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2021年05月28日

映画『スタンド・バイ・ミー』 裏に在った「悲し過ぎる実話」




  子供同士の絆 思春期の〔痛み〕を描く名作

 『スタンド・バイ・ミー』裏にあった「悲し過ぎる実話」

 
 文春オンライン 5/28(金) 11:12配信


  ※ ネタばれ注意!


 「初めて死んだ人間を見たのは12歳の時だった」 ・・・そんなドキッとするモノローグで物語が始まり、主人公と為る少年4人がひと夏の冒険として選ぶのは死体探し。
 『シャイニング』『IT〔それ〕が見えたら、終わり。』等で知られるホラー文学の大家スティーヴン・キングの小説の映画化作品ならではと云った『スタンド・バイ・ミー』だが、1987年の公開から青春ドラマの大傑作として愛され続けている。




 〔あの頃の自分〕と重ねてしまう事が出来る映画



 5-28-20.jpg
 
    コピーライトマーク1986 COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES, INC. ALL RIGHTS RESERVED.5-28-20


 木の上に作ったアジトで毎日を過ごす12歳のゴーディ(ウィル・ウィートン)・クリス(リバー・フェニックス)・テディ(コリー・フェルドマン)・バーン(ジェリー・オコネル)・・・ジュニアハイスクール(中学校)への進学を迎え様とする夏の終り、バーンが「死体を見たくないか?」と持ち掛ける。行方不明に為って居る少年の死体が線路側の森に横たわって居ると、彼の兄と仲間が話して居るのを耳にしたのだ。  

 一番に死体を発見すればヒーローに為れると線路を歩いて探しに出るゴーディ達だが、町の不良エース(キーファー・サザーランド)等も死体を見付け様と動き出す。時代は1959年・場所はオレゴン州(原作ではメイン州)の小さな町。
 馴染みが有るとは言い難い舞台設定だが、何故か映し出されるもの全てに猛烈なノスタルジーを感じて仕方が無い。  

 大きく太い枝が張った木の上に建てられたアジト・アジト内に転がるコーラの空き瓶・置かれたラジオ・タバコを吹かし乍ら興じるトランプ遊び・陽炎が揺らめく中何処迄も続く線路を歩く少年達。死体探しと云う、子供に取っては破格の冒険。
 アジトもタバコも線路に入って歩いた事も無いし、死体を探しに行った事等在る訳が無い。どちらかと云えば、郷愁では無くて「こんな事遣ってみたかったな」と云う憧憬(どうけい)なのかも知れない。

 でも、拡大解釈すれば、全く同じでは無くても似た様な経験はした事があるだろう。学校が終わると皆で集まった友達の部屋。そこで持ち寄った美味い棒やポッキーを貪り食いながらファミコンに興じ、早売りしている店で誰かが買って来た「週刊少年ジャンプ」を貪り読む。
 陽炎(かげろう)が揺らめく中、チャリンコで急勾配の坂を猛スピードで駆け下りる。チャリンコで行けるとこ迄行ってみる、大したこと無いがそれ為りにワクワクする冒険。そんな思い出が一つ二つあり、仲の良い友達が数人居ただけで〔あの頃の自分〕と重ねてしまう事が出来る映画なのだ。

 「舞台は田舎だが、都会の人が見ても感情移入出来る」
 「4人の少年の心の交流や絆は自分達にも経験がある」
 「環境の違いは在っても12歳を共に過ごした友達を皆忘れ無い」
 「少年同士の強い絆には万国共通の普遍性がある」


 と監督のロブ・ライナーも語って居るがその通りだと思う。

 冒険を機に見えた 友達との「境界線」
 
 しかし、観ていて本気で響くのはそうした表層的なノスタルジーの数々では無い。10代の初めに感じ出す痛み・嫌がおうにも突き着けられる現実と云った深層的ノスタルジーとでも云うべきものなのだ。スティーヴン・キングは

 「愉快な話が多いが悲しい話もある」
 「子供の頃の思い出を何とか一つの物語にまとめられ無いかと長年考えて居た」


 と原作に付いて語って居るが、映画でも愉快な話よりも悲しい話の方が多い様に思う。 ゴーディは、大好きな兄を亡くした上に、彼を偏愛して居た親に疎外されて居ると感じて居る。クリスは、酒に溺れて暴力を振るう父・エースとつるむ不良の兄と暮らして居る事から、周囲から白い目で見られて居り、自身も兄や父と同じ道を辿るものだと考えて居る。
 テディは、戦地で負ったトラウマで精神を病む父親に、熱したコンロで耳を焼き潰された過去が在り乍らも彼を深く尊敬して居る・・・既に皆が背負って居るものが辛くて悲しいのだ。

 そんな彼らが森の中で体験した様々な出来事を通じ、改めて自分と向き合い、友達が抱いて居る負の感情や苦しみを目の当たりにし合うのだ。深夜、見張りをするクリスの隣に座り込んだゴーディが「(中学では)僕と進学組に入ろう」「君は勉強が出来る」と誘う。
 だが、クリスは「在り得ないね」「ムリだ」「皆家庭で判断するからさ」「僕は家庭が悪い」と答え、彼の家柄が引き起こした、給食費泥棒を巡る事件を語り出すシーンには居た堪れなく為ってしまう。  

 更にホロ苦さを感じて止まないのが、何時までも続くと思って居た友情や関係に終わりが近付いているのを悟ってしまう点。薄々とは感じて居た友達との間に在る線みたいなもの、友達とは一緒に歩いていけ無い道みたいなものがハッキリと浮かんで來る。  
 焚き火を囲み、作家を夢見るゴーディが〔パイ食い大会に参加した肥満児が、飛んでも無い方法で自分をバカにする連中に復讐する〕話を語って聞かせる。クリスは満足した様子で聞き終えるが、テディは「それで? どう為った」と話が終わった事が理解出来ず、バーンは「彼、競技の参加費は?」と気にしなくて好い部分に拘り出す。

 それを受けて戸惑うゴーディの表情には、何だか胸が締め付けられる。友情が変わる決定打と為るのが、少年の死体を前にエース達と出食わすシーン。死体は自分達のものだと迫るエース、絶対に渡さ無いと動こうとし無いゴーディ達。
 エースがナイフを取り出すと、テディとバーンは一目散に逃げ出して何処かに消えてしまうが、クリスとゴーディは絶対に引か無い。対決が終わり、シレット戻って来たテディとバーンを一瞥するクリスの眼には彼等に対する、怒り・呆れ〔もう、此奴らとは一緒に遣っていけ無い〕と云う悟り等が混じって居る気がして為ら無い。

 大人になったゴーディのモノローグで4人の〈その後〉が語られるが、そちらも矢張り寂しいものがある。(原作では皿に過酷)

 「足った2日の旅だったが町が小さく違って見えた」とも彼は語るが、友達に関してもそれ迄とは違って見える様に為ったのだ。 筆者も小5辺りから、中学受験をする友人らに〔もう、此奴の相手なんかしてられ無いな〕みたいな接し方をされたし、その親達からも〔うちの子に近づかないでくれる?〕みたいな圧を感じた。
 死体を前にしたシチュエーションとは比べものに為ら無いが、友達との間に線が浮き出したのを覚えて居る。オマケに地元中学の入学式で受験に失敗した彼等の一人と再会、これはこれで又辛いものがあった。  

 楽しかった思い出は決して忘れ無い。でも、ホロ苦い思い出・辛い思い出・怖い思い出はそれ以上に忘れ無いし、楽しい思い出よりも抜くのが簡単では無い処に迄刺さってしまって居るものが多い。だからこそ、愉快な話よりも悲しい話の方が多い『スタンド・バイ・ミー』に心が共鳴してしまう。

 物語のルーツは作者の実体験
 
 原作を生み出すルーツの一つと為って居るのは、4歳のキングが体験した出来事だ。そちらも、全く持って愉快な話では無い。

 〈母によると、私は近所の友達の家へ遊びに行った・・・鉄道線路の側の家だった。 出掛けてから一時間程経って、私は一人で自宅に戻った。(と母は云った)幽霊の様に血の気の失せた顔をして居たらしい。オマケに、その日はそれからズッと一言も口を聞か無かったと云う。
 どうして友達の家で迎えを待た無かったのか「迎えに来て」と電話をし無かったのか、私は言おうとし無かった。どうして友達の母親が私を送りもせずに一人で帰したのかも言おうとし無かった。  

 実はその友達は、線路の上で遊んで居たか線路を渡ろうとしたかして貨物列車に轢かれたのだ。(何年も経ってから母が話して呉れた処では、四散した遺体をヤナギ細工のバスケットに拾い集めたそうだ)事故は私がその子の側に居た時起きたのか、その子の家へ行く前に起きたのか、ハタマタ事故が起きたから私がフラフラ一人で戻ったのか、詳しい事は遂に判らず仕舞いだった。
 母は母為りに色々考えた筈だ。そして私はと云えば、既に述べた様に、事故とやらのことはマルで覚えて居ない。そう云う事が在ったと事故から数年後に聞かされた記憶があるだけだ〉『死の舞踏』スティーヴン・キング 訳 安野玲 ちくま文庫


                ◆  ◆  ◆


【参考資料】 『『死の舞踏』スティーヴン・キング 訳 安野玲 ちくま文庫 コレクターズエディション』(ソニー・ピクチャーズエンタテインメント) 『死の舞踏』(スティーヴン・キング、訳:安野玲、ちくま文庫) 『スティーヴン・キング 恐怖の愉しみ』(風間賢二、筑摩書房)


 作 平田 裕介



 〜管理人のひとこと〜
 
 スタンド・バイ・ミーとは違う作品だったのか、少年達が宝物の様に死体を大切にして守ろうと戦うお話が在ったと思う。マークトウェインのトムソーヤかハックルベリーフィンでは無かったかと記憶するが、全く違うかも知れない。何故、人間の死体がこんなにも大切にされたのか理解できず、少年とは大人とは異なった価値観を持つものだと感じたものだった。サテ、東北地方では(東京でも同じかも知れないが)今夜の金曜ロードショーでこの「スタンド・バイ・ミー」が放送される。楽しみに観ようと考えていたのだが・・・どの様な感想を得られるのか・・・随分昔に観た事が在る筈なのだが・・・

                  以上


















「ドン・ファン元妻」起訴 無期懲役も十分あり得るワケと裁判闘争の行方




 「ドン・ファン元妻」起訴 

 無期懲役も十分あり得るワケと裁判闘争の行方


 
 ディリー新潮 5/25(火) 6:02配信




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        殺害の直接証拠を得られていない中で逮捕された・・・須藤容疑者


 殺害の対価を想定していたのか?

 和歌山地検は5月19日「紀州のドン・ファン」と呼ばれた会社経営者・野崎幸助さん(当時77歳)が急性覚醒剤中毒で殺害された事件で、元妻の須藤早貴容疑者(25)を殺人罪と覚醒剤取締法違反(使用)で起訴した。長期化が予想される裁判では厳しい判決が予想され無期懲役も十分あり得ると云う。

 社会部デスクによると「須藤被告は逮捕時に容疑を否認して以降、黙秘を続けて居る様です。地検は〔殺害を立証できる証拠が集まった〕としていますが、須藤被告が野崎さんに覚醒剤を飲ませたと云う目撃証言も無ければ映像などの直接的な証拠も無く、覚醒剤を口から摂取させたのか否かなど具体的な方法なども特定できていないのは事実です」  

 殺害の直接証拠を得られていない県警と地検が描くストーリーは以下の通りだ。

  事件の約3カ月前と為る18年2月に結婚した際の条件は、野崎さんが須藤被告に月100万円を渡すこと。しかし須藤被告は結婚後も和歌山・田辺市内の野崎さんの自宅には常駐せず主として都内で生活していた。
  野崎さんは須藤被告に関する不満を周囲に漏らす様に為り、被告と激しく口論する姿も目撃された。結婚式は須藤被告が嫌がった事でキャンセルされ、3月末頃には離婚話が持ち上がった。


 どう遣って覚醒剤を飲ませたかの立証
 
 ストーリーを続けると、

  須藤被告のスマホを解析し、覚醒剤の密売人と同じ時間・場所に居た事を示す位置情報も突き止めた。事件前、野崎さんから離婚話を切り出されて居た事も含め、2人の関係悪化や13億円に上る遺産が殺害の背景にあるとみている。
  野崎さんには愛犬の葬儀を営む予定があり自殺の動機は無く、覚醒剤を常用して居た痕跡もない。
  当時、覚醒剤を混入出来たのは須藤被告かお手伝いさんのどちらか。お手伝いさんには事情聴取などを通じ絶対に犯人では無い事が分かった。従って、須藤被告以外に覚醒剤を混入する機会がある人物はいない。


 先の社会部デスクは地検はこれ迄県警の捜査結果に納得して居なかったのですが、密売人と接触して居た可能性が極めて高い事がスマホの解析結果から割り出された事で逮捕にゴーサインを出しました。とは云え、起訴容疑を立証出来るかと云うと十分では無いと指摘する声もあります」  

 と話す。その〔慎重な見方〕について紹介してもらうと「密売人が証言台に立ち、須藤被告が密売人から覚醒剤を入手した事は立証出来る可能性は高いかも知れません。しかし、それを野崎さんに飲ませた具体的な方法を解明出来ないなら、どう遣って殺害と結美つけるのか難しい案件にも見えますね」  

 県警は野崎さんの遺体に加えて、台所の床と掃除機から微量の覚醒剤を検出しているが、それらが同一であることを証明することは難しい。更に「本当に須藤被告以外に覚醒剤を飲ませる事は出来なかったのか」と云う点についても 「本当に完全な密室だったのか・・・第三者が入室して犯行に及ぶ可能性について突っ込まれた際に、それを完全に潰せる材料があるのか・・・と云う専門家の見方も無い訳ではありません」

 詐欺事件に和歌山県警の執念
 
 その一方で、或るヤメ検弁護士(検察官から弁護士に転じた)は、この記事に注目したと云う。

 〈和歌山県警は19日、札幌市の知人男性から現金約1,170万円を詐取したとして、資産家殺害事件で起訴された元妻・須藤早貴被告(25)を詐欺容疑で再逮捕した。関係者への取材で分かった。再逮捕容疑は平成28年1月18日 札幌市内で、トラブル解消の慰謝料名目などで当時61歳だった知人男性に約1,170万円を自身の口座へ振り込ませ、詐取したとしている〉(産経新聞2021.5.19)  

 図らずも起訴と同日の詐欺容疑での再逮捕である。当のヤメ検弁護士に見解を聞くと、

 「野崎さんとは違う男性に関して、詐欺での再逮捕と云うのは和歌山県警の執念を感じさせました。今回は裁判員裁判の対象と為りますが、その場合、覚醒剤・殺人・そして別件とは云え詐欺と云う事件に関与した人物の量刑は重く厳しいものと為って居ます」  

 勿論、裁判所の心証は悪く為り勝ちだ。 「検察側は、野崎さんとは慰謝料目当ての結婚で離婚を切り出されて得られる筈の慰謝料が手に入ら無い事を恐れて犯行を思い立ったと云うストーリーを描いて居る訳ですが、この詐欺事案は〔お金が無い状態で詐欺を働く女性〕だと云う印象付けとして効果的です。単独では起訴が難しそうな案件であっても、殺人とセットにされると裁判員裁判で被告人は詐欺を否認し難い部分があります。腕の良い弁護士がつかないと無期懲役は十分にあり得ると思います」

 荒唐無稽なストーリーも用意か

 須藤被告には差し当たって、和歌山県内の国選弁護人が着いて居ると云う。

 「それが良く無いとは言いませんが、何処迄積極的に遣って呉れるか。3年間、県警の任意の事情聴取に否定を続け、逮捕後の取り調べでも否認や黙秘を続けて居ると云うのは、心証が悪過ぎて彼女を庇う人は居ない。報道を見て居ると〔下着を洗濯すると云う感覚も無く、後でゴミとして捨てて居た〕と云った証言や長くて綺麗なネイルでスマホを弄って居る映像が頻繁に流れていましたが、勾留生活に耐えられるとは思えず、証拠が開示された後、弁護士の何らかの説得に応じる可能性はあるかも知れません」  

 それは兎も角、須藤被告は公判で様々なシナリオを展開することも想定されている。

 「例えば〔夫婦の危機だと夫は言って居たかも知れないが、夫婦の事は2人にしか判らない。夫婦の危機を回避する為に覚醒剤を介しての性行為を提案して快諾を得た。摂取方法はカプセルで全て同意の元で行われたが、予想外の反応で死に至った〕等と云った論理を展開するかも知れませんが、そう云った事は検察も織り込み済みで、裁判員裁判の構成員と為る一般市民にも〔荒唐無稽〕と一蹴される可能性が高いでしょう」  

 カネ目的の結婚が夢破れそうに為ったから殺害に至ったと云うストーリーはとても判り易いだけに、裁判員裁判と為る地裁判決は無期懲役に為る可能性は十分ある。焦点は高裁での判断と言えるかも知れない。


 デイリー新潮取材班  2021年5月25日  掲載 新潮社





  和歌山地検が「紀州のドン・ファンの兄に聴取」その中身


  FRIDAY 5/28(金) 11:02配信



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 事件後の早貴被告は、本誌の取材に「絶対に殺していない」と断言し、動揺した様子は全く見せなかった


 「離婚が成立し、遺産が得られ無く為る事を怖れて殺害した・・・」

 ・・・和歌山地検はこの筋書きを裏付ける為に躍起に為って居る様だ



 5月19日に「紀州のドン・ファン」こと資産家・野崎幸助氏(享年77)を殺害した容疑で起訴された元妻の須藤早貴被告(25) 検察は逮捕直後から野崎氏の関係者を次々に呼び出し聴取を行っている。野崎氏の実兄・豊吉さんが言う。

 「逮捕後すぐに検察から『事情をお聞きしたい』との連絡があって、5月2日に田辺市内の検察支所に出向きました」

 豊吉さんは80歳を超える高齢だが、取り調べの内容は鮮明に覚えている。

 「早貴さんとは何回会いましたか?」

 約2時間に及んだ聴取の冒頭、検察官はそのように尋ねたという。

 「彼女の性格とか私が受けた印象を聞きたがっているんだなとわかりましたが、答えようがありませんでした。私が(早貴被告と会ったのは)事件後が初めて。通夜や三回忌などで3〜4回です。親しく言葉を交わしたことがなかったので、検察官にはその旨を答えました」

 豊吉さんの他にも、横浜市に住むドン・ファンの実妹や十数年前に結婚していた前妻なども呼び出され、同じように早貴被告の印象を聞かれたという。

 「検察としては、来る裁判員裁判に向けて早貴被告の印象を固めたいんでしょう。殺害の直接証拠がないというのはどうやら事実のようです。犯行が可能な時間に自宅にいたのが早貴被告だけという状況証拠のみで公判を維持するためには『悪印象』を集めた調書の提出が不可欠だと考えているのかもしれません」(全国紙検察担当記者)

 野崎氏が経営していた酒類販売会社『アプリコ』の元監査役である元畑眞氏は、早貴被告の世話役も務めていた。元畑氏にも当然検察から連絡があった。

 「5月18日までに4回呼ばれました。どうやら会社の従業員全員が呼ばれているみたいでした。一回の聴取はだいたい2時間弱です。私の場合、検察官は早貴の性格よりも、社長(野崎氏)と早貴の夫婦関係をしつこく聞いてきましたね。
 『野崎氏は離婚を考えていたか?』という質問が繰り返しありました。この質問に答えるのは難しかったですね。というのも、社長は『あの女(早貴被告)とは離婚する』と言ったかと思うと、その直後に早貴の気を引くためにケーキを買ってきたりする人なんです。だから離婚を望んでいたかを第三者が判断するのは難しい。そのことを繰り返し説明しましたが、検察官は『いつから離婚を口にしたのか、日時は?』と。そればかりでした」


 野崎氏が亡くなる直前に夢中だった「ミス・ワールド」と呼ばれる愛人についても、検察は質問を重ねたという。

 『ミス・ワールドと結婚する』という社長のセリフについて、検察官は『いつ言いましたか?』と。社長はミス・ワールドと結婚したくなって早貴に対し離婚を口にした、離婚を恐れた早貴が社長を殺した、という筋書きを検察は作りたいんだなと感じました」(同前)

 一方の早貴被告は否認を貫いており、徹底抗戦の構えだ。果たして裁判は検察の筋書き通りに進むだろうか。


 『FRIDAY』2021年6月4日号より FRIDAYデジタル





 〜管理人のひとこと〜

 最近、この事件は余りTVにも取り上げられない。それ程進展が見られないのかも知れないのだが、今でも須藤被告は否認し続けているのだろうか? 25歳の身で一人留置されている状況とは一体どの様な状態で居られるのか・・・実に案じられるのである。

     5-28-8.jpg

 彼女の過去の色々な状況がポッポっとメディアに出されるが、東京でホスト遊びをして金に困りAV嬢として何本かの作品に出演した・・・との事で、早速〔須藤早貴〕として探した処、彼女らしいAVに辿り着いた。無論修正済みの古い作品だったが、ナカナカ好くできた作品だった。本名の出演で在り、或る程度の資金回収は可能だったでは無かろうか。
 彼女がどの様に生活費を稼いだのかは彼女の自由であり違法では無い。そして「月100万」の条件で結婚してもだ。そんな或る意味恵まれた生活を「殺人」という事件を起こして迄捨て去る意味だ・・・無論老人との生活が余りにも残酷な仕打ちを受けていたとかの話なら別だが、お手伝いさんも居て快適? で普通の生活と思われるのにである・・・彼女にそんなに欲望が大きかったとは思えないのだが。


                  以上
















田原総一朗「竹中平蔵氏に大批判 その異常さを日本は受容出来無い」




  田原総一朗「竹中平蔵氏に大批判」

 「その異常さを日本は受容出来無い!」




  連載「ギロン堂」田原総一朗 2020.12.2 07:00 週刊朝日



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        ジャーナリストの田原総一朗さん(c)朝日新聞社 5-26-30



 
 〜菅政権の「成長戦略会議」メンバーの竹中平蔵氏が各所から批判を浴びて居る。その状況に付いて、ジャーナリストの田原総一朗氏は米国や英国の2大政党が掲げる政策の役割と云う文脈で読み解く〜


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 稀代のペテン師・大掛かりな政商・・・自信の無い為政者を絡めとる錬金術師・二十面相と云われる人


               *  *  *

 
 先日「サンデー毎日」佐高信氏と対談した。テーマは竹中平蔵と云う人物に付いてであった。菅義偉首相は内閣の柱として、竹中氏を中核とする「成長戦略会議」なる組織を設置した。
 安倍前政権下で成長戦略を担った西村康稔氏を担当相とする経済政策は問題ありとして全面的に対抗する為である。佐高氏は、その竹中氏を「弱肉強食の新自由主義者で、危険極まり無い」と批判して居る。

 気に為るのは、此処へ来て竹中氏が各所から集中砲火的に批判を浴びて居る事である。例えば、文藝春秋の12月号では、藤原正彦氏の「亡国の改革至上主義」なる竹中氏批判が大きな売り物に為って居るが、藤原氏は安倍前首相を「戦後初めて自主外交を展開した」と絶賛して居るのである。
 その藤原氏が、竹中氏を「小泉内閣から安倍内閣に至る二十年間に渉り政権の中枢に居て、ありとあらゆる巧言と二枚舌を駆使し、新自由主義の伝道師として日本をミスリードし、日本の富をアメリカに貢いで来た、学者でも政治家でも実業家でも無い疑惑の人物」として批判している。

 更に、中央公論でも神津里季生(こうづりきお)・中島岳志(なかじまたけし)の両氏が新自由主義者だと批判し、週刊朝日でも竹中氏が主張するベーシックインカムは「経済オンチ」だと厳しく批判して居る。又、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した佐々木実氏も、著書で竹中氏を「日本で最も危険な男」と描いている。
 こうした集中的な竹中氏批判を読んで、私は坂野潤治(さかのじゅんじ)氏の言葉を思い出した。坂野氏は近代史の研究者として、私が最も信頼している人物である。

 米国や英国には2大政党がある。米国には共和党と民主党があり @共和党は生産性を向上させる為に自由競争を重視する。だが、自由競争が続くと勝者と敗者の格差が大きく為り、生活が苦しく為る敗者が圧倒的に多く為る。
 そこでA民主党政権に為る。民主党は格差を縮める為に多くの規制を設け、多数の敗者を助ける為に大規模な社会保障を設ける。だが、規制を設けると経済が低迷し、社会保障の規模を大きくすると財政事情が悪化する。Bそこで次の選挙では共和党が勝つ。@  A  B  @・・・の繰り返し。言ってみれば、共和党は小さな政府・民主党は大きな政府で、それが順番に政権を取って居る。英国も同様だ。

 坂野氏によれば、日本は自民党も野党も大きな政府で、野党は自民党を批判するだけで政策ビジョンを持って居ない為に、自民党政権が続いて居ると云うのである。自民党の田中派・大平派等は典型的な大きな政府だった。
 処が、経済が悪化して財政事情が極めて悪く為ったので、小泉内閣は思い切って小さな政府に転換した。それを仕切ったのが竹中氏だったのである。

 スローガンは「痛みを伴う構造改革」で少なからぬ拒否反応が出た。更に、経済悪化の中で、日本の企業は正社員をリストラ出来無いので、非正規社員を雇用出来る様に法改正した。これが後に批判の的と為った。
 言ってみれば、野党は勿論、保守層に取っても竹中氏の小さな政府は異常であり、受け入れられ無いのだ。詰り、竹中氏批判は「大きな政府を変えるな」と云う事なのではないだろうか。


 ※週刊朝日  2020年12月11日号



 〜管理人のひとこと〜

 竹中平蔵氏の悪口なら、日本中、嫌、世界中に溢れ返って居るだろう。何が悲しくて今回も彼の名前が・・・と多くの無垢な国民は思って居る。小泉政権下での悪行・・・日本を三流国家・経済的下流国家へと貶めた中心人物であり、現在の菅首相の教師的な人物である。
 構造改革・規制改革と銘打って幾多の法律を弄って来たが、その全ての関係組織に入り込み考えられるだけの個人的利益を吸い上げる・・・それも如何にも合法的にだ。その尻尾が生き残り問題となったのが、安倍氏の「モリカケ」問題なのだ。
 この様な悪の土壌・温室を作り上げたのが彼の勲章で在り、政府首脳が必要とする「錬金術師」たる所以だ。彼を処断し国外へ排除する事が必要なのだが、魔女・悪魔の持つ強力な魔法に守られて確りと根を張っている。彼を調べると、田中角栄氏はまるで赤ちゃんの様な汚れ無さなのである。恐らくこの様な悪人は、二度と日本には現れない稀有な人物なのだ。どうしてこの様な人物が生まれたのだろうか・・・


                  以上

















継体天皇が「東」から遣って来た理由・・・




 継体天皇が「東」から遣って来た理由・・・


5-27-6.gif5/27(木) 11:55配信 5-27-6



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 『日本書紀』によれば、初代神武天皇は西の九州から遣って来た。しかし、多くの歴史学者が今上天皇の直系と考えるのは26代継体天皇は、何故東(越の国)から即位出来たのだろうか。5-27-5


 『日本書紀』によれば、初代神武天皇は西の九州から遣って来た。『日本書紀』には明らかに東軽視の態度が見られる。 しかし、多くの歴史学者が今上天皇の直系と考えるのは26代継体天皇だ。何故継体天皇は東(越の国)から即位する事が出来たのか? 6世紀初頭の古代日本国家は何を目論んで居たのか? 〜

 本稿は、関裕二著『地形で読み解く古代史の謎』(PHP文庫)を一部抜粋・編集したものです。


〔東の王〕継体天皇登場の謎

 初代神武天皇は九州から遣って来たと『日本書紀』は云う。だから、天皇家の故地と云えば九州と思われ勝ちだ。しかし、第26代継体天皇は6世紀初頭に東から遣って来て居る。しかも通説は、継体天皇を新王朝の祖と考えて居た。又継体天皇の血統は今上天皇まで続いて居るのだから「天皇家は越(北陸)=東から遣って来た」事に為る。
 処が『日本書紀』を編纂した8世紀の朝廷が「天皇家の故地である東を嫌って行く」から不可解極まり無いのだ。ここに、天皇と日本史の大きな謎が隠されて居る。そこで先ず「何故、継体天皇は東から遣って来たのか・・・」その事情を明らかにして置こう。

 『日本書紀』には、詳細な説明が記されて居る。継体天皇はヤマトの地理を考える上でも重要な意味を持って來るので詳しく紹介して置く。
 継体天皇(男大迹王・おおどおう)は、第15代応神天皇の五世の孫だ。(皇族としての血は極めて薄かった事に為る)父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)で母は垂仁天皇7世の孫・振媛(ふるひめ)である。

 継体は近江国高島郡の三尾(みお・滋賀県高島市)の別業(別邸)で生まれた。父が容姿端麗な振媛を三国坂中井(福井県坂井市)から近江に呼び寄せ迎え入れて妃にしたのだった。 処が早くに彦主人王は亡く為ったので、振媛は幼い男大迹王(継体)を連れて故郷の高向(坂井市丸岡町)に帰った。こうして男大迹王は越で育てられるのである。
 ちなみに、彦主人王の住んで居た三尾と云う土地は交通の要衝だった。日本海側の若狭から若狭街道の低い峠を越えて来れば三尾に出る。敦賀とも陸路で繋がって居る。日本海と関わりを持つのに丁度良い場所だったのだ。

 嫁取りは「美人だったから」『日本書紀』は云うが、実際には彦主人王が日本海に関心を持ち、政治的に繋がって行こうと考えたのだろう。 5世紀後半から6世紀初頭に掛けて、越の一帯はヤマトには無い様な先進の文物が集まる場所に変貌して居たのだ。日本海の流通が活発化して居た訳で、ヤマトが越の王を連れて来たのも、日本海の発展と大いに関わりがある。
 最も、男大迹王がヤマトに求められた理由を『日本書紀』は次の様に説明する。即ち、第25代武烈天皇は酒池肉林を繰り広げ悪政を布いた事、しかも子が無かったから後継者が途絶えたのだと云う。
 だから継体元年(507)に、樟葉宮(くすのきよう・大阪府枚方市楠葉)で男大迹王は即位したのだ。 5世紀後半は中央集権国家への歩みが始まり、だからコソ、主導権争いや反動勢力の跋扈(ばっこ)もあり、王家は混乱し王統は途切れてしまった訳だ。そこで男大迹王に白羽の矢が立てられたと云う訳である。

 継体が育った福井は東日本の文化圏

 三王朝交替説を唱え一世を風靡(ふうび)した古代史学者の水野祐(みずのゆう)は、継体天皇を新王朝の祖と見做し多くの史学者が賛同して居た。しかしその後、様々な考えが提出され「越の王がヤマトを征服したのでは無く、入り婿だったのではないか」とする説が有力視される様に為って来た。
 福井で育てられたと云う話も何やら暗示的だ。福井平野は東と南側が山で遮られて居る。これも地理の盲点で、福井県と云えば目の前が海と云うイメージが強いが、福井平野の西側も山で塞がれて居て、海から見ると「崖の連続」なのだ。

 しかも、近畿地方に通じる陸路(木ノ芽峠・きのめとうげ)は意外な難所で、木ノ芽峠の直下に位置する敦賀市から福井平野に繋がる北陸本線の北陸トンネルは長さ1万3,870メートルもある。昭和37年(1982)に開通した当時日本最長を誇って居た。
 トンネルが開通する前の北陸本線は名実共に難所で、スイッチバック4か所・勾配25%で時間をロスして居たのだ。一帯は豪雪地帯でもあり、鉄道が通る前はこの山塊が大きな壁に為って居た。隣接して居るのに、近江や近畿地方とは異なる文化圏に属して居たのだ。

 民俗学者の大林太良は、現代日本の日本海の民俗を、凡そ次の様に括って居る。(大林太良『東と西 海と山』小学館)

(1)青森県から新潟・富山県境(東北と共通する文化圏)
(2)富山県から福井県中部(東日本的色彩が濃い)
(3)福井県西部から鳥取・島根両県境(共通の信仰の分布地域)
(4)島根・山口両県(東北から西南に向かった文化圏の西限)
(5)北九州(本州島の日本海側の文化圏とは異なる)

 (3)の福井県西部とは敦賀市から西側を指して居る。福井平野は西の地域に接して居るのに、峠が壁と為って東寄りの文化圏だった事が分かる。ヤマト政権から見れば、大軍を送り込んでも峠で跳ね返されると云う厄介な存在でも在ったのだ。

 福井の発展と三国の重要性

 福井平野を俯瞰(ふかん)すれば「子宮」の様な形をして居て、近畿圏とは隔絶(かくぜつ)されて居る事が分かる。そして、男大迹王が育った三国は、敦賀から船を出して最初に辿り着く港である。 三国と云ってもピンと来ないかも知れないが、刑事ドラマに好く登場する東尋坊の在る場所と云えば分かり易いだろう。
 福井と西を繋ぐ陸路は不便だから海上交通を利用しただろう。その場合、三国から出た船は、敦賀(角鹿・かどしか)に向かった筈だ。敦賀湾は天然の良港で、奥羽・北陸地方と畿内を結ぶ水運の要だった。七里半越(しちりはんこし)・塩津街道の二つの陸路を経由して琵琶湖北岸の海津・大浦・塩津(かいづ・おおうら・しおつ)に通じて居た。此処から更に船を出し琵琶湖最南端の大津に繋がって居たのだ。
 三国も、敦賀との関係を見なければその地理的な意味は理解出来ない。詰り、福井平野は陸路では不便だったが海の道は確り確保されて居た。福井発展の要素は海からもたらされたのだ。

 処で、福井の古代史は殆ど知られて居ないのが実情である。只一時期、越を代表する地域だった事は間違い無い。石川県や富山県では銅鐸(どうたく)が全く出て居ないが福井県では9個出ている。北陸地方の前方後円墳の半分は福井県に集まって居て、九頭竜川(くずりゅうがわ)流域の丸岡・松岡周辺に密集地帯がある。
 4世紀後半から6世紀半ばに続く越の王の眠る古墳群だ。しかも、これだけ長く同一の系譜が想定される古墳群は珍しいのだと云う。

 何故この時代、福井は発展したのだろう。理由は幾つも推理されて居る。九頭竜川流域で米の生産量がこの時期飛躍的に高まって居た事や、若狭から敦賀に掛けての塩業が当たったのではないかとも考えられて居る。
 敦賀や三国の潟(天然の良港)を利用した交易・鉄の増加・馬との関わり等も指摘されて居る。男大迹王の「おおど=をほど」は「ホト(火処)」を指し、鍛冶の炉の意味ではないかと推理し、男大迹王を鍛冶王と見做す考えもある。

 何れにせよ、日本海沿岸屈指の天然の良港・三国無くして福井は語れ無いのだ。そしてだからコソ、男大迹王の母は三国と大いに関わって居たのだろう。 近畿地方との交流は陸路が不便だった分、余計に三国が重要な意味を持って居た。そして、福井平野の諸勢力は、近畿地方と文物の遣り取りをしながら、独自の文化を育んで行ったのだ。



     5-28-3.jpg  関裕二 歴史作家





 皇統断絶の危機 

 武烈天皇(第25代)から継体天皇(第26代)への皇位継承



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              吉重丈夫 2019年06月28日 公開

 吉重丈夫(よししげ たけお)先生 昭和40年東京大学法学部卒業 北浜法律事務所顧問 大阪竹田研究会幹事⻑ 素行会維持会員などを歴任  日本の正史研究 古代における日本と朝鮮半島の関係史研究 
 代表的な著作 「女性天皇とその歴史(PHP)」「満州国建国は正当である(PHP)」「歴代天皇で読む日本の正史(錦正社)」「皇位継承事典(PHP)」「日支関係史 日中戦争は存在しない(日本正史研究会)」「続大東亜戦争(神州正氣の会)」など





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              継体天皇像(福井県福井市) 5-27-7

 
 〜令和改元と云う節目の年に、歴代天皇の事績を振り返ります。今回は「武烈天皇」「継体天皇」をお届けします〜



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 各天皇の年齢等に付いては数え年で計算して記しています。
 即位年、在位年数等については、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
 本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
 

 第25代・武烈天皇(ぶれつてんのう)

 世系25・即位10歳・在位8年・宝算18歳 皇紀1149年仁賢2年(489年)仁賢天皇の第一皇子として誕生された小泊瀬稚鷦鷯命(おはつせわかさぎきのみこと)であり、母は雄略天皇の皇女で仁賢天皇の皇后・春日大娘娘女である。
 皇紀1154年仁賢7年(494年)1月3日6歳で立太子される。他には皇子は居られ無かった。皇紀1158年仁賢11年(498年)8月8日 父帝・仁賢天皇(にんけんてんのう)が崩御される。皇太子は幼少だった事もあり、大臣の平群真鳥(へぐりまとり)が国政を掌(つかさど)った。大伴金村(おおとものかなむら)を大連(おおむらじ)とされる。

 処が、大臣・平群真鳥は国政を縦にし遂に皇位を欲した。そして天皇の為に造営した宮が完成すると、自らが此処に移り住み臣下としての節度を弁(わきま)え無かった。皇位を簒奪しようとする事は大罪である。大伴金村は「真鳥をお討ち下さい、仰せとあれば討ちます」と進言する。太子も「このママでは天下争乱の怖れがある」とされて11月11日これを討伐された。
 未だ10歳の皇太子にこの判断が出来たかの疑問は残る。しかし平群真鳥は皇統(天皇の子孫)の人では無いので、もし皇位を望んだとしたら討伐は当然の事であった。

 皇紀1158年仁賢11年(498年)12月 仁賢天皇の崩御から3ヶ月余りが経ち10歳で即位された。異例の若さであったが他に候補は居られ無かった。都は大和国泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや 奈良県桜井市初瀬)に置かれた。
 皇紀1159年武烈元年(499年)春3月2日 春日娘子(かすがむすめこ)を皇后に立てられる。この春日娘子の父・母は不詳である。父が未詳(みしょう)の皇后は史上春日娘子だけである。「春日」であるから、和邇氏(わにし)に縁のある女性かとも思われる。

 『日本書紀』には天皇の非行の数々が具体的に記され、暴君として「頻りに諸悪を造(ぞう)し、一善も修め給はず」とあり、非常に良く無い天皇として描かれて居る。しかし『古事記』には、その様な暴君としての記述は全く無い。武烈天皇に付いては『古事記』と『日本書紀』では全く違う評価が為されて居る。
 皇紀1166年武烈8年(506年)12月8日 後嗣無く在位8年18歳で崩御された。此処で皇統の人・皇位継承候補者が居られ無く為り皇統断絶の危機に陥った。雄略天皇が兄弟の皇子や叔父の皇子を次々と誅(ちゅう)された事がここに来て皇位継承問題に大きく影響して来たのである。

 第26代・継体天皇 世系25・即位58歳・在位24年・宝算82歳 

 皇紀1110年允恭39年(450年)第15代応神天皇の玄孫・彦主人王(ひこうしのおおきみ)の王子として近江国三尾で誕生された男大迹王(おおどのおおきみ)で、応神天皇の5世孫である。母は越前の豪族三尾氏の娘で垂仁天皇の7世孫に当たる振媛である。
 父の彦主人王は男大迹王が幼少の頃に薨去(こうきょ)されたので、母の振媛は実家の高向(福井県坂井市丸岡町高椋)に帰郷して男大迹王を養育された。

 後嗣なき事態

 皇紀1166年武烈8年(506年)12月8日 武烈天皇が後嗣を定めずして崩御され、皇子女も無く後嗣の無い状況に陥った。皇紀1167年継体元年(507年)春1月4日 大連の大伴金村・物部麁鹿火(もののべのあらかひ)・大臣の巨勢男人(こせのおひと)らが協議し、越前から第15代応神天皇の5世孫・男大迹王をお迎えする。
 春1月6日 臣・連らは勅命を受けて節の旗を掲げ御輿を用意し越前三国にお迎えに行く。「勅命を受け」と云っても天皇は居られ無いのであるから、群臣が協議しその結果と云う意味である。
 王は最初疑われたが、偶々河内馬飼首(かわちのうまかいのおびと)・荒籠(あらかご)をご存じだったのが幸いし事情が分かり、又大臣以下全員が懇願したのでご承諾に為る。勅命も無く遺詔(いみことのり)も無い状況で、臣下の者が協議して皇統の人から後嗣(こうし)を選任してご即位頂くと云う皇位継承が行われた。「天壌無窮・てんじょうむきゅう」の神勅(しんちょく)の「吾が子孫(うみのこ)」だけは遵守されて居る。(※管理人・・・皇統の男系・男子を守っていると云っている)

 尚、継体天皇の即位に関する以上の経緯は潤色(じゅんしょく)されたもので在って、実際は越前・近江地方に勢力を持って居た豪族が、武烈天皇の死後皇統が絶えた事を良い機会と捉え皇位を簒奪したのであって、此処で別の王朝が生まれたとする説がある。
 しかし、その前に大伴金村等は丹波の倭彦王(わひこおう)を同じ様にお迎えしようとしたが逃亡され失敗して居る。それに当時の大和朝廷は朝鮮半島に出兵する軍事力を持って居り、半島の三国からは常に恐れられて居たので、越前・近江の豪族がその国を乗っ取る程の軍事力を持って居たとは到底思え無い。

 それでも、これを打ち負かして乗っ取ったので在れば相当に大規模な戦乱が在った筈で、そう云った記録は何処にも無い。確かに最初は宮を樟葉(しょうよう)に、5年10月には筒城(つつしろ)に、12年3月9日には弟国(おとうとこく)に、そして20年9月13日に磐余玉穂宮(いわれたまほみや)にと3回遷され大和国に入って居られるが、これは反対勢力の在る事も想定され、アラユル意味で用心して居られたに過ぎ無いのである。
 男大迹王と妃・目子媛(めこひめ)(尾張連草香・おわりれんくさかおるの娘)との間には勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ 安閑天皇(あんかんてんのう))と檜隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ、宣化天皇(せんかてんのう))の二王が居られた。

 皇紀1167年継体元年(507年)1月12日 男大迹王は子の勾大兄皇子と檜隈高田皇子を伴われ、河内国交野郡葛葉宮(くずはみや・枚方市樟葉)に入られる。行き成り大和の地に入られ無かったのは慎重を期して居られたのであろう。
 この年2月4日、大伴連ら群臣(ぐんしん)の願いを容れ、58歳で河内国樟葉宮にて即位された。枚方市楠葉野田2丁目にある交野天神社(かたのてんじんしゃ)の末社・貴船神社(きふねじんじゃ)がその跡地と伝わる。即位の候補者も無く先帝の遺詔も無い状況下で、群臣の協議だけで皇統の人を捜して来てその方に即位頂いたと云う事は、この先、極めて重要な先例として記憶されるべきである。

 3月1日、大伴大連(おおともむらじ)が仁賢天皇(にんけんてんのう)(億計王)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に迎える事をお願いし、天皇はこれを容れられ「決して我が世だけの事では無い、礼儀を整えて手白香皇女をお迎えせよ」と詔される。
 「我が世だけの事では無い」とし万世一系を重視された。尚、手白香皇女の母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇女であり仁賢天皇の皇后である。越前から出て来られたのであるから、極力朝廷に馴染む様にされたのであろう。

 3月5日、仁賢天皇(億計王)の皇女・手白香皇女を立てて皇后とされる。天皇は皇統の危機を懸念され、即位後直ぐに手白香皇女を立てて皇后とされたのである。天皇ご自身も周囲も、皇統の危機と云う事を相当意識して居られたことが分かる。
 継体元年3月14日、8人の妃を入れられ夫々多くの皇子女に恵まれる。元からの妃・目子媛には、前述の通り二人の王子が居られ、お二人とも後に安閑天皇・宣化天皇(あんかんてんのう せんかてんのう)として即位される。

 皇紀1171年継体5年(511年)10月 山城国筒城宮(京田辺市)に都を遷された。継体7年秋9月、勾大兄皇子が仁賢天皇の皇女・春日山田皇女(母は糠君娘)を妃に迎えられた。そしてこの年12月8日、越前から一緒に出て来られた第一王子・勾大兄皇子(安閑天皇)を皇太子に立てられる。皇紀1178年=継体12年(518年)春3月9日 都を再び山城国弟国宮(乙訓)に遷された。
 そして即位から20年経った皇紀1186年継体20年(526年)秋9月13日 都を大和国磐余玉穂宮(いわれたまほみや・奈良県桜井市池之内)に遷された。3回目の遷都と為った。皇紀1191年継体25年(531年)春2月7日 皇子の勾大兄皇子(安閑天皇)に皇位を譲られ(譲位では無く遺詔・いみことのり)、その即位と同日、在位24年(先帝崩御から24年2ヶ月即位から24年3日皇統譜は在位25年)82歳で磐余の玉穂宮にて崩御される。

 この一冊を通読すれば、我が国の皇位継承の歴史が全て判る! 昭和天皇の崩御により即位した今上天皇。今上天皇の譲位により即位する新天皇。皇位の継承は如何なる歴史を辿って来たのか? 初代神武天皇から現代迄、皇位継承の歴史は積み重ねられて来た。その全ての経緯を辿ると、様々な事件や困難を乗り越えて来た事が判る。歴史の節目を前にして読んで置きたい一冊。





 〜管理人のひとこと〜

 確かに、幾多の障碍(しょうがい)を跳ねのけて、皇統を「男系・男子」と定めて来た歴史があるのだ・・・との解説なのだが、果たしてそれが真実なのか、それとも後から説明付けただけの架空の物語なのか? 今と為っては信ずるより他無いのだが、果たして、それにどれだけの価値が在るのだろう・・・と私は思ってしまう。
 非常に困難で希少な事なので、それを尊いと価値観を生み出したいだけの話で、下々の者はそれにひれ伏しなさい・・・との事だけなのだ。増してや、皇統は一統だ・・・との説はまるでお伽噺でしか無い。皇統の中には幾多の架空の天皇が存在し年数も年代も作り話以上のものでは無い。
 それに固執して現実を徒に定義づけて立法するのは、全くナンセンス以外の何物でも無かろう。その様な架空の話を祖先が作ったのには、それなりの思惑があっただけで、子孫がそれに縛られるとは思っても無かったであろう。子孫がそれによって困窮し多くの人達が相争う事の方が祖先の思惑を汚す事に繋がるだろう。


                   以上 
















眞子さま結婚問題 「女性の心理」から考える




 眞子さまの結婚問題を考える・・・ 

 多くの人に反対されても突き進んでしまう「女性の心理」


 現代ビジネス 5/24(月) 8:02配信



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              写真 現代ビジネス 5-24-5


 〜眞子さまとの婚約が内定している小室圭さんの金銭トラブルが連日大きな話題に為って居ます。第三者から見ると「此処迄問題に為って居るのに何故婚約を破棄しないのか?」と疑問に為ると思いますが、周囲に反対されても結婚を辞められない女性は少なくありません。
 周囲にどんなに反対されても結婚に踏み切ってしまう女性の心理に付いて、男女問題に詳しい堀井亜生弁護士が解説します〜



 結婚を焦らせる「タイムリミット」


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                  堀井亜生弁護士


 筆者はこれ迄に約2,000件の離婚・男女問題の相談を受けて来ました。離婚の相談の際は結婚する迄の経緯に付いても詳しく聞く様にして居るのですが、不倫や借金等の問題を起こした夫に付いて「元々周囲から結婚を反対されて居た」と云う妻は非常に多いです。  
 では何故結婚したのかと云うと、殆どの人が「年齢的に焦って居たから」と答えます。もう直ぐ30歳に為る処だったから・兎に角結婚しないといけ無いと思って・・・周囲の反対に耳を貸せ無かったと云うのです。  

 結婚するかしないか何歳で結婚するかに付いて等、結婚に付いての価値観は多様化して来て居ますが「何歳迄に結婚しないといけない」と焦る女性は今も少なくありません。結婚に自分なりのタイムリミットを設定してしまい、その直前に出会った男性に対して余りキチンと吟味する事無く結婚してしまって後で後悔する・・・と云うケースは非常に多いです。
 眞子さまも、もう直ぐ30歳を迎えられます。ここで破談にしてしまうと、次にお相手を見つけて結婚する時には30歳を過ぎてしまう為、婚約を破棄すると云う選択肢が頭に浮かば無く為って居るのかも知れません。

 相手のマイナス面を寧ろプラスに捉える心理

 又、結婚と云うのは当事者同士の気持ちによる面が大きいので、この人と結婚したいと云う気持ちが強いと、相手に対するマイナス要素が目に入ら無く為り勝ちです。その為、婚約者との結婚を周囲に反対されても「反対されて居るから辞め様」とは考えず、逆に婚約者の言動一つひとつを、結婚したいと云う自分の気持ちを補強する材料として考える様に為ります。
 
 例えば、DVをする夫と離婚したいと相談をして来た或る女性は、夫は交際中から暴力を振るったりお金をセビッタリして居たので、家族や友人からは結婚を猛反対されて居たそうです。しかしその女性は、周囲に反対されればされる程反発して「本当は好い人だから」とか「私を経済的に頼りにして呉れて居るから」と思って結婚してしまったと言います。
 又、資格試験を受けて居る男性を応援したくて婚約・結婚すると云う女性のケースも好く見掛けます。頑張っている姿が好きだから支えたいと云う事で、場合によっては受験中に結婚することもあるのですが、婚約も結婚も男性が合格して仕事が安定してからで好いのでは、と周囲にアドバイスされても矢張り聞く耳は持ちません。
 
 又、合格出来そうに無い事を理由に反対されても、質の悪い男性の場合は、自分がナカナカ合格し無いことに付いて婚約者にアレコレと言い訳をします。今回は体調が悪くて集中出来なかったとか、問題の傾向が自分に合わ無かったとか、時にはもっと高い予備校に通えば合格出来る等と言って婚約者にお金を出して貰おうとします。
 周囲は「受かる見込みが無いんだから結婚は辞めた方が好い」と言いますが、女性は「私の為に頑張って呉れて居るんだから必ず合格する」と信じて居るので、受験中に籍を入れたり自分の貯金から男性に援助したりします。  
 それでも合格出来ない男性が女性に暴力を振るったり「受から無いのはお前の所為だ」等とモハラハラをする様に為って初めて離婚を考えると云うケースもあります。  

 眞子さまの場合も、小室さんと結婚したいと云う気持ちが先に立つ余り、家族の金銭トラブルや周囲からの反対と云うマイナス要素よりも、海外で頑張って勉強して居る・家族のトラブルの解決の為に奔走して居る・・・と云った面をプラスに捉えられて居るのかも知れません。  
 世間から批判されたアノ28枚にわたる反論文書も「自分と結婚する為にこんなに頑張って文章を書いて呉れた」と益々好意を抱く要因に為って居る可能性があります。

 周囲に出来るのは退路を用意すること
 
 では、この様な心理状態に陥っている女性に対して周囲から出来る事は何か有るのでしょうか。筆者が受ける相談で最近多く為って居るのは「子供を交際相手や婚約者と別れさせたい」と云う親御さんからの相談です。  
 別れさせたい理由は、浮気癖や借金癖・相手の家族が気に入ら無い・・・等色々とありますが、交際するかどうかは本人達の気持ち次第なので、交際相手に余程の問題が無い限りは、家族とは云え第三者が法的に介入出来る事は少ないです。  

 家族や友人としては、問題が有る様に見える人とどうにか別れて欲しいと思って居ても、アレコレ言えば言う程本人は意地に為って、寧ろ相手の問題点をプラスに解釈して結婚に突っ走ってしまいます。好きだから結婚したいのか・後戻り出来ないから結婚するしか無いのか・・・本人ももう判ら無く為って居る事があります。  
 特に眞子さまの場合は皇室と云う立場上、婚約を破棄すると云う選択に大きなリスクを感じられて後戻りが出来なく為って居るのかも知れません。一方、反対している国民としては、婚約破棄よりも皇室の一員である眞子さまが、小室さんと結婚する事の方が余程リスクが大きいと感じて反対して居る為、ご本人と世間の意識には大きな乖離があるのだと思います。  

 以上の点から、結婚に向かって突き進んでいる女性に対して、結婚を取り辞めにさせたいと考える余り強硬に反対するのは得策では無い事があります。
 例に挙げた様な親御さんから「如何したら娘に目を覚まして貰えますか」と質問された場合は「余り大っぴらに反対せず、家族や周囲が『もしダメなら戻って来ても好いからね』と云うサインを出して置けば、自然と娘さんの方から相手に見切りを付けて呉れるかも市れません」と答えて居ます。
 
 詰り、退路を用意して後戻りし易くして挙げる事で、本人が相手の問題点に目を向け易くすると云う事です。眞子さまも、後戻り出来ないと云うお気持ちで周囲の声が聞こえ無く為り、身動きが出来無く為って居る可能性があります。
 反対して居るのは眞子さまの為を思ってであること、後戻りしても決して責めたりしない事を周囲が示せば、何故反対されて居るのかを理解して、婚約破棄と云う決断に踏み切る事も出来る様に為るかも知れません。



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                堀井 亜生(弁護士)

 堀井亜生法律事務所・代表 2000年に中央大学法学部法律学科卒業 2005年弁護士登録 2006年にフラクタル法律事務所を開設 現在は弁護士として第一線で活躍しながら ホンマでっかTV!?(フジテレビ)のレギュラーを始め多数のテレビ出演のほか 著作・寄稿・講演活動にも精力的に活動中 
 一児の母として子育てと弁護士業を熟す 2020年 弁護士業やメディア活動に更に注力する為フラクタル法律事務所代表を退任し堀井亜生法律事務所を開設


 経歴

 1977年 北海道札幌市生まれ
 1996年 北海道札幌南高等学校卒業
 2000年 中央大学法学部法律学科卒業
 2005年 弁護士登録
 2006年 1年の事務所勤務を経て独立 「弁護士法人フラクタル法律事務所」開業
 2020年 フラクタル法律事務所代表を退任 堀井亜生法律事務所を開業

 事務所代表として組織を順調に成長させ続けている また、多数の企業・病院の顧問を務める 弁護士として第一線で活躍しながら フジテレビ「ホンマでっか!?TV」のレギュラー出演を始め多数のメディアに出演 2015年に著書『ブラック彼氏』を出版するなど著作・寄稿・講演活動にも精力的に取り組んでいる




 〜管理人のひとこと〜

 真子さまの結婚に反対する色々な文章を読みましたが、堀井亜生先生の文章に一番感銘を受けました。決して相手を否定せず先ずは好く聞き相手を理解しようとする真摯な態度が伺われます。文章の中身も表現も柔らかく、相手の立場を理解しようとする優しさに溢れています。
 そうなんですね・・・幾ら彼女の幸せを考えて反対するより「そんなに結婚したかったのなら仕方ないけど、ダメだったら何時でも帰っておいで・・・」こんな暖かく素敵な言葉ってあるでしょうか。
 私たち国民に出来る事は、親や祖父祖母の立場で、愛しい娘・真子さまの結婚を徒に反対する事だけで無く、どうしたら真子さまが幸せに為れるのか・幸せを感じられる日常を送られるか・・・それを提供する環境を作り上げる事なのでしょう。
 好いのです、私達には容易に予想出来る将来なのですが、彼女には今は何も見えないのです・・・それが恋愛で在り真剣な恋なのであり、初めて得た人を恋すると云う貴重な体験なのです。ですから、周りに止められて泣く泣く婚約を破棄するよりは、自分の決断で結婚を強行しその挙句に離婚すると為っても好いのです。真子さまの恋はそこまで命を賭けたものだったのですから。それが可能な世の中で在って欲しいものです。


                  以上















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