2015年10月04日
「中国が日本を侵略したことを知っていますか?」
「中国が日本を侵略したことを知っていますか?」
=日本人の先生に聞かれてびっくりした―中国人学生
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151003-00000019-rcdc-cn
我々日本人もここに出てくる中国人同様、
中国が日本に侵攻したのは元寇くらいだと思っているのではないか。
弥生・飛鳥・奈良の時代において
海外との交流は遣隋使や遣唐使だけだと思っているかもしれない。
だが実はもっと頻繁に、濃密な交流があった。
中国の歴史書には倭の五王が朝貢したという記録があり、
古いもので西暦413年に倭の王「讃」が
東晋の安帝に朝貢している。
なぜ朝貢するのかといえば、
中国に倭を国として認めてもらうためだし、
中国に後ろ盾になってもらうことで
朝鮮の国を牽制することができるからだ。
中国や朝鮮半島の国が攻めてくるなどという発想がなければ
わざわざ中国に朝貢する必要はない。
古代の日本は、
常に外国からの侵略に怯えていたと言ってもいい。
その証拠に大陸から容易に攻められないように
政権を畿内に移したし、
白村江の戦いに負けたことにより、
唐が攻めてくるのではないかという憶測から
九州の海岸線に防人を配置した。
また、古代に起きた事件には
外交問題が多分に絡んでいた。
有名な聖徳太子の
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」。
大化の改新の乙巳の変は
白村江後の対応をめぐって
中大兄皇子と蘇我入鹿が対立したために起こったとも言われている。
壬申の乱も単なる皇位継承の争いだけでなく
外交方針の対立の側面も見られる。
大陸南部や朝鮮とだけでなく
大陸北部の国とも日本は交流を持っていた。
新羅を牽制するために
日本は渤海と交流し、
秋田城には渤海使が訪れた痕跡が残されており、
遣渤海使も14回送られた記録がある。
この様に古代日本の時の政権は
常に大陸と朝鮮半島を意識して
政治を行ってきた。
そこから我々は何を学習してきたのだろう。
まったく進歩していないように感じてしまうのだが。
=日本人の先生に聞かれてびっくりした―中国人学生
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151003-00000019-rcdc-cn
我々日本人もここに出てくる中国人同様、
中国が日本に侵攻したのは元寇くらいだと思っているのではないか。
弥生・飛鳥・奈良の時代において
海外との交流は遣隋使や遣唐使だけだと思っているかもしれない。
だが実はもっと頻繁に、濃密な交流があった。
中国の歴史書には倭の五王が朝貢したという記録があり、
古いもので西暦413年に倭の王「讃」が
東晋の安帝に朝貢している。
なぜ朝貢するのかといえば、
中国に倭を国として認めてもらうためだし、
中国に後ろ盾になってもらうことで
朝鮮の国を牽制することができるからだ。
中国や朝鮮半島の国が攻めてくるなどという発想がなければ
わざわざ中国に朝貢する必要はない。
古代の日本は、
常に外国からの侵略に怯えていたと言ってもいい。
その証拠に大陸から容易に攻められないように
政権を畿内に移したし、
白村江の戦いに負けたことにより、
唐が攻めてくるのではないかという憶測から
九州の海岸線に防人を配置した。
また、古代に起きた事件には
外交問題が多分に絡んでいた。
有名な聖徳太子の
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」。
大化の改新の乙巳の変は
白村江後の対応をめぐって
中大兄皇子と蘇我入鹿が対立したために起こったとも言われている。
壬申の乱も単なる皇位継承の争いだけでなく
外交方針の対立の側面も見られる。
大陸南部や朝鮮とだけでなく
大陸北部の国とも日本は交流を持っていた。
新羅を牽制するために
日本は渤海と交流し、
秋田城には渤海使が訪れた痕跡が残されており、
遣渤海使も14回送られた記録がある。
この様に古代日本の時の政権は
常に大陸と朝鮮半島を意識して
政治を行ってきた。
そこから我々は何を学習してきたのだろう。
まったく進歩していないように感じてしまうのだが。
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