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2020年04月08日

“コロナ疎開” で困惑 !? 長野県の地名

“コロナ疎開” は感染リスクを拡散するだけ

昨日、緊急事態宣言が出されて、いよいよ日本も切迫した状況となってきました。

東京を中心とする首都圏で感染者が増加する中、“コロナ疎開”という言葉がトレンドに上がっています。

東京近郊に在住する人が感染リスクを恐れるあまり、まだ感染者の少ない地方へ続々と避難する傾向のことです。

実際、長野県の軽井沢などではいつもならあまり見かけない今の時期に、東京ナンバーの車が異常に多いようです。

この動きに長野県知事は首都圏からコロナウイルスが持ち込まれることで、県内で感染爆発が起きるのではないかと懸念しています。

ここで、「緊急事態宣言は来月6日まで」という意味をもう一度考えてみましょう。

政府としてはこの「来月6日まで」、つまり“ゴールデンウィークが終了するまで”という期間に大きな意味を込めたと考えられます。

すなわち、政府はゴールデンウィークに都市部にいる多くの無自覚感染者が観光地に行き、その地で感染を拡大させてしまうのを防ぐのが狙いというわけです。

僕も旅行好きのアウトドア派なので外出自粛は苦痛に感じますが、露骨なコロナ疎開はその土地の方々に迷惑を掛けてしまうし、また今は白い目で見られるだけです。

こういう時だからこそ、自分だけでなく周りの方々にもきちんと気遣いすることを心掛けたいですね。


さて、コロナ疎開で話題に上がった長野県ですが、いろいろ調べてみると長野県の観光地にはなかなか面白い地名の由来があります。

僕は甲信越地方が好きでよく旅行に出掛けるのですが、今は自粛しなければなりません。

なので、有名観光地の地名の由来を知ることで、今後出掛けられる時期になった時の楽しみの一つにしたらどうでしょうか。

というわけで、今回は長野県の観光地名の由来について語りたいと思います。

軽井沢(かるいざわ)

・北佐久郡軽井沢町

軽井沢といえば、日本を代表する高原の避暑地として有名ですが、実はこの軽井沢という地名、意外に多いのです。

同じ長野県内の長野市や上田市にも存在し、他県にも秋田県や神奈川県、静岡県ほかで多く見られる地名です。

地名の由来は諸説あるのですが、この付近には峠が多く、峠を登る時には馬から荷物をおろして自分で背負わなければならなかったため、荷物を背負うことを地元の方言で(かるう)と言ったことから、(かるうさわ)となり、これが(かるいさわ)に転じたと考えられています。

さらに、この(かるいさわ)が、明治以降外国人が多く訪れるようになったことにより、外国人にも発音しやすい(かるいざわ)になったといわれています。

他にも、枯井沢(かれいさわ=水の枯れた沢)から転じたという説もあります。

また、軽井沢の特徴の一つといえるのが「南軽井沢」や「中軽井沢」のような、〇軽井沢という地名が多いことです。

これは、中山道の宿場町であった旧街道周辺を「旧軽井沢」、現在の駅周辺を「新軽井沢」と分けたことに始まり、その他の「〇軽井沢」は全て別荘地開発以降につけられた地名です。

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上高地(かみこうち)

・松本市

上高地.jpg
 上高地 河童橋付近

「大正池」や「河童橋」などの景勝地で知られる日本有数の山岳リゾートですね。

上高地はあまりの人気で混雑が激しくなり、昭和五十年(1975年)から夏場はマイカー規制されるようになったほどです。(平成八年(1996年)以降は通年マイカー規制)

上高地の名は、古くは穂高神社の祭神「穂高見命」(ほたかみのみこと)が穂高岳に降臨した「神降地」に由来するといわれています。

その後、「神降地」が土地の地形に則して「神河内」と書かれるようになりました。

河内とは、(山間の渓流にある小さな平地)という意味です。

さらに、江戸時代中期ごろから(梓川上流にある山岳地帯の高地)ということで「上高地」となりました。

上高地の自然を世界に紹介したのは、明治時代のイギリス人宣教師ウォルター・ウェストンです。

上高地では毎年6月にウェストンの功績を称えて「上高地ウェストン祭」が開催されます。

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白骨温泉(しらほねおんせん)

・松本市

白骨温泉は上高地の松本側入り口に近く、「乳白色の湯」として知られる県内屈指の名湯です。

白骨温泉は「三日入ると三年は風邪をひかない」ともいわれています。

地名の由来は、栃ノ木の大きな丸太を湯船として使用し、その内側が温泉の石灰成分により白くなったことから、古くは「白船」と呼ばれていました。

あるいは、湯船に落ちた倒木の枝が温泉の成分で白く染まり、人骨のように見えたので「白骨」と呼ばれることもありました。

その後、中里介山の長編小説『大菩薩峠』の中でこの温泉が「白骨」と表現されたことで現在の呼称が定着するようになりました。

白骨温泉といえば、平成十六年(2004年)に共同浴場などで入浴剤を入れていたことが発覚し騒動になったことがあります。

これは、白骨温泉のウリである「乳白色の湯」が一時期源泉の一部で薄くなっていたため、客足が遠のくのを恐れ、入浴剤を入れて偽装しようとしたのがその理由です。

当時は批判に晒されましたが、天然温泉は条件によって多少色が変化することもあり、温泉の色が薄くなっても効能に変わりはないそうです。

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まとめ

  • 軽井沢
    →荷物を背負うことを地元の方言で(かるう)と言ったことから


  • 上高地
    →「神降地」に始まり、さらに「神河内」から転じて梓川上流の山岳地帯の高地から

  • 白骨温泉
    →温泉の成分により白く染まった枝木が人骨のように見えたことから


ちなみに、芥川龍之介の小説『河童』は上高地および河童橋を題材にしたものです。

2020年02月24日

上下左右が逆? 地名の不思議

地図をよく見ると奇妙なことに気付く時がある

僕は旅行が趣味のため、昔から地図を見るのが好きでした。

特に車を運転するようになってからは、日本各地のいろいろな地図を買い込んでルートを調べたり、抜け道を探したりしました。

ネットが普及してくると、暇さえあればグーグルマップを覗き込んで、行ったことのない場所を見つけては旅行気分を味わっています。

旅行に行ってホテルなどに泊まりテレビをつけると、その土地でしか見られない地方色豊かな番組やCMが新鮮に感じられ、これもまた旅の楽しみの一つだったりします。

そんな僕が新潟県へ行った時、夜にテレビの天気予報を見ていると、新潟の天気は上越・中越・下越と主に3つに地域に分けられて予報が出されていました

しかし、これをよく見ると、地図上では上部の地域が「下越」で、下部の地域が「上越」になっていることに気付きました。
上・中・下越.jpg

これは新潟県以外の方が初めて見たら違和感を感じることではないでしょうか?


このように、地図をよくよく読み込んでみると疑問に思う地名が日本にはたくさんあります。

というわけで、今回は(これ、逆じゃない?)などと感じる地名の不思議について語りたいと思います。

「左京」と「右京」

10月21日付のブログでは、京都の平安京の特徴について紹介し、当時は左京が栄えていたことなどを語りました。

ここでもう一度平安京の配置図を見てみましょう。
平安京.jpg

現在の京都も左京→左京区、右京→右京区になっただけで配置は同じなのですが・・・左右が逆になってますよね?

なぜ右が「左京」で左が「右京」なのでしょうか?

平安京は唐(中国)の長安を手本にして造営されたので、天皇が居住される大内裏も長安に倣い平安京の中央北部に設けました。

そして古代中国においては、「君主は南を向いて政治を行なう」という形が基本とされていました。

すなわち、大内裏から天皇が南を向いた時、天皇から見て左を「左京」、右を「右京」と定めたのです。

この平安京の地図を上下逆さまに見る、つまり大内裏に住む天皇の目線で見れば左右は合っているということになるのです。

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「近江」と「遠江」

旧国名の近江(おうみ)とは現在の滋賀県、遠江(とおとうみ)とは現在の静岡県西部を表わします。

これは「近い」と「遠い」の関係を示しているのですが、この二つの地域に共通しているのは、「湖」があるということです。

近江には琵琶湖、遠江には浜名湖があるので、「江」とは「湖」を指していることがわかりますね。

つまり、「近い湖」が琵琶湖、「遠い湖」が浜名湖ということになるのですが、では、どこから「近い」「遠い」なのでしょうか?

この「近い」「遠い」は京の都を基準としていたのです。

近江は元々「淡海」(あわうみ=大きな湖の意味)と表記されており、昔は琵琶湖を「淡水の海」と見立てていました。

やがて浜名湖と区別するため、京都を基準に琵琶湖を「近淡海」、浜名湖を「遠淡海」と呼びました。

そして「淡海」→「江」になり、「近江」と「遠江」になったのです。

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「上総」と「下総」

旧国名の上総(かずさ)とは現在の千葉県中部、下総(しもうさ)とは現在の千葉県北部と茨城県の一部を表わします。

現在の千葉県は地図上で上から下総、上総、安房と三つに区分けされていました。
上総と下総.jpg

これは上総と下総の位置からして、上下が逆じゃないかと思いますよね?

この場合も近江・遠江と同様の考え方で、地図上の上下ではなく京の都に近い方を上、遠い方を下としたのです。

しかし、これだけでは「なるほど、そうだったのか!」と簡単に納得できないことがあります。

なぜなら、「京都から東海道を通って千葉に行く場合、先に下総を通って上総に入るはずだから、やっぱり京都に近いのは下総の方ではないか?」と思ってしまうからです。

ところが、当時は相模(神奈川県)の三浦半島から船で房総半島に渡るのがメインルートだったのです。

つまり、船で東京湾を渡り、まず上総に上陸してから下総へ向かったので、上総の方が都に近いと考えられていました。

上総・下総の「総」とは「麻」を意味し、この地が麻の栽培に適していたことから「総の国」となり、これを上下に分けて「上総」と「下総」になりました。(※諸説あり)

ちなみに、千葉県を通称「房総半島」と呼ぶのは、安房の「房」と、上総・下総の「総」を合わせて「房総」としたのです。


冒頭に書いた新潟県の上越・中越・下越もこれと同じ理屈であり、地図上の位置関係ではなく都に近い方が上越、遠い方が下越、その中間が中越になったということですね。



まとめ

  • 「左京」と「右京」
    →天皇の住む大内裏から見て左が左京、右が右京


  • 「近江」と「遠江」
    →京都に近い琵琶湖があるのが近江、遠い浜名湖があるのが遠江


  • 「上総」と「下総」
    →房総半島へは渡海するのがメインルートだったので京都から近いのが上総、遠いのが下総


昔は京の都を中心に様々な事が決められていたから、今でも京都の人はプライドが高いんですね。

2019年12月27日

ご存じでした? 実は戦国武将が名付けた地名

〇〇総選挙シリーズってどうなの !?

年末年始になるとテレビでは様々な特番が放送されますが、明日28日にはテレビ朝日で18:56から「戦国武将総選挙」が放送されるみたいですね。

この〇〇総選挙シリーズは、老若男女全ての世代から幅広くアンケートを取った結果、投票の多かった順にその順位を決定しているようなので、戦国ファンの方には一見の価値があるのではないでしょうか。

ただ、僕としては、同企画の「プロレス総選挙」がどうも納得いかない結果だったので、今回もちょっと懐疑的なのですが・・・。

まあ結局、どんなジャンルの総選挙をやっても世代間のギャップは拭えないので、そのジャンルにこだわりや思い入れの強い人にはどうしても不満が残ってしまう結果になりがちなんでしょうね。

僕の予想では、本命が織田信長、大穴では真田幸村あたりが1位になるのではと考えています。(外れたら恥ずかしい!)


さて、今日は地名の由来についてのお話ですが、地名をいろいろ調べてみると、戦国〜江戸時代に命名された地名が意外に多いことに気付きます。

戦国時代は日本の各地域が「独立国」のような状態だったので、戦国大名はさながら“王様”のような立場でした。

なので、自分の支配する地域では絶対的権力を握っていた戦国大名が、土地の命名あるいは改名をすることが多かったと考えられます。

ただ、地名にはいくつかの由来が存在していることが多く、必ずしも戦国大名が名付けたものと断定できない場合もあります。

それでも、戦国大名に由来する地名が現代にも受け継がれていて、しかもそれが県庁所在地になっているとしたら、興味深いものがありませんか?

というわけで、今回は戦国武将が名付けた地名について語りたいと思います。

盛 岡

岩手県の県庁所在地ですが、古来この盛岡は不来方(こずかた)と呼ばれていました。

不来方の由来は県名とも関係しています。

そもそも岩手県の県名の由来は、岩がむき出して見える岩手山に由来するのですが、その岩手山の名称にはある言い伝えがあります。

この地方で悪さを繰り返していた鬼が神様に懲らしめられ、「もう悪さはしません」と誓い、その証としてこの山の岩に手形を押したので、以来この山は岩手山と呼ばれるようになりました。

その後、鬼は二度とこの土地に来なかったので「不来方」という地名になったといわれています。

あるいは、京の都から来た役人がこの地を訪れた際、まるで秘境のような未開の地だったので、誰も来ないような僻地=不来方になったとの説もあります。

慶長二年(1597年)、陸奥(青森・岩手県)を支配していた南部利直が不来方の地に城を築く際、小高い岡に木が生い茂っていた様子から不来方を「森岡」と改め、新しい城を森岡城としました。

その後の元禄四年(1691年)、この地が盛り上がり栄えることを願って森岡を盛岡に改めました。

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仙 台

“杜の都”仙台は宮城県の県庁所在地であり、東北地方唯一の政令指定都市でもあります。

宮城県の県名の由来についても説明しますと、朝廷に貢納された稲の倉庫「屯倉」(みやけ)が「宮城」となったとする説や、奈良時代に蝦夷征討の拠点として多賀城が設置された(11月4日付ブログ参照)ことから、“みちのくの都”として(宮なる城がある地)で「宮城」になったという説もあります。

そして仙台については、いくつかの由来があります。

古いものでは、天台宗の祖である最澄の弟子・円仁(慈覚大師)が東北を訪れた際、この地に千体の仏像を祀ったことに由来する説があります。

また、地形的な条件からこの地が広瀬川や国分川に囲まれているので川内(川の内側)になったとする説もあります。

これら「千体」「川内」などと呼ばれていた地名を改めたのが、“独眼竜”伊達政宗です。

慶長五年(1600年)政宗が青葉城を築城する際、中国の漢詩に因んでこの地を仙台に改めたといわれています。
伊達政宗騎馬像.jpg
 青葉山公園の伊達政宗騎馬像

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岐 阜

県名と同じ県庁所在地・岐阜は、もとは井ノ口という地名であり、古来から畿内〜東国を結ぶ交通の要所でした。

戦国時代、美濃(岐阜県)の守護・土岐氏を下剋上により倒した斎藤道三4月20日付ブログ参照)は、金華山にそびえ立つ山城・稲葉山城を居城とし美濃一国を支配しました。

道三の死後、永禄十年(1567年)に尾張(愛知県)の織田信長が斎藤氏を倒し、美濃を領有します。

斎藤氏に替わり稲葉山城に入った信長は、この地から天下を目指すことを決意したので、古い地名を捨て新しい地名に変えることにしました。

そこで信長は禅僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)に相談し、沢彦が提案した「岐山」「岐陽」「岐阜」という三つの候補の中から信長が選んだのが岐阜でした。

この岐阜という地名は、山に都を置き天下を平定した」という中国の文王の故事と、学問の祖・孔子の生誕地である「曲」(きょくふ)を合わせた言葉といわれています。

つまり、この地名には自らの天下統一と、民が学問に励んで豊かな暮らしができるようにという信長の願いが込められているのです。

信長は井ノ口を岐阜と改め、居城の稲葉山城も岐阜城と改名しました。

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まとめ

  • 盛岡 → 南部利直が不来方から改名(森岡)

  • 仙台 → 伊達政宗が千体・川内から改名

  • 岐阜 → 織田信長が井ノ口から改名


「宮城県」よりも「仙台」の方が全国的な認知度が高いのは、「神奈川県」より「横浜」の方が知名度が高いのと同じ理由と思われますが、横浜市以外の神奈川県民は大いに不満です。(笑)

2019年11月27日

これ読めますか? 京都の地名

難読地名の多い京都

秋の紅葉シーズンもそろそろ終わりですね。

僕も秋にはよく紅葉狩りに行くのですが、ちょうどいい見頃に訪れるのは意外に難しいんですよね。

仕事の都合などもあり、いつでも出掛けられるわけではないので、出掛けられる時に良さそうな場所を探して行くのですが、まだ少し早かったり、もう見頃は過ぎていたりと、なかなかベストな時期に当たることがありません。

今の時代はSNSなどで最新の情報を得られるのでしょうが、それでも自分の行きたい場所や行ける範囲内の場所でちょうどいい紅葉を見るのは難しいものです。


紅葉シーズンといえば印象的なのが、JR東海のCMです。

京都の由緒ある寺院と紅葉のコラボレーションがとても見事でインパクトがありますね。
紅葉の京都.jpg

あのCMを見ると秋の京都に訪れたくなる方も多いと思いますが、その京都の地図や観光案内などを眺めていてふと気になるのは、読み方の難しい地名が多いということです。

“千年の都”といわれる歴史と伝統のある京都ですから、地名にも他の地域にはない深い意味が込められていそうですが、それにしても初見ではまず読めないと思われる地名が多いのです。

今回はその中から代表的なものをいくつかピックアップしてその由来について語りたいと思います。

間人(たいざ)

・京丹後市丹後町

日本海側の丹後半島にある小さな港町である間人は、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)10月28日付ブログ参照)に由来します。

6世紀後半頃、朝廷では日本に伝来したばかりの仏教を巡って蘇我氏と物部氏が激しく争っていました。(崇仏論争)

間人皇女はこの争乱を避けるためにこの地を訪れ、ここを去る時にお礼として自らの名を与えようとしました。

しかし、「そのままの呼び名を地名にするなど恐れ多い」ということで、間人皇女が逃れて居座った(退座した)という意味で、間人を“たいざ”という読み方にして地名にしたといわれています。

また、間人皇女に関わるもう一つの由来もあります。

聖徳太子の弟・麻呂子親王が人々を苦しめていた鬼を退治するため、この地を訪れました。

麻呂子親王は鬼を竹野川の河口まで追い詰め、天から大きな岩を落として鬼を封じ込めました。

鬼を退治した麻呂子親王は、この地で母の間人皇女と会い「対座」したので間人(たいざ)という地名になったともいわれています。

なお、麻呂子親王が鬼を封じ込めたといわれる「立岩」は現在も竹野川河口付近の海岸にあり、立岩の前には間人皇女と聖徳太子の銅像もあります。


間人と聞いて、グルメな方ならピンとくるのが間人ガニですね。

間人ガニとは、間人港で水揚げされた松葉ガニのブランド名のことです。

ちなみに、松葉ガニとは本来ズワイガニのことなのですが、そのズワイガニの中でも島根県沖から丹後半島にかけて生息するものを「松葉ガニ」と呼んでいます

間人ガニは漁獲量が少なく味も良いことから“幻のカニ”といわれています。

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一口(いもあらい)

・久世郡久御山町

この地は承久の乱5月13日付ブログ参照)や元弘の変など鎌倉時代に古戦場となった場所です。

かつてこの地に存在した巨椋池(おぐらいけ)のほとりには小さな村がありましたが、この村は三方を池に囲まれていたため、村の出入口は一箇所しかありませんでした

それが「一口」の起源になったいいます。

では、なぜ一口を(いもあらい)と呼んだのでしょうか?

この巨椋池はかつて疱瘡(天然痘)を治療するために使われた池だったといわれています。

疱瘡は俗語で“いも”と呼んでいたので、疱瘡(いも)を池で治す(洗う)場所という意味で、一口の地名を(いもあらい)と呼ぶようになったといわれています。

なお、この巨椋池は昭和初期に行なわれた大規模な干拓事業により農地になってしまったので、現在はありません。


ちなみに、東京都千代田区に「一口坂」(ひとくちざか)という地名がありますが、ここもかつては(いもあらいざか)と呼ばれていたのです。

戦国時代の武将・太田道灌(8月5日付ブログ参照)が娘の疱瘡の治癒を祈願するため、京都の一口稲荷を分社し、この坂の上に一口稲荷を建立したことから「一口坂」(いもあらいざか)という地名になりました。

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先斗町(ぽんとちょう)

・京都市中京区

鴨川をどり」で有名な先斗町は京都の中でも華やかな歓楽街として今も賑わっています。

この地はもともと鴨川の州だったのですが、江戸時代に鴨川と高瀬川の護岸工事によって埋め立てられ町ができました。

その細長い地形から、ポルトガル語の「先端」を意味するponta(ポンタ)が語源であるといわれています。

この地名が付けられた安土桃山時代から江戸時代初期にかけては、ポルトガルやイスパニア(現スペイン)との南蛮貿易が行われていました。

南蛮貿易がさかんだった地域では、ポルトガル語にちなんだ品物(タバコ、カルタ、コンペイトウなど)や言葉が取り入れられることが多く、先斗町の地名もその一つだと考えられます。


先斗町の由来には他にもいくつか説があります。

鴨川と高瀬川に挟まれた堤のような地形であることから、堤=鼓で、鼓は叩くと「ポン!」と音が鳴ることからぽんとになったというシャレた由来もあります。

あるいはこの町が作られた時、先端である東側ばかりに家が建ち、西側にはほとんどなかったことから、先斗(さきばか)りの町という意味で先斗町という地名になったともいわれています。

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まとめ

  • 間人 → 聖徳太子の母・穴穂部間人皇女が朝廷の争乱から逃れて居座った(退座した)ことから

  • 一口 → 疱瘡(いも)を治す(洗う)池があった場所から

  • 先斗町 → ポルトガル語の「先端」を意味するponta(ポンタ)の語源から


  • いもあらいというと、どうしても『エンタの神様』にトップで登場する芋洗坂係長を連想しがち。(笑)

    2019年10月07日

    ちょっと気になる !? 大阪の地名

    商人の力が強かった “天下の台所”

    以前に「徳川家康に由来する東京の地名」(9月22日付ブログ参照)というのを書いた時に東京の地名は江戸時代以降に名付けられたものが多いことを紹介しました。

    しかし、これは東京に限らず、大阪でも江戸時代に名付けられた地名が多いのです。

    そして大阪の地名の特徴としては、豪商と呼ばれた有力な商人によって開発された場所が、その人物の名前から名付けられています

    その中でも特に多いのが新田開発によって名付けられた地名で、最も有名な鴻池新田(東大阪市)は大坂一の豪商・鴻池善右衛門が開発したもので、鴻池はその後両替商(銀行)となり、現在の三菱UFJ銀行に続いています。

    その他にも市岡(大阪市港区)、平尾(大阪市大正区)、中島(大阪市西淀川区)など、新田開発を手掛けた人物の名前が地名として多数残っています。

    江戸時代、大阪が日本経済の中心地として“天下の台所”といわれた所以は、多くの豪商が活躍し、彼らが大阪の町を開発し発展させたからなのです。
    大阪.jpg

    僕は神奈川生まれの東京育ちで大阪については全く詳しくないのですが、インパクトのある特徴的な地名は以前から気になっていたので、今回は大阪の“気になる地名”について語りたいと思います。

    土地開発者からの地名

    道頓堀(大阪市中央区)
    お好み焼きチェーン店ではありません。(笑)
    最近は「とんぼりリバーウォーク」という遊歩道が整備されて、ちょっとお洒落なイメージになっているようです。
    道頓堀は安井道頓が開削を手掛けましたが、道頓は工事途中に大坂の陣(慶長十九〜二十年 1614〜15年)で戦死してしまったため、跡を引き継いだ道頓の一族が工事を完成させ、開削を手掛けた道頓を讃えて名付けられました。


    心斎橋(大阪市中央区)
    大阪に限らず日本有数の繁華街である心斎橋は、東部は「ミナミ」、西部は「アメリカ村」として有名です。
    心斎橋は長堀川の開削を手掛けた岡田心斎が開削後、長堀川に架けた橋が心斎橋と呼ばれ、橋の名が周辺地域の地名にもなりました。


    淀屋橋(大阪市北区・中央区)
    中之島に多くのビルが立ち並び、大阪を代表するウォーターフロントのオフィス街ですね。
    全国の米相場の基準となる米市を設立した大阪の豪商・淀屋が、米市への交通の利便性を図るために土佐堀川に架けた橋に由来し、心斎橋と同じように橋の名が地名となりました。

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    歴史上の偉人からの地名

    太子町(南河内郡)、太子橋(大阪市旭区)
    両地名とも聖徳太子10月28日付ブログ参照)にちなんだものです。
    太子町には太子が信仰した叡福寺があり、その叡福寺には太子のお墓とされる叡福寺北古墳があります。
    太子橋は太子が寺院を建てる時にこの地で休憩したという言い伝えがあります。


    松下町(守口市、茨木市)、幸町(高槻市)
    これらの地名は、現代でも“経営の神様”と讃えられている松下電器(現パナソニック)の創業者・松下幸之助に由来する地名です。
    幸之助は和歌山県に生まれ、大正七年(1918年)大阪市に松下電気器具製作所を操業、以後大阪を中心に事業を拡大し、一代で松下電器を世界に羽ばたく大企業に発展させた人物です。
    松下町はそれぞれ松下電器グループ企業の所在地があり、幸町は幸之助から一文字もらって付けた町名です。


    阿倍野(大阪市阿倍野区)
    2014年に完成した日本一高いビル・あべのハルカス(高さ300b)で一躍有名になりましたが、2023年には森ビルが高さ330bの超高層ビルを東京都港区に建設予定なので、4年後には高層ビル日本一の座を奪われてしまいます。(泣)
    この阿倍野は、平安中期に活躍した稀代の“陰陽師”安倍晴明が生誕した地であることに由来します。
    また、阿倍野区の晴明通という町名は、安部晴明を祭神として祭った安倍晴明神社があることに由来します。

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    由来が気になる !? 珍地名

    天下茶屋(てんがちゃや 大阪市西成区)
    豊臣秀吉が住吉大社に参拝する際に立ち寄った茶屋があったことから、この茶屋は太閤殿下の「殿下茶屋」と呼ばれるようになり、後に殿下→天下になりました。


    十三(じゅうそう 大阪市淀川区)
    古来からこの地は畿内と西国を結ぶ交通の要所で、淀川には船で荷物を運ぶための渡(船着場)が多数あり、この地にも13の渡があったためといわれています。
    また、淀川の上流から数えて13番目の渡があった場所という説もあります。


    立売堀(いたちぼり 大阪市西区)
    これはちょっと読めませんよね。
    ここは大坂の陣の時、伊達政宗が陣を張った場所から、ここに作った堀を伊達堀(だてぼり)と名付けましたが、伊達を(いたち)と誤読してしまうことが多く、後に材木の立売り業者がこの地に多く集まったことから漢字のみ「立売」をあてたそうです。

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    まとめ

    • 大阪には江戸時代に新田開発を手掛けた人物に由来する地名が多くある

    • 太子町・太子橋→聖徳太子から、松下町・幸町→松下幸之助から、阿倍野→安倍晴明から

    • その他にも大阪には十三や立売堀など興味深い地名が多数ある


    ちなみに、「大坂」が「大阪」の字になったのは明治からで、坂の字が(土に反る)というのを嫌ったためであり、同様に大阪の中心駅・「梅田」も低湿地帯を埋め立てたので元は「埋田」でしたが、これも縁起が悪いとされ、埋→梅と改名したそうです。
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    カナケン
    元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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