2019年08月05日
”山吹の里” に名を残す名軍師
小田原酒匂川花火大会
金曜日のブログで花火大会のことを書いた手前、自分が行かないのもどうかと思い(ホントはただ行きたかっただけ!?)、翌日の土曜日に酒匂川の花火大会に行ってきました。
この日は厚木で鮎まつり花火大会もあり、どちらに行こうか迷ったのですが、酒匂川の花火大会は長い間行ってなかったので、今回はこちらにしました。
酒匂川の花火大会はほとんど初めてに近かったので場所選びに迷いましたが、たまたま入った場所がなかなかのビューポイントでラッキーでした!
昼間は猛暑でしたが、日が暮れると酒匂川の川面を渡る風が心地よく、とても快適に花火を楽しむことができました。
花火大会に行く時は(どこで見るか?)がいつも問題になるのですが、今回は場所選びの大切さを改めて実感した花火大会でした。
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日本の合戦を変えた男・太田道灌
僕は日本史の中でも戦国時代が得意分野なのですが、このブログを始めてからまだ戦国時代には触れてなかったので、今回は太田道灌について語りたいと思います。
太田道灌(1432〜1486年)は、室町後期〜戦国前期に関東で活躍した武将です。
室町幕府の関東管領・扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家宰(かさい)で、家宰とは主家の代わりに主家が行なう政治を取り仕切るのが主な仕事で、主家の筆頭重臣でもあります。
道灌は古今東西の兵法に通じ、当代一の兵学者との呼び声も高かった人物です。
それにしても、大名でもない太田道灌が関東で非常に有名な人物になったのは、後世に大きな功績を遺したからと言えます。
その一つめは、長禄元年(1457年)に江戸城を築城したことです。
江戸城といえば徳川家康(4月17日付ブログ参照)と考えてしまいがちですが、家康は道灌の築いた江戸城を巨大な城に改修し、周囲に城下町を作ったことで、後に江戸が日本一大きな都市に発展したのです。
つまり、江戸城を最初に築いた道灌には、この地が関東地方の中心となりうる利便性、そして今後の発展性を見抜く先見の明があったと考えられます。
そしてもう一つは、足軽戦法を考案したことです。
当時の合戦は、武士と武士が一騎打ちで戦うのが主流で、足軽は単なる武士の補佐役でした。
これでは、どれだけの人数を抱えていても思うように部隊を動かすことができないので、道灌は足軽だけを集めて部隊を編成し、集団で敵に襲い掛かる戦法を編み出したのです。
この戦い方は引き連れた部隊を余すところなく活躍させ、且つ効率的に敵を倒せる画期的な戦法でした。
この戦法が世の中に浸透し、戦国の戦い方を変えていったのは言うまでもないでしょう。
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悲運!道灌の最期
しかし、道灌は武将としてあまりに切れ者過ぎたため、主君である上杉定正に謀反を疑われてしまいます。
道灌は定正の住む相模国糟屋の館(神奈川県伊勢原市)に招かれ、そこで風呂に入っていたところを定正の刺客・曽我兵庫に襲われ命を落としました。
道灌は襲われた際、「当方滅亡!」と叫んで絶命したと言われています。
当方とは主家である上杉家のことで、道灌は(主家のために滅私奉公し、尽力を惜しまなかった家臣(自分)を疑って殺すような家に未来はない)と予言したのでしょう。
道灌の予言どおり、上杉定正は道灌の死から8年後、落馬により命を落とし、扇谷上杉家も天文十五年(1546年)後北条氏との川越夜戦で当主・朝定が戦死し滅亡しました。
ちなみに、上杉謙信(3月13日付ブログ参照)が引き継いだ上杉家は、扇谷上杉家と分裂し対立していた山内(やまのうち)上杉家のほうです。(謙信の実家・長尾家は山内上杉家の家宰)
道灌は晩年にこんな言葉を残しています。
「お家にとって、賢者がいるのを知らないのは第一の不幸、知っていながら登用しないのは第二の不幸、登用しても信用しないのは第三の不幸」
道灌が主家のふがいなさを嘆いた言葉ですが、これは、現代の会社組織にもあてはまる言葉ではないでしょうか?
太田道灌まとめ
- 江戸城を築城し、この城を受け継いで拠点とした徳川家康が江戸の町を発展させた
- 足軽戦法を考案し、日本の合戦の仕方を変えた
- 切れ者過ぎたため、主君の上杉定正に謀殺された
武勇伝が長くなってしまったので、太田道灌にまつわる数々のエピソードについては次回、ということで。(むしろ、エピソードの方を書くつもりだったのですが・・・)
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