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2018年12月12日
習一篇草稿−4章
1
正午を過ぎたころ、習一たちは動物を見終えた。近くの公園に行くと手ごろな木陰に銀髪の少女が待機していた。二メートル四方の敷物の上にバスケットと水筒、そして彼女が常用するリュックサックがある。習一たちは膝を抱えて座る少女に合流した。
「今日のお昼ごはん、手作りのサンドイッチだよ」
バスケットの蓋を開けると、中はラップにくるんだサンドイッチがすし詰め状態になっていた。エリーは水筒のコップに飲み物を注ぎ、習一に渡す。
「これ、ふつうのお茶。ぜんぶシューイチのものだから、好きなだけのんでね」
習一はぐいっと茶を飲み干した。冷たい液体がさらさらと胃へ落ちるのを感じる。習一は入園以降、水を口にしておらず喉はカラカラになっていた。だがのどをうるおす機会は何度もあった。教師が自動販売機の前を通過する際に「なにか飲みますか」と尋ねたが、習一はかたくなに拒否した。熱気で汗を流す習一とは違って、教師は常に涼しげな顔をする。相手が飲料を欲さぬうちに習一が彼の厚意に屈するのは、なんだか悔しい気がした。
習一が二杯目の冷茶をコップに入れる。水筒を動かすたびに氷の粒同士がぶつかった。
「そんなに喉が渇いていましたか」
その声には渇きを自己申告しなかった者への非難はない。他者へのいたわりが欠けていたという自責の念が微量に含んでいた。習一はコップ越しの冷気を手に感じながら「あんたが気にすることじゃない」とぶっきらぼうに告げた。教師は頭を横にふる。
「脱水症状や熱中症で倒れてからでは遅いのです。私とエリーは暑さ寒さに鈍いので、私どもに合わせていては貴方の体がもちませんよ」
「寒いのも平気だと? おまえら、どういう土地で育ったんだ」
色黒な者が多い熱帯地方出身ならば日本の猛暑に耐えうるかもしれない。だが彼らは概して寒冷な気候に不慣れだ。寒暑両方を苦手とする人間はいても、逆は通常いない。
「出身地……涼しい土地だったと思います。長袖で過ごす人が多かったようですから」
「他人基準でしか判断できねえのか?」
「そうですね。おおまかに温度は感じられるのですけど、それが人体にどれほどの影響を与えるかを知るには、他者の様子を参考にしています」
「変なの……機械が自動判別する時にやりそうな方法だな」
習一は空けたコップを敷物の上に置き、手つかずのサンドイッチを手にした。前回食べたサンドイッチは白いパンだったが、今回は茶色の焦げ目がついている。
「今日は時間によゆうがあったからトーストしたの。前よりおいしくなってる、のかな」
エリーはリュックサックの中を探ってタンブラーを二つ出した。
「これはわたしたちのごはんね」
一つを教師に手渡した。タンブラーの容量は目測五百ミリリットル。それだけで大の男の腹が満たせるとは思えない。
「サンドイッチも食うんだろ?」
習一が教師に尋ね、「いくつかはもらいます」と返答があった。しかし銀髪の彼らがバスケットに手を伸ばすことはなく、飲料を飲むだけだ。
「この少食ぶりで、よくそんな図体になれたな」
「体型と食事にも少々事情がありまして。後日お教えします」
今は話せないというお決まりの文句だ。習一は軽く流した。話題変えなのかエリーが動物園を見物した感想を習一に聞くので「真夏に動物園に来るもんじゃない」と答えた。
「シューイチ、暑くてつらかったの?」
「オレはまだ平気だ。動物がどいつもこいつも、だらけていやがった」
暑さにやられ、猛獣の長たるライオンや虎までもが地べたをごろついた。その様子には威厳が欠片もない。想像にたがわぬ生活を保ったのは元々の動きが緩慢なゾウやプールがあるペンギンなどに限定され、それ以外の動物は気だるそうだった。本日は曇天であり、比較的気温が低いため過ごしやすいのだが、毛皮をまとった動物には些細な差のようだ。
「元気な動物を見るには適さない時期だったのかもしれませんね」
教師は習一に同調した。
「私はのんびりした彼らを見るのも楽しめましたが、貴方は物足りませんでしたか」
「さあ……動物園はあんまり来ないところだからな。退屈はしてない」
習一は次々に用済みのラップを丸めて自身の足元に並べた。サンドイッチの具材は前より種類が豊富になり、あぶった鶏肉を小さく切ったタイプが一番美味だった。その評価をぽろっと口に出すとエリーが「やっぱりミスミは料理上手なんだ」と言う。
「ミスミ、てのはだれだ?」
「シドがシューイチのごはんのたよりにしてる人。もう一人、てつだってくれてる人がいるんだけどね。そうそう、明日から三日間の夕飯もミスミがつくってくれるって」
少女の説明を教師が引きつぎ、学校の補習を終えた夕方はオヤマダという家へ訪問して夕食をとると言った。朝昼の食事もオヤマダ家の者が用意するのだと教師は述べる。
「オダギリさんの口に合った家庭料理のようですし、問題はないと思います」
「その家の連中はあんたの教え子の父兄……なんだろ。教師が個人的に自宅訪問していいのか?」
「校長の許可が下りていますから公認です」
「オレのことを、才穎の校長に?」
「はい。校長もオヤマダさんたちも、貴方への支援には協力的です」
「物好きがいるもんだな。補習が終わった後は……オレとそいつらの縁は切れるのか?」
「どうでしょうね。状況に合わせて、また食事の用意を頼むかもしれません。補習を終えて片が付くことは学校の事情だけです。家庭のほうは手つかずですから」
言いにくいことをぽんぽん言うやつだ、という思いを習一は胸の内にとどめた。一番の問題は満足に食事もできない家庭環境にある。
「私は一度に複数のことをこなせません。家のことは補習を終えたあとで考えましょう」
「考えたって無駄だ。あの頑固オヤジをどうこうできるわけがない」
「その件は後日に取り組むとして、今日の午後の予定ですが──」
風呂屋に行こう、と教師は言い出した。その計画自体は昨日提案されていたものだが。
「こんな真っ昼間にか?」
「食事処や休憩所があるリラクゼーション施設です。そこで夜までゆったりしようかと思います。着替えは服屋でそろえましょう」
またも習一と縁遠い場所へ行くことになった。冷房のある室内で長時間過ごす分には体の負担は少ない。習一は教師の計画に乗った。
2
習一が残した昼食は銀髪の二人がたいらげた。水筒やバスケットはエリーが回収して去る。彼女は風呂屋には同行しないという。しかし、教師の着替えを後で届けるそうだ。
「あいつを使いっぱにしてていいのか? オレだったらいい加減、うんざりするぞ」
「エリーは嫌なことを嫌だと言える子ですよ。それと貴方が思う以上に彼女は身軽です」
軽業師的な運動能力は習一も認めるところだ。だがその言い方は物を運ぶための行き来が苦にならないことを指す。教師の扱うバイク以上に機敏に動ける乗り物を少女が使うようには見えないのだが。習一はこの疑問をぶつけてみたがはぐらかされた。
習一たちは服を買いに量販店へ行った。適当に安くて無難なデザインの衣類を一ひろいと、タオルを数枚選ぶ。習一は購入時に率直な疑問をぶつけた。
「あんたの着替えも買えば手っ取りばやくすむんじゃないか」
「それも考えましたが、服決めに手間取るおそれがあったのでやめました」
「なんだぁ? 買う服をすぐに決められないのか。案外、女みたいなやつだな」
「女性の迷いは『どの服が自分に似合うか』を選りすぐっての結果でしょう。私は服の良し悪しがわからないのです。ファッションセンスはありませんから」
教師は服に興味がなさすぎて選べない性質らしい。スーツ姿を見るかぎりは持ち前の容姿もあいまって、野暮ったい男性には見えない。習一はこの告白を半信半疑で聞き流した。
購入した衣類は店名のロゴを印刷した袋に店員が入れる。その袋は一時、リアボックスにしまう。そして目的の風呂屋へ向かった。この時の習一は自分が汗臭いと感じたが、前方の教師は洗剤の匂いを放っていた。
(気温がわからなくて服のよしあしもわからん、か……)
飲食も発汗も満足におこなえぬ男。彼はロボットなのではないか、とそんな仮想を思いつく。物語の世界では描かれることだ。人とそっくりな機械が人間社会にまぎれて一騒動を起こす。その行動が人にとって善であったり悪であったり、傾向はまばらだ。善人に扮した悪役のケースもある。この男は真実、どういう人物なのだろうか。
疑おうと思えばいくらでも嫌疑はかけられる。善人を装う悪人は吐き捨てるほどいるだろう。そう仮定すると、教師は習一を懐柔したあとで我欲を満たすなにかを得る。よくある目当ては金銭だろうが、習一の父が息子のために身銭を切るはずはない。そう、教師はなにも得しないのだ。習一を更生させるにせよ謀るにせよ、見返りは皆無。
(バカバカしい……大体、こいつの妹も知り合いの警官もお人好しだろ)
不満一つ言わずに教師に従う少女と、話し相手の毒気をぬく温和な警官。この二人が教師の仲間だ。人物の内面はその交友相手によって見抜けるという。全員が詐欺師ならば例外だが、習一と同年の少女に高度な腹芸はできないだろう。習一は疑心暗鬼を頓挫した。
到着した風呂屋はあまり大きいという印象のない建物だ。和風の建築物の中は小奇麗な宿泊所のようでもあった。二人は脱いだ靴を下足箱に入れる。教師が受付の店員に話しかけ、財布から紙切れを出した。それは紙幣ではなくこの店の回数券だ。
「ここによく来るのか?」
「いえ、初めてです。回数券は譲ってもらいました」
教師は提供者には言及しなかった。習一はその人物をなんとなく、自分に食事を用意してくれる人たちだと思った。二人は空気の冷えた店内を進む。手ぶらの教師は「エリーを待ちます」と別行動をし、習一は一人で男湯ののれんをくぐった。脱衣場のロッカーに荷物を置く。新品の衣類の包装を外し、風呂あがりにすぐ着れる準備をした。脱いだ服は服屋でもらった袋に詰める。教師が「着ていた服は袋に入れて、あとで私にください」と言ってきたのだ。衣類を洗濯して返すという申し出を受けて、習一は口答えせずに従った。
必要かどうかわからないタオルを一枚持って浴場に入る。しかし大多数の利用客が局部を隠さずに奔放にしていた。風呂屋側のルールでは「タオルを湯船につけないでください」とあったので、タオルを持ち込まないほうが望ましいのかもしれない。
習一はまず全身にシャワーを浴びた。備え付けの液体石けんで体を洗い、汚れが落ちたあとで湯船を選ぶ。内湯には人が多くいたので露天へ行き、無人の壺湯に入った。巨大な壺の中に入る経験はついぞない。人体が沈むごとにあふれ出る湯をじっと見ながら、肩までつかった。湯に入れられないタオルは頭に乗せる。規則を破っても今さら習一は気にしないが、現在は生真面目な保護者がいる。穏便に過ごせるよう心掛けた。今の己の格好がよくある入浴者のスタイルと同じになったことに、しばらく経ったあとで気付いた。
絶え間なく湯を注ぐ竹筒を眺めた。時間の流れが遅くなったかのような現実離れした空間にいる。のぼせてきた気がすると浴槽をあがった。次に底の浅い風呂へ入り、高所より落ちる湯を肩に当てる。まだ明るい空を見つつ、体の熱がゆるく下がるのを待った。
近くの露天風呂からじゃぶんと音が鳴る。誰か入浴したと思った習一が見てみると例の教師だった。彼も頭にタオルを置いていた。外国人風の者には稀有な姿である。サングラスはかけておらず、青い目が露出する。西洋人の特色らしき瞳の色だ。習一はなぜか体がすくんだ。
「風呂を利用されているようでなによりです」
異人が視線を逸らした。習一への関心はとぼしい。浴場では習一と行動を共にしないようだ。習一もこの状況下で他人が付きっきりにいられては気色が悪い。教師の心中を推し量り、習一は屋内の風呂へ向かった。内湯は茶色の湯が張られ、薬湯のおもむきがある。客入りの良さからうかがうに、体によい成分があるのだろう。習一は健康をおもんばかって人々の隙間にもぐりこんだ。湯から微妙な鉄の匂いを感じる。あまりいい香りではないな、と思い、長居をせずに上がった。シャワーを浴びて風呂の湯を流し、脱衣場に行く。新品の乾いたタオルで体を拭いた。下半身だけ服を着て扇風機の風に当たる。湯上りに出る汗がおさまった頃にシャツを着た。そのまま脱衣場を出ようとした時、呼び止められる。
「オダギリさん、髪がぬれていますよ」
習一が振りむくとそこに半裸の教師がいた。首にタオルをかけた状態だった。
「ほっときゃ乾くだろ」
「衛生的に良くありません。ドライヤーを使いましょう」
習一が教師の提言を無視してのれんに手をかけた。その手首を浅黒い手がつかむ。
「ものの数分で終わります。ついてきてください」
教師の連行を食らい、習一は洗面台の前に座った。壁に設置した大きな鏡が後方の教師の所作を映す。彼はドライヤーの機械音を鳴らし、生ぬるい風を習一の髪に当てる。風に煽られて動くのは脱色した髪の部分。黒い根元は染髪した部分と明確に色が分かれていた。
「髪が伸びていますね。風呂屋を早めに出て、散髪しに行きますか?」
「今日はもういい。疲れた」
「わかりました。せっかくですし、今日はここでゆっくりしていきましょう」
鏡ごしに見える教師の顔は穏やかだ。彼はどんな思いで縁もゆかりもない子どもの世話をするのだろう。習一は黙って人工的な風を頭部に受け続けた。
3
学校の補習を受ける日になった。今日も銀髪の教師は習一に同行する。制服に着替えた習一が玄関を出てすぐに銀色の頭髪を発見した。今日の彼は薄黄色のネクタイを首に巻き、銀色のタイピンでシャツに留めている。そのタイピンには三粒のカラーストーンがはめてあった。一般的に見ないデザインだ。オーダーメイド製の品だろうか。
「オダギリさん、おはようございます。これから三日間の補習、私が同伴します」
決定事項を復唱された。習一はうなずく。昨日一昨日と教師と共に過ごした経験上、特筆すべき彼への不満は抱かなかった。この後の数日も似たようなものだと楽観視した。
補習の開始時刻より早く教室へ入る。無人の一室で、習一は教師に手渡された朝食を口にした。朝食は昼食の弁当と一緒にトートバッグに入っていた。昨日の朝食と同じメニューだが、それで充分である。おにぎりは毎日食べても飽きないし、なにより味付けがうまかった。料理下手な習一の母親ではこの品質を毎日保てまい、と胸の内で比較した。
習一に同行する教師は来客用の玄関を通って補習の会場へ来た。学校の備品のスリッパをペタペタ言わせて歩く様子は少し不恰好だ。しかし彼がスリッパの音や形状に不満を募らせる素振りはない。ただ一言「歩きづらいですね」とスリッパを履いた足を上げてみせる。底の長さが足りず、かかとがはみ出ていた。
廊下がガヤガヤと人の話し声や靴音でにぎやかになる。生徒が登校しているのだ。この高校は進学校なだけあって夏休みも一定の期間、授業を行なう。単位や成績には関係しない、気楽な内容だ。しかし休みを返上しての学習には意欲が削がれる者がおり、名門への進学を考えない者は途中で抜けることもあるようだった。
習一のいる教室に生徒が二人入室する。親しげな男女は習一と他校の教師を一目見て表情を凍らせた。当然の反応だ。校内一の不良と見知らぬ男性が同室者なのだ。習一はそっぽを向き、男女に対して無関心でいた。銀髪の教師は男女に軽く挨拶をする。
「私はオダギリさんのお目付け役です。私たちのことはお気になさらず、補習を受けてくださいね」
教師は親切極まりない声色で、おびえ気味の生徒をなだめた。彼らはとなり合った席に着く。女子のほうはちらちらと習一のいる席に視線をやったが、習一は無視を決めこんだ。
室外の喧騒が落ちつき、補習を行なう教師がやって来る。習一とは気の合う社会科担当の掛尾だ。色黒の教師が中年に一礼する。
「カケオ先生、今日から三日間の補習をよろしくお願いします」
「それじゃまるでシド先生が補習を受ける生徒みたいじゃないか。まあ、先生のことは他の教師にも言ってある。フツーにしててくれればいい」
掛尾は続いて補習と課題の説明をした。補習は掛尾以外の教師も担当する。課題は今週中に掛尾に提出する。赤点のない科目の補習は受けなくてよい──三つめの説明は習一以外の生徒に向けた言葉だ。期末試験を受けなかった習一は全日補習を受けねばならない。
補習がはじまると掛尾はプリントの問題文に補足したり、空欄の答えを生徒に質問したりする。習一は事もなげに答えるが、男女はしどろもどろに誤答を発していた。
二時限分の授業を終えると掛尾は退室した。次に来た教師は習一の担任だ。年かさは四十近い三十歳代だというが精神的な年齢は銀髪の教師より低い。相手は無表情を繕いつつも、棘のある視線を習一と銀髪の教師に投げる。習一は極力担任の顔を見ないようにした。
担任は一時間だけ教鞭をとり、昼までの残り一時間は別の教師がおこなった。科目内容は同じである。掛尾のように二時間続きでやればいいものを半分を他人に任せた。好意的に見れば他の授業の都合で抜けたのだろうが、落ちこぼれの面倒を看たくないというのが習一の見立てだった。
昼休憩の時間になり、習一は弁当を机の上に出した。さりげなく銀髪の男を見ると彼はノートに何か書き付けている。その文字列は黒板に書かれた文言と解説者の余談だった。
「あんたが、なんで生徒の真似事をする?」
「せっかくですから復習させてもらいました。生徒の立場になるのは希少な体験です」
ひとたび教員免許を取ってしまえば高校レベルの学習は不要ではないか、と習一は思った。この勤勉な教師に「変人だな」と感想をもらす。
「こんなもん、あんたにゃいらねえ知識だろ」
「なにごとも学んで無駄になるものはありませんよ」
もっともらしいことを教師は言う。習一は聞き流して昼食に手をかけた。その時、がらがらと教室の戸を開く。開けた者は同じクラスの男子生徒だ。白壁という、成績優良児ではないが赤点を取るほど学が無いわけでもない男だ。
「おお、ちゃんといるんだな!」
そこそこに体格の良い男子が鞄を提げて入室する。彼は習一の隣席に鞄を置き、サングラスをかけた男に握手を求める。
「おれは白壁といいます。あなたがシド先生ですね。お噂はかねがね聞いています」
教師は戸惑いながらも白壁の手を握った。白壁はさらにもう片方の手で教師の手を固く握る。熱のこもった歓迎だ。男子の両手に解放された教師は不思議そうに相手の顔を見た。
「どなたから私のことを聞きましたか?」
「先生が補習に来ることは掛尾先生に聞きました。先生自体は以前から知っています」
白壁は得意気な笑顔で着席する。教師が「才穎の生徒とお知り合いですか」と尋ねるとうなずき、「センタニさんのご友人でしょうか」と言われると目を見開く。
「どうしてあいつとおれが友だちだとわかるんです?」
「お二人に通じるものを感じました。センタニさんも礼儀正しく武芸に長じた生徒です」
「おれが武芸家だとわかるんですか?」
「立ち居振るまいを見ると、ある程度はわかります」
白壁がなにやら感動した様子で「先生は評判通りの人みたいですね!」と嬉々として言った。彼は教師目当てで来たのだと習一は判断し、黙々と弁当を食べる。自然と耳に入ってきた会話をまとめると、白壁には才穎高校に通う古馴染みが最低二人いる。教師が言うセンタニとは別に女子の友人もいて、彼女がシド先生なる英語教師について情報提供していたという。シドという若手教師がいかに強く、優しく、かっこよく、そして底知れぬ怖さを持つかを聞かされたそうだ。「怖い」の部分は習一の興味を惹いた。
「『怖い』っつうのは、どういうところを指してるんだ?」
白壁が意外そうに口ごもる。
「え……それは、小田切さんが一番よく知ってるんじゃないか?」
習一は田淵が知らせた事件のことだと理解した。だが習一自身が女子相手に喧嘩をする事態はめずらしい。白壁の知人女子は別件を述べているのではないかと思った。
「そういや、記憶がところどころ抜けてるんだっけか。忘れてるほうがいいのかもな」
白壁は具体的な教師の怖さを述べない。本人がいる手前、軽々しく言えないのだろう。習一は自身の不良仲間も銀髪の教師に畏怖したことを思い出して、質問は重ねなかった。
4
午後の補習が終わる。習一は用済みの課題プリントを掛尾に提出して校舎を離れた。多くの生徒は午前中に授業を終えて帰宅したが、校舎には部活動に励む生徒がまだ残る。目立つ銀髪の教師への注目を集める前に立ち去りたかった。習一は正門で教師と合流する。
「夕飯にはまだ時間があります。少し時間をつぶしましょうか」
教師は習一に行きたい場所の有無を尋ね、習一はつっけんどんに「ない」と答える。すると教師は予想外な行き先を提案した。
「ゲームセンターに行きましょう。欲しい景品があります」
「あんたが? 本当に?」
「正確には他の方がほしがっている物です。以前に挑戦してみて、全く取れなかったと言っていました。オダギリさんはクレーンゲームが得意ですか?」
「いや……あんまりやらない。ほしいと思うもんがなくってな。観戦ばっかりだ」
「そうですか。得意でしたら貴方に代行してもらおうかと思っていましたが」
「あんなもん、店側がゲットしにくくしてるに決まってる。絶対取ろうなんて思うなよ」
「はい、引き際をわきまえます」
真面目くさった受け答えをする輩がゲームにヒートアップする光景は想像できない。習一は不要な助言を与えたと思った。二人は習一が通い慣れた遊興所にたどり着く。二階建ての施設からもれる音が街路にも伝わっていた。教師は一階にあるプライズコーナーにまっすぐ向かう。その的確な歩行は、ここは彼が初めて訪れた場所ではないことを意味した。
「プレイしたこと、あるのか?」
「こちらの店では一度もありません」
「そのわりには迷いがないな」
「下見は行ないました。景品の形状と取り方の種類を知ると事前の対策が楽になります」
「たかがゲームにも予習かよ」
「女子供に景品を渡さないゲーム相手です。生半可な気持ちで挑めば玉砕必至でしょう」
つまり教師に泣きついた人物は女性か子どもだ。その無念を晴らすことに彼は静かに躍起になっている。つくづく他人のために生きたがる男なのだと習一は呆れた。
景品を押しこめたゲーム機には種々様々なグッズが並ぶ。人気のある漫画およびゲームのキャラクターを模した人形やぬいぐるみのほか、市販の菓子を景品仕様にした大型の菓子などが取得対象だ。教師はクレーンを操作する台に手を置いた。そのゲーム機の景品は長方形の箱だ。箱の中身は忍者らしきデザインの人形。手に鉤爪を装備した覆面男である。
「忍者……? なんの作品のやつだ」
「幕末を舞台にしたアクションゲームだそうです。家庭用ゲームなので、ゲームセンターでは遊べないようですね」
教師は丹念に景品と景品の落下口をいろんな角度から見た。この機種は左手前に大きな穴があり、右側には幅の細くなった穴が設けられ、景品が橋のように穴の上に横倒しで置いてある。プレイヤ―の正面に見える箱の底の幅は右側の穴より大きく、細い穴からは落とせない仕組みだ。二本脚のアームの出入り用に空けた穴らしい。穴と景品の間には小さく切った段ボールが敷かれ、赤字で線と「初期位置」の文字が書いてあった。店が提示する初期位置と現在の景品の位置はずれており、二センチほど左の大穴に近い。
「ここまで運んで、諦めた人がいるのですね。普通にやっても動かせないのでしょう」
教師は小銭を出して投入する。正攻法ではかなわないと宣言した通り、真っ正直にアームで景品をつかむ方法はとらない。箱の端に落下するアームの先端を押し当てたり、アームをわざと景品の上を通りこして左右に開くアームの動きで押し出したりした。だが目に見えての進展はなく、箱が傾いても元通りの位置に戻るか、アームが箱の重量に負けて逆に押し返されていた。雲行きが怪しくなってきたものの、プレイヤーの表情に変化はない。
初期投入から景品獲得のチャンスが残り一回になり、彼は深い息を吐いた。
「……今から見たことは、他の人には黙っていてください」
小声で発した言葉はゲーム機が鳴らす音に半分かき消された。かろうじて聞こえた要求を習一が理解した時、漫然とした意識を正す。教師の最後のプレイは景品を正直につかみに行った。倒れた箱の側面をアームの両端が引っ掛ける。箱が斜めに持ちあがったが力の弱い腕は箱を置いて定位置に戻ろうとする。その時、アームと箱の接触面に黒い影が伸びた。
「え……?」
習一は初め、猫が忍びこんだのかと思った。黒猫が景品の出入口に侵入してゲーム機の中にいると。しかし違った。機体をどの方向から見ても棒状の黒い物体が穴の下から伸びるのみ。生き物の胴体や頭は発見できない。謎の黒いものは役立たずのアームの代わりに箱を支え、落下口まで動かす。カコン、という落下音が響き、教師は目的物を手にした。
「なんとか取れましたね。汚れないうちに届けに行きましょう」
異常などなにもなかったかのように教師は場を離れる。習一は本当の景品の取得者について問い詰めたが、教師は決まり文句の「記憶が戻ったあとで話します」でお茶を濁した。
怪奇現象を目の当たりにして習一は心中穏やかにいられず、教師に詰問を続けるも効果はなかった。ゲームセンターを発ったあと、教師は先ほどの現象をはぐらかすようにゲームに興じた経緯を説明した。教師は忍者の人形を求める人物に会ったことがなく、その人物がほしがるからあげたいと言った依頼主が彼の教え子だという。この教え子こそが習一に食事を用意する一家の娘であり、習一が夕飯に相伴させてもらう家の者だ。
「私は彼女から多大な恩を受けています。少しずつ、恩に報いたいのです」
教師は作り物の忍者の顔を見つめる。習一は意地悪い指摘を一つ思いついた。
「どんな不正をやってでもか?」
教師は顔を上げた。その顔は習一を見ないで、前方を見据える。
「たしかに先程、ズルをしました。褒められた行為ではないと思います」
「あんたを責めはしない。店が根性の悪い設定にしなきゃ、やらずに済んだだろうしな」
教師がいくらか話を聞く姿勢になった、と踏んだ習一は棄却された質問を繰り返した。
「あの時に出てきた黒いやつは何者だ? あとで話すんなら今教えてくれたっていいだろ」
「失くした記憶がもどればわかりますよ。貴方は以前に同じものを見たのですから」
「じゃあ、さっきのやつをもう一度見せてくれ。それで思い出すかもしれん」
「今はできません。別の場所へ移ってしまいました」
「そいつは生き物なのか?」
「ええ、そうです。いずれきちんと教えます。焦らないでください。貴方は他に解決すべき問題を抱えているのですから」
答える気がないなら思わせぶりなものを見せなければいいのにと習一は心の中でこぼした。教師は遊興に慣れた習一の助力を期待したのだろうが結果的に居なくとも同じだった。
5
教師の案内により、習一は小山田と書かれた表札のある一軒家を訪問した。玄関の靴箱の上に花が飾ってある。オレンジやピンク色などの明るい色調の花びらが印象的だ。
「この花、もしかして……病院でもらった……」
「貴方がエリーにあげた花です。少し数と花弁が減りましたが、まだ咲いています」
「オレがもらってから一週間くらい経ってるぞ。この暑さでよく傷まないな」
「こまめに手入れをすると夏場でも長持ちするそうですよ。切り花を延命する道具もあるといいます」
二人が話していると家の者が一人、廊下に現れた。長い黒髪をポニーテールにまとめた、目つきの鋭い少女だ。習一はその顔立ちに既視感を覚えた。教師が少女に会釈する。
「オヤマダさん、お邪魔します」
「はーい、先生もオダさんも遠慮なく入ってね」
眼孔に似合わず、声音は柔らかい感じがした。年齢的に彼女が教師の教え子なのだろう。女子生徒は教師の手中にあるパッケージを見て笑顔になる。
「先生はなんでもできるんだね」
「実力では取れませんでした。最後にあの子に助太刀をしてもらって得たものです」
「そういうのもできるの? 景品が取れ放題になっちゃうね」
吊り目の女子は教師の異能力を容認する。習一は知らない事情を把握しているのだ。
(こいつから聞き出すのもアリ、か?)
口の堅い教師に代わって情報源となりうる相手だ。習一が彼女の長い黒髪をじっと見つめると不意に黒い粒がにゅるっと出現した。目をこらすと粒はすぐに無くなる。
(なんだ? あの教師が呼んだのと同じやつか?)
聞いても教えてくれそうにない異常について、習一は胸に秘めておいた。
銀髪の男は景品の話を続け、ズルはしたくない、と告げて女子の同意を得る。
「お店が立ちいかなくなったらまずいもんね。こういう頼みごとはもうしない」
この生徒も我欲がとぼしい性分らしい。習一の不良仲間の田淵なら、元手が少なく済むほど転売でぼろ儲けできると言って飛びつきそうな話題なのだが。
(育った環境の差かね)
玄関先に活けた切り花への丁重な扱いといい、この家の人々は習一の身近な人間とは異なる気がした。同時に、彼女らと親しい教師は詐欺師とは程遠い人物だと認めた。
三人はふすまを開けた先の和室に入る。冷房の利いた畳の部屋には長方形の木製のちゃぶ台が据えてあった。ちゃぶ台の周りに並べた座布団に習一と教師は座る。案内主は立ったまま、習一から弁当の入ったトートバッグを受け取った。
「冷たいジュースを飲む? それともお茶?」
「冷えた茶がいい」
了解した女子生徒は教師に飲料の希望を聞かなかった。習一は、彼女が教師の好みの飲み物を事前に承知しているから聞く必要がないのだと見做した。
束ね髪の女子は戸を開けっ放しにした隣りの台所へ行った。ほどなくして氷と茶を注いだガラスのコップを持ってくる。茶は一杯のみ。習一はこの対応がしっくりこない。二人の客のうち、片方のみをもてなす行為は非常識だ。
「この教師の分は?」
習一が他者の処遇を気にかけると女子の目に丸みが帯びた。予想外の言葉だったらしい。
「私の分はいりません。オダギリさん、お気遣いありがとうございます」
「……礼を言うことかよ」
顔に熱を感じた習一は冷茶をがぶがぶ飲んだ。昨日の昼食時のような渇きは感じていない。身体を冷やす目的で摂取した。空のコップをちゃぶ台に置くと女子が回収する。
「体にいいジュースがあるよ。飲んでみてね」
二杯めに赤紫色の液体の入ったコップが現れた。習一が一口飲むと少し酸味がある甘いジュースだった。なにかの果物から抽出した飲料水らしいが、習一は特定できなかった。
客をもてなし終えた女子が座り、机上に置いた忍者の箱を検分する。
「これがフィギュアかぁ。忍者好きな外国人でなくってもいいなーと思うね」
「オヤマダさんの分も必要でしたか」
「そんなことないよ。スペースをムダにとっちゃうし、掃除がめんどくさくなるし」
そう言いつつも小山田は忍者に熱い視線を送った。欲しいことは欲しいのだと見てわかる顔だ。その面構えを最近目にしたような、という習一の思いが口に出た。
「どこかで見た顔なんだよな……」
「テレビで見たんじゃないかな。アイドルの樺島融子と似てるってよく言われる」
「いや……近頃、直接見た覚えがある。あんたの顔そのまんま、じゃない気はする」
習一の疑惑に対して教師が「ノブさんのことですね」と答える。
「三日前にお好み焼屋へ行ったでしょう。あの時の中年の店員がオヤマダさんの父です」
言われて習一は和風の飲食店での出来事を思い出した。教師と親しげだった恰幅のよい中年男性。あの男も鋭い眼孔を有したが、人となりは明朗かつ善人の雰囲気があった。
「ああ、そうか。オレの弁当はあの人の娘が作ってるんだったな」
両者の目鼻立ちは共通する。輪郭には男女の差があり、娘はほっそりしたキツネ顔だ。「顎のあたりは似なくてよかったな」といつもなら腹の中に留める感想がついて出た。父似の女子は不満たらたらに「全部お母さん似がよかった」とむくれる。母似な習一は自分の遺伝が微妙に肯定されたような心持ちになった。
「そうそう、このゲームを一緒にやってみる?」
小山田は人形の箱をつつく。その景品の原典は家庭用ゲームだと教師が紹介していた。
「時間制限は晩ごはんができるまで」
「お前と対戦するのか?」
「いんや、コンピュータ相手。オフラインならボコボコに負けることはないからさ」
家の中で遊ぶテレビゲームは久しぶりだ。父親と隔絶する前は自宅にもあった。素行の良好な友人と共だって熱狂したことも、むなしく脳裏に浮かんだ。テレビとその台に収納した現行機の電源が入る。習一は小山田が手渡すコントローラーを物珍しそうに触った。
「物語を追っていこう。まだ進めてない話が残ってる」
「このゲームを買って、日が浅いのか?」
「けっこう前に貰ったものなんだけど、お店の手伝いがあると時間がね……」
「手伝い? 父親と同じ店か?」
「ううん、オカマオーナーのお店。オダさんはシド先生と食べに行ったんでしょう」
通算、教師とは二箇所の喫茶店を利用した。一つはチェーン店、一つは独自の店構えと経営スタイルの店だった。どちらもオカマという個性的な店員が勤労していた覚えはない。
「食パンやらサラダやらが食べ放題の店か? あそこにオカマなんていたのか」
「背が高くて、胸がバイーンと出たウェイトレスは見なかった?」
「いたけど……あいつが、男?」
妖艶な給仕だった。あの柔弱な身体は男性特有の骨ばった体躯とかけ離れているのだが。
「そう、あの外見でタマ付き」
小山田は習一の混乱をよそに、コントローラーを操作してゲーム画面を切り替えていく。彼女があれやこれやとプレイ上のアドバイスをするものの、助言は習一の耳を通り抜けた。
6
習一は二十分近く、人形と同じ忍者を操った。忍者の背中を見続ける三人称視点にて、ゲームの操作感に少しずつ慣れてくる。画面を上下二分割にしての二人同時プレイはアーケードゲームでは見ない遊び方であり、新鮮味があった。
小山田は母親らしき人物に呼ばれた。ゲームを中断し、コントローラーを教師に渡す。教師は経験がないからと拒んだ。だが「食わず嫌いはよくないよ。これも勉強!」と押し切られ、教師は彼女のプレイを引き継いだ。彼の担当の画面は弓使いの手と武器が画面に映る一人称視点。任意に視点を切り替えられる仕組みだが、彼はそのまま弓使いを動かす。左右に歩く、その場で跳ねる、矢をつがえて撃つ動作を一通り試した。弓矢の攻撃は高い命中率で敵に当たる。その精度はゲームの持ち主である小山田と同格かそれ以上だ。
「未経験ってウソだろ?」
「いえ……オヤマダさんのお手本を見たおかげで少しできるようです」
「じゃああれだ、シューティングはやったことあるんだな」
「いえ……関連する経験というと、弓術を習ったことでしょうか」
本物の弓の腕前がゲームにも反映されるという発想を、習一はにわかに信じられなかった。かと言って教師が隠れゲーマーなようにも見えず、とりあえず射撃の話題は不問にしてゲームを進行した。一戦が終わると教師は「続けますか?」と習一に尋ねる。
「んー、やめとくか。あんたはこういうの、嫌いなんだろ」
「嫌い、ではありませんが……オダギリさんの楽しみが減ってしまうのではないかと」
「あんたの腕なら足でまといにならねえよ」
習一は教師にプレイ続行をもとめた。ここでゲームを終了させると夕飯までの過ごし方がわからない。かと言って一人でゲームをやれば自分のスキルの荒さをつぶさに観察される。ならばこのまま時間がくるまで二人プレイをしたら精神的によいように思えた。
戦場を踏破すると、カチャカチャと陶器がこすれ合う音が鳴った。小山田が取り皿と料理を手にしてやってくる。もうじき夕飯だと知った習一たちは遊戯をやめた。機器を元あった状態に片付ける。食事のジャマになる人形はテレビの脇に移動させた。食卓に現れた夕飯の菜は大皿にのった煮物、唐揚げ、サラダ。豆腐がのった小皿は四つあった。この家の住民は最低三人いる。台所で料理を作る女性と、それを手伝う娘と、娘の父。晩餐に加わる習一の分を合わせて四つ。教師の食べる分は除外してあるらしい。
「ばーちゃん、ご飯よそってくれてありがと」
小山田は新たな人物の存在を示唆した。彼女は横長の楕円の盆を持って居間に入る。その後ろに腰のくだけた老婆がついてきた。足首の布地がきゅっとしまったもんぺを履いた老人だ。まぶたが垂れた老婆は銀髪の教師の隣にためらいなく座る。家族ぐるみの親交があるのか──と習一が思いかけた時、「ノブさん」と老婆は教師に話しかける。
「今日のノブさんはお仕事が早くおわったんだねえ」
老婆が呼ぶ人名は教師の固有名詞ではない。教師の言によれば、老婆の息子にあたる人物の呼称だ。背丈だけは共通する両者を混同しているというのか。
「今日は仕事が休みでした。ところでノブさんは家で夕食をとらないのでしょうか?」
「ノブは遅番だよ。日がかわる前に帰ってくるかねえ」
老婆は奇妙なことに質問された息子の状況について普通に答える。教師をノブ自身だと思いこむ痴呆状態ではないらしい。老婆は習一を一目みて「おやまあ」と柔らかく驚いた。
「かわいらしいマサさんだこと。キリちゃんのお友だちかい?」
「マサ」の名が己を指すことを習一は理解できたが、どう返答してよいやら困惑する。すかさず教師が会話に入った。
「この男の子の名前はオダギリシュウイチさんです。お孫さんの学友ではありませんが、夕食にご相伴させてください」
「そうかい。じゃあシュウくんだね」
老婆は習一の略称を名付けた。習一はあだ名で呼ばれることに抵抗はないので、訂正はやめた。少なくとも他人の呼称よりは確実に良い。
「たーんと食べておいき。今はノブがいないから食べそびれることはないよ」
横幅のあった中年は見た目にたがわず大食漢のようだ。彼が同席する食事の際は出方をうかがって食を抑えべきか、と習一は注意事項を思いついた。
老婆が喋る間、小山田は白米の入った茶碗を食卓に並べおえて台所に行った。次に湯気のたつ黒塗りの茶碗を運び、同様に並べる。茶碗は五つあった。
「お吸い物は先生も飲んでね。具はわたしが切ったよ」
汁物の中には刻んだネギと油揚げが浮かぶ。小山田は再び台所に行き、彼女と入れ替わりで母親らしき中年の女性が来る。おそらく四十代なのだろうが、少々幼い感じの丸い目と皺のないふっくらした頬が実年齢以上に若く見えた。教師が女性に一礼する。
「ミスミさん、お食事の用意をしていただいてありがとうございます」
「いえいえ、だいぶお待たせしちゃったわね。さ、ご飯を食べましょう!」
ミスミは食卓に重ねた取り皿を配布し、皿に箸をのせる。箸が行きわたるとカラフルなプラスチックのお椀にサラダを盛って配る。そのどれもが教師の分を省いていた。
「シド先生のご飯は娘が用意してるの。もう少し待っててくださいね」
「はい。皆さん、どうぞお先に召し上がっていてください」
教師と小山田を除く夕飯が始まる。習一はじっとミスミを見た。キツネ顔の娘とは全く方向性の違う造形だ。どう見ても娘は父似だとわかる。父親と娘を並べれば尚そう感じるだろう。それが子を宿せぬ父親にとってどれほど喜ばしいことか、娘にはわかるまい。
(ブサイクでもねえのに顔に文句言うなんざ、ぜいたくだ)
小山田が「母親に似たかった」と言うのも一理あり、ミスミは美人の部類だ。より多くの人が好むであろう優しげな顔である。とはいえアイドルと似るという小山田も、間接的だが世間一般が認める顔立ちのはずだ。彼女が父似の顔を嫌悪する理由には美醜以外の要因がある。それがなんであれ、父の実の子という証を持つ者を習一はうらやましく感じた。
「習一くん、で合ってる? ガーベラをくれてありがとう」
物思いにふけっていた習一は急に話しかけられて驚いた。そして耳慣れぬ単語に戸惑う。
「え……ガーベラ?」
「玄関に飾ってある花のこと。エリーちゃんが持ってきてくれたの。あなたが『花好きの人に渡して』と言ったから、うちに届けてくれたんですって」
確かにそんなことを言った気がする、と習一はおぼろげに思い出した。適当に発した依頼を、エリーは完璧に遂行したのだ。普通の人では夏場の一週間、切り花を咲かせ続けられなかっただろう。花の知識がない習一はその長生きの秘訣が気になった。
「あの花……どう世話したらあんなに長く咲けるんだ?」
「えっと、花束を受け取った時は少ししおれていたから、水をたくさん吸わせて元気にさせたの。一本ずつ新聞紙でくるんで、水を張ったバケツにいれて半日置いて……」
ミスミは切り花の生け方を語る。おおよそ習一の理解が及ぶ分野ではないが、手間暇をかけて花を生き永らえさせていることは伝わった。生け花講義の最中に小山田が現れる。手に箸とおにぎりをのせた皿と、輪切りにした野菜を盛った皿がある。
「はいこれ、先生のご飯。足りなかったら言ってね。漬物はまだまだあるから」
「充分です。ありがたくいただきます」
教師は箸を親指と人差し指の間にはさみ、両手のひらを合わせた。外国人のくせに日本の風習に律儀だ、と習一は内心つっこんだ。彼専用の漬物は点々とぬかが付いている。それを見ていると小山田が「食べたい?」と聞く。
「うちの糠漬け、わたしとお母さんとお婆ちゃん制作の三種類あるよ。味見する?」
「いや、いい。お前の夕飯が冷めちまう」
「あ、けっこう気をつかってくれてるんだね」
小山田は空いた座布団に座る。彼女が教師や母親との会話を弾ませるおかげで習一は会話に加わらずに済んだ。居心地の悪さはなかったものの、不和を匂わせない人物交流のありようは習一の目には奇異に映った。
正午を過ぎたころ、習一たちは動物を見終えた。近くの公園に行くと手ごろな木陰に銀髪の少女が待機していた。二メートル四方の敷物の上にバスケットと水筒、そして彼女が常用するリュックサックがある。習一たちは膝を抱えて座る少女に合流した。
「今日のお昼ごはん、手作りのサンドイッチだよ」
バスケットの蓋を開けると、中はラップにくるんだサンドイッチがすし詰め状態になっていた。エリーは水筒のコップに飲み物を注ぎ、習一に渡す。
「これ、ふつうのお茶。ぜんぶシューイチのものだから、好きなだけのんでね」
習一はぐいっと茶を飲み干した。冷たい液体がさらさらと胃へ落ちるのを感じる。習一は入園以降、水を口にしておらず喉はカラカラになっていた。だがのどをうるおす機会は何度もあった。教師が自動販売機の前を通過する際に「なにか飲みますか」と尋ねたが、習一はかたくなに拒否した。熱気で汗を流す習一とは違って、教師は常に涼しげな顔をする。相手が飲料を欲さぬうちに習一が彼の厚意に屈するのは、なんだか悔しい気がした。
習一が二杯目の冷茶をコップに入れる。水筒を動かすたびに氷の粒同士がぶつかった。
「そんなに喉が渇いていましたか」
その声には渇きを自己申告しなかった者への非難はない。他者へのいたわりが欠けていたという自責の念が微量に含んでいた。習一はコップ越しの冷気を手に感じながら「あんたが気にすることじゃない」とぶっきらぼうに告げた。教師は頭を横にふる。
「脱水症状や熱中症で倒れてからでは遅いのです。私とエリーは暑さ寒さに鈍いので、私どもに合わせていては貴方の体がもちませんよ」
「寒いのも平気だと? おまえら、どういう土地で育ったんだ」
色黒な者が多い熱帯地方出身ならば日本の猛暑に耐えうるかもしれない。だが彼らは概して寒冷な気候に不慣れだ。寒暑両方を苦手とする人間はいても、逆は通常いない。
「出身地……涼しい土地だったと思います。長袖で過ごす人が多かったようですから」
「他人基準でしか判断できねえのか?」
「そうですね。おおまかに温度は感じられるのですけど、それが人体にどれほどの影響を与えるかを知るには、他者の様子を参考にしています」
「変なの……機械が自動判別する時にやりそうな方法だな」
習一は空けたコップを敷物の上に置き、手つかずのサンドイッチを手にした。前回食べたサンドイッチは白いパンだったが、今回は茶色の焦げ目がついている。
「今日は時間によゆうがあったからトーストしたの。前よりおいしくなってる、のかな」
エリーはリュックサックの中を探ってタンブラーを二つ出した。
「これはわたしたちのごはんね」
一つを教師に手渡した。タンブラーの容量は目測五百ミリリットル。それだけで大の男の腹が満たせるとは思えない。
「サンドイッチも食うんだろ?」
習一が教師に尋ね、「いくつかはもらいます」と返答があった。しかし銀髪の彼らがバスケットに手を伸ばすことはなく、飲料を飲むだけだ。
「この少食ぶりで、よくそんな図体になれたな」
「体型と食事にも少々事情がありまして。後日お教えします」
今は話せないというお決まりの文句だ。習一は軽く流した。話題変えなのかエリーが動物園を見物した感想を習一に聞くので「真夏に動物園に来るもんじゃない」と答えた。
「シューイチ、暑くてつらかったの?」
「オレはまだ平気だ。動物がどいつもこいつも、だらけていやがった」
暑さにやられ、猛獣の長たるライオンや虎までもが地べたをごろついた。その様子には威厳が欠片もない。想像にたがわぬ生活を保ったのは元々の動きが緩慢なゾウやプールがあるペンギンなどに限定され、それ以外の動物は気だるそうだった。本日は曇天であり、比較的気温が低いため過ごしやすいのだが、毛皮をまとった動物には些細な差のようだ。
「元気な動物を見るには適さない時期だったのかもしれませんね」
教師は習一に同調した。
「私はのんびりした彼らを見るのも楽しめましたが、貴方は物足りませんでしたか」
「さあ……動物園はあんまり来ないところだからな。退屈はしてない」
習一は次々に用済みのラップを丸めて自身の足元に並べた。サンドイッチの具材は前より種類が豊富になり、あぶった鶏肉を小さく切ったタイプが一番美味だった。その評価をぽろっと口に出すとエリーが「やっぱりミスミは料理上手なんだ」と言う。
「ミスミ、てのはだれだ?」
「シドがシューイチのごはんのたよりにしてる人。もう一人、てつだってくれてる人がいるんだけどね。そうそう、明日から三日間の夕飯もミスミがつくってくれるって」
少女の説明を教師が引きつぎ、学校の補習を終えた夕方はオヤマダという家へ訪問して夕食をとると言った。朝昼の食事もオヤマダ家の者が用意するのだと教師は述べる。
「オダギリさんの口に合った家庭料理のようですし、問題はないと思います」
「その家の連中はあんたの教え子の父兄……なんだろ。教師が個人的に自宅訪問していいのか?」
「校長の許可が下りていますから公認です」
「オレのことを、才穎の校長に?」
「はい。校長もオヤマダさんたちも、貴方への支援には協力的です」
「物好きがいるもんだな。補習が終わった後は……オレとそいつらの縁は切れるのか?」
「どうでしょうね。状況に合わせて、また食事の用意を頼むかもしれません。補習を終えて片が付くことは学校の事情だけです。家庭のほうは手つかずですから」
言いにくいことをぽんぽん言うやつだ、という思いを習一は胸の内にとどめた。一番の問題は満足に食事もできない家庭環境にある。
「私は一度に複数のことをこなせません。家のことは補習を終えたあとで考えましょう」
「考えたって無駄だ。あの頑固オヤジをどうこうできるわけがない」
「その件は後日に取り組むとして、今日の午後の予定ですが──」
風呂屋に行こう、と教師は言い出した。その計画自体は昨日提案されていたものだが。
「こんな真っ昼間にか?」
「食事処や休憩所があるリラクゼーション施設です。そこで夜までゆったりしようかと思います。着替えは服屋でそろえましょう」
またも習一と縁遠い場所へ行くことになった。冷房のある室内で長時間過ごす分には体の負担は少ない。習一は教師の計画に乗った。
2
習一が残した昼食は銀髪の二人がたいらげた。水筒やバスケットはエリーが回収して去る。彼女は風呂屋には同行しないという。しかし、教師の着替えを後で届けるそうだ。
「あいつを使いっぱにしてていいのか? オレだったらいい加減、うんざりするぞ」
「エリーは嫌なことを嫌だと言える子ですよ。それと貴方が思う以上に彼女は身軽です」
軽業師的な運動能力は習一も認めるところだ。だがその言い方は物を運ぶための行き来が苦にならないことを指す。教師の扱うバイク以上に機敏に動ける乗り物を少女が使うようには見えないのだが。習一はこの疑問をぶつけてみたがはぐらかされた。
習一たちは服を買いに量販店へ行った。適当に安くて無難なデザインの衣類を一ひろいと、タオルを数枚選ぶ。習一は購入時に率直な疑問をぶつけた。
「あんたの着替えも買えば手っ取りばやくすむんじゃないか」
「それも考えましたが、服決めに手間取るおそれがあったのでやめました」
「なんだぁ? 買う服をすぐに決められないのか。案外、女みたいなやつだな」
「女性の迷いは『どの服が自分に似合うか』を選りすぐっての結果でしょう。私は服の良し悪しがわからないのです。ファッションセンスはありませんから」
教師は服に興味がなさすぎて選べない性質らしい。スーツ姿を見るかぎりは持ち前の容姿もあいまって、野暮ったい男性には見えない。習一はこの告白を半信半疑で聞き流した。
購入した衣類は店名のロゴを印刷した袋に店員が入れる。その袋は一時、リアボックスにしまう。そして目的の風呂屋へ向かった。この時の習一は自分が汗臭いと感じたが、前方の教師は洗剤の匂いを放っていた。
(気温がわからなくて服のよしあしもわからん、か……)
飲食も発汗も満足におこなえぬ男。彼はロボットなのではないか、とそんな仮想を思いつく。物語の世界では描かれることだ。人とそっくりな機械が人間社会にまぎれて一騒動を起こす。その行動が人にとって善であったり悪であったり、傾向はまばらだ。善人に扮した悪役のケースもある。この男は真実、どういう人物なのだろうか。
疑おうと思えばいくらでも嫌疑はかけられる。善人を装う悪人は吐き捨てるほどいるだろう。そう仮定すると、教師は習一を懐柔したあとで我欲を満たすなにかを得る。よくある目当ては金銭だろうが、習一の父が息子のために身銭を切るはずはない。そう、教師はなにも得しないのだ。習一を更生させるにせよ謀るにせよ、見返りは皆無。
(バカバカしい……大体、こいつの妹も知り合いの警官もお人好しだろ)
不満一つ言わずに教師に従う少女と、話し相手の毒気をぬく温和な警官。この二人が教師の仲間だ。人物の内面はその交友相手によって見抜けるという。全員が詐欺師ならば例外だが、習一と同年の少女に高度な腹芸はできないだろう。習一は疑心暗鬼を頓挫した。
到着した風呂屋はあまり大きいという印象のない建物だ。和風の建築物の中は小奇麗な宿泊所のようでもあった。二人は脱いだ靴を下足箱に入れる。教師が受付の店員に話しかけ、財布から紙切れを出した。それは紙幣ではなくこの店の回数券だ。
「ここによく来るのか?」
「いえ、初めてです。回数券は譲ってもらいました」
教師は提供者には言及しなかった。習一はその人物をなんとなく、自分に食事を用意してくれる人たちだと思った。二人は空気の冷えた店内を進む。手ぶらの教師は「エリーを待ちます」と別行動をし、習一は一人で男湯ののれんをくぐった。脱衣場のロッカーに荷物を置く。新品の衣類の包装を外し、風呂あがりにすぐ着れる準備をした。脱いだ服は服屋でもらった袋に詰める。教師が「着ていた服は袋に入れて、あとで私にください」と言ってきたのだ。衣類を洗濯して返すという申し出を受けて、習一は口答えせずに従った。
必要かどうかわからないタオルを一枚持って浴場に入る。しかし大多数の利用客が局部を隠さずに奔放にしていた。風呂屋側のルールでは「タオルを湯船につけないでください」とあったので、タオルを持ち込まないほうが望ましいのかもしれない。
習一はまず全身にシャワーを浴びた。備え付けの液体石けんで体を洗い、汚れが落ちたあとで湯船を選ぶ。内湯には人が多くいたので露天へ行き、無人の壺湯に入った。巨大な壺の中に入る経験はついぞない。人体が沈むごとにあふれ出る湯をじっと見ながら、肩までつかった。湯に入れられないタオルは頭に乗せる。規則を破っても今さら習一は気にしないが、現在は生真面目な保護者がいる。穏便に過ごせるよう心掛けた。今の己の格好がよくある入浴者のスタイルと同じになったことに、しばらく経ったあとで気付いた。
絶え間なく湯を注ぐ竹筒を眺めた。時間の流れが遅くなったかのような現実離れした空間にいる。のぼせてきた気がすると浴槽をあがった。次に底の浅い風呂へ入り、高所より落ちる湯を肩に当てる。まだ明るい空を見つつ、体の熱がゆるく下がるのを待った。
近くの露天風呂からじゃぶんと音が鳴る。誰か入浴したと思った習一が見てみると例の教師だった。彼も頭にタオルを置いていた。外国人風の者には稀有な姿である。サングラスはかけておらず、青い目が露出する。西洋人の特色らしき瞳の色だ。習一はなぜか体がすくんだ。
「風呂を利用されているようでなによりです」
異人が視線を逸らした。習一への関心はとぼしい。浴場では習一と行動を共にしないようだ。習一もこの状況下で他人が付きっきりにいられては気色が悪い。教師の心中を推し量り、習一は屋内の風呂へ向かった。内湯は茶色の湯が張られ、薬湯のおもむきがある。客入りの良さからうかがうに、体によい成分があるのだろう。習一は健康をおもんばかって人々の隙間にもぐりこんだ。湯から微妙な鉄の匂いを感じる。あまりいい香りではないな、と思い、長居をせずに上がった。シャワーを浴びて風呂の湯を流し、脱衣場に行く。新品の乾いたタオルで体を拭いた。下半身だけ服を着て扇風機の風に当たる。湯上りに出る汗がおさまった頃にシャツを着た。そのまま脱衣場を出ようとした時、呼び止められる。
「オダギリさん、髪がぬれていますよ」
習一が振りむくとそこに半裸の教師がいた。首にタオルをかけた状態だった。
「ほっときゃ乾くだろ」
「衛生的に良くありません。ドライヤーを使いましょう」
習一が教師の提言を無視してのれんに手をかけた。その手首を浅黒い手がつかむ。
「ものの数分で終わります。ついてきてください」
教師の連行を食らい、習一は洗面台の前に座った。壁に設置した大きな鏡が後方の教師の所作を映す。彼はドライヤーの機械音を鳴らし、生ぬるい風を習一の髪に当てる。風に煽られて動くのは脱色した髪の部分。黒い根元は染髪した部分と明確に色が分かれていた。
「髪が伸びていますね。風呂屋を早めに出て、散髪しに行きますか?」
「今日はもういい。疲れた」
「わかりました。せっかくですし、今日はここでゆっくりしていきましょう」
鏡ごしに見える教師の顔は穏やかだ。彼はどんな思いで縁もゆかりもない子どもの世話をするのだろう。習一は黙って人工的な風を頭部に受け続けた。
3
学校の補習を受ける日になった。今日も銀髪の教師は習一に同行する。制服に着替えた習一が玄関を出てすぐに銀色の頭髪を発見した。今日の彼は薄黄色のネクタイを首に巻き、銀色のタイピンでシャツに留めている。そのタイピンには三粒のカラーストーンがはめてあった。一般的に見ないデザインだ。オーダーメイド製の品だろうか。
「オダギリさん、おはようございます。これから三日間の補習、私が同伴します」
決定事項を復唱された。習一はうなずく。昨日一昨日と教師と共に過ごした経験上、特筆すべき彼への不満は抱かなかった。この後の数日も似たようなものだと楽観視した。
補習の開始時刻より早く教室へ入る。無人の一室で、習一は教師に手渡された朝食を口にした。朝食は昼食の弁当と一緒にトートバッグに入っていた。昨日の朝食と同じメニューだが、それで充分である。おにぎりは毎日食べても飽きないし、なにより味付けがうまかった。料理下手な習一の母親ではこの品質を毎日保てまい、と胸の内で比較した。
習一に同行する教師は来客用の玄関を通って補習の会場へ来た。学校の備品のスリッパをペタペタ言わせて歩く様子は少し不恰好だ。しかし彼がスリッパの音や形状に不満を募らせる素振りはない。ただ一言「歩きづらいですね」とスリッパを履いた足を上げてみせる。底の長さが足りず、かかとがはみ出ていた。
廊下がガヤガヤと人の話し声や靴音でにぎやかになる。生徒が登校しているのだ。この高校は進学校なだけあって夏休みも一定の期間、授業を行なう。単位や成績には関係しない、気楽な内容だ。しかし休みを返上しての学習には意欲が削がれる者がおり、名門への進学を考えない者は途中で抜けることもあるようだった。
習一のいる教室に生徒が二人入室する。親しげな男女は習一と他校の教師を一目見て表情を凍らせた。当然の反応だ。校内一の不良と見知らぬ男性が同室者なのだ。習一はそっぽを向き、男女に対して無関心でいた。銀髪の教師は男女に軽く挨拶をする。
「私はオダギリさんのお目付け役です。私たちのことはお気になさらず、補習を受けてくださいね」
教師は親切極まりない声色で、おびえ気味の生徒をなだめた。彼らはとなり合った席に着く。女子のほうはちらちらと習一のいる席に視線をやったが、習一は無視を決めこんだ。
室外の喧騒が落ちつき、補習を行なう教師がやって来る。習一とは気の合う社会科担当の掛尾だ。色黒の教師が中年に一礼する。
「カケオ先生、今日から三日間の補習をよろしくお願いします」
「それじゃまるでシド先生が補習を受ける生徒みたいじゃないか。まあ、先生のことは他の教師にも言ってある。フツーにしててくれればいい」
掛尾は続いて補習と課題の説明をした。補習は掛尾以外の教師も担当する。課題は今週中に掛尾に提出する。赤点のない科目の補習は受けなくてよい──三つめの説明は習一以外の生徒に向けた言葉だ。期末試験を受けなかった習一は全日補習を受けねばならない。
補習がはじまると掛尾はプリントの問題文に補足したり、空欄の答えを生徒に質問したりする。習一は事もなげに答えるが、男女はしどろもどろに誤答を発していた。
二時限分の授業を終えると掛尾は退室した。次に来た教師は習一の担任だ。年かさは四十近い三十歳代だというが精神的な年齢は銀髪の教師より低い。相手は無表情を繕いつつも、棘のある視線を習一と銀髪の教師に投げる。習一は極力担任の顔を見ないようにした。
担任は一時間だけ教鞭をとり、昼までの残り一時間は別の教師がおこなった。科目内容は同じである。掛尾のように二時間続きでやればいいものを半分を他人に任せた。好意的に見れば他の授業の都合で抜けたのだろうが、落ちこぼれの面倒を看たくないというのが習一の見立てだった。
昼休憩の時間になり、習一は弁当を机の上に出した。さりげなく銀髪の男を見ると彼はノートに何か書き付けている。その文字列は黒板に書かれた文言と解説者の余談だった。
「あんたが、なんで生徒の真似事をする?」
「せっかくですから復習させてもらいました。生徒の立場になるのは希少な体験です」
ひとたび教員免許を取ってしまえば高校レベルの学習は不要ではないか、と習一は思った。この勤勉な教師に「変人だな」と感想をもらす。
「こんなもん、あんたにゃいらねえ知識だろ」
「なにごとも学んで無駄になるものはありませんよ」
もっともらしいことを教師は言う。習一は聞き流して昼食に手をかけた。その時、がらがらと教室の戸を開く。開けた者は同じクラスの男子生徒だ。白壁という、成績優良児ではないが赤点を取るほど学が無いわけでもない男だ。
「おお、ちゃんといるんだな!」
そこそこに体格の良い男子が鞄を提げて入室する。彼は習一の隣席に鞄を置き、サングラスをかけた男に握手を求める。
「おれは白壁といいます。あなたがシド先生ですね。お噂はかねがね聞いています」
教師は戸惑いながらも白壁の手を握った。白壁はさらにもう片方の手で教師の手を固く握る。熱のこもった歓迎だ。男子の両手に解放された教師は不思議そうに相手の顔を見た。
「どなたから私のことを聞きましたか?」
「先生が補習に来ることは掛尾先生に聞きました。先生自体は以前から知っています」
白壁は得意気な笑顔で着席する。教師が「才穎の生徒とお知り合いですか」と尋ねるとうなずき、「センタニさんのご友人でしょうか」と言われると目を見開く。
「どうしてあいつとおれが友だちだとわかるんです?」
「お二人に通じるものを感じました。センタニさんも礼儀正しく武芸に長じた生徒です」
「おれが武芸家だとわかるんですか?」
「立ち居振るまいを見ると、ある程度はわかります」
白壁がなにやら感動した様子で「先生は評判通りの人みたいですね!」と嬉々として言った。彼は教師目当てで来たのだと習一は判断し、黙々と弁当を食べる。自然と耳に入ってきた会話をまとめると、白壁には才穎高校に通う古馴染みが最低二人いる。教師が言うセンタニとは別に女子の友人もいて、彼女がシド先生なる英語教師について情報提供していたという。シドという若手教師がいかに強く、優しく、かっこよく、そして底知れぬ怖さを持つかを聞かされたそうだ。「怖い」の部分は習一の興味を惹いた。
「『怖い』っつうのは、どういうところを指してるんだ?」
白壁が意外そうに口ごもる。
「え……それは、小田切さんが一番よく知ってるんじゃないか?」
習一は田淵が知らせた事件のことだと理解した。だが習一自身が女子相手に喧嘩をする事態はめずらしい。白壁の知人女子は別件を述べているのではないかと思った。
「そういや、記憶がところどころ抜けてるんだっけか。忘れてるほうがいいのかもな」
白壁は具体的な教師の怖さを述べない。本人がいる手前、軽々しく言えないのだろう。習一は自身の不良仲間も銀髪の教師に畏怖したことを思い出して、質問は重ねなかった。
4
午後の補習が終わる。習一は用済みの課題プリントを掛尾に提出して校舎を離れた。多くの生徒は午前中に授業を終えて帰宅したが、校舎には部活動に励む生徒がまだ残る。目立つ銀髪の教師への注目を集める前に立ち去りたかった。習一は正門で教師と合流する。
「夕飯にはまだ時間があります。少し時間をつぶしましょうか」
教師は習一に行きたい場所の有無を尋ね、習一はつっけんどんに「ない」と答える。すると教師は予想外な行き先を提案した。
「ゲームセンターに行きましょう。欲しい景品があります」
「あんたが? 本当に?」
「正確には他の方がほしがっている物です。以前に挑戦してみて、全く取れなかったと言っていました。オダギリさんはクレーンゲームが得意ですか?」
「いや……あんまりやらない。ほしいと思うもんがなくってな。観戦ばっかりだ」
「そうですか。得意でしたら貴方に代行してもらおうかと思っていましたが」
「あんなもん、店側がゲットしにくくしてるに決まってる。絶対取ろうなんて思うなよ」
「はい、引き際をわきまえます」
真面目くさった受け答えをする輩がゲームにヒートアップする光景は想像できない。習一は不要な助言を与えたと思った。二人は習一が通い慣れた遊興所にたどり着く。二階建ての施設からもれる音が街路にも伝わっていた。教師は一階にあるプライズコーナーにまっすぐ向かう。その的確な歩行は、ここは彼が初めて訪れた場所ではないことを意味した。
「プレイしたこと、あるのか?」
「こちらの店では一度もありません」
「そのわりには迷いがないな」
「下見は行ないました。景品の形状と取り方の種類を知ると事前の対策が楽になります」
「たかがゲームにも予習かよ」
「女子供に景品を渡さないゲーム相手です。生半可な気持ちで挑めば玉砕必至でしょう」
つまり教師に泣きついた人物は女性か子どもだ。その無念を晴らすことに彼は静かに躍起になっている。つくづく他人のために生きたがる男なのだと習一は呆れた。
景品を押しこめたゲーム機には種々様々なグッズが並ぶ。人気のある漫画およびゲームのキャラクターを模した人形やぬいぐるみのほか、市販の菓子を景品仕様にした大型の菓子などが取得対象だ。教師はクレーンを操作する台に手を置いた。そのゲーム機の景品は長方形の箱だ。箱の中身は忍者らしきデザインの人形。手に鉤爪を装備した覆面男である。
「忍者……? なんの作品のやつだ」
「幕末を舞台にしたアクションゲームだそうです。家庭用ゲームなので、ゲームセンターでは遊べないようですね」
教師は丹念に景品と景品の落下口をいろんな角度から見た。この機種は左手前に大きな穴があり、右側には幅の細くなった穴が設けられ、景品が橋のように穴の上に横倒しで置いてある。プレイヤ―の正面に見える箱の底の幅は右側の穴より大きく、細い穴からは落とせない仕組みだ。二本脚のアームの出入り用に空けた穴らしい。穴と景品の間には小さく切った段ボールが敷かれ、赤字で線と「初期位置」の文字が書いてあった。店が提示する初期位置と現在の景品の位置はずれており、二センチほど左の大穴に近い。
「ここまで運んで、諦めた人がいるのですね。普通にやっても動かせないのでしょう」
教師は小銭を出して投入する。正攻法ではかなわないと宣言した通り、真っ正直にアームで景品をつかむ方法はとらない。箱の端に落下するアームの先端を押し当てたり、アームをわざと景品の上を通りこして左右に開くアームの動きで押し出したりした。だが目に見えての進展はなく、箱が傾いても元通りの位置に戻るか、アームが箱の重量に負けて逆に押し返されていた。雲行きが怪しくなってきたものの、プレイヤーの表情に変化はない。
初期投入から景品獲得のチャンスが残り一回になり、彼は深い息を吐いた。
「……今から見たことは、他の人には黙っていてください」
小声で発した言葉はゲーム機が鳴らす音に半分かき消された。かろうじて聞こえた要求を習一が理解した時、漫然とした意識を正す。教師の最後のプレイは景品を正直につかみに行った。倒れた箱の側面をアームの両端が引っ掛ける。箱が斜めに持ちあがったが力の弱い腕は箱を置いて定位置に戻ろうとする。その時、アームと箱の接触面に黒い影が伸びた。
「え……?」
習一は初め、猫が忍びこんだのかと思った。黒猫が景品の出入口に侵入してゲーム機の中にいると。しかし違った。機体をどの方向から見ても棒状の黒い物体が穴の下から伸びるのみ。生き物の胴体や頭は発見できない。謎の黒いものは役立たずのアームの代わりに箱を支え、落下口まで動かす。カコン、という落下音が響き、教師は目的物を手にした。
「なんとか取れましたね。汚れないうちに届けに行きましょう」
異常などなにもなかったかのように教師は場を離れる。習一は本当の景品の取得者について問い詰めたが、教師は決まり文句の「記憶が戻ったあとで話します」でお茶を濁した。
怪奇現象を目の当たりにして習一は心中穏やかにいられず、教師に詰問を続けるも効果はなかった。ゲームセンターを発ったあと、教師は先ほどの現象をはぐらかすようにゲームに興じた経緯を説明した。教師は忍者の人形を求める人物に会ったことがなく、その人物がほしがるからあげたいと言った依頼主が彼の教え子だという。この教え子こそが習一に食事を用意する一家の娘であり、習一が夕飯に相伴させてもらう家の者だ。
「私は彼女から多大な恩を受けています。少しずつ、恩に報いたいのです」
教師は作り物の忍者の顔を見つめる。習一は意地悪い指摘を一つ思いついた。
「どんな不正をやってでもか?」
教師は顔を上げた。その顔は習一を見ないで、前方を見据える。
「たしかに先程、ズルをしました。褒められた行為ではないと思います」
「あんたを責めはしない。店が根性の悪い設定にしなきゃ、やらずに済んだだろうしな」
教師がいくらか話を聞く姿勢になった、と踏んだ習一は棄却された質問を繰り返した。
「あの時に出てきた黒いやつは何者だ? あとで話すんなら今教えてくれたっていいだろ」
「失くした記憶がもどればわかりますよ。貴方は以前に同じものを見たのですから」
「じゃあ、さっきのやつをもう一度見せてくれ。それで思い出すかもしれん」
「今はできません。別の場所へ移ってしまいました」
「そいつは生き物なのか?」
「ええ、そうです。いずれきちんと教えます。焦らないでください。貴方は他に解決すべき問題を抱えているのですから」
答える気がないなら思わせぶりなものを見せなければいいのにと習一は心の中でこぼした。教師は遊興に慣れた習一の助力を期待したのだろうが結果的に居なくとも同じだった。
5
教師の案内により、習一は小山田と書かれた表札のある一軒家を訪問した。玄関の靴箱の上に花が飾ってある。オレンジやピンク色などの明るい色調の花びらが印象的だ。
「この花、もしかして……病院でもらった……」
「貴方がエリーにあげた花です。少し数と花弁が減りましたが、まだ咲いています」
「オレがもらってから一週間くらい経ってるぞ。この暑さでよく傷まないな」
「こまめに手入れをすると夏場でも長持ちするそうですよ。切り花を延命する道具もあるといいます」
二人が話していると家の者が一人、廊下に現れた。長い黒髪をポニーテールにまとめた、目つきの鋭い少女だ。習一はその顔立ちに既視感を覚えた。教師が少女に会釈する。
「オヤマダさん、お邪魔します」
「はーい、先生もオダさんも遠慮なく入ってね」
眼孔に似合わず、声音は柔らかい感じがした。年齢的に彼女が教師の教え子なのだろう。女子生徒は教師の手中にあるパッケージを見て笑顔になる。
「先生はなんでもできるんだね」
「実力では取れませんでした。最後にあの子に助太刀をしてもらって得たものです」
「そういうのもできるの? 景品が取れ放題になっちゃうね」
吊り目の女子は教師の異能力を容認する。習一は知らない事情を把握しているのだ。
(こいつから聞き出すのもアリ、か?)
口の堅い教師に代わって情報源となりうる相手だ。習一が彼女の長い黒髪をじっと見つめると不意に黒い粒がにゅるっと出現した。目をこらすと粒はすぐに無くなる。
(なんだ? あの教師が呼んだのと同じやつか?)
聞いても教えてくれそうにない異常について、習一は胸に秘めておいた。
銀髪の男は景品の話を続け、ズルはしたくない、と告げて女子の同意を得る。
「お店が立ちいかなくなったらまずいもんね。こういう頼みごとはもうしない」
この生徒も我欲がとぼしい性分らしい。習一の不良仲間の田淵なら、元手が少なく済むほど転売でぼろ儲けできると言って飛びつきそうな話題なのだが。
(育った環境の差かね)
玄関先に活けた切り花への丁重な扱いといい、この家の人々は習一の身近な人間とは異なる気がした。同時に、彼女らと親しい教師は詐欺師とは程遠い人物だと認めた。
三人はふすまを開けた先の和室に入る。冷房の利いた畳の部屋には長方形の木製のちゃぶ台が据えてあった。ちゃぶ台の周りに並べた座布団に習一と教師は座る。案内主は立ったまま、習一から弁当の入ったトートバッグを受け取った。
「冷たいジュースを飲む? それともお茶?」
「冷えた茶がいい」
了解した女子生徒は教師に飲料の希望を聞かなかった。習一は、彼女が教師の好みの飲み物を事前に承知しているから聞く必要がないのだと見做した。
束ね髪の女子は戸を開けっ放しにした隣りの台所へ行った。ほどなくして氷と茶を注いだガラスのコップを持ってくる。茶は一杯のみ。習一はこの対応がしっくりこない。二人の客のうち、片方のみをもてなす行為は非常識だ。
「この教師の分は?」
習一が他者の処遇を気にかけると女子の目に丸みが帯びた。予想外の言葉だったらしい。
「私の分はいりません。オダギリさん、お気遣いありがとうございます」
「……礼を言うことかよ」
顔に熱を感じた習一は冷茶をがぶがぶ飲んだ。昨日の昼食時のような渇きは感じていない。身体を冷やす目的で摂取した。空のコップをちゃぶ台に置くと女子が回収する。
「体にいいジュースがあるよ。飲んでみてね」
二杯めに赤紫色の液体の入ったコップが現れた。習一が一口飲むと少し酸味がある甘いジュースだった。なにかの果物から抽出した飲料水らしいが、習一は特定できなかった。
客をもてなし終えた女子が座り、机上に置いた忍者の箱を検分する。
「これがフィギュアかぁ。忍者好きな外国人でなくってもいいなーと思うね」
「オヤマダさんの分も必要でしたか」
「そんなことないよ。スペースをムダにとっちゃうし、掃除がめんどくさくなるし」
そう言いつつも小山田は忍者に熱い視線を送った。欲しいことは欲しいのだと見てわかる顔だ。その面構えを最近目にしたような、という習一の思いが口に出た。
「どこかで見た顔なんだよな……」
「テレビで見たんじゃないかな。アイドルの樺島融子と似てるってよく言われる」
「いや……近頃、直接見た覚えがある。あんたの顔そのまんま、じゃない気はする」
習一の疑惑に対して教師が「ノブさんのことですね」と答える。
「三日前にお好み焼屋へ行ったでしょう。あの時の中年の店員がオヤマダさんの父です」
言われて習一は和風の飲食店での出来事を思い出した。教師と親しげだった恰幅のよい中年男性。あの男も鋭い眼孔を有したが、人となりは明朗かつ善人の雰囲気があった。
「ああ、そうか。オレの弁当はあの人の娘が作ってるんだったな」
両者の目鼻立ちは共通する。輪郭には男女の差があり、娘はほっそりしたキツネ顔だ。「顎のあたりは似なくてよかったな」といつもなら腹の中に留める感想がついて出た。父似の女子は不満たらたらに「全部お母さん似がよかった」とむくれる。母似な習一は自分の遺伝が微妙に肯定されたような心持ちになった。
「そうそう、このゲームを一緒にやってみる?」
小山田は人形の箱をつつく。その景品の原典は家庭用ゲームだと教師が紹介していた。
「時間制限は晩ごはんができるまで」
「お前と対戦するのか?」
「いんや、コンピュータ相手。オフラインならボコボコに負けることはないからさ」
家の中で遊ぶテレビゲームは久しぶりだ。父親と隔絶する前は自宅にもあった。素行の良好な友人と共だって熱狂したことも、むなしく脳裏に浮かんだ。テレビとその台に収納した現行機の電源が入る。習一は小山田が手渡すコントローラーを物珍しそうに触った。
「物語を追っていこう。まだ進めてない話が残ってる」
「このゲームを買って、日が浅いのか?」
「けっこう前に貰ったものなんだけど、お店の手伝いがあると時間がね……」
「手伝い? 父親と同じ店か?」
「ううん、オカマオーナーのお店。オダさんはシド先生と食べに行ったんでしょう」
通算、教師とは二箇所の喫茶店を利用した。一つはチェーン店、一つは独自の店構えと経営スタイルの店だった。どちらもオカマという個性的な店員が勤労していた覚えはない。
「食パンやらサラダやらが食べ放題の店か? あそこにオカマなんていたのか」
「背が高くて、胸がバイーンと出たウェイトレスは見なかった?」
「いたけど……あいつが、男?」
妖艶な給仕だった。あの柔弱な身体は男性特有の骨ばった体躯とかけ離れているのだが。
「そう、あの外見でタマ付き」
小山田は習一の混乱をよそに、コントローラーを操作してゲーム画面を切り替えていく。彼女があれやこれやとプレイ上のアドバイスをするものの、助言は習一の耳を通り抜けた。
6
習一は二十分近く、人形と同じ忍者を操った。忍者の背中を見続ける三人称視点にて、ゲームの操作感に少しずつ慣れてくる。画面を上下二分割にしての二人同時プレイはアーケードゲームでは見ない遊び方であり、新鮮味があった。
小山田は母親らしき人物に呼ばれた。ゲームを中断し、コントローラーを教師に渡す。教師は経験がないからと拒んだ。だが「食わず嫌いはよくないよ。これも勉強!」と押し切られ、教師は彼女のプレイを引き継いだ。彼の担当の画面は弓使いの手と武器が画面に映る一人称視点。任意に視点を切り替えられる仕組みだが、彼はそのまま弓使いを動かす。左右に歩く、その場で跳ねる、矢をつがえて撃つ動作を一通り試した。弓矢の攻撃は高い命中率で敵に当たる。その精度はゲームの持ち主である小山田と同格かそれ以上だ。
「未経験ってウソだろ?」
「いえ……オヤマダさんのお手本を見たおかげで少しできるようです」
「じゃああれだ、シューティングはやったことあるんだな」
「いえ……関連する経験というと、弓術を習ったことでしょうか」
本物の弓の腕前がゲームにも反映されるという発想を、習一はにわかに信じられなかった。かと言って教師が隠れゲーマーなようにも見えず、とりあえず射撃の話題は不問にしてゲームを進行した。一戦が終わると教師は「続けますか?」と習一に尋ねる。
「んー、やめとくか。あんたはこういうの、嫌いなんだろ」
「嫌い、ではありませんが……オダギリさんの楽しみが減ってしまうのではないかと」
「あんたの腕なら足でまといにならねえよ」
習一は教師にプレイ続行をもとめた。ここでゲームを終了させると夕飯までの過ごし方がわからない。かと言って一人でゲームをやれば自分のスキルの荒さをつぶさに観察される。ならばこのまま時間がくるまで二人プレイをしたら精神的によいように思えた。
戦場を踏破すると、カチャカチャと陶器がこすれ合う音が鳴った。小山田が取り皿と料理を手にしてやってくる。もうじき夕飯だと知った習一たちは遊戯をやめた。機器を元あった状態に片付ける。食事のジャマになる人形はテレビの脇に移動させた。食卓に現れた夕飯の菜は大皿にのった煮物、唐揚げ、サラダ。豆腐がのった小皿は四つあった。この家の住民は最低三人いる。台所で料理を作る女性と、それを手伝う娘と、娘の父。晩餐に加わる習一の分を合わせて四つ。教師の食べる分は除外してあるらしい。
「ばーちゃん、ご飯よそってくれてありがと」
小山田は新たな人物の存在を示唆した。彼女は横長の楕円の盆を持って居間に入る。その後ろに腰のくだけた老婆がついてきた。足首の布地がきゅっとしまったもんぺを履いた老人だ。まぶたが垂れた老婆は銀髪の教師の隣にためらいなく座る。家族ぐるみの親交があるのか──と習一が思いかけた時、「ノブさん」と老婆は教師に話しかける。
「今日のノブさんはお仕事が早くおわったんだねえ」
老婆が呼ぶ人名は教師の固有名詞ではない。教師の言によれば、老婆の息子にあたる人物の呼称だ。背丈だけは共通する両者を混同しているというのか。
「今日は仕事が休みでした。ところでノブさんは家で夕食をとらないのでしょうか?」
「ノブは遅番だよ。日がかわる前に帰ってくるかねえ」
老婆は奇妙なことに質問された息子の状況について普通に答える。教師をノブ自身だと思いこむ痴呆状態ではないらしい。老婆は習一を一目みて「おやまあ」と柔らかく驚いた。
「かわいらしいマサさんだこと。キリちゃんのお友だちかい?」
「マサ」の名が己を指すことを習一は理解できたが、どう返答してよいやら困惑する。すかさず教師が会話に入った。
「この男の子の名前はオダギリシュウイチさんです。お孫さんの学友ではありませんが、夕食にご相伴させてください」
「そうかい。じゃあシュウくんだね」
老婆は習一の略称を名付けた。習一はあだ名で呼ばれることに抵抗はないので、訂正はやめた。少なくとも他人の呼称よりは確実に良い。
「たーんと食べておいき。今はノブがいないから食べそびれることはないよ」
横幅のあった中年は見た目にたがわず大食漢のようだ。彼が同席する食事の際は出方をうかがって食を抑えべきか、と習一は注意事項を思いついた。
老婆が喋る間、小山田は白米の入った茶碗を食卓に並べおえて台所に行った。次に湯気のたつ黒塗りの茶碗を運び、同様に並べる。茶碗は五つあった。
「お吸い物は先生も飲んでね。具はわたしが切ったよ」
汁物の中には刻んだネギと油揚げが浮かぶ。小山田は再び台所に行き、彼女と入れ替わりで母親らしき中年の女性が来る。おそらく四十代なのだろうが、少々幼い感じの丸い目と皺のないふっくらした頬が実年齢以上に若く見えた。教師が女性に一礼する。
「ミスミさん、お食事の用意をしていただいてありがとうございます」
「いえいえ、だいぶお待たせしちゃったわね。さ、ご飯を食べましょう!」
ミスミは食卓に重ねた取り皿を配布し、皿に箸をのせる。箸が行きわたるとカラフルなプラスチックのお椀にサラダを盛って配る。そのどれもが教師の分を省いていた。
「シド先生のご飯は娘が用意してるの。もう少し待っててくださいね」
「はい。皆さん、どうぞお先に召し上がっていてください」
教師と小山田を除く夕飯が始まる。習一はじっとミスミを見た。キツネ顔の娘とは全く方向性の違う造形だ。どう見ても娘は父似だとわかる。父親と娘を並べれば尚そう感じるだろう。それが子を宿せぬ父親にとってどれほど喜ばしいことか、娘にはわかるまい。
(ブサイクでもねえのに顔に文句言うなんざ、ぜいたくだ)
小山田が「母親に似たかった」と言うのも一理あり、ミスミは美人の部類だ。より多くの人が好むであろう優しげな顔である。とはいえアイドルと似るという小山田も、間接的だが世間一般が認める顔立ちのはずだ。彼女が父似の顔を嫌悪する理由には美醜以外の要因がある。それがなんであれ、父の実の子という証を持つ者を習一はうらやましく感じた。
「習一くん、で合ってる? ガーベラをくれてありがとう」
物思いにふけっていた習一は急に話しかけられて驚いた。そして耳慣れぬ単語に戸惑う。
「え……ガーベラ?」
「玄関に飾ってある花のこと。エリーちゃんが持ってきてくれたの。あなたが『花好きの人に渡して』と言ったから、うちに届けてくれたんですって」
確かにそんなことを言った気がする、と習一はおぼろげに思い出した。適当に発した依頼を、エリーは完璧に遂行したのだ。普通の人では夏場の一週間、切り花を咲かせ続けられなかっただろう。花の知識がない習一はその長生きの秘訣が気になった。
「あの花……どう世話したらあんなに長く咲けるんだ?」
「えっと、花束を受け取った時は少ししおれていたから、水をたくさん吸わせて元気にさせたの。一本ずつ新聞紙でくるんで、水を張ったバケツにいれて半日置いて……」
ミスミは切り花の生け方を語る。おおよそ習一の理解が及ぶ分野ではないが、手間暇をかけて花を生き永らえさせていることは伝わった。生け花講義の最中に小山田が現れる。手に箸とおにぎりをのせた皿と、輪切りにした野菜を盛った皿がある。
「はいこれ、先生のご飯。足りなかったら言ってね。漬物はまだまだあるから」
「充分です。ありがたくいただきます」
教師は箸を親指と人差し指の間にはさみ、両手のひらを合わせた。外国人のくせに日本の風習に律儀だ、と習一は内心つっこんだ。彼専用の漬物は点々とぬかが付いている。それを見ていると小山田が「食べたい?」と聞く。
「うちの糠漬け、わたしとお母さんとお婆ちゃん制作の三種類あるよ。味見する?」
「いや、いい。お前の夕飯が冷めちまう」
「あ、けっこう気をつかってくれてるんだね」
小山田は空いた座布団に座る。彼女が教師や母親との会話を弾ませるおかげで習一は会話に加わらずに済んだ。居心地の悪さはなかったものの、不和を匂わせない人物交流のありようは習一の目には奇異に映った。
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2018年12月11日
習一篇草稿−3章
1
習一は外気の熱にうだりながら、黒灰色のシャツを見失わないように歩いた。銀髪の教師は進行方向を見つつも習一を置き去りにしない歩調を保つ。朝、ともに歩いた時の速度を正確に覚えたのか。あるいは他人の気配の遠近を察せるのだろう。どちらも常人離れした技能ではあるが、過去に習一を武力で凌駕したという男にはできそうな気がした。
教師はめぼしい飲食店の前を通り、和風な店へと近づく。その店の分類を習一は知らない。教師は引戸をがらがらと開けた。屋内の喧騒が解き放たれ、入店客への挨拶が威勢よく飛び交う。二人を出迎えた者はねずみ色の頭巾を被った中年だ。身長は教師とほぼ同じだが恰幅はいい。黒の前掛けの横幅が微妙に足りず、紺色の作務衣が少しはみ出ていた。
「いらっしゃい! 先生、今日は一人か?」
「いえ、連れが一人います」
図体の大きい店員は上体を横へずらし、教師の後ろにいる習一を発見した。彼の目尻は吊り上がっている。射るような視線を習一は感じた。ただし敵意は含まれていない。
「ん? 見たことない子だな。才穎高校の子か?」
「いえ、別の学校の生徒です。しばらく勉強のお手伝いを──」
「あ〜、そういや娘が言ってたな。先生が他校の男子の世話するからその子のメシをつくるって」
昨日のサンドイッチはこの店員の娘の手によるもの。そうと知った習一はむずがゆい思いをした。なんとなく自身の母親に近い、年長の人物が作った食事だと想定していた。
(同い年くらいのやつが、か……)
なんの見返りもない善意を振りまく同輩がいる。習一は空手部の同級生の名を髣髴し、次いでその曇りのない眼を思い出した。
教師とは仲の良さそうな店員が席を案内する。そこは一面に鉄板を乗せた四人掛けのテーブルだった。油と小麦粉が焼ける匂いが充満する店はお好み焼屋であり、酒を片手に粉物をほおばる客もいた。店員は注文が決まったら呼んでほしいと言い、厨房へ去る。教師がテーブルのメニュー立てにある冊子を取り、習一に手渡した。
「食べられるだけ頼んでください。代金は私が支払います」
「あんたはまた食わないのか?」
「はい。腹は減っていません」
「朝のパンだけじゃ足りないだろ。オレの飯代を肩代わりするために無理してるのか?」
「金銭には困っていません。ただの体質です」
メニューを見ようとしない習一に代わって、教師がもう一つのメニュー表を開く。
「具の好物が特にないようでしたら、ミックス玉がよさそうですね。いろんな具が少量ずつ入っているそうです。たくさんの味を楽しめますよ」
習一がメニューを見るとミックス玉とは同種の中で最も価格が高く、量は二人前だ。
「これ、二人分だって書いてあるぞ」
「昼を食べていませんから大丈夫でしょう。それとも、お好み焼きは苦手ですか」
「べつに嫌いじゃないが……量による」
「残してもかまいません。私が処理します」
「わかった。じゃあそれ一つ、頼む」
教師は店員が他客への品運びを終えて厨房へ行くところを声掛けする。立ち止まった者はひょろ長い背格好の青年だった。年齢は二十代。彼も灰色の手ぬぐいを頭に巻き、黒いエプロンを掛けている。前掛けの下は若者らしい私服だ。頭巾と前掛けがこの店の制服のようだ。若い店員に教師が注文をつけ、店員は伝票を復唱したのちに厨房へ帰る。入れ替わりで中年の店員が現れた。習一たちに氷水を提供する。
「そいじゃ、鉄板を熱くするんで触らないようにしてくれよ」
店員は身を屈め、テーブル横のつまみをひねった。鉄板の加熱が始まる。店内の冷房を打ち消す熱気が徐々に生まれた。鉄板には幾重にもヘラが当たった薄い線が走る。年季の入った店なのだろう。習一は今までこの店を素通りするばかりで入店したことがなく、お好み焼き屋であることは知らずにいた。それは仲間内のグルメ評にはあがらなかったせいだ。うまいともまずいとも評価されない料理に多大な期待を寄せることはやめた。
ふたたび細長い体型の店員が現れる。彼は黒塗りの丼のような器と、ヘラを置いた二枚の取り皿を盆に乗せて運ぶ。習一たちに料理のもとを提供すると、すぐに他の客のもとへ馳せ参じた。
教師が調味料と一緒にならんでいた油を手にし、鉄板に垂らす。油をヘラで薄く一面に引いた。音と細かい気泡を立てて油が熱される。熱した油の上に丼に入った薄黄色の液状を敷いた。小麦粉を溶いた液体にはとうもろこしの粒や丸まった海老、白いイカなど色々な具材が混じっている。教師は丼に残った具をヘラで掻きだし、円形に広がった溶液に落とした。その手際を見るかぎり、料理下手には思えない。
「あんた、お好み焼きを作るのは得意なのか?」
「いえ、初めは何度も失敗しました。練習したおかげで人並みに焼けます」
「へー、それでお好み焼きを食ったことは?」
「……あまり、ありません」
「あんたは何なら食えるんだよ?」
「好き嫌いはありません。私の滋養になる食べ物の種類が極端に少ないのです」
「食べ物のアレルギーが多くて、食えるもんが少ないってことか?」
「アレルギー症状は出ません。本当に、栄養をとれる食べ物が限られるのです」
「? じゃあ胃が受け付けないのか?」
「どう言ってよいものやら……この説明も貴方の記憶がもどったあとにさせてください」
教師は習一の疑問を解消させない返答をしたまま、お好み焼きの制作に集中した。彼は正直に答えているようだが、習一の常識に当てはめた解釈では真相にたどりつけない。特定の食べ物のみを胃が吸収するのでも、アレルギーがあって飲食に制限がかかるわけでもない。それ以外に好悪の情なく偏食に走る理由は、習一には思いつけなかった。
教師は小麦粉が固まってきた円状の板を二つのヘラで持ち上げてひっくり返す。表に返った側には茶色の焦げ目が出来上がっている。
「今日はこの店を含めて三か所、訪れましたね。疲れましたか?」
「ああ……やっぱり暑い時に歩きまわると疲れる」
「わかりました。明日は一か所に留めましょう。喫茶店に長時間いてもかまいませんか」
「昨日、それをやった。なんとも思わねえよ」
「それは結構。明日は貴方が昨日過ごした喫茶店で課題をこなしましょうか」
「これだけ頑張ってやっても、オレ一人でちゃんとやるとは思えねえか」
「貴方を信じないのではありません。オダギリさんの身を案じているのです」
「オレのことが心配? なにを気にしてんだ」
「貴方の父親のことです」
習一は胸を衝かれた。習一が最も苦悩する物事を教師は臆することなく提示する。習一は教師をにらんだ。黄色のサングラスの向こうにある目は一途に料理を見つめていた。
2
「貴方は以前、町中を放浪する不良少年だった、という認識で合っていますか?」
「ああ、そうだ。この辺に住んでる連中にけむたがられる、人間のできそこないだよ」
「そのように己を卑下してはいけません」
凛とした叱責だった。習一は口をつぐむ。
「貴方はきちんとした人間です。その証拠に昨日も今日も、長い時間を課題に向き合ってこれたでしょう。胸を張ってください。自分は頑張れた、と」
「気休めはいい。それで、父親についてどこまで知ってるんだ」
教師は平たい小麦粉の塊をもう一度ひっくり返す。両面に茶色の焦げ目がついた塊をヘラで半分に割き、火の通り具合を見る。
「そろそろ焼けますね」
「父親の話をしながら夕飯か。あんまり食えたもんじゃないな」
「では別に話題にしましょう」
「いや、とっとと教えてくれ。それを聞いたら食う」
教師は上半身を横へ倒し、鉄板の熱を弱めた。夕飯が焦げないための配慮だ。
「厳格な裁判官だそうで、情状酌量はあまりお好きでないとか。罪は罪としていかなる事情があれど罰するべきだというお考えの方だとお聞きしました」
「よく、知ってるな……」
「情報通な知人がいるので調べてもらいました。わかったのは表面的な情報だけですがね。長男である貴方とは不仲続きだと知れましたが、原因はわかりませんでした。あとは雒英高校の掛尾先生に教えてもらった話ですと、前年度を境に貴方の素行が荒れ始めた、と。その時に父親と激しい衝突があったのではありませんか」
「そうだよ、だからどうした? もめる原因がわかれば仲直りできると思ってんのか」
習一は底意地悪く聞いた。教師は軽く頭を横にふる。
「いいえ、私が知りたいのは貴方の父親が貴方を嫌うという事実です。貴方が家にいたがらないのは父親のせいでしょう。父親がいなければ貴方は日が落ちる前に、安心して家に帰ることができる。登校時刻に家族に顔をあわせて学校へ行ける。違いますか?」
教師の指摘は合っている。習一は父が眠るか仕事でいない時に家に帰り、父が出勤した後で出かける用意をする。常に父親と家の中で遭遇しないことに注意を払って過ごしてきた。父さえいないのなら母も妹も習一には無害な存在だ。
「父親がわが子を目の仇にする事情は察しかねます。ですが貴方を非行に走らせた元凶である以上、その存在を除かなければ貴方に真っ当な高校生活は送れません」
「あんたはオレじゃなくてオレの父親がダメ人間だって言うのか?」
「極論でいえばその通りです。貴方は元来、まじめな性格なのだと思います。そうでない人はプリントの山を解き続ける苦行に耐えられません。きっと弱音を吐いて逃げ出そうとします。ですが、貴方はエリーにも不満をもらしませんでしたね」
「……逃げたって他にやることがないからな。どうせ暇ならつまんねえ勉強でもやるさ」
「暇があれば勉強に励む、とは優等生らしい発想ですね」
「こんな落第生にゃ似合わねえ言葉だ、ってえ皮肉か?」
「いえ、貴方は周囲の人間に恵まれれば現在も優等生でいたはずです。その気性をねじ曲げた原因が父親なのですから、父親に親としての問題点があります。貴方を普通の生徒へ教化するにはまず、父親をどうにかしなくてはなりません」
教師は火を通したお好み焼きを食べやすいサイズに分けつつ、感慨深い言葉を連ねる。習一が心のどこかで誰かに言ってほしかった述懐だ。しかし根本的な解決法は見出せない。
「父親をどうにかする、ったって、あの頑固オヤジは死ぬまであのままだろうよ」
「はい。貴方が父親と一緒にいても互いに傷つくばかり。どちらかが離れるべきでしょう」
「家を出るならオレのほうだ。でも一人で生活できるか? 中卒じゃどこも雇わないぞ」
「厳しいでしょうね。ですので……私が貴方の一人暮らしを支援しようと考えています」
「あんたが? オレが、一学期の試験に合格できたあとも?」
「はい、周りの協力と貴方の気持ちがそろえば可能だと思います」
習一はしげしげとヘラを握る男を見た。彼が場当たり的な綺麗ごとを述べたようには見えない。ごく自然に、真摯な態度を保持している。
「今すぐに、とはいきませんが……この夏休みの期間中になんらかの落としどころをつけたいと思っています。オダギリさんの家庭環境は不健全です。補習を受け終えてからでかまいません。今後の身の置き方を考えてみてください」
教師は毛先の短い筆が入った調味料の蓋を外し、ソースをお好み焼きに塗りつける。焦げ茶色に染まった生地に習一はマヨネーズとかつおぶしをかけて食べ始めた。
3
習一は平凡な喫茶店での朝食をすっきりたいらげた。食事中、教師に聞きそびれていたことが何度も頭によぎる。この店が先日、田淵と会った店だったせいだ。給仕が空の皿を下げたあとで銀髪の教師に尋ねる。
「なぁあんた、背がデカくて銀髪で色黒な男を知ってるか?」
教師はブックカバーをかけた本を閉じる。彼はやはり飲食をとる気配がなかった。
「その男とは私以外の人物ですね?」
「そうだ。オレの仲間は銀髪とは言ってなくて、帽子を被ったオバケ男だと言ってたが」
「オバケですか。ユニークな表現をするお友達ですね」
教師は微笑んだ。幽霊じみた存在を疑う様子はない。
「その男、あんたの仲間か?」
「ええ、そうです。私と同じ志を持つ同胞ですよ。帽子を被るオバケが銀髪だという情報は誰が提供したのですか?」
「誰も言っちゃいない。光葉というヤクザっぽい男が捜してたヤツかと思ったんだ。あんたの仲間、ヤクザ連中には有名なのか?」
「名が知れているかどうかわかりません。ただ、接触はありました。私ともども恩ある方がおりまして、その方を護衛した時に」
「それが無敗のバケモノ、と言われる由来か」
「そんな呼び名が付いていましたか。初めて耳にしました」
全くの他人事のように教師が淡く驚いた。習一は質問を続ける。
「光葉は男みたいに背が高い銀髪の女のことも聞いてきた。それもあんたの仲間か?」
教師は目を丸くした。銀髪の女の存在が知れ渡る状況は想定外だったらしい。
「そう、ですか。見ている人はいるものですね」
「知ってるんだな?」
「はい。その女も……私の仲間です」
「けっこう大所帯なんだな。そんなに銀髪な連中がいたら目立つと思うんだが」
「だから帽子を被るのですよ。私は仕事上、帽子を着用できないので諦めています」
「エリーはなにも被ってなかったが、あいつはいいのか?」
「今はいいのです。なるべく人目に付かないようにしていますから」
「オレと半日一緒にいたことがあっても、か?」
「はい。目立っていなかったでしょう?」
習一はわだかまりが解けない事実だ。この喫茶店で出会った田淵は、少女が同席しないも同然の態度を通した。この現象を不審に思った習一の質問には「気配を消してるから」と少女は簡単に答えた。習一以外の人間が見ても気付かぬ特殊能力でもあるというのか。
「納得がいかないようですね。いずれわかります」
「いずれ、か。まあどうでもいい。ヤクザもどきな男には会ってないか?」
「どんな人物か、特徴を教えてもらえますか」
「背はあんたより高くてゴツい感じで、日焼けした金髪野郎だ。白スーツを着てたな」
「会っていませんね。真夏に人捜しは重労働でしょうし、諦めてくれればよいのですが」
「それもそうだな。カンカン照りの時に外を歩きたくねえ」
光葉は人捜しに飽いて己がネグラへ戻ったのだろう。そう見做して習一は今日の課題をテーブルに並べた。残り少ないので参考とする教科書の数も少ない。昨日は教科書なしだったために解かなかった問題も、今日は参考資料が手元にある。早速取りかかった。
教師は習一が目的を果たす作業に入ったのを確認し、彼もノートと筆記具を机に置いた。何を書き留めるのかと習一は興味がわき、じっとノートを見た。教師が視線に気付く。
「これは私の日記です。近頃は立てこんでいたので手つかずでした」
「人前で日記書くのは恥ずかしくないか?」
「その日の出来事と自分の考えを記すだけです。他人に見られて恥だとは思いません」
「ふーん。じゃあオレが見ても怒らないんだな?」
「ええ、読みたければどうぞ。見ますか?」
「やめとく。あんたのことはどーでもいいからな」
「そうですね。貴方が必要とする情報は少ないでしょうし、それが賢明です」
習一は引き続きプリントの設問を解く。教師はまだ手を動かさないでいる。
「そのままの状態で聞いてください。今後の予定を伝えておきます。今日の昼前に、貴方が目覚めた時に会った警官がここへ来ます。目的は簡単な状況確認です」
本日、警官が来訪する。彼と習一が会ってから今日で一週間が過ぎた。様子観察をするには遅くも早くもない頃合いだ。
「同時に彼の交通手段をお借りして、明日は遠出しようと思っています」
「どこに行く気なんだ?」
習一は顔をうつむいたまま問う。教師の指示通り、課題の片手間の会話姿勢を保った。
「動物園です。明日の天気は曇り、気温が低めらしいので、万全の体調でない貴方でも園内を見学できると思います」
習一は動物園にはあまり縁がない。幼稚園や小学校に通った時に遠足で訪れたきり、私的に見物したことはなかった。遊びには飽きた習一でも真新しい発見と体験ができそうな場所だ。
「朝食と昼食は知り合いにつくってもらいます。食事の心配はいりません」
「そんなところに行く理由はなんだ? 補習には全然関係ないだろ」
「気晴らしです。ずっと机に向かい続けていては心身ともに良くありません。あとに三日間の補習が控えていますから、今のうちに休んでおくと良いかと」
「休むのに動物園? どういう理屈だ」
「動物を見ていると和みませんか?」
変なことを言い出すやつだ、と思って習一は顔を上げた。しかし教師は真顔でいる。本気でそう思っているらしい。
「さあ……あんまり意識して見たことがなくて、わからない」
「動物が嫌いでないのならよろしいです。夕方は大衆浴場で休もうと考えています。着替えは一式購入しましょう。これが明日の計画です。貴方の希望があれば変更しますが」
「いや……やりたいことはない」
「では明日は動物園ですね。どんな子がいるのか楽しみです」
落ち着いた大人には似合わぬ無邪気な感想だ。教師は喜色に満ちている。
「もしかして、動物好きか?」
「そうです。もっぱら犬猫のような毛むくじゃらな動物が愛らしいと感じますけど、そうではない象などの動物も興味深いと思います」
「へー、意外だな。趣味のない仕事人間かと思ってたぜ」
「動物への関心は……個人的な感情ですね。それは趣味だと言えるのかもしれません」
教師は開いたノートに何かを書いた。習一との会話の中で記録したい事柄が出たようだ。習一も顔を伏せて解答を続けた。
4
喫茶店の客足が増え、昼飯時が迫る。教師の話では昼食の前に警官が来るが、と思った習一は外の様子を見た。窓際の席ゆえに人と車の往来がよく見える。警官は車かバイクに乗ることは教師の話から予測できた。安くはない乗り物を貸せるとなると、教師と警官は親しい間柄のようだ。おまけにこの炎天下の中、徒歩を強いられても厭わぬ相手だ。あの警官もまた、教師の仲間と言える存在なのだ。
道路上を走る白い影があった。滑空する白い鳥だ。その形状は習一の記憶に新しい。
「え……白いカラス?」
入院中に遭遇した白い羽毛の烏だ。全身真っ白な烏は希少生物であり、そうそう頻繁に出会えるものではない。なのに、白の烏は道路上を滑空する。その後ろに続くのが一台のバイクだった。乗り手は顔半分を防護レンズで覆うヘルメットを被る。人相はよくわからないが、学生の夏服のようなシャツとスラックスを履いた様子から男性だとわかった。
白の烏は習一の視界から飛び去る。習一は呆然とし、なんの変哲もない往来を見続けた。
「白いカラスが見えましたか」
低く安心感のある声によって習一は我に返る。その声には奇妙な言動への不信感がない。
「ああ、見えた。病院にいる時にも一回見たんだ。最近、このあたりに引越してきたのかな」
「いえ、あのカラスは警官の所有物です」
「警官のペットぉ? ずいぶんとレアな生き物を飼ってるんだな」
「他にも変わった動物をお持ちの方です。お願いすればいろいろ見せてくれますよ」
「ふーん。それはどうでもいい。あの警官がお出ましになったってことなのか?」
「はい、出迎えにいきます。しばらく待っていてください」
教師は日記帳を閉じ、店を出た。無防備な日記が習一の眼下にある。盗み見るに値しないと思い、手をださずにおいた。三分ほど経過すると教師が一人の男性を伴ってきた。その男性は習一が入院中、初めて目にした人物。名字を露木と名乗った警官だ。彼はヘルメットを小脇に抱え、反対の手には物が入った白いビニール袋を提げている。
「やぁお待たせ。習一くん、元気そうにしていて良かったよ」
露木は教師が座るソファの隣に腰を下ろした。ヘルメットは座席の空いたスペースに置き、持っていた袋は教師へ手渡す。
「せっかくだから薬、受け取ってよ。在庫全部っつってもまた作れるんだから」
「本当にいいのですか? シズカさんの分がなくては……」
「もうちょっと飲みやすく改良するんだ。クラさんと一緒に研究してみるつもり」
教師は露木に軽く頭を下げて「ありがたく頂戴します」と律儀に礼をのべ、自身の鞄へ袋を納めた。その薬とは二人とも使用の機会のあるものらしい。露木が習一に顔を向ける。
「課題のほうはどうだい、うまく合格できそうかな?」
「もうすぐ終わる。あとは補習に出席するだけ」
「うん、そうか。提出期限が来週末の宿題をもう済ませちゃうんだから、エライねえ」
「べつに偉くない。この先生が見張りをよこしてまでオレに強制したせいだ」
「シドさん側の見張りはあるだろうけど、きみは文句言わずにやってるんだろ? そこがエライんだよ。おれなら『もうむり』とか『明日にしよう』とか言っちゃいそうでね」
露木はさっぱりした笑顔を見せる。銀髪の教師よりはとっつきやすい大人だと習一は肌で感じた。年のころは二十代半ばだが、精神的には習一との隔たりがない。露木が特別幼いのではない。習一が変に世間擦れして少年らしさを失っただけだ。加えて教師が三十歳足らずのくせに老成している。そのせいで年齢的に近い大人二人が同世代に見えなかった。
「明日はシドさんの運転で動物園に行くんだってね。熱中症にならないように、飲み物をシドさんにねだるんだよ。彼は独身貴族で、お金に余裕があるからね」
露木は冗談半分な助言をする。
「こんな時、おこづかい制のお父さんは財布の中身がさびしくても子どもにジュースを買ってあげなきゃいけないんだから、大変だ。おれの兄貴もそのうちそうなるかな」
露木は温和な笑顔を浮かべつつ、テーブルの端に立てかけたメニューを取る。
「おれはここでご飯を食べる気なんだけど、お邪魔してても大丈夫かな」
「好きにしてくれ」
「ありがとう。どれにしようか……うちのご飯は野菜が多くってねー」
職業が警官だとは信じがたい呑気さで露木はメニューをめくり、雑談をし続けた。自分が住む家は寺であること、元々両親は住職ではなかったが不慮の災害で家を失くし、親戚の寺に住まわせてもらっていること、その親戚の娘と自分の兄が子どもの頃からの許嫁同士であり現在は結婚していること、といった身の上話を習一は聞かされた。
露木が昼食を注文するついでに習一も食事することにし、食べる間も彼は話を弾ませた。昼食中の露木は教師について熱心に話す。教師は今年の四月に初めて教師になった新人であること、シドの名前は教え子がつけたあだ名であり本名の頭文字を取ったということ、その教え子は樺島というアイドルとそっくりな顔をしていること、教え子と教師は親密な仲であること、校長が二人の仲を後押しすることなどを教師自らの弁解も交えて語った。
5
露木に再会した翌朝、習一は自室で休んでいた。教師が朝食を届けると言って自室での待機を指示したのだ。目が覚めて寝台の上をごろつき、窓の外のくもり空を眺め、次に昨日解きおえたプリントを見た。露木が長話を済ませて帰ったあとに教師に丸点けをしてもらったものだ。誤答を修正すべき箇所もすべて確認が終わっている。あとは補習を受けに登校したおりに教師へ提出して課題完了となる。鞄の中身を整理し、登校の準備を万全にしておいた。着ていく制服も昨日の夜のうちに回収した。今日にでも学校へ行けるほどに支度は整っている。明日の用意を点検したのち、今日の外出のために衣服を着替えた。
開いた窓から人があらわれ、軽々と桟を乗り越えて入室する。いつもの銀髪の少女だ。
「シューイチ、ごはんもってきた」
少女は背負ったリュックサックを机の上に乗せる。荷物から取り出したものはまたも水色の布。布地の下には握り拳大のなにかがシルエットとして存在する。
「おにぎりをつくってもらった。あと、飲みものはこれ」
少女はおにぎりの包みを机に置き、新たに紙パックを見せる。市販の野菜ジュースだ。
「食べおわるまでまってる」
少女がその場に座りこんだ。習一は勉強机の椅子に座り、彼女が届けた朝食を口にする。布にくるまれたおにぎりは二つあり、透明なラップで包装してあった。海苔を巻いたおにぎりには点々とふりかけが混ざっていて、中央部にはかつおぶしを醤油にひたしたおかかがある。もう一つは種のない梅干しが具のおにぎりだった。二つの握り飯を完食し、ジュースを飲んで潰すと少女が立ちあがった。習一は彼女に声をかける。
「お前はエリーって言うんだろ。お前も動物園に行くのか?」
「いかない。お昼ごはんができたら、あとでとどけにいく」
習一たちが遊覧に行く間も少女は無償の奉仕活動を続けるようだ。その従順さを健気だと習一は思った。だが遊びたい盛りの子どもには不満が噴出しそうな雑事だ。
「すっと使いぱしりにされてて、つまんなくないか?」
「ぜんぜん。動物は今日じゃなくても見れるもん」
エリーは習一の質問をこともなげに流す。強がりのようには見えなかった。
少女はおにぎりを保護したラップを広げ、その上で空の紙パックを小さく畳む。二枚の使用済みラップで紙パックを包み、布と一緒にリュックサックへ入れた。
「でかけよ。シドがまってる」
「父親が起きてると思う。見つかったらすぐに出れねえぞ」
「わたしがちょっとのあいだ、うごけなくしてくる」
エリーが窓から飛び降りた。なにをする気だ、と習一は不審がりながら窓を閉める。一応の所持金をズボンのポケットに入れて部屋を出た。一階の居間には椅子に腰かける父の姿がある。目は閉じており、二度寝をしているらしい。エリーが手をくだすまでもなく鬼の目を盗むことができた。習一は堂々と靴を履き、玄関を出た。
昨日と同じく銀髪の教師が道路上で待っていた。彼は習一の姿を見るとエンジン音を鳴らす。露木に借りたバイクを稼働したのだ。そうして彼は露木のヘルメットを被った。習一が鉄格子をのけると彼はもう一つのヘルメットを手にする。
「これを被ってください」
予備のヘルメットに風よけのレンズはない。習一は黙ってそれを被り、もみあげから顎の下までを伝うベルトのクリップを留めた。教師は普通自動二輪の機体へまたがる。その後方には人一人が座れる幅があり、空席の後ろには低い背もたれのような箱が設置してあった。箱はリアボックスと呼ぶらしい。箱の中に荷物を入れることができ、一度使い出したら外せないと露木は利便性を説いていた。外観は不恰好になってしまうが、習一も教師も見てくれを気にしないので外されないままだ。習一は教師と箱の間に自身の体をおさめた。
「私の体に捕まっていてください。安全運転を心掛けますが、何が起きるかわかりません。手を離さないようにお願いします」
慎重な勧告にしたがい、習一は成人男性の腹部に両腕を巻いた。喧嘩以外に他人に触れることは滅多になく、いいようのない心持ちが生じる。敵意ではなく、好意でもない気持ちで他者にくっつく。今の自分の心境が良いものか悪いものかさえ、わからなくなった。
習一の動揺を置き去りにしてバイクは発進する。習一は流れゆく実家を見つめ、その家屋が視界になくなっても視線を変えなかった。
6
「ひざに乗せます。じっとしていてください」
茶や白などの毛玉が放たれた区画があり、その場を取りかこむベンチに習一が座っていた。習一の太ももへ、教師が捕まえた獣が乗る。動物に慣れていない習一はおっかなびっくりで、自身の体へ着陸する獣を見つめた。短い四肢を人の足に乗せた獣は三毛猫と似た毛皮を持つ。白と茶と黒で彩られた獣の顔は間が抜けていた。その平和ボケした面構えにたがわぬ大人しさで、太ももの上にじっと居座る。この獣の種類はモルモットという。
「なでてみてください。このように」
教師の色黒な手が毛皮に触れる。後頭部から背中まで、数回に渡って一方通行を繰り返した。何百何千という来園客をもてなしたであろう獣は泰然自若の面持ちでいる。
(このデブネズミの方が度胸があるってのか?)
習一は小動物に臆する自分を腹立たしく思い、獣の丸い背をわしわしと手のひらでこすった。荒いなで方をされても獣は離れない。この程度の摩擦は経験済みらしい。
「大人しい子ですね。では、私も一匹預かってきます」
教師は再び、小さな獣たちが待機する囲いの中へ両手を入れた。次に捕まえた獣の毛はクリーム色だ。胴体を褐色の手に抱かれた毛玉は鼻をひくつかせ、習一の目の前へやってくる。教師は習一の隣に座り、その膝に単色の獣を置いた。片手で獣の尻をそっとおさえつつ、まんべんなく毛皮を触る。そうするうちにクリームの獣は前足を捕獲者の腹へ押しつけて立った。教師は両手で獣の脇を持つ。獣の尻を片腕の肘の内側に乗せ、胸の前に抱いた。空いた片方の手でその頭をなでる。獣を愛でる教師の表情はほころび、慈愛に満ちていた。習一相手には見せなかった顔だ。よほどの動物好きなのだろう。
「動物をさわってて、楽しいか?」
習一は適当に三毛のモルモットの毛皮をいじりながら質問する。教師が「はい」と視線を獣に注いだまま答えた。習一はふん、と鼻をならす。
「こんなすっとぼけた顔した連中の、なにがいいんだ?」
「顔はどんなのでもかまいません。柔らかい毛と体、愛らしい仕草にまっすぐな心根を持った子はみな、かわいいものです」
「ふーん、じゃ、オレみてえなヒネクレ者は嫌いなわけだ」
「人と動物は違いますよ」
教師が真剣な表情で言った。彼は獣を自身の太ももに下ろし、習一を見る。
「愛玩動物は愛らしさ一つで一生をまっとうできる者が数多くいます。それが彼らの役目です。人はそういきません。生きる術と知恵を身に着ける必要がありますし、その手伝いをするのが私の役目です。生徒を選り好みして指導にあたることはできません」
謹厳な回答だ。習一は獣の柔軟な肢体を指圧のごとく押しつつ、口をゆがめる。
「聞こえのいいこと言ったって、やっぱり素直なやつは扱いやすいし聞き分けのないやつはメンドクセーだろ?」
「職務上の苦楽はあまり考えたことがありません」
「きれいごとはいらない。聖人面してても嫌いなやつはいるだろ、と言ってるんだ」
「いることはいますが、オダギリさんはその範疇にありませんよ」
難敵の認識がないことに習一は期待外れのような、胸がすいたような気持ちになった。
「貴方は自分を性根の曲がった問題児だと思っているようですね」
「思うもなにも、周りはみんなそう扱ってるだろ」
「私も『みんな』のうちに含まれていますか?」
習一は黙った。この男の胸中は知れないが習一を疎んじる素振りは一度もなかった。家族や学校の連中とは違うのだ。習一は一言「わかんねえ」とつぶやく。教師が微笑する。
「それは、貴方が私を敵だと思っていない、ということでしょうか?」
「……いまのとこ、な。それで、いつまでこいつを触っていればいいんだ?」
習一は三毛の毛並みをわざと逆立ててなでた。小動物を嫌う理由はないものの、モルモット目当てに集まる人だかりができつつある現状に不快を覚えていた。子ども連れの親がこぞって囲いに群がり、獣の捕獲に熱中する。他人の捕獲風景を見るに、逃走を図る獣に難儀する人がいる。人々が獣に夢中になるのはまだいい。狙い通りに獣を得た者が習一たちと同じベンチに座り、その関心が次第に隣席の習一と連れの教師に向かうことが嫌だった。親子や兄弟には決して見えぬ二人を、どう勘ぐられるものかと習一は気が気でなかった。
「わかりました。次はまだ見ていない動物を見に行きましょう」
教師は習一が気分を悪くしていることを察知したようで、クリーム色の獣を胸に抱いて席を立つ。その背中には斜めにかけるショルダーバッグがある。バイクの走行中は後部座席にいる習一の邪魔にならぬよう、バイクの荷物入れに収納していた。
獣の返却をする前に、教師はモルモットの居住区にへばりつく女性と小さい女の子に声をかける。逃げる獣を捕まえられずにいる親子に、手中にあるモルモットを渡そうというのだ。親子がベンチに座ると教師は娘の膝に獣を乗せる。習一にしたのと同じ行為だ。娘はよろこんで獣の背中をなで回し、母親は教師に謝辞を述べた。もどってきた教師は習一に手をさしのべて「その子を返してきましょうか」と聞く。
「それぐらい、自分でやる」
万事を他人任せにするのは鈍くさいやつのすることだ、と習一は考え、獣のもちもちした胴を両手で抱えた。三毛を囲いの中へ放つ。拘束が解かれた獣は藁のじゅうたんに頭を突っこみ、ひとときの自由を満喫する。習一は教師が水場に行くのを追いかけた。
動物に触れる前と後はかならず手を洗うように、との注意書きにそって、二人は液体せっけんを泡立てる。手がまんべんなく白い泡にまみれたあと、水で泡と汚れを流した。習一はぬれた手を適当に服でぬぐうが、教師は持参のハンカチで拭く。彼は水気をふき取った指に白い宝石のついた指輪をはめた。それは平素より彼が身に着ける装飾品であり、一度めの手洗いの際に外していた。触れた動物にケガをさせてはいけないから、という気遣いゆえにポケットに隠したものだ。
(動物にもバカ丁寧なんだな)
男らしくない細かい配慮だと思う反面、そんな男に養われる家族やペットは幸福な生き方ができるのだろうとひそかに感じた。
習一は外気の熱にうだりながら、黒灰色のシャツを見失わないように歩いた。銀髪の教師は進行方向を見つつも習一を置き去りにしない歩調を保つ。朝、ともに歩いた時の速度を正確に覚えたのか。あるいは他人の気配の遠近を察せるのだろう。どちらも常人離れした技能ではあるが、過去に習一を武力で凌駕したという男にはできそうな気がした。
教師はめぼしい飲食店の前を通り、和風な店へと近づく。その店の分類を習一は知らない。教師は引戸をがらがらと開けた。屋内の喧騒が解き放たれ、入店客への挨拶が威勢よく飛び交う。二人を出迎えた者はねずみ色の頭巾を被った中年だ。身長は教師とほぼ同じだが恰幅はいい。黒の前掛けの横幅が微妙に足りず、紺色の作務衣が少しはみ出ていた。
「いらっしゃい! 先生、今日は一人か?」
「いえ、連れが一人います」
図体の大きい店員は上体を横へずらし、教師の後ろにいる習一を発見した。彼の目尻は吊り上がっている。射るような視線を習一は感じた。ただし敵意は含まれていない。
「ん? 見たことない子だな。才穎高校の子か?」
「いえ、別の学校の生徒です。しばらく勉強のお手伝いを──」
「あ〜、そういや娘が言ってたな。先生が他校の男子の世話するからその子のメシをつくるって」
昨日のサンドイッチはこの店員の娘の手によるもの。そうと知った習一はむずがゆい思いをした。なんとなく自身の母親に近い、年長の人物が作った食事だと想定していた。
(同い年くらいのやつが、か……)
なんの見返りもない善意を振りまく同輩がいる。習一は空手部の同級生の名を髣髴し、次いでその曇りのない眼を思い出した。
教師とは仲の良さそうな店員が席を案内する。そこは一面に鉄板を乗せた四人掛けのテーブルだった。油と小麦粉が焼ける匂いが充満する店はお好み焼屋であり、酒を片手に粉物をほおばる客もいた。店員は注文が決まったら呼んでほしいと言い、厨房へ去る。教師がテーブルのメニュー立てにある冊子を取り、習一に手渡した。
「食べられるだけ頼んでください。代金は私が支払います」
「あんたはまた食わないのか?」
「はい。腹は減っていません」
「朝のパンだけじゃ足りないだろ。オレの飯代を肩代わりするために無理してるのか?」
「金銭には困っていません。ただの体質です」
メニューを見ようとしない習一に代わって、教師がもう一つのメニュー表を開く。
「具の好物が特にないようでしたら、ミックス玉がよさそうですね。いろんな具が少量ずつ入っているそうです。たくさんの味を楽しめますよ」
習一がメニューを見るとミックス玉とは同種の中で最も価格が高く、量は二人前だ。
「これ、二人分だって書いてあるぞ」
「昼を食べていませんから大丈夫でしょう。それとも、お好み焼きは苦手ですか」
「べつに嫌いじゃないが……量による」
「残してもかまいません。私が処理します」
「わかった。じゃあそれ一つ、頼む」
教師は店員が他客への品運びを終えて厨房へ行くところを声掛けする。立ち止まった者はひょろ長い背格好の青年だった。年齢は二十代。彼も灰色の手ぬぐいを頭に巻き、黒いエプロンを掛けている。前掛けの下は若者らしい私服だ。頭巾と前掛けがこの店の制服のようだ。若い店員に教師が注文をつけ、店員は伝票を復唱したのちに厨房へ帰る。入れ替わりで中年の店員が現れた。習一たちに氷水を提供する。
「そいじゃ、鉄板を熱くするんで触らないようにしてくれよ」
店員は身を屈め、テーブル横のつまみをひねった。鉄板の加熱が始まる。店内の冷房を打ち消す熱気が徐々に生まれた。鉄板には幾重にもヘラが当たった薄い線が走る。年季の入った店なのだろう。習一は今までこの店を素通りするばかりで入店したことがなく、お好み焼き屋であることは知らずにいた。それは仲間内のグルメ評にはあがらなかったせいだ。うまいともまずいとも評価されない料理に多大な期待を寄せることはやめた。
ふたたび細長い体型の店員が現れる。彼は黒塗りの丼のような器と、ヘラを置いた二枚の取り皿を盆に乗せて運ぶ。習一たちに料理のもとを提供すると、すぐに他の客のもとへ馳せ参じた。
教師が調味料と一緒にならんでいた油を手にし、鉄板に垂らす。油をヘラで薄く一面に引いた。音と細かい気泡を立てて油が熱される。熱した油の上に丼に入った薄黄色の液状を敷いた。小麦粉を溶いた液体にはとうもろこしの粒や丸まった海老、白いイカなど色々な具材が混じっている。教師は丼に残った具をヘラで掻きだし、円形に広がった溶液に落とした。その手際を見るかぎり、料理下手には思えない。
「あんた、お好み焼きを作るのは得意なのか?」
「いえ、初めは何度も失敗しました。練習したおかげで人並みに焼けます」
「へー、それでお好み焼きを食ったことは?」
「……あまり、ありません」
「あんたは何なら食えるんだよ?」
「好き嫌いはありません。私の滋養になる食べ物の種類が極端に少ないのです」
「食べ物のアレルギーが多くて、食えるもんが少ないってことか?」
「アレルギー症状は出ません。本当に、栄養をとれる食べ物が限られるのです」
「? じゃあ胃が受け付けないのか?」
「どう言ってよいものやら……この説明も貴方の記憶がもどったあとにさせてください」
教師は習一の疑問を解消させない返答をしたまま、お好み焼きの制作に集中した。彼は正直に答えているようだが、習一の常識に当てはめた解釈では真相にたどりつけない。特定の食べ物のみを胃が吸収するのでも、アレルギーがあって飲食に制限がかかるわけでもない。それ以外に好悪の情なく偏食に走る理由は、習一には思いつけなかった。
教師は小麦粉が固まってきた円状の板を二つのヘラで持ち上げてひっくり返す。表に返った側には茶色の焦げ目が出来上がっている。
「今日はこの店を含めて三か所、訪れましたね。疲れましたか?」
「ああ……やっぱり暑い時に歩きまわると疲れる」
「わかりました。明日は一か所に留めましょう。喫茶店に長時間いてもかまいませんか」
「昨日、それをやった。なんとも思わねえよ」
「それは結構。明日は貴方が昨日過ごした喫茶店で課題をこなしましょうか」
「これだけ頑張ってやっても、オレ一人でちゃんとやるとは思えねえか」
「貴方を信じないのではありません。オダギリさんの身を案じているのです」
「オレのことが心配? なにを気にしてんだ」
「貴方の父親のことです」
習一は胸を衝かれた。習一が最も苦悩する物事を教師は臆することなく提示する。習一は教師をにらんだ。黄色のサングラスの向こうにある目は一途に料理を見つめていた。
2
「貴方は以前、町中を放浪する不良少年だった、という認識で合っていますか?」
「ああ、そうだ。この辺に住んでる連中にけむたがられる、人間のできそこないだよ」
「そのように己を卑下してはいけません」
凛とした叱責だった。習一は口をつぐむ。
「貴方はきちんとした人間です。その証拠に昨日も今日も、長い時間を課題に向き合ってこれたでしょう。胸を張ってください。自分は頑張れた、と」
「気休めはいい。それで、父親についてどこまで知ってるんだ」
教師は平たい小麦粉の塊をもう一度ひっくり返す。両面に茶色の焦げ目がついた塊をヘラで半分に割き、火の通り具合を見る。
「そろそろ焼けますね」
「父親の話をしながら夕飯か。あんまり食えたもんじゃないな」
「では別に話題にしましょう」
「いや、とっとと教えてくれ。それを聞いたら食う」
教師は上半身を横へ倒し、鉄板の熱を弱めた。夕飯が焦げないための配慮だ。
「厳格な裁判官だそうで、情状酌量はあまりお好きでないとか。罪は罪としていかなる事情があれど罰するべきだというお考えの方だとお聞きしました」
「よく、知ってるな……」
「情報通な知人がいるので調べてもらいました。わかったのは表面的な情報だけですがね。長男である貴方とは不仲続きだと知れましたが、原因はわかりませんでした。あとは雒英高校の掛尾先生に教えてもらった話ですと、前年度を境に貴方の素行が荒れ始めた、と。その時に父親と激しい衝突があったのではありませんか」
「そうだよ、だからどうした? もめる原因がわかれば仲直りできると思ってんのか」
習一は底意地悪く聞いた。教師は軽く頭を横にふる。
「いいえ、私が知りたいのは貴方の父親が貴方を嫌うという事実です。貴方が家にいたがらないのは父親のせいでしょう。父親がいなければ貴方は日が落ちる前に、安心して家に帰ることができる。登校時刻に家族に顔をあわせて学校へ行ける。違いますか?」
教師の指摘は合っている。習一は父が眠るか仕事でいない時に家に帰り、父が出勤した後で出かける用意をする。常に父親と家の中で遭遇しないことに注意を払って過ごしてきた。父さえいないのなら母も妹も習一には無害な存在だ。
「父親がわが子を目の仇にする事情は察しかねます。ですが貴方を非行に走らせた元凶である以上、その存在を除かなければ貴方に真っ当な高校生活は送れません」
「あんたはオレじゃなくてオレの父親がダメ人間だって言うのか?」
「極論でいえばその通りです。貴方は元来、まじめな性格なのだと思います。そうでない人はプリントの山を解き続ける苦行に耐えられません。きっと弱音を吐いて逃げ出そうとします。ですが、貴方はエリーにも不満をもらしませんでしたね」
「……逃げたって他にやることがないからな。どうせ暇ならつまんねえ勉強でもやるさ」
「暇があれば勉強に励む、とは優等生らしい発想ですね」
「こんな落第生にゃ似合わねえ言葉だ、ってえ皮肉か?」
「いえ、貴方は周囲の人間に恵まれれば現在も優等生でいたはずです。その気性をねじ曲げた原因が父親なのですから、父親に親としての問題点があります。貴方を普通の生徒へ教化するにはまず、父親をどうにかしなくてはなりません」
教師は火を通したお好み焼きを食べやすいサイズに分けつつ、感慨深い言葉を連ねる。習一が心のどこかで誰かに言ってほしかった述懐だ。しかし根本的な解決法は見出せない。
「父親をどうにかする、ったって、あの頑固オヤジは死ぬまであのままだろうよ」
「はい。貴方が父親と一緒にいても互いに傷つくばかり。どちらかが離れるべきでしょう」
「家を出るならオレのほうだ。でも一人で生活できるか? 中卒じゃどこも雇わないぞ」
「厳しいでしょうね。ですので……私が貴方の一人暮らしを支援しようと考えています」
「あんたが? オレが、一学期の試験に合格できたあとも?」
「はい、周りの協力と貴方の気持ちがそろえば可能だと思います」
習一はしげしげとヘラを握る男を見た。彼が場当たり的な綺麗ごとを述べたようには見えない。ごく自然に、真摯な態度を保持している。
「今すぐに、とはいきませんが……この夏休みの期間中になんらかの落としどころをつけたいと思っています。オダギリさんの家庭環境は不健全です。補習を受け終えてからでかまいません。今後の身の置き方を考えてみてください」
教師は毛先の短い筆が入った調味料の蓋を外し、ソースをお好み焼きに塗りつける。焦げ茶色に染まった生地に習一はマヨネーズとかつおぶしをかけて食べ始めた。
3
習一は平凡な喫茶店での朝食をすっきりたいらげた。食事中、教師に聞きそびれていたことが何度も頭によぎる。この店が先日、田淵と会った店だったせいだ。給仕が空の皿を下げたあとで銀髪の教師に尋ねる。
「なぁあんた、背がデカくて銀髪で色黒な男を知ってるか?」
教師はブックカバーをかけた本を閉じる。彼はやはり飲食をとる気配がなかった。
「その男とは私以外の人物ですね?」
「そうだ。オレの仲間は銀髪とは言ってなくて、帽子を被ったオバケ男だと言ってたが」
「オバケですか。ユニークな表現をするお友達ですね」
教師は微笑んだ。幽霊じみた存在を疑う様子はない。
「その男、あんたの仲間か?」
「ええ、そうです。私と同じ志を持つ同胞ですよ。帽子を被るオバケが銀髪だという情報は誰が提供したのですか?」
「誰も言っちゃいない。光葉というヤクザっぽい男が捜してたヤツかと思ったんだ。あんたの仲間、ヤクザ連中には有名なのか?」
「名が知れているかどうかわかりません。ただ、接触はありました。私ともども恩ある方がおりまして、その方を護衛した時に」
「それが無敗のバケモノ、と言われる由来か」
「そんな呼び名が付いていましたか。初めて耳にしました」
全くの他人事のように教師が淡く驚いた。習一は質問を続ける。
「光葉は男みたいに背が高い銀髪の女のことも聞いてきた。それもあんたの仲間か?」
教師は目を丸くした。銀髪の女の存在が知れ渡る状況は想定外だったらしい。
「そう、ですか。見ている人はいるものですね」
「知ってるんだな?」
「はい。その女も……私の仲間です」
「けっこう大所帯なんだな。そんなに銀髪な連中がいたら目立つと思うんだが」
「だから帽子を被るのですよ。私は仕事上、帽子を着用できないので諦めています」
「エリーはなにも被ってなかったが、あいつはいいのか?」
「今はいいのです。なるべく人目に付かないようにしていますから」
「オレと半日一緒にいたことがあっても、か?」
「はい。目立っていなかったでしょう?」
習一はわだかまりが解けない事実だ。この喫茶店で出会った田淵は、少女が同席しないも同然の態度を通した。この現象を不審に思った習一の質問には「気配を消してるから」と少女は簡単に答えた。習一以外の人間が見ても気付かぬ特殊能力でもあるというのか。
「納得がいかないようですね。いずれわかります」
「いずれ、か。まあどうでもいい。ヤクザもどきな男には会ってないか?」
「どんな人物か、特徴を教えてもらえますか」
「背はあんたより高くてゴツい感じで、日焼けした金髪野郎だ。白スーツを着てたな」
「会っていませんね。真夏に人捜しは重労働でしょうし、諦めてくれればよいのですが」
「それもそうだな。カンカン照りの時に外を歩きたくねえ」
光葉は人捜しに飽いて己がネグラへ戻ったのだろう。そう見做して習一は今日の課題をテーブルに並べた。残り少ないので参考とする教科書の数も少ない。昨日は教科書なしだったために解かなかった問題も、今日は参考資料が手元にある。早速取りかかった。
教師は習一が目的を果たす作業に入ったのを確認し、彼もノートと筆記具を机に置いた。何を書き留めるのかと習一は興味がわき、じっとノートを見た。教師が視線に気付く。
「これは私の日記です。近頃は立てこんでいたので手つかずでした」
「人前で日記書くのは恥ずかしくないか?」
「その日の出来事と自分の考えを記すだけです。他人に見られて恥だとは思いません」
「ふーん。じゃあオレが見ても怒らないんだな?」
「ええ、読みたければどうぞ。見ますか?」
「やめとく。あんたのことはどーでもいいからな」
「そうですね。貴方が必要とする情報は少ないでしょうし、それが賢明です」
習一は引き続きプリントの設問を解く。教師はまだ手を動かさないでいる。
「そのままの状態で聞いてください。今後の予定を伝えておきます。今日の昼前に、貴方が目覚めた時に会った警官がここへ来ます。目的は簡単な状況確認です」
本日、警官が来訪する。彼と習一が会ってから今日で一週間が過ぎた。様子観察をするには遅くも早くもない頃合いだ。
「同時に彼の交通手段をお借りして、明日は遠出しようと思っています」
「どこに行く気なんだ?」
習一は顔をうつむいたまま問う。教師の指示通り、課題の片手間の会話姿勢を保った。
「動物園です。明日の天気は曇り、気温が低めらしいので、万全の体調でない貴方でも園内を見学できると思います」
習一は動物園にはあまり縁がない。幼稚園や小学校に通った時に遠足で訪れたきり、私的に見物したことはなかった。遊びには飽きた習一でも真新しい発見と体験ができそうな場所だ。
「朝食と昼食は知り合いにつくってもらいます。食事の心配はいりません」
「そんなところに行く理由はなんだ? 補習には全然関係ないだろ」
「気晴らしです。ずっと机に向かい続けていては心身ともに良くありません。あとに三日間の補習が控えていますから、今のうちに休んでおくと良いかと」
「休むのに動物園? どういう理屈だ」
「動物を見ていると和みませんか?」
変なことを言い出すやつだ、と思って習一は顔を上げた。しかし教師は真顔でいる。本気でそう思っているらしい。
「さあ……あんまり意識して見たことがなくて、わからない」
「動物が嫌いでないのならよろしいです。夕方は大衆浴場で休もうと考えています。着替えは一式購入しましょう。これが明日の計画です。貴方の希望があれば変更しますが」
「いや……やりたいことはない」
「では明日は動物園ですね。どんな子がいるのか楽しみです」
落ち着いた大人には似合わぬ無邪気な感想だ。教師は喜色に満ちている。
「もしかして、動物好きか?」
「そうです。もっぱら犬猫のような毛むくじゃらな動物が愛らしいと感じますけど、そうではない象などの動物も興味深いと思います」
「へー、意外だな。趣味のない仕事人間かと思ってたぜ」
「動物への関心は……個人的な感情ですね。それは趣味だと言えるのかもしれません」
教師は開いたノートに何かを書いた。習一との会話の中で記録したい事柄が出たようだ。習一も顔を伏せて解答を続けた。
4
喫茶店の客足が増え、昼飯時が迫る。教師の話では昼食の前に警官が来るが、と思った習一は外の様子を見た。窓際の席ゆえに人と車の往来がよく見える。警官は車かバイクに乗ることは教師の話から予測できた。安くはない乗り物を貸せるとなると、教師と警官は親しい間柄のようだ。おまけにこの炎天下の中、徒歩を強いられても厭わぬ相手だ。あの警官もまた、教師の仲間と言える存在なのだ。
道路上を走る白い影があった。滑空する白い鳥だ。その形状は習一の記憶に新しい。
「え……白いカラス?」
入院中に遭遇した白い羽毛の烏だ。全身真っ白な烏は希少生物であり、そうそう頻繁に出会えるものではない。なのに、白の烏は道路上を滑空する。その後ろに続くのが一台のバイクだった。乗り手は顔半分を防護レンズで覆うヘルメットを被る。人相はよくわからないが、学生の夏服のようなシャツとスラックスを履いた様子から男性だとわかった。
白の烏は習一の視界から飛び去る。習一は呆然とし、なんの変哲もない往来を見続けた。
「白いカラスが見えましたか」
低く安心感のある声によって習一は我に返る。その声には奇妙な言動への不信感がない。
「ああ、見えた。病院にいる時にも一回見たんだ。最近、このあたりに引越してきたのかな」
「いえ、あのカラスは警官の所有物です」
「警官のペットぉ? ずいぶんとレアな生き物を飼ってるんだな」
「他にも変わった動物をお持ちの方です。お願いすればいろいろ見せてくれますよ」
「ふーん。それはどうでもいい。あの警官がお出ましになったってことなのか?」
「はい、出迎えにいきます。しばらく待っていてください」
教師は日記帳を閉じ、店を出た。無防備な日記が習一の眼下にある。盗み見るに値しないと思い、手をださずにおいた。三分ほど経過すると教師が一人の男性を伴ってきた。その男性は習一が入院中、初めて目にした人物。名字を露木と名乗った警官だ。彼はヘルメットを小脇に抱え、反対の手には物が入った白いビニール袋を提げている。
「やぁお待たせ。習一くん、元気そうにしていて良かったよ」
露木は教師が座るソファの隣に腰を下ろした。ヘルメットは座席の空いたスペースに置き、持っていた袋は教師へ手渡す。
「せっかくだから薬、受け取ってよ。在庫全部っつってもまた作れるんだから」
「本当にいいのですか? シズカさんの分がなくては……」
「もうちょっと飲みやすく改良するんだ。クラさんと一緒に研究してみるつもり」
教師は露木に軽く頭を下げて「ありがたく頂戴します」と律儀に礼をのべ、自身の鞄へ袋を納めた。その薬とは二人とも使用の機会のあるものらしい。露木が習一に顔を向ける。
「課題のほうはどうだい、うまく合格できそうかな?」
「もうすぐ終わる。あとは補習に出席するだけ」
「うん、そうか。提出期限が来週末の宿題をもう済ませちゃうんだから、エライねえ」
「べつに偉くない。この先生が見張りをよこしてまでオレに強制したせいだ」
「シドさん側の見張りはあるだろうけど、きみは文句言わずにやってるんだろ? そこがエライんだよ。おれなら『もうむり』とか『明日にしよう』とか言っちゃいそうでね」
露木はさっぱりした笑顔を見せる。銀髪の教師よりはとっつきやすい大人だと習一は肌で感じた。年のころは二十代半ばだが、精神的には習一との隔たりがない。露木が特別幼いのではない。習一が変に世間擦れして少年らしさを失っただけだ。加えて教師が三十歳足らずのくせに老成している。そのせいで年齢的に近い大人二人が同世代に見えなかった。
「明日はシドさんの運転で動物園に行くんだってね。熱中症にならないように、飲み物をシドさんにねだるんだよ。彼は独身貴族で、お金に余裕があるからね」
露木は冗談半分な助言をする。
「こんな時、おこづかい制のお父さんは財布の中身がさびしくても子どもにジュースを買ってあげなきゃいけないんだから、大変だ。おれの兄貴もそのうちそうなるかな」
露木は温和な笑顔を浮かべつつ、テーブルの端に立てかけたメニューを取る。
「おれはここでご飯を食べる気なんだけど、お邪魔してても大丈夫かな」
「好きにしてくれ」
「ありがとう。どれにしようか……うちのご飯は野菜が多くってねー」
職業が警官だとは信じがたい呑気さで露木はメニューをめくり、雑談をし続けた。自分が住む家は寺であること、元々両親は住職ではなかったが不慮の災害で家を失くし、親戚の寺に住まわせてもらっていること、その親戚の娘と自分の兄が子どもの頃からの許嫁同士であり現在は結婚していること、といった身の上話を習一は聞かされた。
露木が昼食を注文するついでに習一も食事することにし、食べる間も彼は話を弾ませた。昼食中の露木は教師について熱心に話す。教師は今年の四月に初めて教師になった新人であること、シドの名前は教え子がつけたあだ名であり本名の頭文字を取ったということ、その教え子は樺島というアイドルとそっくりな顔をしていること、教え子と教師は親密な仲であること、校長が二人の仲を後押しすることなどを教師自らの弁解も交えて語った。
5
露木に再会した翌朝、習一は自室で休んでいた。教師が朝食を届けると言って自室での待機を指示したのだ。目が覚めて寝台の上をごろつき、窓の外のくもり空を眺め、次に昨日解きおえたプリントを見た。露木が長話を済ませて帰ったあとに教師に丸点けをしてもらったものだ。誤答を修正すべき箇所もすべて確認が終わっている。あとは補習を受けに登校したおりに教師へ提出して課題完了となる。鞄の中身を整理し、登校の準備を万全にしておいた。着ていく制服も昨日の夜のうちに回収した。今日にでも学校へ行けるほどに支度は整っている。明日の用意を点検したのち、今日の外出のために衣服を着替えた。
開いた窓から人があらわれ、軽々と桟を乗り越えて入室する。いつもの銀髪の少女だ。
「シューイチ、ごはんもってきた」
少女は背負ったリュックサックを机の上に乗せる。荷物から取り出したものはまたも水色の布。布地の下には握り拳大のなにかがシルエットとして存在する。
「おにぎりをつくってもらった。あと、飲みものはこれ」
少女はおにぎりの包みを机に置き、新たに紙パックを見せる。市販の野菜ジュースだ。
「食べおわるまでまってる」
少女がその場に座りこんだ。習一は勉強机の椅子に座り、彼女が届けた朝食を口にする。布にくるまれたおにぎりは二つあり、透明なラップで包装してあった。海苔を巻いたおにぎりには点々とふりかけが混ざっていて、中央部にはかつおぶしを醤油にひたしたおかかがある。もう一つは種のない梅干しが具のおにぎりだった。二つの握り飯を完食し、ジュースを飲んで潰すと少女が立ちあがった。習一は彼女に声をかける。
「お前はエリーって言うんだろ。お前も動物園に行くのか?」
「いかない。お昼ごはんができたら、あとでとどけにいく」
習一たちが遊覧に行く間も少女は無償の奉仕活動を続けるようだ。その従順さを健気だと習一は思った。だが遊びたい盛りの子どもには不満が噴出しそうな雑事だ。
「すっと使いぱしりにされてて、つまんなくないか?」
「ぜんぜん。動物は今日じゃなくても見れるもん」
エリーは習一の質問をこともなげに流す。強がりのようには見えなかった。
少女はおにぎりを保護したラップを広げ、その上で空の紙パックを小さく畳む。二枚の使用済みラップで紙パックを包み、布と一緒にリュックサックへ入れた。
「でかけよ。シドがまってる」
「父親が起きてると思う。見つかったらすぐに出れねえぞ」
「わたしがちょっとのあいだ、うごけなくしてくる」
エリーが窓から飛び降りた。なにをする気だ、と習一は不審がりながら窓を閉める。一応の所持金をズボンのポケットに入れて部屋を出た。一階の居間には椅子に腰かける父の姿がある。目は閉じており、二度寝をしているらしい。エリーが手をくだすまでもなく鬼の目を盗むことができた。習一は堂々と靴を履き、玄関を出た。
昨日と同じく銀髪の教師が道路上で待っていた。彼は習一の姿を見るとエンジン音を鳴らす。露木に借りたバイクを稼働したのだ。そうして彼は露木のヘルメットを被った。習一が鉄格子をのけると彼はもう一つのヘルメットを手にする。
「これを被ってください」
予備のヘルメットに風よけのレンズはない。習一は黙ってそれを被り、もみあげから顎の下までを伝うベルトのクリップを留めた。教師は普通自動二輪の機体へまたがる。その後方には人一人が座れる幅があり、空席の後ろには低い背もたれのような箱が設置してあった。箱はリアボックスと呼ぶらしい。箱の中に荷物を入れることができ、一度使い出したら外せないと露木は利便性を説いていた。外観は不恰好になってしまうが、習一も教師も見てくれを気にしないので外されないままだ。習一は教師と箱の間に自身の体をおさめた。
「私の体に捕まっていてください。安全運転を心掛けますが、何が起きるかわかりません。手を離さないようにお願いします」
慎重な勧告にしたがい、習一は成人男性の腹部に両腕を巻いた。喧嘩以外に他人に触れることは滅多になく、いいようのない心持ちが生じる。敵意ではなく、好意でもない気持ちで他者にくっつく。今の自分の心境が良いものか悪いものかさえ、わからなくなった。
習一の動揺を置き去りにしてバイクは発進する。習一は流れゆく実家を見つめ、その家屋が視界になくなっても視線を変えなかった。
6
「ひざに乗せます。じっとしていてください」
茶や白などの毛玉が放たれた区画があり、その場を取りかこむベンチに習一が座っていた。習一の太ももへ、教師が捕まえた獣が乗る。動物に慣れていない習一はおっかなびっくりで、自身の体へ着陸する獣を見つめた。短い四肢を人の足に乗せた獣は三毛猫と似た毛皮を持つ。白と茶と黒で彩られた獣の顔は間が抜けていた。その平和ボケした面構えにたがわぬ大人しさで、太ももの上にじっと居座る。この獣の種類はモルモットという。
「なでてみてください。このように」
教師の色黒な手が毛皮に触れる。後頭部から背中まで、数回に渡って一方通行を繰り返した。何百何千という来園客をもてなしたであろう獣は泰然自若の面持ちでいる。
(このデブネズミの方が度胸があるってのか?)
習一は小動物に臆する自分を腹立たしく思い、獣の丸い背をわしわしと手のひらでこすった。荒いなで方をされても獣は離れない。この程度の摩擦は経験済みらしい。
「大人しい子ですね。では、私も一匹預かってきます」
教師は再び、小さな獣たちが待機する囲いの中へ両手を入れた。次に捕まえた獣の毛はクリーム色だ。胴体を褐色の手に抱かれた毛玉は鼻をひくつかせ、習一の目の前へやってくる。教師は習一の隣に座り、その膝に単色の獣を置いた。片手で獣の尻をそっとおさえつつ、まんべんなく毛皮を触る。そうするうちにクリームの獣は前足を捕獲者の腹へ押しつけて立った。教師は両手で獣の脇を持つ。獣の尻を片腕の肘の内側に乗せ、胸の前に抱いた。空いた片方の手でその頭をなでる。獣を愛でる教師の表情はほころび、慈愛に満ちていた。習一相手には見せなかった顔だ。よほどの動物好きなのだろう。
「動物をさわってて、楽しいか?」
習一は適当に三毛のモルモットの毛皮をいじりながら質問する。教師が「はい」と視線を獣に注いだまま答えた。習一はふん、と鼻をならす。
「こんなすっとぼけた顔した連中の、なにがいいんだ?」
「顔はどんなのでもかまいません。柔らかい毛と体、愛らしい仕草にまっすぐな心根を持った子はみな、かわいいものです」
「ふーん、じゃ、オレみてえなヒネクレ者は嫌いなわけだ」
「人と動物は違いますよ」
教師が真剣な表情で言った。彼は獣を自身の太ももに下ろし、習一を見る。
「愛玩動物は愛らしさ一つで一生をまっとうできる者が数多くいます。それが彼らの役目です。人はそういきません。生きる術と知恵を身に着ける必要がありますし、その手伝いをするのが私の役目です。生徒を選り好みして指導にあたることはできません」
謹厳な回答だ。習一は獣の柔軟な肢体を指圧のごとく押しつつ、口をゆがめる。
「聞こえのいいこと言ったって、やっぱり素直なやつは扱いやすいし聞き分けのないやつはメンドクセーだろ?」
「職務上の苦楽はあまり考えたことがありません」
「きれいごとはいらない。聖人面してても嫌いなやつはいるだろ、と言ってるんだ」
「いることはいますが、オダギリさんはその範疇にありませんよ」
難敵の認識がないことに習一は期待外れのような、胸がすいたような気持ちになった。
「貴方は自分を性根の曲がった問題児だと思っているようですね」
「思うもなにも、周りはみんなそう扱ってるだろ」
「私も『みんな』のうちに含まれていますか?」
習一は黙った。この男の胸中は知れないが習一を疎んじる素振りは一度もなかった。家族や学校の連中とは違うのだ。習一は一言「わかんねえ」とつぶやく。教師が微笑する。
「それは、貴方が私を敵だと思っていない、ということでしょうか?」
「……いまのとこ、な。それで、いつまでこいつを触っていればいいんだ?」
習一は三毛の毛並みをわざと逆立ててなでた。小動物を嫌う理由はないものの、モルモット目当てに集まる人だかりができつつある現状に不快を覚えていた。子ども連れの親がこぞって囲いに群がり、獣の捕獲に熱中する。他人の捕獲風景を見るに、逃走を図る獣に難儀する人がいる。人々が獣に夢中になるのはまだいい。狙い通りに獣を得た者が習一たちと同じベンチに座り、その関心が次第に隣席の習一と連れの教師に向かうことが嫌だった。親子や兄弟には決して見えぬ二人を、どう勘ぐられるものかと習一は気が気でなかった。
「わかりました。次はまだ見ていない動物を見に行きましょう」
教師は習一が気分を悪くしていることを察知したようで、クリーム色の獣を胸に抱いて席を立つ。その背中には斜めにかけるショルダーバッグがある。バイクの走行中は後部座席にいる習一の邪魔にならぬよう、バイクの荷物入れに収納していた。
獣の返却をする前に、教師はモルモットの居住区にへばりつく女性と小さい女の子に声をかける。逃げる獣を捕まえられずにいる親子に、手中にあるモルモットを渡そうというのだ。親子がベンチに座ると教師は娘の膝に獣を乗せる。習一にしたのと同じ行為だ。娘はよろこんで獣の背中をなで回し、母親は教師に謝辞を述べた。もどってきた教師は習一に手をさしのべて「その子を返してきましょうか」と聞く。
「それぐらい、自分でやる」
万事を他人任せにするのは鈍くさいやつのすることだ、と習一は考え、獣のもちもちした胴を両手で抱えた。三毛を囲いの中へ放つ。拘束が解かれた獣は藁のじゅうたんに頭を突っこみ、ひとときの自由を満喫する。習一は教師が水場に行くのを追いかけた。
動物に触れる前と後はかならず手を洗うように、との注意書きにそって、二人は液体せっけんを泡立てる。手がまんべんなく白い泡にまみれたあと、水で泡と汚れを流した。習一はぬれた手を適当に服でぬぐうが、教師は持参のハンカチで拭く。彼は水気をふき取った指に白い宝石のついた指輪をはめた。それは平素より彼が身に着ける装飾品であり、一度めの手洗いの際に外していた。触れた動物にケガをさせてはいけないから、という気遣いゆえにポケットに隠したものだ。
(動物にもバカ丁寧なんだな)
男らしくない細かい配慮だと思う反面、そんな男に養われる家族やペットは幸福な生き方ができるのだろうとひそかに感じた。
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2018年12月10日
習一篇草稿−2章下
4
掛布団の上に寝た習一は薄く目を開けた。日はもう上がっている。いまは何時だろう、とうつろな目でベッド棚の上の置き時計を見る。針は七時半を指す。次に窓の外を眺めた。青い空に浮かぶ白い雲同士が折り重なる。その下部に太い灰色の筋ができた。
(銀色……)
灰の帯が銀髪の教師と少女を連想させた。彼らは今日も習一の監視を続ける。本日は男の方が終日同伴するとも聞いた。今日はどこへ行かされるやら、と取りとめもないことを考え、まぶたを落とした。二度寝は数分を経たずして阻害される。例の銀髪の少女が窓を叩く。彼女の登頂ルートはもはや気にならなくなっていた。習一が窓を開けると少女は靴を履いたまま部屋へ入った。今日の彼女は荷物を担いでいない。
「シューイチ、おはよう。今日はシドがくるよ」
「それを伝えに、土足で他人の部屋に押し入るのか?」
「えーと、ほかに伝えたいことがあって。今日こなすプリント以外に、昨日といたプリントを持ってきてね。シドが採点するの。あと、プリントの解答は教科書を見てやっていいんだって。家庭科や芸術の問題はやりにくいと思うから、教科書ももっていこう」
「教科書も? かさばるな、そりゃ……」
「教科書がいるプリントと、なくてもいいプリントをえらんだらどう? 昨日のシューイチ、なにも見なくてもかけてたよね」
「まあ……昔取った杵柄、ってやつな」
「んじゃ、したくしてね。わすれものがないように気をつけて」
習一は勉強机の本棚を眺める。ぎっしり詰まった棚には授業で使う教科書と、よく宿題に指定される問題集が区分けして並ぶ。使用頻度の少ない芸術等の教科書は棚の隅に追いやられていた。教材に対する扱いは優等生時分と変わらず、使いやすく整理してある。
(昔からのクセは抜けねえな……)
悪辣な学生になりきれぬ証拠は一時放置し、クリアファイルの中をあらためる。今日やると決めた科目と時間が余った時用の予備を鞄に詰め、必要になりそうな教科書も同梱する。次に夏用の衣類をクローゼットから探り、着替える。部屋を出ると二階の階段側の壁にあった絵画は外れたままだと気付いた。階段にもなく、どこかへ運ばれたらしい。
(ま、どうでもいいか)
昨晩習一につかみかかった男が現れないうちに玄関へ向かう。昨日脱いだ靴はきれいに揃えられていた。靴を履いて戸を開けると、鉄格子の奥に長身の男の後ろ姿が見えた。
(あいつは……)
黒いシャツの袖を腕まくりした男だ。習一が初めて会った時と同じ姿でいる。習一が鉄格子に手をかけると、銀髪の男が習一に黄色のサングラスを向けた。
「四日ほど会っていませんでしたね。私のことは覚えておいでですか?」
「あんたみたいな目立つ人間、忘れねえよ」
「そうですか。忘れていないと聞けて安心しました。では行きましょう」
「どこに行くんだ?」
「まずは朝食を食べに行きます。希望はありますか? なければ私が店を選びますが」
「あんたの好きなところでいい。オレは食べ物の好き嫌いはしないほうだ」
「よい返事です。さて、歩きますよ」
銀髪の教師はビジネス鞄を手に提げて移動する。習一は自分を起こした少女が彼のそばにいないことを不審に思った。
「オレの部屋に来てた女の子はどこへ行ったんだ?」
「この町のどこかにいると思います。私が呼べば来てくれますよ。会いたいのですか?」
「いや、別に会いたくはないが……オレと話して、すぐにいなくなっちまったのか?」
「はい、この場に残る必要がなかったもので」
「良いように使いぱしりにしてるんだな。あんたとどういう関係だ?」
「血縁関係は不確かですが、表向きは妹ということにしています」
「あれだけ似てんのに血の繋がりがないかもだって? どういう家庭で育ったんだ」
「家庭と呼べるものは私たちにありません。あるのは主従関係。エリーは従者仲間です」
「エリー? それがあの子の名前か」
昨日は半日近く一緒にいたというのに、彼女の名前を知らなかった。そのことに習一は今になって気付く。教師はふりむきざま、口元をやんわり横に引いた。
「不便な思いをさせたようですね。彼女は自己紹介することに慣れていません。あとで教えておきます。初対面の人には自分の名を伝えるように、と」
習一が少女の名を知らないことで発生した不都合はない。彼女とは最低限の会話のみで過ごした。名を呼びあう場面はなかったのだ。
「あ、いや……どうせ名前を知ってても呼ぶかわかんねえし、なんともない。それよか、家庭がない従者ってなんだよ?」
「言葉通りです。物心がついた時から私たちは主(あるじ)に従い、主を親として慕いました。けれど、主は幼子をあやして育てるといった行為をしなかったと思います」
教師の説明は習一の既存の知識では理解が及ばない。身寄りのない子どもを集めて育てる孤児院出身というバックボーンではなさそうだ。習一は首をかしげた。
「ご主人の命令に従って生きてるんだろ? 高校の教師をやってんのもその命令か」
「初めはそうでした。今は違います。主の命令に逸脱した日々を……これから送ろうとしています」
「オレの復帰の手伝いが命令違反なのか?」
「それもそうですが、貴方個人のために主に背こうとしたのではありません。なにがきっかけか、と聞きたいかもしれませんが、まだ答えられません」
「へいへい、お得意の『記憶がもどったら話す』か。だがな、オレが忘れちまったことを知り合い連中が教えてきたぞ。あんたの思い通りにならなくて残念だったな」
習一は教師の意に反する出来事を意地悪に言った。教師は「それは結構なことです」と答え、進行方向へ向きなおる。
「私が説明を渋るのは貴方に納得してもらえないと考えたからです。親しい御仁の言葉なら、すんなりと胸に落ちるでしょう。貴方と親交のない私にはできないことです」
教師のもったいぶりは、習一に知られてはまずいと考えての行動ではない。理解できる基盤のない者になにを言っても無駄だ、という観点で口を閉ざしている。他意はないのだろうが、自身を飲みこみの悪い魯鈍な者として扱うさまに習一は口をへの字にした。
「無理にわからせようとして、貴方を惑わせたくはありません。まず先に家庭と学習環境を整えて、しかるのちにきちんとお教えします。もちろん、記憶が復活すれば順序は入れ替わるでしょう。その予定でよろしいですか?」
教師は合理的な判断のもと、習一に接している。無駄を嫌う習一には異議を突きつける箇所が思いあたらなかった。一学期の成績を決定づける期限は今月中。遅くとも来月の頭までだろう。それまでに及第にこぎつく努力を果たせなければ三度目の高校二年生を迎えてしまう。この状況下において、自分と教師との確執を知る私事は後回しでよい。
「わかった。とにかく今は学校のことを片付けておくんだろ」
「はい。それが先決です。そのために栄養を補給しておきましょう」
二人は会話を一区切りつけた。習一が案内された場所は主要道路から少し外れた喫茶店だ。外装はどのチェーン店とも一致しない、個人経営の店らしい。一般的な店の始業時刻前だというのに、窓越しに見える店内にはテーブルでくつろぐ客が数人点在した。
5
入店した直後、ちりんちりんと鈴の音が鳴った。習一が木製の戸を見ると、戸の上部に付いた戸当りの部分に鈴が複数垂れている。鈴を吊るす紐には装飾をなすリボンが結んであり、女性的な店構えだと感じた。入口付近には店内の壁と、格子状の高い木製の衝立が左右にそびえる。入店者はまっすぐにレジへと進む構造だ。レジにいる小柄な男性──に思えたが、それは少年のような風貌の女性だ。深緑色のエプロンを掛けた女性店員が笑顔で客を接待する。店員は現在の料金形態は前払いだと言い、その言葉通りに教師が支払いをする。店員が横を向いた先に彼女と同じエプロンを着用する長身の女性がいた。
「二名様、こちらの席へどうぞ〜」
女性にしては低い声で給仕が言う。彼女の緑のエプロンの下には黒と白でデザインしたスカート丈の短いエプロンドレスを着ており、レジの店員とは雰囲気が著しく異なる。そもそもエプロンを二重にする意図がわからない。奇怪なファッションを堂々と客に見せる女性は場違いなほど妖艶な体つきでいる。エプロンを大きく前へ突き出す胸部とさらけ出た太ももが、喫茶店全体をいかがわしい店だと思わせた。
色気を強調する女性は教師を店内のテーブルへ案内した。どういうつもりでこの店を選んだのか、と習一は先導者の男の横顔をのぞく。彼は微妙にしかめ面をしている。教師も風俗嬢もどきの店員を不快に感じたようだ。
給仕に言われるまま、習一たちは壁側のテーブルを挟んで座った。給仕がテーブルに二人分のフォークと箸の入った細い籠を置き、座席の壁側にあるメニュースタンドへ手を伸ばす。ぶ厚い曲線を描く胸が卓上に浮いた。あまり凝視するのもなんだ、と習一は自身の視線を給仕の動く手に固定する。彼女はメニューを取り、机上に置く。
「お好きな飲み物を一つ選んでね。ワンドリンク制なの。この中の飲み物一つと、ソーセージとお惣菜パン二個をお一人に届けます。ほかはご自分で好きなだけとってね」
「ほか?」
「ええ、食パンやサラダが食べ放題よ。フリードリンクもあるの。お得でしょう?」
給仕は愛想のいい笑顔をして習一と教師に同意を求めた。教師は「そうですね」と気のない返事をする。給仕は無愛想な客にはめげず、ドリンクの注文を要求する。教師は無難にコーヒーを頼み、習一はフルーツソーダという変わった名称のジュースに決めた。オーダーをとった給仕はしゃなりしゃなりと歩き、カウンターの奥へと消えた。
習一が店内を見ればカウンター沿いに取り放題の食品が並んでいた。大量の食パンが入った籠や、野菜を千切りにしたサラダとそれにかけるドレッシング、炒り卵が入った器、ティーポッドなどを置いた机がある。習一はそれらの前を通ったのだが、給仕の異様さに全意識を注いだせいで気付かなかった。
「あちらにあるものは自分で取って飲み食いするようですね。行ってきてはどうです?」
「あんたはいいのか?」
「はい。これから運ばれてくるもの次第で考えます」
「量が多かったらやめとこう、てか。オレもそうするか。バカスカ食える調子じゃない」
「オダギリさんは健康面を考えて、サラダと卵を召しあがったらよいかと思いますが」
その意見は習一も同感だが、教師に言われるのは不思議な心地がした。
「親みてえなことを言うんだな」
「親? それは世間一般的な親のことですか。それともご自身の親のことでしょうか」
生真面目な顔をして教師が問う。習一は面食らった。深く考えずに発した言葉の真意を尋ねられるとは思ってもみなかったのだ。自分はどういう思考のもとにそう告げたのだろう。少なくとも習一の父親は除外できる。父のことを思うと芋づる式に昨晩の出来事が脳裏によみがえった。苦々しいものが口内にこみあげる。習一は噴き出る記憶をかき消すために席を立ち、荒々しく歩く。バイキング形式の食事を皿にかき集めた。山盛りになった皿の上に栄養によいというゴマを含んだドレッシングを野菜と卵の別なくかけ、席にもどった。その頃には艶めかしい給仕がトレイを運び、習一たちの飲食物をテーブルに並べていた。食事を配り終えた給仕は勤務中の定位置につかず、銀髪の教師に笑いかける。
「キリちゃんが言ってたとおりの男前ね。先生もモデルをやってみたらどう? 絶対、若いコからマダムまで気に入られるわよ」
「衆目にさらされる仕事は遠慮します。私はささやかに暮らしたいですから」
「まだ二十七なんでしょ? ご隠居みたいなこと言ってちゃもったいないわ。若いうちはいろんな可能性を試してみなくっちゃ」
「今のところ、教員生活に満足できています。ほかの職業を試す必要はありません」
「あら、でも一ヶ月ヒマなんでしょう。その間に挑戦してもいいんじゃないかしら」
「……御縁があれば、考えます」
「わたしから口利きしてもいいのよ」
教師は返答に困った。その反応を給仕は楽しげに見る。習一は卵入りサラダをもしゃもしゃ食いつつ両者のやり取りを見物した。給仕はモデル業をしているらしい。その職に見合う端正な顔と身体を有している。ただ一つの欠点は声。聞こえようによっては男性に思える低さだ。外見の美麗さのみを求められるモデル業にはピッタリの人材かもしれない。
カウンターに控える店員が給仕を呼んだ。呼び声に応じて給仕は立ち去る。モデルの誘いを断りきれずにいた教師は安堵し、湯気の立つコーヒーを口にふくんだ。習一も大きなグラスを手にする。習一が注文したサイダーは透明な炭酸飲料のはずだが、届いたものは濁っていた。フルーツ、という品名があったものの果物とわかる物体は見えず、グラスの中に赤や青の粒が浮かぶ。ストローを挿して飲んでみるとサイダーの味以外に、複数の果物の味と香りが広がった。果物を細かくしてサイダーで割った飲み物だ。習一は取ってきたサラダと交互に飲み食いして、腹は満ちないのに充足した気分になった。
教師は箸を握り、二本のソーセージと異なる惣菜パンが乗った皿をつつく。食べるのか、と習一は思ったが違った。彼は焼き目のついたソーセージを持ち上げ、片方の同じ食べ物を盛った皿へ移す。ソーセージの量が倍になった皿を習一の前へと出した。
「このくらいは食べられるでしょう。遠慮なくどうぞ」
「そんなデカい体をしてるくせに、食わねえのか?」
「はい。貴方には早く体力をもどしてほしいですから、私の分も食べてください」
教師は手持ちの本を読み始め、パンにも手をつけないでいる。彼自身はコーヒー一杯で朝食が済むようだ。常人以上に恵まれた体だというのに、その骨と筋肉は何からできたものかと習一は奇妙に感じた。そういえば彼の妹分も全く飲食行為を見せなかった。
「エリー……ってやつも全然飲まないし食わなかったな。二人とも、少食か?」
「はい、そうです。生活するのに不自由はしませんので安心してください」
教師は再び本に目を落とす。その状態で習一の食事が終わるのを待つつもりだ。習一は厚意を受け入れ、増えた焼きソーセージをかじった。焼いたことで香ばしさが増し、うまいと感じた。取り放題の食品とは段違いに旨みを感じる品だ。独り占めするのは少し気が引けて、自身の分け前を譲渡した相手の顔をちらっと見る。彼は習一の飲食に対して無関心だ。習一は彼が口に入れるはずだった朝食をとった。
習一が満腹になり、一服したところで教師とともに喫茶店を離れた。つまるところ店は普通の飲食店であり、給仕一人が異色な風貌と態度で勤務するだけだった。モデル云々というので彼女は有名人なのだろうが、習一は知らぬ人物だ。教師は給仕と共通の知人がいたようで、そのことを習一が尋ねると「教え子がこの店の手伝いをしています」と返答があった。会計をした店員かと聞くと違うと言われ、その他に教え子らしき若い店員は見なかった。非番の日だったか客に見えない裏方なのだと思い、習一は深追いしなかった。
6
習一たちは大きな図書館へついた。開館時間にはまだ早く、閉館の立札が透明な自動扉の奥に置かれる。扉の付近には開錠を待つ人がいた。
群青の前掛けを着た司書が館内から登場し、ロックを解除すると扉が左右に開いた。司書が立札を引っ込めるのを待たずして利用客が入館する。教師もまた「それでは行きましょう」と習一に入館をすすめた。
二人は本棚と机が並ぶ広間へ入った。独特の匂いが満ちる。年数を経た書物が発する匂いだと習一は思った。教師が木製の長机に鞄を置いたので習一も反対側の席に陣取る。
「オレが解いた課題、あんたが答え合わせするんだって?」
私語を慎むべき図書館内にいるのを考慮して、習一は声を小さくした。
「自己採点するのでもかまいませんが、いかがします?」
「あんたにやってもらったらその分早く終わる」
「おっしゃる通りです。では私が正誤の確認をしましょう。終わったら解答とともに返します。間違った箇所は解答欄の付近に正しい答えを記入してください」
習一は教師にクリアファイルを渡した。彼の鞄から似たクリアファイルが出る。それが解答の一覧のようだ。習一も椅子に座ってプリントと教科書を机上に並べる。以後、両者は黙々と作業に没頭した。教師は赤ペンをキュッと鳴らして紙上に丸をつける。一枚めが終わると紙をめくり、またペンを鳴らす。その行為は一束十分前後で済んだ。丸点けの終わったプリントの上に解答の紙を乗せ、習一との間の机上に置く。その行為は三回行われた。習一が何時間もかけたものを教師は三十分程度で見納める。
「丸点けは終わりました。確認のタイミングは貴方に任せます」
習一は手を止めて顔を上げた。採点者の顔には黄色いレンズの眼鏡がかかったままだ。
「学校でもそのサングラスをかけたまんま、採点をやってんのか?」
「いえ、普段は外します。他の色ペンと混同するおそれがありますからね。今日は赤ペンのみ持ってきたので、間違えません」
「じゃあ学校ではサングラスをかけたり外したりすんのか」
「はい」
「めんどくさいことやってんな。んなモン、なくたっていいだろ」
「私はわずらわしいと思いません。ですが、貴方と同じようにサングラスを不要だと指摘した教え子はいます。それが普通の感覚なのでしょうね」
そう言って教師は静かに椅子を後ろに引き、立った。
「なにするんだ?」
「せっかく図書館に来たのですから本を読みます。オダギリさんもお好きなものを読んでいいですよ。切羽つまる状況ではありませんので、適度に息抜きしてください」
悠長な助言をした教師は書架の群れへ身を投じた。本が好きなやつなのか、と習一は喫茶店での彼と昨日の少女の様子をふりかえりながら思った。少女は習一がプリントに向かう時は本を読んでいたものの、習一が昼食を食べる時は周囲を眺めていた。彼女自身は待ち時間に率先して本を読みたい、と欲する読書家ではなさそうだ。おそらくは、習一の勉学を見守る間は本を読めと教師に言われ、素直に実行していたのだろう。
習一は己に課された問題を解く。教師は図書館の本を読んでもいいと言ったが、そんな余裕はない。鞄の重さを増やす教材は本日限りの運送にすべく、教科書を持ってきた教科のプリントを始末する。教科書を自室に置いてきたプリントは後日に回しても負担はない。そのような優先順位を設けて取り組んだ。
十五分ほどして習一の監督者がもどる。三冊の本を机に置き、うち一冊を開く。それらは心理学にまつわる内容の表題だった。大人が子どもの行動原理を知るための本、子の目線で親の実態を見つめる本。年代を問わず普遍的な人の心情を解き明したという題名の本。
(オレの目の前でオレ対策すんのか?)
三冊すべてが習一への対応手段を学ぶ選出のように思えた。しかし教師は子どもとその親に密に接する職務だ。習一を御するだけに万全を尽くすつもりはないだろう。その気があるなら習一と関わる日までに学習しただろうし、対象の目の前で大っぴらに学ばない。習一は自分が教師の立場に置かれた場合を考え、自身の初めの仮説を棄てた。
習一が問題数が少なめだった束を一つ仕上げ、美術の教科書を閉じる。芸術科目は音楽との二択で授業を選ぶ。音感のない習一は消去法で美術を選択していた。教師が丸点けを完了して置いた三束の横へ、束をひょいと運ぶ。教師が読書を中断して赤ペンを手にする。ペンが走る音を聞きつつ、習一は休む間なく体育の教科書を開いた。五教科以外の実技科目は総じて問題数が少なく、前日こなした課題未満の分量。正午を過ぎるころに解答は終了できた。教師が目を通した課題の束の横に家庭科のプリントを置き、教師は本を閉じた。
「もう昼食の時間ですね。腹の具合はどうです?」
「減ってない。あんたはどうなんだ? パンとコーヒーだけで足りるのか」
「私も空腹ではありません。貴方が食事をとりにいく間、私が荷物の番をしますが」
「いい。きっちり三食食わなくても平気だ。とっとと課題をやっつけてやる」
「わかりました。早めに切り上げて夕食をしっかり食べる心積もりでいましょう」
「夕飯も食いに行くのか?」
「はい。私は料理ができませんから」
教師の告白はつまり、前日のサンドイッチの制作者が彼ではないことを明かしている。では誰が作ったのか、という質問が習一の喉に出掛かり、飲みこんだ。現状関係のない雑談は避けるべきだと、この場の雰囲気と手持ちの課題の残量を考慮した。
二人は昼食をとらず、午前中と同じことを午後にも繰り返した。習一は残りの五教科の理科と社会科のうち、教科書を持参した政治経済に苦戦する。教科書にない作文の解答を要求する問いでつまづいたのだ。機械的に教科書の説明を抜き出したり入れ替えたりして解ける出題ではない。出題の該当範囲にあたる教科書部分を読み返し、きっとこういう事だろうと自分なりに解釈して文章を組み立てた。快調な出だしだった午前の課題とは反対に、鈍重な進捗に突きあたる。習一は嫌気がさして、関心を周囲へ移した。
館内には試験勉強に励む若者や、余生をもて余すかのような老人が新聞を読むほか、長机の端に親子連れがいた。父らしき男性と小学校低学年に見える男の子が向かい合って机に座り、各々が鉛筆を片手にして何ごとか言う。男の子は不平不満を募らせた表情で、薄い問題集を開いている。柔らかい顔つきの男性が喋り終えて、子は休んでいた手を動かす。もう飽きた、帰りたいなどの不服は言いくるめられたのだろう。父親のほうも分厚い本を開いてノートに書きつける作業を再開した。なぜか習一は頬の筋肉が刺激されるのを感じた。笑ったのだ。あの親子を見て。それに気づいた時、どうして笑ったのだか自分でよくわからないでいた。だが不思議と悪い気はしない。以前はそういった仲の良い親子風景を見せつけられれば、なぜ自分はああでないのだと無性にやりきれなくなっていた。今もそのわだかまりが全く生まれないわけではない。だが快の心持ちがより前面に感じられ、不快はその陰へと追いやられる。その心境の変化の要因は特定できない。あえて言うなれば、入院生活で習一が失った体力と闘争心と一緒に、負を感じとる感情も弱まった。悪い憑き物が落ちたように、習一の感受性を一般的なものへ寄りもどしたのかもしれない。
長考がすぎたのか、習一が我を取りもどした時に教師と目が合った。彼は習一の異変を感じたようだ。習一が気まずそうに眉をしかめると彼はなにも見なかった風体で読書をする。それからの習一は顔を上げず、視線は机上の移動に限定した。
太陽が赤みをうっすら帯びる時間帯になり、習一は朝のうちに腹に貯めた食料が完全に尽きるのを感じた。参考資料が手元にあるプリントはすべて解き終え、教師による確認も終わった。教師がペンを走らせた紙の束は積み重なったままだ。誤答の確認は自室でも簡単にできる、と踏んだ習一が放置していた。習一は教科書なしで解くプリントを前にして、ふと考える。補習の開始日は明々後日。明日と明後日は習一の予定がない。もし教師が一日および二日間とも習一の近辺にはべるのなら、間違いを訂正するだけのプリントをまた持ち運ぶ必要がある。であれば今のうちに片付けておけば効率が良い。自分が先に済ませる事柄を決定するため、習一は図書を読みふける教師に質問を投げる。
「あんたの見張り、明日も明後日もやる気か?」
「はい。明日も今日と同じように課題に励んでもらうつもりです。明後日は課題の進み具合によって予定を変えます」
「プリントは明日には全部終わるな。それなら間違いの確認をやっとくか……」
「確認が終わったら知らせてください」
教師は男女の思考の違いについての本に目を落とす。彼は一度めに取ってきた三冊を読み終え、返却して新たに図書を複数持ってきた。タイトルは違えど人間の心理にまつわる解説本ばかり読みあさっている。職業柄、念頭に入れるべき知識なのだろうが、そこまで念入りに知る必要がこの男にあるのだろうか。
習一は銀髪の教師とは二日程度しか顔を合わせていないとはいえ、その二日で固まった人物像は温厚篤実な紳士。彼が世間一般的な失言や失態を引き起こす様子は想像しにくい。むろん初対面では習一の癇に障るワードを出していたのだが、それは習一に必須な事柄だった。あれで習一が怒り狂ったなら、常識においてこちらの感性や理解に問題がありそうな気がした。
得てして、他者から見てすでに一人前の域に到達しても「まだ不足がある」と学びを深める者がいる一方、本当に知識を備えるべき者は「意味のないこと」と捨て置き、自己の瑕疵をさらに拡張させていくものなのかもしれない。習一が頭に浮かべる後者は紛れもなく父親だった。
習一は四色ボールペンの青色で正答を書き続け、教師が手を下したプリントすべてを見終わった。教師の顔を見ると彼は無言で立ち、本を携えて長机を離れる。習一はクリアファイルに紙の束を入れ、筆箱とともに鞄の中へ収めた。鞄にしまった教科書の背を触り、持参した冊数に差がないことを確かめる。私物がなくなった机を見つめ、教師の帰還を待った。ほどなくして一時的な保護者が姿を見せる。教師が黒鞄の持ち手を握った。
「外へ行きましょう」
二人は半日過ごした公共施設を発った。館外へ出た教師は足を止める。
「夕飯の希望はありますか?」
「ない。あんたの好きにしてくれ」
「わかりました。私のあとについて来てください」
習一は行き先を尋ねずに、髪を暗い朱に染める教師を追いかけた。教師は習一の家とは反対の方向へ向かう。その方角にはパン屋やラーメン屋など食べ物関係の店が居並ぶ。そのどれかが夕食になるのだと習一はあらかじめ想定した。
掛布団の上に寝た習一は薄く目を開けた。日はもう上がっている。いまは何時だろう、とうつろな目でベッド棚の上の置き時計を見る。針は七時半を指す。次に窓の外を眺めた。青い空に浮かぶ白い雲同士が折り重なる。その下部に太い灰色の筋ができた。
(銀色……)
灰の帯が銀髪の教師と少女を連想させた。彼らは今日も習一の監視を続ける。本日は男の方が終日同伴するとも聞いた。今日はどこへ行かされるやら、と取りとめもないことを考え、まぶたを落とした。二度寝は数分を経たずして阻害される。例の銀髪の少女が窓を叩く。彼女の登頂ルートはもはや気にならなくなっていた。習一が窓を開けると少女は靴を履いたまま部屋へ入った。今日の彼女は荷物を担いでいない。
「シューイチ、おはよう。今日はシドがくるよ」
「それを伝えに、土足で他人の部屋に押し入るのか?」
「えーと、ほかに伝えたいことがあって。今日こなすプリント以外に、昨日といたプリントを持ってきてね。シドが採点するの。あと、プリントの解答は教科書を見てやっていいんだって。家庭科や芸術の問題はやりにくいと思うから、教科書ももっていこう」
「教科書も? かさばるな、そりゃ……」
「教科書がいるプリントと、なくてもいいプリントをえらんだらどう? 昨日のシューイチ、なにも見なくてもかけてたよね」
「まあ……昔取った杵柄、ってやつな」
「んじゃ、したくしてね。わすれものがないように気をつけて」
習一は勉強机の本棚を眺める。ぎっしり詰まった棚には授業で使う教科書と、よく宿題に指定される問題集が区分けして並ぶ。使用頻度の少ない芸術等の教科書は棚の隅に追いやられていた。教材に対する扱いは優等生時分と変わらず、使いやすく整理してある。
(昔からのクセは抜けねえな……)
悪辣な学生になりきれぬ証拠は一時放置し、クリアファイルの中をあらためる。今日やると決めた科目と時間が余った時用の予備を鞄に詰め、必要になりそうな教科書も同梱する。次に夏用の衣類をクローゼットから探り、着替える。部屋を出ると二階の階段側の壁にあった絵画は外れたままだと気付いた。階段にもなく、どこかへ運ばれたらしい。
(ま、どうでもいいか)
昨晩習一につかみかかった男が現れないうちに玄関へ向かう。昨日脱いだ靴はきれいに揃えられていた。靴を履いて戸を開けると、鉄格子の奥に長身の男の後ろ姿が見えた。
(あいつは……)
黒いシャツの袖を腕まくりした男だ。習一が初めて会った時と同じ姿でいる。習一が鉄格子に手をかけると、銀髪の男が習一に黄色のサングラスを向けた。
「四日ほど会っていませんでしたね。私のことは覚えておいでですか?」
「あんたみたいな目立つ人間、忘れねえよ」
「そうですか。忘れていないと聞けて安心しました。では行きましょう」
「どこに行くんだ?」
「まずは朝食を食べに行きます。希望はありますか? なければ私が店を選びますが」
「あんたの好きなところでいい。オレは食べ物の好き嫌いはしないほうだ」
「よい返事です。さて、歩きますよ」
銀髪の教師はビジネス鞄を手に提げて移動する。習一は自分を起こした少女が彼のそばにいないことを不審に思った。
「オレの部屋に来てた女の子はどこへ行ったんだ?」
「この町のどこかにいると思います。私が呼べば来てくれますよ。会いたいのですか?」
「いや、別に会いたくはないが……オレと話して、すぐにいなくなっちまったのか?」
「はい、この場に残る必要がなかったもので」
「良いように使いぱしりにしてるんだな。あんたとどういう関係だ?」
「血縁関係は不確かですが、表向きは妹ということにしています」
「あれだけ似てんのに血の繋がりがないかもだって? どういう家庭で育ったんだ」
「家庭と呼べるものは私たちにありません。あるのは主従関係。エリーは従者仲間です」
「エリー? それがあの子の名前か」
昨日は半日近く一緒にいたというのに、彼女の名前を知らなかった。そのことに習一は今になって気付く。教師はふりむきざま、口元をやんわり横に引いた。
「不便な思いをさせたようですね。彼女は自己紹介することに慣れていません。あとで教えておきます。初対面の人には自分の名を伝えるように、と」
習一が少女の名を知らないことで発生した不都合はない。彼女とは最低限の会話のみで過ごした。名を呼びあう場面はなかったのだ。
「あ、いや……どうせ名前を知ってても呼ぶかわかんねえし、なんともない。それよか、家庭がない従者ってなんだよ?」
「言葉通りです。物心がついた時から私たちは主(あるじ)に従い、主を親として慕いました。けれど、主は幼子をあやして育てるといった行為をしなかったと思います」
教師の説明は習一の既存の知識では理解が及ばない。身寄りのない子どもを集めて育てる孤児院出身というバックボーンではなさそうだ。習一は首をかしげた。
「ご主人の命令に従って生きてるんだろ? 高校の教師をやってんのもその命令か」
「初めはそうでした。今は違います。主の命令に逸脱した日々を……これから送ろうとしています」
「オレの復帰の手伝いが命令違反なのか?」
「それもそうですが、貴方個人のために主に背こうとしたのではありません。なにがきっかけか、と聞きたいかもしれませんが、まだ答えられません」
「へいへい、お得意の『記憶がもどったら話す』か。だがな、オレが忘れちまったことを知り合い連中が教えてきたぞ。あんたの思い通りにならなくて残念だったな」
習一は教師の意に反する出来事を意地悪に言った。教師は「それは結構なことです」と答え、進行方向へ向きなおる。
「私が説明を渋るのは貴方に納得してもらえないと考えたからです。親しい御仁の言葉なら、すんなりと胸に落ちるでしょう。貴方と親交のない私にはできないことです」
教師のもったいぶりは、習一に知られてはまずいと考えての行動ではない。理解できる基盤のない者になにを言っても無駄だ、という観点で口を閉ざしている。他意はないのだろうが、自身を飲みこみの悪い魯鈍な者として扱うさまに習一は口をへの字にした。
「無理にわからせようとして、貴方を惑わせたくはありません。まず先に家庭と学習環境を整えて、しかるのちにきちんとお教えします。もちろん、記憶が復活すれば順序は入れ替わるでしょう。その予定でよろしいですか?」
教師は合理的な判断のもと、習一に接している。無駄を嫌う習一には異議を突きつける箇所が思いあたらなかった。一学期の成績を決定づける期限は今月中。遅くとも来月の頭までだろう。それまでに及第にこぎつく努力を果たせなければ三度目の高校二年生を迎えてしまう。この状況下において、自分と教師との確執を知る私事は後回しでよい。
「わかった。とにかく今は学校のことを片付けておくんだろ」
「はい。それが先決です。そのために栄養を補給しておきましょう」
二人は会話を一区切りつけた。習一が案内された場所は主要道路から少し外れた喫茶店だ。外装はどのチェーン店とも一致しない、個人経営の店らしい。一般的な店の始業時刻前だというのに、窓越しに見える店内にはテーブルでくつろぐ客が数人点在した。
5
入店した直後、ちりんちりんと鈴の音が鳴った。習一が木製の戸を見ると、戸の上部に付いた戸当りの部分に鈴が複数垂れている。鈴を吊るす紐には装飾をなすリボンが結んであり、女性的な店構えだと感じた。入口付近には店内の壁と、格子状の高い木製の衝立が左右にそびえる。入店者はまっすぐにレジへと進む構造だ。レジにいる小柄な男性──に思えたが、それは少年のような風貌の女性だ。深緑色のエプロンを掛けた女性店員が笑顔で客を接待する。店員は現在の料金形態は前払いだと言い、その言葉通りに教師が支払いをする。店員が横を向いた先に彼女と同じエプロンを着用する長身の女性がいた。
「二名様、こちらの席へどうぞ〜」
女性にしては低い声で給仕が言う。彼女の緑のエプロンの下には黒と白でデザインしたスカート丈の短いエプロンドレスを着ており、レジの店員とは雰囲気が著しく異なる。そもそもエプロンを二重にする意図がわからない。奇怪なファッションを堂々と客に見せる女性は場違いなほど妖艶な体つきでいる。エプロンを大きく前へ突き出す胸部とさらけ出た太ももが、喫茶店全体をいかがわしい店だと思わせた。
色気を強調する女性は教師を店内のテーブルへ案内した。どういうつもりでこの店を選んだのか、と習一は先導者の男の横顔をのぞく。彼は微妙にしかめ面をしている。教師も風俗嬢もどきの店員を不快に感じたようだ。
給仕に言われるまま、習一たちは壁側のテーブルを挟んで座った。給仕がテーブルに二人分のフォークと箸の入った細い籠を置き、座席の壁側にあるメニュースタンドへ手を伸ばす。ぶ厚い曲線を描く胸が卓上に浮いた。あまり凝視するのもなんだ、と習一は自身の視線を給仕の動く手に固定する。彼女はメニューを取り、机上に置く。
「お好きな飲み物を一つ選んでね。ワンドリンク制なの。この中の飲み物一つと、ソーセージとお惣菜パン二個をお一人に届けます。ほかはご自分で好きなだけとってね」
「ほか?」
「ええ、食パンやサラダが食べ放題よ。フリードリンクもあるの。お得でしょう?」
給仕は愛想のいい笑顔をして習一と教師に同意を求めた。教師は「そうですね」と気のない返事をする。給仕は無愛想な客にはめげず、ドリンクの注文を要求する。教師は無難にコーヒーを頼み、習一はフルーツソーダという変わった名称のジュースに決めた。オーダーをとった給仕はしゃなりしゃなりと歩き、カウンターの奥へと消えた。
習一が店内を見ればカウンター沿いに取り放題の食品が並んでいた。大量の食パンが入った籠や、野菜を千切りにしたサラダとそれにかけるドレッシング、炒り卵が入った器、ティーポッドなどを置いた机がある。習一はそれらの前を通ったのだが、給仕の異様さに全意識を注いだせいで気付かなかった。
「あちらにあるものは自分で取って飲み食いするようですね。行ってきてはどうです?」
「あんたはいいのか?」
「はい。これから運ばれてくるもの次第で考えます」
「量が多かったらやめとこう、てか。オレもそうするか。バカスカ食える調子じゃない」
「オダギリさんは健康面を考えて、サラダと卵を召しあがったらよいかと思いますが」
その意見は習一も同感だが、教師に言われるのは不思議な心地がした。
「親みてえなことを言うんだな」
「親? それは世間一般的な親のことですか。それともご自身の親のことでしょうか」
生真面目な顔をして教師が問う。習一は面食らった。深く考えずに発した言葉の真意を尋ねられるとは思ってもみなかったのだ。自分はどういう思考のもとにそう告げたのだろう。少なくとも習一の父親は除外できる。父のことを思うと芋づる式に昨晩の出来事が脳裏によみがえった。苦々しいものが口内にこみあげる。習一は噴き出る記憶をかき消すために席を立ち、荒々しく歩く。バイキング形式の食事を皿にかき集めた。山盛りになった皿の上に栄養によいというゴマを含んだドレッシングを野菜と卵の別なくかけ、席にもどった。その頃には艶めかしい給仕がトレイを運び、習一たちの飲食物をテーブルに並べていた。食事を配り終えた給仕は勤務中の定位置につかず、銀髪の教師に笑いかける。
「キリちゃんが言ってたとおりの男前ね。先生もモデルをやってみたらどう? 絶対、若いコからマダムまで気に入られるわよ」
「衆目にさらされる仕事は遠慮します。私はささやかに暮らしたいですから」
「まだ二十七なんでしょ? ご隠居みたいなこと言ってちゃもったいないわ。若いうちはいろんな可能性を試してみなくっちゃ」
「今のところ、教員生活に満足できています。ほかの職業を試す必要はありません」
「あら、でも一ヶ月ヒマなんでしょう。その間に挑戦してもいいんじゃないかしら」
「……御縁があれば、考えます」
「わたしから口利きしてもいいのよ」
教師は返答に困った。その反応を給仕は楽しげに見る。習一は卵入りサラダをもしゃもしゃ食いつつ両者のやり取りを見物した。給仕はモデル業をしているらしい。その職に見合う端正な顔と身体を有している。ただ一つの欠点は声。聞こえようによっては男性に思える低さだ。外見の美麗さのみを求められるモデル業にはピッタリの人材かもしれない。
カウンターに控える店員が給仕を呼んだ。呼び声に応じて給仕は立ち去る。モデルの誘いを断りきれずにいた教師は安堵し、湯気の立つコーヒーを口にふくんだ。習一も大きなグラスを手にする。習一が注文したサイダーは透明な炭酸飲料のはずだが、届いたものは濁っていた。フルーツ、という品名があったものの果物とわかる物体は見えず、グラスの中に赤や青の粒が浮かぶ。ストローを挿して飲んでみるとサイダーの味以外に、複数の果物の味と香りが広がった。果物を細かくしてサイダーで割った飲み物だ。習一は取ってきたサラダと交互に飲み食いして、腹は満ちないのに充足した気分になった。
教師は箸を握り、二本のソーセージと異なる惣菜パンが乗った皿をつつく。食べるのか、と習一は思ったが違った。彼は焼き目のついたソーセージを持ち上げ、片方の同じ食べ物を盛った皿へ移す。ソーセージの量が倍になった皿を習一の前へと出した。
「このくらいは食べられるでしょう。遠慮なくどうぞ」
「そんなデカい体をしてるくせに、食わねえのか?」
「はい。貴方には早く体力をもどしてほしいですから、私の分も食べてください」
教師は手持ちの本を読み始め、パンにも手をつけないでいる。彼自身はコーヒー一杯で朝食が済むようだ。常人以上に恵まれた体だというのに、その骨と筋肉は何からできたものかと習一は奇妙に感じた。そういえば彼の妹分も全く飲食行為を見せなかった。
「エリー……ってやつも全然飲まないし食わなかったな。二人とも、少食か?」
「はい、そうです。生活するのに不自由はしませんので安心してください」
教師は再び本に目を落とす。その状態で習一の食事が終わるのを待つつもりだ。習一は厚意を受け入れ、増えた焼きソーセージをかじった。焼いたことで香ばしさが増し、うまいと感じた。取り放題の食品とは段違いに旨みを感じる品だ。独り占めするのは少し気が引けて、自身の分け前を譲渡した相手の顔をちらっと見る。彼は習一の飲食に対して無関心だ。習一は彼が口に入れるはずだった朝食をとった。
習一が満腹になり、一服したところで教師とともに喫茶店を離れた。つまるところ店は普通の飲食店であり、給仕一人が異色な風貌と態度で勤務するだけだった。モデル云々というので彼女は有名人なのだろうが、習一は知らぬ人物だ。教師は給仕と共通の知人がいたようで、そのことを習一が尋ねると「教え子がこの店の手伝いをしています」と返答があった。会計をした店員かと聞くと違うと言われ、その他に教え子らしき若い店員は見なかった。非番の日だったか客に見えない裏方なのだと思い、習一は深追いしなかった。
6
習一たちは大きな図書館へついた。開館時間にはまだ早く、閉館の立札が透明な自動扉の奥に置かれる。扉の付近には開錠を待つ人がいた。
群青の前掛けを着た司書が館内から登場し、ロックを解除すると扉が左右に開いた。司書が立札を引っ込めるのを待たずして利用客が入館する。教師もまた「それでは行きましょう」と習一に入館をすすめた。
二人は本棚と机が並ぶ広間へ入った。独特の匂いが満ちる。年数を経た書物が発する匂いだと習一は思った。教師が木製の長机に鞄を置いたので習一も反対側の席に陣取る。
「オレが解いた課題、あんたが答え合わせするんだって?」
私語を慎むべき図書館内にいるのを考慮して、習一は声を小さくした。
「自己採点するのでもかまいませんが、いかがします?」
「あんたにやってもらったらその分早く終わる」
「おっしゃる通りです。では私が正誤の確認をしましょう。終わったら解答とともに返します。間違った箇所は解答欄の付近に正しい答えを記入してください」
習一は教師にクリアファイルを渡した。彼の鞄から似たクリアファイルが出る。それが解答の一覧のようだ。習一も椅子に座ってプリントと教科書を机上に並べる。以後、両者は黙々と作業に没頭した。教師は赤ペンをキュッと鳴らして紙上に丸をつける。一枚めが終わると紙をめくり、またペンを鳴らす。その行為は一束十分前後で済んだ。丸点けの終わったプリントの上に解答の紙を乗せ、習一との間の机上に置く。その行為は三回行われた。習一が何時間もかけたものを教師は三十分程度で見納める。
「丸点けは終わりました。確認のタイミングは貴方に任せます」
習一は手を止めて顔を上げた。採点者の顔には黄色いレンズの眼鏡がかかったままだ。
「学校でもそのサングラスをかけたまんま、採点をやってんのか?」
「いえ、普段は外します。他の色ペンと混同するおそれがありますからね。今日は赤ペンのみ持ってきたので、間違えません」
「じゃあ学校ではサングラスをかけたり外したりすんのか」
「はい」
「めんどくさいことやってんな。んなモン、なくたっていいだろ」
「私はわずらわしいと思いません。ですが、貴方と同じようにサングラスを不要だと指摘した教え子はいます。それが普通の感覚なのでしょうね」
そう言って教師は静かに椅子を後ろに引き、立った。
「なにするんだ?」
「せっかく図書館に来たのですから本を読みます。オダギリさんもお好きなものを読んでいいですよ。切羽つまる状況ではありませんので、適度に息抜きしてください」
悠長な助言をした教師は書架の群れへ身を投じた。本が好きなやつなのか、と習一は喫茶店での彼と昨日の少女の様子をふりかえりながら思った。少女は習一がプリントに向かう時は本を読んでいたものの、習一が昼食を食べる時は周囲を眺めていた。彼女自身は待ち時間に率先して本を読みたい、と欲する読書家ではなさそうだ。おそらくは、習一の勉学を見守る間は本を読めと教師に言われ、素直に実行していたのだろう。
習一は己に課された問題を解く。教師は図書館の本を読んでもいいと言ったが、そんな余裕はない。鞄の重さを増やす教材は本日限りの運送にすべく、教科書を持ってきた教科のプリントを始末する。教科書を自室に置いてきたプリントは後日に回しても負担はない。そのような優先順位を設けて取り組んだ。
十五分ほどして習一の監督者がもどる。三冊の本を机に置き、うち一冊を開く。それらは心理学にまつわる内容の表題だった。大人が子どもの行動原理を知るための本、子の目線で親の実態を見つめる本。年代を問わず普遍的な人の心情を解き明したという題名の本。
(オレの目の前でオレ対策すんのか?)
三冊すべてが習一への対応手段を学ぶ選出のように思えた。しかし教師は子どもとその親に密に接する職務だ。習一を御するだけに万全を尽くすつもりはないだろう。その気があるなら習一と関わる日までに学習しただろうし、対象の目の前で大っぴらに学ばない。習一は自分が教師の立場に置かれた場合を考え、自身の初めの仮説を棄てた。
習一が問題数が少なめだった束を一つ仕上げ、美術の教科書を閉じる。芸術科目は音楽との二択で授業を選ぶ。音感のない習一は消去法で美術を選択していた。教師が丸点けを完了して置いた三束の横へ、束をひょいと運ぶ。教師が読書を中断して赤ペンを手にする。ペンが走る音を聞きつつ、習一は休む間なく体育の教科書を開いた。五教科以外の実技科目は総じて問題数が少なく、前日こなした課題未満の分量。正午を過ぎるころに解答は終了できた。教師が目を通した課題の束の横に家庭科のプリントを置き、教師は本を閉じた。
「もう昼食の時間ですね。腹の具合はどうです?」
「減ってない。あんたはどうなんだ? パンとコーヒーだけで足りるのか」
「私も空腹ではありません。貴方が食事をとりにいく間、私が荷物の番をしますが」
「いい。きっちり三食食わなくても平気だ。とっとと課題をやっつけてやる」
「わかりました。早めに切り上げて夕食をしっかり食べる心積もりでいましょう」
「夕飯も食いに行くのか?」
「はい。私は料理ができませんから」
教師の告白はつまり、前日のサンドイッチの制作者が彼ではないことを明かしている。では誰が作ったのか、という質問が習一の喉に出掛かり、飲みこんだ。現状関係のない雑談は避けるべきだと、この場の雰囲気と手持ちの課題の残量を考慮した。
二人は昼食をとらず、午前中と同じことを午後にも繰り返した。習一は残りの五教科の理科と社会科のうち、教科書を持参した政治経済に苦戦する。教科書にない作文の解答を要求する問いでつまづいたのだ。機械的に教科書の説明を抜き出したり入れ替えたりして解ける出題ではない。出題の該当範囲にあたる教科書部分を読み返し、きっとこういう事だろうと自分なりに解釈して文章を組み立てた。快調な出だしだった午前の課題とは反対に、鈍重な進捗に突きあたる。習一は嫌気がさして、関心を周囲へ移した。
館内には試験勉強に励む若者や、余生をもて余すかのような老人が新聞を読むほか、長机の端に親子連れがいた。父らしき男性と小学校低学年に見える男の子が向かい合って机に座り、各々が鉛筆を片手にして何ごとか言う。男の子は不平不満を募らせた表情で、薄い問題集を開いている。柔らかい顔つきの男性が喋り終えて、子は休んでいた手を動かす。もう飽きた、帰りたいなどの不服は言いくるめられたのだろう。父親のほうも分厚い本を開いてノートに書きつける作業を再開した。なぜか習一は頬の筋肉が刺激されるのを感じた。笑ったのだ。あの親子を見て。それに気づいた時、どうして笑ったのだか自分でよくわからないでいた。だが不思議と悪い気はしない。以前はそういった仲の良い親子風景を見せつけられれば、なぜ自分はああでないのだと無性にやりきれなくなっていた。今もそのわだかまりが全く生まれないわけではない。だが快の心持ちがより前面に感じられ、不快はその陰へと追いやられる。その心境の変化の要因は特定できない。あえて言うなれば、入院生活で習一が失った体力と闘争心と一緒に、負を感じとる感情も弱まった。悪い憑き物が落ちたように、習一の感受性を一般的なものへ寄りもどしたのかもしれない。
長考がすぎたのか、習一が我を取りもどした時に教師と目が合った。彼は習一の異変を感じたようだ。習一が気まずそうに眉をしかめると彼はなにも見なかった風体で読書をする。それからの習一は顔を上げず、視線は机上の移動に限定した。
太陽が赤みをうっすら帯びる時間帯になり、習一は朝のうちに腹に貯めた食料が完全に尽きるのを感じた。参考資料が手元にあるプリントはすべて解き終え、教師による確認も終わった。教師がペンを走らせた紙の束は積み重なったままだ。誤答の確認は自室でも簡単にできる、と踏んだ習一が放置していた。習一は教科書なしで解くプリントを前にして、ふと考える。補習の開始日は明々後日。明日と明後日は習一の予定がない。もし教師が一日および二日間とも習一の近辺にはべるのなら、間違いを訂正するだけのプリントをまた持ち運ぶ必要がある。であれば今のうちに片付けておけば効率が良い。自分が先に済ませる事柄を決定するため、習一は図書を読みふける教師に質問を投げる。
「あんたの見張り、明日も明後日もやる気か?」
「はい。明日も今日と同じように課題に励んでもらうつもりです。明後日は課題の進み具合によって予定を変えます」
「プリントは明日には全部終わるな。それなら間違いの確認をやっとくか……」
「確認が終わったら知らせてください」
教師は男女の思考の違いについての本に目を落とす。彼は一度めに取ってきた三冊を読み終え、返却して新たに図書を複数持ってきた。タイトルは違えど人間の心理にまつわる解説本ばかり読みあさっている。職業柄、念頭に入れるべき知識なのだろうが、そこまで念入りに知る必要がこの男にあるのだろうか。
習一は銀髪の教師とは二日程度しか顔を合わせていないとはいえ、その二日で固まった人物像は温厚篤実な紳士。彼が世間一般的な失言や失態を引き起こす様子は想像しにくい。むろん初対面では習一の癇に障るワードを出していたのだが、それは習一に必須な事柄だった。あれで習一が怒り狂ったなら、常識においてこちらの感性や理解に問題がありそうな気がした。
得てして、他者から見てすでに一人前の域に到達しても「まだ不足がある」と学びを深める者がいる一方、本当に知識を備えるべき者は「意味のないこと」と捨て置き、自己の瑕疵をさらに拡張させていくものなのかもしれない。習一が頭に浮かべる後者は紛れもなく父親だった。
習一は四色ボールペンの青色で正答を書き続け、教師が手を下したプリントすべてを見終わった。教師の顔を見ると彼は無言で立ち、本を携えて長机を離れる。習一はクリアファイルに紙の束を入れ、筆箱とともに鞄の中へ収めた。鞄にしまった教科書の背を触り、持参した冊数に差がないことを確かめる。私物がなくなった机を見つめ、教師の帰還を待った。ほどなくして一時的な保護者が姿を見せる。教師が黒鞄の持ち手を握った。
「外へ行きましょう」
二人は半日過ごした公共施設を発った。館外へ出た教師は足を止める。
「夕飯の希望はありますか?」
「ない。あんたの好きにしてくれ」
「わかりました。私のあとについて来てください」
習一は行き先を尋ねずに、髪を暗い朱に染める教師を追いかけた。教師は習一の家とは反対の方向へ向かう。その方角にはパン屋やラーメン屋など食べ物関係の店が居並ぶ。そのどれかが夕食になるのだと習一はあらかじめ想定した。
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2018年12月09日
習一篇草稿−2章上
1
習一は授業の終わりまで座席に残った。久々の学校の風当たりと病み上がりの体力の乏しさゆえに、放課後は疲労が蓄積する。寄り道せずに帰宅し、体を洗ったあとは自室で休んだ。食欲はわかず、そのまま朝になる。起床を促したのは窓を叩く音だった。銀髪の少女が窓の縁におり、習一は窓を開ける。少女がまたも土足で部屋に踏み入れる。
「今日も学校にいこう。終業式なんだって」
「そうか。もう、夏休みになるのか」
「半日でおわるから、プリントをいくつかえらんで、すずしいところでとこうよ」
「オレが課題を進めるのを、お前が見張るのか?」
「うん。シドも明日、てつだう。はやくおわらせようね。そしたらいっぱいあそべる」
「遊ぶ、ねえ……」
習一は手近な遊びという遊びは不良生活でやり尽くした。どれも子供だましであり、心は満たされなかった。遊ぶ行為が勉学に励んだ報酬に釣り合うとは感じにくい。
「はやく学校についたら、そこでもプリントがこなせるよね。さっそくでかけよう」
「まだ飯を食ってないんだが」
「家族はいま、朝ごはんをつくってくれてる?」
家事を担当する母は習一の朝食を作らない。作っても息子は食べにこないからだ。一般的な家庭と異なる事情に直面して、習一は「いや……」と顔をそむける。すると少女はいつもの調子でリュックサックを床に下ろし、中に両手をつっこむ。ごそごそと作業したのちに白いものを出した。それはラップに包んだサンドイッチだ。
「んじゃ、これを朝ごはんにしよう」
朝食の包装には値札及びバーコードのシールがない。お手製の品だ。
「シューイチのお昼ごはんようにつくってもらった。でもお昼はお店でも食べられるね」
言って少女はサンドイッチをまたリュックサックの中へもどす。
「これは学校についたらあげる。いっしょにいこう」
少女が窓を通って外へ行く。習一は溜息を吐いたのち、制服に着替えた。先日渡されたクリアファイルを一つ鞄に入れて家を出る。家族がリビングにいたが挨拶はせず、早歩きで駆け抜けた。昨日と同じく少女が門の外で待っていた。
習一は後ろに見張り役が控えた状態で学校を目指した。平常時の登校時刻より早いせいもあって熱気は弱く、爽やかな気分で登校できた。正門の前で少女は止まる。水色の布で包んだサンドイッチと細長いステンレス製の水筒を習一に手渡す。
「終業式がおわったらここでまってる」
監視役は去った。習一は水筒を小脇に抱え、鞄と水色の包みを手に持つ。人気のない生徒玄関を通り、教室へ向かう。他の教室には数人の生徒を見かけたが、自分のクラスは誰もいなかった。昨日腰を落ち着けた席へ座り、もらった弁当の包みを広げる。サンドイッチの具はツナとレタス、卵、ハムとチーズ、とごく普通だ。イチゴのジャムを塗っただけのものもある。それぞれ二つずつあり、一袋八枚切りの食パンを丸々使ったサンドイッチのようだ。ツナサンドを一切れ食べると味はありふれたもの。マヨネーズであえたツナとしゃきしゃきしたレタスの食感がある。昨晩何も食べなかったせいか、普通な食事が口の中に染み渡った。一口、二口と次々ほおばる。二切れめを食べかかる頃には口の中の水分が減って飲みこみが悪くなり、水筒の茶を蓋代わりのコップに入れる。飲むと冷たい茶が喉をすっと流れていく感触がわかった。
(手料理……いつ食ったっけ?)
手作りの食事を長い間口にしなかった。習一は他の生徒の当たり前を、自分が享受することに妙な感覚を覚えた。そしてこの食事は誰が用意したものか推測する。
習一に食べ物を届けた少女は「作ってもらった」と言った。彼女の作ではない。では彼女を手配した教師が作ったのだろうか。万事を無難にやりそうな男ゆえ、料理ができても驚きはしない。しかし「もらった」という他人行儀な表現は第三者の存在を匂わせた。
銀髪の彼ら以外にも習一の支援者がいる。その仮説を胸に秘め、四種のパンを一つずつ平らげた。満腹には達しないものの、半分は昼食用に残しておく。己のために弁当を作った者がいるという、誰とは知れぬ存在の実感を惜しく感じた。
用済みのラップをくしゃくしゃに丸め、室内の片隅にあるゴミ箱へ捨てる。蓋をどけて見た中身は空っぽだった。掃除をきちんとこなす生徒がいる証拠だ。他校の生徒の雑談で「ゴミ箱にゴミがあふれてて使えない」と耳にしたことを思い出す。そんな事態は起こりえない学校なのだ──習一という異端児を除いて。
廊下からキュキュっという足音が響く。滑り止めのゴムがすれた時によく鳴る、生徒が常用する靴音だ。誰かが登校してきたのだ。習一は自席につき、食糧を鞄に収めた。入れかわりにクリアファイルと筆記用具を出す。ファイルの中には数枚のプリントをステープラで留めた束が三種類あった。国語と数学と英語。どれも二年生の一学期で学んだ範囲らしい。習一が去年に学習した部分だ。習一は初めに数学に手をつけることにした。自分がどれほど記憶を保持しているか、最もわかりやすく判定できる科目だ。
筆箱の中をかきわけてシャープペンシルを探す。かちゃかちゃと鳴る文具の音に足音も重なった。廊下で発生した音源が室内へと移る。生徒が入室したとわかった習一は少し首を動かし、目の端で人影を探った。影はゆっくりと習一に近付いてくる。
「小田切さん、おはよう。ずいぶん早いんだな」
入室者はまるで普通の生徒と接するかのごとく習一に挨拶をした。そんな物好きは学年に一人いる。習一は生徒を正視した。身長一八〇センチほどの体格の良い男子だ。彼は習一の一つ年下だが同じクラスの同級生。名字を白壁という。変な名前だと思ったが最後、習一は彼の名を忘却できないでいた。
「ああ、あんたもな」
無愛想に返答し、プリントに視線をもどす。無関心を装う習一に白壁は屈さず、隣席に座る。そこは彼の席ではない。それは昨日の授業に参加した習一がよく知っていた。
「そのプリント、夏休みの宿題じゃないな」
全くの敵意も警戒もなしに会話を続けられて、習一は少し混乱する。他の生徒は不良な習一を腫れ物のように危険視し、関わろうとしない。白壁は感性が常人離れしているのか、習一の数少ない一学期の登校日にも今の調子で話しかけてきた。喧嘩の強い習一の怒りを買っても平気だという自信があっての行動だ、と習一は声には出さず思った。彼は中学時代の空手の好成績を評価されて入学を果たした噂がある。
「おれは朝練をしに来たんだが今日はないのを失念していた。物覚えが悪くていかんな」
白壁は習一が会話に加わらないのを不愉快とせず、しゃべり続ける。
「小田切さんはその課題をこなしに早く登校したのか? 家じゃ、集中できないか」
「なんで、それを聞く?」
「親と仲が悪いから……荒れてるって聞いたんでな」
それは真実だ。習一は親への憎しみから悪事を厭わぬ悪童へ転向した。その事情を誰から聞いたか、およその見当はつく。それは昨日、ただ一人習一を気にかけた教師だ。
「他人が口出しすることじゃないが、もったいないな。荒れる前の成績はトップだったんだって? すごく出来がいいんだな。下から数えたほうが早いおれとは大違いだ」
白壁が空手バカだという評判は習一も聞いていた。とはいえ、落第生になるほど馬鹿でもなさそうだった。健全な肉体と精神を持つ男子は「なのに」と声を低める。
「わざと留年して親に恥をかかせて……今はそれで気が済むんだろうけど、せっかくの自分の将来をダメにするの、惜しくないか?」
習一は答えない。白壁の主張は全くの正論だと熟知している。己の愚行は自分自身がよくわかる。だが、それ以外にできる抵抗の手段がなかった。
「親だけじゃない。ここの教師もどうか、というやつはいる。そいつらに刃向ってるだけじゃ、自分のためになってないと思うんだ。なあ、小田切さんは本当はなにがしたい? おれが空手に打ち込むような、やりがいのあることはないのかな」
「ないな、なにも……どれもつまんねえよ」
白壁の言葉がわずらわしいのだが邪険に扱えなかった。彼は真っ正直に習一の身を案じている。善意を悪意で振り払えるほど、習一は悪に染まっていなかった。ふたたび黙して問題を解く。やむかたなし、といった様子で白壁は席を立った。
「才穎高校には寮があるんだとさ。先生たちは結構おもしろいらしいし、そこなら小田切さんの居場所が見つかるかもしれないな」
白壁は暗に習一の一人立ちを勧め、自席へ着いた。習一は頭を起こして彼の姿をはっきりと捉える。前列の席に座る生徒の背はしゃんとしていて、広かった。
2
終業式を無事終えた後、習一は逃げるように校舎を離れた。正門の柱の前で銀髪の少女が待ちぼうけていた、習一が校門を出ると「お昼ごはん、どうする?」との打診を受ける。
「今朝もらったもんが残ってる。デパートに行って涼みながら食う」
「それで足りる?」
「……さあ。喫茶店でプリントを片付けて、腹が減ったら何か注文するかな」
「うん、それいいね」
日射はアスファルトを焼きつくし、遠景を歪めていた。近道を試み、乗用車の通行の隙間をついて道路を渡った。
到着したデパートには出入りする客が少なかった。夕方になれば人がどっと押し寄せる。習一の目当ては客が休憩する椅子だ。ここには規模が小さいながらもフードコートがあり、そこで座席を得る。休日の昼間でもなければ利用客で埋まることのない場所だ。この場で宿題をするつもりはない。他の席を区切る衝立がなく、机のスペースも狭い場では集中しづらいのだ。
誰かが座ったであろう、机と椅子が離れたままの席がある。そこに少女が腰をおろした。習一はその隣の席に座り、残しておいた弁当を広げた。少女はデパートが物珍しいようで、周囲をきょろきょろ見ている。習一と世間話をする気はないらしい。それは習一としてもありがたいことだった。
食事を終え、空になったラップをゴミ箱へ捨てる。弁当を包んでいた布を四角に畳み、水筒と一緒に鞄へ入れた。習一の片付けを見た少女が席を立つ。次なる目的地は一戸建てのチェーン店だ。デパートで体に補充した冷気を失う前に到達できた。赤と茶を基調としたレンガ屋敷風の店に入ろうとすると「さきに入ってて」と少女が言い、姿を消した。習一は彼女の行動を不思議に思いながらも、入口の取っ手を押した。店員の案内を受け、四人掛けのテーブル席に座る。冷房の空気にさらされたソファはひんやりしていた。
習一は銀髪の少女が姿をくらます理由を考えた。彼女が習一と一緒にいてはできないこと。習一は冷えたテーブルに手を置いて、一つの想像にたどりつく。
(シドってやつと連絡してんのか?)
これには一人、得心がいった。習一が式典に参加したこと、今から課題を処理しようとすることを知らせるのだ。これらの経過状況はあの教師が気を揉むはず。彼の思惑通りの行動をこなす習一に恥じる箇所はない。教師が望む勉学に集中するためにも飲料を確保しに席を立った。
習一が無料の冷水を氷と共にコップにそそぐ最中、少女は帰ってきた。彼女は瞬時に習一の姿を認め、習一の鞄のあるテーブルへ迷わず歩いた。習一は彼女の分の水も必要だろうか、と考える。だが余計な世話かもしれぬと思い、自分のコップだけを持ってソファに座った。
少女はソファの端にいた。リュックサックをひざの上に置いて、ブックカバーのついた文庫本を読む。彼女とは斜めに対面した状態で習一も勉強道具を机に広げた。朝に中断した数学の問題を解答する。両者は一言も発さずに各々の世界へ没入した。
二人の静寂を打ち破る者が一人、あらわれる。
「オダさん! 元気になったんスね!」
無邪気な子どもの名残りをもつ声が習一に届いた。目線を上げれば他校の知り合いがいる。短く刈り上げた頭髪以外は平凡な外見だ。彼は感情の起伏が激しく、一度沸点まで加熱すると歯止めが利かなくなるクセがあるが、今は屈託のない笑顔を作る。
「ああ、田淵は変わんねえな。今日は一人か? あとの二人はどうした」
刈り上げ髪の男子は急激に浮かない顔をする。田淵には同じ学校の悪友が二人おり、みな習一とは不良仲間。暇ができれば三人は固まって活動しているのだと習一は考えていた。
「……もう不良はやめたって、更生しちゃったんスよ」
習一は眉を上げた。彼らとて習一同様、周囲との衝突があってならず者に身を落とした。やすやすと心を入れ替えるはずはない。習一がいない一ヶ月間に変化が起きたというのか。
「どういうワケがあったんだ? オレが眠りほうけてる間に、なにが起きた?」
田淵は申し訳なさそうに眉や口を顔の中央に寄せる。ごく当たり前のように銀髪の少女の隣に座った。彼の視線はテーブルに落ちている。
「最初のきっかけは、才穎高校の教師っスよ」
「銀髪の……?」
「そう! あの銀髪野郎、オダさんの首を締めあげて気絶させやがった。そんで『こうなりたくなかったら真面目に生きろ』と言ってさ……おれたち、すっかりブルっちまった」
習一には身におぼえのない出来事だ。それを正直に打ち明けるのは悪手だと感じた。殺人未遂にひとしい暴力をふるわれていながら、記憶に留めていないのはおかしなことだ。伝聞でしか事情を知らぬ掛尾はともかく、その場にいた当事者は情報提供そっちのけで混乱しかねない。習一は知ったかぶりをしておいた。
「おれはオダさんがやられるとこを見てなかったんスけど、やり取りは聞こえてました。ほかの二人は現場を見てて、教師にガン飛ばされたから、おれよりずっとビビってて」
うつむいていた田淵が上目づかいで習一の顔色を確かめ、また視線を下にやった。
「オダさんが『連中に仕返しをする』と計画を練っても、みんな気が乗らなかった。イライラするオダさんは怖いけど、あの銀髪はもっと怖い。だからずるずる計画を延ばして……」
習一は話者を怖がらせないよう、顔色を変えずに黙った。男子は格上な少年をちらりと見て、また過去を述べる。
「ある日、変な男が現れたんス。『才穎高校の生徒に報復する気はあるのか』と聞いてきて……ない、と言ったらいなくなった。ほかの二人も同じ夜に同じ男が同じことを聞いて消えたと言って、もう不気味で。だって、いつの間にか知らない男が部屋にいたんスよ。音もなく侵入できるやつってオバケしかいないでしょ? そんなやつ、逆らっても勝ち目ないっスよ。そいつが現れたあとにオダさんが入院しちまったし、もうこれ潮時だなって」
「銀髪の言うことを聞かなけりゃ自分らも危ない……と感じたわけか」
「ハイ……情けないでしょうけど、それが本音です。おれたち、あんなおっかない思いをしてまで不良はやりたくないっス……」
幽霊などと非科学的な存在を習一は鵜呑みにしない。だが興味をそそる語句が顕在した。
「『オバケみたいな男』は銀髪の教師とは違うのか?」
才穎高校の生徒への復讐を果たされて困るのは銀髪の教師。現段階の話において、幽霊男は全くの部外者のはずだ。
「え? ハイ、別人っス。二人もおれと同じ男を言ってたし、まちがいないっスよ。スゲーむきむきでデケエ男でした。黒っぽい肌は銀髪と似てましたけど、体は別モンっス」
「髪の色はどうだった?」
「髪は……印象に残ってないっス。みんなも『帽子を被ってた』と言ってました」
仮に幽霊じみた男の髪が銀色であれば、ある推測が成り立つ。病院に押しかけてきたヤクザ風の男が捜し求める、彼と同様の屈強な大男だ。その男が田淵たちの部屋に無断訪問した男と同一だとしたら。光葉が得た、銀髪かつ色黒の大男がこの地域にいるというタレコミは正しい。おまけに、その大男は帽子を常用すると光葉は言った。
「あのう……オダさん、オバケ男の正体に心当たりがあるんスか?」
「ああ、そいつと手を組んでるらしい男に会う予定だ。そんときにちょっと聞いてみる」
習一が軽い気持ちで発した提案に、田淵は色めきたつ。
「ひょっとしてあの暴力教師に? 危ないっスよ、またやられちまうっス!」
「平気だ。もう病院で一回会ってる」
田淵が上体をのけぞって驚愕した。手ごわい敵と遭遇して、なんともない状態がよほど信じられないようだ。
「病院で会っただけじゃない、これからオレの復学の手伝いをするんだとよ。ご丁寧に補習の話をこぎつけて、面倒な課題をプレゼントしてくれやがったぜ」
習一は解答途中の数学のプリントを掲げた。田淵がちんぷんかんぷんであろう問題を凝視する間、習一は彼の隣席の少女に目をやる。彼女は二人の会話を耳にしていないかのように読書に没頭していた。少女による話題提供が期待できないと習一は悟る。
「今はあの銀髪がオレの味方らしいぞ。もし町中で会ってもビビるこたぁねえ」
「まじっスか? でも、あいつは真面目に生きればなにもしない、と言ってたしな……」
田淵は半信半疑で目を泳がせる。習一は教師にまつわる話題を切り上げようとした。
「ところで、お前は飯を食いに来たのか?」
「あ、ハイ。テキトーに涼しいところで食おうかな、と……でもオダさんのジャマしちゃまずいっスね。オダさんも真面目にしよう、と思ったからガンバってるんでしょ?」
「どうだかな。ま、飯を食いたいなら違う席か店に移ってくれ。お前といると進まねえ」
田淵が片手を後頭部にあてて「すんません」と目を細める。そうして店を出ていった。彼は最後まで銀髪の少女について言及をしなかった。本当に気付かなかったのだろうか。
「なぁ、さっきの野郎、お前を完全に無視してたよな」
「うん。気配、なくしてるせい」
「そういうもんか? 絶対視界に入ってたと思ったんだが」
「すぎたことはいいから、がんぱって問題をといてね」
少女は課題の進行を急かす。習一は冷たいやつだと評を下した。しかし課題をこなさねばあとで大変な目に遭うのは自明の理。仕方なく中断していた解答を再開した。
3
習一は日没を過ぎても喫茶店に居座った。時間を経るごとに通路を行き交う人が替わる様子を尻目に、手持ちの課題をすべて解いた。この場でできる役目を果たすと、きゅるきゅる鳴る腹を鎮める目的で料理を頼んだ。同席者の銀髪の少女にもメニューを見せて夕飯をすすめたが、彼女は遠慮した。習一を出迎えたあとの少女は水すら口にしていない。
(飯を食えねえのか? 宗教でそんなのあったな……)
どこぞの宗教では昼以降、食事を禁じることがあるという。そんな戒律を遵守する敬虔な宗教家でなかったとしても相手は女。減量目的で食事を控えることも予想して、習一は自分一人だけの夕食をとった。昨日今日と穀物類の食事が多かったので、栄養の均衡を考慮してメインの肉料理以外にサラダも食う。肉体が十全な状態にならないうちは別段好きでもない野菜を摂取するのが身の為だ、と自己判断した。
同じ系列ならどの店も同じ味の料理をたいらげ、習一は氷が飲料に変じた水を飲んだ。クッションのきいた背もたれに寄りかかって天井を見た。喫茶店に長居し、腹がすけば料理を注文をする。そんな過ごし方は以前によくあった。それはこの地域一の難関校と呼び声高い、現在所属する高校への受験勉強に励んでいた時だ。
当時、母は息子を塾へ通わせてはどうか、と父にすすめたが「中学程度の勉強に塾は必要ない」と一蹴された。習一には自習が自分にできる学力向上の手段だった。家の中では能天気な妹が騒がしく、彼女が寝入る夜以外は自室での勉強がはかどらない。喫茶店以外に近隣の図書館に行くこともあったが、食事をとりに移動するたびに荷物を整理する手間が煩わしかった。また利用客が大勢いると使える机のスペースが手狭になるのを嫌い、喫茶店に足しげく通った。優等生であったころの自分と、落第を免れるために一仕事を終えた自分が重なる。習一はその対比を鼻で笑った。
「そろそろおうちにかえる?」
習一は我に返った。その提案を受理するには気が重いのだが、そうするべきだとも理解できる。現在こなせる課題は無くなった。腹を満たした時点で喫茶店に留まる理由はない。
「あしたはシドが一日、シューイチにつきそうの。今晩のうちにゆっくり休もうね」
「ああ……お前は明日、来ないのか?」
「うん。でも、シドによばれたらくるよ」
少女は本をリュックサックの中へしまった。習一も荷物を片付け、忘れ物がないことを机上とその下、ソファを一瞥して確かめる。少女が「ごはんのお金わたそうか」と言うので首を横に振った。
会計を終えると少女は店内におらず、軒先で彼女を見つける。習一は正門での邂逅と同じく、少女に声をかけずに歩いた。アスファルトは日中の熱を溜めこみ、ほんのり熱を放出する。多少蒸し暑いが昼間とは段違いに涼しい。習一はゆるい歩調で家を目指した。
家の居間には電灯が点いていた。家主はもう帰宅した頃か。妹は学習塾に行って不在だろう。そう考えながら鉄格子に触れた。
「そうそう、サンドイッチをくるんでた布と水筒、ちょうだい」
習一は借り物があることを思い出し、鞄に手を入れた。畳んだの布と軽くなった水筒を少女に返す。水筒はちゃぽん、と茶が揺らぐ音を立てた。
リュックサックのファスナーを閉めた少女は背に荷物を担ぎ、じっと習一を見た。
「なんだよ、早いとこお前も帰れ」
「おうちに入るところをみとどけて、って言われてる」
「蚊が飛びまわる時期に野宿なんかしねえよ」
そう吐き捨てた習一は家の敷地内に入り、玄関へと足を踏みこむ。手に汗がにじむのがわかった。暑さの影響ではない。緊張しているのだ。靴を乱雑に脱ぎすて、電灯に照らされた廊下を一直線に進む。フローリング張りの居間からテレビの音が鳴っていた。
脱衣場の戸に鍵を閉め、服を脱ぐ。汗を吸った制服のポケットを空にしたのちに室内の洗濯機へ放りこんだ。洗濯物は乾燥後、脱衣場の棚にしまわれる。体を洗ったら棚にある衣類を着て自室にもどる。それがいつものやり方だった。
習一は簡単にシャワーを浴びる。液体石けんを泡立てて体を洗い、ふと風呂場の鏡に注目した。昨日や院内の浴場では意識する余裕がなかった映写だ。そこに映る顔はやつれていた。おもな原因は一ヶ月の絶食だろう。習一は貧相な顔だと思った。以前は獣じみた勢いがにじみ出ていたはずだが、すっかり毒気を抜かれたようだ。攻撃性を失った面構えの次に頭髪が目についた。髪の根元が黒く、それ以外は脱色した色でいるアンバランスさに苦笑する。いっそ田淵のように髪を刈って黒髪にするか、と思案した。
伸びた髪を洗い、泡を流して風呂場を出る。タオルで全身をわしわしと拭いた。濡れたタオルを洗濯機に投げ入れ、新しい服に着替える。生乾きの髪をそのままにして鞄をつかみ、居間の横を素通りする。テレビの音は聞こえなかった。
「おい、待て」
階段に足を着けた時に男の声がした。習一は踏みとどまり、声の主に一応従う。
「散々迷惑をかけておいて挨拶もなしか?」
怒りと叱責が混合した、重圧を感じさせる物言いだった。習一は首だけを動かして男を見る。居間の入り口に中年が立っていた。ネクタイは首に巻いていないが、まだスーツ姿でいる。
「お前が夜遊びなんぞするから入院するはめになったんだ。入院費だって馬鹿にならんのだぞ……聞いているのか?」
習一は男の問いを無視した。とんとん、と上階へのぼると足音が二重になる。突然習一の片足は動かなくなった。男が足首をつかんでいる。
「いつまで醜態をさらし続ける気だ? 親に礼や謝罪の一つぐらい言えないのか!」
男の憤怒が表出する。足首を握る手に圧がかかった。習一は拘束された足を上下左右に振ってみるが、男の手は離れない。
「なんとか言ったらどうなんだ、この──」
「金食い虫の恥さらし。そう言いたいのか?」
男は目をかっと見開き、口ごもる。開口一番で聞けた言葉が図星を突いたらしい。
「毎度毎度、金と体面が大事なんだな。いっそ金で優秀な息子を買ったらどうだ?」
男はわなわなと全身を震わせる。その顔は醜くゆがんだ。
「きっとあんたの薄っぺらい自尊心をくすぐってくれるだろうよ」
「親を馬鹿にする皮肉ばっかりこきやがって!」
習一を捕縛する手が乱暴に動く。習一は階段のへりをつかむ。転倒を防げたが状況は悪い。平時なら体力面で勝る相手といえど今は病み上がり。このままでは逆上した男に体勢を崩され、演劇でしばしば行なわれる階段落ちを演じるはめになる。あれは芝居でも相当痛いことをどこかで耳にした。衝撃から身を守る肉が薄い者では殊更痛いだろう。どう打開すべきか──男の怒りを鎮める手段は思いつくものの、実行の意欲は微塵も湧かなかった。
がたん、と重い物がぶつかる音がした。なぜか足の呪縛が解かれる。習一がふりむくと男が両手で頭を押さえ、苦痛に耐えていた。その足元には油絵の絵画がある。それは習一の物心ついた時から階段の壁に飾られていた絵だ。丈夫な金属製のワイヤーで吊るしてあり、経年劣化で落下する代物ではない。地震が起きていないのに、と習一は不思議がる一方で好機だと思った。悶絶する男を放置して二階の自室へ入る。鍵をかけ、深い息を吐いた。
(運が、よかったな……)
鞄を適当に放り投げ、自身の体も寝台へぽすんと投げた。
習一は授業の終わりまで座席に残った。久々の学校の風当たりと病み上がりの体力の乏しさゆえに、放課後は疲労が蓄積する。寄り道せずに帰宅し、体を洗ったあとは自室で休んだ。食欲はわかず、そのまま朝になる。起床を促したのは窓を叩く音だった。銀髪の少女が窓の縁におり、習一は窓を開ける。少女がまたも土足で部屋に踏み入れる。
「今日も学校にいこう。終業式なんだって」
「そうか。もう、夏休みになるのか」
「半日でおわるから、プリントをいくつかえらんで、すずしいところでとこうよ」
「オレが課題を進めるのを、お前が見張るのか?」
「うん。シドも明日、てつだう。はやくおわらせようね。そしたらいっぱいあそべる」
「遊ぶ、ねえ……」
習一は手近な遊びという遊びは不良生活でやり尽くした。どれも子供だましであり、心は満たされなかった。遊ぶ行為が勉学に励んだ報酬に釣り合うとは感じにくい。
「はやく学校についたら、そこでもプリントがこなせるよね。さっそくでかけよう」
「まだ飯を食ってないんだが」
「家族はいま、朝ごはんをつくってくれてる?」
家事を担当する母は習一の朝食を作らない。作っても息子は食べにこないからだ。一般的な家庭と異なる事情に直面して、習一は「いや……」と顔をそむける。すると少女はいつもの調子でリュックサックを床に下ろし、中に両手をつっこむ。ごそごそと作業したのちに白いものを出した。それはラップに包んだサンドイッチだ。
「んじゃ、これを朝ごはんにしよう」
朝食の包装には値札及びバーコードのシールがない。お手製の品だ。
「シューイチのお昼ごはんようにつくってもらった。でもお昼はお店でも食べられるね」
言って少女はサンドイッチをまたリュックサックの中へもどす。
「これは学校についたらあげる。いっしょにいこう」
少女が窓を通って外へ行く。習一は溜息を吐いたのち、制服に着替えた。先日渡されたクリアファイルを一つ鞄に入れて家を出る。家族がリビングにいたが挨拶はせず、早歩きで駆け抜けた。昨日と同じく少女が門の外で待っていた。
習一は後ろに見張り役が控えた状態で学校を目指した。平常時の登校時刻より早いせいもあって熱気は弱く、爽やかな気分で登校できた。正門の前で少女は止まる。水色の布で包んだサンドイッチと細長いステンレス製の水筒を習一に手渡す。
「終業式がおわったらここでまってる」
監視役は去った。習一は水筒を小脇に抱え、鞄と水色の包みを手に持つ。人気のない生徒玄関を通り、教室へ向かう。他の教室には数人の生徒を見かけたが、自分のクラスは誰もいなかった。昨日腰を落ち着けた席へ座り、もらった弁当の包みを広げる。サンドイッチの具はツナとレタス、卵、ハムとチーズ、とごく普通だ。イチゴのジャムを塗っただけのものもある。それぞれ二つずつあり、一袋八枚切りの食パンを丸々使ったサンドイッチのようだ。ツナサンドを一切れ食べると味はありふれたもの。マヨネーズであえたツナとしゃきしゃきしたレタスの食感がある。昨晩何も食べなかったせいか、普通な食事が口の中に染み渡った。一口、二口と次々ほおばる。二切れめを食べかかる頃には口の中の水分が減って飲みこみが悪くなり、水筒の茶を蓋代わりのコップに入れる。飲むと冷たい茶が喉をすっと流れていく感触がわかった。
(手料理……いつ食ったっけ?)
手作りの食事を長い間口にしなかった。習一は他の生徒の当たり前を、自分が享受することに妙な感覚を覚えた。そしてこの食事は誰が用意したものか推測する。
習一に食べ物を届けた少女は「作ってもらった」と言った。彼女の作ではない。では彼女を手配した教師が作ったのだろうか。万事を無難にやりそうな男ゆえ、料理ができても驚きはしない。しかし「もらった」という他人行儀な表現は第三者の存在を匂わせた。
銀髪の彼ら以外にも習一の支援者がいる。その仮説を胸に秘め、四種のパンを一つずつ平らげた。満腹には達しないものの、半分は昼食用に残しておく。己のために弁当を作った者がいるという、誰とは知れぬ存在の実感を惜しく感じた。
用済みのラップをくしゃくしゃに丸め、室内の片隅にあるゴミ箱へ捨てる。蓋をどけて見た中身は空っぽだった。掃除をきちんとこなす生徒がいる証拠だ。他校の生徒の雑談で「ゴミ箱にゴミがあふれてて使えない」と耳にしたことを思い出す。そんな事態は起こりえない学校なのだ──習一という異端児を除いて。
廊下からキュキュっという足音が響く。滑り止めのゴムがすれた時によく鳴る、生徒が常用する靴音だ。誰かが登校してきたのだ。習一は自席につき、食糧を鞄に収めた。入れかわりにクリアファイルと筆記用具を出す。ファイルの中には数枚のプリントをステープラで留めた束が三種類あった。国語と数学と英語。どれも二年生の一学期で学んだ範囲らしい。習一が去年に学習した部分だ。習一は初めに数学に手をつけることにした。自分がどれほど記憶を保持しているか、最もわかりやすく判定できる科目だ。
筆箱の中をかきわけてシャープペンシルを探す。かちゃかちゃと鳴る文具の音に足音も重なった。廊下で発生した音源が室内へと移る。生徒が入室したとわかった習一は少し首を動かし、目の端で人影を探った。影はゆっくりと習一に近付いてくる。
「小田切さん、おはよう。ずいぶん早いんだな」
入室者はまるで普通の生徒と接するかのごとく習一に挨拶をした。そんな物好きは学年に一人いる。習一は生徒を正視した。身長一八〇センチほどの体格の良い男子だ。彼は習一の一つ年下だが同じクラスの同級生。名字を白壁という。変な名前だと思ったが最後、習一は彼の名を忘却できないでいた。
「ああ、あんたもな」
無愛想に返答し、プリントに視線をもどす。無関心を装う習一に白壁は屈さず、隣席に座る。そこは彼の席ではない。それは昨日の授業に参加した習一がよく知っていた。
「そのプリント、夏休みの宿題じゃないな」
全くの敵意も警戒もなしに会話を続けられて、習一は少し混乱する。他の生徒は不良な習一を腫れ物のように危険視し、関わろうとしない。白壁は感性が常人離れしているのか、習一の数少ない一学期の登校日にも今の調子で話しかけてきた。喧嘩の強い習一の怒りを買っても平気だという自信があっての行動だ、と習一は声には出さず思った。彼は中学時代の空手の好成績を評価されて入学を果たした噂がある。
「おれは朝練をしに来たんだが今日はないのを失念していた。物覚えが悪くていかんな」
白壁は習一が会話に加わらないのを不愉快とせず、しゃべり続ける。
「小田切さんはその課題をこなしに早く登校したのか? 家じゃ、集中できないか」
「なんで、それを聞く?」
「親と仲が悪いから……荒れてるって聞いたんでな」
それは真実だ。習一は親への憎しみから悪事を厭わぬ悪童へ転向した。その事情を誰から聞いたか、およその見当はつく。それは昨日、ただ一人習一を気にかけた教師だ。
「他人が口出しすることじゃないが、もったいないな。荒れる前の成績はトップだったんだって? すごく出来がいいんだな。下から数えたほうが早いおれとは大違いだ」
白壁が空手バカだという評判は習一も聞いていた。とはいえ、落第生になるほど馬鹿でもなさそうだった。健全な肉体と精神を持つ男子は「なのに」と声を低める。
「わざと留年して親に恥をかかせて……今はそれで気が済むんだろうけど、せっかくの自分の将来をダメにするの、惜しくないか?」
習一は答えない。白壁の主張は全くの正論だと熟知している。己の愚行は自分自身がよくわかる。だが、それ以外にできる抵抗の手段がなかった。
「親だけじゃない。ここの教師もどうか、というやつはいる。そいつらに刃向ってるだけじゃ、自分のためになってないと思うんだ。なあ、小田切さんは本当はなにがしたい? おれが空手に打ち込むような、やりがいのあることはないのかな」
「ないな、なにも……どれもつまんねえよ」
白壁の言葉がわずらわしいのだが邪険に扱えなかった。彼は真っ正直に習一の身を案じている。善意を悪意で振り払えるほど、習一は悪に染まっていなかった。ふたたび黙して問題を解く。やむかたなし、といった様子で白壁は席を立った。
「才穎高校には寮があるんだとさ。先生たちは結構おもしろいらしいし、そこなら小田切さんの居場所が見つかるかもしれないな」
白壁は暗に習一の一人立ちを勧め、自席へ着いた。習一は頭を起こして彼の姿をはっきりと捉える。前列の席に座る生徒の背はしゃんとしていて、広かった。
2
終業式を無事終えた後、習一は逃げるように校舎を離れた。正門の柱の前で銀髪の少女が待ちぼうけていた、習一が校門を出ると「お昼ごはん、どうする?」との打診を受ける。
「今朝もらったもんが残ってる。デパートに行って涼みながら食う」
「それで足りる?」
「……さあ。喫茶店でプリントを片付けて、腹が減ったら何か注文するかな」
「うん、それいいね」
日射はアスファルトを焼きつくし、遠景を歪めていた。近道を試み、乗用車の通行の隙間をついて道路を渡った。
到着したデパートには出入りする客が少なかった。夕方になれば人がどっと押し寄せる。習一の目当ては客が休憩する椅子だ。ここには規模が小さいながらもフードコートがあり、そこで座席を得る。休日の昼間でもなければ利用客で埋まることのない場所だ。この場で宿題をするつもりはない。他の席を区切る衝立がなく、机のスペースも狭い場では集中しづらいのだ。
誰かが座ったであろう、机と椅子が離れたままの席がある。そこに少女が腰をおろした。習一はその隣の席に座り、残しておいた弁当を広げた。少女はデパートが物珍しいようで、周囲をきょろきょろ見ている。習一と世間話をする気はないらしい。それは習一としてもありがたいことだった。
食事を終え、空になったラップをゴミ箱へ捨てる。弁当を包んでいた布を四角に畳み、水筒と一緒に鞄へ入れた。習一の片付けを見た少女が席を立つ。次なる目的地は一戸建てのチェーン店だ。デパートで体に補充した冷気を失う前に到達できた。赤と茶を基調としたレンガ屋敷風の店に入ろうとすると「さきに入ってて」と少女が言い、姿を消した。習一は彼女の行動を不思議に思いながらも、入口の取っ手を押した。店員の案内を受け、四人掛けのテーブル席に座る。冷房の空気にさらされたソファはひんやりしていた。
習一は銀髪の少女が姿をくらます理由を考えた。彼女が習一と一緒にいてはできないこと。習一は冷えたテーブルに手を置いて、一つの想像にたどりつく。
(シドってやつと連絡してんのか?)
これには一人、得心がいった。習一が式典に参加したこと、今から課題を処理しようとすることを知らせるのだ。これらの経過状況はあの教師が気を揉むはず。彼の思惑通りの行動をこなす習一に恥じる箇所はない。教師が望む勉学に集中するためにも飲料を確保しに席を立った。
習一が無料の冷水を氷と共にコップにそそぐ最中、少女は帰ってきた。彼女は瞬時に習一の姿を認め、習一の鞄のあるテーブルへ迷わず歩いた。習一は彼女の分の水も必要だろうか、と考える。だが余計な世話かもしれぬと思い、自分のコップだけを持ってソファに座った。
少女はソファの端にいた。リュックサックをひざの上に置いて、ブックカバーのついた文庫本を読む。彼女とは斜めに対面した状態で習一も勉強道具を机に広げた。朝に中断した数学の問題を解答する。両者は一言も発さずに各々の世界へ没入した。
二人の静寂を打ち破る者が一人、あらわれる。
「オダさん! 元気になったんスね!」
無邪気な子どもの名残りをもつ声が習一に届いた。目線を上げれば他校の知り合いがいる。短く刈り上げた頭髪以外は平凡な外見だ。彼は感情の起伏が激しく、一度沸点まで加熱すると歯止めが利かなくなるクセがあるが、今は屈託のない笑顔を作る。
「ああ、田淵は変わんねえな。今日は一人か? あとの二人はどうした」
刈り上げ髪の男子は急激に浮かない顔をする。田淵には同じ学校の悪友が二人おり、みな習一とは不良仲間。暇ができれば三人は固まって活動しているのだと習一は考えていた。
「……もう不良はやめたって、更生しちゃったんスよ」
習一は眉を上げた。彼らとて習一同様、周囲との衝突があってならず者に身を落とした。やすやすと心を入れ替えるはずはない。習一がいない一ヶ月間に変化が起きたというのか。
「どういうワケがあったんだ? オレが眠りほうけてる間に、なにが起きた?」
田淵は申し訳なさそうに眉や口を顔の中央に寄せる。ごく当たり前のように銀髪の少女の隣に座った。彼の視線はテーブルに落ちている。
「最初のきっかけは、才穎高校の教師っスよ」
「銀髪の……?」
「そう! あの銀髪野郎、オダさんの首を締めあげて気絶させやがった。そんで『こうなりたくなかったら真面目に生きろ』と言ってさ……おれたち、すっかりブルっちまった」
習一には身におぼえのない出来事だ。それを正直に打ち明けるのは悪手だと感じた。殺人未遂にひとしい暴力をふるわれていながら、記憶に留めていないのはおかしなことだ。伝聞でしか事情を知らぬ掛尾はともかく、その場にいた当事者は情報提供そっちのけで混乱しかねない。習一は知ったかぶりをしておいた。
「おれはオダさんがやられるとこを見てなかったんスけど、やり取りは聞こえてました。ほかの二人は現場を見てて、教師にガン飛ばされたから、おれよりずっとビビってて」
うつむいていた田淵が上目づかいで習一の顔色を確かめ、また視線を下にやった。
「オダさんが『連中に仕返しをする』と計画を練っても、みんな気が乗らなかった。イライラするオダさんは怖いけど、あの銀髪はもっと怖い。だからずるずる計画を延ばして……」
習一は話者を怖がらせないよう、顔色を変えずに黙った。男子は格上な少年をちらりと見て、また過去を述べる。
「ある日、変な男が現れたんス。『才穎高校の生徒に報復する気はあるのか』と聞いてきて……ない、と言ったらいなくなった。ほかの二人も同じ夜に同じ男が同じことを聞いて消えたと言って、もう不気味で。だって、いつの間にか知らない男が部屋にいたんスよ。音もなく侵入できるやつってオバケしかいないでしょ? そんなやつ、逆らっても勝ち目ないっスよ。そいつが現れたあとにオダさんが入院しちまったし、もうこれ潮時だなって」
「銀髪の言うことを聞かなけりゃ自分らも危ない……と感じたわけか」
「ハイ……情けないでしょうけど、それが本音です。おれたち、あんなおっかない思いをしてまで不良はやりたくないっス……」
幽霊などと非科学的な存在を習一は鵜呑みにしない。だが興味をそそる語句が顕在した。
「『オバケみたいな男』は銀髪の教師とは違うのか?」
才穎高校の生徒への復讐を果たされて困るのは銀髪の教師。現段階の話において、幽霊男は全くの部外者のはずだ。
「え? ハイ、別人っス。二人もおれと同じ男を言ってたし、まちがいないっスよ。スゲーむきむきでデケエ男でした。黒っぽい肌は銀髪と似てましたけど、体は別モンっス」
「髪の色はどうだった?」
「髪は……印象に残ってないっス。みんなも『帽子を被ってた』と言ってました」
仮に幽霊じみた男の髪が銀色であれば、ある推測が成り立つ。病院に押しかけてきたヤクザ風の男が捜し求める、彼と同様の屈強な大男だ。その男が田淵たちの部屋に無断訪問した男と同一だとしたら。光葉が得た、銀髪かつ色黒の大男がこの地域にいるというタレコミは正しい。おまけに、その大男は帽子を常用すると光葉は言った。
「あのう……オダさん、オバケ男の正体に心当たりがあるんスか?」
「ああ、そいつと手を組んでるらしい男に会う予定だ。そんときにちょっと聞いてみる」
習一が軽い気持ちで発した提案に、田淵は色めきたつ。
「ひょっとしてあの暴力教師に? 危ないっスよ、またやられちまうっス!」
「平気だ。もう病院で一回会ってる」
田淵が上体をのけぞって驚愕した。手ごわい敵と遭遇して、なんともない状態がよほど信じられないようだ。
「病院で会っただけじゃない、これからオレの復学の手伝いをするんだとよ。ご丁寧に補習の話をこぎつけて、面倒な課題をプレゼントしてくれやがったぜ」
習一は解答途中の数学のプリントを掲げた。田淵がちんぷんかんぷんであろう問題を凝視する間、習一は彼の隣席の少女に目をやる。彼女は二人の会話を耳にしていないかのように読書に没頭していた。少女による話題提供が期待できないと習一は悟る。
「今はあの銀髪がオレの味方らしいぞ。もし町中で会ってもビビるこたぁねえ」
「まじっスか? でも、あいつは真面目に生きればなにもしない、と言ってたしな……」
田淵は半信半疑で目を泳がせる。習一は教師にまつわる話題を切り上げようとした。
「ところで、お前は飯を食いに来たのか?」
「あ、ハイ。テキトーに涼しいところで食おうかな、と……でもオダさんのジャマしちゃまずいっスね。オダさんも真面目にしよう、と思ったからガンバってるんでしょ?」
「どうだかな。ま、飯を食いたいなら違う席か店に移ってくれ。お前といると進まねえ」
田淵が片手を後頭部にあてて「すんません」と目を細める。そうして店を出ていった。彼は最後まで銀髪の少女について言及をしなかった。本当に気付かなかったのだろうか。
「なぁ、さっきの野郎、お前を完全に無視してたよな」
「うん。気配、なくしてるせい」
「そういうもんか? 絶対視界に入ってたと思ったんだが」
「すぎたことはいいから、がんぱって問題をといてね」
少女は課題の進行を急かす。習一は冷たいやつだと評を下した。しかし課題をこなさねばあとで大変な目に遭うのは自明の理。仕方なく中断していた解答を再開した。
3
習一は日没を過ぎても喫茶店に居座った。時間を経るごとに通路を行き交う人が替わる様子を尻目に、手持ちの課題をすべて解いた。この場でできる役目を果たすと、きゅるきゅる鳴る腹を鎮める目的で料理を頼んだ。同席者の銀髪の少女にもメニューを見せて夕飯をすすめたが、彼女は遠慮した。習一を出迎えたあとの少女は水すら口にしていない。
(飯を食えねえのか? 宗教でそんなのあったな……)
どこぞの宗教では昼以降、食事を禁じることがあるという。そんな戒律を遵守する敬虔な宗教家でなかったとしても相手は女。減量目的で食事を控えることも予想して、習一は自分一人だけの夕食をとった。昨日今日と穀物類の食事が多かったので、栄養の均衡を考慮してメインの肉料理以外にサラダも食う。肉体が十全な状態にならないうちは別段好きでもない野菜を摂取するのが身の為だ、と自己判断した。
同じ系列ならどの店も同じ味の料理をたいらげ、習一は氷が飲料に変じた水を飲んだ。クッションのきいた背もたれに寄りかかって天井を見た。喫茶店に長居し、腹がすけば料理を注文をする。そんな過ごし方は以前によくあった。それはこの地域一の難関校と呼び声高い、現在所属する高校への受験勉強に励んでいた時だ。
当時、母は息子を塾へ通わせてはどうか、と父にすすめたが「中学程度の勉強に塾は必要ない」と一蹴された。習一には自習が自分にできる学力向上の手段だった。家の中では能天気な妹が騒がしく、彼女が寝入る夜以外は自室での勉強がはかどらない。喫茶店以外に近隣の図書館に行くこともあったが、食事をとりに移動するたびに荷物を整理する手間が煩わしかった。また利用客が大勢いると使える机のスペースが手狭になるのを嫌い、喫茶店に足しげく通った。優等生であったころの自分と、落第を免れるために一仕事を終えた自分が重なる。習一はその対比を鼻で笑った。
「そろそろおうちにかえる?」
習一は我に返った。その提案を受理するには気が重いのだが、そうするべきだとも理解できる。現在こなせる課題は無くなった。腹を満たした時点で喫茶店に留まる理由はない。
「あしたはシドが一日、シューイチにつきそうの。今晩のうちにゆっくり休もうね」
「ああ……お前は明日、来ないのか?」
「うん。でも、シドによばれたらくるよ」
少女は本をリュックサックの中へしまった。習一も荷物を片付け、忘れ物がないことを机上とその下、ソファを一瞥して確かめる。少女が「ごはんのお金わたそうか」と言うので首を横に振った。
会計を終えると少女は店内におらず、軒先で彼女を見つける。習一は正門での邂逅と同じく、少女に声をかけずに歩いた。アスファルトは日中の熱を溜めこみ、ほんのり熱を放出する。多少蒸し暑いが昼間とは段違いに涼しい。習一はゆるい歩調で家を目指した。
家の居間には電灯が点いていた。家主はもう帰宅した頃か。妹は学習塾に行って不在だろう。そう考えながら鉄格子に触れた。
「そうそう、サンドイッチをくるんでた布と水筒、ちょうだい」
習一は借り物があることを思い出し、鞄に手を入れた。畳んだの布と軽くなった水筒を少女に返す。水筒はちゃぽん、と茶が揺らぐ音を立てた。
リュックサックのファスナーを閉めた少女は背に荷物を担ぎ、じっと習一を見た。
「なんだよ、早いとこお前も帰れ」
「おうちに入るところをみとどけて、って言われてる」
「蚊が飛びまわる時期に野宿なんかしねえよ」
そう吐き捨てた習一は家の敷地内に入り、玄関へと足を踏みこむ。手に汗がにじむのがわかった。暑さの影響ではない。緊張しているのだ。靴を乱雑に脱ぎすて、電灯に照らされた廊下を一直線に進む。フローリング張りの居間からテレビの音が鳴っていた。
脱衣場の戸に鍵を閉め、服を脱ぐ。汗を吸った制服のポケットを空にしたのちに室内の洗濯機へ放りこんだ。洗濯物は乾燥後、脱衣場の棚にしまわれる。体を洗ったら棚にある衣類を着て自室にもどる。それがいつものやり方だった。
習一は簡単にシャワーを浴びる。液体石けんを泡立てて体を洗い、ふと風呂場の鏡に注目した。昨日や院内の浴場では意識する余裕がなかった映写だ。そこに映る顔はやつれていた。おもな原因は一ヶ月の絶食だろう。習一は貧相な顔だと思った。以前は獣じみた勢いがにじみ出ていたはずだが、すっかり毒気を抜かれたようだ。攻撃性を失った面構えの次に頭髪が目についた。髪の根元が黒く、それ以外は脱色した色でいるアンバランスさに苦笑する。いっそ田淵のように髪を刈って黒髪にするか、と思案した。
伸びた髪を洗い、泡を流して風呂場を出る。タオルで全身をわしわしと拭いた。濡れたタオルを洗濯機に投げ入れ、新しい服に着替える。生乾きの髪をそのままにして鞄をつかみ、居間の横を素通りする。テレビの音は聞こえなかった。
「おい、待て」
階段に足を着けた時に男の声がした。習一は踏みとどまり、声の主に一応従う。
「散々迷惑をかけておいて挨拶もなしか?」
怒りと叱責が混合した、重圧を感じさせる物言いだった。習一は首だけを動かして男を見る。居間の入り口に中年が立っていた。ネクタイは首に巻いていないが、まだスーツ姿でいる。
「お前が夜遊びなんぞするから入院するはめになったんだ。入院費だって馬鹿にならんのだぞ……聞いているのか?」
習一は男の問いを無視した。とんとん、と上階へのぼると足音が二重になる。突然習一の片足は動かなくなった。男が足首をつかんでいる。
「いつまで醜態をさらし続ける気だ? 親に礼や謝罪の一つぐらい言えないのか!」
男の憤怒が表出する。足首を握る手に圧がかかった。習一は拘束された足を上下左右に振ってみるが、男の手は離れない。
「なんとか言ったらどうなんだ、この──」
「金食い虫の恥さらし。そう言いたいのか?」
男は目をかっと見開き、口ごもる。開口一番で聞けた言葉が図星を突いたらしい。
「毎度毎度、金と体面が大事なんだな。いっそ金で優秀な息子を買ったらどうだ?」
男はわなわなと全身を震わせる。その顔は醜くゆがんだ。
「きっとあんたの薄っぺらい自尊心をくすぐってくれるだろうよ」
「親を馬鹿にする皮肉ばっかりこきやがって!」
習一を捕縛する手が乱暴に動く。習一は階段のへりをつかむ。転倒を防げたが状況は悪い。平時なら体力面で勝る相手といえど今は病み上がり。このままでは逆上した男に体勢を崩され、演劇でしばしば行なわれる階段落ちを演じるはめになる。あれは芝居でも相当痛いことをどこかで耳にした。衝撃から身を守る肉が薄い者では殊更痛いだろう。どう打開すべきか──男の怒りを鎮める手段は思いつくものの、実行の意欲は微塵も湧かなかった。
がたん、と重い物がぶつかる音がした。なぜか足の呪縛が解かれる。習一がふりむくと男が両手で頭を押さえ、苦痛に耐えていた。その足元には油絵の絵画がある。それは習一の物心ついた時から階段の壁に飾られていた絵だ。丈夫な金属製のワイヤーで吊るしてあり、経年劣化で落下する代物ではない。地震が起きていないのに、と習一は不思議がる一方で好機だと思った。悶絶する男を放置して二階の自室へ入る。鍵をかけ、深い息を吐いた。
(運が、よかったな……)
鞄を適当に放り投げ、自身の体も寝台へぽすんと投げた。
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2018年12月08日
習一篇草稿−1章
1
わずかにオレンジ色の入った白い壁。それが天井だとわかるのに幾らか時間がかかった。無心になじみのない景色を眺めるうちに、男の声が聞こえた。
「目が覚めてくれたね。これで一安心できる」
声には他者を気遣うやわらかさがあった。視界にない声の主をさがすと長い鉄の棒が見えた。天井に向かった先には透明なパックが吊るしてある。液体の入ったパックには管が通り、その管は自身の腕に繋がる。点滴だ。そう認識するとこの場は病院なのだと察した。
「習一くん、気分はどうかな?」
耳触りのよい声はなおも語りかけてくる。点滴側に人の姿は見えず、反対方向へ顔をむきなおす。そこに二十代の男が椅子に座っていた。彼は半袖のワイシャツを着ている。さして特徴のある風貌ではないが、人当たりの良さそうな印象を受けた。
「調子の悪いところがあったら言ってくれ」
習一は男の質問には答えず、上体を起こした。両腕にこめた力が異様に弱く、想像以上に体力を消耗する。大病をわずらったか事故に遭ったかして、体が弱ったのだろうか。
「あんた、誰だ?」
習一がぶっきらぼうに尋ねた。男は膝にのせた鞄から手帳を出す。手帳の表紙をめくると、そこに男の顔写真と名前が載っていた。普通の免許証ではない。警察手帳だ。
「おれはこういう者だ。姓は露木、名は訳あってシズカというあだ名で呼ばれている」
「警察がオレになんの用だ?」
「きみはとある事件に巻きこまれた被害者だ。その事件の担当者がおれ。この病院へは……きみの見舞いに来たってところだ」
露木の言い分はもっともらしい。だが習一はなにかの事件に遭遇した心当たりがない。警官を名乗る男を怪しまずにいられず、それが顔に出たのか露木は「無理もない」とつぶやく。
「きみが被害にあった時の記憶は消させてもらった。身に覚えのないことを言われて、釈然としないのはわかるよ」
「記憶を消す? そんなの、どうやるんだよ」
「それは企業秘密だ。教えてもいいんだけど、今のきみには信じられないだろうね」
習一はむっとした。理解力に劣る凡愚と言われた気がしたせいだ。だが文脈からして頭の出来不出来は関係のない次元の話だと思えた。
「自分の消えた記憶、気になるかい?」
露木は微笑を浮かべながら問う。習一は当然だとばかりにうなずく。どんな内容であれ、他人が強制的に記憶を消去したというのは気味が悪い。その行為が習一のためでなく、この警官や他の人間の利益目的であればなおさらだ。
「なあ、オレの記憶を消したってのが本当だとして、そうした理由はなんだ?」
「それが最良の手段だと思った」
「最良? なにが?」
「きみの他にも同じ、高校生の被害者がいたんだ。彼らが襲われた時の記憶を持ったまま目覚めると……可哀そうなほど脅えていたよ。今後の生活に支障が出るくらいにね。だから被害者全員の記憶を部分的に消したんだ。そういう芸当のできる友人がいるんでね」
露木は親指を立てた握りこぶしを上げ、後方を指す。そこに白衣のようなコートを羽織る男が立っていた。男は身じろぎもせず彫像のごとくたたずむ。その男は片方の手が無いように見えた。
「そいつは……医者か?」
「どちらかと言うと本業は薬剤師かな。さらに正しく言うと魔法使いなんだけど」
「まほう、だと?」
習一が怪訝な視線をつきつけると、露木は腕を下ろす。
「おれのお節介だったね。どうだろう、記憶を取りもどす気はあるかい?」
露木は柔和な表情で奇抜な提案をする。習一が他の被害者と同じ目に遭ったのであれば、その記憶は恐怖体験に違いない。わざわざ恐ろしい記憶を復活させる利点がないように習一は思えた。しかし、この警官はそう考えていない。
習一は他人の思い通りに動くことを良しとしない性分だ。失った記憶への興味と、他者の期待に外れることで得る自尊心のどちらを優先すべきか迷う。一度、可否の決定を保留しておくことにした。
「……どうやってもどすんだ?」
「ある人と一緒にいたらそのうち思い出すよ。これから夏休みだ。時間は取れるだろ?」
習一の記憶では、現在の日時が夏休みのはじまる七月だという認識はない。違和感を抱いたものの、本題にずれる問いはひかえた。
「ある人って、オレの知ってるやつか?」
「きみは覚えていないと思う。なにせ、消えた記憶に深く関わる人だからね」
言い換えると高校生が襲われる事件に関わった人間だ。それがこの警官の味方か、犯人か。習一は種類を二分した上で、そもそも事件は終結したのか気がかりになる。
「ところで、事件は解決してるのか?」
「ああ、バッチリと。おれの友達が頑張ってくれたおかげで、大事には至らなかった」
「『ともだち』? 警察仲間のことをそう呼ぶのか?」
「警官、とはちがうんだな。その話はヒマができたらしようか。とにかく、犯人は二度ときみを襲わないから安心してくれ」
犯人は捕まったのだ。ならば自分に同行する者は彼の仲間か、と習一は言外の情報を推測した。露木がずいと身を乗り出す。
「それで、習一くんはどうしたい? 記憶をもどす方針でいいのかな」
「一緒にいるやつ次第だな。オレ、人の好き嫌いが激しいんだ」
「わかった。彼にきみの見舞いに来るよう頼んでおくよ。実際に会ったあとで決めたらいい」
露木は席を立ち、無言を通す男に「帰ろうか」と声をかける。習一は警官の説明の足らなさに焦る。
「帰るまえに、そいつの名前とか格好を言ってくれねえか?」
「親子の会話がてら、お母さんから伝えてもらおうかと思ったんだが、まあいいや」
露木はくるりと振りかえり、肩掛け鞄のベルトに頭を通した。
「……彼はシドと呼ばれている、才穎高校の教師だ。色黒で背が高い銀髪の男性で、あとは黒シャツと黄色いサングラスが目印になるかな」
才穎高校は習一の所属する学校ではない。才穎は一応の進学校ではあるが、程度や格式の高くない高校だ。噂では入学試験において内面重視の建前のもと、変わり者ばかり集めるらしい。進学校の常軌を逸した学校の教師という者もまた、特徴を聞くかぎり普通の教師ではなさそうだ。任侠やならず者と言われたらしっくりくる風貌である。そんな男が教師を勤めているのも、変人の多い才穎高校ならではだろう。
露木は習一の質問に答え、そそくさと退室する。仲間の男も連れにならった。その際、片方の袖がはためく。彼は本当に片腕がないのだと習一は確信した。
奇妙な二人組がいなくなる。習一はベッドに倒れた。病院に来る前のことを思い出そうとするも、どれがいつの出来事だかはっきりしない。過去にひたるにつれ、みぞおちの奥に重石が積まれるように息苦しくなる。警官と話す間は忘れていた、自身の解決しようがない身のまわりの現実がある。その一端が病室へ入ってきた。
入室者は中年の身綺麗な女だ。習一とよく似た顔をしている。それが習一の母親だった。
「よかった、起きたのね」
表向きは良い母親らしくいたわるが、その目は息子に対する恐れがあった。
2
習一は病室へくる母や看護師に、自分が入院にいたる経緯をたずねた。成果はたった一つ、道端で気絶しているのを発見されたという情報のみ。なぜ倒れていたか、何者のせいで昏倒したのか誰も知らないのだ。判明したことは約一ヶ月の間、習一が眠り続けたことだけだった。
習一は明くる日、警官が寄こす男の来訪を待った。待つ間は臥床を続ける。体を動かすには点滴が邪魔だ。病室から待合室の書棚まで本を取りにいく程度の運動が関の山だった。おまけに体力の衰えが著しいせいで思ったように動けない。覚醒したあとの生活スタイルは昏睡状態とあまり変わりばえしなかった。
筋力と贅肉も見るからに落ちた。この一ヶ月、栄養の補給源は点滴のみだったという。医者は他の栄養補給手段として、咽喉から管を胃に通して食事を注ぐ医療措置を提案したそうだが母親は断った。理由は「見ていてつらくなるから」だそうだが、習一はそれが母の本心だとは考えなかった。
(そのまま消えてくれればいいと、思ったんだろ?)
習一は一家の鼻つまみ者である。地域で一番の進学校に入学したものの、それからは早退遅刻不登校喧嘩など不良少年への道を落ちるように進んでいる。その行ないが元々習一に冷たくあたる父の不興を買い、その怒りが母へと向かうことがあった。習一は父が母に八つ当たりすることは気に食わないが、父が激昂する分にはいい気味だと思っている。
両者の板挟みにあう母はたまったものではない。それゆえ習一は、家族が自身の死を望むのだと信じて疑わない。母が習一のそばについて着替えを用意したり、習一の暇つぶしに本を買い与えたりする姿を見ても、体面を重視して良い母親をふるまうのだと考えた。
(ずっと起きないでいられたら、オレも楽だったのに)
いっそ襲撃者が生命を絶ってくれれば皆が幸福になった。母はまごうことなき悲劇の親を演じられ、豚児の死を起点に安穏とした日々を過ごせただろう。非行を死ぬまで続けるつもりの習一は、逃してしまった未来を夢想した。
正午になり、習一は本日二度目のペースト状の粥をすすった。食べた感覚のしない食事は物足りないが、弱った体には適切だと看護師は説いた。いきなり固形物を胃に入れると体が拒否してしまうらしい。
母はお膳を下げたあと、家のことをしなくてはいけないと告げて退室した。習一は一人きりが気楽だ。さっそく病院の待合室にあった文庫本を読んだ。母の選んだ本は袋に包まれたまま。母のセンスでは空虚な売れ筋のものを選ぶだろう、と最初から期待していない。
読書の間も関心は未知なる来訪者にむかう。警官とは昨日会った。その翌日に彼の仲間が現れるとは限らないが、来るなら母親のいない時がよいと思った。警官の去り際の言葉によれば、母は教師の来訪者を知らされている。その教師次第では今後の動向に母が口をはさむ余地があり、それが習一にはわずらわしい。
一時間ほど経つと眠気がせまり、習一はページの間に指をはさむ。目を閉じるとノックが鳴った。「失礼します」という低い男の声が聞こえる。病院の従業員か、警官の使いか。習一が体を起こすとすでに男は入室し、几帳面に戸を閉める最中だった。
習一は注意深く入室者を観察した。男の背は一八〇センチを越えている。頭髪は光沢のある灰色の短髪。黒灰色の長袖のシャツを腕まくりし、ひじから下の素肌をさらす。その腕は日焼けしていて、スポーツ選手のように筋肉が盛り上がる。
(この男が警官の言ってた教師か)
男の目もとは黄色のレンズの眼鏡で覆われている。年頃は三十歳前後。青年と呼ぶにはどうも落ちつきすぎている雰囲気があった。
「先日、ツユキという警官がこちらへうかがったと思いますが」
低いが明瞭な声だ。この男も警官同様、顔つきは穏やかである。だが習一は警戒体勢をとった。こいつとやり合えば負ける。戦う前から敗北感を味わうほどによく鍛えた体躯だ。
「ツユキさんから貴方に会って話をするよう言いつけられました。私は才穎高校の教師です。シドと呼んでください。……こちらの椅子、お借りします」
教師はベッド付近の椅子に座る。サングラスに点滴を映して「今も体調が優れないのですか?」と聞いてきた。習一もちらっと液体の入った容器を見る。
「この点滴のことか? 病気を治す薬じゃねえ、ただの栄養剤だ」
「食事では十分な栄養が摂れませんか」
「空っぽだった胃にいきなり食べ物を入れると体に良くないんだとよ。粥を食べてなんともなかったら、外される」
「なるほど、段取りがあるのですね」
教師は素直に感心した。存外悠長な男である。このやり取りによって、習一が第一印象で得た威圧感は失せていた。緊張をほぐした習一は自分から話を切りだす。
「あの警官はなにを話せと言ってきた?」
「ツユキさんが貴方に伝えた通り、私とともに行動してもらう件です」
「具体的にやることだな?」
「そうです。私は貴方が期末試験を受けていないことが気がかりですので、その補填となる追試か補習を受けてもらおうと思っています」
習一は困惑した。この男は習一の通う高校とは異なる学校の教師。他校の教師が他校の生徒の成績に口出しすることはありえない。それがどう記憶を取りもどすことに関係があるのかも謎だ。
「待ってくれ、あんたはオレの復学を手伝いにきたんじゃないだろ?」
「貴方が復帰を遂げるまで付き添います。その間に望んだ結果が訪れるかもしれません」
「よその教師がうちの学校にずかずか入りこむ気か?」
「はい。雒英(らくえい)高校の先生方に交渉します」
教師は迷いなく答えた。その提案内容は本来、習一の担任が促すべきことだ。他校の教師が買ってでる道理はない。
「あの学校の教師は変なプライドを持ってるやつがごろごろいるんだ。才穎高校なんて色物ぞろいの学校の教師、まともに相手にするかよ」
「ではこうしましょう。雒英高校の方々が私の申し出を拒めば、貴方は再試験を受けなくてよろしい。了承されたら、貴方は私の指示に従って復学の準備をする。いかがです?」
習一は度重なる不品行により、学校の教師から見放された問題児だ。そんな生徒のために学校側が前例のない働きかけに応えるだろうか。少なからず心ある教師は在席するので、運よくその教師が対応すれば受理されるだろう。だが、成功したとしても他の教師陣に白い目で見られるのは明白だ。習一は鼻で笑った。
「賭ける気か。いいぜ、やってみればいい。どの道、あんたは恥をかくぞ」
「わかりました。これから掛けあってみます」
教師は習一の警告を日常会話のように流した。習一は肩すかしを食らう。習一が知る大勢の大人は虚栄心あふれ、外聞を一番に優先する連中だ。この銀髪の男は内面すらも習一の常識から外れる。
「私から伝えることは以上です。他に聞きたいことはあるでしょうか」
習一は予想外の反応に呆気にとられ、返答できずにいた。
「ないようでしたらこれで退室します」
昨日の警官といい妙にせっかちな男たちだ。習一はとっさに思いついた質問をする。
「あんたはオレのことを知ってるのか? オレは全然覚えちゃいねえが」
「私は何度か貴方と会っています。ですがきちんとお会いしたのは今日を含めて二回です」
「それはいつだ?」
「詳細は後日、貴方の記憶が復活した時に話しましょう」
「つまり、言いたくねえんだな」
「察しがよくて結構。当面は知らなくてよいことです。貴方は快適に生活できる環境づくりに努めてください。話はそれからでも遅くありません」
この教師は習一を取り巻く状況を理解していない。そう感じた習一はそっぽを向いて「とっとと帰れ」と突きはなす。銀髪の男は「私も最善を尽くします」と言い、退室した。習一は臥床し、掛け布団を頭から足先まですっぽり被った。
3
銀髪の教師が来て丸一日が経った。医者は習一を健康体だと診断し、とうとう普通の食事が取れるようになる。病院食は味付けも量も控えめだが定時に食えるので習一は不満を感じなかった。普通の人らしい生活を久々に送れている。ごく当たり前のことをありがたがるほど、すさんだ日々を過ごしているのだ。その暮らしは習一ができる父への反抗だった。
地方の裁判所で小山の大将を気取る中年。それが習一の父だ。その役職上、身内に素行の悪い者がいると非常にばつが悪いらしく、習一を完膚なきまでに厄介者扱いする。だが父との衝突は習一が落ちぶれる以前からあった。
習一には懸命に優等生をふるまう時期があり、その期間は不良時代よりも断然長い。優良児の頃から父は息子を疎ましく感じていた。父が己の若い頃と息子を比較して、その才覚の差に不満を抱えたのだ。父の嫉妬心は母との口論の際にじかに聞いてしまい、以後習一が学業に励むことは無くなった。
そもそも習一が評判の良い学校へ入学した動機はひとえに父に認めてもらうためだった。同級生や世間の話題を参考にすると、子の成績がよければよいほど親は喜ぶ。そう信じて努力する健気さを習一は備えていた。だが習一が秀才になればなるほど、火に油を注ぐ結果になった。そして努力ではどうにもならない、父が息子を憎む最大の理由がもう一つある。それを知った途端、習一は両親を嫌悪し、また父の歓心を得ようと苦心してきた己を蔑んだ。
習一の転換期は一度目の高校二年生の時だった。父への思慕が害意に変わり、自身の人物像は品行方正な秀才から愚昧な不良少年へと変貌する。根っからの不良とも交流するようになり、悪友とともに悪さをするたびに父の激怒を買った。その怒りは習一を正す叱責ではなかった。父自身の体面を保つための防衛策だ。利己心が子の心に響くはずはなく、誰も習一の暴挙を止められなかった。唯一止めたと言えるのは習一を病院送りにした張本人である。
一昨日の警官が言うには、その悪党は習一以外にも被害者を出した。つまり警察がすぐに対処できなかった手強い犯人だ。悪党がどういった経緯で自分を狙ったのか、習一は興味があった。それを知るために銀髪の教師と共だって学校へ行くのは面倒だ。しかし、拒否することで生まれる余暇でなにをすればいいだろうか。
(なんにも……ないな)
やりたいことはない。無為に時を過ごすだけだ。学校側が他校の教師の要求を飲んだとしたら、暇つぶしがてら付き合ってもいいかと思うようになった。
習一は常食の許可が下りると点滴が外された。枷が外れたのを契機に、体力づくりとして院内の散歩を敢行した。平時は苦に思わない階段の上り下りで息が切れ、ふくらはぎや太ももが疲労する。次回からは運動の回数を分けようと思った。無理のない負荷を課すのと、貧弱な体を痛感する時間を短くするためだ。
階下から自分の病室へもどる。引き戸を開けると室内に人影があった。肩にかかる長さの銀髪が真っ先に目につく。銀髪の人物は夏だというのに上半身を覆うケープを羽織っていた。その衣類は女物だ。
「あ、シューイチいた」
銀髪の女は振りむいた。年齢は習一と同年代。瞳は緑色。銀髪の教師と同じく肌が浅黒い。女にしては背が高めだ。それらの身体的特徴は両者が兄妹のように思えた。
「お前、才穎高校の教師の知り合いか?」
「うん。シドの伝言を伝えにきた」
少女は手中にある折りたたんだメモを広げる。紙がかさかさとすれる音と一緒に、習一が手を放した戸の閉まる音も鳴った。
「期末試験をうけられなかったかわりに、三日間の補習を来週やるんだって」
あの教師は再試験の交渉をやり遂げた。それ自体は予想の範囲内だが、昨日の今日で詳細が決定するには急すぎる。
「その補習、別の生徒も受けるついででオレもやるのか?」
「ほかに補習をうける子が二人いるって。よくわかったね」
「うちの教師がオレ一人のために行動するはずねえからな」
「そうなの? そうそう、退院はいつできる? 補習にまにあうかな」
退院日は聞かされていない。とはいえ医者が習一を健康だと判断している。
「医者をつっつけば退院が決まるだろうよ」
「まだ決まってないのね。シドにそう言っておく」
「ああ、そうしてくれ。これでお前の用件はおしまいか?」
「うん、おわり。シューイチからシドに伝えたいことや聞きたいこと、ある?」
「ない。どうせ肝心なことには答えてくれねえし……」
習一は少女の頭髪を見て、ふっと言葉が湧いた。その当て推量は自身の金髪に当てはまることだ。
「あ、大したことじゃないが、一つ聞いていいか」
「うん」
「お前の髪、染めてんのか?」
「ううん、はじめからこの色。シドもそうだよ」
教師らの珍奇な髪の色は生まれつきだという。習一はその事情を話半分にとどめて「そうか」とつぶやいた。役目を終えた少女は習一の脇を通り、病室の戸口へ行く。習一は彼女が退室する様子を見送らず、当初の目的通りに休む。一息ついて戸を見た時には少女の姿がなかった。ずいぶん動きが素早いものだと習一はささやかに感心したが、戸を開く音が全く聞こえなかったことを不思議がった。
4
銀髪の少女が帰ったあと、習一は見回りにきた看護師に退院をせがんだ。看護師が「医師に相談します」と言った三十分後、明後日退院の報告があった。習一が要請する前に決まっていたらしい。父のいない安住の場を出るのは気が進まないが、いずれ離れるべき場所だ。父に対抗しうる体力はもどしておこうと思い、習一は歩行訓練を続けた。
翌日も飯を食っては体を動かし、寝るのを繰り返す。太陽が最高潮に照りつける昼下がり、習一は廊下をゆっくり歩く。明日には退院だとこれみよがしに、閑散とした壁を彩る絵画に注目した。これといって絵に興味はないが細部に目を凝らせば発見はある。色の重なり、筆の流れ、絵の具の厚みなど、長時間制作に苦心したであろう跡がそこに残る。その作品を仕上げるために精魂を捧げた人が存在する。おしなべて同じ形で表現される文字群を前にした時には思いもしない実感だ。絵も文も労力をかけた作品だろうに、受ける印象は違った。
絵に見飽きた習一はガラス張りの廊下へ出る。ガラス越しに眼下の中庭を見物した。炎天下の時間帯では外に出る人はいない。無人の庭の木には白い鳥が留まっていた。鳥の種類は特定できず、習一はなんとなく鳩だと思った。
鳥が飛び立つ。白い鳥はまっすぐに、習一のいる階へ向かってきた。鳥は習一がいる隣り一メートルほど窓の縁に着地する。太いくちばしを自身の羽にあてがった。太く長いくちばしは鳩では持ちえない。さらに鳥は鳩にあるまじき大きな頭をもたげている。その形状は烏(からす)そのもの。だがその体毛は烏とは思えない白さだ。習一は驚愕より先に歓喜が表出する。動物にはアルビノ種という、色素の形成がうまくいかず肌や毛が真っ白になる者がいると聞く。その類なのだと思い、珍しい生き物に会えたと自身の運を称賛した。
習一は興味本位で白い烏がいる窓辺に行く。その時、ガラスを隔てた向かいの病棟の人影が視界に入った。白いスーツに身を包んだ大柄な男だ。その巨躯と服装は医療関係者ではない。大男の肩には花束がある。知り合いの見舞いへ来た人か、と習一は異物を見過ごした。
習一は烏の目の前でしゃがむ。烏は顔を上げ、習一と目が合う。その目は黒かった。
(アルビノは目が赤いんじゃなかったか?)
色素異常のある個体は目の色素も作れない。その影響で血管の色と同じ赤い瞳になると聞いたが、と習一は頭のすみに収納された知識を掘り起こした。記憶と異同のある特殊な烏めがけて、習一はガラスを指で叩く。びっくりして飛び去る、と思ってのいたずらだ。烏は動じず、むしろ習一に応じるようにガラスをくちばしでつつく。自分の行ないに反応がある──それが無性に嬉しかった。習一はこわばった薄い笑みをつくる。長く使っていなかった表情筋が不恰好な笑顔を生み出し、ガラスに映った気がした。
他人に見られなかったか、と習一は向かいの病棟を見る。先程見かけた男はおらず、通行人もいなかった。左右に人はいないか、と首を動かす。すると白いスーツの男を発見した。彼は看護師に声をかけている。見舞い相手の病室を教えてもらっているのだろう。習一は男を無視した。看護師に聞けば病室の案内は確実。習一のもとに男の足が及ぶことはない。引き続き人懐こい烏とたわむれた。
烏は丸い目をぱちくりさせる。しばしば首をかしげる様子を見るに、意外と愛らしい外見なのだと習一は思った。なおかつ烏のイメージを一新する。ゴミや死肉を漁るといって嫌われる負の象徴には思いにくかった。
「ようニーチャン、暇してんか?」
習一は肩を震わせる。奇異な動物に関心を注ぎすぎて、人の接近を察知できなかった。
「そんなビックリせんでもええ。ちぃーと聞きたいことがあるだけなんや」
習一は男を見上げた。男の身長は二メートルあろうかというほど高く、肩幅もある。肩回りや太もも部分のスーツは窮屈そうにピッタリと体の線を這う。骨と筋肉によって膨れた壮健な肉体だ。その身体が作り物でないなら体重は百キロを超えそうだ。
大柄な男はジャケットを着崩しており、暑さのためかシャツの胸元を大きく開いている。日に焼けた肌と筋肉質な体躯、そして金色に染めたオールバックの髪が屈強な荒くれ者の印象を根強く与えた。そんな男に似つかわしくない物が肩に置いてある。薄い赤紫の包装紙にくるんだ花束だ。見舞う病人への贈り物なのだろう。男はニカっと笑い、花束を揺らす。
「ワシはミツバっちゅうもんや。『光る』に葉っぱの『葉』と書いて光葉。ワシと同じくれえのイイ体と肌の色をした、銀髪の男を知らんか?」
銀髪で色黒の男、と聞いて習一はシドと呼ばれる教師を思いうかべる。だがあの教師は眼前の男ほど背は高くなく、筋肉の付き具合も劣っていた。
「ああ、普段は帽子を被っとるさかい、ワシみてえな色黒の男、と考えてもええで」
教師は帽子を被っていなかった。習一は首を横にふる。大男はしょぼくれた。
「そか……このあたりでよう出るって噂やったんやけどな。ほんなら、銀髪の女はどうや? この女も、男に見間違えるぐらいに背が高いっちゅう話や」
この問いにも習一は知らないと意思表示する。教師のお使いに来た銀髪の少女はそれなりに身長があったものの、男性の平均身長に届かなかった。光葉は口を尖らせる。
「ニーチャンんとこに、背はワシよか低い銀髪の男が来てたんやろ。ここの従業員が言うてくれたんや。そいつのことでもええ、なんか教えてくれんか?」
習一は重い腰を上げた。院内の情報提供者がいた以上、面倒だからと適当にはぐらかすことは不可能だ。相手が見た目通りのならず者であれば、その対応の仕方こそ面倒事を引き起こしかねない。
「……一昨日、オレを見舞いに来たよ。このへんの高校の教師だ。その男がどうした?」
「そいつの仲間かもしれへんやつに用があるんや。んで、そのセンセイの居場所は?」
「知らない。一昨日会ったばかりで、どういう人だかオレもわからないんだ」
「そないな知らんやつが、なんでニーチャンの見舞いに来るんや?」
「オレが知りたいくらいだ。聞いても教えてくれねーし」
光葉は尖ったくちびるを横へ突き出した。鼻をすんと鳴らしたのちに中庭を眺める。
「ほんじゃ、センセイはどんな人か教えてもらえるか? 見た目ぐらいは言えるやろ」
「髪の色だけで探せるだろ。そいつは帽子を被ってないんだから」
「冷たいやっちゃな……」
「教師を見つけて、あとはどうする?」
「ワシの望みはセンセイの仲間に引き合わせもらうことや。無敗のバケモンがどないなもんか、手合わせしてみとうてな」
「無敗……って、喧嘩で?」
光葉が「おう」と太く笑った。自信に満ちた面構えだ。伝聞に住まう強者を力で降せると信じている。
「その男はドス持ちもハジキ持ちもみーんな素手でいてまうんやと。それで負けなしなんや、人間業やあらへん。せやからバケモンっちゅうわけや」
方言以外に聞き慣れない単語が出る。それが武器らしいことは会話の前後で読み取れた。なおかつ当然のように武器を所有する集団とは。
「ヤクザ連中とやり合ってた男なのか。教師にそんな知り合い、いるわけない」
「そうとも限らんで。息子を教師にしようとしとったオッサンんとこの用心棒やからな」
用心棒とは光葉が会いたがる大男であって、習一のもとに現れた教師のことではない。そうとわかっていながら、習一は銀髪の教師が無法者の一味なのかと疑念を持ちはじめた。
ぞろぞろと複数人が近づく物音がした。習一が視線を光葉の顔から廊下の奥へと移す。そこに白衣を着た男性医師と男女の看護師が二名いた。彼らは習一たちのいる窓辺に接近する。習一はちらりと光葉の顔をのぞき見た。彼は悠然としていて、医師たちが迫ることに何の感慨も湧いていないようだった。
気の弱そうな医師が背後にいる看護師にせっつかれ、光葉の前に立った。
「なんや、この病院のセンセイか? ワシになんの用事かいな」
「あなたの、ご用件をお聞きしたくて。当院にどういった事情でいらしたのですか?」
「どうもこうも、見舞いや! この花束が目に入らんか」
光葉は肩に飾っていた花束を医師に突きつける。医師は後ろへ一歩のけぞった。
「それともなにか、ワシみたいなごっついオノコが見舞いになんぞ来るはずがないと、センセイがたはイチャモンつける気か?」
「そういうつもりはないんですが……」
医師は両手をあげて、光葉をなだめるとも降伏するとも取れる態度を示す。
「あなたが院内をうろつくと怖がる方がおられます。患者の体調にも良くないので……」
「はん、ヒトをバイキンみたくあつかいよって。これやから医者っちゅうんはお高くとまっててアカンわ、けったくそ悪い!」
光葉は習一に花束を投げた。習一は両腕で受け止める。花はオレンジやピンク色など可愛らしい色合いばかり。彼の趣味ではなく、花屋の店員が仕立てた作品のようだ。
「ニーチャン、養生しぃや!」
光葉は大股で歩きだした。巨体が医師たちの間を押し分けて行く。数秒前まで花束を握りしめていた手を肩の上まで掲げ、左右に振った。それが彼なりの別れの合図らしかった。
医師たちは不審者の追い出しに成功し、持ち場へと散る。その場に取り残された習一は窓の縁を見た。白い烏はいない。ガラス越しに騒動が伝わり、逃げてしまったのだろう。
習一は強引に贈られた花束を持ったまま、自分の病室へもどった。
5
退院日をむかえ、習一は母とともに車に乗って家路につく。送り出す看護師たちには安堵の色が前面に出ていた。習一は病院においても疫病神だったに違いない。治療の施し方がわからぬ奇病に加え、警察は事件の関係者として習一を訪問する。さらに昨日現れたヤクザ風の男が悪印象を決定的にした。その一方で光葉を知らぬ母は花束を見て「気前のいい方がいらしたのね」とのんきな感想を述べた。
久方ぶりに実家へ訪れる。広い一軒家だ。習一の胸あたりまで高さのある黒い鉄格子が塀と塀の間に居座り、玄関へ繋がる入口を守っている。鉄格子の留め具を外して庭へすすみ、母に渡された鍵を使って家へ入った。すでに仕事の始業及び学校の授業が始まる時間帯ゆえ、父と妹は不在だった。
習一は病院にあった荷物と光葉がくれた花束を携え、二階の自室へ入る。室内は整然としていた。部屋主が不在だった間、母が片付けたらしい。
衣類の入った鞄を床に置き、机には花束を置いた。花は水に活けてやらねばならぬ、とわかっていながら習一は花瓶を用意する気になれなかった。
(どうせ花瓶に入れたって、三日もすりゃ枯れるんだ)
習一は母が時々飾る花を思いおこし、その枯れた姿の惨めさをいまわしく感じた。どこかに棄てるつもりで花を放置し、窓を開けて室内の換気をする。朝方といえど暑い空気がそよいできた。冷房をつけるか、とリモコンを探す。すると目の端に何か映った。窓を見れば桟に足をかける人がいる。銀髪の少女だ。袖のないケープに不似合いなリュックサックを背負っている。そのせいで上着に多大なしわが寄っていたが、本人はなんとも思っていないようだった。習一は面食らいながらも窓を開けてやった。
「シューイチ、おはよう。補習にひつようなもの、もってきた」
少女は土足のまま部屋に入った。背中の荷物を床に下ろし、半透明な緑や赤のクリアファイルを三つばかり出して習一に見せる。ファイルの中に多数の紙が入っていた。
「このプリントの問題をぜんぶ答えてね。できたのを先生に見せたら答えがもらえるから、自分で丸つけをして提出するんだって。これは来週中に出してくれればいいって」
少女はクリアファイルを机に置いた。そして机上にある花束に目を留める。
「このお花、だれからもらったの?」
「病院で会ったやつ」
習一のみずから発した言葉に喚起され、少女に警告すべき事柄を瞬時にまとめる。
「光葉、とか言ったな。そいつはお前んとこの教師をさがしてる。ヤクザっぽいやつだったから気をつけとけよ」
「うん、シドにそう言っておく」
彼女も教師同様、普通の人間が不快になる語句には無反応だ。少女は花の贈呈者が無法者らしき人物だったことよりも、花自体に興味をそそぐ。
「お花をお水につけなくていいの?」
「いらねえからお前にやるよ」
「くれるの?」
「オレが持ってても枯らすだけだ。花の好きなやつに渡してやってくれ」
「うん、わかった」
少女が荷物のなくなったリュックサックへ花束を入れる。花弁の部分は外にはみ出てしまうが、落ちないように両方向にあるファスナーの位置を調整した。
「シューイチ、これから学校に行こう。出席日数をかせいだほうがいいんだって」
「今から? 遅刻確定じゃねえか」
「ケッセキよりチコクがいいものなんでしょ?」
「それはそうだけど……」
「制服にきがえて。お昼ごはんはわたしが用意する。授業のじゅんびなしでもいいから」
「かったりいな……」
「シドのいうこと、聞くやくそくでしょ」
自分が承諾した契約を持ちだされ、習一はしぶしぶ制服を手にとった。家にいても無聊をかこつのみ。動ける範囲が少ない分、病院以上に不自由な牢屋だ。どんな場所であれ外へ出たほうが暇は潰せる。そのように自分を納得させた。
少女は窓の外へと出る。習一は着替えを途中にしたまま、少女の行方を確かめた。彼女は難なく庭に着地する。運動神経がかなり良いようだ。習一は窓に身を乗り出し、少女が二階へたどりつく経路を考えた。窓の下には人一人が立てる軒先があり、そこに登れれば習一の部屋に到達できる。軒先の先端は少女の身長より高い位置にある。懸垂の要領で登るには彼女の背が足りないように思えた。忍者のように壁を蹴って上がったのだろうか。
思考する間に着替えた習一は鞄をとり、窓を閉めて部屋を出た。母には何も言わず外出する。少女が鉄格子の奥で待っていた。彼女の運動能力について議論すべきか迷い、習一は自分に無関係なことだと見て黙った。
習一が登校を始めると少女は後方をついてくる。学校とは違う方向へ進むと「どうしたの?」と聞かれ、追跡を捲けなかった。じりじりと照りつける太陽の下、習一は汗をじんわりかきながら町中を歩く。少女はこの暑さでもけろりとした顔でいる。
(このクソ暑いの、平気なのか?)
褐色肌の人は気温の高い地域出身が多い。彼女もそういった暑さに慣れた外国人なのかもしれない。自分とは異なる人種なのだと思い、習一は一人で暑さに耐えた。
家からほど近い距離にある学校に到着する。現在は授業中のため、外観は静謐さがただよった。生徒玄関に入る段になって少女が立ち止まる。
「それじゃ、お昼にまた来るね」
少女は習一とともに来た道をもどった。監視を逃れたいま、習一は自由だ。
(これからもっと暑くなるよな……)
この暑さの中で闊歩する気力はない。冷房をふんだんに活用した教室内にいれば快適だ。習一は少女の思惑通り、授業を受けることにした。見慣れた下足箱は土埃の香りがただよう。自身に配分された下足箱には内履きが変わらずあった。内履きを逆さまにしてゴミを払ったのち、足を入れる。肉が削ぎ落ちた体だが足のサイズは以前と同じだった。
階段をのぼり、二年生の教室へと繋がる廊下を通る。授業中の生徒が数人、視線を遅刻者にそそぐ。蔑みをふくんだ目はもはや慣れたもの。習一はクラスの後方の戸を開け、入室する時にも同様の視線を集めた。習一は唯一の無人の席へ座る。自席の場所はとうに忘れていた。勤勉な生徒たちの教室で一席空いていればそこが自分の席だとうかがい知れる。
教鞭をとる教師は出現が稀な生徒の登場に注目し、授業を中断する。習一が大人しく着席するのを見終えて、再び教鞭を執る。習一は鞄を机に乗せたまま、黒板を見つめていた。
6
午前の授業が終わると生徒たちは昼食をとる。習一の席の周りにいた生徒は自席を離れるか、別室へ逃げた。反対に、午前最後の授業を担当した教師は近よる。四十代の中年男性で、意志の固そうな太い眉毛が印象深い。姓を掛尾という。彼はこの学校の教師の中では珍しい真人間だと習一は認めている。それは同時に教師陣営中の異端者であることも意味した。
「小田切、体の調子はどうだ? だいぶ痩せたようだが……」
「なんともない。先生こそ、変な教師が来なかったか?」
「才穎高校の人のことか? 格好は一風変わっているが、誠実な先生だったぞ」
人物評が世辞でないことは評価者の晴れやかな表情でわかった。
「お前が不慮の事故で期末試験を受けられなかったから、再試験の機会を与えてほしいと頭を下げてこられた。あんなに子どものことを真剣に考えるとは、若いのに感心な人だよ。学校の評価がどうだ、生徒の成績がどうだという体面ばかり気にして、肝心の子どもの気持ちを考えようとしない連中に見習ってほしいもんだ」
ここぞとばかりに掛尾は一部の偏狭な教師を糾弾する。あるいは学力主義な親のことを言っている。そういった大人たちと衝突する習一におもねった可能性はあるが、この教師の場合はこれが本音に聞こえた。掛尾が周囲の人間をなじりながらもこの学校に留まる要因は、習一のような常識はずれの生徒をすくいあげる目的があるらしかった。
「あの銀髪の教師がオレの面倒を看ようとする理由、先生は知ってるか?」
掛尾はきょとんとした顔をする。この教師も理由は知らないのか、と習一は落胆した。
「小田切が才穎高校の生徒と喧嘩しただろ? 止めに入った先生が彼だったそうだ」
掛尾は当事者が他人事のような質問をしたことに軽い戸惑いを感じたようだ。
「その時、小田切をひどく痛めつけてしまったことに気負いして、お前を手助けしてやりたいと思っているらしいぞ。シドさんはお前に伝えてないのか?」
自分が他校の生徒と喧嘩した──そんな騒動はありふれている。しかし、習一の記憶には銀髪の男が自分を苦しめた情景が残らない。これが警官の言う、習一が失った記憶か。今の習一には身に覚えのないことゆえに、あの教師は習一に援助する理由を述べなかったのだ。彼が掛尾に話した動機は、習一の補習にこぎつく交渉に必要だったからだろう。
「……あいつ、オレにはぜんぜん説明してくれやしない。今はとにかく普通に過ごせるように努力しろって言ったきりだ」
「彼なりに理由があるんだろう。実を言うと俺の同期が才穎高校に勤めていてな、そいつがシドさんのことを教えてくれたよ」
真面目すぎて融通の利かない時もある。だが誰よりも生徒を想う優しい男だと、掛尾は知人の評をならべた。掛尾自身の言葉と大差ない説明だ。
「当面、あの先生の言うことを聞いておいて大丈夫だろうよ」
「ほかの教師連中はどうなんだ? 外野に余計な手出しをされて不満なんじゃないのか」
「そんなもの、言わせておけばいい。どうせ口だけだからな」
人聞きの悪いことを言い捨てる中年がくしゃりと笑う。
「そうそう、プリントはもらったか? 来週やる補習を受けるのとプリントを提出するの、二つをこなして及第だ。補習はプリントの問題に沿って解説をする。予習しとけよ」
「今朝、あの教師のお使いが家にきて置いていったよ。そいつが出席日数のために登校しろと強制するから、退院したばっかなのに学校に来たんだ」
「そりゃよくできたお使いだな、小田切に言うことを聞かせるなんて、うちの教師にできないことをやってのけるとは」
外柔内剛とはこのことか、と掛尾は新たな評価をくだした。次に腕時計に視線を落とす。
「昼飯を買って食う時間がなくなるか。んじゃ、午後もがんばれよ」
気さくに話しかけてきた中年は教卓にある授業道具を抱えて退室した。
今朝、習一を学校へ導いた少女は昼食を用意すると言った。部外者が校内へ入ることは一般的にはばかられる。立ち往生しているやもしれず、習一は校舎の外へ出ることにした。
廊下ですれちがう生徒は習一の気分をそこねた。冷たい視線をよこす者、畏怖を注ぐ者ばかり。今朝は遅刻という明白な罪を犯したがゆえにそれらの視線は公然と承服できた。こたびの注目の第一原因は頭髪だ。習一は校則で禁じた染髪を堂々と行なう。一目でわかる問題児に気安く接する生徒はいない。教師にしても掛尾が特殊であり、他の教師は習一と関わろうとしない。貧乏くじを引いた担任の教師が嫌々業務の一環として習一をたしなめる程度だ。この人間関係は習一が望んで生み出したもの。甘んじて負の象徴であり続けた。
習一は内履きのまま蒸し暑い外へ出た。心持ち涼める木陰に早々と入る。天気のよい昼休みといえど外へ出て飲食及び遊興する輩はいなかった。
木々を通り学校の正門へ向かう。突然木の上から何かが落ちた。それは逆さまになった人影だ。空中で止まったまま、銀の髪を垂らして習一を見つめる。今朝、習一に登校を促した少女だ。枝をひざ裏とふくらはぎではさんで、逆さ吊りの状態になっている。
「えいようってよくわかんないんだけど、今日はこれ食べてね」
少女は両手で枝をつかみ、ひざを浮かした。くるりと後転し、すとんと両足を地につける。見事な軽業だ。その技芸を誇示することなく少女はリュックサックを下ろす。中からビニール袋を出し、それを習一に渡した。習一が受け取った袋にはスーパーやコンビニで見かけるサンドイッチ、おにぎり、サラダ、お茶のペットボトルが入っている。
「これがオレの昼飯か。お前の分はどうした?」
「わたしはいらないの。シューイチだけ食べて」
「ふーん、ありがとよ。全部でいくらだ?」
「いーの。シドのおごり」
少女がきっぱりと断る。習一はズポンのポケットに入れた財布に触れたまま、固まった。
「補習がおわるまでのごはんはシドが用意する。だから勉強にせんねんしてね」
「なんでそこまでする? 若い教師の給料なんざ知れたもんだろ」
「おかねは心配いらない。シドはつかいみちなくて、たまってくから」
「金の使い方を知らねえタイプか。浪費するのは他人のためなんて、どこの慈善家だよ」
「うん。そうやって子どもを助けるって、ある人とやくそくしたの」
「へえ、その約束をするまでにえらい美談があるんだろうな」
彼らの背景を聞くつもりは習一にはない。冷えた室内へもどろうと踵を返した。
「……きれいなはなし、じゃない。いっぱい、ひどいことした」
後方から少女の力ない声が微かに伝わった。習一は意味深な発言の真意を聞こうと振り返ったが、少女の姿はもうなかった。
わずかにオレンジ色の入った白い壁。それが天井だとわかるのに幾らか時間がかかった。無心になじみのない景色を眺めるうちに、男の声が聞こえた。
「目が覚めてくれたね。これで一安心できる」
声には他者を気遣うやわらかさがあった。視界にない声の主をさがすと長い鉄の棒が見えた。天井に向かった先には透明なパックが吊るしてある。液体の入ったパックには管が通り、その管は自身の腕に繋がる。点滴だ。そう認識するとこの場は病院なのだと察した。
「習一くん、気分はどうかな?」
耳触りのよい声はなおも語りかけてくる。点滴側に人の姿は見えず、反対方向へ顔をむきなおす。そこに二十代の男が椅子に座っていた。彼は半袖のワイシャツを着ている。さして特徴のある風貌ではないが、人当たりの良さそうな印象を受けた。
「調子の悪いところがあったら言ってくれ」
習一は男の質問には答えず、上体を起こした。両腕にこめた力が異様に弱く、想像以上に体力を消耗する。大病をわずらったか事故に遭ったかして、体が弱ったのだろうか。
「あんた、誰だ?」
習一がぶっきらぼうに尋ねた。男は膝にのせた鞄から手帳を出す。手帳の表紙をめくると、そこに男の顔写真と名前が載っていた。普通の免許証ではない。警察手帳だ。
「おれはこういう者だ。姓は露木、名は訳あってシズカというあだ名で呼ばれている」
「警察がオレになんの用だ?」
「きみはとある事件に巻きこまれた被害者だ。その事件の担当者がおれ。この病院へは……きみの見舞いに来たってところだ」
露木の言い分はもっともらしい。だが習一はなにかの事件に遭遇した心当たりがない。警官を名乗る男を怪しまずにいられず、それが顔に出たのか露木は「無理もない」とつぶやく。
「きみが被害にあった時の記憶は消させてもらった。身に覚えのないことを言われて、釈然としないのはわかるよ」
「記憶を消す? そんなの、どうやるんだよ」
「それは企業秘密だ。教えてもいいんだけど、今のきみには信じられないだろうね」
習一はむっとした。理解力に劣る凡愚と言われた気がしたせいだ。だが文脈からして頭の出来不出来は関係のない次元の話だと思えた。
「自分の消えた記憶、気になるかい?」
露木は微笑を浮かべながら問う。習一は当然だとばかりにうなずく。どんな内容であれ、他人が強制的に記憶を消去したというのは気味が悪い。その行為が習一のためでなく、この警官や他の人間の利益目的であればなおさらだ。
「なあ、オレの記憶を消したってのが本当だとして、そうした理由はなんだ?」
「それが最良の手段だと思った」
「最良? なにが?」
「きみの他にも同じ、高校生の被害者がいたんだ。彼らが襲われた時の記憶を持ったまま目覚めると……可哀そうなほど脅えていたよ。今後の生活に支障が出るくらいにね。だから被害者全員の記憶を部分的に消したんだ。そういう芸当のできる友人がいるんでね」
露木は親指を立てた握りこぶしを上げ、後方を指す。そこに白衣のようなコートを羽織る男が立っていた。男は身じろぎもせず彫像のごとくたたずむ。その男は片方の手が無いように見えた。
「そいつは……医者か?」
「どちらかと言うと本業は薬剤師かな。さらに正しく言うと魔法使いなんだけど」
「まほう、だと?」
習一が怪訝な視線をつきつけると、露木は腕を下ろす。
「おれのお節介だったね。どうだろう、記憶を取りもどす気はあるかい?」
露木は柔和な表情で奇抜な提案をする。習一が他の被害者と同じ目に遭ったのであれば、その記憶は恐怖体験に違いない。わざわざ恐ろしい記憶を復活させる利点がないように習一は思えた。しかし、この警官はそう考えていない。
習一は他人の思い通りに動くことを良しとしない性分だ。失った記憶への興味と、他者の期待に外れることで得る自尊心のどちらを優先すべきか迷う。一度、可否の決定を保留しておくことにした。
「……どうやってもどすんだ?」
「ある人と一緒にいたらそのうち思い出すよ。これから夏休みだ。時間は取れるだろ?」
習一の記憶では、現在の日時が夏休みのはじまる七月だという認識はない。違和感を抱いたものの、本題にずれる問いはひかえた。
「ある人って、オレの知ってるやつか?」
「きみは覚えていないと思う。なにせ、消えた記憶に深く関わる人だからね」
言い換えると高校生が襲われる事件に関わった人間だ。それがこの警官の味方か、犯人か。習一は種類を二分した上で、そもそも事件は終結したのか気がかりになる。
「ところで、事件は解決してるのか?」
「ああ、バッチリと。おれの友達が頑張ってくれたおかげで、大事には至らなかった」
「『ともだち』? 警察仲間のことをそう呼ぶのか?」
「警官、とはちがうんだな。その話はヒマができたらしようか。とにかく、犯人は二度ときみを襲わないから安心してくれ」
犯人は捕まったのだ。ならば自分に同行する者は彼の仲間か、と習一は言外の情報を推測した。露木がずいと身を乗り出す。
「それで、習一くんはどうしたい? 記憶をもどす方針でいいのかな」
「一緒にいるやつ次第だな。オレ、人の好き嫌いが激しいんだ」
「わかった。彼にきみの見舞いに来るよう頼んでおくよ。実際に会ったあとで決めたらいい」
露木は席を立ち、無言を通す男に「帰ろうか」と声をかける。習一は警官の説明の足らなさに焦る。
「帰るまえに、そいつの名前とか格好を言ってくれねえか?」
「親子の会話がてら、お母さんから伝えてもらおうかと思ったんだが、まあいいや」
露木はくるりと振りかえり、肩掛け鞄のベルトに頭を通した。
「……彼はシドと呼ばれている、才穎高校の教師だ。色黒で背が高い銀髪の男性で、あとは黒シャツと黄色いサングラスが目印になるかな」
才穎高校は習一の所属する学校ではない。才穎は一応の進学校ではあるが、程度や格式の高くない高校だ。噂では入学試験において内面重視の建前のもと、変わり者ばかり集めるらしい。進学校の常軌を逸した学校の教師という者もまた、特徴を聞くかぎり普通の教師ではなさそうだ。任侠やならず者と言われたらしっくりくる風貌である。そんな男が教師を勤めているのも、変人の多い才穎高校ならではだろう。
露木は習一の質問に答え、そそくさと退室する。仲間の男も連れにならった。その際、片方の袖がはためく。彼は本当に片腕がないのだと習一は確信した。
奇妙な二人組がいなくなる。習一はベッドに倒れた。病院に来る前のことを思い出そうとするも、どれがいつの出来事だかはっきりしない。過去にひたるにつれ、みぞおちの奥に重石が積まれるように息苦しくなる。警官と話す間は忘れていた、自身の解決しようがない身のまわりの現実がある。その一端が病室へ入ってきた。
入室者は中年の身綺麗な女だ。習一とよく似た顔をしている。それが習一の母親だった。
「よかった、起きたのね」
表向きは良い母親らしくいたわるが、その目は息子に対する恐れがあった。
2
習一は病室へくる母や看護師に、自分が入院にいたる経緯をたずねた。成果はたった一つ、道端で気絶しているのを発見されたという情報のみ。なぜ倒れていたか、何者のせいで昏倒したのか誰も知らないのだ。判明したことは約一ヶ月の間、習一が眠り続けたことだけだった。
習一は明くる日、警官が寄こす男の来訪を待った。待つ間は臥床を続ける。体を動かすには点滴が邪魔だ。病室から待合室の書棚まで本を取りにいく程度の運動が関の山だった。おまけに体力の衰えが著しいせいで思ったように動けない。覚醒したあとの生活スタイルは昏睡状態とあまり変わりばえしなかった。
筋力と贅肉も見るからに落ちた。この一ヶ月、栄養の補給源は点滴のみだったという。医者は他の栄養補給手段として、咽喉から管を胃に通して食事を注ぐ医療措置を提案したそうだが母親は断った。理由は「見ていてつらくなるから」だそうだが、習一はそれが母の本心だとは考えなかった。
(そのまま消えてくれればいいと、思ったんだろ?)
習一は一家の鼻つまみ者である。地域で一番の進学校に入学したものの、それからは早退遅刻不登校喧嘩など不良少年への道を落ちるように進んでいる。その行ないが元々習一に冷たくあたる父の不興を買い、その怒りが母へと向かうことがあった。習一は父が母に八つ当たりすることは気に食わないが、父が激昂する分にはいい気味だと思っている。
両者の板挟みにあう母はたまったものではない。それゆえ習一は、家族が自身の死を望むのだと信じて疑わない。母が習一のそばについて着替えを用意したり、習一の暇つぶしに本を買い与えたりする姿を見ても、体面を重視して良い母親をふるまうのだと考えた。
(ずっと起きないでいられたら、オレも楽だったのに)
いっそ襲撃者が生命を絶ってくれれば皆が幸福になった。母はまごうことなき悲劇の親を演じられ、豚児の死を起点に安穏とした日々を過ごせただろう。非行を死ぬまで続けるつもりの習一は、逃してしまった未来を夢想した。
正午になり、習一は本日二度目のペースト状の粥をすすった。食べた感覚のしない食事は物足りないが、弱った体には適切だと看護師は説いた。いきなり固形物を胃に入れると体が拒否してしまうらしい。
母はお膳を下げたあと、家のことをしなくてはいけないと告げて退室した。習一は一人きりが気楽だ。さっそく病院の待合室にあった文庫本を読んだ。母の選んだ本は袋に包まれたまま。母のセンスでは空虚な売れ筋のものを選ぶだろう、と最初から期待していない。
読書の間も関心は未知なる来訪者にむかう。警官とは昨日会った。その翌日に彼の仲間が現れるとは限らないが、来るなら母親のいない時がよいと思った。警官の去り際の言葉によれば、母は教師の来訪者を知らされている。その教師次第では今後の動向に母が口をはさむ余地があり、それが習一にはわずらわしい。
一時間ほど経つと眠気がせまり、習一はページの間に指をはさむ。目を閉じるとノックが鳴った。「失礼します」という低い男の声が聞こえる。病院の従業員か、警官の使いか。習一が体を起こすとすでに男は入室し、几帳面に戸を閉める最中だった。
習一は注意深く入室者を観察した。男の背は一八〇センチを越えている。頭髪は光沢のある灰色の短髪。黒灰色の長袖のシャツを腕まくりし、ひじから下の素肌をさらす。その腕は日焼けしていて、スポーツ選手のように筋肉が盛り上がる。
(この男が警官の言ってた教師か)
男の目もとは黄色のレンズの眼鏡で覆われている。年頃は三十歳前後。青年と呼ぶにはどうも落ちつきすぎている雰囲気があった。
「先日、ツユキという警官がこちらへうかがったと思いますが」
低いが明瞭な声だ。この男も警官同様、顔つきは穏やかである。だが習一は警戒体勢をとった。こいつとやり合えば負ける。戦う前から敗北感を味わうほどによく鍛えた体躯だ。
「ツユキさんから貴方に会って話をするよう言いつけられました。私は才穎高校の教師です。シドと呼んでください。……こちらの椅子、お借りします」
教師はベッド付近の椅子に座る。サングラスに点滴を映して「今も体調が優れないのですか?」と聞いてきた。習一もちらっと液体の入った容器を見る。
「この点滴のことか? 病気を治す薬じゃねえ、ただの栄養剤だ」
「食事では十分な栄養が摂れませんか」
「空っぽだった胃にいきなり食べ物を入れると体に良くないんだとよ。粥を食べてなんともなかったら、外される」
「なるほど、段取りがあるのですね」
教師は素直に感心した。存外悠長な男である。このやり取りによって、習一が第一印象で得た威圧感は失せていた。緊張をほぐした習一は自分から話を切りだす。
「あの警官はなにを話せと言ってきた?」
「ツユキさんが貴方に伝えた通り、私とともに行動してもらう件です」
「具体的にやることだな?」
「そうです。私は貴方が期末試験を受けていないことが気がかりですので、その補填となる追試か補習を受けてもらおうと思っています」
習一は困惑した。この男は習一の通う高校とは異なる学校の教師。他校の教師が他校の生徒の成績に口出しすることはありえない。それがどう記憶を取りもどすことに関係があるのかも謎だ。
「待ってくれ、あんたはオレの復学を手伝いにきたんじゃないだろ?」
「貴方が復帰を遂げるまで付き添います。その間に望んだ結果が訪れるかもしれません」
「よその教師がうちの学校にずかずか入りこむ気か?」
「はい。雒英(らくえい)高校の先生方に交渉します」
教師は迷いなく答えた。その提案内容は本来、習一の担任が促すべきことだ。他校の教師が買ってでる道理はない。
「あの学校の教師は変なプライドを持ってるやつがごろごろいるんだ。才穎高校なんて色物ぞろいの学校の教師、まともに相手にするかよ」
「ではこうしましょう。雒英高校の方々が私の申し出を拒めば、貴方は再試験を受けなくてよろしい。了承されたら、貴方は私の指示に従って復学の準備をする。いかがです?」
習一は度重なる不品行により、学校の教師から見放された問題児だ。そんな生徒のために学校側が前例のない働きかけに応えるだろうか。少なからず心ある教師は在席するので、運よくその教師が対応すれば受理されるだろう。だが、成功したとしても他の教師陣に白い目で見られるのは明白だ。習一は鼻で笑った。
「賭ける気か。いいぜ、やってみればいい。どの道、あんたは恥をかくぞ」
「わかりました。これから掛けあってみます」
教師は習一の警告を日常会話のように流した。習一は肩すかしを食らう。習一が知る大勢の大人は虚栄心あふれ、外聞を一番に優先する連中だ。この銀髪の男は内面すらも習一の常識から外れる。
「私から伝えることは以上です。他に聞きたいことはあるでしょうか」
習一は予想外の反応に呆気にとられ、返答できずにいた。
「ないようでしたらこれで退室します」
昨日の警官といい妙にせっかちな男たちだ。習一はとっさに思いついた質問をする。
「あんたはオレのことを知ってるのか? オレは全然覚えちゃいねえが」
「私は何度か貴方と会っています。ですがきちんとお会いしたのは今日を含めて二回です」
「それはいつだ?」
「詳細は後日、貴方の記憶が復活した時に話しましょう」
「つまり、言いたくねえんだな」
「察しがよくて結構。当面は知らなくてよいことです。貴方は快適に生活できる環境づくりに努めてください。話はそれからでも遅くありません」
この教師は習一を取り巻く状況を理解していない。そう感じた習一はそっぽを向いて「とっとと帰れ」と突きはなす。銀髪の男は「私も最善を尽くします」と言い、退室した。習一は臥床し、掛け布団を頭から足先まですっぽり被った。
3
銀髪の教師が来て丸一日が経った。医者は習一を健康体だと診断し、とうとう普通の食事が取れるようになる。病院食は味付けも量も控えめだが定時に食えるので習一は不満を感じなかった。普通の人らしい生活を久々に送れている。ごく当たり前のことをありがたがるほど、すさんだ日々を過ごしているのだ。その暮らしは習一ができる父への反抗だった。
地方の裁判所で小山の大将を気取る中年。それが習一の父だ。その役職上、身内に素行の悪い者がいると非常にばつが悪いらしく、習一を完膚なきまでに厄介者扱いする。だが父との衝突は習一が落ちぶれる以前からあった。
習一には懸命に優等生をふるまう時期があり、その期間は不良時代よりも断然長い。優良児の頃から父は息子を疎ましく感じていた。父が己の若い頃と息子を比較して、その才覚の差に不満を抱えたのだ。父の嫉妬心は母との口論の際にじかに聞いてしまい、以後習一が学業に励むことは無くなった。
そもそも習一が評判の良い学校へ入学した動機はひとえに父に認めてもらうためだった。同級生や世間の話題を参考にすると、子の成績がよければよいほど親は喜ぶ。そう信じて努力する健気さを習一は備えていた。だが習一が秀才になればなるほど、火に油を注ぐ結果になった。そして努力ではどうにもならない、父が息子を憎む最大の理由がもう一つある。それを知った途端、習一は両親を嫌悪し、また父の歓心を得ようと苦心してきた己を蔑んだ。
習一の転換期は一度目の高校二年生の時だった。父への思慕が害意に変わり、自身の人物像は品行方正な秀才から愚昧な不良少年へと変貌する。根っからの不良とも交流するようになり、悪友とともに悪さをするたびに父の激怒を買った。その怒りは習一を正す叱責ではなかった。父自身の体面を保つための防衛策だ。利己心が子の心に響くはずはなく、誰も習一の暴挙を止められなかった。唯一止めたと言えるのは習一を病院送りにした張本人である。
一昨日の警官が言うには、その悪党は習一以外にも被害者を出した。つまり警察がすぐに対処できなかった手強い犯人だ。悪党がどういった経緯で自分を狙ったのか、習一は興味があった。それを知るために銀髪の教師と共だって学校へ行くのは面倒だ。しかし、拒否することで生まれる余暇でなにをすればいいだろうか。
(なんにも……ないな)
やりたいことはない。無為に時を過ごすだけだ。学校側が他校の教師の要求を飲んだとしたら、暇つぶしがてら付き合ってもいいかと思うようになった。
習一は常食の許可が下りると点滴が外された。枷が外れたのを契機に、体力づくりとして院内の散歩を敢行した。平時は苦に思わない階段の上り下りで息が切れ、ふくらはぎや太ももが疲労する。次回からは運動の回数を分けようと思った。無理のない負荷を課すのと、貧弱な体を痛感する時間を短くするためだ。
階下から自分の病室へもどる。引き戸を開けると室内に人影があった。肩にかかる長さの銀髪が真っ先に目につく。銀髪の人物は夏だというのに上半身を覆うケープを羽織っていた。その衣類は女物だ。
「あ、シューイチいた」
銀髪の女は振りむいた。年齢は習一と同年代。瞳は緑色。銀髪の教師と同じく肌が浅黒い。女にしては背が高めだ。それらの身体的特徴は両者が兄妹のように思えた。
「お前、才穎高校の教師の知り合いか?」
「うん。シドの伝言を伝えにきた」
少女は手中にある折りたたんだメモを広げる。紙がかさかさとすれる音と一緒に、習一が手を放した戸の閉まる音も鳴った。
「期末試験をうけられなかったかわりに、三日間の補習を来週やるんだって」
あの教師は再試験の交渉をやり遂げた。それ自体は予想の範囲内だが、昨日の今日で詳細が決定するには急すぎる。
「その補習、別の生徒も受けるついででオレもやるのか?」
「ほかに補習をうける子が二人いるって。よくわかったね」
「うちの教師がオレ一人のために行動するはずねえからな」
「そうなの? そうそう、退院はいつできる? 補習にまにあうかな」
退院日は聞かされていない。とはいえ医者が習一を健康だと判断している。
「医者をつっつけば退院が決まるだろうよ」
「まだ決まってないのね。シドにそう言っておく」
「ああ、そうしてくれ。これでお前の用件はおしまいか?」
「うん、おわり。シューイチからシドに伝えたいことや聞きたいこと、ある?」
「ない。どうせ肝心なことには答えてくれねえし……」
習一は少女の頭髪を見て、ふっと言葉が湧いた。その当て推量は自身の金髪に当てはまることだ。
「あ、大したことじゃないが、一つ聞いていいか」
「うん」
「お前の髪、染めてんのか?」
「ううん、はじめからこの色。シドもそうだよ」
教師らの珍奇な髪の色は生まれつきだという。習一はその事情を話半分にとどめて「そうか」とつぶやいた。役目を終えた少女は習一の脇を通り、病室の戸口へ行く。習一は彼女が退室する様子を見送らず、当初の目的通りに休む。一息ついて戸を見た時には少女の姿がなかった。ずいぶん動きが素早いものだと習一はささやかに感心したが、戸を開く音が全く聞こえなかったことを不思議がった。
4
銀髪の少女が帰ったあと、習一は見回りにきた看護師に退院をせがんだ。看護師が「医師に相談します」と言った三十分後、明後日退院の報告があった。習一が要請する前に決まっていたらしい。父のいない安住の場を出るのは気が進まないが、いずれ離れるべき場所だ。父に対抗しうる体力はもどしておこうと思い、習一は歩行訓練を続けた。
翌日も飯を食っては体を動かし、寝るのを繰り返す。太陽が最高潮に照りつける昼下がり、習一は廊下をゆっくり歩く。明日には退院だとこれみよがしに、閑散とした壁を彩る絵画に注目した。これといって絵に興味はないが細部に目を凝らせば発見はある。色の重なり、筆の流れ、絵の具の厚みなど、長時間制作に苦心したであろう跡がそこに残る。その作品を仕上げるために精魂を捧げた人が存在する。おしなべて同じ形で表現される文字群を前にした時には思いもしない実感だ。絵も文も労力をかけた作品だろうに、受ける印象は違った。
絵に見飽きた習一はガラス張りの廊下へ出る。ガラス越しに眼下の中庭を見物した。炎天下の時間帯では外に出る人はいない。無人の庭の木には白い鳥が留まっていた。鳥の種類は特定できず、習一はなんとなく鳩だと思った。
鳥が飛び立つ。白い鳥はまっすぐに、習一のいる階へ向かってきた。鳥は習一がいる隣り一メートルほど窓の縁に着地する。太いくちばしを自身の羽にあてがった。太く長いくちばしは鳩では持ちえない。さらに鳥は鳩にあるまじき大きな頭をもたげている。その形状は烏(からす)そのもの。だがその体毛は烏とは思えない白さだ。習一は驚愕より先に歓喜が表出する。動物にはアルビノ種という、色素の形成がうまくいかず肌や毛が真っ白になる者がいると聞く。その類なのだと思い、珍しい生き物に会えたと自身の運を称賛した。
習一は興味本位で白い烏がいる窓辺に行く。その時、ガラスを隔てた向かいの病棟の人影が視界に入った。白いスーツに身を包んだ大柄な男だ。その巨躯と服装は医療関係者ではない。大男の肩には花束がある。知り合いの見舞いへ来た人か、と習一は異物を見過ごした。
習一は烏の目の前でしゃがむ。烏は顔を上げ、習一と目が合う。その目は黒かった。
(アルビノは目が赤いんじゃなかったか?)
色素異常のある個体は目の色素も作れない。その影響で血管の色と同じ赤い瞳になると聞いたが、と習一は頭のすみに収納された知識を掘り起こした。記憶と異同のある特殊な烏めがけて、習一はガラスを指で叩く。びっくりして飛び去る、と思ってのいたずらだ。烏は動じず、むしろ習一に応じるようにガラスをくちばしでつつく。自分の行ないに反応がある──それが無性に嬉しかった。習一はこわばった薄い笑みをつくる。長く使っていなかった表情筋が不恰好な笑顔を生み出し、ガラスに映った気がした。
他人に見られなかったか、と習一は向かいの病棟を見る。先程見かけた男はおらず、通行人もいなかった。左右に人はいないか、と首を動かす。すると白いスーツの男を発見した。彼は看護師に声をかけている。見舞い相手の病室を教えてもらっているのだろう。習一は男を無視した。看護師に聞けば病室の案内は確実。習一のもとに男の足が及ぶことはない。引き続き人懐こい烏とたわむれた。
烏は丸い目をぱちくりさせる。しばしば首をかしげる様子を見るに、意外と愛らしい外見なのだと習一は思った。なおかつ烏のイメージを一新する。ゴミや死肉を漁るといって嫌われる負の象徴には思いにくかった。
「ようニーチャン、暇してんか?」
習一は肩を震わせる。奇異な動物に関心を注ぎすぎて、人の接近を察知できなかった。
「そんなビックリせんでもええ。ちぃーと聞きたいことがあるだけなんや」
習一は男を見上げた。男の身長は二メートルあろうかというほど高く、肩幅もある。肩回りや太もも部分のスーツは窮屈そうにピッタリと体の線を這う。骨と筋肉によって膨れた壮健な肉体だ。その身体が作り物でないなら体重は百キロを超えそうだ。
大柄な男はジャケットを着崩しており、暑さのためかシャツの胸元を大きく開いている。日に焼けた肌と筋肉質な体躯、そして金色に染めたオールバックの髪が屈強な荒くれ者の印象を根強く与えた。そんな男に似つかわしくない物が肩に置いてある。薄い赤紫の包装紙にくるんだ花束だ。見舞う病人への贈り物なのだろう。男はニカっと笑い、花束を揺らす。
「ワシはミツバっちゅうもんや。『光る』に葉っぱの『葉』と書いて光葉。ワシと同じくれえのイイ体と肌の色をした、銀髪の男を知らんか?」
銀髪で色黒の男、と聞いて習一はシドと呼ばれる教師を思いうかべる。だがあの教師は眼前の男ほど背は高くなく、筋肉の付き具合も劣っていた。
「ああ、普段は帽子を被っとるさかい、ワシみてえな色黒の男、と考えてもええで」
教師は帽子を被っていなかった。習一は首を横にふる。大男はしょぼくれた。
「そか……このあたりでよう出るって噂やったんやけどな。ほんなら、銀髪の女はどうや? この女も、男に見間違えるぐらいに背が高いっちゅう話や」
この問いにも習一は知らないと意思表示する。教師のお使いに来た銀髪の少女はそれなりに身長があったものの、男性の平均身長に届かなかった。光葉は口を尖らせる。
「ニーチャンんとこに、背はワシよか低い銀髪の男が来てたんやろ。ここの従業員が言うてくれたんや。そいつのことでもええ、なんか教えてくれんか?」
習一は重い腰を上げた。院内の情報提供者がいた以上、面倒だからと適当にはぐらかすことは不可能だ。相手が見た目通りのならず者であれば、その対応の仕方こそ面倒事を引き起こしかねない。
「……一昨日、オレを見舞いに来たよ。このへんの高校の教師だ。その男がどうした?」
「そいつの仲間かもしれへんやつに用があるんや。んで、そのセンセイの居場所は?」
「知らない。一昨日会ったばかりで、どういう人だかオレもわからないんだ」
「そないな知らんやつが、なんでニーチャンの見舞いに来るんや?」
「オレが知りたいくらいだ。聞いても教えてくれねーし」
光葉は尖ったくちびるを横へ突き出した。鼻をすんと鳴らしたのちに中庭を眺める。
「ほんじゃ、センセイはどんな人か教えてもらえるか? 見た目ぐらいは言えるやろ」
「髪の色だけで探せるだろ。そいつは帽子を被ってないんだから」
「冷たいやっちゃな……」
「教師を見つけて、あとはどうする?」
「ワシの望みはセンセイの仲間に引き合わせもらうことや。無敗のバケモンがどないなもんか、手合わせしてみとうてな」
「無敗……って、喧嘩で?」
光葉が「おう」と太く笑った。自信に満ちた面構えだ。伝聞に住まう強者を力で降せると信じている。
「その男はドス持ちもハジキ持ちもみーんな素手でいてまうんやと。それで負けなしなんや、人間業やあらへん。せやからバケモンっちゅうわけや」
方言以外に聞き慣れない単語が出る。それが武器らしいことは会話の前後で読み取れた。なおかつ当然のように武器を所有する集団とは。
「ヤクザ連中とやり合ってた男なのか。教師にそんな知り合い、いるわけない」
「そうとも限らんで。息子を教師にしようとしとったオッサンんとこの用心棒やからな」
用心棒とは光葉が会いたがる大男であって、習一のもとに現れた教師のことではない。そうとわかっていながら、習一は銀髪の教師が無法者の一味なのかと疑念を持ちはじめた。
ぞろぞろと複数人が近づく物音がした。習一が視線を光葉の顔から廊下の奥へと移す。そこに白衣を着た男性医師と男女の看護師が二名いた。彼らは習一たちのいる窓辺に接近する。習一はちらりと光葉の顔をのぞき見た。彼は悠然としていて、医師たちが迫ることに何の感慨も湧いていないようだった。
気の弱そうな医師が背後にいる看護師にせっつかれ、光葉の前に立った。
「なんや、この病院のセンセイか? ワシになんの用事かいな」
「あなたの、ご用件をお聞きしたくて。当院にどういった事情でいらしたのですか?」
「どうもこうも、見舞いや! この花束が目に入らんか」
光葉は肩に飾っていた花束を医師に突きつける。医師は後ろへ一歩のけぞった。
「それともなにか、ワシみたいなごっついオノコが見舞いになんぞ来るはずがないと、センセイがたはイチャモンつける気か?」
「そういうつもりはないんですが……」
医師は両手をあげて、光葉をなだめるとも降伏するとも取れる態度を示す。
「あなたが院内をうろつくと怖がる方がおられます。患者の体調にも良くないので……」
「はん、ヒトをバイキンみたくあつかいよって。これやから医者っちゅうんはお高くとまっててアカンわ、けったくそ悪い!」
光葉は習一に花束を投げた。習一は両腕で受け止める。花はオレンジやピンク色など可愛らしい色合いばかり。彼の趣味ではなく、花屋の店員が仕立てた作品のようだ。
「ニーチャン、養生しぃや!」
光葉は大股で歩きだした。巨体が医師たちの間を押し分けて行く。数秒前まで花束を握りしめていた手を肩の上まで掲げ、左右に振った。それが彼なりの別れの合図らしかった。
医師たちは不審者の追い出しに成功し、持ち場へと散る。その場に取り残された習一は窓の縁を見た。白い烏はいない。ガラス越しに騒動が伝わり、逃げてしまったのだろう。
習一は強引に贈られた花束を持ったまま、自分の病室へもどった。
5
退院日をむかえ、習一は母とともに車に乗って家路につく。送り出す看護師たちには安堵の色が前面に出ていた。習一は病院においても疫病神だったに違いない。治療の施し方がわからぬ奇病に加え、警察は事件の関係者として習一を訪問する。さらに昨日現れたヤクザ風の男が悪印象を決定的にした。その一方で光葉を知らぬ母は花束を見て「気前のいい方がいらしたのね」とのんきな感想を述べた。
久方ぶりに実家へ訪れる。広い一軒家だ。習一の胸あたりまで高さのある黒い鉄格子が塀と塀の間に居座り、玄関へ繋がる入口を守っている。鉄格子の留め具を外して庭へすすみ、母に渡された鍵を使って家へ入った。すでに仕事の始業及び学校の授業が始まる時間帯ゆえ、父と妹は不在だった。
習一は病院にあった荷物と光葉がくれた花束を携え、二階の自室へ入る。室内は整然としていた。部屋主が不在だった間、母が片付けたらしい。
衣類の入った鞄を床に置き、机には花束を置いた。花は水に活けてやらねばならぬ、とわかっていながら習一は花瓶を用意する気になれなかった。
(どうせ花瓶に入れたって、三日もすりゃ枯れるんだ)
習一は母が時々飾る花を思いおこし、その枯れた姿の惨めさをいまわしく感じた。どこかに棄てるつもりで花を放置し、窓を開けて室内の換気をする。朝方といえど暑い空気がそよいできた。冷房をつけるか、とリモコンを探す。すると目の端に何か映った。窓を見れば桟に足をかける人がいる。銀髪の少女だ。袖のないケープに不似合いなリュックサックを背負っている。そのせいで上着に多大なしわが寄っていたが、本人はなんとも思っていないようだった。習一は面食らいながらも窓を開けてやった。
「シューイチ、おはよう。補習にひつようなもの、もってきた」
少女は土足のまま部屋に入った。背中の荷物を床に下ろし、半透明な緑や赤のクリアファイルを三つばかり出して習一に見せる。ファイルの中に多数の紙が入っていた。
「このプリントの問題をぜんぶ答えてね。できたのを先生に見せたら答えがもらえるから、自分で丸つけをして提出するんだって。これは来週中に出してくれればいいって」
少女はクリアファイルを机に置いた。そして机上にある花束に目を留める。
「このお花、だれからもらったの?」
「病院で会ったやつ」
習一のみずから発した言葉に喚起され、少女に警告すべき事柄を瞬時にまとめる。
「光葉、とか言ったな。そいつはお前んとこの教師をさがしてる。ヤクザっぽいやつだったから気をつけとけよ」
「うん、シドにそう言っておく」
彼女も教師同様、普通の人間が不快になる語句には無反応だ。少女は花の贈呈者が無法者らしき人物だったことよりも、花自体に興味をそそぐ。
「お花をお水につけなくていいの?」
「いらねえからお前にやるよ」
「くれるの?」
「オレが持ってても枯らすだけだ。花の好きなやつに渡してやってくれ」
「うん、わかった」
少女が荷物のなくなったリュックサックへ花束を入れる。花弁の部分は外にはみ出てしまうが、落ちないように両方向にあるファスナーの位置を調整した。
「シューイチ、これから学校に行こう。出席日数をかせいだほうがいいんだって」
「今から? 遅刻確定じゃねえか」
「ケッセキよりチコクがいいものなんでしょ?」
「それはそうだけど……」
「制服にきがえて。お昼ごはんはわたしが用意する。授業のじゅんびなしでもいいから」
「かったりいな……」
「シドのいうこと、聞くやくそくでしょ」
自分が承諾した契約を持ちだされ、習一はしぶしぶ制服を手にとった。家にいても無聊をかこつのみ。動ける範囲が少ない分、病院以上に不自由な牢屋だ。どんな場所であれ外へ出たほうが暇は潰せる。そのように自分を納得させた。
少女は窓の外へと出る。習一は着替えを途中にしたまま、少女の行方を確かめた。彼女は難なく庭に着地する。運動神経がかなり良いようだ。習一は窓に身を乗り出し、少女が二階へたどりつく経路を考えた。窓の下には人一人が立てる軒先があり、そこに登れれば習一の部屋に到達できる。軒先の先端は少女の身長より高い位置にある。懸垂の要領で登るには彼女の背が足りないように思えた。忍者のように壁を蹴って上がったのだろうか。
思考する間に着替えた習一は鞄をとり、窓を閉めて部屋を出た。母には何も言わず外出する。少女が鉄格子の奥で待っていた。彼女の運動能力について議論すべきか迷い、習一は自分に無関係なことだと見て黙った。
習一が登校を始めると少女は後方をついてくる。学校とは違う方向へ進むと「どうしたの?」と聞かれ、追跡を捲けなかった。じりじりと照りつける太陽の下、習一は汗をじんわりかきながら町中を歩く。少女はこの暑さでもけろりとした顔でいる。
(このクソ暑いの、平気なのか?)
褐色肌の人は気温の高い地域出身が多い。彼女もそういった暑さに慣れた外国人なのかもしれない。自分とは異なる人種なのだと思い、習一は一人で暑さに耐えた。
家からほど近い距離にある学校に到着する。現在は授業中のため、外観は静謐さがただよった。生徒玄関に入る段になって少女が立ち止まる。
「それじゃ、お昼にまた来るね」
少女は習一とともに来た道をもどった。監視を逃れたいま、習一は自由だ。
(これからもっと暑くなるよな……)
この暑さの中で闊歩する気力はない。冷房をふんだんに活用した教室内にいれば快適だ。習一は少女の思惑通り、授業を受けることにした。見慣れた下足箱は土埃の香りがただよう。自身に配分された下足箱には内履きが変わらずあった。内履きを逆さまにしてゴミを払ったのち、足を入れる。肉が削ぎ落ちた体だが足のサイズは以前と同じだった。
階段をのぼり、二年生の教室へと繋がる廊下を通る。授業中の生徒が数人、視線を遅刻者にそそぐ。蔑みをふくんだ目はもはや慣れたもの。習一はクラスの後方の戸を開け、入室する時にも同様の視線を集めた。習一は唯一の無人の席へ座る。自席の場所はとうに忘れていた。勤勉な生徒たちの教室で一席空いていればそこが自分の席だとうかがい知れる。
教鞭をとる教師は出現が稀な生徒の登場に注目し、授業を中断する。習一が大人しく着席するのを見終えて、再び教鞭を執る。習一は鞄を机に乗せたまま、黒板を見つめていた。
6
午前の授業が終わると生徒たちは昼食をとる。習一の席の周りにいた生徒は自席を離れるか、別室へ逃げた。反対に、午前最後の授業を担当した教師は近よる。四十代の中年男性で、意志の固そうな太い眉毛が印象深い。姓を掛尾という。彼はこの学校の教師の中では珍しい真人間だと習一は認めている。それは同時に教師陣営中の異端者であることも意味した。
「小田切、体の調子はどうだ? だいぶ痩せたようだが……」
「なんともない。先生こそ、変な教師が来なかったか?」
「才穎高校の人のことか? 格好は一風変わっているが、誠実な先生だったぞ」
人物評が世辞でないことは評価者の晴れやかな表情でわかった。
「お前が不慮の事故で期末試験を受けられなかったから、再試験の機会を与えてほしいと頭を下げてこられた。あんなに子どものことを真剣に考えるとは、若いのに感心な人だよ。学校の評価がどうだ、生徒の成績がどうだという体面ばかり気にして、肝心の子どもの気持ちを考えようとしない連中に見習ってほしいもんだ」
ここぞとばかりに掛尾は一部の偏狭な教師を糾弾する。あるいは学力主義な親のことを言っている。そういった大人たちと衝突する習一におもねった可能性はあるが、この教師の場合はこれが本音に聞こえた。掛尾が周囲の人間をなじりながらもこの学校に留まる要因は、習一のような常識はずれの生徒をすくいあげる目的があるらしかった。
「あの銀髪の教師がオレの面倒を看ようとする理由、先生は知ってるか?」
掛尾はきょとんとした顔をする。この教師も理由は知らないのか、と習一は落胆した。
「小田切が才穎高校の生徒と喧嘩しただろ? 止めに入った先生が彼だったそうだ」
掛尾は当事者が他人事のような質問をしたことに軽い戸惑いを感じたようだ。
「その時、小田切をひどく痛めつけてしまったことに気負いして、お前を手助けしてやりたいと思っているらしいぞ。シドさんはお前に伝えてないのか?」
自分が他校の生徒と喧嘩した──そんな騒動はありふれている。しかし、習一の記憶には銀髪の男が自分を苦しめた情景が残らない。これが警官の言う、習一が失った記憶か。今の習一には身に覚えのないことゆえに、あの教師は習一に援助する理由を述べなかったのだ。彼が掛尾に話した動機は、習一の補習にこぎつく交渉に必要だったからだろう。
「……あいつ、オレにはぜんぜん説明してくれやしない。今はとにかく普通に過ごせるように努力しろって言ったきりだ」
「彼なりに理由があるんだろう。実を言うと俺の同期が才穎高校に勤めていてな、そいつがシドさんのことを教えてくれたよ」
真面目すぎて融通の利かない時もある。だが誰よりも生徒を想う優しい男だと、掛尾は知人の評をならべた。掛尾自身の言葉と大差ない説明だ。
「当面、あの先生の言うことを聞いておいて大丈夫だろうよ」
「ほかの教師連中はどうなんだ? 外野に余計な手出しをされて不満なんじゃないのか」
「そんなもの、言わせておけばいい。どうせ口だけだからな」
人聞きの悪いことを言い捨てる中年がくしゃりと笑う。
「そうそう、プリントはもらったか? 来週やる補習を受けるのとプリントを提出するの、二つをこなして及第だ。補習はプリントの問題に沿って解説をする。予習しとけよ」
「今朝、あの教師のお使いが家にきて置いていったよ。そいつが出席日数のために登校しろと強制するから、退院したばっかなのに学校に来たんだ」
「そりゃよくできたお使いだな、小田切に言うことを聞かせるなんて、うちの教師にできないことをやってのけるとは」
外柔内剛とはこのことか、と掛尾は新たな評価をくだした。次に腕時計に視線を落とす。
「昼飯を買って食う時間がなくなるか。んじゃ、午後もがんばれよ」
気さくに話しかけてきた中年は教卓にある授業道具を抱えて退室した。
今朝、習一を学校へ導いた少女は昼食を用意すると言った。部外者が校内へ入ることは一般的にはばかられる。立ち往生しているやもしれず、習一は校舎の外へ出ることにした。
廊下ですれちがう生徒は習一の気分をそこねた。冷たい視線をよこす者、畏怖を注ぐ者ばかり。今朝は遅刻という明白な罪を犯したがゆえにそれらの視線は公然と承服できた。こたびの注目の第一原因は頭髪だ。習一は校則で禁じた染髪を堂々と行なう。一目でわかる問題児に気安く接する生徒はいない。教師にしても掛尾が特殊であり、他の教師は習一と関わろうとしない。貧乏くじを引いた担任の教師が嫌々業務の一環として習一をたしなめる程度だ。この人間関係は習一が望んで生み出したもの。甘んじて負の象徴であり続けた。
習一は内履きのまま蒸し暑い外へ出た。心持ち涼める木陰に早々と入る。天気のよい昼休みといえど外へ出て飲食及び遊興する輩はいなかった。
木々を通り学校の正門へ向かう。突然木の上から何かが落ちた。それは逆さまになった人影だ。空中で止まったまま、銀の髪を垂らして習一を見つめる。今朝、習一に登校を促した少女だ。枝をひざ裏とふくらはぎではさんで、逆さ吊りの状態になっている。
「えいようってよくわかんないんだけど、今日はこれ食べてね」
少女は両手で枝をつかみ、ひざを浮かした。くるりと後転し、すとんと両足を地につける。見事な軽業だ。その技芸を誇示することなく少女はリュックサックを下ろす。中からビニール袋を出し、それを習一に渡した。習一が受け取った袋にはスーパーやコンビニで見かけるサンドイッチ、おにぎり、サラダ、お茶のペットボトルが入っている。
「これがオレの昼飯か。お前の分はどうした?」
「わたしはいらないの。シューイチだけ食べて」
「ふーん、ありがとよ。全部でいくらだ?」
「いーの。シドのおごり」
少女がきっぱりと断る。習一はズポンのポケットに入れた財布に触れたまま、固まった。
「補習がおわるまでのごはんはシドが用意する。だから勉強にせんねんしてね」
「なんでそこまでする? 若い教師の給料なんざ知れたもんだろ」
「おかねは心配いらない。シドはつかいみちなくて、たまってくから」
「金の使い方を知らねえタイプか。浪費するのは他人のためなんて、どこの慈善家だよ」
「うん。そうやって子どもを助けるって、ある人とやくそくしたの」
「へえ、その約束をするまでにえらい美談があるんだろうな」
彼らの背景を聞くつもりは習一にはない。冷えた室内へもどろうと踵を返した。
「……きれいなはなし、じゃない。いっぱい、ひどいことした」
後方から少女の力ない声が微かに伝わった。習一は意味深な発言の真意を聞こうと振り返ったが、少女の姿はもうなかった。
タグ:習一
2018年12月07日
習一篇草稿−*
*
街灯が照らす夜道に男がいた。彼の足元には地に伏す少年もいる。少年はほんの少し前、男と一悶着を起こした。おもな非は少年にあったが、男の要求が正当だとは言えなかった。
男が少年の口に手をあてる。規則正しい呼吸を手のひらに感じた。──彼も生き残った。
「『外野は黙ってろ』と言ったな。それはこちらのセリフだ」
男には長年さがし求めてきた人物がいる。少年はそれに手を出そうとした。男の勧告を無視したために現在眠り続けることになった。何時間も、何日も、何週間も。何ヶ月、と続くか男は知らない。二ヶ月を立たずして、少年と同じ状態にあった子を回復させた存在がいる。その者はきっと、この少年を助ける。罪深き男を排除したあとに。
少年の衣服から震動音が鳴った。男は電子機器を探す。ズボンのポケットに長方形の携帯電話があった。その画面には着信が表示され、震動がなおも続く。男は電話を繋いだ。
『オダさん、さっきヤバそうな男が部屋に現れたんスよ! オダさんのところにも出るかもしれないんで、気をつけてください!』
電話主は通話相手の返答がないのを不審に思い、『オダさん? 聞いてるんスか?』と尋ねてきた。男は電話の画面を口に寄せる。
「遅かったな」
『へ……?』
電話越しの少年は悲鳴をあげる。電話の向こうでガタンという音がした。電話を落としたか話者がなにかにぶつかったかしたのだ。男は薄く笑い、通話を切る。機器はもとあったポケットにもどした。男の眼中には昏倒する少年はもう存在しない。あるのは一人の少女と一人の男性。とりわけ後者に関心が集まる。
「ツユキ……」
彼はもっとも厄介な人物だ。男は彼の招待方法を再考し、音を立てずに歩いた。
街灯が照らす夜道に男がいた。彼の足元には地に伏す少年もいる。少年はほんの少し前、男と一悶着を起こした。おもな非は少年にあったが、男の要求が正当だとは言えなかった。
男が少年の口に手をあてる。規則正しい呼吸を手のひらに感じた。──彼も生き残った。
「『外野は黙ってろ』と言ったな。それはこちらのセリフだ」
男には長年さがし求めてきた人物がいる。少年はそれに手を出そうとした。男の勧告を無視したために現在眠り続けることになった。何時間も、何日も、何週間も。何ヶ月、と続くか男は知らない。二ヶ月を立たずして、少年と同じ状態にあった子を回復させた存在がいる。その者はきっと、この少年を助ける。罪深き男を排除したあとに。
少年の衣服から震動音が鳴った。男は電子機器を探す。ズボンのポケットに長方形の携帯電話があった。その画面には着信が表示され、震動がなおも続く。男は電話を繋いだ。
『オダさん、さっきヤバそうな男が部屋に現れたんスよ! オダさんのところにも出るかもしれないんで、気をつけてください!』
電話主は通話相手の返答がないのを不審に思い、『オダさん? 聞いてるんスか?』と尋ねてきた。男は電話の画面を口に寄せる。
「遅かったな」
『へ……?』
電話越しの少年は悲鳴をあげる。電話の向こうでガタンという音がした。電話を落としたか話者がなにかにぶつかったかしたのだ。男は薄く笑い、通話を切る。機器はもとあったポケットにもどした。男の眼中には昏倒する少年はもう存在しない。あるのは一人の少女と一人の男性。とりわけ後者に関心が集まる。
「ツユキ……」
彼はもっとも厄介な人物だ。男は彼の招待方法を再考し、音を立てずに歩いた。
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