2019年10月30日
隻眼の軍師・山本勘助
謎多き名軍師
10月もそろそろ終わりですが、今年の10月はやけに天気が悪かった印象があります。
10月ってこんなに天気の悪い月でしたっけ?
今年の10月は12日の台風19号と先週の大雨のインパクトが強いのですが、それ以外にも曇りや雨の日が多かったような気がします。
通常の気候でいえば、9月の後半は夏から秋への季節の変わり目で天気が悪い日が多いのはわかるのですが、10月になると気圧配置が安定して、所謂“秋晴れ”が続くものだと思っていたのですが・・・。
近頃は10月になっても最高気温が25℃を超える夏日が増えてくるなど、今までの季節の常識が通用しなくなってきているんですかね。
さて、今日は武田信玄(4月10日付ブログ参照)の軍師として有名な山本勘助にスポットをあてます。
山本勘助といえば、平成十九年(2007年)の大河ドラマ『風林火山』により歴史ファン以外の方にも知られるところとなりました。
この時に主役の山本勘助を演じたのは内野聖陽さんですが、僕の中で勘助役といえば、『武田信玄』(主演:中井貴一)の中で演じた西田敏行さんのイメージです。(大河ドラマといえば『武田信玄』が大好きだったもので・・・)
山本勘助は有名な人物であるにも関わらず、出自や経歴について不明な点が多く、勘助について記した史料の信憑性などからその存在の有無すら疑われています。
果たして山本勘助は本当に実在したのか?
今回は山本勘助の謎について語りたいと思います。
諸国遍歴の後、信玄に仕える
山本勘助 生年不明〜永禄四年(1561年)
勘助は三河牛窪(愛知県豊川市)に生まれ、若い頃から諸国を遍歴しその間に様々なことを学び、天文学から兵法まで文武百般に通じていたといいます。
しかし、勘助の容貌は小柄で隻眼(片目が見えない)、右足が不自由な上に肌の色が浅黒い醜男(ぶおとこ)だったため、勘助の地元を支配していた今川義元に仕官を願うも相手にされませんでした。
そこで勘助は甲斐(山梨県)に入り、武田信玄の重臣・板垣信形の推薦を取り付け信玄に謁見します。
勘助と会った信玄は、
「このような外見にも関わらず名声が高いのは、よほど能力が優れている証拠だ」
と、一目で勘助を気に入り、二百貫で家臣として迎え入れました。
その後、信玄の信濃(長野県)侵攻に随行した勘助は数々の城攻めに貢献し、武田家中でも頭角を現し始めます。
信濃侵攻において、諏訪地方を支配していた諏訪頼重を滅ぼした信玄は、頼重の娘を自分の側室(正妻以外の妻)に迎え入れようとしました。
これには(自ら殺した武将の娘を側室にするなど、復讐される可能性も高く危険過ぎる)と多くの家臣たちが反対しました。
しかし、勘助だけは
「諏訪家の姫との間に男子が生まれたら、将来諏訪家を再興させることができ、そうすれば現在武田家に恨みを抱いている諏訪地方の人々も武田家に忠誠を誓うようになるでしょう」
と、賛成を唱えたといいます。
勘助の薦めにより信玄は頼重の娘を側室にしました。
こうして頼重の娘との間に生まれたのが、後に信玄の跡を継いだ武田勝頼(3月11日付ブログ参照)です。
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川中島の誤算・・・!
そして、山本勘助が最もクローズアップされたのが、永禄四年(1561年)に行なわれた第四回川中島の戦いです。
妻女山に陣取った上杉軍と海津城の武田軍が睨み合い膠着状態が続くと、この状態を打開する方策を勘助が提案しました。
それが、“きつつきの戦法”です。
これは、きつつきが木の穴に入っている虫を獲る時、最初に穴の反対側をくちばしで突き、驚いた虫が穴から出てきたところを捕食する習性を応用した戦術です。
まず、武田軍を二手に分け、別働隊が妻女山の後方に回り背後から上杉軍を奇襲します。
驚いた上杉軍が追い立てられるように山を下ると、前方に武田の本隊が待ち構え、奇襲した別働隊とともに前後から上杉軍を挟み撃ちにして殲滅するという作戦です。
さすが様々な兵法に長けた勘助ならではの見事な作戦ですが、戦の天才・上杉謙信(3月13日付ブログ参照)はこの作戦をいち早く見破り、武田の別働隊が妻女山を奇襲してくる前に全軍で山を下り、逆に武田の本隊を奇襲したのです。
思いもよらぬ奇襲を受けた武田の本隊は、信玄の実弟・武田信繁や重臣・諸角豊後守が討死してしまうほどの苦戦を強いられてしまいます。
自分が提案したきつつきの戦法が失敗したことに責任を痛感した勘助は、捨て身で上杉軍に突撃し討死しました。
(※川中島の戦いについては、9月10日と12日付のブログで詳しく語っておりますのでそちらもご覧下さい)
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山本勘助は実在したのか?
川中島で戦場の花として華々しく散っていった勘助ですが、これだけ有名な人物でありながら、その実在については長い間、疑問視されていました。
というのも、勘助の存在を示す文献が『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)以外になかったからです。
『甲陽軍鑑』とは、武田家の合戦や軍法を記録した軍学書ですが、これは江戸時代に書かれたもので内容的にも創作が多いことから、史料的価値は極めて薄いといわれています。
こうした理由から、長らく歴史学者は勘助の存在を否定していました。
ところが、昭和四十四年(1969年)に北海道の市河氏が所蔵する古文書から「山本菅助を使者とする」という信玄の書状(市河文書といわれる)が発見され、ようやく歴史学者にも勘助が実在していたことを認められます。
さらに、平成十九年(2007年)には「山本勘助を大将として城攻めの準備をせよ」という内容が書かれている信玄の書状も発見されたのです。
市河文書が発見された時点では存在は認めても下っ端の武士だろうと思われていた勘助が、信玄から城攻めの大将を任されるほどの重臣であったことが認識されました。
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まとめ
- 武田信玄は見た目が悪いにも関わらず名声の高い勘助を評価して召し抱えた
- 勘助は川中島の戦いで“きつつきの戦法”を献策したが失敗したため責任を痛感し討死した
- 勘助は長い間その実在を疑問視されていたが市河文書などにより実在が認められた
現代になって勘助の実在を証明する史料が出てきたことを考えると、今後も戦国史の謎を解明する史料が発見されることを期待できそうですね。
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