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2021年05月15日

田村淳が「死ね」と言わない理由  芸能記者・中西正男



 田村淳が「死ね」と言わない理由

  芸能記者 中西正男 5/15(土) 6:00



 5-15-6.jpg

         思いを丁寧に言葉に置き換えて行った田村淳さん 5-15-6

 バラエティーのみ為らずフジテレビ「バイキングMORE」等でコメンテーターとしての顔も見せる「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳さん(47)昨年亡く為った母・久仁子さんへの思いを綴った著書「母ちゃんのフラフープ」を5月31日に上梓します。
 「母ちゃんの話に為ると、泣いちゃうと思うんで・・・」とティッシュを横に置き、実際に幾度と無く涙を拭いながらの取材と為りましたが、胸の奥底にある思いを丁寧に言葉に置き換えて行きました。


 長い反抗期
 
 母ちゃんは若い頃から「延命治療はしないでね」と云う事を言ってたんです。当時は何処かが悪い訳でも無くピンピンしてたんですけど、看護師をしてたので、色々な人の死を見て来たからですかね。自分が元気な内に、死に方も含め意志を示して置く事が大切だと感じていたんでしょうね。
 只、その言葉が現実味を帯びると云うか「ア、この事だったのか」と為って来たのが2015年。母ちゃんのガンが分かってからでした。自分でもね、病気を機に母ちゃんへの接し方が変わったと思います。アカラサマニ優しく為りました。

 コレは母ちゃんの言葉ですけど「長い反抗期が終わった」と言ってました。母ちゃんが病気に為って少しして、オレに娘が生まれた事もあったのかも知れませんけど「アンタは好き勝手生きてるし、これからもそう生きて行くだろうけど、遣りたい事があったら、先ず家族と云うフィルターを掛けて考えなさい」と度々言う様に為ったんです。
 コレがね、母ちゃんが病気する前だったら「ウルセェよ!」とか「分かってるよ!」とか言ってたと思います。だけど、病気してからはチャンと受け止めようとしてました。

 そして、その受け止めを母ちゃんも感じてたんでしょうね。だから「長い反抗期が終わった」と言ったんだろうナと。
 遣るなと言われた事ばっかりやって来ましたからね。芸能界に入る・髪を赤く染める・お笑いだけで無くバンドも遣る・何か指摘されるとより従わ無い・・・それが母ちゃんが病気に為る迄、オレが42歳の時までズッと続いて居たと思います。そりゃ「長い反抗期」ですよね。
 それ迄も気遣いをして居た積りではあったんですけど、母ちゃんが「淳、優しいな」と思うのは病気の後だと思います。・・・こう云う話をして居ると、涙が出て来ちゃうんですよね。暗いインタビューにする積りは全く無いので「此奴、泣いてるヤン・・・」と為ると思うんですけど、気にせずドンドン進めチャってくださいね(笑)

 死を前にした、母ちゃんの振る舞いだとか思いを伝える姿勢を見て 、改めて「母ちゃん、凄いな」と思ったんです。それが大学院で遺書や遺言に付いて勉強する事に繋がったんですけど、最終的に大学院での研究発表を母ちゃんには伝えられ無かった。
 母ちゃんは、オレが本を書いたり何かを世に出すと云う事が好きだったので、こう云う事をすると母ちゃんが喜ぶかなと思って本を出す事にしたんです。 

「死ね」とは言わ無い

 本を出すと為ると、今一度、母ちゃんの思い出と向き合う事にも為るんですけど、子供の頃から言われて来た事は結局二つでした。「人に迷惑を掛けるな」「遣りたいことを遣りなさい」自分の中で、この二つがブレーキとアクセルみたいに為って居て、何とかバランスを取りながら両方成立させる。
 難しいことではあるんですけど、若い頃からこの二つは常に頭にありました。そして、これ迄で母ちゃんに一番怒られたのは中学2年の時でした・・・将(まさ)に激昂(げきこう)でした。
 
 最初は好くある口喧嘩と云うか、コッチの言う事に理解を示して呉れ無くてオレがイライラして言い合いに為る様な流れだったんです。その中で特に深い思い迄は無く、フト「そんなに口煩く言うんだったら、死んだら好いのに」と母ちゃんに言ったんです。
 その瞬間、母ちゃんの顔色が変わって、包丁を持って来ました。それをオレの前の畳に突き刺して「殺せ!」と言われました。そして「人に『死ね』ナンて事を言うな!」と怒鳴られました。
 
 その時の母ちゃんの迫力と胆力は凄まじかった。そこから、本当に「死ね」と云う言葉は一切言わ無く為りました。好く芸人さんがノリで「死ね」とか言ったりもしますけど、オレ、実はその度にヒヤッとしてるんですよね。その言葉に対しては凄く繊細に為って居ると云うか。
 だから、SNSで「死ね」と言われたりすることも、勿論元々良く無い事なんですけど、自分に取ってはよりイヤな言葉なんです。

 なので、そう云う言葉を向けられたら遣り過ごすんじゃ無く「それだけは別の言い方に変えるべきだと思う」みたいなことを返しますもんね。何かね、オレのキャラクター的には、ショッチュウ「死ね」って言ってそうなんですけど(笑) 実は言って無いんですよ。母ちゃんの言葉が残ってるんで。

 日常への思い
 
 ガンが進んで、母ちゃんが入院している時も病院で色々と話をしました。新型コロナ禍とも重なって来て居たので、ナカナカ病院に入れ無かったんですけど、コロナの状況を見ながら、家族一人ずつなら交替で入っても好いと云う時期もあり、そこに合わせて会いに行くようにしてました。
 死ぬのは、本人も分かっているしオレも分かっている。只「アンタに語り継いで欲しい事はこれよ」みたいな話は特段ありませんでした。母ちゃんもそんなことを言う積りは無いだろうしオレも聞く積りも無かったし。

 出て來る話と云えば、普通の事と云うか「アノ時、私が作った唐揚げを美味しそうに食べよった」とか、そんな話なんです。母ちゃんが死を前にそれを回想すると云う事は、その時が本当に幸せだったと云う事。何処かに行ったとか特別な日では無く何でも無い日が残っている。
 だから、日常を大切にしないといけないし、オレも自分の家族にそんな時間を少しでも多く味わって貰いたい・・・そう強く思いました。

 「私はそれが幸せだったから、アンタも奥さんや娘に」何てことを母ちゃんは言わ無かったけど、オレが汲み取って受け取ったことです。何れオレが死ぬ時にも、そんな思いをしたいし、娘にも奥さんにも・・・そんな事を思って欲しいなと。
 母ちゃんの最期には立ち会え無かったんですけど、弟から電話があって、未だ息の有るうちに電話越しに声を掛けました。只、自分の中でのお別れはその前に済ませた積りでした。ガンが進んで痛みも酷く為って来た頃、実家に一時帰宅したんです。

 コロナ禍で、家族揃って病院に行く事は出来無く為って居たので、皆が集まるには母ちゃんが家に戻るしかなくて。その時、母ちゃんから「私の意識があって、アンタとキチンと話せるのはこれが最後だから」と言われました。
 翌日、病院に戻ってモルヒネを打つ、そうすると意識が薄れる。それを見越してのことだったんですけど、そこで「今迄有難う」と伝えました。キチンとお別れをしました。自分としてはそっちのお別れの方が辛かったですね。
 最期は、もう「楽に為ってね」と云うか・・・そう云う感じでした。命を閉じる時はそんな言葉だけを掛けました。

 「遣りたい」を優先する
 
 母ちゃんが死んで色々と意識が変わりました。母ちゃんが言ってた通り遣りたい事を遣ろう。遣りたい事を沢山遣って死のう・・・と思う様に為りました。枕詞(まくらことば)には「人に迷惑を掛けず」が着くんですけど。
 誰かに遠慮して遣りたい事を制限するのは辞めよう。人の評価よりも「遣りたい」を優先する。そんな人生にしようと思いました。

 実際、仕事でも変化がありました。チャンと番組を作ろうとか、仕事と向き合って居る人との仕事は遣りたい事なので遣る。逆に「この人、適当に遣ってるな」と云う人とは「遣りたく無いです」とハッキリ言う様に為りました。
 その結果、もし仕事を失ったとしても、それが本当に自分が遣りたい事なので仕方無い。そこは徹底するようにして居ます。

 現場に迄行って、行き成り「遣りません」は無いですけど、お話を頂いて打ち合わせをする段階で「違う」と思ったらお断りする。「この仕事は遣りたく無いです。その理由はこれです」と確り話した上で。
 それコソ聖火ランナーを辞退したのも「これは遣りたく無い」が明確に在ったので理由も添えてお断りしました。今迄のオレだったら、恐らくそのママ惰性で遣って居たと思います。

 どう死にたいか
 
 母ちゃんの事もあって大学院で死を研究する中で、日本って死を凄くタブー視する所だと改めて思いました。死に付いて話すと、すぐさま「縁起でも無い」と云う言葉でフタをしに來ると云うか。只、当たり前だけど、皆死ぬんです家族も失うんです。
 だから、誰に取っても凄く共通項の多い話だし、もっと日常的に「どう死にたいか」と云う話はするべきだし、それは「どう生きたいか」を言ってるのと同じ。だからコソ、タブー視する事は無いと思うんですけどね。

 その観点からしても、母ちゃんが若い頃から自分の死に方を話してたのは大きな事だと思いますし、好く考えたら、性格とか人間性の部分にも母ちゃんから引き継いでる事が沢山あるんですよね。
 母ちゃんは社交能力が抜群に高いんです。誰にでもスッと絡みに行ける。思い立ったら直ぐ動く。オレも「即動力」(2018年)と云う本を書いた位ですけど、母ちゃんも本当にフットワーク軽く動いてました。只ネ、母ちゃんは人の好き嫌いを干支(えと)で判断してたんです。これも或る意味即動力なのかも知れませんけど・・・話した事も無い人の事を「アノ人は、寅年(とらどし)だから合わ無い」と云う様に見切ってましたから。
 そこに関しては、ヤッパリ、オレは時代と共にマイルドにアップデートされちゃってる人間なんでしょうね。未だ、その境地に迄は達してません(笑)


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               撮影・中西正男 5-15-9

 田村淳(たむら・あつし)1973年12月4日生まれ 山口県出身  93年田村亮と「ロンドンブーツ1号2号」を結成 94年に「銀座7丁目劇場」のオーディションに合格し吉本興業に所属する
テレビ朝日「ロンドンハーツ」などに出演中 2019年 慶応義塾大学大学院メディアデザイン研究科に入学 遺書を動画にして大切な人に想いを届けるサービス「ITAKOTO」を立ち上げる 今年3月 同大学院を修了した



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 中西正男 芸能記者 5-15-10 立命館大学卒業後 デイリースポーツに入社 芸能担当となり お笑い宝塚歌劇団などを取材 上方漫才大賞など数々の賞レースで審査員も担当 12年に同社を退社し KOZOクリエイターズに所属する 読売テレビ・中京テレビ「上沼・高田のクギズケ!」 中京テレビ「キャッチ!」 MBSラジオ「松井愛のすこ〜し愛して♡」 ABCラジオ「ウラのウラまで浦川です」などに出演中 「Yahoo!オーサーアワード2019」で特別賞を受賞 また「チャートビート」が発表した「2019年で注目を集めた記事100」で世界8位となる noteで「全てはラジオのために」(note.com/masaonakanishi)も執筆中 


 〜管理人のひとこと〜

 
 田村淳(たむら・あつし)氏は、最近何かと評判が好い。仲間内でもそうなのだが、参加者達が参加の賛否に迷う・・・聖火リレーの辞退のニュースは全国を席巻したものだった。彼を特殊な芸能人としてでは無く、世の中を代表する非常にスタンダードな人格者として捉えているのだ。確かに好く観れば、彼のTVの冠番組でさえ控え目に周りを立たせている姿が目に付く、周りを立たせることで自分が生きる・・・と。
 母を失う・・・これは、一人の人間がやっと一人前になる事と同じなのかも知れない。もう甘えられない・涙を流して泣き叫ぶことも出来ない・・・天下に足った一人で家族を養うのだ・・・好い悪いは別にして、色々な社会の柵が出来上がってしまうことでもある。大の大人が許されるのは、母の死を思う存分泣く事だけかも知れないのである。


                  以上




















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