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2016年09月15日

第350回 弾丸






文●ツルシカズヒコ



 一九二一(大正十)年九月九日、夜の十時、野枝は堺真柄とともに警視庁特別高等課に出頭させられた。

『東京朝日新聞』(九月十日)によれば、野枝と真柄は高津正道の妻・多代子とともに一時間ほどの取り調べを受け、多代子はそのまま検束され、帰宅を許された野枝と真柄は高津夫妻に差し入れをして引き取った。

 そのころ『お目出度誌』という謄写版刷りの小冊子が出回っていたが、それには縦に読めばなんでもない文句を横に読むと不敬なものになる巧妙な仕掛けがしてあり、警視庁は高津夫妻と『お目出度誌』との関連を取り調べていたのである。

 野枝と真柄が警視庁に出頭させれられたのも、この『お目出度誌』との関連の取り調べを受けるためだった。

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『読売新聞』(九月十四日)によれば、九月十三日、午後七時から四谷区南伊賀町六十の無産社で赤瀾会の相談会が開かれたが、あいにくの雨でもあり出席したのは堺真柄、野枝など十人あまりだった。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、無産社は仲宗根源和・貞代夫妻の家で、相談の内容は会員の高取のぶ子と高津多代子が拘留されたことへの対応策などだった。

 しかし、十二月には反戦ビラ配布の暁民共産党事件で、堺真柄と仲宗根貞代が収監され、赤瀾会は自然消滅することになる。





「一網打尽説」(『東京毎日新聞』一九二一年九月十五、十六、十八日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、九月の半ばごろ、大杉は藤沢の鵠沼海岸の旅館東屋に滞在していた。

『改造』九月号から連載が始まっていた「自叙伝」の執筆、『昆虫記』翻訳のためだが、『日録・大杉栄伝』によれば和田久太郎が同行し大杉の仕事を手伝った。

「一網打尽」とは、当時、官憲が強化していた社会主義者の弾圧のことで、暁民会をはじめ三十名ほどが検挙された。

 社会主義者「一網打尽」の指揮を執っていたのは、六月に警視庁官房主事に就任した正力松太郎だった。

「一網打尽説」の中で大杉も正力について「警視庁の官房主事に岡っ引きの令名(れいめい)の高い正力某が来ました。特別高等課の係長として、その子分の山田某を引張って来ました」言及している。

 近藤憲二が禁固三ヶ月の刑を終え、東京監獄を出獄したのは、九月二十五日だった。


 赤とんぼがしきりに飛ぶ秋日和であった。

 その日、監獄の高い赤煉瓦の壁を背景にとった大杉と四歳のマコちゃんと私との素人写真があったが、戦災に焼いたのか今はない。

 その足で鎌倉へ行き、大杉の家にいることになった。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p238)


 大杉一家は十一月に逗子に引っ越すことになるが、「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、野枝が「逗子に移る前後から写真を始める」とあるので、東京監獄の赤煉瓦を背景にして大杉と魔子と近藤が写っている写真を撮影したのは、野枝である可能性が高い。

 九月二十八日、安田善次郎が神奈川県大磯町の別邸で朝日平吾に刺殺された。





 九月三十日、近藤栄蔵は銀座鍋町の小料理屋「青柳」の二階で、栄蔵が堺から引き継ぐことになった売文社の顧問会を催した(『近藤栄蔵自伝』)。

 栄蔵は上海から持ち帰った金で本郷区駒込片町十五番地に家を借り、家族を呼び寄せ、そこで売文社の経営にも乗り出したのだった。

 売文社の経営は共産党結成に邁進する栄蔵のカモフラージュでもあった。

 堺や山川、ましてや大杉は運動に関して栄蔵とは一線を画していたが、栄蔵は三人を売文社の顧問格に迎え協力を仰いだ。

 この日の顧問会には山崎今朝弥、新居格も出席、和気あいあいの酒席の写真が残っている。

 栄蔵が借りた駒込片町の家は、二階建て庭つき門構え、玄関が二畳、その奥に三畳、その奥が台所、玄関の右が八畳の座敷、廻り廊下があり突き当たりが便所、玄関に二階に上がる階段があり、二階は八畳間だった(『労働運動』三次九号の「編輯室から」によれば、二階は八畳と六畳の二間)。

 大杉はこの家に野枝や魔子を連れて何度か遊びに来たり、一家で泊まっていったこともあるという。

 後にこの駒込片町の家は労働運動社が借りることになり、そして大杉一家が住むことになる。





 コミンテルンのメッセンジャーとして張太雷が来日したのは、十月上旬だった。

『近藤栄蔵自伝』と大杉栄「日本脱出記」よれば、張はイルクーツクで行なわれる極東民族会議の日本代表派遣要請に来日、堺と山川は人選を栄蔵に一任した。

 栄蔵は、官憲の警戒をくぐり抜け海外に潜行するのに適しているのはボルよりアナだと判断し、張にそう話すと、張は承諾した。

 栄蔵から相談された大杉は、日本から出席する十名ほどのメンバーに加わることにした。

 吉田一、高尾平兵衛、和田軌一郎、小林進次郎(正進会)、高瀬清徳田球一などの一行が出発したのは十月の下旬だったが、大杉は直前になってキャンセルした。

「十月の澄みきった空をながめて、私がまず思い浮かべるのは鎌倉の秋だ。……東京監獄を満期放免になって、そのころ鎌倉にいた大杉(栄)のところに寝ころんでいたときの、のどかさである」(『一無政府主義者の回想』_p66~67)と、近藤憲二は書いている。

 散歩をすると赤い柿が枝もたわわになっていた。

 近藤が縁に座っていると秋の日光が、ほかほかと背中じゅうを暖めてくれた。

 身近に同志たちの声が聞こえるーー近藤にはそれだけでも十分満足だった。

 毎年秋になると、鎌倉の大杉の家で過ごした日々を思い浮かべるほど、近藤には満足な楽しい日々だった。

 近藤が同居することになった大杉の鎌倉の家には当時、村木と和田久太郎も同居していた。

 飛び回り屋の和田は、東京へ行ってほとんどいなかったが、村木はたいがい家にいた。

「ご隠居」のあだ名がある村木は、台所の買物に行ったり、掃除をしたり、日向ぼっこをしたり、煙草を吸ったりしていた。

 近藤はある日の朝のことを、こう回想している。





 ある日の朝だ。

 大杉と村木とが畳に寝そべって話していたが、やがて二人の笑い声が聞こえた。

 縁で新聞を読んでいた私は、その笑い声で何気なく顔をあげた。

「もうやめだ、すっかり疲れたからね」

 村木はそういって、紙の上にひろげていたものを無造作にまるめて、懐へいれた。

 私が顔をあげたのはその瞬間だったのである。

 そのとき、ちらった見た。

 村木が懐に入れたのは弾丸(たま)だった。

 私の眼には確かにそう映った。


(『一無政府主義者の回想』_p67)


 野枝は『婦人公論』十月号(第六年第十一号)に「成長が生んだ私の恋愛破綻」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を寄稿した。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 23:01| 本文

2016年09月13日

第349回 典獄面会






文●ツルシカズヒコ




 大杉栄「コズロフを送る」によれば、 一九二一(大正十)年七月三十日にラッセルを横浜埠頭で見送った大杉は、そこでイワン・コズロフと遭遇した。

 ラッセルが神戸で日刊英字新聞『ジャパン・クロニクル』の主筆ロバート・ヤングを訪れた際、ヤングがラッセルに当時同紙の記者をしていたゴズロフを紹介し、彼がラッセル一行の案内役を務めることになったのである。

 ラッセルは「この人のおかげで、私は東京に着く前に、すっかり日本の社会主義運動と社会主義者とにお馴染みになっていましたよ」と、コズロフに感謝していた。

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 大杉と野枝が横浜でラッセルを見送った翌日、コズロフが鎌倉の大杉の家を訪れ、三、四日泊まっていった。

 コズロフは『日本に於ける社会主義運動と労働運動』という、タイプライター刷りされた英文の小冊子を大杉に見せた。

 著者は「アメリカの一社会学者によりて」としてあるが、コズロフが書いたものだった。


 日本の社会主義運動と労働運動について其他にも、英文や仏文や独文で三四の本を見た。

 が、此のコズロフのものだけは全く例外的に、しかも日本人である片山潜君の同じやうな題の著書よりも、遥るかに優つたものだつた。


(「コズロフを送る」/『東京毎日新聞』1922年7月29日から13回連載/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』_p147)





 大杉も山川夫妻も堺も、実はコズロフを知識的に軽蔑していた。

 大杉は『日本に於ける社会主義運動と労働運動』を読んで、そのできのよさにコズロフを見直した。

 日本語をまるで読めず、ろくに話せもしないコズロフが、よくこれだけのものを書けたものだと、大杉は敬服した。

 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、コズロフは『日本における社会主義運動と労働運動』を第一章にして、さらにその内容を発展させ、運動の背景になっている日本そのものについて書く計画を立てていた。

 そのための内容のチェックをしてもらうために、コズロフは大杉の家を訪れたのだった。

 ちょうどそのころ、神戸市にある川崎造船所の三工場と三菱三社(造船,内燃機,電機)の労働者約3万人が大罷工中だったが、コズロフは川崎造船所の争議にも詳しく、自分で撮影した写真もいっぱい持っていた。

 大杉は川崎造船所の罷工については、新聞からより、コズロフの情報でその「真相」を知った。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉は「神戸の川崎造船所の労働争議に、十五円をカンパ」した。





「雲がくれの記」(『東京毎日新聞』一九二十一年八月十四、十五、十七、十八日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、大杉らはラッセルが横浜から離日したころ駿台倶楽部の労働運動社を解散、大杉は八月四日の朝に鎌倉の家を出て、山崎今朝弥の家でうまく尾行をまき、夜行で長野県に向かった。

 八月五日、大杉は上諏訪で列車を降り、この日は同地に宿泊、同志六人と語り明かした。

 八月六日、大杉は岐阜市に行き名和昆虫研究所に通い、八月十二日に帰宅した。

 大杉が同研究所を訪れたのは、『昆虫記』翻訳の準備のためだった。

 同研究所は現在も、名和昆虫博物館として健在である。

『日録・大杉栄伝』の著者・大杉豊(大杉栄の三弟・勇の子息)が、同博物館を訪ねている。


 四代目所長夫人の名和幸子さんから当時の日記などの資料を見せていただいたが、変名で行った大杉の痕跡は見当たらなかった。

 大杉が送ったらしい『昆虫記』がずっと保存されていたという。


(大杉豊『日録・大杉栄伝』)





 八月、夏の暑い日だった。

 チラシまきの出版法違反で六月末に東京監獄に入獄、禁固三ヶ月の刑に服していた近藤憲二は、監房の扉がガチャガチャと開けられている音を耳にした。

 扉が開くと、担当看守ではなく部長が立っていた。

典獄面会ーー」だという。

「典獄面会を頼んだことはないんだが……」

「そうか、では呼び出しだろう」

 近藤が典獄室へ行くと、野枝がいた。

「おまえに何か重要な話があって見えているんだが、ここで伺ったらいいだろう」

 典獄がそう言うと、近藤は急に心配になった。

 父か母に何かあったのではないかと考えたからだ。

 しかし、それにしては野枝はニコニコしていた。

「あのォ〜、困ったことができたんですよ」

 そして野枝は、こう続けた。

簡閲点呼の通知が来たんです……」

 近藤は野枝の意図をすぐに読めた、そしてつまらんことをネタに慰問に来てくれたのだと思った。

 しかし、近藤もわざと困ったような顔をして、

「それは困りましたね、では一週間ばかり出してもらって、国へ行って来ますか……」

 近藤は本当とも冗談ともつかぬ顔で半分は野枝に、半分は典獄に言った。

 すると典獄が、

「そんなこと、わけありません。すぐに在監証明書を書かせますから」

 と、真面目になって野枝に言った。

 すると野枝は、風呂敷包みをといて、どっさり入った旨そうな餅菓子を出した。

「いいでしょう、みんなで食べながらお話しましょうよ」





 書けばこれだけだが、その調子が実にうまいんだ。

 典獄もつい釣りこまれて、私に「食べていくといい」といった。

 野枝さんは、面会場では一幕立見だから、点呼の通知のあったのを口実に、一芝居うったのである。

 こういうコツはうまいものであった。

 ……その日の野枝さんは新しい浴衣の、野枝さんにしっくり合った柄でもあったが、くっきり浮き出して見えた。

 私は、その日ほど美しい野枝さんを見たことがない。

 正直にいうと、野枝さんは美人という部類ではなかった。

 色は小麦色の方であり、小柄でもあった。

 日によっては、むしろむさく見えたりもした。

 しかし、日によっては、生き生きと見えることがあった。

 そういう意味で、変化のある人であった。

 生き生きと見えるときには、ちょっと奥まった目が、くるくるとして、ことにその特徴である目尻の皺が笑って見えた。

 南国風の、九州人らしい顔であった。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』)


★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 20:29| 本文

第348回 バートランド・ラッセル(二)






文●ツルシカズヒコ


 一九二一(大正十)年七月三十日、正午、カナディアン・パシフィック社のエンブレス・オブ・エーシア号が、横浜港からカナダのバンクーバーに向けて出港、同号でバートランド・ラッセルが帰国の途についた。


 博士は愛人ブラック嬢…に助けられ徒歩で其疲れた身体を桟橋に現はしたが

 見送り人には改造社の山本氏大杉栄氏其他二十余名で殊に大杉氏の無造作な浴衣姿が人目を惹き

 大哲人ラツセル博士と東洋の社会主義者との最後の堅い握手が交はされた

「機会があつたら又日本へ」と云ふ名残りの言葉と共に船は奏楽の裡(うち)に徐々(じょじょ)と埠頭を離れた


(『東京朝日新聞』1921年7月31日)

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 大杉は魔子を連れて一緒に来た野枝をラッセルに紹介し、四人は社会運動や官憲の抑圧についてしばし談議した。

『ラッセル自伝 二巻』(『The Autobiography of Bertrand Russell vol.2』)は、見送りに来た大杉と野枝についてしっかり言及している。


 We sailed from Yokohama by the Canadian Pacific, and were seen off by the anarchist, Ozuki, and Miss Ito.

Portal Site for Russellian in Japan


「Ozuki」は「Osugi」の誤記である。





 一八七二年生まれのラッセルは、一九七〇年に没した。

 九十八歳の長寿であった。

『ラッセル自伝 二巻』は死の二年前、一九六八年に出版されたが、ラッセルは野枝のことを「好ましく感じた唯一の日本人」だったと書き、さらに大杉と野枝と橘宗一が憲兵によって虐殺された事件についても、皮肉たっぷりに言及している。


 We met only one Japanese whom we really liked, a Miss Ito.

 She was young and beautiful, and lived with a well-known anarchist, by whom she had a son.

 Dora said to her: 'Are you not afraid that the authorities will do something to you?'

 She drew her hand across her throat, and said: 'I know they will do that sooner or later.'

 At the time of the earthquake, the police came to the house where she lived with the anarchist, and found him and her and a little nephew whom they believed to be the son, and informed them that they were wanted at the police station.

 When they arrived at the police station, the three were put in separate rooms and strangled by the police, who boasted that they had not had much trouble with the child, as they had managed to make friends with him on the way to the police station.

 The police in question became national heroes, and school children were set to write essays in their praise.


Portal Site for Russellian in Japan





 大杉家にはこのとき魔子とエマがいたので、「by whom she had a son」は「by whom she had two daughters」の誤記である。

「the police」も「the military police」であるが、和訳するとこんな感じだろうか。


 私たちは滞日中、唯一好ましい日本人に出会った。

 伊藤女史である。

 彼女は若く美しく、著名なアナキストと同棲していて、一男児の母であった。

 ドーラが彼女に問いかけた。

「官憲が恐くはないの?」

 彼女は首に手を当てて、切り落とすような仕種をしながらこう答えた。

「早晩、こういう運命になるかもしれません」

 関東大震災の際、警官(憲兵)が彼らの家にやって来て、ふたりとまだ幼い彼らの甥を警察署(憲兵隊)に連行した。

 警官(憲兵)たちは甥を彼らの息子だと思いこんでいた。

 警察署(憲兵隊)に着くと、三人は別々の部屋に監禁され、警官(憲兵)たちによって絞殺された。

 警官(憲兵)たちは幼児を虐殺するにも手こずらなかった。

 警察署(憲兵隊)に連行する道すがら、警官(憲兵)たちが彼を手なずけておいたからだが、彼らはそれを自慢げに語った。

 警官(憲兵)たちは国家の英雄になり、学童たちは彼らを賞賛するエッセイを書かされた。



★『ラッセル自叙伝』2巻(日高一輝訳/理想社/1971年8月1日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 20:23| 本文

2016年09月12日

第347回 バートランド・ラッセル(一)






文●ツルシカズヒコ


 バートランド・ラッセルが、営口丸で神戸に到着したのは一九二一(大正十)年七月十七日だった。

 ラッセルは前年十月に二番目の妻となるドーラ・ブラックとともに中国を訪問、この年の七月まで北京大学客員教授を務めていたが、イギリスへの帰途、改造社の招待に応じて来日したのだった。

 七月二十六日、午前十一時から帝国ホテルでラッセルと日本の思想家、学者、ジャーナリストらとの懇親会が催された。

『東京朝日新聞』が報じている。

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 定刻前から青い壁紙(へきし)と竹や蘭に飾られた涼し気な広間に明るい露台(バルコニー)を背にし乍(なが)ら麻の背広を着込んだラッセル氏は

 白絹の下着に支那模様の黒チョッキを羽織つたブラック嬢と深い弾椅子に坐つて話しつゝ客を待つてゐると、

 ……ドヤドヤと大杉栄、堺利彦、昇曙夢諸氏がやつて来た

 大杉氏に紹介されたラッセル氏は満面に愉快そうな笑みを湛へて強い/\握手をした

「君はゴルドマンベルグマンを知つてゐますか」とのラッセル氏の問ひに大杉氏は独特の可愛いゝ羞(はにか)みをしながら「えゝ、人としては知らぬが彼の獄中記なぞを読んで知つてゐます」

「私はロシアで逢つて来ました」

「彼等米国の無政府主義者は過激派だからどんな待遇を受けてゐますか」

「個人としては仲々優遇をされてゐるやうですね、しかしゴルドマンは主義としてはボルシエビズムに慊(あきた)らず過激派でも彼等の説に不満を持つてゐるやうです」など追々雑談が深味を加へて行く頃

 広間にあちこちに散らばった小綺麗な椅子には…阿部次郎、和辻哲郎……鈴木文治、杉村楚人冠……与謝野晶子…の諸氏が見えた

 やがてラッセル氏は大杉氏に「どんな無政府主義者もこの爆裂弾軍にはかなはない」と大笑ひして来朝以来貴族的だと避難されて居るやうな容子は少しも見えず、思想家との会談で心も和らいだのであらう……


(『東京朝日新聞』1921年7月27日)





 ラッセルが「爆裂弾軍」と言っているのは、写真撮影のために光るフラッシュのこと、あるいはフラッシュをたくカメラマンたちのことである。

 十二時半に昼食になり、食事の後にラッセルのスピーチがあり、二時に散会した。

『東京朝日新聞』二面にはラッセルと大杉のツーショット写真が掲載されている。

 この写真について、江口渙はこう書いている。

 
 それを見て暁民会の青年社会主義者川崎悦行が、うれしそうにつぎのようなことをいった。

 「いままで日本人と西洋人と名士がならんで写真をとると、きまって日本人の方が貧弱に見えたのが、こんどの写真だけはラッセルより大杉さんの方が段ちがいに堂々としていますね。じつにうれしかったなあ」

 川崎のこの言葉には私も心から賛成だった。

 とくに写真でさえも彼の風采がそのようにまで堂々として見えるのは、たんに顔や体の形がすぐれていたからではない。

 やはり大杉の全身におのずからに湧きあふれている革命家的気魂のたくましさ、人間的魅力の底しれぬ豊かさとおおらかさ、それが写真の上でさえ自然と人を打つのである。


(江口渙『続・わが文学半生記』_p43)





 ラッセルと面談した大杉の談話が『改造』九月号に掲載された。

 大杉が向かい合ってラッセルと話したのは、五分間ぐらいだった。

 大杉は帝国ホテルの建物の中に入るのは初めてだったので、ちょっと面喰らいながら、こわごわ玄関から入って行った。

 改造社の関係者が大杉をラッセルのいる部屋に案内した。

 大杉はそこで初めて実物のラッセルの顔を見た。

 ラッセルは誰か人を紹介されていた。


 写真で見たあの通りの顔ですね。

 頬と云ふよりは寧ろ、口の両角のすぐ上あたりが、神経質らしく妙に痩せこけてゐるのが、病後のせいか猶目立て見えましたがね。

 あれは、あの人の顔の中で一番いやなところですね。


(「苦笑のラッセル」/『改造』1921年9月号/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』_p121)





『ラッセル自叙伝』2巻によれば、ラッセルは中国滞在中に肺炎になり三月下旬に危篤状態に陥った。

 大杉が「病後」と言っているのは、そのことである。

 ドーラがラッセルの看病に忙殺されていたころ、日本の新聞記者が病院に押しかけ、彼女を困らせたあげく、ラッセル死亡という誤報記事が日本の新聞に載った。

 この誤報がアメリカへ流れ、そしてアメリカからイギリスに流れた。

 ラッセルは日本の各新聞に誤報訂正記事を掲載することを要求したが、日本の新聞社はこれを拒絶した。

 ゆえにラッセルとドーラは、来日当初から日本の新聞記者には好感を持っていなかった。

 ラッセルとドーラをさらに怒らせたのは、新聞社のカメラマンが一斉にたくフラッシュライトだった。

 フラッシュライトが「爆発」するたびに、妊娠中のドーラはおびえた。

 流産するのではないかという、ラッセルの心配がふくらんでいった。

 ラッセルとドーラは滞日中、終始不機嫌だった。





 大杉がラッセルに紹介される番になった。

「ミスター大杉、え、ジャパニイス、バクーニン……」なんて紹介をされたので、大杉はまた面喰らった。

 ラッセルと大杉が向かい合って椅子に座ると、十幾人かの写真屋が代わる代わるポンポンとフラッシュをたいた。

 ラッセルは例の口の両角の上に濃いくまを見せて、「堪りませんな」というような意味のことを、そのポンポンのたびに目をつぶっては言った。

 そして「いくらわれわれがアナーキストだって、こんなに爆裂弾のお見舞いを受けちゃね……」などとふざけながら苦笑いしていた。





「苦笑のラッセル」によれば、大杉はラッセルとの会話の内容や印象について、こう語っている。


エマ・ゴオルドマンを知つていますか。」

「えゝ、其の著書で。」

ベルクマンは?」

「え、やはり其の著書で、と云つても『一無政府主義者の獄中生活』しかないやうですがね。」

「さうです。しかし大変面白い本ですね。」

「二人は今ロシアでどうしてゐます?」

「二人とも昨年モスクワで会いましたがね、別にする事がないんで、革命博物館の為めの何かのコレクションをしてゐましたよ。ボルシェヰ゛キ政府からの待遇に就いては、十分満足しているやうでしたが、政府のいろんな施設に対しては勿論大いに議論があるやうでした。」

 要するにたゞこれだけの事ですね。

 印象と云ふ程のあらう筈がないぢやありませんか。

 あの人の社会改造論に就いてゞすか。

 さうですね、一言で云へば、一種のアナアキスト・コンミュニストでせうな。

 が、あまりにどうもインテレクテュアル過ぎるやうですね。


(「苦笑のラッセル」/『改造』1921年9月号/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』_p122)



★江口渙『続・わが文学半生記』(春陽堂書店/1958年3月1日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター/1995年1月25日)

★『ラッセル自叙伝』2巻(日高一輝訳/理想社/1971年8月1日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 18:09| 本文

第346回 赤瀾会講習会






文●ツルシカズヒコ


 一九二一(大正十)年七月十八日から五日間、麹町区元園町の旧社会主義同盟本部で、赤瀾会夏期講習会が開催された。

 岩佐作太郎、堺利彦、守田有秋、山川菊栄らの講師陣に交じり、野枝と大杉も講演した。

 野枝は七月十九日、第二夜の講師を務めた。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、演題は「職業婦人について」。

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「女房としては実にけしからぬ」と云はれても、立派な女房である野枝氏が矯羞を含んだ調子で、産業革命後に於ける女性の地位と、婦人運動の現状に及び、透徹した頭で新婦人協会や、母権論者の一派は有つても無くてもよい小ブルジヨアの空望だと論駁したが青鞜時代の想痕がどこかに見られた。

 何かの都合で中途でよしたのは残念であつた。


(雑誌『社会主義』1921年9月号)





 大杉は七月二十一日、第四夜の講師を務めたが、大杉が講師だというので臨監(りんかん)があり、制服の警官が出入るする人の住所や氏名や職業をチェックするという警戒態勢だった。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、演題は「社会主義運動に参加したる婦人に対する不平」で、運動に関わる女性に対する注文のようなものだった。


 大杉氏は一語々々噛み出すやうな例の調子で、曾つて此の運動に入つて来た女は、その中の誰かを目的にしてゐる傾きがあつた。

 恋が得られゝば妻君業に甘んじ、得られなければそれつきり姿を隠して了ふ。

 恋するのは不思議もないことだが、それを得た得ないでこの運動をやるやらぬを決定されるやうでは困る。

 其の人は飽くまで其の人であつて欲しいと「苦い」註文。

 余りアツケないといふので再び立つて「同志としても、友人としてもよい人が女房になると、どうも自分で運動しないのみか夫の運動の妨げをする。これは単に自分の場合のみではないと思ふが、これは何とかなるまいか、一つ堺君に答へて貰ひ度い」と野枝氏を前に氏一流の「正々堂々」たる提案。

 堺氏は唯物史観の城塞から「個人だけがそうよくなるものではないが社会組織の進化と共に段々よくなる」事実を応答したが、「それでは愈々妻君業になつて行くと云ふのだらう」で物別れとなつた。


(雑誌『社会主義』1921年9月号)





 七月下旬ころ、大杉は上海から帰国した近藤栄蔵から見舞金を受け取った。

 コミンテルンの上海での会合に出席した栄蔵が帰国したのは、五月十三日だった。

 『近藤栄蔵自伝』によれば、船で下関に上陸した栄蔵は上り列車に乗り遅れ、料理屋で酒を飲んでいるうちに夕方の列車にも乗り遅れた。

 私服刑事が改札口で二等急行寝台券を破り捨てた栄蔵を怪しみ、その晩、芸者と寝ていたところを検挙された。

 このとき栄蔵はコミンテルンから支給された六千五百円の大金を所持していた。

 使途内訳は運動資金として五千円、栄蔵個人に千円、大杉の見舞金として五百円だった。





 ちなみに栄蔵がコミンテルンから支給された金は六千二百円で、大杉の見舞い金は二百円だったという説もあり、大杉豊『日録・大杉栄伝』はこの説を支持している。

 ともかく、大金を所持していた栄蔵は背後の犯罪を疑われ、下関署に二十九日間留置され、山口監獄に入獄、さらに市ヶ谷監獄に送られたが、当時の法律では処罰できず、七月二十五日に釈放された。

「日本脱出記」によれば、このとき大杉は栄蔵とは直接会っておらず、山川と会い見舞い金二百円を受け取ったとある。

『近藤栄蔵自伝』では、栄蔵は大杉に直接会い五百円を手渡したとあるので、「日本脱出記」と『近藤栄蔵自伝』では齟齬がある。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)



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2016年09月09日

第345回 新発田






文●ツルシカズヒコ




 大杉が野枝と魔子を伴い新潟県の新発田を訪れたのは、一九二一(大正十)年七月十三日だった。

『改造』十月号から大杉の「自叙伝」連載が始まるのだが、その取材のためだった。

「雲がくれの記」(『東京毎日新聞』一九二一年八月十四、十五、十七、十八日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、「うまく東京で、僕の尾行二人と女房の尾行一人、都合三人の尾行を一ぺんにまいて了つた」。

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 大杉栄は一八八五(明治十八)年一月十七日に香川県丸亀町で生まれた。

 父・東(あずま)が丸亀十二連隊少尉だったのである。

 母・豊(とよ)は丸亀十二連隊大隊長、山田保永の妻・栄(えい)の妹である。

 大杉が生まれた年の六月、父・東が近衛第三連隊に転属になり、大杉一家は東京市麹町区番町に移り住んだ。

 一八八九(明治十八)年五月、父・東(あずま)が新潟県の新発田十六連隊に転任し、大杉一家は新発田に移り住んだ。

 大杉は四歳から十四歳まで新発田で暮らした。

 それは新発田本村尋常小学校、新発田高等小学校を経て北蒲原尋常中学校(現・新発田高校)を中退し、名古屋陸軍地方幼年学校に入学するまでの十年間だった。





 大杉が新発田を訪れるのは、一九〇二(明治三十五)年六月、母・豊の急逝で東京から帰省して以来十九年ぶりだった。

『新潟新聞』が大杉一家の新発田来訪を報じている。

「警察も知らぬ間に来越した大杉栄 流星の如き其去来 伊藤野枝をも同伴して」という見出しである。


 社会主義者として誰知らぬ者なき大杉栄が去る十三日、例の伊藤野枝子及び当年五歳の長女某の三人連れで飄然と新発田町に現はれ新聞記者林俊三、妻キミ、長女マサと偽名して長谷川旅館に投宿……

(『新潟新聞』1921年7月24日/荻野正博『自由な空 大杉栄と明治の新発田』)





 大杉は名古屋陸軍地方幼年学校を素行不良で退校になったのだが、謹慎処分を受け自分は軍人に不向きではないかと悩んでいたころ、新発田で暮らしていた時分を思い出し、こう書いている。


 僕は始めて新発田の自由な空を思つた。

 まだほんの子供の時、学校の先生からも遁れ、父や母の目からも遁れて、終日練兵場で遊び暮した事を思つた。
 
 僕は自由を欲しだしたのだ。


(「自叙伝 四」/『改造』1921年12月号/『自叙伝』・改造社・1923年11月24日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』には「幼年学校時代」と改題所収/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』)


『新潟新聞』によれば、七月十四日、大杉は島津ヨシと会った。

 ヨシは母・豊の髪結いをしていた女性で、新発田の大杉家にしょっちゅう出入りしていた。

 この日、大杉一家はヨシを伴い、新発田駅発午後二時三十分の列車で村上に向かい、瀬波温泉の三島屋旅館に宿泊した。

 大杉がヨシに会ったのは取材が目的だが、特に大杉が幼いころの記憶を補うためだった。

 七月十五日、新発田に戻って取材を続け、長谷川旅館に再泊した。

 七月十六日、新発田駅午前八時発の磐越線、福島県の平行きの列車に乗り、帰路についた。

 十七日は常陸の海岸の宿で一泊、十八日に鎌倉の家に帰宅した。





 信越線新発田駅が開業したのは一九一二(大正元)年九月だった。

 十九年ぶりに新発田の地を踏んだ大杉は、鉄道が通じたことにより、新発田が大きく変わっているだろうという期待を持っていたが、「まるで二十年前其儘なのに驚かされた」という。


 停車場の附近が変つてゐることは論はない。

 そして僕はそこを出るとすぐ、また新しい華奢な監獄のやうな製糸場が聳えてゐるのを見て、ここにもやはり産業革命の波が押しよせたなとすぐ感じた。

 しかしそれは嘘だつた。

 其後町のどこを歩いて見ても、その製糸場以外には、工場らしい工場一つ見つけ出す事は出来なかった。

 新発田の町はやはり依然たる兵隊町だった。

 兵隊のお蔭でようやく食つてゐる町だった。

 製糸場は大倉喜八郎個人のもので、大倉製糸場の看板をさげてゐた。

 そしてこれは喜八郎の営利心を満足させるよりも、寧ろ其の虚栄心のためのものであるやうだ。

 喜八郎は新発田に生れた。

 ……あの通りの大富豪になり、殊には男爵になるに及んで、其の郷里に此の製糸場と、其のすぐそばの諏訪神社の境内に自分の銅像を立てたのであつた。

 けれども、ここにもやはり、道徳的にはもう資本主義が漲つて来てゐた。

 喜八郎が自分の銅像を自分で建てる事は喜八郎一人の勝手だ。

 しかし此の喜八郎の肖像が、麗々しく小学校の講堂にまで飾つてあるのだ。


(「自叙伝 四」/『改造』1921年12月号/『自叙伝』・改造社・1923年11月24日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』には「幼年学校時代」と改題所収/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』)





 大杉が新発田に来て最初に訪ねたのは、長谷川旅館のすぐそばにある万松堂という本屋だった。

 十歳から十四歳のころ、大杉はこの書店のお得意さんのひとりだった。

 主人の近(こん)保禄は大杉のことを覚えていた。

 大杉は近から昔の友人の行方を聞いたが、近は新発田の中学校を出た者のことをよく知っていた。

 万松堂書店は現在も健在である。

 荻野正博『自由な空 大杉栄と明治の新発田』によれば、この本が出版された一九八八(昭和六十三)年当時の万松堂書店の主人は近進三氏、近保禄のお孫さんである。

 高等小学校のころ、大杉は自宅に仲間を集めて、輪講だの演説だの作文だのの会を開いていたが、その仲間だった杉浦に会ってみた。

『自由な空 大杉栄と明治の新発田』によれば、杉浦とは杉浦慎一郎で大杉より一学年上だったが、新発田中学には大杉と同期入学である。

「自叙伝 二」(『改造』一九二一年十月号/『自叙伝』・改造社/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』には「少年時代」」と改題所収/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』』)によれば、地主である杉浦が大杉に、こう言ったという。

「ほかではどうか知らないが、少なくとも此の越後では農民運動は決して起りませんよ。地主と小作人とが全く主従関係で、と云ふよりも寧ろ親子の関係で、地主は十分小作人の面倒を見てゐますからね」





『自由な空 大杉栄と明治の新発田』によれば、大杉家は新発田にいた十四年間に十二回も引っ越したという。


 父の家は十幾軒か引越して歩いた。

 そして其の中で三四軒火事で焼けたほかには、殆ど皆な昔の儘で残つてゐた。

 僕は其の家の前を、殆どその引越し順に、一々廻つて見た。


(「自叙伝 一」)


 大杉が言及している「火事」とは、一八九五(明治二十八)年六月二日の夜に発生した新発田大火、通称「与茂七火事」のことで、類焼家屋二千四百余りの被害をもたらした。

 大杉の父・東は日清戦争に出征中だったので、大杉一家は母・豊の指示で練兵場の大銀杏の木の下に避難した。


★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★荻野正博『自由な空 大杉栄と明治の新発田』(新潟日報事業社出版部・1988年)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)



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2016年09月08日

第344回 百円札






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『労働運動』二次十二号(一九二一年六月四日)の外国時事欄に「英国炭坑罷業形勢一転す」を書いた。

 一九二一(大正十)年六月十一日、神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で、赤瀾会主催の婦人問題講演会が開催された。

堺真柄嬢演壇に立ち 警官の眼物凄い 久津見秋田石川氏の演説に 目を瞑つてゐた官憲も」という見出しで、 『読売新聞』が報じている。

 講演会は午後一時から始まったが、聴衆は学生が主で婦人は七百名ほど、満場立錐の余地もないほどの盛況だった。

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 久津見房子嬢先づ開会の辞を述べ、藤森成吉氏の演説に次いで堺真柄嬢が『旗持(はたもち)の役』と題して旗持をして難関の先駆(せんく)をやると云つただけで拍手を浴びる、

 曽根貞代子は中止を喰つたので平林初之輔君が起(た)つ頃から聴衆が弥次戦をやり喧騒を極め始めた

 伊藤野枝子は『婦人問題の難関』で手際よく終り

 守田有秋の後に起(た)つた山川菊栄女史は『各国資本家はロシアに資金を送り革命を一層盛んに勃発させんとした』と迄話を進めた時中止を命ぜられ警官横暴の叫びと万歳の声の中に四時五十分無事閉会した


(『読売新聞』1921年6月12日)


「曽根貞代子」は「仲宗根貞代」の誤記だろうか。





 六月二十二日、中国基督教青年会館でコスモ倶楽部主催の留日学生を対象にした講演会が開催され、野枝も講演をした(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 六月二十五日、第二次『労働運動』が十三号をもって終刊になった。

 大杉の代わりに上海に行った近藤栄蔵が帰途、下関で警官に捕まる失態を演じ、かつ堺と山川らは大杉に内密でコミンテルンと接触し始めたことが判明、加えて『労働運動』の発行・編集人である近藤憲二が入獄したからである。

 これによりアナ・ボルの共同戦線は崩壊した。

 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、近藤は第二回メーデーで槍のついた旗竿で巡査の目を突いたという、デタラメの言いがかりでまず市ヶ谷監獄に引っ張られ、傷害罪は不起訴になったが、そのかわりにチラシまきの出版法違反で起訴された。

 近藤は五月九日に保釈になったが、六月二十六日に保釈が取り消され、東京監獄に入獄した。

 禁固三ヶ月だった。





 大杉が週刊(第二次)『労働運動』を出していたころの思い出を、加藤一夫が書いている。

 当時、加藤一家は小田原在の網一色に住んでいた。

 大杉一家は鎌倉に住んでいたが、大杉と野枝が魔子と辻一(まこと)を連れて、加藤の家に遊びに来たことがあったという。

 加藤は一(まこと)のことを「まあちゃん」と書いている。

 仕事を離れた大杉は、まったく人の好いお父さんだったという。


 僕等は僕のあばら家の二階で、(しかしそれは素敵に見晴しのいゝ、気持のいゝ二階だつた)サイダアやビールを飲みながら話し合つた。

 大杉君はサイダア、僕と野枝さんと僕の妻はビール、そして子供達には花火をあてがつておいた。

 僕は東京の家を若い主義者達にあらされたこと、大杉君は労運の事務所をさうした人々に襲撃されて弁当代だけでも並大抵でない、それはまだよいとして、泊り込まれるのが一番閉口だと云つたやうなことを話し合つたことくらいが思ひ出される。


(加藤一夫「大杉も知らずに死んだこと」/『自由と祖国』1925年9月号)





 当時、大杉と野枝は景気がよかった。

 ふたりとも売れっ子の物書きだったのである。

 小田原駅から加藤の家まで自動車でやって来て、帰りも自動車で帰って行った。

 大杉が自動車賃を払うのに百円札を出したというようなことが、新聞に載り、湘南地方の人々にも大杉と野枝はなかなかの有名人だったようだ。

 加藤の尾行も「大杉君はずいぶん金まわりがいいんですね」と感心していたという。

 加藤にはいつか大杉に会ったら話して聞かせようと思っていたことがあったが、それを果たす前に大杉は虐殺されてしまった。


 それは、後から僕の専属になつた尾行の一人が、その時、自動車の運転手になりすまして、ナポレオン帽みた様な帽子を被つて運転台に乗り込んで、ひそかに大杉夫妻の談話を盗みぎゝして居たことだ。

 それは僕も知らなかつたのだ、後からその尾行からきいた話だ。

『あのとき運転台に背の高い男が居たでせう、あれが私でした』と彼は云つた。

 大杉君も恐らくそれには気がつかなかつたらう。


(加藤一夫「大杉も知らずに死んだこと」/『自由と祖国』1925年9月号)





 野枝は『中央法律新報』七月号の「婦人の法律観」アンケートに回答している。


 私は法律と云ふものにまるで信用をおきません。

 したがつてあなたの方のお尋ねに対してはお答えするものを持ちません。


(「婦人の法律観」/『中央法律新報』1921年7月1日・第1年第11号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p295)


『改造』夏期臨時号(一九二一年七月十五日・第三巻第八号)は「社会講談」特集だったが、野枝は「火つけ彦七」を寄稿した。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



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2016年09月05日

第343回 花札






文●ツルシカズヒコ



「男女品行問題号」である『女の世界』六月号は、アンケートへの回答も掲載した。

「良人が不品行をした場合、妻は如何なる態度を採るべきでせうか? その場合妻も亦良人と共に不品行をする事を許されるでせうか?」という質問を葉書で出し、その回答を求めたのである。

 四十七名が回答を寄せているが、野枝も回答している。

 野枝の肩書きは「社会主義者 大杉栄氏同棲者」である。

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 不品行といふのが、どんな事をさすのか知りませんが、一緒にゐる人間が自分の気に入らない不愉快な行為をし、それがどうしても我まんが出来なければ、早速別れることです。

 いろんな事情で別れる事が出来なければ、我まんする事です。

 その二つより他にしかたはないようですね。

 こんな問題の返事をハガキで取るなどは大間違ひです。


(「良人がもし不品行をしたなら……?」/『女の世界』1921年6月号・第7巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』p_275)


 野枝は『女の世界』(実業之世界社)編集部の安易な「葉書アンケート」を叱責しているが、同誌の名編集者だった安成二郎は二年ほど前に実業之世界社を退社し、読売新聞社に転じていた。





♬わたしゃ水草 風吹くままに

♪流れ流れて 果て知らず

♩昼は旅して 夜は夜で踊り

♫末はいずくで 果てるやら


 これは北原白秋・作詞、中山晋平・作曲、『さすらいの唄』の四番の歌詞だが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、野枝はよくこの歌詞を口ずさんでいたという。

 一九一七(大正六)年、島村抱月の芸術座がトルストイ『生ける屍』を上演したが、『さすらいの唄』はヒロインを演じた松井須磨子が歌った劇中歌だった。

『さすらいの唄』はレコード化されヒットした。





 大杉一家が鎌倉に住んでいたころのある思い出を、近藤憲二が書き記している。

 大杉と野枝は夫婦仲がよかった。

 いつも、オシドリのように一緒だったが、たまには喧嘩もした。

 喧嘩になるきっかけは、たいてい根も葉もないつまらぬことだった。

 ある日のことだった。

 そのときは、みんなで花札を引いていた。


「あら、あなた、いま菊をうつ手はないでしょう」

「いいじゃないか」

「いいじゃあじゃ(ママ/筆者註/「いいじゃないかじゃ」の誤記であろう)ありません。あちらにができかかっているんですよ」

「知ってるよ」

「知っててうてる訳ないじゃありませんか」

「いいんだよ。それッ! あッ、しくじった! 僕にも野心があったんだがなア……」

「あなたはいつでも、そんな無茶ばかりする」

「無茶じゃないよ、計画がはずれただけさ。そこがおもしろいんだ」

「おもしろいもないもんだ。第一そんなルールってありゃしない」

「ルールもヘチマもあるもんか」

「あなたはエゴイストだ」

 なおも二こと三ことを言い争っていたが、

「じゃやめりゃいいだろう」といって、大杉が花札を片づけてしまった。

 まあこういった、つまらないきっかけからだ。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p122~123)





 喧嘩になると、ふたりとも口をきかなくなった。


 一日でも、ときには二日でも三日でも口をきかない。

 食事のときなど、二人ともほかの者とは普通に話すが、お互いは黙っている。

 大杉が野枝さんをからかい半分に、私たちにわざと面白おかしい話をする。

 野枝さんは笑いたくも、じっと我慢して、一層むずかしい顔をする。

 結局、二日目か三日目には大杉の方が負けて、先に口をきく。

 そういう点では野枝さんの方がねばった(おかしな話をして、ご免なさい)。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p123)


「おかしな話をして、ご免なさい」と近藤は書いているが、喧嘩をして口をきかなくなるなんて、まるで子供みたいで、なんとも微笑ましい逸話ではないか。

 おそらく花札の才は野枝の方が大杉より数段上だったのであろう。

 高い手を仕込んでいた野枝さんは、大杉の「場を読めない」下手さにカッとなったのであろう。


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)


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第342回 男女品行問題号






文●ツルシカズヒコ




 一九二一(大正十)年五月九日、神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で、日本社会主義同盟の第二回大会が開催された。

 五月十日『東京朝日新聞』によれば、官憲の厳重な警戒の中、午後五時半に開場、場内は三千の聴衆で埋まった。

 午後六時、司会の高津正道が二言三言口にすると、錦町署長から中止解散命令が発せられ、検束者は四十名を超えた。

 神田区北甲賀町の駿台倶楽部内の労働運動社は、官憲に厳重に警戒され、大杉、和田久太郎、中名生幸力(なかのみょう-こうりょく)らは、社会主義同盟第二回大会に駆けつけることができないでいた。

 大杉の「主義のために勇ましく繰り出せ」のひと声で強行突破を図ったが、すぐに警官に包囲され西神田署に検束された。

 鎌田慧『大杉榮 自由への疾走』(岩波現代文庫_p384)によれば、二年後に「虎ノ門事件」を起こす難波大助が、この日本社会主義同盟第二回大会を傍聴、警官たちの横暴に「憤慨の絶頂に達し」たという。

 五月十九日、大杉は宮嶋資夫宛てに手紙を書いているが、その中に「先日岩田富美夫と云ふ人が訪ねて来た。どう云ふ人か君知らないか。神近を知つてゐるやうな口ぶりであつた」という一文がある。

 『大杉栄 伊藤野枝選集 第十四巻 大杉栄書簡集』によれば、岩田は北一輝が創立した猶存(ゆうぞん)社同人、同社解散後には大化会を主宰したが、大杉の葬儀の際に遺骨を奪ったのは大化会の岩田の配下の者だった。

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『女の世界』六月号は「男女品行問題号」だったが、野枝は「貞操観念の変遷と経済的価値」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を寄稿した。

〈二〉以下はシャルル・ルトゥルノー『男女関係の進化』引用をもとに論が進められている。

 シャルル・ルトゥルノー『男女関係の進化』は、大杉が翻訳し一九一六年十一月に春陽堂から刊行されたが、日蔭茶屋事件の直後の出版だったので訳者は「社会学研究会」となっている(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 以下、抜粋要約。


〈一〉

 ●なぜ貞操が婦人の根本道徳なのか? 誰にでもすぐ答えられそうでなかなか答えられないのです。

 ●婦人の貞操が神聖なものだと朝から晩まで教えている人たちでも、結婚の一大資格であり、結婚後は夫に対する重大義務であるとしか答えられないのです。

 ●たとえば、貞操というものそれ自体にはなんの神聖な意味はないという主張に対しても、彼らは明確な反対意見を述べることはできないのです。

 ●結婚は女にとって一生の生活の保証を得ることですが、貞操はその結婚という経済的契約に第一に問題にされます。

 ●かつて女は男の一財産でしたが、現在までに発達してきた財産私有制の経済も、やはり女という財産を管理するのに抜け目のない仕組みになっているのです。

 ●女が財産として取り扱われてきた歴史的な証拠はたくさんあり、現在もなおその習慣が残されていますが、それが現在でも顕著に残されている野蛮人の例を挙げて実証してみたいと思います。






〈二〉

 ●シャルル・ルトゥルノー『男女関係の進化』は、蒙昧(もうまい)人も文明人も一様に持っている男女関係のさまざまな風習を集め、興味深い事実をたくさん紹介しています。

 ●婦人が財産視された最も適切な例、原始社会の掠奪結婚から始めて服役結婚、売買結婚についても多くの事実を挙げています。

 ※野枝は『男女関係の進化』からその実例を引用している。


〈三〉

 ●これらのむき出しな事実に対して、現代の教養ある婦人たちはあり得ないことと考え、眉をひそめることでしょう。

 ●しかし、今日ですら、私たちの眼前で行なわれている結婚の中にどれほど多くの売買結婚があるでしょう。

 ●結納というのは何を意味するのでしょうか?

 ※野枝は『男女関係の進化』を引用し、一夫多妻は階級社会になると富者と権力者の特権になるーーなどの分析を紹介している。





〈四〉

 ●夫婦関係の様式は、蒙昧野蛮な一夫多妻から法律や宗教で認められた一夫多妻になり、さらに進んで一夫一婦制になりましたが、女の地位は低いままです。

 ●一夫一婦制になるまでには、蒙昧人の間のような家畜と同じような扱いではなくなり、少しは自由になりましたが、女が自活できずに結婚によって一生の生活の保証を得なければならない間は、結婚は経済的取り引きなのです。

 ●淫売は女の体が経済的物品であることの露骨な証拠です。

 ●教養ある上中流婦人たちは淫売婦を賎しみ憐れみますが、しかし、多くの夫ある婦人たちと淫売婦との差異は五十歩百歩なのではないでしょうか。

 ●誰が教養ある貴婦人になり、誰が淫売婦になるのでしょう? ただ不平等な境遇の差異のみではないでしょうか。





〈五〉

 ●人類の文明が進むにつれ、平等だった人間と人間の間に階級ができ、権力が生まれ、道徳ができ、法律ができ、宗教が生まれて、風俗や習慣に大きな変動が起きました。

 ●社会が規則立てられ、第一に規則立てられたのは財産に対する権利、所有権です。男の所有物である女も所有権の対象になりました。

 ●姦通は所有者の許可を得ずに女という物を使用する窃盗、すなわち泥棒ですが、姦通罪は盗まれた物である女にだけ科せられた、社会的な強者である男に都合の好いだけのまことにおかしな刑罰です。

 ●合理的な一夫一婦制が一般的になった社会では、露骨に女を財産視することはなくなりましたが、やはり妻に盗難の手がおよばないうような企てを男は怠らなかったのです。

 ●男は輿論と法律を味方にしました。

 ●女に守らせる道徳を作り、それに無上の権威を持たせたのが輿論です。そしてそれを宗教が味方します。

 ●こうした男が身勝手に構築した制度に何も不満を言わず屈従するのが、女の大事な道徳なのです。

 ●そして、これが貞操の正体なのです。

 ●男にとって大切な女に守らせなければならない道徳が貞操であり、女にとっては男の保護を得るためには、ぜひ守らなければならない道徳なのです。





〈六〉

 ●私は人間社会のあらゆる人為的な差別が撤廃され、人間の持つあらゆる奴隷根性が根こそぎにされなければならないという理想を持っています。

 ●婦人たちの心から、貞操という奴隷根性を引き抜かねばならぬと主張する者です。

 ●もう野蛮な時代ではなくなりました。進化は休みなく歩み続けています。

 ●私たち先祖の野蛮な習慣や風俗は、現在の法律や道徳に痕跡を残していますが、進歩した理知や感情は不合理を残すところなく駆逐しようと努力し、私たちの生活は一日一日向上しています。

 ●少数の勇敢な婦人たちは、女の隷属的地位から逃れようと努力しています。

 ●世界の文明国の婦人たちは、ほぼ男子と同等の地位にまで近づいて来ました。

 ●結婚も奴隷契約ではありませんし、娘たちの選択もだいぶ自由になってきました。

 ●貞操は必要ないと私が主張するのは、結婚は当人同士の自由合意のものだということを前提にしているからです。

 ●貞操という道徳がなぜ生まれたのか、それがどんな役目を果たしてきたのか。それを理解するならば、私のこの主張は当然のことなのです。

 ●貞操という規範がなくなっても、男が不自由するわけでもなく、女が放縦になるわけでもありません。

 ●私のこの主張に憤慨する人は、守銭奴が金を大事にしまっておくように、女をしっかりとしまっておきたい人です。





〈七〉

 ●世界の文明国では多数の婦人が男子と同様に働いて自分を養っています。しかし、彼女たちのどれほどが「完全にひとりの力」で暮らしているでしょう?

 ●そしてその職業婦人が世界中の妻君の何割りに当たるでしょう?

 ●男の庇護の下に一生の保証を得るのが、さしあたっての利巧な方法だということに帰結します。

 ●たまたま親や男の庇護を受けることのできない娘たちが、働こうすれば、ちょうど蒙昧人が家畜のように姉妹をひと束にして買ったように、資本家によって牝牛一匹の半値くらいで買い取られるのです。

 ●文明も進歩も、弱者にはなんの変化ももたらしませんでした。

 ●どれほど立派な技量を持った職業婦人でも、男の気紛れを峻拒する気概を持った人には充分な報酬は与えられないのです。

 ●人類は蒙昧時代から現在の恐るべき文明まで、非常な進歩発展をしてきました。女の地位もそれにつれて向上はしてきましたが、男が女に対して持つ力にはなんの変わりもないのです。

 ●そして女は思想の向上から、思想と現実の矛盾に悩みます。最も苦しむのは自覚した職業婦人です。

 ●すべての婦人が男の庇護を受けず、自分の正しい働きによって生きることができるようになるには、どうすればよいのでしょう?

 ●私の答えはひとつしかありません。

 ●少数の人々が多数の人間の労力を絞りとって財産を作る、そしてその財産の独占が権力を築くという不当な事実がある間は、男にも女にも自由は来ません。





〈八〉

 ●繰り返して言います。道徳も法律も宗教もない混沌とした蒙昧野蛮な時代から、男が主人で女は奴隷でした。

 ●男が所有主で女は財産でした。

 ●今日の文明でも、女は従属的、屈辱的な地位であることに変わりはありません。

 ●今でも女は体を提供して、男からの生活の保証を得るより生きる道はないのです。ひとりの男に一生を捧げるか、そうではないかの差異はありますが。

 ●文明国の法律や道徳や宗教や哲学などが、女の地位を弁護していることは事実です。

 ●しかし、政治、法律、道徳、宗教、哲学、その他のあらゆる知識がすべて資本主義のために働き、それに都合のいい基礎を作り上げたのです。

 ●この仕組みを根底から変えなければ、人間の真の解放はあり得ません。


★鎌田慧『大杉榮 自由への疾走』(岩波現代文庫・2003年3月14日)

★『大杉栄 伊藤野枝選集 第十四巻 大杉栄書簡集』(黒色戦線社・1989年5月10日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年09月03日

第341回 赤瀾会(二)






文●ツルシカズヒコ




『改造』一九二一年六月号に「赤瀾会の真相」が掲載されたが、山川菊栄「社会主義婦人運動と赤瀾会」とともに、野枝も「赤瀾会について」を寄稿している。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、『改造』同号には「赤瀾会の人々」という紹介記事も掲載されたが、五月一日のメーデーに初めて婦人団体として参加した赤瀾会が一躍注目を浴びたからである。

 三千字ぐらいの原稿のうち、三分の二ぐらいが当局の検閲によって削除され伏せ字にされている。

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 赤瀾会は現在五十人たらずの婦人達を擁する小さなグルウプです。

 本年のメエデーは、赤瀾会によつて最初の婦人参加者を得ました。

 しかし此の少数の婦人達は、日本の婦人団体としては前例のない圧迫を被(こうむ)りました。

 そして警察の檻房に打ち込まれ、二人の同志の婦人は東京監獄に拘禁されまでしました。

 赤瀾会員の大部分は、現在の日本の社会運動の実際運動にたづさわつてゐる人々の家族であり、縁故の深い人々です。

 従つて何よりも、みんなは、其の思想の上でよりも、先づ或る深い家庭的友情で結びつけられて居ります。

 又その周囲の雰囲気が永い間に大きな訓練をみんなに与へて居ります。

 或る人は、赤瀾会には思想がないと云ふ非難をしたさうです。

 それは或は事実かも知れません。

 一寸(ちよつと)指を屈して見ても、机の前に座つて本をよむ事の好きな人、或はさういふ事を楽しむといふ人は非常に少いやうです。

 それが非難さるべきものだとすれば、赤瀾会員は多分よろこんで此の非難に屈するでせう。

 しかし、本の上で覚えた理屈をこめる事を『思想的背景』があると云ふのなら、赤瀾会員は……彼女達は、いろ/\な立派な理屈を知つてゐ、云つてゐ、書いてゐながら、それを自分のものにして生活することを知らない卑怯者の尊大な誇りは持ちません。


(「赤瀾会について」/『改造』1921年6月号・第3巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p259~260)





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、「前例のない圧迫」とはメーデーに参加した赤瀾会会員が全員検挙されたことで、「二人の同志の婦人は東京監獄に拘禁」は、山川菊栄が書いた「婦人に檄す」というメーデー参加を呼びかけるビラを配った秋月静枝と中名生(なかのみょう)いね子が、出版法違反で検挙され、それぞれ罰金三十円に処せられたこと。

「赤瀾会員の大部分は、現在の日本の社会運動の実際運動にたづさわつてゐる人々の家族であり、縁故の深い人々」は、例えば堺真柄は堺利彦の長女、橋浦はる子は橋浦時雄の妹、秋月静枝は中名生幸力(こうりき)の伴侶、仲宗根貞代は仲宗根源和の伴侶。

 当局の検閲によって原稿が大幅に削除され伏せ字にされた件に関して、野枝は『改造』次号七月号に「親愛なる読者よ」を寄稿。

「……編輯締切後に於て其筋より抹殺されたものであります、どうか読者もかくの如き事情でありますから御許しを願ひます」と事情を説明している。





 野枝は『労働運動』二次十二号に「婦人の反抗」を寄稿したが、これは第二回メーデーに参加した赤瀾会への応援歌であり、『労働運動』同号の一面トップに掲載された。

 野枝はまず五月二日の『読売新聞』の記事に触れている。

『読売新聞』はアドバタイザー社の婦人記者、ビリー女史が上野精養軒裏で目撃した官憲の赤瀾会会員への暴行に関するコメントを載せている。


「日本の警官は何んと云ふ非道い事をするのでせう、あんな繊弱(かよわ)い婦人を捉へて打つたり蹴つたりするとはーー又、群集は婦人が侮蔑されてるのに傍観してゐるとは何んと云ふ事でせうーー私迄が大なる辱めしめを受けてゐるように感じます。

 日本は野蛮な国です、野蛮国です


(『読売新聞』1921年5月2日)


 野枝はこのビリー女史(野枝は「ビズレー女史」と表記)の上から目線のコメントに対しては、チクリとひと刺ししている。


 私は此の話を外国への恥だなどと問題にするのでない。

 警官が民衆を打つたり蹴つたりするのが日本ばかりだとは思ひもせず、又、ビズレー女史のようにアメリカやヨオロツパの文明国でそんな事が決してない等とも思はない。

 お互様に何(ど)の国の政府でもしてゐる事だ位は知つてゐる。


(「婦人の反抗」/『労働運動』1921年6月4日・2次12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p290)


 そして、赤瀾会の勇気と行動力に賛辞を送っている。


 巡査共に云はせれば『女のくせに余計なところに出しやばるからウンとこらしめておかねば癖になる』と云ふにちがひない。

 しかし、如何に官僚的思想の彼等にしてもそんな暴行や侮辱を加へる事によつて、人間の心の奥底に萌え出した思想の芽をそう容易につみとつてしまへるものと信ずる事は出来ないにちがひない。

 事実赤瀾会の誰一人それにひるんだものはない。

 しかし、若い婦人が群集の面前で、髪を乱し、衣紋(えもん)をくづして巡査に引きづられると云ふ事が、どれ程痛ましい恥辱を与へるであらう?

 弱い精神の持主では到底忍べる事ではない。


(「婦人の反抗」/『労働運動』1921年6月4日・2次12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p291)





 赤瀾会に対する野枝と大杉の反応を、安谷寛一は四十四年後にこう回想している。


 大杉は乗り気のようだったが野枝さんは一向気がすすまなかった。

『ネ、君い、セキランカイとか何とかって、ご婦人連中えらそうなこと云うが、女なんて新しくたって古くたって皆んなコレだよ!』と、大杉は右手でつまらない形を作って見せた。

 野枝さんは険しい目で大杉をにらんだ。

 だが大杉の男女関係観は決して怪しいものではなかった。

 女は生殖器である。

 その働きは排泄作用である。

 男女平等では男はひどく不平等だし女はそれ以上不幸だ、と思っていた。

 不思議な大自然の摂理、大調和、大杉はそんな方面を考えること、ファブルの本能論に魅せられた彼の思いは、ミミっちい社会運動とは異なった世界に進もうともしつつあった。


(安谷寛一「晩年の大杉栄」/『展望』1965年9月・10月号)


「野枝さんは一向気がすすまなかった」というのは、どういうことなのか、ちょっと気になる。

 赤瀾会は応援するが、自分がメーデーに参加することには「一向気がすすまなかった」という意味だろうか。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)


中名生幸力
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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