「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。
遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば更りてまた昿劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
(教行信証総序)
一度読んでみてください。
これは、どういうところに出てきますか。
教行信証のはじめ、教行信証は、親鸞聖人が唯一の世界の光である、
親鸞聖人の教えが唯一の光である。
ということは、位置付けは人類の根本聖典である。
親鸞聖人は最初に「噫」と言われている。
なぜ親鸞聖人最初に言われているのか。
何か意味があるのか。
弘誓の強縁は多生にもあえないものである。
「真実の浄信は億劫にも獲がたし」
なかなかあえないものにあったら私達はどういう風になるのか。
唐辛子を口に入れたとき、また道でばったり、小学校以来
会っていなかった友達に遇ったとき、「おお、お前」と言う風に言うかといっ
たらそうじゃない。
「ああーっ!おおーっ!」
まず最初に言葉は出てこない。
その驚きが出てくる。
中国残留孤児なんかが対面する時、
30年、40年と会えなかった何とか会いたいと思っていたけれど。
でも出会うことができた、お母さんと出会った。
そのときに「お母さん」「息子よ」こんな言葉が出てくるか。
まず出てくるのは「ああ」
高校30年のことでもそんな感じ。
親鸞聖人は多生の間、生まれ変わり死に変わりして
つまらないことに時間をかけて、つまらないことに人生をかけて、
どれだけ苦しんできたかわからない。
そんなときに、嬉しいとか楽しいとかはなくって、
親鸞聖人は驚き喜び感動があり、それを言われている。
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