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2015年07月13日

イジメについてA

イジメがエスカレートする前に
「やめろ」と言える生徒が出てくれば
イジメが深刻化することはない。

もちろんこれは理想論だ。
たとえイジメを目にして不快に思っても、
次は自分が標的にされるのではないかと恐れて
「やめろ」とはなかなか言えないものだ。

なぜそのような風潮になってしまったのだろうか。

日本には
「和をもって貴しとなす」という言葉がある。
聖徳太子の憲法十七条の筆頭に来る言葉だ。
本来はそれに続きがあり、この言葉に真意は

「人というものはとかく同じ意見の者と党派を組みやすい。
党派を組むとその意見に固執してしまい
他の意見に耳を傾けなくなる。
そうすると争いが生まれてしまうので、
和らぎを持ちて話し合い、そこで得た合意というものは
道理であろうから問題を解決できる。
その姿勢こそ大事である。」

というものだ。
この本来の意味のまま理解して実践されれば
イジメというものは生まれないかもしれない。

ところがどうもこの言葉は
「和を乱してはいけない」
というように解釈されて広く伝わっているようだ。
間違った解釈のまま統制のための便利な言葉になった。

各国の国民性を表す喩え話で、
沈没しそうな客船から海に飛び込むように促す際、
アメリカ人には
「ここで飛び込めばあなたはヒーローになれますよ」
ドイツ人には
「ここで飛び込むことは規則で決まっています」
フランス人には
「ここでは誰も飛び込みません」
と囁く、
というのがあり、
では日本人にはなんと言って飛び込ませるのかといえば
「みんな飛び込んでいますよ」。

こういう喩え話が生まれるくらい
日本人は和を乱さないように生きている。
つまり善悪関係なく、
和を乱すものが日本では悪だという風潮なのだ。

イジメに対して「やめろ」というのは
客観的社会的にみれば立派な行為なのだが、
限られた密室においては和を乱す悪となってしまう。
マイノリティに不寛容な国民性が
イジメを招いている一因であるといえるだろう。

幼少に「友達百人できるかな」と歌わせ
無理矢理にでも友達を作らせるのは
和を強要する圧力になっていないだろうか。
仲間はずれになることを
極端に恐れる環境にしてしまってはいないだろうか。

子は親を映す鏡である。
親の姿を見て子は成長する。
親が少数派を目の敵にするような言動をすれば
子供も同じように少数派に不寛容になる。
そういった根本的なところから改めて行かなければ
いつまで経っても同じことを繰り返すことになるだろう。




posted by 黒豚猫 at 14:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会
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