
その理由が、あのキチガイ女に纏わり憑かれているからだ。
そんな理由で俺はこんな生活をしている。こんな事は誰にも言えない。
精神異常者と思われても仕方が無い。俺はもう駄目かもしれない。本気でそう思えた。
俺の心は半分死んでいた。何もかも絶望的に思えた。
気が付くと俺は、あの若い男と出会った、駅前広場のベンチに座っていた。
夏の暑さも終わり、街に冬の気配が漂う秋風の季節だった。
俺は彼を待っていた。
駅前広場のベンチに座り、虚空を眺めていた。
過酷な環境に耐えかねた俺は、もう考えることも放棄していた。
ひたすら俺は、一週間前に出会った若い男を待っていた。
タバコに火を点ける音がする。いつの間にか、彼が俺の隣に座っていた。

「前に会った時より酷くなってるね、お兄さん。もう限界でしょ?」

若い男は俯きながら、地面に向かって煙を吐いた。

「本当に助けてくれるのか?」

俺はすがる思いで尋ねた。

「まぁ、やれるだけのことはやりたいね。このままお兄さん放置すてると、死んじまうのは眼に見えてるし。それを分かってて死なしちまったら目覚めが悪い」
「何をする気だ?」
「まぁ、付いて来なよ」

そう言うと若い男は、駐車してあった車に俺を乗せた。


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