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2016年09月20日
第355回 直接行動論
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九二一(大正十)年十二月四日、大杉は赤瀾会本部で開かれた親睦会に出席した。
列席した秋田雨雀が、こう書いている。
寒い。
非常に寒い。
今日、元園町で赤瀾会の会合があって招待された。
赤飯をご馳走になり、みんなで赤飯会だなぞと洒落た。
野村女史の挨拶があった。
ぼくも何かしゃべらせれた。
この会の健全な発達を希望した。
(社会主義の運動は政府の方針によって次第に秘密主義的になっていくようだ。)
(『秋田雨雀日記 第一巻』_p270)
「野村女史」とあるが、これは「野枝女史」の誤植であろう。
とすれば、野枝は大杉と一緒に参加したのだろう。
民衆芸術展が神田の駿台倶楽部で、十二月二十四日から三日間、開催された。
『読売新聞』(十二月二十四日)によれば、堺、大杉、長谷川如是閑、小川未明、馬場孤蝶、山川均、山川菊栄、与謝野鉄幹、与謝野晶子、神近市子、足助素一、有島武郎、武者小路実篤、望月桂、秋田雨雀、加藤一夫などが出品した。
しかし、前日の下見展示で当局の臨検があり、大杉、山川夫妻、望月桂らの作品は撤廃された。
下見展示を見たらしい古田大次郎によれば、油絵、水彩画、鉛筆画、書、短冊などがあり、奇抜なものでは、一枚の板に赤絵具をベットリこねつけて「幸徳秋水の血」と題したものもあった。
古田はある掛け物の前で足が止まり、凝視したまま考えこんでしまった。
そこには達筆な筆文字でこう書かれていた。
乞ひ願うものには与へられず
強請するものには少しく与へられ
強奪するものには全てを与えられる。
栄
(『死の懺悔 古田大次郎遺書 完全版』_p112)
『日録・大杉栄伝』によれば、これは一九一四(大正三)年四月十五日に荒畑寒村宅で開かれたサンジカリズム研究会で、大杉がA・ローレル『直接行動論』から引用して紹介したドイツの俚言である。
しかし、大杉のこの掛け軸は「幸徳秋水の血」などとともに、当局の臨検により撤去命令が下され、展示はされなかった。
『日録・大杉栄伝』に大杉が書いたこのドイツの俚言の書の写真が掲載されているが、それを解読するとこう書かれている。
乞ひ願うものは何物も与へられず
強請するものは少しく与へられ
強奪するものはすべてを与えらる
大杉栄
古田が書き残した文面と若干の違いがある。
大杉自身は「籐椅子の上にて」でこのドイツの俚言について言及している。
僕自身は革命家だと自称してゐる。
そして此の誇りから、平民階級の自覚を促し、その反逆を煽動する事を、自分の仕事としてゐる。
一昨夜も僕は、大久保の近代思想社で開かれたセンデイカリスム研究会に於て、矢張り此の誇りからArnold RollerのDie direkte Aktion(直接行動論)の一章を講じた。
題は革命的同盟罷工ーー経済的および社会的テロリズムと云ふ、甚だ元気のいい、従つて其の内容も、『乞ひねがふものには何物も与へられない、おびやかすものには多少与へられる、無法を働くものには総べてを与へられる』と云ふ俚言をモツトウとした、極力的暴力論の主張であつた。
けれども今考えて見ると、よくもそんな雄弁がふるえたものだと、冷汗が出る。
前科の五犯や六犯あつた所で、それが僕に取つて、何の誇りになるのだ。
いつだつて僕自身自ら進んで其の犠牲を払つたのではない。
いつも不用意でやつた事から、強いて其の犠牲を払はせられたのだ。
……僅かに『近代思想』というやうなintellectual masturbationで満足しているのぢやないか。
革命家が聞いてあきれる。
そして其の資格のない他人が革命を云々するからと云つて、冷笑したり罵倒したりする僕自身の軽薄さ加減がいやになる。
(「籐椅子の上にて」/『生活と芸術』1914年5月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第一巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第5巻』_p154~156)
「籐椅子の上にて」は土岐善麿に宛てた手紙文形式で書かれていて、大杉は土岐のディレッタントを批判しているが、その根底には真の革命家になりきれていない大杉自身の自己批判が込められている。
十二月二十六日、月刊『労働運動』第三次第一号を発刊。
大杉がこう書いている。
三度目の『労働運動』だ。
最初は月刊で、大正八年十月に出して、翌年六月に六号で止めた。
次ぎには週刊と号して、実は月二三回で終つたが、大正十年一月に出して、六月に十三号で止めた。
こんどは、又もとに戻つて月刊にした。
……最初の『労働運動』から第二のそれに、そして又其の第二からこんどの第三に到るまでに、其の態度や方針に多少の変化があつたことは争はれない。
それは社を組織する同人が変つたのにも拠れば、又時勢の変化にも拠る。
社の同人は、こんどは、最初の『労働運動』を発起した極く小人数に帰つた。
それには経済上の理由もあれば、又結束の上の理由もある。
同人、伊藤野枝、近藤憲二、和田久太郎、大杉栄。
発行所、本郷区駒込片町十五番地。
(「二度目の復活に際して」/『労働運動』1921年12月26日・三次一号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』_p339~340)
『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、発行編輯兼印刷人は近藤憲二。
第三次『労働運動』は一九二三(大正十二)年七月一日に十五号を出して終わるが、それは関東大震災、そして大杉と野枝の死によるためである。
★『秋田雨雀日記 第1巻』(未来社・1965年3月30日)
★古田大次郎『死の懺悔』(春秋社・1926年)
★『死の懺悔 古田大次郎遺書 完全版』(黒色青年社・1983年9月1日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『大杉栄全集 第一巻』(大杉栄全集刊行会・1926年7月13日)
★『大杉栄全集 第五巻』(大杉栄全集刊行会・1925年6月15日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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2016年09月18日
第354回 暁民共産党事件
文●ツルシカズヒコ
暁民共産党事件が起きていた、一九二一(大正十)年十一月十二日、大杉は朝早く大森の山川の家を訪ねた。
「やあ、どうだい」
「うん、相変わらずだ」
ふたりは、十幾年かの間、繰り返してきたこのお定まりの挨拶を交わした。
ベルトのついた茶色の外套を着た大杉は、バスケットを提げ、珍しく魔子を連れていなかった。
「ひとりなのかい?」
「なに、今日は奥山さんにお詣りだ」
「菊栄君にはずいぶん逢わぬな。この前もいなかったよ」
この前とは前年八月、大杉と和田久太郎と近藤憲二が焼豚を手みやげに訪れたときのことである。
そのときも菊栄は転地療養中で留守だったが、この日も奥山医院に行って留守だった。
『今日はこれから仙台まで往くんだ。』
斯う云つて大杉君は立ち上つた。
『しかし僕等がロシアにゐたら、大体に於て、まああの通りをやつたらうな。』
大杉は外套のボタンを掛けながら、斯う云つた。
『そうさ、君が彼の時、彼の人たちの代りロシアにゐたら、精密に同じ事をやつたらう。』
『ナニ、精密に同じ事はやらぬさ。プリンシプルが違うから。』
『そのプリンシプルと云ふ奴が、滅多に当てにならぬ奴でね。』
『滅多に当てにならぬ奴でね』と大杉君は口真似のやうに繰返した。
そして直ぐそのあとから、何時もの通りの如何にも罪のない、面白そうな、ヒ、ヒ、ヒといふ笑声を残して、バスケットを提げて出て往つた。
(山川均「大杉君と最後に会ふた時」/『改造』1923年11月号)
『東京朝日新聞』(十一月十四日)によれば、大杉は仙台赤化協会主催の社会問題講演会に出席するために、加藤一夫、岩佐作太郎らと仙台に向かったのである。
講演会は十一月十三日、午後六時から仙台歌舞伎座で開催された。
元寺小路の中央ホテルから会場に向かう途中、大杉と加藤は一番丁(ママ)の鳥屋で夕飯を食べようとしていたところを、仙台署の刑事に引致された。
岩佐も滞在していた旅館で引致され、検束された大杉、加藤、岩佐は講演会には出席できなかった。
三人が出席できなくなったため、講演会に詰めかけた数百名の聴衆が騒ぎ出し、百八十名の巡査が会場の内外を警戒する事態になった。
大杉ら三人はそれぞれに尾行の巡査をつけられ、東京に送還された。
鎌倉に住んでいたころの野枝について、和田久太郎はこう評している。
大正九年の六月、『労働運動』は一時廃刊と決して、大杉一家は相州鎌倉に引越した。
そして、この頃から野枝さんはぼつぼつと嫌やな性質を発揮しだした。
自ら労働運動の渦中に投じて働かうと云ふ熱もなくなつて行つた。
八年の夏頃から、大杉君の原稿が盛んに雑誌界で迎へられるやうになつた。
本を出せば飛ぶやうに売れて行つた。
社会的名声が高くなつて行つたのだ。
それに伴(つ)れて野枝さんの原稿も相当売れるやうになり、生活がよほど楽になつて来た。
で、鎌倉へ行つてからは、蓄音機(ママ)を買つたり、写真機を買つたり、時々は帝劇の音楽会などの一等席へ大杉君共に姿を現はしたりするやうになつた。
そして又、その頃から新聞記者や出入の商人に対する応対振りに、実に嫌やな、高慢ちきな、傲慢な態度を見せるやうにもなつて来た。
(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号)
さらに和田は、こう記している。
野枝さんは、鎌倉へ行つて三女の『エマ』を産み落してから、以前のほがらかな所がなくなつた。
そして、時々ヒステリーを起して物を打ち壊したり、二日も三日も着物のまゝで黙つて寝て了(しま)ふやうな事があつた。
(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号)
十一月二十三日、大杉一家は神奈川県三浦郡鎌倉町字小町二八五番地から、同郡逗子町字亀井九六九番地に引っ越した。
『読売新聞』(十一月二十四日)が「其筋を巧みにまいて 大杉栄氏転居 逗子に七十円の別荘」という見出しで報じている。
ひと月の家賃七十円の借家だが、その家は鎌倉の家同様、大谷嘉兵衛名義である。
『読売新聞』には「引越先は葉山御用邸に通ずる沿道であるし県警察部でも警戒の眼を放つている」とある。
中浜鉄「逗子の大杉」(『自由と祖国』一九二五年九月号)によれば、その家は駅から南に三、四丁のところにあり、浜辺へ下るダラダラ坂に沿って冠木門(かぶきもん)を抱いた人造石の高塀があり、家はかなり凝った和洋折衷で屋の棟が高くそびえていた。
門前は街道を隔てて鉄道線路まで野菜畑が広がり、畑の中には刑事たちの監視小屋があり刑事が四人常駐していた。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、逗子に転居してまもない十二月一日、大杉宅が暁民共産党事件の関与の疑いで警視庁の家宅捜索を受けた。
官房長官・正力松太郎、特高・外事課長らが刑事十数名を率いて家宅捜索を行なったが、確証は得られなかった。
結局、大杉も堺も山川も暁民共産党事件の累を免れたのである。
『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記 』は、植木等の語り下ろし調で綴られた、植木の父・植木徹誠(うえき-てつじょう)の一代記である。
御木本貴金属工場に勤務していた植木徹誠は、大正デモクラシー隆盛期の一九二一(大正十)年当時、労働運動に強い関心を抱き、「労働学校」に通ったり、「建設者同盟」の研究会に参加、若手の無政府主義者たちが作っていた「バガボンド社」にも顔を出していたという。
「バガボンド社」では、伊藤野枝や、彼女との恋愛で有名なダダイストの辻潤、俳優大泉晃の父、大泉黒石にもあった。
伊藤は、すでにこの頃、辻と別れて大杉栄と一緒になっていたが、たまたま辻と同席することがあっても、さすがに平然としていたそうだ。
服装は地味だが、身体の内部から利発さがにじみ出るような女性だったという。
こうした錚々たる人たちの間で、ひときわおやじ……たちに強い印象を与えたのは、大杉栄だった。
大杉は、茶系統の背広に派手な柄のネクタイを締めていた。
平素は口ごもる癖があったが、話が興に乗ると能弁になった。
講演よりは、むしろ座談の名手だったそうで、ヨーロッパの労働運動の状態、小さい船で日本を脱出した時の話、地方分権でなければ自由は保障されないということなどを説き来り説き去って、おやじたちを魅了した。
大山郁夫が学者タイプで謹厳だったのに比べ、大杉は人間的魅力が横溢していたそうだ。
(植木等『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記 』_p42~43)
ちなみに、植木徹誠の生年月日は一八九五(明治二十八)年一月二十一日、野枝と同じである。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★植木等『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記 』
(ちくま文庫・2018年2月10日)
★植木等・著 北畠清泰・構成『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記 』(朝日新聞社・1984年4月/朝日文庫・1987年2月20日_p39-40)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第353回 ピンポン
文●ツルシカズヒコ
一九二一(大正十)年十一月、大杉が藤沢・鵠沼海岸の旅館東屋で『改造』に連載中の「自叙伝」の原稿を書いているころ、宇野浩二も同宿していた。
その時、東家で、一緒になったのは、里見ク、久米正雄、芥川龍之介、佐々木茂索、大杉栄、その他がゐた。
私が、その時、東家に行くと、大杉が奥の二階の座敷にゐたので、私は、大杉の下の、奥の下の部屋に陣取ることにした。
この部屋は、落ち着いてゐて、勉強するには持つて来いであつた。
さうして、大杉の部屋は、見晴らしはよいが、ぽかぽかして暖かく勉強するには適しなかった。
その代り、里見、久米、芥川、佐佐木、ある時は谷崎潤一郎夫人(後の佐藤春夫夫人)の妹のせい子、その他が集まつて楽しく遊ぶ時は、大杉の部屋に集まることにした。
(宇野浩二『文学の三十年』_p157)
大杉の二階の八畳が一番広くて明るかったので、そこに集まった面々は、まだ麻雀などなかったときだから、「花かるた」をやった。
その『花かるた』をやりながた、大杉は、窓の下にみえる池のそばの、亭を指さしながら、「あすこに、番人がゐるから大丈夫だよ」といつた。
番人とは、その六畳ぐらゐの部屋のある亭に、大杉についてゐる、刑事が二人ゐたからである。
さうして、それを大丈夫といつたのは、大杉がその部屋にゐると、刑事が尾行する必要がなかつたからである。
(宇野浩二『思ひがけない人』_p92)
面々はよく写真も撮ったという。
里見と佐佐木が東屋の庭園に立つてる図、砂浜にあげられた和船に大杉がもたれ、その前に久米が踞んでゐる図、芥川と佐佐木が、何の苦もなささうに、窓際の椅子に、ならんで、腰かけてゐる図、江口が愛犬をつれて海岸歩く図、その他ーーこれらの写真は、みな二十年ほど前のものなれば、人人は若く、人の世の風は柔かく、回想すれば、この鵠沼時代は、みなみな、人の世の楽しい時であつた、ただ一人の人を除けば……。
(宇野浩二『文学の三十年』_p158)
この東家に滞在中に、大杉は吉屋信子と卓球をした。
吉屋はこのとき二十五歳である。
……徳田秋声先生が鵠沼海岸の東屋旅館に保養中を見舞うと、その座敷に目のぎょろりとした人物が宿のたんぜん姿であぐらをかいて先生にしゃべりつづけていた。
大杉栄だと私にはすぐわかった。
その彼は私を無視して秋声とだけ語り合っていたが、やがていきなり立上がると私に「おい君、ピンポンやろう」と言う。
宿のピンポン台に向うとボールの割れるほど烈しい打込み方で、私は冬だのに汗をかくほど悪戦苦闘だった。
これが大杉栄を見た最初であり、また最後であった。
(吉屋信子『私の見た人』_p31~32)
田辺聖子『ゆめはるか 吉屋信子(上)』(p30)によれば、吉屋一家と大杉一家はかつて近所に住んでいたことがあった。
吉屋の父が新潟県の佐渡郡長から北蒲原郡の郡長に転勤になり、吉屋一家が新発田に引っ越しして来たのは一八九九(明治三十二)年だった。
このとき大杉は十四歳、新発田中学三年生、信子は三歳だった。
信子が吉屋一家と大杉一家がかつて近所だったことを知ったのは、日蔭茶屋事件のときだった。
大杉栄訳のダーウィンの「種の起原」をナンデモむやみと読みましょうだった私が買ってまもなく、その学識のある訳者が艶福の三角関係で傷害をこうむった事件が新聞紙上をにぎわした。
母がその新聞の写真を見てびっくりした。
「まあ、これは大杉さんの坊ちゃんだよ」
かつて父の任地だった新潟新発田でわが家の近くに住んだ大杉少佐の長子「中学から幼年学校へいったはずだのにーー」そのころの面影にそっくりという。
母はその坊ちゃんがいつの間にかおそろしき無政府主義者などになったのか合点がゆかぬらしかった。
新発田では私は三、四歳の童女で何も知らない。
(吉屋信子『私の見た人』_p31)
吉屋はその後の「大杉との縁」についても記している。
吉屋がパリに滞在中のことだった。
知人の奥さんをアパートの住居に訪問した冬の夜、その部屋へ通じる廊下ですれ違ったのは、濃茶のソフトと同色の外套、眼鏡をかけた丸い感じの顔の日本人男性だった。
そのアパートには邦人の家族が二、三組、並んだ部屋に住んでいたので、日本人男性を見かけても不思議ではない。
知人の奥さんの部屋の扉をノックすると、不在だったが、ちょうどその尋ねる奥さんが隣りの邦人の部屋から出て来るところだった。
そして彼女はホットニュースをすぐに告げたいような素振りで、吉屋に言った。
「今、お隣りにそら、あの、甘粕大尉が来ていたのよ」
吉屋がすれ違った男が甘粕だという。
甘粕正彦がフランスに滞在したのは一九二七(昭和二)年から一九三〇(昭和五)年、吉屋のパリ滞在は一九二八(昭和三)年から一九二九(昭和四)年なので、一九二八年か一九二九年の冬のことだと思われる。
吉屋は大杉がラ・サンテ監獄から魔子に宛てた電文に触れ、こう記している。
……その思想はともあれ、子ぼんのうのよきパパだったにちがいない。
その魔子ちゃんは孤児となってのち親戚に引取られて成長、女学生になった姿がずっと以前の「婦人之友」の写真に出た時、彼女の小さい書だなに私の少女小説が数冊ならんであったと報じられて、ひどく胸が熱くなってしまった。
(吉屋信子『私の見た人』_p33)
★宇野浩二『文学の三十年』(中央公論社・1942年8月20日)
★宇野浩二『思ひがけない人』(宝文館・1957年4月25日)
★吉屋信子『私の見た人』(みすず書房・2010年9月17日)
★田辺聖子『ゆめはるか 吉屋信子ー秋灯机の上の幾山河(上)』
(中公文庫・2023年6月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年09月16日
第352回 新興芸術
文●ツルシカズヒコ
原敬の暗殺を報じる号外を読み終えた佐藤春夫と大杉は、佐藤の部屋に入り対座した。
佐藤が大杉が執筆している自叙伝について聞いた。
「どうだ、書けた?」
「いや、何もしやしない」
「自分のことを書くのは難しいだろうね。どんな点が難しい?」
大杉はこう答えた。
「何でもない事だがね、なるべく嘘を少くしようと思ふからね。ところで書くだけの事が本当でも、書くべき事を書かないでしまつたのではやはり嘘になる。折角書いた本当までそのためにみんな嘘になる。ところが、事実といふものは何事でもこんがらがつてゐるから、それを一つ一つ辿つてゐると、どこからどこまでを書く可きかその判断と選択とが厄介なのだ」
(「吾が回想する大杉栄」/『中央公論』1923年11月号/『佐藤春夫全集 第十一巻』_p319)
「なるほど……」
佐藤は半ば賛成して続けた。
「だが結局は、そう神経質にならず、思うことを平気に書きなぐるしかあるまいね。それで他人を傷つけたら、書いた当人が浅ましさを暴露するのだから、何にしても人間、自分以上のことはできっこはないのだから」
そんな話題になり、「セント・オウガスチンもジャンジャック・ルッソーも結局本当の告白はしなかった」というアナトオル・フランスの言葉やら、問わず語りということもあるなどの話になった。
なにかのはずみで、大杉が近ごろ小説というものがつまらなく退屈なものになったと言い出した。
そのかわり、自然科学の書物などを読むと、以前、小説の好きなころに小説を読んで覚えたのとまったく同じ種類、いやそれ以上の面白さを感じると、大杉は言った。
「うむ。就中、僕の小説などは君にとつて最も退屈だらうな。第一読んでくれた事があるかい?」
「読んだことはあるよ。君のなどはさう退屈ぢやない方だ」
私は冗談のつもりで言つたのに、大杉は案外真面目な返答だつたので私は少しテレてしまつた。
「それぢや一たいどんな小説が最も退屈なのだい」
「それがね。本当の話、所謂左傾した作家という連中のが一番退屈だよ。第一、まああの仲間はどうしてああまづいのだらうなーー(ここで、三四の作家の名を挙げて)まるでまづいのばかりが左傾したやうなものぢやないか。ハ、ハ、ハ」
大杉が数へた作家といふのは、新しい名ではなかつた。
既成作家的の左傾したものであつた。
所謂新興芸術なるものに彼は一顧をも拂つてゐなかつたやうである。
(「吾が回想する大杉栄」/『中央公論』1923年11月号/『佐藤春夫全集 第十一巻』_p320)
翌日、十一月六日の晩にも、大杉は佐藤の部屋に遊びに来た。
ふたりは二時間ばかり、雑談に耽った。
佐藤はふと思い出して、世上で取り沙汰している堺利彦の婿選びのことを、大杉に聞いてみた。
堺が娘の真柄が年ごろになって、その婿の適任者に煩悩しているという噂が流れていたのである。
このとき真柄は十八歳である。
危険人物視される同志で、いわんや素寒貧書生では困る、だからと言って堺が侮辱しているブルジョアの手合いを婿にするわけにはいかない、手ごろな学士かなにかで学者ふうな同志はいないものかと、堺が目をつけているーーという井戸端会議的な噂があったが、それが根も葉もないものかどうか、佐藤は大杉に聞いてみた。
「さあ、僕もよくは知らないが。そんなこともないとは限らないね。だが、若い奴は気が利いているよ。娘の方でどんどん自覚して、今になんでも好きなことをするだろうよ」
そういうと、大杉は例のように笑った。
まったくからりとした、なんの底意味もないいい笑顔だった。
社会主義思想家が過激な実行運動をするとき、妻子を思い志が鈍ることはないかと、佐藤は質問してみた。
大杉はこんな旨のことを語った。
妻のことはともかく、子供のことはずいぶん心を悩ます。
早い話が、収監されたときにでも、夕方などに自分の家庭のことを思って、今ごろ何をしているだろうと考えて、ふと子供の様子などがありありと目に浮かんでくると、もういけない。
涙が出て女々しい自分をたしなめてみても、涙が止まらない。
そこへいくと、妻の方はなんでもない。
が、それでも収監中、家に残してきた女が出入りの青年などとふざけているような夢を見る。
そして次の日には一日考えこまされる。
大杉はさらに続けた。
「もう女の方は卒業したが、子供だよ心配なのは。子供といふものは全く可愛いい。だから、さつきの堺の話だつても……子供が一人前の娘になるころには、おやぢだつて年も取るだらうし、気が弱くなつて、娘の婿などで若い奴らに笑はれないとも限らないね」
そこで大杉はまた例のやうに笑つた。
何しろよく笑ふ男であつた。
全くからりとした何の底意味もないいい笑であつた。
(「吾が回想する大杉栄」/『中央公論』1923年11月号/『佐藤春夫全集 第十一巻』_p321)
★『佐藤春夫全集 第十一巻』(講談社・1969年5月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第351回 原敬
文●ツルシカズヒコ
近藤憲二が懐に弾丸(たま)を入れる村木を見てから二、三日後、一九二一(大正十)年十月のある朝だった。
近藤と村木は蒲団を並べて寝ていた。
村木が蒲団から手を出して、煙草に火をつけながら話し出した。
「君の留守中にひとつ仕事を思いついてね……」
村木はまるで商売の話でもするように、愉快そうな元気な調子で話し出した。
「僕はこのとおりの体だ、とても諸君と一緒に駆けずり回ることはできない。しかし、この俺にだってできることはある。君のいないとき、ひと仕事考えたんだ」
つい先日、ピストルの弾丸を見た近藤は、だいたいの見当がついた。
やさしい陰に鋭いものを持っている村木をよく知っている者なら、これだけ聞けば、見当はつく。
近藤が無遠慮に切り出した。
「で、相手は誰だ?」
「原敬だよ」
ちょっと話を切って、村木はまた続けた。
村木は労働運動社の同志に迷惑をかけたくなかったので、和田久太郎には事情を話し琉球へ行ってもらい、大杉にはしばらく東京を離れてくれるように頼んだ。
やがて大杉は岐阜の名和昆虫研究所へ行った。
ある日、村木が新聞を見ると、何時何分に原が旅行先から東京駅に着くという記事があった。
「よし! 今日だ!」
そう決心した村木は、時間を見はからって東京駅へ行った。
一行がやって来た。
制服や私服に囲まれて幾人目かに歩いて来るのは、確かに原だった。
写真で見慣れているのとそっくりだった。
「よしッ! しかし卑怯だったんだね。 僕はその日、短刀をもっていた。それを抜いた拍子に、自分で驚くようなことはないかと思った。僕は瞬間にそう思った。まあ今日はやめておけ。やはりピストルがいい。ーーとうとう平気な顔でやりすごしてしまった」
村木はこういって、自分で自分をあざけるように笑った。
「それからはピストルでつけまわった。屋敷のあたりも歩いた。役所のなかにもはいって見た。今日こそはと思って東京駅へいったこともある。が、どうしたことか、ぶつからない。そのうち疲れてきたので、ええ、糞ッ!という気になって、温泉へいってひっくり返って来た。君、なかなかうまくいかないものだよ」
彼はそういって、ちょっと寂しそうに笑った。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p69~70)
首相・原敬が中岡艮一に東京駅で暗殺されたのは、十一月四日、午後七時二十五分ごろだった。
大杉はこの事件を十一月五日、藤沢・鵠沼の旅館東屋に向かう途中で知った。
大杉は『改造』に「自叙伝」を連載中だったが、『改造』十二月号に掲載された「自叙伝 四」(「幼年学校時代」)の原稿を書くために東屋に向かったと思われる。
大杉が東屋に着くと、長編小説を書くために東屋に滞在していた佐藤春夫が大杉の部屋にやって来た。
ふたりは大杉が聖路加病院に入院したぐらいから会っていなかったので、しばらく大杉の病気の話などをしたが、
「時に……」
と大杉が言った。
「君、聞いた? 原敬が殺されたってね」
「へ? いつ?」
「いや、僕も今のさっき停車場で聞いただけだがね。詳しいことを知ろうと思って、尾行に頼んで藤沢まで行ってもらったのだ」
佐藤が自分の部屋に帰って二時間ばかりすると、号外を手にした大杉が佐藤の部屋に入って来た。
「これだよ」
大杉はそう言いながら、縁側の籐椅子に座って日向ぼっこをしていた佐藤に号外を差し出した。
佐藤がそれを読み終えたとき、佐藤の脇で立ったままその号外の活字を追っていた大杉が、ひとり言のような口調で言ったーー。
「やったのは子供なのだね」
大杉がその時言つたことはそれだけである。
ここで注意して置きたいのは、大杉はこの出来事に就て「痛快」だとか「面白い」だとかそんな浅薄な不謹慎な言葉はもとより、その外のどんな批評めいた言葉をも言はなかつた事実である。
ただ、何と思つたのか三分ほど沈黙してゐた。
私がもしこの際、事実に就て今これほど潔癖ではなく多少の文学的修辞癖を出すなら、ただ沈黙したとだけではなく、憂色を帯びてと言つてもいいと思ふくらゐだ。
(「吾が回想する大杉栄」/『中央公論』1923年11月号/『佐藤春夫全集 第十一巻』講談社_p318~319)
近藤憲二が郷里、丹波に向かったのは、村木から原敬の話を聞いてから数日後であった。
近藤の帰省は入獄して心配をかけた両親に、元気な姿を見せるためだった。
京都駅での乗り換えのとき、ホームで新聞を買った。
折り込み号外があった。
「原首相暗殺さる」とデカデカと報じていた。
加害者の名はないが、場所は東京駅だ。
ギクリとした近藤は、大急ぎで駅を駆け抜けて公衆電話へ飛びこんだ。
電話帳から某新聞社の支局を探し、友人を電話口に呼び出した。
加害者が中岡艮一であることを知った近藤は、ホッとして旅を続けた。
近藤が大杉の家に戻ったのは、十一月も終わりに近かった。
村木の顔を見るなり、近藤は言った。
「おい、心配したぞ」
「野郎、早いことやりやがった」
村木は笑いながら、そう言った。
近藤憲二は、佐藤春夫が書いた「吾が回想する大杉栄」を久米正雄が書いたものと誤認しているが、原敬暗殺を知った大杉の「憂色を帯びた沈黙」を、近藤はこう解釈している。
(※佐藤春夫は)大杉という謀反人が、暗殺という問題にぶつかったとき、どういう態度をするだろうという、抽象的な興味にひかれていたのであろう。
そういう意味で観察していたにちがいない。
ところが、大杉はそのとき、私が京都でぶつかったとの同じ心配をしていたことと思う。
そして、やはり私同様、鎌倉へ帰ったとき、「おい村木、心配したぞ」といったのかも知れない。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p70~71)
★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)
★『佐藤春夫全集 第十一巻』(講談社・1969年5月30日)
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2016年09月15日
第350回 弾丸
文●ツルシカズヒコ
一九二一(大正十)年九月九日、夜の十時、野枝は堺真柄とともに警視庁特別高等課に出頭させられた。
『東京朝日新聞』(九月十日)によれば、野枝と真柄は高津正道の妻・多代子とともに一時間ほどの取り調べを受け、多代子はそのまま検束され、帰宅を許された野枝と真柄は高津夫妻に差し入れをして引き取った。
そのころ『お目出度誌』という謄写版刷りの小冊子が出回っていたが、それには縦に読めばなんでもない文句を横に読むと不敬なものになる巧妙な仕掛けがしてあり、警視庁は高津夫妻と『お目出度誌』との関連を取り調べていたのである。
野枝と真柄が警視庁に出頭させれられたのも、この『お目出度誌』との関連の取り調べを受けるためだった。
『読売新聞』(九月十四日)によれば、九月十三日、午後七時から四谷区南伊賀町六十の無産社で赤瀾会の相談会が開かれたが、あいにくの雨でもあり出席したのは堺真柄、野枝など十人あまりだった。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、無産社は仲宗根源和・貞代夫妻の家で、相談の内容は会員の高取のぶ子と高津多代子が拘留されたことへの対応策などだった。
しかし、十二月には反戦ビラ配布の暁民共産党事件で、堺真柄と仲宗根貞代が収監され、赤瀾会は自然消滅することになる。
「一網打尽説」(『東京毎日新聞』一九二一年九月十五、十六、十八日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、九月の半ばごろ、大杉は藤沢の鵠沼海岸の旅館東屋に滞在していた。
『改造』九月号から連載が始まっていた「自叙伝」の執筆、『昆虫記』翻訳のためだが、『日録・大杉栄伝』によれば和田久太郎が同行し大杉の仕事を手伝った。
「一網打尽」とは、当時、官憲が強化していた社会主義者の弾圧のことで、暁民会をはじめ三十名ほどが検挙された。
社会主義者「一網打尽」の指揮を執っていたのは、六月に警視庁官房主事に就任した正力松太郎だった。
「一網打尽説」の中で大杉も正力について「警視庁の官房主事に岡っ引きの令名(れいめい)の高い正力某が来ました。特別高等課の係長として、その子分の山田某を引張って来ました」言及している。
近藤憲二が禁固三ヶ月の刑を終え、東京監獄を出獄したのは、九月二十五日だった。
赤とんぼがしきりに飛ぶ秋日和であった。
その日、監獄の高い赤煉瓦の壁を背景にとった大杉と四歳のマコちゃんと私との素人写真があったが、戦災に焼いたのか今はない。
その足で鎌倉へ行き、大杉の家にいることになった。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p238)
大杉一家は十一月に逗子に引っ越すことになるが、「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、野枝が「逗子に移る前後から写真を始める」とあるので、東京監獄の赤煉瓦を背景にして大杉と魔子と近藤が写っている写真を撮影したのは、野枝である可能性が高い。
九月二十八日、安田善次郎が神奈川県大磯町の別邸で朝日平吾に刺殺された。
九月三十日、近藤栄蔵は銀座鍋町の小料理屋「青柳」の二階で、栄蔵が堺から引き継ぐことになった売文社の顧問会を催した(『近藤栄蔵自伝』)。
栄蔵は上海から持ち帰った金で本郷区駒込片町十五番地に家を借り、家族を呼び寄せ、そこで売文社の経営にも乗り出したのだった。
売文社の経営は共産党結成に邁進する栄蔵のカモフラージュでもあった。
堺や山川、ましてや大杉は運動に関して栄蔵とは一線を画していたが、栄蔵は三人を売文社の顧問格に迎え協力を仰いだ。
この日の顧問会には山崎今朝弥、新居格も出席、和気あいあいの酒席の写真が残っている。
栄蔵が借りた駒込片町の家は、二階建て庭つき門構え、玄関が二畳、その奥に三畳、その奥が台所、玄関の右が八畳の座敷、廻り廊下があり突き当たりが便所、玄関に二階に上がる階段があり、二階は八畳間だった(『労働運動』三次九号の「編輯室から」によれば、二階は八畳と六畳の二間)。
大杉はこの家に野枝や魔子を連れて何度か遊びに来たり、一家で泊まっていったこともあるという。
後にこの駒込片町の家は労働運動社が借りることになり、そして大杉一家が住むことになる。
コミンテルンのメッセンジャーとして張太雷が来日したのは、十月上旬だった。
『近藤栄蔵自伝』と大杉栄「日本脱出記」よれば、張はイルクーツクで行なわれる極東民族会議の日本代表派遣要請に来日、堺と山川は人選を栄蔵に一任した。
栄蔵は、官憲の警戒をくぐり抜け海外に潜行するのに適しているのはボルよりアナだと判断し、張にそう話すと、張は承諾した。
栄蔵から相談された大杉は、日本から出席する十名ほどのメンバーに加わることにした。
吉田一、高尾平兵衛、和田軌一郎、小林進次郎(正進会)、高瀬清、徳田球一などの一行が出発したのは十月の下旬だったが、大杉は直前になってキャンセルした。
「十月の澄みきった空をながめて、私がまず思い浮かべるのは鎌倉の秋だ。……東京監獄を満期放免になって、そのころ鎌倉にいた大杉(栄)のところに寝ころんでいたときの、のどかさである」(『一無政府主義者の回想』_p66~67)と、近藤憲二は書いている。
散歩をすると赤い柿が枝もたわわになっていた。
近藤が縁に座っていると秋の日光が、ほかほかと背中じゅうを暖めてくれた。
身近に同志たちの声が聞こえるーー近藤にはそれだけでも十分満足だった。
毎年秋になると、鎌倉の大杉の家で過ごした日々を思い浮かべるほど、近藤には満足な楽しい日々だった。
近藤が同居することになった大杉の鎌倉の家には当時、村木と和田久太郎も同居していた。
飛び回り屋の和田は、東京へ行ってほとんどいなかったが、村木はたいがい家にいた。
「ご隠居」のあだ名がある村木は、台所の買物に行ったり、掃除をしたり、日向ぼっこをしたり、煙草を吸ったりしていた。
近藤はある日の朝のことを、こう回想している。
ある日の朝だ。
大杉と村木とが畳に寝そべって話していたが、やがて二人の笑い声が聞こえた。
縁で新聞を読んでいた私は、その笑い声で何気なく顔をあげた。
「もうやめだ、すっかり疲れたからね」
村木はそういって、紙の上にひろげていたものを無造作にまるめて、懐へいれた。
私が顔をあげたのはその瞬間だったのである。
そのとき、ちらった見た。
村木が懐に入れたのは弾丸(たま)だった。
私の眼には確かにそう映った。
(『一無政府主義者の回想』_p67)
野枝は『婦人公論』十月号(第六年第十一号)に「成長が生んだ私の恋愛破綻」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を寄稿した。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年09月13日
第349回 典獄面会
文●ツルシカズヒコ
大杉栄「コズロフを送る」によれば、 一九二一(大正十)年七月三十日にラッセルを横浜埠頭で見送った大杉は、そこでイワン・コズロフと遭遇した。
ラッセルが神戸で日刊英字新聞『ジャパン・クロニクル』の主筆ロバート・ヤングを訪れた際、ヤングがラッセルに当時同紙の記者をしていたゴズロフを紹介し、彼がラッセル一行の案内役を務めることになったのである。
ラッセルは「この人のおかげで、私は東京に着く前に、すっかり日本の社会主義運動と社会主義者とにお馴染みになっていましたよ」と、コズロフに感謝していた。
大杉と野枝が横浜でラッセルを見送った翌日、コズロフが鎌倉の大杉の家を訪れ、三、四日泊まっていった。
コズロフは『日本に於ける社会主義運動と労働運動』という、タイプライター刷りされた英文の小冊子を大杉に見せた。
著者は「アメリカの一社会学者によりて」としてあるが、コズロフが書いたものだった。
日本の社会主義運動と労働運動について其他にも、英文や仏文や独文で三四の本を見た。
が、此のコズロフのものだけは全く例外的に、しかも日本人である片山潜君の同じやうな題の著書よりも、遥るかに優つたものだつた。
(「コズロフを送る」/『東京毎日新聞』1922年7月29日から13回連載/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』_p147)
大杉も山川夫妻も堺も、実はコズロフを知識的に軽蔑していた。
大杉は『日本に於ける社会主義運動と労働運動』を読んで、そのできのよさにコズロフを見直した。
日本語をまるで読めず、ろくに話せもしないコズロフが、よくこれだけのものを書けたものだと、大杉は敬服した。
近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、コズロフは『日本における社会主義運動と労働運動』を第一章にして、さらにその内容を発展させ、運動の背景になっている日本そのものについて書く計画を立てていた。
そのための内容のチェックをしてもらうために、コズロフは大杉の家を訪れたのだった。
ちょうどそのころ、神戸市にある川崎造船所の三工場と三菱三社(造船,内燃機,電機)の労働者約3万人が大罷工中だったが、コズロフは川崎造船所の争議にも詳しく、自分で撮影した写真もいっぱい持っていた。
大杉は川崎造船所の罷工については、新聞からより、コズロフの情報でその「真相」を知った。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉は「神戸の川崎造船所の労働争議に、十五円をカンパ」した。
「雲がくれの記」(『東京毎日新聞』一九二十一年八月十四、十五、十七、十八日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、大杉らはラッセルが横浜から離日したころ駿台倶楽部の労働運動社を解散、大杉は八月四日の朝に鎌倉の家を出て、山崎今朝弥の家でうまく尾行をまき、夜行で長野県に向かった。
八月五日、大杉は上諏訪で列車を降り、この日は同地に宿泊、同志六人と語り明かした。
八月六日、大杉は岐阜市に行き名和昆虫研究所に通い、八月十二日に帰宅した。
大杉が同研究所を訪れたのは、『昆虫記』翻訳の準備のためだった。
同研究所は現在も、名和昆虫博物館として健在である。
『日録・大杉栄伝』の著者・大杉豊(大杉栄の三弟・勇の子息)が、同博物館を訪ねている。
四代目所長夫人の名和幸子さんから当時の日記などの資料を見せていただいたが、変名で行った大杉の痕跡は見当たらなかった。
大杉が送ったらしい『昆虫記』がずっと保存されていたという。
(大杉豊『日録・大杉栄伝』)
八月、夏の暑い日だった。
チラシまきの出版法違反で六月末に東京監獄に入獄、禁固三ヶ月の刑に服していた近藤憲二は、監房の扉がガチャガチャと開けられている音を耳にした。
扉が開くと、担当看守ではなく部長が立っていた。
「典獄面会ーー」だという。
「典獄面会を頼んだことはないんだが……」
「そうか、では呼び出しだろう」
近藤が典獄室へ行くと、野枝がいた。
「おまえに何か重要な話があって見えているんだが、ここで伺ったらいいだろう」
典獄がそう言うと、近藤は急に心配になった。
父か母に何かあったのではないかと考えたからだ。
しかし、それにしては野枝はニコニコしていた。
「あのォ〜、困ったことができたんですよ」
そして野枝は、こう続けた。
「簡閲点呼の通知が来たんです……」
近藤は野枝の意図をすぐに読めた、そしてつまらんことをネタに慰問に来てくれたのだと思った。
しかし、近藤もわざと困ったような顔をして、
「それは困りましたね、では一週間ばかり出してもらって、国へ行って来ますか……」
近藤は本当とも冗談ともつかぬ顔で半分は野枝に、半分は典獄に言った。
すると典獄が、
「そんなこと、わけありません。すぐに在監証明書を書かせますから」
と、真面目になって野枝に言った。
すると野枝は、風呂敷包みをといて、どっさり入った旨そうな餅菓子を出した。
「いいでしょう、みんなで食べながらお話しましょうよ」
書けばこれだけだが、その調子が実にうまいんだ。
典獄もつい釣りこまれて、私に「食べていくといい」といった。
野枝さんは、面会場では一幕立見だから、点呼の通知のあったのを口実に、一芝居うったのである。
こういうコツはうまいものであった。
……その日の野枝さんは新しい浴衣の、野枝さんにしっくり合った柄でもあったが、くっきり浮き出して見えた。
私は、その日ほど美しい野枝さんを見たことがない。
正直にいうと、野枝さんは美人という部類ではなかった。
色は小麦色の方であり、小柄でもあった。
日によっては、むしろむさく見えたりもした。
しかし、日によっては、生き生きと見えることがあった。
そういう意味で、変化のある人であった。
生き生きと見えるときには、ちょっと奥まった目が、くるくるとして、ことにその特徴である目尻の皺が笑って見えた。
南国風の、九州人らしい顔であった。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第348回 バートランド・ラッセル(二)
文●ツルシカズヒコ
一九二一(大正十)年七月三十日、正午、カナディアン・パシフィック社のエンブレス・オブ・エーシア号が、横浜港からカナダのバンクーバーに向けて出港、同号でバートランド・ラッセルが帰国の途についた。
博士は愛人ブラック嬢…に助けられ徒歩で其疲れた身体を桟橋に現はしたが
見送り人には改造社の山本氏大杉栄氏其他二十余名で殊に大杉氏の無造作な浴衣姿が人目を惹き
大哲人ラツセル博士と東洋の社会主義者との最後の堅い握手が交はされた
「機会があつたら又日本へ」と云ふ名残りの言葉と共に船は奏楽の裡(うち)に徐々(じょじょ)と埠頭を離れた
(『東京朝日新聞』1921年7月31日)
大杉は魔子を連れて一緒に来た野枝をラッセルに紹介し、四人は社会運動や官憲の抑圧についてしばし談議した。
『ラッセル自伝 二巻』(『The Autobiography of Bertrand Russell vol.2』)は、見送りに来た大杉と野枝についてしっかり言及している。
We sailed from Yokohama by the Canadian Pacific, and were seen off by the anarchist, Ozuki, and Miss Ito.
(Portal Site for Russellian in Japan)
「Ozuki」は「Osugi」の誤記である。
一八七二年生まれのラッセルは、一九七〇年に没した。
九十八歳の長寿であった。
『ラッセル自伝 二巻』は死の二年前、一九六八年に出版されたが、ラッセルは野枝のことを「好ましく感じた唯一の日本人」だったと書き、さらに大杉と野枝と橘宗一が憲兵によって虐殺された事件についても、皮肉たっぷりに言及している。
We met only one Japanese whom we really liked, a Miss Ito.
She was young and beautiful, and lived with a well-known anarchist, by whom she had a son.
Dora said to her: 'Are you not afraid that the authorities will do something to you?'
She drew her hand across her throat, and said: 'I know they will do that sooner or later.'
At the time of the earthquake, the police came to the house where she lived with the anarchist, and found him and her and a little nephew whom they believed to be the son, and informed them that they were wanted at the police station.
When they arrived at the police station, the three were put in separate rooms and strangled by the police, who boasted that they had not had much trouble with the child, as they had managed to make friends with him on the way to the police station.
The police in question became national heroes, and school children were set to write essays in their praise.
(Portal Site for Russellian in Japan)
大杉家にはこのとき魔子とエマがいたので、「by whom she had a son」は「by whom she had two daughters」の誤記である。
「the police」も「the military police」であるが、和訳するとこんな感じだろうか。
私たちは滞日中、唯一好ましい日本人に出会った。
伊藤女史である。
彼女は若く美しく、著名なアナキストと同棲していて、一男児の母であった。
ドーラが彼女に問いかけた。
「官憲が恐くはないの?」
彼女は首に手を当てて、切り落とすような仕種をしながらこう答えた。
「早晩、こういう運命になるかもしれません」
関東大震災の際、警官(憲兵)が彼らの家にやって来て、ふたりとまだ幼い彼らの甥を警察署(憲兵隊)に連行した。
警官(憲兵)たちは甥を彼らの息子だと思いこんでいた。
警察署(憲兵隊)に着くと、三人は別々の部屋に監禁され、警官(憲兵)たちによって絞殺された。
警官(憲兵)たちは幼児を虐殺するにも手こずらなかった。
警察署(憲兵隊)に連行する道すがら、警官(憲兵)たちが彼を手なずけておいたからだが、彼らはそれを自慢げに語った。
警官(憲兵)たちは国家の英雄になり、学童たちは彼らを賞賛するエッセイを書かされた。
★『ラッセル自叙伝』2巻(日高一輝訳/理想社/1971年8月1日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年09月12日
第347回 バートランド・ラッセル(一)
文●ツルシカズヒコ
バートランド・ラッセルが、営口丸で神戸に到着したのは一九二一(大正十)年七月十七日だった。
ラッセルは前年十月に二番目の妻となるドーラ・ブラックとともに中国を訪問、この年の七月まで北京大学客員教授を務めていたが、イギリスへの帰途、改造社の招待に応じて来日したのだった。
七月二十六日、午前十一時から帝国ホテルでラッセルと日本の思想家、学者、ジャーナリストらとの懇親会が催された。
『東京朝日新聞』が報じている。
定刻前から青い壁紙(へきし)と竹や蘭に飾られた涼し気な広間に明るい露台(バルコニー)を背にし乍(なが)ら麻の背広を着込んだラッセル氏は
白絹の下着に支那模様の黒チョッキを羽織つたブラック嬢と深い弾椅子に坐つて話しつゝ客を待つてゐると、
……ドヤドヤと大杉栄、堺利彦、昇曙夢諸氏がやつて来た
大杉氏に紹介されたラッセル氏は満面に愉快そうな笑みを湛へて強い/\握手をした
「君はゴルドマンやベルグマンを知つてゐますか」とのラッセル氏の問ひに大杉氏は独特の可愛いゝ羞(はにか)みをしながら「えゝ、人としては知らぬが彼の獄中記なぞを読んで知つてゐます」
「私はロシアで逢つて来ました」
「彼等米国の無政府主義者は過激派だからどんな待遇を受けてゐますか」
「個人としては仲々優遇をされてゐるやうですね、しかしゴルドマンは主義としてはボルシエビズムに慊(あきた)らず過激派でも彼等の説に不満を持つてゐるやうです」など追々雑談が深味を加へて行く頃
広間にあちこちに散らばった小綺麗な椅子には…阿部次郎、和辻哲郎……鈴木文治、杉村楚人冠……与謝野晶子…の諸氏が見えた
やがてラッセル氏は大杉氏に「どんな無政府主義者もこの爆裂弾軍にはかなはない」と大笑ひして来朝以来貴族的だと避難されて居るやうな容子は少しも見えず、思想家との会談で心も和らいだのであらう……
(『東京朝日新聞』1921年7月27日)
ラッセルが「爆裂弾軍」と言っているのは、写真撮影のために光るフラッシュのこと、あるいはフラッシュをたくカメラマンたちのことである。
十二時半に昼食になり、食事の後にラッセルのスピーチがあり、二時に散会した。
『東京朝日新聞』二面にはラッセルと大杉のツーショット写真が掲載されている。
この写真について、江口渙はこう書いている。
それを見て暁民会の青年社会主義者川崎悦行が、うれしそうにつぎのようなことをいった。
「いままで日本人と西洋人と名士がならんで写真をとると、きまって日本人の方が貧弱に見えたのが、こんどの写真だけはラッセルより大杉さんの方が段ちがいに堂々としていますね。じつにうれしかったなあ」
川崎のこの言葉には私も心から賛成だった。
とくに写真でさえも彼の風采がそのようにまで堂々として見えるのは、たんに顔や体の形がすぐれていたからではない。
やはり大杉の全身におのずからに湧きあふれている革命家的気魂のたくましさ、人間的魅力の底しれぬ豊かさとおおらかさ、それが写真の上でさえ自然と人を打つのである。
(江口渙『続・わが文学半生記』_p43)
ラッセルと面談した大杉の談話が『改造』九月号に掲載された。
大杉が向かい合ってラッセルと話したのは、五分間ぐらいだった。
大杉は帝国ホテルの建物の中に入るのは初めてだったので、ちょっと面喰らいながら、こわごわ玄関から入って行った。
改造社の関係者が大杉をラッセルのいる部屋に案内した。
大杉はそこで初めて実物のラッセルの顔を見た。
ラッセルは誰か人を紹介されていた。
写真で見たあの通りの顔ですね。
頬と云ふよりは寧ろ、口の両角のすぐ上あたりが、神経質らしく妙に痩せこけてゐるのが、病後のせいか猶目立て見えましたがね。
あれは、あの人の顔の中で一番いやなところですね。
(「苦笑のラッセル」/『改造』1921年9月号/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』_p121)
『ラッセル自叙伝』2巻によれば、ラッセルは中国滞在中に肺炎になり三月下旬に危篤状態に陥った。
大杉が「病後」と言っているのは、そのことである。
ドーラがラッセルの看病に忙殺されていたころ、日本の新聞記者が病院に押しかけ、彼女を困らせたあげく、ラッセル死亡という誤報記事が日本の新聞に載った。
この誤報がアメリカへ流れ、そしてアメリカからイギリスに流れた。
ラッセルは日本の各新聞に誤報訂正記事を掲載することを要求したが、日本の新聞社はこれを拒絶した。
ゆえにラッセルとドーラは、来日当初から日本の新聞記者には好感を持っていなかった。
ラッセルとドーラをさらに怒らせたのは、新聞社のカメラマンが一斉にたくフラッシュライトだった。
フラッシュライトが「爆発」するたびに、妊娠中のドーラはおびえた。
流産するのではないかという、ラッセルの心配がふくらんでいった。
ラッセルとドーラは滞日中、終始不機嫌だった。
大杉がラッセルに紹介される番になった。
「ミスター大杉、え、ジャパニイス、バクーニン……」なんて紹介をされたので、大杉はまた面喰らった。
ラッセルと大杉が向かい合って椅子に座ると、十幾人かの写真屋が代わる代わるポンポンとフラッシュをたいた。
ラッセルは例の口の両角の上に濃いくまを見せて、「堪りませんな」というような意味のことを、そのポンポンのたびに目をつぶっては言った。
そして「いくらわれわれがアナーキストだって、こんなに爆裂弾のお見舞いを受けちゃね……」などとふざけながら苦笑いしていた。
「苦笑のラッセル」によれば、大杉はラッセルとの会話の内容や印象について、こう語っている。
「エマ・ゴオルドマンを知つていますか。」
「えゝ、其の著書で。」
「ベルクマンは?」
「え、やはり其の著書で、と云つても『一無政府主義者の獄中生活』しかないやうですがね。」
「さうです。しかし大変面白い本ですね。」
「二人は今ロシアでどうしてゐます?」
「二人とも昨年モスクワで会いましたがね、別にする事がないんで、革命博物館の為めの何かのコレクションをしてゐましたよ。ボルシェヰ゛キ政府からの待遇に就いては、十分満足しているやうでしたが、政府のいろんな施設に対しては勿論大いに議論があるやうでした。」
要するにたゞこれだけの事ですね。
印象と云ふ程のあらう筈がないぢやありませんか。
あの人の社会改造論に就いてゞすか。
さうですね、一言で云へば、一種のアナアキスト・コンミュニストでせうな。
が、あまりにどうもインテレクテュアル過ぎるやうですね。
(「苦笑のラッセル」/『改造』1921年9月号/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』_p122)
★江口渙『続・わが文学半生記』(春陽堂書店/1958年3月1日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター/1995年1月25日)
★『ラッセル自叙伝』2巻(日高一輝訳/理想社/1971年8月1日)
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第346回 赤瀾会講習会
文●ツルシカズヒコ
一九二一(大正十)年七月十八日から五日間、麹町区元園町の旧社会主義同盟本部で、赤瀾会夏期講習会が開催された。
岩佐作太郎、堺利彦、守田有秋、山川菊栄らの講師陣に交じり、野枝と大杉も講演した。
野枝は七月十九日、第二夜の講師を務めた。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、演題は「職業婦人について」。
「女房としては実にけしからぬ」と云はれても、立派な女房である野枝氏が矯羞を含んだ調子で、産業革命後に於ける女性の地位と、婦人運動の現状に及び、透徹した頭で新婦人協会や、母権論者の一派は有つても無くてもよい小ブルジヨアの空望だと論駁したが青鞜時代の想痕がどこかに見られた。
何かの都合で中途でよしたのは残念であつた。
(雑誌『社会主義』1921年9月号)
大杉は七月二十一日、第四夜の講師を務めたが、大杉が講師だというので臨監(りんかん)があり、制服の警官が出入るする人の住所や氏名や職業をチェックするという警戒態勢だった。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、演題は「社会主義運動に参加したる婦人に対する不平」で、運動に関わる女性に対する注文のようなものだった。
大杉氏は一語々々噛み出すやうな例の調子で、曾つて此の運動に入つて来た女は、その中の誰かを目的にしてゐる傾きがあつた。
恋が得られゝば妻君業に甘んじ、得られなければそれつきり姿を隠して了ふ。
恋するのは不思議もないことだが、それを得た得ないでこの運動をやるやらぬを決定されるやうでは困る。
其の人は飽くまで其の人であつて欲しいと「苦い」註文。
余りアツケないといふので再び立つて「同志としても、友人としてもよい人が女房になると、どうも自分で運動しないのみか夫の運動の妨げをする。これは単に自分の場合のみではないと思ふが、これは何とかなるまいか、一つ堺君に答へて貰ひ度い」と野枝氏を前に氏一流の「正々堂々」たる提案。
堺氏は唯物史観の城塞から「個人だけがそうよくなるものではないが社会組織の進化と共に段々よくなる」事実を応答したが、「それでは愈々妻君業になつて行くと云ふのだらう」で物別れとなつた。
(雑誌『社会主義』1921年9月号)
七月下旬ころ、大杉は上海から帰国した近藤栄蔵から見舞金を受け取った。
コミンテルンの上海での会合に出席した栄蔵が帰国したのは、五月十三日だった。
『近藤栄蔵自伝』によれば、船で下関に上陸した栄蔵は上り列車に乗り遅れ、料理屋で酒を飲んでいるうちに夕方の列車にも乗り遅れた。
私服刑事が改札口で二等急行寝台券を破り捨てた栄蔵を怪しみ、その晩、芸者と寝ていたところを検挙された。
このとき栄蔵はコミンテルンから支給された六千五百円の大金を所持していた。
使途内訳は運動資金として五千円、栄蔵個人に千円、大杉の見舞金として五百円だった。
ちなみに栄蔵がコミンテルンから支給された金は六千二百円で、大杉の見舞い金は二百円だったという説もあり、大杉豊『日録・大杉栄伝』はこの説を支持している。
ともかく、大金を所持していた栄蔵は背後の犯罪を疑われ、下関署に二十九日間留置され、山口監獄に入獄、さらに市ヶ谷監獄に送られたが、当時の法律では処罰できず、七月二十五日に釈放された。
「日本脱出記」によれば、このとき大杉は栄蔵とは直接会っておらず、山川と会い見舞い金二百円を受け取ったとある。
『近藤栄蔵自伝』では、栄蔵は大杉に直接会い五百円を手渡したとあるので、「日本脱出記」と『近藤栄蔵自伝』では齟齬がある。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index