2018年12月14日

習一篇草稿−6章

1
 夕飯時になると習一たちは猫らを別室へ移動させた。手作りの居住地と、購入したという猫用のトイレも一緒に運びおえ、小山田家の食卓が始まる。仕事のあったノブは途中から加わり、食後のデザートがあると知って喜んだ。彼は精神的な年齢でいうと小山田家の中で一番幼いかもしれない、と習一は裏表のない中年を評した。だが担任とは異なる幼さだ。向こうは身勝手な幼稚さがあるのに対して、ノブは周囲の者を尊重した上で少年の心を発揮する。目下な娘と対等な接し方をするあたりが顕著だ。
(こういう親がいりゃ、いい子ちゃんに育つわな)
 父と顔立ちの似た娘を見て思う。母と祖母もまた温和な性格ゆえに、性根の曲がる機会はなかったのだろう。絵に描いたような幸福な家庭だ。不公平、の単語が頭をかすめた。
 計十五個あったケーキ類は六人に均等に分配した。教師は一つだけでいいと言って四個余り、それらは小山田家の明朝のデザートに取っておく。残りを見た小山田が「チーズは茶トラでチョコは黒猫っぽいね」としょうもない置き換えをした。この女子は視界に猫がいない時も頭には猫が住みついている。こいつも動物好きか、と習一は内心呆れた。
 人間の飲食が済み、教師らが猫の様子を確認しにいった。居間にもどると元気があり余る子猫二匹を引き入れる。ダンボールの中で眠る母猫と茶トラの安眠目的で連れ出したという。猫用トイレ等を買うついでに得たおもちゃで、一家と教師が代わる代わる子猫をあやした。当初、野良猫の飼育に難色を示したミスミは笑顔で子猫を見守る。その喜色は猫や動物嫌いの人間には浮かべられないものだ。彼女もペットの愛育にはやぶさかではないのだろう。あの時の拒絶は純粋に、愛情をかけた対象が先立つもろさを嫌うようだった。
 教師が猫とのたわむれに満足がいったあと、習一たち客分は小山田家を出た。夜道をいく習一の足運びは鈍重だ。教師が「もう少し外をぶらつきますか」と聞いてきた。
「いや、いい。あんたに行きたいところがあるなら別だけど」
「特にありません。では、行きましょうか」
 実直な教師は無為な寄り道を提案しなかった。帰宅したくない気持ちを察したのなら本屋にでも連れていってくれればいいのに、と習一は自分で断っておきながら不服に思った。
「……明日は、あんたはどうするんだ」
「予定を決めていません。また、オヤマダさんの家で猫と遊ぼうかと」
「本当に好きなんだな」
「貴方も嫌いではないのでしょう。猫も、あの家族も」
 習一はひねた返答が思いつけない。かわりに正鵠を得てはいない正直な言葉を選ぶ。
「そう……だな。あそこは猫にもいい環境だろうよ」
「オヤマダ家の子になってみますか?」
「なにを、トチ狂ったことを抜かしやがるんだ」
 教師は足を止めた。半身を習一に向ける。
「冗談は言っていません。あの家庭は貴方が過ごしやすい場所だと思います」
「数回限りの客だったから良くしてくれただけだ。他人を養う余裕なんかないだろ」
「無関係な人を何年も世話することは難しいでしょう。ですが、自力で生活できるまでの期間でしたら前例があります」
 一昨日の話題にあがったマサという人物のことだ。そうわかった習一は口を閉じた。
「もちろん、貴方が父親と腹を割って話して、仲直りできればそれが一番よいです」
「……言うだけなら簡単だな」
「それほどに血筋の問題は根深いですか」
 習一は全身が粟立った。なぜ、この男の口からその言葉が出るのか。喉の奥が詰まり、問いただすことができない。習一は黄色のレンズを凝視した。まっしろになった頭の活動はすぐに復活せず、教師と目が合った状態で立ち尽くす。
「図星、と見てよろしいでしょうか」
 澄みきった声が習一の平常心を喚起する。習一はうつむいて「なにが」と虚勢を張った。
「貴方が、裁判官である父親の血を引いていないということです」
「なんで、そう思った?」
「確証はありません。オヤマダさんが『もしかしたら』と勘で教えてくれました」
 習一と女子生徒が会ったのは三日間だけ。この短期間にそんなサインは送っていない。
「どういう発想だ?」
「女性特有の洞察力といいましょうか……メス猫が複数のオスの子を産めると言った時に貴方が急に不機嫌になった、と彼女が言っていました」
 それが嫡出でないこととどう繋がる、と習一が指摘する間なく教師は説明を続ける。
「どうして貴方が猫の特性に嫌悪するのかとオヤマダさんが考えた結果、多数の異性と関係を持つ女性が嫌いなのではないか、と思ったそうです。ではなぜ多情な女性を嫌うのか。女性に強い関心やこだわりはなさそうな貴方が、異性に貞潔を厳しく求めるようには見えない。ならば、不貞な女性のせいで不利益をこうむっているのではないか、と」
「ぶっ飛んだ推理だな。倫理もへったくれもねえ動物と人間が同じなわけないだろうに」
「根拠は猫の件一つではありません。貴方が初めてミスミさんに会い、夕食を食べた時にも少し機嫌が悪くなったそうですね。これはミスミさんがおっしゃったことだそうです」
「そんなこと……」
 ない、と言うのを思い留まった。娘が「似たかった」という対象が現れた時、習一はなんと感じたか。父に似た子をうらやみ、その幸運を不運だと見做す相手をさげすんだ。
「オヤマダ家の料理が貴方の味覚に合うことは私が知っています。料理以外で貴方が不満に思ったこと……それは、なんですか?」
 習一は下くちびるを噛んだ。だがこのまま黙っているのが癪で、質問し返すことにした。
「小山田はどう解釈した?」
「貴方が母親という存在に苦手意識を持っている、と。正確にはミスミさんがそのように受け止めたのを、オヤマダさんが信じました」
「ふん、そりゃあ外れだ。オレがムカついたのは小山田のほう。自分が恵まれてることを知らねえで、わがまま言ってやがったからな」
 習一はずかずかと歩き、教師の前を行く。自宅に到着するまで二人の会話はなかった。

2
 習一は自宅の玄関を開ける前に後ろを見た。敷地内を守る塀と塀の間に設けた鉄格子の奥に、銀髪の男性が立つ。彼は習一が帰宅する現場を確認できるまで、ああして見守る気だ。まるで幼い子どもが寝付くまでかたわらにいる親のよう。その視線を断ち切るため、習一は玄関に入る。一目散に風呂場へ行って制服を脱ぎたいと思った。
「ずっと無視するつもりか?」
 恨みがましい声が習一の耳に絡みついた。習一は早歩きで居間の付近を離れようとする。
「暗くなるまで遊びほうけて、まだ懲りないか。そんなだから入院したんだろうが!」
 中年の怒声とフローリングを踏み鳴らす足音が接近する。乱暴な手が肩をつかんだ。
(殴る気か……今日は我慢してやる)
 この数日間を平穏に過ごした代償だ。習一は奥歯を噛みしめ、目を閉じた。しかし打撃は受けなかった。中年の戸惑う声が聞こえる。
「なんだ、お前は! 不法侵入だぞ!」
 習一がまぶたを開くと、銀色に光る頭髪が目についた。途端に体の硬直が解ける。教師が父の暴行を未然に防いだのだ。浅黒い手は中年が振り上げた右手首をかたく握る。中年は彼の束縛を逃れようとして右腕を動かすが、筋肉質な手腕は微動だにしない。
「どんな理由があるにせよ、親が子に暴力をふるって良しとするルールはありません。まずは言葉を交わしましょう」
 緊迫した状況にあっても教師は理性的だ。その態度が余計に中年を苛立たせた。
「若造が知ったふうな口をきくな! 父親に断りもなく、息子を連れまわしおって!」
「貴方の許可をとらなかった非礼は詫びます。ですがこの数日、彼が非行に走るような真似はいたしておりません。そこは誤解しないでいただきたい」
 中年は習一への関心が薄れ、若き教師をにらみつける。敵視する対象が変わったと知った教師は拘束を解いた。中年は自由になった腕を大仰に振り、身なりを整える。
「役所や警察の者じゃないくせに、なぜ息子にかまう?」
「お子さんが健やかに生活できるよう、とり計らっています」
「報酬なしでか? 信用ならんな」
「ツユキという警官が御夫人に事情を伝えたはずです。お聞きになっていませんか?」
「そんなこと、どう信じろというんだ! 他校の教師が見ず知らずの子どもを指導してなんの得がある。目的を言え!」
 習一は忌々しげに笑った。父は習一と同じ疑い方をしている。似なくていい部分を似てしまったのだ。鼻で笑う習一を中年がねめつける。
「お前もお前だ。こんな怪しい男と一緒にいて、また悪さをする気なんだろう。こんな髪を染めたチンピラまがいの──」
「その銀髪は地毛だ」
 訂正を受けた父は教師へ視線を移す。教師は眉を上げ、習一の弁護を意外そうに聞いた。父は非難のあてが外れた挽回に「髪はどうでもいい!」と叫び、握りこぶしをつくる。
「雒英の教師とは話がついている。息子の落第はもう免れたわけだな? きみの役目は終わった。早く帰るんだ! 二度とうちの敷居をまたぐな」
「いいえ、私の責務は残っています。貴方の暴力行為は見過ごせません。それこそ市役所か警察に相談して、貴方の指導監督なり息子さんの保護なりを依頼する必要があります」
「証拠もないのに役人が動くと思うのか。浅知恵だな」
「裁判所に勤める裁判官に家庭内暴力の疑いがある、と知れ渡ってもよろしいのですか」
 父は口をゆがめ、眉間にしわを寄せる。外聞を気にかける中年には耳に痛い指摘だ。しかし父は屈さない。
「司法に携わる者としがない高校教師、世間はどちらを信用すると思っている?」
「それはわかりません。ですが一つだけ、確証があります」
 父が「なんだ?」と吐き捨てる。侮蔑の情をぶつけられた教師は不敵な微笑を見せた。
「貴方も私も、間違いを犯さずに生きられる聖人ではないということです」
 笑みを嘲笑だと捉えた父はわなわなと震える。「出ていけ」とくぐもった声が命じた。
「聞こえなかったか。今すぐにこの家を出ていけ! 警察を呼ぶぞ!」
 罵声をあびた教師は逆上した中年ではなく、習一に目を合わせた。
「私はこれでお暇します。オダギリさんはどうしますか?」
 いつもの調子で習一に尋ねてくる。どこへ行く、なにをする、なにを食べる。それらの質問に習一が答えを出さない時、教師が代わりに決定した。それらは全て、習一には良い、または悪くないと考慮したすえに提示された選択だった。そう理解できたがゆえに習一は承諾した。
 だが今の問いは違う。習一の自己決断ができないなら、彼は父の命令に応じて一人で去るだろう。それが習一にとって最悪の行動だとわかっていても。
「……出ていくよ」
 ぽつんと習一は自分の意思を口にした。いずれそうしなければならないと考えていたことだ。ひとたび宣言してしまうと、ずいぶん体が軽くなった気がした。二度と足を付けないかもしれぬ廊下を踏みしめ、脇目もふらずに外を目指す。靴を履き直し、玄関の戸を開けて振り返った。父はあんぐりと口を開けている。
「これで邪魔者は消える。今晩はぞんぶんに祝杯をあげるこった」
 戸を強く押し、習一は玄関を出た。早歩きで光ある場所から離れる。いつもは時間経過で閉まる戸の音が鳴らなかった。教師の「失礼します」という律儀な挨拶が聞こえたので、彼が戸を静かに閉めたようだった。

3
 習一はあてもなく歩いた。どこかへ行こうという明確な目標は出ない。無心に、何も考えないようにと、無意味に急ぐ。やみくもに移動するうち、自分以外の足音が常について回ることに気付いた。習一が立ち止まると追跡者の物音もやんだ。後ろを見れば体格の良い男性のシルエットがそこにある。
「どこまでついてくる気だ?」
「オダギリさんが一晩過ごす場所を決めるまで、同行します」
「駅の待ち合い所やコインランドリーで寝るかもしれんぜ」
「そこではぐっすり眠れますか?」
「そんなわけあるか。硬い椅子の上で熟睡できやしねえよ」
 父に弁論で勝ったくせにトンチンカンなやつだ、と習一はむしゃくしゃした。
「では布団のある寝床を望まれるのですね」
 言うまでもない理想条件を教師は問う。習一は馬鹿げているとは思いつつ返答する。
「布団はそのへんに落ちてないだろ。あっても虫が湧いていそうだ」
「清潔な寝床は私が提供しましょう。どうです、私についてきませんか?」
「どこへ行くんだ?」
「私の下宿先です。今日のところはそこで手を打ってください」
 教師の部屋で寝泊まりする。そこに彼の妹分も住むのだろうか。
「エリーもいるのか?」
「彼女はほかに厄介になるお宅があります。いたりいなかったりしますね。オダギリさんはエリーと一緒にいたいのですか?」
「いや、あの子とあんたは家族みたいだから聞いただけだ。そんな色ボケた発想はない」
 教師の頭部が揺れる。首をかしげたように見えた。
「色ボケ……? 私は貴方がエリーに気を許していることを言ったのですけど」
「オレが?」
 教師の目には習一が銀髪の少女に心を開くものだと映っている。習一にその実感はないが、教師よりは警戒していない自覚があった。
「外で立ち話もなんですから、私の部屋へ行きましょう。蚊に刺される前に」
「ああ……わかった。あんたの世話になる」
「一つ、よろしいでしょうか」
 話がまとまったのになにを言い出すのやら、と習一は耳を傾ける。
「私のことはシドと呼んでください。私はこの呼び名を気に入っています」
「なんだ、そんなことか。気がむいたら呼んでやる」
 習一は一宿の恩人に不遜な了承をした。その物言いが礼儀知らずだとわかりつつも「わかった、そう呼ぶ」とは明言できなかった。相手は周囲から先生の尊称付きで呼ばれている。習一が出会った人物では、彼を名前だけで呼ぶ者はエリーのみ。習一も呼び捨てにしてよいのだろうが、近親者が使う呼び方を乱用する気になれない。白壁のように他校の教師にもかまわず「先生」と慕う純朴さもない。「あんた」という人代名詞がもっとも習一の気質に合致する。シドに投げた台詞は習一にとって最大限の前向きな表明だった。
 シドが習一の言い方を不快に感じた様子はなく、淡々と下宿先に案内する。その仮住まいは才穎高校の経営者が建てたアパートだと語った。該当者は少ないが同学校に通う生徒も住むという。一人暮らしをする高校生は存在するのだ。
(オレも……早く住む所を見つけないとな)
 居候を頼める身内はいない。住居費を払う資金も持ち合わせていない。どうやって一人暮らしを成立させるか、と考えると途方に暮れた。過去にも空想した一連の流れだ。そのたびに自分には無理だと思い、実家に縛られるのを父への反抗の機会とした。息の詰まる生活との別離を決心した今、すぐにでも金策と住居の手配を考えるべきだ。
 生活の目途が立つまでは教師に頼らざるをえない。おそらく彼もそのつもりだ。浮浪児を放置すれば、窃盗恐喝といった犯罪行為に走る事態は想像がつく。警官を友とする人物が犯罪者予備軍をみすみす見逃しはしないだろう。
(こいつがオレを守るワケはきっと、他の連中のためなんだ)
 習一を憐れんでの善行ではない。他者への被害を防ぐ自衛策だ。そう考えると厚意に甘んじる引け目は薄れた。同時にその推察が真実を捉えていないのではないかと訴える異物が胸の奥に住みつく。異物に対峙する気力は持てなかった。
 シドはアパートの自室の扉を開け、暗い部屋の照明を点ける。玄関の奥には部屋を仕切る戸があった。その戸も開いて電灯をともす。習一が一番に目にしたものは仕事机とその上にある寝台──ロフトベッドだ。高さのあるベッドに合わせて部屋の天井も高くなっている。
「少し部屋の整理をします。その間、体を流してください。着替えは出しておきます」
 着の身着のまま家を出た習一には寝泊まりする用意がない。しかし、かろうじて習一の衣服一式はこの部屋主に預けてあった。
「あんた、こうなるとわかってたな」
 シドはリモコンを操作して冷房を入れる。彼は黙って習一を見た。
「だから風呂屋に行かせて、着替えを確保したのか。オレをいつでも迎えられるように」
 思えば律儀な彼が洗濯物を一向に返さないのは不自然だった。現在は一年でもっとも洗濯物が乾きやすい季節。一日経てば返却できたはずである。彼はこの三日間をわざわざ習一の家先に出向いたのだから、もののついでに衣類を持ってこれた。あるいは便利屋なエリーに届けさせることだってできただろう。
「……貴方は父親と距離を置くべきだと考えていました。宿泊所が私の部屋か、オヤマダさんの家が良いかわかりませんが、衣食住に関しては不自由させません」
「なんのために、オレなんかの世話を焼く?」
「今はお答えしかねます。かわりにこれだけは言っておきましょう。貴方が安定した生活を過ごせるようになるまで、私は貴方とともにいます。貴方が私を信用しなかったとしても、自分の行動は変えません」
「わかった、理由は聞かない。けどこれは教えろ。オレを助けて、見返りはあるのか?」
「罪滅ぼし……一種の自己満足です。私の道楽だと考えてもらってかまいません」
「罪、ねえ」
 習一は意味深な台詞を放置し、部屋主に従って脱衣場に足を踏み入れる。そこは洗面台があり、その隣りのくぼんだ壁に埋まるようにして洗濯機が設置してあった。シドはプラスチック製の洗濯かごを指して「ここに脱いだ服を入れてください」と言い、居間へもどった。習一は制服のポケットの中身を出す。手近な棚に私物を置いて服を脱ぎ、かごに放って浴室へ入った。シャワーから出る水がお湯になるのを待ちつつ、一室の状態を確認する。男性の一人部屋ともなると掃除が行き届かないだろうと覚悟していたが、予想外に綺麗だ。鏡に水垢はついていない。水場によくある赤カビもない。目地につきものな黒い汚れも見当たらない。風呂屋やホテルと同等に清潔な風呂場だと習一は感じた。
(オレが来ると思って、掃除したのか?」
 一般的に教員は休暇が少ないと聞く。一人暮らしの教師が日常的に家事をぬかりなくこなす様子は想像しにくい。浮浪少年を保護する目的で、労を割いたのだろうか。
(クソ真面目そうだからな。普段からこうなんだろ、きっと)
 習一はそう思いこんだ。ひとえに、他人が自分に尽くしている、という発想から逃れるためだ。お湯を体にかけ、シャンプー類を使って汚れを落とした。
 浴室を出てすぐの棚に、先ほどはなかった衣類があった。衣類の上にあるタオルで水気をふき取り、畳まれていた服を着る。リビングに出ると涼しい空気がたちこめていた。居住者の姿はない。上のほうから物音がして、習一は天井をあおいだ。
(二階がある……?)
 部屋の上部には間口の広い押入れのような場所がある。そこからシドの顔が現れた。
「今晩はこちらに寝てもらいます。布団を敷いたので眠る準備ができたら上がってください」
 シドは前屈みになって立ち、壁に設置したスロープに手をかけながら階段を降りる。その階段は収納棚だ。大小様々な四角の空洞があり、その中に本やテレビが置いてある。ロフトベッドといい、とにかく空間を最大限に活用しようという造りの部屋だ。賃貸の部屋で、個人がこれほど無駄のない内装に設計できるだろうか。
「このアパートはぜんぶ、こういう部屋なのか?」
「ええ、家具家電とロフトつきです」
「へえ、その階段にできる棚は経営者のセンスか」
「そうです。体重が重いと上り下りの最中に壊れないか心配になりますけどね」
「あんたが乗っててなんともないんなら、安心だ」
 習一はロフト部屋に上がろうとした。しかし習一の濡れた髪と歯みがきの未完了をシドが指摘し、洗面所へ習一を連行する。用意してあった新品の歯ブラシと歯磨き粉を使い、習一がしぶしぶ歯磨きをはじめた。その間、シドが湿った頭髪にドライヤーの風を当てる。
(こいつ、子どもを育てたことあんのか?)
 この甲斐甲斐しさはズブの素人にできない芸当だ。彼には年齢の離れた妹分がいるため、その面倒をみるうちにつちかった手際かもしれない。
(オレはぜんぜん、妹に手をかけなかったな)
 妹の身支度を整えたり子守りを頼まれたりした思い出はない。妹の身の回りの雑事は両親がすべてやった。特に父は妹を溺愛し、習一に妹を託す指示は出さなかった。子どもがやる世話はつたなくて目に余ったのかもしれないが、本当は信用ならなかったのだろう。
(他人に自分の子を預けるようなもんだ。それも憎んでた男の……)
 これ以上の思考は中止した。鏡に映る自分の顔が情けなくなったと感じたせいだ。世話人に気取られなかったと信じて、口腔内をすすいだ。

4
 習一は掃除機の音で目覚めた。現在いる空間の壁には床のすぐ上に小窓があり、そこから光が差しこむ。その明るさは日の出から数時間が経過したことを予想させた。
 ロフト部屋は人がまっすぐ立てないほどに天井が低い。この場での移動は腰を曲げて歩くか、四つん這いになる。習一は四肢をついて動いた。ロフト部屋と居室との境目には蛇腹折りの硬いカーテンがあり、昨晩は空調の冷風を遮断せぬよう半分開けていた。習一はカーテンを全開にする。初めに黒灰色のシャツが見え、次に掃除機のノズルがすべる光景が見える。ほこりを吸い取る音が止み、清掃人が顔を上げた。連日、目にするサングラスがある。
「おはようございます。昨夜は眠れましたか」
 習一は素っ気なく返事をしておいた。部屋主は掃除機を持ち上げて玄関へと姿を消す。階段を降りた習一は開放されたベランダに注目する。物干し竿に制服のズボンがハンガーにかかった状態で干されていた。他の洗濯物はなく、単品で洗われたらしい。
(クリーニングに出した……ら、こんな早くもどってこないし、干さなくていいよな)
 他の服とまとめて洗濯機で洗えばいいのに、と効率の悪さを胸中でなじった。一点干しを行なった者は脱衣場に行き、脱水した衣類を入れた洗濯かごを抱えてくる。シドはベランダに出て衣類を干す。その背中に、習一はつい先ほど感じた疑念をぶつけた。
「なんでズボンだけ先に洗ったんだ?」
「手洗いが機械の洗濯より早く終わりました」
 シドは物干し竿と洗濯かごの二方向にのみ顔を向けつつ答えた。
「オレの制服だけ? あんたのズボンは?」
「洗濯機で洗えるタイプですので、いつも自動洗濯しています。学校の制服ズボンは替えがききませんから安全な方法で洗いました」
「そんな手間のかかることを……」
「私は掃除と洗濯が好きです。これくらいの作業は負担になりません」
 シドは洗濯ネットに入れた衣類を取り出す。それは制服のシャツだ。多少ねじれた箇所はあるが、畳まれていたあとが残る。
「洗う前にも畳むのか?」
「こうするとシワになりにくいのだそうです」
「デカイ体しといて、マメなことやるんだな」
「大事な制服ですから。それはそうと顔を洗ってはどうです。朝食をとりに行きますよ」
「どこで食う気だ?」
「最初に私と一緒に行った喫茶店です」
「オカマがいるっていう店か」
「そういう覚え方が適切なのかわかりませんが、そこで合っています」
 目下の行動計画を聞いた習一は洗面所に行き、顔に水をぱしゃぱしゃかける。朝の洗顔はしなくとも気にならない性分だが、そのことで保護者にそむく意義はないので指示を聞いた。
 ぞんぶんに水を浴びたあとは洗面台に掛けたタオルで顔を拭く。水気を取った顔を鏡に映すと、少しこけていた頬が幾分ぷっくりしている。この一週間、シドの手引きで栄養を摂取しつづけた成果だ。退院したての頃は心身ともに萎えた状態だったのが、目に見えて回復した。唯一、もどらないものは不特定多数に向かう敵愾心(てきがいしん)だ。
(飼い馴らされた犬になっちまったか?)
 別人かと思うほどに習一は他者への反抗が減った。憑き物が落ちたかのごとくあらゆるものを受け入れる心構えができた気がする。その原因は推理するまでもなくあの男にある。
(変だな……あんな真面目くさった、獣贔屓野郎に……)
 改心させられている、と考えるのを頭をぶるぶるふって打ち消した。
 ノーネクタイの同室者と共に外出し、徒歩で個人経営の喫茶店に行く。照りつく太陽は熱く、習一が洗った顔に汗が流れた。夏場は朝洗顔の意味がないと思った。
 数日ぶりの喫茶店内は客数が少なかった。レジの店員はボーイッシュな女性のままだが、客を案内する給仕は小山田だ。習一は噂のオカマ従業員の姿がないのを不審に思う。
「やたら胸のデカイ男女は、いないのか?」
「オーナーはモデルのお仕事中だよ。ちょっと日取りがわるかったね」
 その表現は習一がオカマ目当てに来たかのようだ。習一は「べつに会いたかねえよ」と毒づいた。
 習一はドリンクの注文を終え、取り放題のサラダや卵を皿に盛って食べる。同席者は店内の雑誌コーナーにあった新聞紙を広げる。黄色のサングラスや変わった髪色がなければ普通のビジネスマンだ。様になるくつろぎぶりを前にして習一は声をかけるのをためらい、顔見知りの給仕が飲み物と食べ物を届けるまで無言でいた。
 深緑色のエプロンをかけた小山田が厨房へ去る。シドは自分の食事を習一の皿に分けた。彼の意識が習一に向いたのを見計らい、習一は一番に気兼ねする事柄をぶつける。
「オレをとっとと部屋から出したいだろ。そんなにのんびりしてていいのか」
「貴方が納得のいく身の振り方を決めるまで待ちます。その間の生活費はご心配なく」
「いつまで待つ気だ? 何年も居候されて、平気だっていうのか」
「貴方はきっと一年経たないうちに決断します。それだけの知恵が備わっていますから」
「ずいぶん買い被ってくれるな。オレは親と喧嘩してウダウダ一年無駄にした野郎だぞ」
「以前はそうすることが父への反抗になると思ったのでしょう? その行為が優柔不断だとか、愚かだということにはなりません。貴方の価値観がそうさせたのだと思います」
 シドは皿を置いた。食材の量が増した皿を習一の前に移動させる。
「貴方は以前の貴方がしなかった行動を選んでいます。価値観が揺れ動く最中なのです。今後悔いが残らない決定ができるよう、それだけを考えてください。私にかかる労苦は全く考えなくてよろしいのです」
 シドは再び新聞の記事をながめた。習一は譲渡された食べ物をばりばり食う。どうにか相手の涼しい顔を崩せないものかと思案し、下手をすれば自分が窮する話題を思いついた。
「あんたは自分の父親を覚えているか?」
 習一の記憶が確かならば、シドにとっての親は彼が主と呼ぶ相手。性別は知らないが、ひとまず父親として話を振った。シドはわずかに眉を上げて習一の顔をじっと見た。唐突な質問に不快を示す様子はない。彼は彼自身の父に対する嫌悪感を持たないようだ。
「親にあたる方は一人いますが……父親ではない気がします」
「なんだ、その言い方。あんたのご主人様はオカマか?」
「見た目で性別がわかる方ではなかったもので」
「ますますわからねえ。男か女かも知らない相手を、本当に親だと思えるのか」
「そう、ですね……普通は親とは呼べないのでしょう」
 彼の視線は左手の指に落ちた。白い宝石がついた指輪を見ている。
「この指輪を私に与えたことくらいですね。あの方にとって……私が特別だという証は」
 習一の家庭以上に複雑な背景があるらしい。習一は深く踏み入ってよい事情かどうかと悩み、黙った。生まれついての従者とは、昔の奴隷制度を匂わせる出自だ。習一の家庭事情を鼻で笑い飛ばせるほどの過酷な環境で育ったのではないか。
「……あんたは、オレをとんだ甘ったれだと思うんだろうな」
「そんなことはありません。人が感じる幸不幸は性格嗜好と同じく、優劣をつけられません。他者への隷属は貴方には耐えがたい苦行でしょうが、私は抵抗がなかったのです」
「人の子どもになるのも適材適所、てか」
「親は自分の意思では選べませんからね。育ての親と折り合いがつかない人は必ずいます。その場合は一人立ちするか、馬の合う保護者を見つけられたらよいのですが──」
 ああそうだ、とシドは何かをひらめいた。
「局地的な状況ではありますが、私が父のように感じた男性はいます。武術の師匠です」
「あんたに弓を教えたやつか?」
「はい、弓以外にも様々な武器の扱いを教わりました。一対一で打ち合う時はなんとも思わなかったのですけど、初めて弓を習う際……言いようのない感覚を覚えました」
 シドは両手をすっと動かし、弓をつがえる姿勢をとる。
「彼が背後から私の手を握り、弦の引き方を教えました。その時に私は安心したのです」
 空想の弓を置いた彼は手のひらを見つめる。ほんの少し、嬉しそうだった。
「彼のそばにいる間は、私に降りかかる危険を彼が取り払ってくれる。いま考えてみると、そんなふうに感じたのだと思います」
 この発言に習一は違和感を覚えた。かように強く、自立した男に、守護者を得て安心する感覚が本当にあるのか。
「師匠に守られてて嬉しいと思えるか? あんたにとっちゃわずらわしいんじゃないか」
「当時の私は右も左もわからない赤子同然でした。戦う術も、他者と接する方法も知らない。無知な私に最善の方法を指導する師匠は太陽にも等しい存在です」
「ふーん、ずいぶん懐いてるんだな、その師匠って男に」
 シドは申し訳なさそうに伏し目がちになる。
「いえ……武術の師匠にはあまり敬慕の情を抱きませんでした。彼は武芸の腕は一流ですが、人格者には程遠い方です。私がいつも慕っていたのは……ケイという女性です」
「恋人か?」
 シドは微笑みながら頭を横にふった。
「いいえ、彼女も私の師匠です。彼女からは体術と一般常識を習いました。私が間違いを犯せば叱り、正しい行ないをすれば褒める。善悪の判断を教えてくれた……大事な親です。母親と呼べる年齢差はありませんでしたがね」
「じゃ、姉貴ってとこか」
「はい。私は手のかかる弟でした」
 習一は昔話の背景を大まかに想像した。シドが武術の指導を受けた時はまだ弱々しい少年だった。親と呼んで差し支えない中高年の男に師事して体を鍛え、姉に相当する若い女性に品行を正してもらい、それらの過程を経て現在のシドを形作った。彼は元から強靭かつ理性的な男性だったのではない。周囲の人間がそうなるように育てたのだ。
「彼女たちとの修業は大変でしたが……とても充実していましたよ」
 回顧者は目を細める。その言葉は一点の曇りもない本音だと習一に認めさせた。実の親がおらずとも満ち足りた人生は送れる。だがその実現は個人の力だけでは成就困難。出会う人々に恵まれたがゆえに、足ることを知る彼がうまれた。
(こいつが才穎じゃなくて、うちの高校に来ていたら……)
 ありもしない世界を思考するのがバカらしい。習一は席を立ち、無言でトイレへ入った。

5
 シドは習一の私服をどうするか尋ねてきた。新たに買うか、エリーに自室から取って来てもらうか。習一は後者を選び、二人は朝食を終えるとまっすぐ下宿先へもどった。シドは来客があると習一に伝えており、部屋へ到着すると鍵が開いていた。室内は冷気がたちこめる。玄関を入ってすぐ横の部屋で物音がした。「アニキ〜」という間延びした声が聞こえる。習一はまだ探険していない一室から、茶色のフワフワしたウニ頭がにゅっと出た。
「お客さん用のお箸が足りないっす! 買い足しに……」
 茶髪の少年が習一を視認し、笑顔で一礼する。その表情には初対面の者に対する警戒や気後れが一切なかった。
「おいら、イチカと言います! アニキとはファミリーなんです!」
 習一はシドの顔を見上げて「家族?」と聞く。シドは「ものの例えです」と受け流した。
 イチカがいた場所は天井の低い台所だった。シドが食器棚にある新品の箸を出すことでイチカの要求に応える。イチカを台所においたまま、二人は居間へ入った。絨毯の上に今朝は見なかった、正方形の座卓がある。四人囲んでぎりぎり食事ができるサイズだ。その周りにシドが座るので習一も倣う。部屋の片隅には大きな横鞄が置かれていた。イチカの所有物だろう。習一はイチカが自分をすんなり客と認識したことが引っ掛かる。
「あいつ、オレがあんたんとこに転がりこんだことを知ってんのか?」
「はい。外食とオヤマダ家頼りの飲食はどうかと思い、数日の食事の用意を頼みました」
「どういう関係だ? だいぶ仲良いみたいだな」
「イチカさんは私の知人の娘さんです」
「え、娘? 女?」
 聞きたい答え以外の部分に習一は困惑した。シドは笑って「女性ですよ」と言い直す。
「幼いころから周りは男性ばかりだったそうで、言葉遣いと服装は男性寄りですけど」
「なんだか性別のわからんやつがよく出てくるな……」
「今日不在だった喫茶店の店員のことですか」
「あとレジの店員もな。女なんだろうけど初めは男かと思った」
「店長さんですか。彼女も中性的な方ですね」
「店長? オカマがオーナーなんじゃ」
「オーナーは店舗を所有する出資者です。店を管理する責任者を別に置くこともできます」
「それはわかるが……オーナーが店で働いていたら普通、そいつが店長にならねえか?」
「ご夫婦で経営していますから、負担を分けたんじゃないでしょうか」
「あのオカマが、女と結婚してる?」
 習一はまたもや混乱した。女にしか見えぬほどに肉体を女へ改造した男はよく男に興味を持つ。男に異性として見てほしいから外見をいじるのだろう。女と恋愛をするのなら女に化けなくてよいのだ。浅い見識とはいえ習一はそのように認識していた。
 シドは習一の心中がわからないと言いたげに眉を少々ひそめる。
「男性と女性ですから、それほど変わった事情だとは思いませんが」
「額面通りに見りゃそうだけどさ……ニセモンの胸を作った野郎が、女に走るか?」
「私は特殊な性別に属する方々への知識が欠けていますので、わかりません」
「オレだってよく知らねえよ。性別不詳のやつらはオレと無関係だ」
 別室より「ヒトのこと言えるんすか〜」と揶揄する声が飛ぶ。イチカが茶の入ったプラスチックのコップを卓上に置き、彼女も座卓を囲んだ。
「オダのアニキも女の子みたいっす。言われません?」
「オレが? 中学にあがるまでは間違われたけど、今はねえな」
「そんなに髪長いのに?」
「骨格でわかるだろ」
「骨太の女子だと言われたら信じちゃうっす。顔きれいだし。いっぺん女装してみる?」
 イチカが満面の笑みで習一の顔を凝視する。いきなり「あ!」と驚いた。
「ほっぺにおデキができてるっす! お肌のケア、やってます?」
「女々しいことはやらねえ」
「今は男も美肌を追求する時代っす! アニキ、おいらの化粧水と乳液はあるよね?」
 シドは「たしか洗面台の棚に」と脱衣場を指さした。イチカがくちびるをタコの口のように尖らせる。
「『たしか』って、昨日今日の洗顔のあとに勧めてあげなかったんすか?」
「はい。男性ですし、いらぬ世話かと思いまして」
「かー、もう! アニキも昭和の男みたいに古臭いんだから!」
「面目ありません」
 大の男が少女に堅苦しく謝罪する様子がおかしくて、習一は吹き出した。機嫌を損ねていたイチカが一転して笑い顔になる。
「いい顔してるっす。アニキ、この笑顔を見たことある?」
「ええ、一度は」
「不器用なアニキにしたら上出来っす! どうやって笑かしたんすか」
「オヤマダさんの家にいる猫です。オダギリさんがエサをあげた、その時に」
「な〜んだ、アニキ一人の力じゃなかったんすね」
「猫は人を和ませる天性のプロフェッショナルです。私では逆立ちしてもかないません」
「わんちゃんも癒し系っすよね?」
「犬もですね。人と慣れ親しんでいる動物全般がそうです。オヤマダ家に猫が現れなかったら、犬を飼っているお宅へオダギリさんをお連れしようかとも考えていました」
「どんなわんちゃん?」
「白黒の中型犬です。人懐っこくて優しい子ですよ」
 二人はたわいもないお喋りを続ける。明日はどこへ出かけるか相談しあい、仕事机にあるノートパソコンを使ってめぼしい場所を探した。習一は暇つぶしにテレビをつけ、今後の外出予定を二人に丸投げした。習一自身は遊んでいる場合ではないと思うのだが、この二人に言っても通じそうにないのでやめた。
(今ごろ、学校の連中は夏季講習やってんのかな)
 習一が補習を受ける期間にも成績良好な生徒は授業に参加した。彼らの登校は三日間では済まない。赤点保持者の補習がたった三日で終わる理由は、夏休みの授業に教師陣が専念するためだ。落ちこぼれに目をかけても利益はない。その切り捨て方がいっそ清々しい。
(ま、見捨ててくれりゃ楽でありがたい)
 その考えは習一に利にならない者への正直な思いだ。利害が一致した者同士、関わらないのが得策だ。二学期以降もこじれた関係を続けるかすっぱり身を引くかと考える。
(いまは学校なんかよりも住む場所だよな)
 いつまでも他人の居室にあがり込んではいられない。親との仲直りなどという夢想をする前に、自立する手段を模索すべきだ。習一の胸中を知ってか知らずか、遊興先を決める二人はひたすら習一に背を向けつつ案を出した。遊園地や美術館といった定番の遊覧場所が出て、最終的にイチカがプール行きを決定した。水着が実家にもない習一は反対したが、新規購入しに外出するはめになった。シドも遊泳には消極的だったものの、遊行の主導権はイチカにあったので抗議らしい抗議をしなかった。
 昼食はイチカ手製の薬味入りそうめんだった。ご飯を食べたあと、三人は近くのデパートへ向かう。外は吸う息で鼻孔が温まるほどに気温が高い。店内の冷房を浴びた時は息を吹き返す心地がした。習一は衣服売り場の商品を見て、自身の着替えの件を思い出した。エリーが自宅から取ってくるという話が今朝あったが、彼女は昼になっても現れなかった。
「なぁ、オレの服って……」
「つい今しがた、エリーが私の部屋に届けてくれました。オヤマダさんの家にも寄っていたので、時間がかかったようです。ご心配おかけしましたね」
「いつそんな連絡してたんだ? 補習を抜けた時も、電話を使ってなかったろ」
「専用の無線機のようなものがあります。お見せすることはできません」
「ふーん。……ところで、あいつは遊びに誘わないのか?」
「はい。あの子は遊びに関心がないですし、ほかに頼みたいことがありますから」
「なにを頼んでるんだ?」
「人捜しです。捜すと言っても会いたくはない相手ですけど」
 シドは矛盾をはらんだ物言いをする。その真意が習一にはつかめず、イチカの顔色をうかがった。イチカも事情を知らないとばかりに首を横にふる。
「でも、アニキがやることにはちゃーんと意味があるっすよ」
 ね、とイチカがシドに念を押す。絶大の信頼を寄せられたシドは黙して笑った。

6
 三人は遊泳に必要なものを買いそろえた。帰る前にイチカがアイスを食べたいと言って、ソフトクリームを二つ購入する。一つは習一に、一つはイチカ自身が口にする。冷菓を摂取することで帰路の炎天下は紛らわせた。道中、イチカが自分のソフトクリームをシドに食べさせる。シドは遠慮したが「アニキの体のためっす!」とイチカが強く勧めるのに屈した。暑さにやられる男じゃないが、と汗一つかかないシドを見て習一は不思議がった。
 もどった部屋には習一の服の入った布袋と扇風機が置いてあった。エリーが届けた物だろうが、扇風機は習一の希望にない品だ。習一は「こいつはどこから?」とシドに聞く。
「オヤマダさんに貰ったものです。ロフト部屋にオダギリさんが寝泊まりする状況をエリーが伝えたら、きっと熱がこもるから必要だと言ってくれました」
「いいのか? あいつの家だって使うだろ」
「押入れにあった扇風機だそうです。現在は別の性能のよいものを使うようですよ」
 扇風機は表面の色落ち具合から年数の経ったものだとわかる。廃棄寸前であろう道具を譲り受けるのは気負いしない。シドは扇風機の首を上下左右に動かし、可動域を確認する。
「問題は設置箇所ですね。ロフトに運んで使うか、下から空気を循環させるか」
「下に置いときゃいいんじゃねえか。風呂あがりに涼みたい時なんかも使える」
「それだとイチカさんも使えますね」
 暫定的に扇風機を階段兼用棚の前に置いた。イチカがさっそく扇風機の風にあたって体を冷やす。習一はエリーが選択した自分の服を点検した。どれも夏用の薄着だ。春秋用の長袖はない。習一の長期にわたる出奔は想定していないらしい。
(前に、夏休みが終わるまでにどうにかしたいと言ってたか)
 購入品を使用者三種に仕分けするシドの横顔を見つつ、習一は彼の発言を思い出した。シドの計画はどこまで達成できたのだろう。初めから習一の保護を視野に入れていたようだが、現状維持で終わらせるとは思えない。
(そういや、なんでこいつと一緒にいるようになったんだっけ?)
 昨日まではシドが習一の復学を支援する名目で、休日を問わず外出し続けた。当初の目的は学校とも家族とのいざこざとも違う。習一がなくしたという記憶の復元が先立っていた。かれこれ一週間、シドと過ごす日々を送ってきたものの、成果はまだない。
「いつになったらオレの記憶はもどる?」
 シドは脈絡のない質問を受けたにも関わらず、微笑んだ。
「そうですね……もう少しアクティプに動いてよい頃合いかもしれません」
「アクティブぅ?」
「貴方を入院に追いやった張本人に会います」
 習一の背すじがしゃきっと伸びる。いきなりの問いにふさわしいと言えばふさわしい、突拍子ない案には少々肝を冷やした。犯罪者への面会は体験する機会がない。配慮に長けたシドの手配ならば習一に危険はないとはいえ、悪人と正面切って会うことは度胸がいる。
「会うって……刑務所で?」
「場所は違いますが、警官の管理下に置かれた相手ですから怖がらなくていいですよ」
「警官の……んじゃ、留置場か」
「準備ができたら改めて話します。面会の際はシズカさんに同席してもらいましょう」
「あんたは?」
 シドは悲しそうに眉をひそめた。今まで空気のごとき自然体で習一に付き添ってきた者が、罪人との対面においては同行を渋っているようだ。
「私も……同席します。そうです、犯人とは顔を合わせるだけにしましょう」
 言ってシドは習一の分のサンダルや水着入れを差し出した。そして明日使うタオルを取りに脱衣場へ行く。習一は彼の反応の理由が気になり、またしてもイチカに疑念の視線を向けた。イチカは困った顔をして「おいらの口から言えないっす」とだけ答える。
「とにかく、明日は泳いで楽しむっす! 今日の夕飯は元気のつくもんを作るっすよ〜」
 イチカは扇風機の風を止め、室内の戸を開けて台所へ行った。習一はタグが外された遊泳の道具はそのままにし、エリーが届けた衣服を一時的な自室へ運んだ。

タグ:習一
posted by 三利実巳 at 00:00 | Comment(0) | 習一篇草稿
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