2020年01月10日
大奥最大のスキャンダル 江島生島事件
大奥女中と歌舞伎役者の密会が大問題に発展
明後日1月12日は大奥が舞台となった大騒動・江島生島事件が起きた日です。(正徳四年 1714年)
ご存知の方も多いと思いますが、大奥とは江戸城内にある将軍家の正室(正妻)、側室(正妻以外の妻)やその子女、女中などの多数の女性が在籍する場所で、いわば“女の花園”です。
十数年前にドラマや映画で「大奥」が人気となり、ちょっとした“大奥ブーム”がありました。
江島生島事件も平成十八年(2006年)12月に公開された映画『大奥』のメインテーマとして取り上げられ、主演の仲間由紀恵さんが江島を演じ話題となりました。
この事件を簡単に説明すると、大奥の大年寄だった江島が、当時人気だった歌舞伎役者の生島と密会していたことが発覚し、後に大問題にまで発展したという内容です。
江島(右)と生島
この事件はかなり多くの関係者が断罪されただけでなく、その後の幕政の流れまで大きく変えてしまうほどの影響をもたらしたのです。
しかし、大奥の女中と歌舞伎役者が密会しただけで、なぜ大問題になってしまったのでしょうか?
というわけで、今回は江島生島事件について語りたいと思います。
事件の経緯
まずはこの事件の中心人物である江島について説明します。
江島(当時34歳)は、千人以上在籍していた大奥女中の筆頭格にあたる大年寄という地位あった女性で、大年寄は幕府で例えれば老中に相当するほど大奥内では大きな権力を持つ役職でした。
そして江島は当時の七代将軍・徳川家継の生母・月光院に仕えていました。
正徳四年(1714年)1月12日 江島は月光院の名代として、多くの奥女中を従え芝の増上寺に参詣しました。
その帰途に山村座という芝居小屋に立ち寄り歌舞伎を見物します。
芝居見物の後、役者たちの宴会にも招かれた江島一行は江戸城への帰城が遅くなり、大奥で定められていた門限を破ってしまいました。
最初は謹慎程度の処分だったのですが、後に大問題とされてしまい、江島は「芝居見物で羽目を外し大奥の風紀を乱したこと、門限を破ったこと、歌舞伎役者・生島と密通したこと」などの罪に問われました。
まず江島は信濃(長野県)の高遠に流罪、江島と密通した山村座の看板役者・生島新五郎も三宅島に島流しとなり、江島の兄は妹の家督責任を問われ死罪となります。
さらに、江島一行を山村座に案内した者が死罪となり、山村座も廃止されてしまいます。
大奥では江島の支配下にあった多くの女中たちも着物や履物を没収された上で追放処分となり、この事件では延べ1500人以上もの関係者が処罰されてしまいました。
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多くの疑問が残る事件の謎
しかし、当事者の江島はこれほどまでの大事件に発展するとは夢にも思っていませんでした。
なぜなら、自分に問われた罪状が全て冤罪だと確信していたからです。
- 芝居見物で羽目を外したこと
大奥の女中が芝居見物をするのは基本的には禁止されていましたが、それは表向きで、実際には黙認されていたことです。
しかも、江島は事前に芝居見物の許可まで取っていたのです。 - 門限を破ったこと
役者たちとの宴会中、付き添いの者に門限時間が迫っていることを告げられていたので、ぎりぎりではありましたが江島一行は門限には間に合っていたのです。
その上、江島はこれも事前に遅延届を提出していたので、もし門限に間に合わなかったとしても罪には問われないはずです。 - 生島と密通したこと
これは、生島が過酷な拷問を受けた末に無理やり白状させられた証言のみに基づくもので、江島自身は一貫して否定していることから、本当に密通があったかどうかは疑わしいのです。
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大奥内部の権力闘争に利用された !?
もし仮に、江島の罪状が全て事実だったとしても、普通に考えたらこの程度の違反行為がここまでの重大事件にされてしまうのはどう考えても不可解です。
そこで考えられるのが、これは大奥における権力闘争に利用された事件だったということです。
この頃、大奥では前将軍・徳川家宣の正室・天英院と、側室・月光院の二つの派閥に分かれ、対立していました。
幕政においても、天英院派の老中・秋元喬知が、月光院派の側用人・間部詮房、新井白石とライバル関係にありました。
家宣の死後、跡を継いだ将軍家継の生母である月光院派が大奥で優勢だったので、月光院に仕えていた江島が大年寄に抜擢されたという経緯があります。
天英院派は勢力挽回を図るため、月光院に仕えて大奥を仕切っていた江島のスキャンダルをでっち上げ、月光院派を潰そうと考えたのではないでしょうか?
その証拠に、この事件における一連の処罰を下したのは天英院派の老中・秋元喬知です。
さらに、この事件の影響は大奥内部の権力闘争だけにとどまりませんでした。
当時、幕府では跡継ぎもなく病弱だった家継の将軍後継者について話し合いが行なわれていました。
当初は月光院派が推す尾張徳川家の徳川継友が次期将軍として最有力でしたが、この事件をきっかけに勢力を巻き返した天英院派は紀伊徳川家の徳川吉宗を推薦し、事件から2年後の享保元年(1716年)、吉宗は晴れて八代将軍となったのです。
つまり、江島生島事件がなかったら、吉宗は将軍になっていなかったかもしれないのです。
さらに言えば、吉宗が将軍でなければ江戸時代の三大改革として知られる「享保の改革」も当然行われず、将軍家の系統も変わっていたので、日本の歴史が大きく変わっていた可能性があるのです。
まとめ
- 江島生島事件とは大奥女中の江島と歌舞伎役者の生島の密会を発端とした大事件
- 江島に問われた罪はほとんど冤罪と思われる
- この事件は大奥内部や幕府の権力闘争に利用された可能性がある
この事件が江戸時代に歌舞伎の演目として人気だったのは、大奥という上層階級で起きたスキャンダルを庶民たちが垣間見たいという気持ちがあったからでしょうね。
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