2020年01月10日
習一篇−1章1
少年は目をあけた。オレンジ色のまじった、あたたかみのある色合いの壁が見える。その壁が天井だとわかるのにいくらか時間がかかった。この部屋が少年の自室ならばすぐに天井だと認識できただろう。
(どこだ……?)
寝ぼける少年は無心に天井をながめる。そうするうちに、男の声が聞こえた。
「目がさめてくれたね。これで一安心だ」
その声には本心から他者を気遣うやわらかさがあった。少年は何者がそばにいるのかをたしかめるため、視界外の声の主をさがした。
少年が視界を変えた先には人がおらず、長い銀色の棒があった。天井に向かう棒の上部に、液体の入ったパックが吊るしてある。そのパックから透明な管がのび、少年の腕に繋がっていた。これは点滴だ。そう認識すると同時に、この場は病院なのだと少年は察した。
(搬送された?)
なにが原因で入院したのか、少年は記憶を掘り起こそうとした。だが「習一くん、気分はどうかな?」と呼びかけられて、そちらに意識がいく。
習一は点滴とは逆方向へ向きなおる。そこに半袖のワイシャツを着た男が椅子に座っていた。年齢は二十代。さして特徴のある風貌ではないが、にこやかな顔つきなせいか、人当たりの良い印象を受けた。彼は習一の名をよんできたが、習一にはこの男に関する記憶はない。
「具合のわるいところはある?」
具合、と聞かれても習一は自分のどこに不調があるのかわからなかった。体をうごかしてみればわかるやもしれず、習一は上体を起こそうとした。白いシーツでおおわれた敷布団に、前腕と手のひらをつけて、体重をかける。すると異様に自分の体が重く感じた。起き上がるという普通の日常動作ごときに、想像以上に体力を消耗する。体重が増えたわけでないことは、腕の贅肉のなさからうかがい知れた。つまり大病をわずらったか事故に遭ったかして、体が弱ったらしい。
「力が、入らない……」
習一は男への返事を兼ねた感想をのべた。習一はもとより痩身だが、貧弱ではない自信がある。そんな自分が虚弱体質になった状態はまぎれもなく不調だと思った。
「それはしばらくご飯を食べてないせいだろうね」
「『しばらく』?」
「その質問の答えは後回し。まずは自己紹介だ」
男は自身の膝にのせた鞄に手を入れた。肩掛け鞄から手帳を出して、表紙をめくる。そこに男の顔写真と名前が載っていた。普通の免許証ではない。警察手帳だ。
「おれはこういう者だ。姓は露木《つゆき》、名は訳あってシズカというあだ名で呼ばれている」
たしかに男の名には「静」という漢字がふくまれていた。女性じみたあだ名だが、そういう本名の男性がいることはいる。それゆえ習一は男の呼び名の特異性を無視する。
「警察がオレになんの用だ?」
「きみはとある事件に巻きこまれた被害者だ。その事件の担当者が、おれ」
「事件だと?」
習一は事件に遭遇した心当たりがない。思い出せることはせいぜい自分の不良な行ないだ。学校を無断で遅刻してみたり、素行のわるい同年代の者と一緒にいたり、それまで興味はなかった髪染めをやったり。そういった無為な時間をすごすようになって、何ヶ月か経った。それが習一の直近の記憶である。
習一は警官を名乗る男を露骨にあやしんだ。だが警官は接客業の店員のように笑顔をくずさない。
「なに、事件は解決済みだ。もう安心してくれ」
「だったらオレに会う意味なんてないだろ」
習一の想像する警官像は打算的で余計な仕事を背負いたがらない連中である。ゆえに「なんできた?」と率直に訪問理由をたずねた。
「きみの見舞いにきたってところだ」
露木の主張はもっともらしい。だが習一は信じきれなかった。すでにおわった事件の被害者を、わざわざ警官が会いにくる理由があるだろうか。職務の範囲外の行動ではないか、露木には見舞う以外の目的があるのではないか、と習一は勘ぐった。
習一に不審がられる露木は「無理もない」とつぶやく。
「きみが被害にあったときの記憶は消させてもらった。身におぼえのないことを言われて、釈然としないのはわかるよ」
「記憶を消す? そんなの、どうやるんだ」
「教えてもいいんだけど、いまのきみに言っても理解してもらえないと思う」
そう言われた瞬間、習一はむっとした。理解力に劣る馬鹿だと言われた気がしたせいだ。だが「いまのきみ」という言葉をかみ砕くと、頭の出来不出来は関係のない次元の話だと思えた。
「自分の消えた記憶、気になるかい?」
露木は微笑を浮かべながら問うた。習一はもちろん自分の記憶に関心がある。どんな内容であれ、勝手に記憶を消去されたとあっては気味が悪い。その行為が習一のためでなく、この警官やほかの人間の利益目的であればなおさらだ。しかし「教えてくれ」とがっつくのは軽率な気がした。そのため遠回りな質問をこころみる。
「なあ、オレの記憶を消したってのが本当だとして、そうした理由はなんだ?」
「それが最良の手段だと思った」
「最良? どういうこった」
「きみのほかにも被害者がいたんだ。彼らはきみとちがって、襲われたときの記憶を持ったまま、目覚めた。そのせいで……可哀そうなほどにおびえていたよ」
露木は目を伏せる。この場にいない被害者を憐れんでいるようだ。
「今後の生活に支障が出るくらいに、事件を引きずっていた。だから被害者全員の記憶を部分的に消したんだ。おれにはそういう芸当のできる友人がいるんでね」
露木は親指を立てた握りこぶしを上げ、後方を指す。そこに医師が着るような白衣に似たコートを羽織る男が立っていた。
(どこだ……?)
寝ぼける少年は無心に天井をながめる。そうするうちに、男の声が聞こえた。
「目がさめてくれたね。これで一安心だ」
その声には本心から他者を気遣うやわらかさがあった。少年は何者がそばにいるのかをたしかめるため、視界外の声の主をさがした。
少年が視界を変えた先には人がおらず、長い銀色の棒があった。天井に向かう棒の上部に、液体の入ったパックが吊るしてある。そのパックから透明な管がのび、少年の腕に繋がっていた。これは点滴だ。そう認識すると同時に、この場は病院なのだと少年は察した。
(搬送された?)
なにが原因で入院したのか、少年は記憶を掘り起こそうとした。だが「習一くん、気分はどうかな?」と呼びかけられて、そちらに意識がいく。
習一は点滴とは逆方向へ向きなおる。そこに半袖のワイシャツを着た男が椅子に座っていた。年齢は二十代。さして特徴のある風貌ではないが、にこやかな顔つきなせいか、人当たりの良い印象を受けた。彼は習一の名をよんできたが、習一にはこの男に関する記憶はない。
「具合のわるいところはある?」
具合、と聞かれても習一は自分のどこに不調があるのかわからなかった。体をうごかしてみればわかるやもしれず、習一は上体を起こそうとした。白いシーツでおおわれた敷布団に、前腕と手のひらをつけて、体重をかける。すると異様に自分の体が重く感じた。起き上がるという普通の日常動作ごときに、想像以上に体力を消耗する。体重が増えたわけでないことは、腕の贅肉のなさからうかがい知れた。つまり大病をわずらったか事故に遭ったかして、体が弱ったらしい。
「力が、入らない……」
習一は男への返事を兼ねた感想をのべた。習一はもとより痩身だが、貧弱ではない自信がある。そんな自分が虚弱体質になった状態はまぎれもなく不調だと思った。
「それはしばらくご飯を食べてないせいだろうね」
「『しばらく』?」
「その質問の答えは後回し。まずは自己紹介だ」
男は自身の膝にのせた鞄に手を入れた。肩掛け鞄から手帳を出して、表紙をめくる。そこに男の顔写真と名前が載っていた。普通の免許証ではない。警察手帳だ。
「おれはこういう者だ。姓は露木《つゆき》、名は訳あってシズカというあだ名で呼ばれている」
たしかに男の名には「静」という漢字がふくまれていた。女性じみたあだ名だが、そういう本名の男性がいることはいる。それゆえ習一は男の呼び名の特異性を無視する。
「警察がオレになんの用だ?」
「きみはとある事件に巻きこまれた被害者だ。その事件の担当者が、おれ」
「事件だと?」
習一は事件に遭遇した心当たりがない。思い出せることはせいぜい自分の不良な行ないだ。学校を無断で遅刻してみたり、素行のわるい同年代の者と一緒にいたり、それまで興味はなかった髪染めをやったり。そういった無為な時間をすごすようになって、何ヶ月か経った。それが習一の直近の記憶である。
習一は警官を名乗る男を露骨にあやしんだ。だが警官は接客業の店員のように笑顔をくずさない。
「なに、事件は解決済みだ。もう安心してくれ」
「だったらオレに会う意味なんてないだろ」
習一の想像する警官像は打算的で余計な仕事を背負いたがらない連中である。ゆえに「なんできた?」と率直に訪問理由をたずねた。
「きみの見舞いにきたってところだ」
露木の主張はもっともらしい。だが習一は信じきれなかった。すでにおわった事件の被害者を、わざわざ警官が会いにくる理由があるだろうか。職務の範囲外の行動ではないか、露木には見舞う以外の目的があるのではないか、と習一は勘ぐった。
習一に不審がられる露木は「無理もない」とつぶやく。
「きみが被害にあったときの記憶は消させてもらった。身におぼえのないことを言われて、釈然としないのはわかるよ」
「記憶を消す? そんなの、どうやるんだ」
「教えてもいいんだけど、いまのきみに言っても理解してもらえないと思う」
そう言われた瞬間、習一はむっとした。理解力に劣る馬鹿だと言われた気がしたせいだ。だが「いまのきみ」という言葉をかみ砕くと、頭の出来不出来は関係のない次元の話だと思えた。
「自分の消えた記憶、気になるかい?」
露木は微笑を浮かべながら問うた。習一はもちろん自分の記憶に関心がある。どんな内容であれ、勝手に記憶を消去されたとあっては気味が悪い。その行為が習一のためでなく、この警官やほかの人間の利益目的であればなおさらだ。しかし「教えてくれ」とがっつくのは軽率な気がした。そのため遠回りな質問をこころみる。
「なあ、オレの記憶を消したってのが本当だとして、そうした理由はなんだ?」
「それが最良の手段だと思った」
「最良? どういうこった」
「きみのほかにも被害者がいたんだ。彼らはきみとちがって、襲われたときの記憶を持ったまま、目覚めた。そのせいで……可哀そうなほどにおびえていたよ」
露木は目を伏せる。この場にいない被害者を憐れんでいるようだ。
「今後の生活に支障が出るくらいに、事件を引きずっていた。だから被害者全員の記憶を部分的に消したんだ。おれにはそういう芸当のできる友人がいるんでね」
露木は親指を立てた握りこぶしを上げ、後方を指す。そこに医師が着るような白衣に似たコートを羽織る男が立っていた。
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