2018年12月18日

習一篇草稿−終章下

7
 習一は自宅の玄関前に立った。押し慣れない呼鈴を鳴らす。これは家人が起床しているか確認する行為だ。現在は早朝。暑さがひどくならないうちに用事を済ませたい、と習一が考えたうえでの訪問ゆえに、一般的に人が起きている時間帯とは言いがたかった。
 家屋の静けさが習一の焦りをまねく。その一方で、心を掻き乱されうることに立ち向かわなくてもよいという一時的な安楽さも生じた。
(いや……ここで逃げたら、だれもスッキリできやしないんだ)
 習一も、父母も、現状に甘んじていたいとは思わないはず。両者が今後どう過ごしていくか、ここで決めねばならない。その決定は、自身の背後にひかえる外国人風の男ものぞんでいることだ。
 習一はズボンのポケットの中にある鍵を握った。自宅の鍵だ。これを使えば自由に家へ入れる。だが独断で入るのはまずいと思った。習一ひとりならともかく、小田切家には無関係な男性も付き添っている。彼を家に入れるのも玄関付近で待機させるのも、家族の許可が必要だ。
 屋内から足音が聞こえはじめた。その音が目の前にまで近づいたとき、一度音が止んだ。習一は思わず息を殺した。出てくる人物次第では、玄関先で悶着を起こしかねない。そんな緊張が走った。
 玄関の戸が開く。戸を開けたのは習一の母だった。初手は無害な人物が現れたので、ひとまず習一の気持ちは落ち着いた。
 母はすでに普段着に着がえていた。彼女は行方知れずだった息子を見て、言葉をうしなった。母は子の突然の訪問に驚くばかり。数日ぶりの息子の帰宅に対して怒ったり悲しんだりといった感情は見せない。習一は母が子の家出をとがめる気はないのだと察する。同時に、ただ母に見つめられる状況を気恥ずかしく思った。
 母はひとしきり子を見つめたあと、子の後ろにだれかがいることに気付いた。母の目線は習一の身長を超えた先に向かう。
「いままで……息子は、どこにいたんですか?」
「私の下宿先で宿泊していました。食事と睡眠には不自由させておりません」
 母は子の顔に視線をもどした。無理につくった笑顔を浮かべる。
「そう、ですか……とても、健康的に暮らせているんですね」
 習一は母の素直な感想に納得した。数か月前の自分は、食うや食わずやの不規則な生活の結果、痩せぎみでいた。さらに、二週間前までは昏睡により一ヶ月の絶食を余儀なくされ、殊更やつれた。それが現在、この男性教師と過ごすうちに生気を取りもどしたのだ。親がすべき子の養生を、他人がこなした事実が顕在化している。
 母の笑みがどんどん薄れる。しまいに母はうつむいてしまった。きっと親の不手際を他人が補ったことに罪悪感をおぼえているのだ。自分は不出来な親だと、そう自責の念に駆られているのかもしれない。習一がそのように推察したとき、はたと気付いた。母がよく見せる負の感情は、子に向かっていない可能性を。
「……かあさん、気にすんな」
 母は目を丸くした。息子の口からなぐさめの言葉が出るとは夢にも思っていなかったのだろう。習一は握りこぶしをあげ、立てた親指を後方へ指す。
「この野郎が根っからのお節介焼きなだけだ」
 その言葉は母に責任はないという主張のつもりだった。赤の他人が勝手に習一の世話を請け負ってきたのだと。好事家が好きでやった行為であるから、親としての責任を感じる必要はないのだ。
 習一がシドのことを話題にしたせいか、シドはずいと習一の前に出る。
「今日は折りいって、オダギリさんのご両親とお話ししたいことがあります」
 彼はさっそく本題を持ちかけている。習一は一瞬、シドがせっかちなように思ってしまった。しかし話を切り替えるにはベストなタイミングだとも感じた。
「中へあがらせていただいて、よろしいでしょうか」
 慇懃な申し出だ。この丁寧な言動自体は他者の気分をそこねるデキではないはずだが、母の表情がくもった。母はこれから起きるであろう言い争いに不安を感じたのだろうか。沈痛な面持ちで承諾した。
 習一は四日ぶりに小田切宅に足を踏みいれた。先導する母が居間に入る。そこには脚の長い食卓で新聞を読む父がいた。彼は寝間着姿であり、新聞紙を広げたまま習一たちとは顔を合わせない。玄関先での会話を聞いていたのかわからないが、この態度からうかがうに、訪問してきた者が習一だとは知っているようだ。そうでなくては客に不遜な居住まいを見せない。
 父が座っている椅子の真向いに、この家の者でない男が座る。習一はその隣りに腰を落ち着けた。母は席に着かず、台所で茶器を鳴らしている。茶の準備ができてから話すべきかどうか、習一はまよった。これから繰り広げる話題は母にも伝えねばならぬこと。それゆえ、母が同席した状態で会話したほうがよいとは思った。しかし無言のまま、敵対している人物と同じ卓をかこむ状況は居心地がよくない。こんな状態は早く終わらせたいとも思う。
 新聞紙の奥から「なんの用だ」と低く重い声が届いた。父は母を待つ気はない。彼がそう出るなら習一も話を切り出すのに抵抗はなかった。
「じつは──」
 習一の同伴者が返答しようとした。それを習一が手で制する。
「オレはこの家を出ていくことに決めた。学校も別のところにする。それを言いにきた」
 新聞紙が前後に揺らぐ。中年が顔出ししないまま「金はどうする気だ」と尋ねた。やはり一番に興味があることは金か、と習一はげんなりするものの、実際それがもっとも切実な問題だ。
「自分で稼いで、足りねえ分はこのシドっていう教師が立て替える。あんたの金はあてにしてない」
「放蕩息子がでかい口を叩くな」
 習一は中年が吐いた単語に引っ掛かる。その語句はこの中年の口から出るには不愉快だ。
「その『息子』って言うのをやめにしねえか?」
 新聞紙がぱんっと机に叩き下ろされた。父の顔がようやく見える。不快げに眉間にしわを寄せた中年の顔だった。習一の予想できた反応ゆえに、習一は平然と話をつづける。
「あんたはオレをカミジョウという男の子どもだと思ってんだろ?」
「……それがなんだ。戸籍上は親子だろう」
 中年は顔色を変えずに言った。肯定も否定もはっきりしない返事は習一の期待外れだったが、そこはいま重要ではない。
「じゃあ親子の縁を切ってくれ。そうしたらおたがい、せいせいする」
 中年はふん、と鼻をならした。
「お前は学校の勉強はできても法律は不勉強だな。親子関係はそうそう切れないものだ。特別養子縁組をすれば実親との関係は抹消できるが、お前の年齢ではもうできん」
「法律なんざどうでもいい。気持ちの問題だ」
 中年は習一に勝る知識を無下に扱われ、さらに顔をしかめた。彼のそういう頭でっかちな性格を、習一は好きになれなかった。だからこそ、決別する。
「オレはあんたを父親だと思わねえし、あんたもこれまで通り、オレを息子だと思わないでいいってことだ。心にもない『息子』呼びはやめろ」
 習一は刺々しくも理性的に答えた。自分でもおどろくほど気持ちが落ち着いている。もっと激しい言い合いになるかと思っていたが、案外スムーズに決着がつきそうだと思った。
 習一側が会話の主導権をにぎる中、母が湯飲みを載せた盆を持ってくる。湯気の立つ茶が三つ、食卓に並んだ。この場で唯一の客分は丁寧に「いただきます」と母に会釈する。彼はこの非常時においても平時と変わらない対応を通すつもりだ。中年が劣勢でいるときに、シドの態度は慇懃無礼もいいところである。案の定、中年がシドを槍玉にあげる。
「貴様は悠長に茶をすすりに来たのか?」
「いいえ」
 シドがこともなげに否定する。しかし茶を放置するわけではなく、両手で湯飲みの底と側面を持つ。
「ですが出された飲食物は粗末にしない主義ですので、お茶を頂戴します」
 シドはくいっと湯飲みをかたむけ、茶を飲んだ。この状況でその我が道を行く対応は、人を食っているという印象を周囲に与えかねない。やはりと言うべきか、中年は怒り心頭に至ったかのように口を歪ませる。だがシドに不快な態度を改めさせようとしても、彼の行為そのものは礼を失する行動には当てはまらない。どう注意すればよいか中年はわからなかったのだろう。行き場のない不満は母に向かった。
「こんなやつを客扱いするんじゃない!」
 シドの身代わりとして母が怒号を浴びる。母は盆を盾のように胸の前に持ったまま、体をすくめた。完全な八つ当たりである。その原因をつくったシドが物申そうとするより早く、習一が抗議する。
「おいおい、責めるなら空気を読まないこいつにやれ」
「なにを……!」
「言い返してこない相手にだけ強気に出るなっての。いい歳こいた大人がやることじゃねえぞ」
 習一のたしなめを受けた中年は閉口した。叱責におびえていた母は習一を不思議そうにまんじりと見る。息子があまりに冷静かつ母に同情的なのを信じられないでいるようだった。
 習一は茶を半分飲み、一呼吸ついた。中年は習一に反論も咎めも言いにこない。彼は習一の言い分に了承しているのか、習一は確認する。
「で、オレが家を出るのと学校を替えるの、異存はないんだな?」
「勝手にしろ。あとで泣きついても知らんぞ」
「それは無い。この教師はあんたよかよっぽど父親してるから」
 中年は銀髪の教師をねめつけた。にらまれた相手はかるく頭を下げる。
「僭越ながら、彼の高校生活の後押しを努めさせてもらいます」
「若造にそんな余力があるのか?」
「経済面はこのお宅に劣るでしょうけど、不足のない援助ができる見込みです」
「せいぜい、共倒れにならないよう気をつけるんだな」
 憎たらしい言い方だ。しかしある意味では習一たちの決定を認める返答でもある。その良いほうの意味で受け取ったらしいシドが深々と頭を下げる。
「貴重なご意見、この胸に刻んでおきます」
「まったく! 皮肉屋同士、仲が良いことだ!」
 中年が乱暴に卓上を叩き、廊下へ引っこんだ。食卓には手つかずの茶がひとつのこる。それをシドが手元に寄せる。
「慇懃無礼が過ぎましたかね」
「なんだ、あいつの気持ちがよくわかってんじゃねえか」
 習一はこの男が偏屈な人間の心情を解さぬまま、挑発に準じた行動をとったのかと思っていた。シドは苦笑いする。
「何度も怒らせましたからね」
 彼はねらってあのような態度に徹したのではなさそうだ。およそペットが飼い主の叱りを受け、いまの行動は良くないことだと学習するのと同じ理屈なのかもしれない。
「礼を尽くすことが逆に失礼になるとは、どう動いてよいものやら判断に困ります」
「べつにいいんだよ。あいつの中身がガキなだけだ」
 あのような矮小な人間に配慮する義理はない、と習一は断ずる。
「自分を敬わない人間がいると不機嫌になる……自分が一番じゃなきゃイヤだっつうわがまま野郎」
「私の同胞にもいますね。……なるほど、貴方はああいう敵意と接しながら、過ごしていたのですか」
 習一はシドの共感を得たことにおどろく。習一が知りうるシドとその仲間であるエリーは、プライドの高さを感じさせない性格だ。それゆえ、彼の種族全体が驕慢とは縁遠い生き物だと習一は推量していた。それがシドの口から否定された。おまけに彼が「敵意」と的確に表現したのを鑑みるに、シドもまた、驕りたかぶる身内から攻撃された経験があるのだとうかがい知れる。その口ぶりは習一に親近感をおぼえさせた。

8
 ひとり、だまっていた母が「あの」と心細げに会話に入る。
「ほんとうに、習一は一人立ちするんですか?」
 母の視線と言葉遣いはシドに向けられたもの。そうと知れた習一は二人の会話を見守った。
「はい。私が勤務する高校には学生向けのアパートがあります。家具家電一式がそろっていますから、あとはご自分で足りないものを補充していけばよろしいかと」
「ご飯はどうするんです?」
「自炊するなり惣菜を買うなりは息子さんの判断に任せます。ご心配でしたら、私の知り合いに食事を用意できる者がいますので、その人たちにお願いしましょう」
「生活費は……」
 母は憂鬱顔で質問を重ねた。その姿に習一はやきもきする。
「なぁ、この教師と親父のどっちがオレを大事にしてると思うんだ?」
「それは、先生のほうだけど……」
「じゃあ信用してくれよ。こいつが大丈夫だっつってんだから」
 習一は不恰好な笑みを作った。母を不安にさせまいとする一心での表情だ。だのに母は大粒の涙を流す。
「ごめんなさい……」
 母が顔を手で覆い、泣き崩れる。習一は自分の対応に汚点があったのかと焦った。笑顔に縁のない暮らしを長くつづけたせいで、怒気のこもった顔を見せてしまったのだろうか、と。
「私が弱いから、あなたをこんな目に……」
 母は習一の態度で傷ついたのではなかった。むしろ習一が軟化した影響で、いままで堰き止めていた感情があふれ出たらしい。つまり、これが隠し立てのない母の本音だ。
 習一が今日母に会ったときに感じた疑念は、これで確定した。いままで母が習一に向けてきた負の感情は自責の表れだったのだと。それを習一は母からの憎悪だと誤解してきた。このことが明らかになったいま、習一はずいぶん救われる思いがした。自分は完全に母に疎まれていたわけではない。母の愛情はたしかに子にそそがれていた──その想いに応えてあげたいのに、習一はできなかった。眼前の光景にどう対処していいかわからなくなる。ちいさく嗚咽を漏らす母に、息子である自分が、なにかしなくてはいけない。心ではそう感じていても、頭は単純な行動さえ思いつけない。
 呆然とする習一に代わり、銀髪の教師がうごいた。彼は母のそばで膝を屈する。
「これが今生の別れではありません。息子さんの生活が軌道に乗ったときに、またお二人は会えるはずです」
 母は声にならない声をともなって何度もうなずいた。習一はシドの対応が最適解だと思った。習一も母も、いまは動揺している。優先すべきは双方の気持ちの整理。この場は相互理解を深めるには適さないのだ。
 習一はシドのフォローに異を唱えず、テーブルにのこる茶を飲みほす。
「……それか、あいつがいねえときにまたくる。オレの荷物もあるしな」
 習一は母の反応を確認せず、部屋を出た。用件は済んだ。あの場に長居しても得なことは起きない。万一、妹が早起きしてくれば話がややこしくなりそうだと習一は考えた。
 別れのあいさつなしで、習一は日が照る外へ出た。習一に遅れてシドも外へ現れる。彼が習一の突飛な行動に付き添うのは想定内だ。習一が家出を決行したときもそうだったのだから。
 小田切家の敷地内を出たところ、「一つ、たずねてもよろしいですか」と声がかかる。習一は後ろに顔を向けたきり、良いとも悪いとも言わなかった。めんどくさそうだな、と思ったが、シドの質問に答える義理はあると感じていた。
「私が『父親をしてる』という評価は、本心で言ったことですか?」
 習一は今朝がた母と対面したときと同程度の恥ずかしさがこみあげた。すぐに顔を前方へもどし、歩を進めた。正面を向く顔に、日光がじりじりと焼きつく。その日光とは別の熱が顔にのぼるのを自覚しつつ、質問しかえす。
「……そんなの聞いて、どうする?」
「どう、ということもないのですが、興味深いと思いました」
「まだ親をやる歳でもねえのに、ってか?」
「そうは思いません」
「そうか? まだ三十くらいだろ」
「いえ、私の活動年数はその倍以上です」
 習一はぎょっとした。たしかに老成した男だとは思っていたが、中高年に相当するとは。
「ずいぶん長生き、だな」
「おそらくは、寿命自体がないのかもしれません。そういった生き物は私たち以外の種族にもいます」
「そうか……ま、アンタの世界じゃ長生きが普通だって言うなら、そういうもんだと思っておく」
 シドが人外だという認識はすでに習一の中で確立している。いまさら人間との差異をとやかく言う気はなかった。生物として違いすぎるからといって、それが取り立てて声をあげるべき短所だとは思えなかった。
 シドの寿命の話題がおわると、習一はすっきりした気分でシドの居住地を目指した。背後から「私の質問はどうなりました?」と話しかけられる。習一はなんのことだったか一瞬思い出せず、すぐに返答できなかった。
「言いにくいことでしたか?」
「あ……父親がどうこう、だったか」
 習一はその話題について、答えたくないと思った。だが決して、その感情に向き合うことが苦行なのではない。胸をえぐられるような苦しみとは真っ向から対立している。ただ、この男にありのままの心情を吐露するのは「負け」になるような気がした──彼以外に本心を語れる相手もいないと思っていながら、これだけは言いたくない、認めたくないという気持ちが、習一にはまだのこっている。その抵抗を感じる原因は、純粋に習一の性格にある。
「なんだっていいだろ」
「わかりました。ではほかの方にたずねてみます」
「え?」
「貴方の心情を察しうる人に聞いて、それで私は疑問を解消しておきます」
 シドは遠回しに、習一に答えなくてもよいと言っている。それは彼の気遣いなのだろうが、かえって習一をはずかしめる危険を、彼はまったく察知できていない。
「おい、だれに言いふらす気だ?」
「いけませんか?」
「ああ、やめろ。あんなの、あいつのダメ親さを当てこすりたいだけの出まかせだ。まともに考察したってムダだぞ」
 習一は未熟な保身の連続に対して居心地のわるさを感じた。話題を変えようと周囲をさぐる。すると灰色の動物が民家の塀を渡っていた。顔と体の大きい、どこかふてぶてしさのある猫だ。習一の視線に気づいたシドが「おや、猫ですね」と関心をそそぐ。動物好きな彼には格好のネタだ。習一はこれを話題逸らしの好機として活用をこころみた。

9
「顔デカいな、こいつ」
「オスでしょうか」
「猫も顔にオスメスの差があるのか?」
「個体差はありますが、その傾向はあるそうです」
 習一の思惑通りにシドが話に乗ってきた。たやすく目的を果たした習一は安堵し、通りすがりの獣から視線を外した。あとは適当な話をしておけばこの場をしのげると思ったのだ。だが動物好きの男は猫を凝視する。
「遺伝子的には……オヤマダさんが拾った子猫たちの父親にあたるかもしれませんね」
「え、こいつが?」
 どの子猫とも毛皮は似ていないが、と習一が思った矢先にグレーの猫は消えた。民家の庭に降りていったようだ。気ままに放浪するさまは野良猫の常だが、習一はグレーの猫を憎たらしく感じた。子猫の母親が血で汚れていたのを思い出したせいだ。
「母猫が大変な思いしてたってのに、オスは気楽な一人旅か」
「そういう生き物です。猫はオスが育児に介入しなくてもよいようにできていますからね」
「そこが人間とはちがう、か」
 習一は人間の倫理観を獣に押しつける行為を無駄だと思い、憤慨を引っ込めた。それと同時にある男性を髣髴する。自身の父疑惑のある男。もし彼が学生時代に得た就職先のまま勤続しているのなら、現在も海外での仕事をしているはず。
「……カミジョウも、あんな感じでふらついてんのかな」
「調べてみましょうか?」
 思ってもみない有益な提案だ。習一は食い気味に「どうやるんだ?」とたずねた。
「シズカさんにその方の居場所を探ってもらいます」
「警官の捜査で? それとも白いカラスなんかを使ってか?」
「カラスのほうですね。近隣に住むカミジョウさんを一通り調べるくらいのことはできるかと」
「近場、か……」
「はい、それより広い範囲の調査はむずかしいと思います。できないことはないでしょうが、あまりに時間と労力を費やす依頼になってしまう」
「それならやめとく。どうせ海外を飛びまわってる人だから、会えっこない」
 居所がわかったところで、習一の力ではなにもできない。海外旅行をする資金は持ち合わせていないのだ。いまは無理だが、いずれお金を貯めて、露木に捜索の依頼をしたら、本当の父に会えるのかもしれない。シドがもたらした情報は習一にかすかな希望を持たせた。
 会話が途切れ、二人は黙々と帰路をたどった。不意に周辺がほの暗くなる。分厚い入道雲が太陽を覆い、鈍色の影を習一たちに落としていた。そのおかげで日差しが遮られる。
「ちょうどいい日除けだな。ま、あんたにゃあってもなくても同じだろうけど」
「必要なら日傘を買いましょうか?」
「んな女みたいなことはやらねえって」
「快適さを求めることに男女の性差は関係しないように思いますが」
「周りがどう思うかを言ってるんだ。そもそも持ち歩くのがめんどうだし」
「では帽子はどうでしょう。鍔の広いものは頭の周辺に日陰をつくれますし、通気性のよいものは被っていても熱がこもらないそうですよ──」
 たわいない会話が展開する。習一は雑談をたのしむつもりはさらさらないのだが、無理やり話を打ち切りはしなかった。この会話はシドが習一をおもんばかっていることの表れだ。習一が暑さにうだっていようとなかろうと彼には関係がないのに、自分のことのようにあれこれ対策を考える。まるで子の体調を気遣う親のようだ。これがきっと、習一に欠けていたものだ。母からは受け取れていたが、その対に相当するものはいまになってようやく、他人から享受している。その他人が異種族であることはなにかの皮肉のようにも思えるが、習一は気に留めなかった。たとえシドが化け物であろうと、その心根が情け深い事実は変えようがない。
 太陽の下にあった雲が風で流れていき、また直射日光が地を照らす。肌を焼く暑さが再来してきた。習一が帰路を急ごうとすると、後方にいた保護者が並行する。
「私が貴方を抱えていけば、すぐにアパートに着きますよ」
 習一は昨夜に体験したことを思い出す。実体を無くした状態のシドは家屋を軽々と跳びこしていた。そのとき彼に抱えられていた習一も、常人には見えない特殊な状態にあったという。
「昨日の夜にやったやつか?」
「はい。私たちが消え去る瞬間を他人に見られない状況なら、できます」
「アパートに到着したときにだれかいたら?」
「部屋のベランダで降りるので、平気かと」
「昨日は暗かったからそこでもよかっただろうさ。明るいいまだと、だれかに気付かれるんじゃないか?」
「でしたら部屋で実体化しましょう。普通の家屋はすり抜けられます」
「なんで昨日はそうしなかった?」
「土足で床を汚したくありません」
 綺麗好きな者らしい忌避理由だ。習一はなかばあきれながらも、
「だったら玄関で降りてくれ」
 と言うと、シドの提案を飲んだことが言外に伝わる。シドがその場にしゃがんだ。習一はまわりにだれも自分たちに注目する者がいないのを確認したのち、彼の背におぶさった。
 習一は自身の右腕をシドの胸元にまわし、自分の右手首を左手でつかむ。簡単に落ちない姿勢になった直後、シドは移動をはじめた。
 習一の腕は大部分が露出しており、シドの灰がかった黒シャツをじかに接触した。彼のシャツは太陽光による熱を吸収している。習一が触れた直後は暑さが倍加したような熱気を感じたが、習一はその熱を嫌悪しなかった。
(ちょっと、たのしい)
 自分の体をうごかさなくとも景色が移り変わる、という体験は、慣れぬうちは新鮮なものだ。おまけにこの状態のシドは常人が通らない、道なき道を行く。平生歩かない塀の上などを跳びまわるので、同行者である習一も、身軽な猫や猿に変じた気分になれる。これがなかなかおもしろかった。しかしその無邪気な本音は他人に明かせない。
 習一は奇異な移動をたのしむ以外に、べつの意義も感じ取っていた。そちらも他言できない感情である。その情は先の実家での話中に発露したので、隠しとおせてはいないのだが。
(そこに食いつかれるとは思わなかったな)
 それは習一がはぐらかしてしまった話題だ。シドは「興味深い」と言って習一の真意をたしかめようとしたが、習一が羞恥するあまり、彼の好奇は満たされなかった。習一が気にするのと同様、シドもまた琴線に触れる言葉だったのだろうか。それをたしかめるには習一が恥を忍ばねばならず、そのような問いかけは容易にできない。
(聞くときは……学校がはじまってからがいいな)
 二人が四六時中ともに過ごす現状、気まずいことが起きると尾を引きずりやすい。両者が日常生活に忙しくする時期がねらい目だと思い、この場は沈黙に徹した。
 太陽は燦々と地上を照りつけている。人外と化した状態の習一たちはその日射を無効化していた。そのことに習一が気付いたのは、シドの部屋の玄関が見えたころだった。習一がシドに担がれる目的とは、暑い外にいる時間を短縮するためにあった。いそいで帰らなくともよかったという発見と、疑似親に甘えうる時間の短さを惜しむ気持ちがこみ上げる。だが眼前の鉄扉にぶつかる恐怖がそれらの意識を上回った。習一は目をつむる。数秒が経ってもなんの衝撃も異音も起きなかった。ただシドの「着きましたよ」の一言が聞こえる。習一がおそるおそる視界を開けると、アパートの玄関内にいた。
「さ、降りてもらいますよ」
 うながしにしたがい、習一はせまい玄関に降り立った。家主が一足先に靴をぬぎ、廊下に立つ。
「今日は部屋でのんびりすごす予定でしたね。どうかゆっくり休んでください」
 シドは笑顔で習一に休息をすすめた。そのやさしさに呑まれそうになるのを、習一はこらえる。
「いや、休むのはあとだ。転校とか、住む部屋とか、バイトとか、いま決められることはあるんじゃないのか?」
「貴方はせっかちですね」
 シドは顔色を変えずに言う。
「今日は日曜日ですよ。どこもそういった申請を受け付けていません」
「じゃあ明日になったらやるのか?」
「はい、私がすべて付き合います。ですから、いまは休んでおいてください。明日からまた忙しくなりますよ」
 いまの習一ができることは休養をとること。その主張を完全に支持するほど習一はお人好しではない。だが習一の今後の生活を取り決める保護者がそう言う以上、習一にできることは思いつかない。この場はシドを尊重して、習一は彼の部屋へ進み入った。

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 習一は自宅の玄関前に立った。押し慣れない呼鈴を鳴らす。これは家人が起床しているか確認する行為だ。現在は早朝。暑さがひどくならないうちに用事を済ませたい、と習一が考えたうえでの訪問ゆえに、一般的に人が起きている時間帯とは言いがたかった。
 家屋の静けさが習一の焦りをまねく。その一方で、心を掻き乱されうることに立ち向かわなくてもよいという一時的な安楽さも生じた。
(いや……ここで逃げたら、だれもスッキリできやしないんだ)
 習一も、父母も、現状に甘んじていたいとは思わないはず。両者が今後どう過ごしていくか、ここで決めねばならない。その決定は、自身の背後にひかえる外国人風の男ものぞんでいることだ。
 習一はズボンのポケットの中にある鍵を握った。自宅の鍵だ。これを使えば自由に家へ入れる。だが独断で入るのはまずいと思った。習一ひとりならともかく、小田切家には無関係な男性も付き添っている。彼を家に入れるのも玄関付近で待機させるのも、家族の許可が必要だ。
 屋内から足音が聞こえはじめた。その音が目の前にまで近づいたとき、一度音が止んだ。習一は思わず息を殺した。出てくる人物次第では、玄関先で悶着を起こしかねない。そんな緊張が走った。
 玄関の戸が開く。戸を開けたのは習一の母だった。初手は無害な人物が現れたので、ひとまず習一の気持ちは落ち着いた。
 母はすでに普段着に着がえていた。彼女は行方知れずだった息子を見て、言葉をうしなった。母は子の突然の訪問に驚くばかり。数日ぶりの息子の帰宅に対して怒ったり悲しんだりといった感情は見せない。習一は母が子の家出をとがめる気はないのだと察する。同時に、ただ母に見つめられる状況を気恥ずかしく思った。
 母はひとしきり子を見つめたあと、子の後ろにだれかがいることに気付いた。母の目線は習一の身長を超えた先に向かう。
「いままで……息子は、どこにいたんですか?」
「私の下宿先で宿泊していました。食事と睡眠には不自由させておりません」
 母は子の顔に視線をもどした。無理につくった笑顔を浮かべる。
「そう、ですか……とても、健康的に暮らせているんですね」
 習一は母の素直な感想に納得した。数か月前の自分は、食うや食わずやの不規則な生活の結果、痩せぎみでいた。さらに、二週間前までは昏睡により一ヶ月の絶食を余儀なくされ、殊更やつれた。それが現在、この男性教師と過ごすうちに生気を取りもどしたのだ。親がすべき子の養生を、他人がこなした事実が顕在化している。
 母の笑みがどんどん薄れる。しまいに母はうつむいてしまった。きっと親の不手際を他人が補ったことに罪悪感をおぼえているのだ。自分は不出来な親だと、そう自責の念に駆られているのかもしれない。習一がそのように推察したとき、はたと気付いた。母がよく見せる負の感情は、子に向かっていない可能性を。
「……かあさん、気にすんな」
 母は目を丸くした。息子の口からなぐさめの言葉が出るとは夢にも思っていなかったのだろう。習一は握りこぶしをあげ、立てた親指を後方へ指す。
「この野郎が根っからのお節介焼きなだけだ」
 その言葉は母に責任はないという主張のつもりだった。赤の他人が勝手に習一の世話を請け負ってきたのだと。好事家が好きでやった行為であるから、親としての責任を感じる必要はないのだ。
 習一がシドのことを話題にしたせいか、シドはずいと習一の前に出る。
「今日は折りいって、オダギリさんのご両親とお話ししたいことがあります」
 彼はさっそく本題を持ちかけている。習一は一瞬、シドがせっかちなように思ってしまった。しかし話を切り替えるにはベストなタイミングだとも感じた。
「中へあがらせていただいて、よろしいでしょうか」
 慇懃な申し出だ。この丁寧な言動自体は他者の気分をそこねるデキではないはずだが、母の表情がくもった。母はこれから起きるであろう言い争いに不安を感じたのだろうか。沈痛な面持ちで承諾した。
 習一は四日ぶりに小田切宅に足を踏みいれた。先導する母が居間に入る。そこには脚の長い食卓で新聞を読む父がいた。彼は寝間着姿であり、新聞紙を広げたまま習一たちとは顔を合わせない。玄関先での会話を聞いていたのかわからないが、この態度からうかがうに、訪問してきた者が習一だとは知っているようだ。そうでなくては客に不遜な居住まいを見せない。
 父が座っている椅子の真向いに、この家の者でない男が座る。習一はその隣りに腰を落ち着けた。母は席に着かず、台所で茶器を鳴らしている。茶の準備ができてから話すべきかどうか、習一はまよった。これから繰り広げる話題は母にも伝えねばならぬこと。それゆえ、母が同席した状態で会話したほうがよいとは思った。しかし無言のまま、敵対している人物と同じ卓をかこむ状況は居心地がよくない。こんな状態は早く終わらせたいとも思う。
 新聞紙の奥から「なんの用だ」と低く重い声が届いた。父は母を待つ気はない。彼がそう出るなら習一も話を切り出すのに抵抗はなかった。
「じつは──」
 習一の同伴者が返答しようとした。それを習一が手で制する。
「オレはこの家を出ていくことに決めた。学校も別のところにする。それを言いにきた」
 新聞紙が前後に揺らぐ。中年が顔出ししないまま「金はどうする気だ」と尋ねた。やはり一番に興味があることは金か、と習一はげんなりするものの、実際それがもっとも切実な問題だ。
「自分で稼いで、足りねえ分はこのシドっていう教師が立て替える。あんたの金はあてにしてない」
「放蕩息子がでかい口を叩くな」
 習一は中年が吐いた単語に引っ掛かる。その語句はこの中年の口から出るには不愉快だ。
「その『息子』って言うのをやめにしねえか?」
 新聞紙がぱんっと机に叩き下ろされた。父の顔がようやく見える。不快げに眉間にしわを寄せた中年の顔だった。習一の予想できた反応ゆえに、習一は平然と話をつづける。
「あんたはオレをカミジョウという男の子どもだと思ってんだろ?」
「……それがなんだ。戸籍上は親子だろう」
 中年は顔色を変えずに言った。肯定も否定もはっきりしない返事は習一の期待外れだったが、そこはいま重要ではない。
「じゃあ親子の縁を切ってくれ。そうしたらおたがい、せいせいする」
 中年はふん、と鼻をならした。
「お前は学校の勉強はできても法律は不勉強だな。親子関係はそうそう切れないものだ。特別養子縁組をすれば実親との関係は抹消できるが、お前の年齢ではもうできん」
「法律なんざどうでもいい。気持ちの問題だ」
 中年は習一に勝る知識を無下に扱われ、さらに顔をしかめた。彼のそういう頭でっかちな性格を、習一は好きになれなかった。だからこそ、決別する。
「オレはあんたを父親だと思わねえし、あんたもこれまで通り、オレを息子だと思わないでいいってことだ。心にもない『息子』呼びはやめろ」
 習一は刺々しくも理性的に答えた。自分でもおどろくほど気持ちが落ち着いている。もっと激しい言い合いになるかと思っていたが、案外スムーズに決着がつきそうだと思った。
 習一側が会話の主導権をにぎる中、母が湯飲みを載せた盆を持ってくる。湯気の立つ茶が三つ、食卓に並んだ。この場で唯一の客分は丁寧に「いただきます」と母に会釈する。彼はこの非常時においても平時と変わらない対応を通すつもりだ。中年が劣勢でいるときに、シドの態度は慇懃無礼もいいところである。案の定、中年がシドを槍玉にあげる。
「貴様は悠長に茶をすすりに来たのか?」
「いいえ」
 シドがこともなげに否定する。しかし茶を放置するわけではなく、両手で湯飲みの底と側面を持つ。
「ですが出された飲食物は粗末にしない主義ですので、お茶を頂戴します」
 シドはくいっと湯飲みをかたむけ、茶を飲んだ。この状況でその我が道を行く対応は、人を食っているという印象を周囲に与えかねない。やはりと言うべきか、中年は怒り心頭に至ったかのように口を歪ませる。だがシドに不快な態度を改めさせようとしても、彼の行為そのものは礼を失する行動には当てはまらない。どう注意すればよいか中年はわからなかったのだろう。行き場のない不満は母に向かった。
「こんなやつを客扱いするんじゃない!」
 シドの身代わりとして母が怒号を浴びる。母は盆を盾のように胸の前に持ったまま、体をすくめた。完全な八つ当たりである。その原因をつくったシドが物申そうとするより早く、習一が抗議する。
「おいおい、責めるなら空気を読まないこいつにやれ」
「なにを……!」
「言い返してこない相手にだけ強気に出るなっての。いい歳こいた大人がやることじゃねえぞ」
 習一のたしなめを受けた中年は閉口した。叱責におびえていた母は習一を不思議そうにまんじりと見る。息子があまりに冷静かつ母に同情的なのを信じられないでいるようだった。
 習一は茶を半分飲み、一呼吸ついた。中年は習一に反論も咎めも言いにこない。彼は習一の言い分に了承しているのか、習一は確認する。
「で、オレが家を出るのと学校を替えるの、異存はないんだな?」
「勝手にしろ。あとで泣きついても知らんぞ」
「それは無い。この教師はあんたよかよっぽど父親してるから」
 中年は銀髪の教師をねめつけた。にらまれた相手はかるく頭を下げる。
「僭越ながら、彼の高校生活の後押しを努めさせてもらいます」
「若造にそんな余力があるのか?」
「経済面はこのお宅に劣るでしょうけど、不足のない援助ができる見込みです」
「せいぜい、共倒れにならないよう気をつけるんだな」
 憎たらしい言い方だ。しかしある意味では習一たちの決定を認める返答でもある。その良いほうの意味で受け取ったらしいシドが深々と頭を下げる。
「貴重なご意見、この胸に刻んでおきます」
「まったく! 皮肉屋同士、仲が良いことだ!」
 中年が乱暴に卓上を叩き、廊下へ引っこんだ。食卓には手つかずの茶がひとつのこる。それをシドが手元に寄せる。
「慇懃無礼が過ぎましたかね」
「なんだ、あいつの気持ちがよくわかってんじゃねえか」
 習一はこの男が偏屈な人間の心情を解さぬまま、挑発に準じた行動をとったのかと思っていた。シドは苦笑いする。
「何度も怒らせましたからね」
 彼はねらってあのような態度に徹したのではなさそうだ。およそペットが飼い主の叱りを受け、いまの行動は良くないことだと学習するのと同じ理屈なのかもしれない。
「礼を尽くすことが逆に失礼になるとは、どう動いてよいものやら判断に困ります」
「べつにいいんだよ。あいつの中身がガキなだけだ」
 あのような矮小な人間に配慮する義理はない、と習一は断ずる。
「自分を敬わない人間がいると不機嫌になる……自分が一番じゃなきゃイヤだっつうわがまま野郎」
「私の同胞にもいますね。……なるほど、貴方はああいう敵意と接しながら、過ごしていたのですか」
 習一はシドの共感を得たことにおどろく。習一が知りうるシドとその仲間であるエリーは、プライドの高さを感じさせない性格だ。それゆえ、彼の種族全体が驕慢とは縁遠い生き物だと習一は推量していた。それがシドの口から否定された。おまけに彼が「敵意」と的確に表現したのを鑑みるに、シドもまた、驕りたかぶる身内から攻撃された経験があるのだとうかがい知れる。その口ぶりは習一に親近感をおぼえさせた。

8
 ひとり、だまっていた母が「あの」と心細げに会話に入る。
「ほんとうに、習一は一人立ちするんですか?」
 母の視線と言葉遣いはシドに向けられたもの。そうと知れた習一は二人の会話を見守った。
「はい。私が勤務する高校には学生向けのアパートがあります。家具家電一式がそろっていますから、あとはご自分で足りないものを補充していけばよろしいかと」
「ご飯はどうするんです?」
「自炊するなり惣菜を買うなりは息子さんの判断に任せます。ご心配でしたら、私の知り合いに食事を用意できる者がいますので、その人たちにお願いしましょう」
「生活費は……」
 母は憂鬱顔で質問を重ねた。その姿に習一はやきもきする。
「なぁ、この教師と親父のどっちがオレを尊重してると思うんだ?」
「それは、先生のほうだけど……」
「じゃあ信用してくれよ。こいつが大丈夫だっつってんだから」
 習一は不恰好な笑みを作った。母を不安にさせまいとする一心での表情だ。だのに母は大粒の涙を流す。
「ごめんなさい……」
 母が顔を手で覆い、泣き崩れる。習一は自分の対応に汚点があったのかと焦った。笑顔に縁のない暮らしを長くつづけたせいで、怒気のこもった顔を見せてしまったのだろうか、と。
「私が弱いから、あなたをこんな目に……」
 母は習一の態度で傷ついたのではなかった。むしろ習一が軟化した影響で、いままで堰き止めていた感情があふれ出たらしい。つまり、これが隠し立てのない母の本音だ。
 習一が今日母に会ったときに感じた疑念は、これで確定した。いままで母が習一に向けてきた負の感情は自責の表れだったのだと。それを習一は母からの憎悪だと誤解してきた。このことが明らかになったいま、習一はずいぶん救われる思いがした。自分は完全に母に疎まれていたわけではない。母の愛情はたしかに子にそそがれていた──その想いに応えてあげたいのに、習一はできなかった。眼前の光景にどう対処していいかわからなくなる。ちいさく嗚咽を漏らす母に、息子である自分が、なにかしなくてはいけない。心ではそう感じていても、頭は単純な行動さえ思いつけない。
 呆然とする習一に代わり、銀髪の教師がうごいた。彼は母のそばで膝を屈する。
「これが今生の別れではありません。息子さんの生活が軌道に乗ったときに、またお二人は会えるはずです」
 母は声にならない声をともなって何度もうなずいた。習一はシドの対応が最適解だと思った。習一も母も、いまは動揺している。優先すべきは双方の気持ちの整理。この場は相互理解を深めるには適さないのだ。
 習一はシドのフォローに異を唱えず、テーブルにのこる茶を飲みほす。
「……それか、あいつがいねえときにまたくる。オレの荷物もあるしな」
 習一は母の反応を確認せず、部屋を出た。用件は済んだ。あの場に長居しても得なことは起きない。万一、妹が早起きしてくれば話がややこしくなりそうだと習一は考えた。
 別れのあいさつなしで、習一は日が照る外へ出た。習一に遅れてシドも外へ現れる。彼が習一の突飛な行動に付き添うのは想定内だ。習一が家出を決行したときもそうだったのだから。
 小田切家の敷地内を出たところ、「一つ、たずねてもよろしいですか」と声がかかる。習一は後ろに顔を向けたきり、良いとも悪いとも言わなかった。めんどくさそうだな、と思ったが、シドの質問に答える義理はあると感じていた。
「私が『父親をしてる』という評価は、本心で言ったことですか?」
 習一は今朝がた母と対面したときと同程度の恥ずかしさがこみあげた。すぐに顔を前方へもどし、歩を進めた。正面を向く顔に、日光がじりじりと焼きつく。その日光とは別の熱が顔にのぼるのを自覚しつつ、質問しかえす。
「……そんなの聞いて、どうする?」
「どう、ということもないのですが、興味深いと思いました」
「まだ親をやる歳でもねえのに、ってか?」
「そうは思いません」
「そうか? まだ三十くらいだろ」
「いえ、私の活動年数はその倍以上です」
 習一はぎょっとした。たしかに老成した男だとは思っていたが、中高年に相当するとは。
「ずいぶん長生き、だな」
「おそらくは、寿命自体がないのかもしれません。そういった生き物は私たち以外の種族にもいます」
「そうか……ま、アンタの世界じゃ長生きが普通だって言うなら、そういうもんだと思っておく」
 シドが人外だという認識はすでに習一の中で確立している。いまさら人間との差異をとやかく言う気はなかった。生物として違いすぎるからといって、それが取り立てて声をあげるべき短所だとは思えなかった。
 シドの寿命の話題がおわると、習一はすっきりした気分でシドの居住地を目指した。背後から「私の質問はどうなりました?」と話しかけられる。習一はなんのことだったか一瞬思い出せず、すぐに返答できなかった。
「言いにくいことでしたか?」
「あ……父親がどうこう、だったか」
 習一はその話題について、答えたくないと思った。だが決して、その感情に向き合うことが苦行なのではない。胸をえぐられるような苦しみとは真っ向から対立している。ただ、この男にありのままの心情を吐露するのは「負け」になるような気がした──彼以外に本心を語れる相手もいないと思っていながら、これだけは言いたくない、認めたくないという気持ちが、習一にはまだのこっている。その抵抗を感じる原因は、純粋に習一の性格にある。
「なんだっていいだろ」
「わかりました。ではほかの方にたずねてみます」
「え?」
「貴方の心情を察しうる人に聞いて、それで私は疑問を解消しておきます」
 シドは遠回しに、習一に答えなくてもよいと言っている。それは彼の気遣いなのだろうが、かえって習一をはずかしめる危険を、彼はまったく察知できていない。
「おい、だれに言いふらす気だ?」
「いけませんか?」
「ああ、やめろ。あんなの、あいつのダメ親さを当てこすりたいだけの出まかせだ。まともに考察したってムダだぞ」
 習一は未熟な保身の連続に対して居心地のわるさを感じた。話題を変えようと周囲をさぐる。すると灰色の動物が民家の塀を渡っていた。顔と体の大きい、どこかふてぶてしさのある猫だ。習一の視線に気づいたシドが「おや、猫ですね」と関心をそそぐ。動物好きな彼には格好のネタだ。習一はこれを話題逸らしの好機として活用をこころみた。

9
「顔デカいな、こいつ」
「オスでしょうか」
「猫も顔にオスメスの差があるのか?」
「個体差はありますが、その傾向はあるそうです」
 習一の思惑通りにシドが話に乗ってきた。たやすく目的を果たした習一は安堵し、通りすがりの獣から視線を外した。あとは適当な話をしておけばこの場をしのげると思ったのだ。だが動物好きの男は猫を凝視する。
「遺伝子的には……オヤマダさんが拾った子猫たちの父親にあたるかもしれませんね」
「え、こいつが?」
 どの子猫とも毛皮は似ていないが、と習一が思った矢先にグレーの猫は消えた。民家の庭に降りていったようだ。気ままに放浪するさまは野良猫の常だが、習一はグレーの猫を憎たらしく感じた。子猫の母親が血で汚れていたのを思い出したせいだ。
「母猫が大変な思いしてたってのに、オスは気楽な一人旅か」
「そういう生き物です。猫はオスが育児に介入しなくてもよいようにできていますからね」
「そこが人間とはちがう、か」
 習一は人間の倫理観を獣に押しつける行為を無駄だと思い、憤慨を引っ込めた。それと同時にある男性を髣髴する。自身の父疑惑のある男。もし彼が学生時代に得た就職先のまま勤続しているのなら、現在も海外での仕事をしているはず。
「……カミジョウも、あんな感じでふらついてんのかな」
「調べてみましょうか?」
 思ってもみない有益な提案だ。習一は食い気味に「どうやるんだ?」とたずねた。
「シズカさんにその方の居場所を探ってもらいます」
「警官の捜査で? それとも白いカラスなんかを使ってか?」
「カラスのほうですね。近隣に住むカミジョウさんを一通り調べるくらいのことはできるかと」
「近場、か……」
「はい、それより広い範囲の調査はむずかしいと思います。できないことはないでしょうが、あまりに時間と労力を費やす依頼になってしまう」
「それならやめとく。どうせ海外を飛びまわってる人だから、会えっこない」
 居所がわかったところで、習一の力ではなにもできない。海外旅行をする資金は持ち合わせていないのだ。いまは無理だが、いずれお金を貯めて、露木に捜索の依頼をしたら、本当の父に会えるのかもしれない。シドがもたらした情報は習一にかすかな希望を持たせた。
 会話が途切れ、二人は黙々と帰路をたどった。不意に周辺がほの暗くなる。分厚い入道雲が太陽を覆い、鈍色の影を習一たちに落としていた。そのおかげで日差しが遮られる。
「ちょうどいい日除けだな。ま、あんたにゃあってもなくても同じだろうけど」
「必要なら日傘を買いましょうか?」
「んな女みたいなことはやらねえって」
「快適さを求めることに男女の性差は関係しないように思いますが」
「周りがどう思うかを言ってるんだ。そもそも持ち歩くのがめんどうだし」
「では帽子はどうでしょう。鍔の広いものは頭の周辺に日陰をつくれますし、通気性のよいものは被っていても熱がこもらないそうですよ──」
 たわいない会話が展開する。習一は雑談をたのしむつもりはさらさらないのだが、無理やり話を打ち切りはしなかった。この会話はシドが習一をおもんばかっていることの表れだ。習一が暑さにうだっていようとなかろうと彼には関係がないのに、自分のことのようにあれこれ対策を考える。まるで子の体調を気遣う親のようだ。これがきっと、習一に欠けていたものだ。母からは受け取れていたが、その対に相当するものはいまになってようやく、他人から享受している。その他人が異種族であることはなにかの皮肉のようにも思えるが、習一は気に留めなかった。たとえシドが化け物であろうと、その心根が情け深い事実は変えようがない。
 太陽の下にあった雲が風で流れていき、また直射日光が地を照らす。肌を焼く暑さが再来してきた。習一が帰路を急ごうとすると、後方にいた保護者が並行する。
「私が貴方を抱えていけば、すぐにアパートに着きますよ」
 習一は昨夜に体験したことを思い出す。実体を無くした状態のシドは家屋を軽々と跳びこしていた。そのとき彼に抱えられていた習一も、常人には見えない特殊な状態にあったという。
「昨日の夜にやったやつか?」
「はい。私たちが消え去る瞬間を他人に見られない状況なら、できます」
「アパートに到着したときにだれかいたら?」
「部屋のベランダで降りるので、平気かと」
「昨日は暗かったからそこでもよかっただろうさ。明るいいまだと、だれかに気付かれるんじゃないか?」
「でしたら部屋で実体化しましょう。普通の家屋はすり抜けられます」
「なんで昨日はそうしなかった?」
「土足で床を汚したくありません」
 綺麗好きな者らしい忌避理由だ。習一はなかばあきれながらも、
「だったら玄関で降りてくれ」
 と言うと、シドの提案を飲んだことが言外に伝わる。シドがその場にしゃがんだ。習一はまわりにだれも自分たちに注目する者がいないのを確認したのち、彼の背におぶさった。
 習一は自身の右腕をシドの胸元にまわし、自分の右手首を左手でつかむ。簡単に落ちない姿勢になった直後、シドは移動をはじめた。
 習一の腕は大部分が露出しており、シドの灰がかった黒シャツをじかに接触した。彼のシャツは太陽光による熱を吸収している。習一が触れた直後は暑さが倍加したような熱気を感じたが、習一はその熱を嫌悪しなかった。
(ちょっと、たのしい)
 自分の体をうごかさなくとも景色が移り変わる、という体験は、慣れぬうちは新鮮なものだ。おまけにこの状態のシドは常人が通らない、道なき道を行く。平生歩かない塀の上などを跳びまわるので、同行者である習一も、身軽な猫や猿に変じた気分になれる。これがなかなかおもしろかった。しかしその無邪気な本音は他人に明かせない。
 習一は奇異な移動をたのしむ以外に、べつの意義も感じ取っていた。そちらも他言できない感情である。その情は先の実家での話中に発露したので、隠しとおせてはいないのだが。
(そこに食いつかれるとは思わなかったな)
 それは習一がはぐらかしてしまった話題だ。シドは「興味深い」と言って習一の真意をたしかめようとしたが、習一が羞恥するあまり、彼の好奇は満たされなかった。習一が気にするのと同様、シドもまた琴線に触れる言葉だったのだろうか。それをたしかめるには習一が恥を忍ばねばならず、そのような問いかけは容易にできない。
(聞くときは……学校がはじまってからがいいな)
 二人が四六時中ともに過ごす現状、気まずいことが起きると尾を引きずりやすい。両者が日常生活に忙しくする時期がねらい目だと思い、この場は沈黙に徹した。
 太陽は燦々と地上を照りつけている。人外と化した状態の習一たちはその日射を無効化していた。そのことに習一が気付いたのは、シドの部屋の玄関が見えたころだった。習一がシドに担がれる目的とは、暑い外にいる時間を短縮するためにあった。いそいで帰らなくともよかったという発見と、疑似親に甘えうる時間の短さを惜しむ気持ちがこみ上げる。だが眼前の鉄扉にぶつかる恐怖がそれらの意識を上回った。習一は目をつむる。数秒が経ってもなんの衝撃も異音も起きなかった。ただシドの「着きましたよ」の一言が聞こえる。習一がおそるおそる視界を開けると、アパートの玄関内にいた。
「さ、降りてもらいますよ」
 うながしにしたがい、習一はせまい玄関に降り立った。家主が一足先に靴をぬぎ、廊下に立つ。
「今日は部屋でのんびりすごす予定でしたね。どうかゆっくり休んでください」
 シドは笑顔で習一に休息をすすめた。そのやさしさに呑まれそうになるのを、習一はこらえる。
「いや、休むのはあとだ。転校とか、住む部屋とか、バイトとか、いま決められることはあるんじゃないのか?」
「貴方はせっかちですね」
 シドは顔色を変えずに言う。
「今日は日曜日ですよ。どこもそういった申請を受け付けていません」
「じゃあ明日になったらやるのか?」
「はい、私がすべて付き合います。ですから、いまは休んでおいてください。明日からまた忙しくなりますよ」
 いまの習一ができることは休養をとること。その主張を完全に支持するほど習一はお人好しではない。だが習一の今後の生活を取り決める保護者がそう言う以上、習一にできることは思いつかない。この場はシドを尊重して、習一は彼の部屋へ進み入った。

タグ:習一
posted by 三利実巳 at 02:00 | Comment(0) | 習一篇草稿
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