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2021年05月27日

田中角栄・21歳の二等兵時代 「空白の2年間が明らかに」



  田中角栄・21歳の二等兵時代

 「空白の2年間が明らかに」


 
  NEWS ポストセブン 2018・10・31



    5-26-1.jpg

        波乱の人生を送った田中角栄(時事通信フォト)5-26-1
 


 新潟の貧農から総理大臣へと成り上がった田中角栄は、やがてロッキード事件などのスキャンダルに塗れ波瀾万丈の人生を終えた。1993年没75歳の生涯は近年の〔再評価ブーム〕の中で様々な視点から伝えられて来たが、誰もが知るその歴史に「空白の2年間」がある。徴兵で満州に動員されて居た時期について、角栄は生前殆ど語ら無かったと云う。当時の秘話が、或る写真と共に明らかに為る。

 ◆「満州の写真を持っている」

 『戦場の田中角栄』(馬弓良彦著、毎日ワンズ刊)が異色のベストセラーと為って居る。〔戦場〕〔田中角栄〕と云う奇妙な取り合わせだが、比喩(ひゆ)で〔戦場〕と云う言葉を使って居るのでは無い。
 余り知られて居ないが、角栄は徴兵で出征し騎兵部隊の二等兵として満州に赴任して居た。同書にはその時代の角栄が描かれている。出版した毎日ワンズ社長の松藤竹二郎氏はこう語る。

 「書いたのは長く毎日新聞で角栄番を務めて居た記者ですが、既に鬼籍に入って居る。実は7年前に単行本として刊行したものを、角栄の生誕100年に合わせて新書として再発刊したんです。発売1か月余りで第7刷まで増刷と為り売れ行きに驚いて居ます。戦場での角栄のエピソードはこれ迄殆ど知られて来なかっただけに、新鮮だったのかも知れません」

 ヒットの兆候を感じ、新聞各紙に大きな広告を掲載した。すると、暫くして一人の女性から編集部に電話が掛かって来た。


     5-26-2.jpg
      
             21歳の二等兵時代の田中角栄 5-26-2


 『満州時代の角栄の写真を持って居る』と仰るのでビックリしたんです。と云うのも、本を出す時に随分探しましたが、ハッキリ戦地と分かる場面で軍服を着た写真は無かったからです」(前出・松藤氏)

 女性は小野澤惠美子さん。4年前に96歳で他界した父の小野澤冨士氏は、満州に在った陸軍騎兵隊の内務班で角栄と一緒に勤務して居たと云う。

 ◆アンパンを盗みに来た

 惠美子さんに話を聞いた。

 「1か月程前に、新聞を読んでいたら『戦場の田中角栄』の広告が出て居たんです。そこに『ノモンハン戦』の文字が在ったので、直ぐに娘に書店に買いに行かせて、一晩で一気に読み切りました。父は生前、酔う度に、満州に居た頃の田中角栄さんの話をして居ましたが、本当だったんだなと思いました」

 そして1枚の写真を取り出した。およそ100人位の日本兵が写ったセピア色の集合写真。その中の一人に小さな丸印が着いて居る。

 「この人が角栄さんです。父が写真に書き込んでしまったんです(笑い)」(前出・惠美子さん)
 
 この写真は、ノモンハン事件(*)停戦後の昭和14年10月25日に、日本軍の前線基地・ハイラル(現・中国内モンゴル自治区)で撮影されたものだと云う。この時、角栄は21歳だった。

 【*1939年5〜9月にかけて、満蒙国境で起きた日ソの軍事衝突。日本軍は壊滅的な被害を受け停戦に至った】



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           前から4列目・右から6番目が田中角栄 5-26-3


 「父は終戦1年後に帰国しましたが、引き揚げる間もこの写真を肌身離さず隠し持ち、戦後も押し入れに大切に仕舞、家族以外には見せようとしませんでした。一緒に写って居る多くの戦友が戦地で亡く為られたからだったのでしょう」(前出・惠美子さん)

 生きて終戦を迎えた戦友も既に80年近く経って居るので、今や存命者は少ない。惠美子さんは、寧ろ供養に為ると思い公開を決意したと云う。小野澤冨士氏は大正7年群馬県に生まれた。幼い頃から馬に乗り慣れて居たので、昭和14年1月に徴兵された時に宇都宮騎兵第18連隊に配属された。その後、満州国富錦(とみにしき)に在った陸軍第3旅団騎兵第23連隊に転属して居る。

 一方の角栄も同じ大正7年生まれ。父親が競馬馬の育成に入れ込んで居た為矢張り乗馬が得意で、徴兵により昭和14年4月に満州国富錦の騎兵第24連隊に入隊した。小野澤氏が後から同じ内務班に配属されて合流する形に為ったが、既に実戦経験の在った小野澤氏は伍長、角栄は二等兵と云う立場だった。
 『戦場の田中角栄』には、満州での角栄は決して模範兵では無く、コッソリ夜中に仲間と酒盛りをしたり立哨をサボったりで、曹長や伍長ら上官からしょっちゅう殴られて居たと書かれている。

 「父の話では、要領が好くて憎め無い人だったそうです。調子が好いんだけど真っ直ぐな青年だったと。『夜中にアンパンを盗みに来て見付かった時も、オレが庇って遣った』『オレは田中を一度もブッた事がネエ』と云うのが、酔った時の父の口癖でしたね」(惠美子さん)

 角栄は何時も鼻歌を歌い、人を笑わせる話をして隊では人気者だったと云う。当時はノモンハン事件の激戦の最中で、部隊では古兵から順に前線に送られて居た。日本軍は、航空戦では優位に立って居たが、地上戦ではソ連軍に大きな劣勢を強いられて居た。
 そんな中でも飄々(ひょうひょう)として居る角栄を上官らが苦々しく思ったのは容易に想像が着くが、何故か小野澤氏は角栄をいたく気に入った様なのだ。

 角栄は調子が好いだけの男では無かった。部隊の教育計画書が連隊本部から突き返され、2日で修正と清書をし無ければ為ら無く為った時に、切羽詰まった中隊長は建築家の角栄に頼み込んだ。角栄は上官らをアゴで使いながら1日で仕上げ、窮地を救ったと云うエピソードが『戦場の田中角栄』に紹介されて居る。この一件で、上官らの角栄に対する態度が一変したと云う。

 角栄は結局、ノモンハン戦線に送られる事無く、昭和14年9月16日、ソ連軍との停戦が成立。命拾いしたが、その後15年11月 角栄は営庭で突然倒れた。クルップ性肺炎と診断され内地に送還。戦病兵として除隊と為った。
 一方、小野澤氏は北満州に残り終戦迄前線で戦った。満州からシベリアへ抑留された日本兵は多かったが、幸運にも抑留を免がれ、1年後の昭和21年7月に復員した。

 ◆「オレの秘書に為って呉れよ」

 帰国後、小野澤氏は郵政省に入省し事務官と為る。それから凡(およ)そ10年後、昭和32年7月の或る日、第一次岸信介内閣で戦後初めて30代で大臣に就任した若手代議士が郵政省の講堂で就任挨拶をして居た。小野澤氏は独特のダミ声と話し方に耳を奪われた。何処かで聞いた声、見覚えのある顔。降壇(こうだん)する若い大臣に小野澤氏は駆け寄った。

 「オイ、田中二等兵じゃないか!」
 「アッ! 小野澤伍長」


 凡そ15年振りの再会にお互い相好を崩し喜び合ったが、その場で角栄は「オレの秘書に為って呉れよ」と頼んだと云う。その一声で、小野澤氏は郵政大臣の秘書に抜擢される事に為った。自分を一度も殴った事が無く、庇って呉れた恩人を角栄は覚えて居たのだ。

 「二人で靖国神社に参拝したことも在った様です。父は、角栄さんに『昔はオレの方が偉かったが、今はお前の方が偉く為ったナア』と言って、二人で好く笑ったと話して居ました」(惠美子さん)

 その当時、角栄から贈られたのが、直筆の「和を以て貴しと為す」の書。今も惠美子さんが大切に保管している。角栄が郵政大臣を務めて居たのは1年程で、その後、出世街道をドンドン登り詰めて行く。
 小野澤氏は70歳迄郵政省に勤めた。その間に、角栄は総理大臣に為り、ロッキード事件が起き、一審・二審で有罪判決。政界引退を余儀無くされ、刑事被告人のママ平成5年に世を去った。

 「ロッキード事件で大騒ぎだった頃も、父は角栄さんに着いて何も話さ無かったので、どう云う思いだったのかは判りません。角栄さんが亡く為られた時は葬式にも出ましたが、その後1年位落ち込んでいました」(惠美子さん)

 小野澤氏に取って角栄は政治家では無く〔戦友〕だったのだろう。

 ◆絶対に戦争は遣らない
 
 これ迄、戦地での田中角栄に着いては殆ど語られて来なかった。それは本人が口を噤(つぐ)んで居たからでもある。角栄の秘書を務めた後、政治家に為った元自治大臣の石井一氏はこう云う。

 「私は田中角栄と一番長く話をした議員だったと思う。ロッキード事件に付いてもアメリカで調査して報告して居たから随分長く話した。だが、田中さんから戦地に行って居た頃の話は殆ど聞か無かった。唯一聞いたのは、騎馬連隊に配属され『荒馬に当たって、馬から放り出された』と云う話位。好い思い出が無かったんでしょう。だから戦争は嫌いだったよ。田中さんは基本的にハト派だったからね」

 戦争体験が在ったからハト派に為ったと云う見方には、ジャーナリストの田原総一朗氏も同意する。

 「角さんとは何度も話したが、彼は『戦争を体験して居る人間が政治を遣って居る間は、絶対に戦争は遣らない。大丈夫だ』と言って居た。角さんは〔汚れたハト派〕と呼ばれたが、実際は本物のハト派だった。
 戦争体験の無い世代と云うと小沢一郎当たりからだけど、彼位迄は角さんの思いを完全に引き継いで居る。角さんの戦争体験が、今の自民党のハト派を作ったと言っても好いと思う」


 果たして今後の自民党に、どれだけその思想は受け継がれて行くのだろうか。



 ※週刊ポスト 2018年11月9日号



 〜管理人のひとこと〜

 当時のマスコミは、自民の田中角栄政治を「金権政治」政権を「金権体質」と呼んで最大限の批判を繰り返した。マルで全ての悪の根源は田中だと囃し立てた。その実は、田中角栄の中国接近に危機感を覚えたアメリカ政府が、田中政権の失権を企て「ロッキード事件」を日本に通告し半ば事件を組み立てたのが本質だった。
 無論、田中氏が空自・ジェット戦闘機の機種選定に強い影響力を待た無くとも「F104採択」の際の「成功報酬」等の密談は存在しただろうし、それなりの便宜も図ったのだろう。しかし、角栄氏の政治生命を奪う程の恐怖感・アメリカ政府が震え上がったのが根本的原因だったのは事実だ。角栄氏は、日本のエネルギーをアメリカの支配から外そうと中国との国交回復に単独で臨んだのである。
 航空機メーカー・輸入商社・右翼のフィクサー・・・等の高級幹部の絡んだ悪の政治劇へと物語を作ったのは日本の作家だが、この内容を文芸誌に投稿し世に知らしめ様と計画したのはアメリカの情報機関のシナリオ。世の中が騒ぎ国会が騒ぎ、そして裁判へと・・・彼の死で収まったのがロッキード事件だった。


                  以上


















瀬戸大也が初めて語った スキャンダルへの悔いと妻の言葉




 「今の自分には価値が無い」瀬戸大也が初めて語った

  スキャンダルへの悔いと妻の言葉


  5-27-1.gif 5/26(水) 11:05配信


  5-26-40.jpg

 自身にどんな変化があったのか 瀬戸大也が騒動後初めて語った photograph by Kosuke Mae 5-26-40


 昨年、自らのスキャンダルにより活動停止処分を受け、今年2月に復帰、4月の日本選手権で2冠を獲得した瀬戸大也選手が『Sports Graphic Number』の取材に応じ、騒動後の心境などを初めて語りました。現在発売中のNumber競馬特集に掲載されている記事を特別に公開します。(初出:1027号 2021年5月20日発売)

 一昨年夏に東京五輪代表内定を早々と獲得。まさに〔無双状態〕だった男は、五輪の延期と昨年秋の騒動からの活動停止で突如底辺を味わった。後悔と葛藤の中で得た誓い、そして自身の描く夢の変化を騒動後初めて語る・・・


                  ◆ ◆ ◆


 「アノ牙はネ・・・抜かれ無きゃいけ無かったんですよ」  

 瀬戸大也は、以前の自分を振り返ると穏やかな表情でそう話した。2019年のFINA世界選手権(韓国・光州)で200mと400m・個人メドレー2種目の東京五輪代表内定を手にするもその後五輪が延期。そして昨年秋のスキャンダルによる騒動で同年内の活動停止と為った。
 所属も無く為り、コーチやトレーナーと結成して居た「チーム・ダイヤ」を所属とした。イチからと云うよりマイナスからの再出発を余儀無くされた。  

 それでも今年、瀬戸は帰って来た。しかし何処か雰囲気が違った。彼が以前に持って居た絶妙な勝負勘は、まさに野性味溢れる獣の牙の様だった。瀬戸の強さの象徴だったその牙は、活動停止を経て彼が言う様に抜け落ちてしまったのか。騒動後、久し振りのロングインタビューで、彼は心の内の全てを曝け出して呉れた。


 「凄くワクワク出来る様な結果だった」
 
 4月3日、東京五輪の代表権を賭けた日本選手権初日の400m個人メドレー。本来の強さを取り戻せたのかが試された初戦で、瀬戸はその存在感を見せ着ける様に、誰よりも積極的に前向きな泳ぎを見せ4分9秒02で優勝を果たした。

 「夏の五輪本番でどう云うレースをしたいか、と云う事を考えて取り組んで居ますから、今大会もテーパー(調整)はせずに臨みました。高いスピードを出した時、自分が何処迄耐えられるのかの確認をしたかった。そう云った中で、このタイムで泳げた事は自分が目指す五輪での金メダルへの手応えを感じられる結果でした」

 瀬戸は、続く200mバタフライでも派遣標準記録を突破し代表内定を勝ち執る。更に、長年のライバルである萩野公介との対決と為った200m個人メドレーでは、最後迄勝負の行方が分から無い接戦を100分の2秒差で制し、萩野と笑顔でガッチリと握手を交わした。終わってみれば、200m・400m個人メドレーの2冠に、200mバタフライの2位と云う上々の結果だった。

 「400mの個人メドレーは、今迄出場して来た日本選手権の中で一番速いタイムだった。これは正直、可成り自信に為りました。五輪に向けて今後の自分に向けても、凄くワクワク出来る様な結果だったと思います」

 「今思えば、人間としての自覚は本当に低レベルで」

 この自信は、練習強度と完遂度、そして日本選手権の結果が一致して居る事に起因する。感覚とタイムが完全に一致して居る状態。詰り、全てが自分のコントロール下にある事が大会を通じて証明出来たのだ。こう云うトレーニングをすればこう為る・・・と云う過程と結果が瀬戸の中で結び着いて居り、それが確固たる自信に繋がったのである。

 「練習と結果を見比べてみて、マダマダ全然上がりそうだなと云う手応えもありました。それに、チーム・ダイヤで毎週の様にミーティングをして、強化方針を話し合って決めて居る。全員が全力で取り組むチームがあるから、日本選手権前も、今も不安は無く過ごせて居るんだと思います」

 '19年7月、世界選手権で200mと400mの個人メドレーで2冠を果たし、五輪代表内定を決めた瀬戸は乗りに乗って居た。

 「アノ頃は自分の事に集中して居て、兎に角強く・速く・必ず結果を出すと云う思いでした。そして結果を出せば好いだろうと、私生活では羽目を外して居た時期があった。アスリートとしての自信は滅茶苦茶在ったけれど、今思えば一人の人間としての自信や自覚は本当に低レベルで、成長して居なかったと思います」

 「綺麗事を言う事にも疲れた」
 
 全ては自分の為に。シンプルに、自分の為だけに頑張れば好いと考えて居たからこそ、この頃の瀬戸は苦しい練習にも耐えられた。迷いが一切無いのだから単純に当時の瀬戸は速かった。速くて結果も出るから、不安も無く自信にも満ち溢れて居た。
 自分が最高の練習をして、最高のパフォーマンスをすれば、幼い頃からの夢だった五輪の舞台の頂点に立てる。そうすれば周りの人達も喜んで呉れる・・・そう云う思いで居た自分を「無双状態だった」と表現する。そんな瀬戸をドン底に突き落としたのが東京五輪の1年延期だった。


 「本当に自分は金を獲る為に遣って居て、世界ランキングも当時はトップで。何なら3つ金を獲って遣る、って云う位の勢いで居る中で延期が決まって。
 そう簡単に1年頑張りますとも言え無かった。それ迄何処か、皆に応援される様な綺麗事を言い続けて居た部分もあって、もうそう云う言葉を使う事にも疲れた、と云う思いもあって。バツンと切れた様な状態で、ナカナカ気持ちは切り替えられませんでした」


 「直ぐには離婚とは言わない」


           5-27-2.jpg     

                 奥さんの優佳さん

 そして更に'20年9月、週刊新潮にスキャンダルが掲載された。自分が積み重ねて来た筈のものが音を立てて崩れて行くのを、只、見届ける事しか出来なかった。スポンサーも離れ人も離れた。味方だった筈の人達も、マスコミも可愛さ余って憎さ百倍、まさに世界が一変した。一番近くで支え続けて呉れて居て、今回の一件で最も傷着けてしまった妻の優佳の言葉が胸に刺さる。

 「優佳からは『結婚をする事も簡単に決めた訳じゃ無い。だから、離婚だって簡単に出来るけど、直ぐには離婚とは言わ無い。これからの大也の姿勢をもう一度見たいし、見てる』と言って呉れました。凄く辛い思いをさせて居るにも関わらずです。
 正直、僕を応援している気持ちと、反対に応援出来ない気持ちも在ると思うんです。それでも、彼女は一緒に自分の夢を応援して呉れている。そんな優佳の姿に、本当に申し訳無い事をしたと云う思いで一杯で……だから自分は競技を頑張る事は勿論、人間的にも成長している姿をズッと見せ続けないとと思いました」
 

 チーム・ダイヤの一員である、トレーナーの三富陽輔からの言葉も心に響いた。

 「自分は、自分から大也の船に乗った訳だから、それを途中で下りると云う選択はしない。だから、自分がこの船に乗った事を後悔させ無い様な大也のこれからを見せて呉れないか・・・と言われました」

 自分の為だけに叶えたいと思っていた夢

 そして、活動停止期間中にファンからもこんな主旨のメッセージが幾つも届いた。

 「素直に、報道のことはショックだった。でも、夢を叶える為に努力して居る処を応援したいから、これからも応援する」

 このメッセージは何よりも堪えたと云う。

 「自分が、自分の為だけに叶えたいと思って居た夢を、応援して下さる人達は一緒に支えて呉れて居た。優佳も支援を続けて呉れた企業さんも、チーム・ダイヤの皆もです。
 その事に凄く幸せを感じました。同時に、そういう人達をガッカリさせる様な事をして居た事を凄く恥ずかしく思ったし、ここから変わって行く自分を見て行って欲しいと思いました。こんな自分でも応援して呉れる人が居ると云うのが、これ程迄に自分のパワーに為るんだと知りました」


 「人間的な価値が下がったから、気持ちは少し楽に」

 騒動後、瀬戸は少しずつ周囲の支えによって自分の強さを見直し作り直して行った。それ迄の強さは、自分勝手に積み上げて行ったもの。指で押せば簡単に崩れる脆弱な強さだった。だが、今度は違う。多くの人達の支えと云う強固な土台の上に作り上げる強さだ。自身を支えて呉れる、チーム・ダイヤに着いてこうも語る。

 「本当にこのチームが、自分の能力を最大限に引き出して呉れて居ます。未だ通過点ですけど、五輪に向けてこの選択は間違って無かったと思って居ます」 

 応援して呉れる人達の思いを全て背負い、共に歩んで行くこと。それらが全て、競技の結果にも繋がって行く。人としての強さの本当の意味を、人間性とは何かを瀬戸は今回知ることが出来たと言う。

 「人間的に成長すると云うのは、瀬戸大也みたいに為りたいって思って貰える事だと思うんです。でも今の自分には価値が無いと云うか、尊敬ナンてして貰える様な人間じゃ無いと思う。正直に言うと、人間的な価値が下がったから気持ちは少し楽に為りました。
 無理をして良い事を言う必要も無いし、必要以上に自分を大きく見せる事も無い。だから、先ずはアスリートとして結果を残して自信を取り戻したい。その上で、魅力的な人間に為るにはどう居う言動をして行く事が必要なのかを考えつつ、でも見栄を張る事無く有りの侭の自分を皆さんに見せて行きたいと思います。そして、もっと周囲の人達に認めて貰える様な人間に為って行きたい」


 水泳と云う武器が無く為った時

 そう云った中で、五輪と云うものの位置付けにも変化が起こり始める。今迄の瀬戸に取っては、五輪は人生の全てだった。自分の人生を懸けて臨みそこで頂点に立つ事だけが目的だった。だが、今は飽く迄一つの目標であり人生の目的では無いとキッパリと口にする。

 「両親から、騒動後に『子供達に胸を張って居られる父親で居なさい』と言われました。そう言われた時、今は全然胸を張れ無いなって。水泳と云う武器が無く為って人間性だけが残った時、魅力的な人じゃ無いと家族に対して胸を張れ無いなと思ったんです。
 水泳を無くしたら、人間・瀬戸大也には何が残って居るのか。それをこれから積み重ねて行かなければ為ら無いんだと思います。子供達が大人に為った時に、こう云う事が在っても『自慢のお父さん』と言って貰える様に、成長しないといけ無い」


 「金を獲ったら許される訳では無いけれど」
 
 瀬戸に取って今の人生の目的は、歩んで来た水泳人生の全てを後進に伝えて行く事だ。その為の準備としても、チーム・ダイヤが機能して居る。

 「世界と戦うノウハウや強化策など、自分がどう遣って世界と戦って居るかのデータ化を進めて居ます。それを水泳界の未来を担うジュニアスイマー達に伝えて行きたいんです。良い事も悪い事も、全て水泳のお陰で経験させて貰いました。だから、将来は水泳界に貢献したい」 

 その為に、今出来る事は結果を残す事だ。目の前の東京五輪と云う目標に向かいひた走る。遣るべきことは明確だ。

 「金を獲ったら許される訳では無い事は当然です。でも、今の自分が置かれている立場と云うのは、金を獲ら無いとダメだと思うんです。昨年、僕は自分勝手な事をして来て周りの人に迷惑を賭けた。それでも日の丸を背負わせて貰って居る。だからこそ、金メダルを獲らないといけ無いんです。
 今迄とは違うプレッシャーかも知れませんが、僕はプレッシャーが在った方が強く為れる。本当に、こんな状況に為っても僕を応援して下さる方々に感謝しながら、そう云う人達に強い自分を見せたい。
 今、コロナ禍の中で、東京五輪にはネガティブな見方が増えて居ますけれど、それでも開催されたら最初の400m個人メドレーで世界記録で金メダルを絶対獲りたい。そこで好い流れを作ってみせたい、そう思っています」


 無双状態の頃に持って居た、勝負処を見極め食らい着く、誰にも負け無い鋭い牙は、確かに一度抜け落ちた。しかし・・・

 「アノ時持って居た牙は抜かれ無きゃいけ無かったんです。アレは何と云うか・・・〔黒い牙〕だったから。だからもっと強い芯が通った丈夫な、決して折れ無い本物の白い牙を持てる様な自分に仕上げて行きたい。
 味方で居続けて呉れた家族や仲間を守れる様な、そんな強さを持った牙に。その為に頑張りたい。この先の自分を見て居てください」



 瀬戸大也 DAIYA SETO  1994年5月24日 埼玉県生まれ 400m個人メドレーで'13 '15年世界選手権連覇 '16年リオ五輪も同種目で銅 '19年世界選手権で400m・200m個人メドレーで共に金に輝き 同種目の東京五輪代表内定 今年4月の日本選手権の200mバタフライで2位となり 3種目の内定を新たに獲得した TEAM DAIYA所属 174cm 75kg。

 「Sports Graphic Number」 文 田坂友暁



 〜管理人のひとこと〜

 確かに彼は恵まれた人だと思う。それは、彼の人間性を知り、期待されて居る結果に向かい真摯に努力する姿を長年見ていた人達が大勢居たからだ。無論その中には身近に控える最愛の奥さんも居た訳だ。そして、献身的に尽くす彼女の姿が表に出る事で・・・彼自身への評価が返って高まって行く・・・のを感じたのは管理人だけでは無いだろう。
 一番の被害者である彼女が、世間からのバッシングに無言で耐え、必死に尽くす姿こそ我々が好む「演歌の世界」だったのだ。明るい笑顔で旦那さんの為の料理を披露する・・・涙無くては見られない・・・そんな旧時代の夫婦愛を見せ付けられた。
 彼の言い訳や謝罪がそれ程出なかったのも幸いした。目標とするオリンピックでの金メダル・・・実際、オリンピックの開催が不確かな時、それは全てでは無く目標の中の一つに過ぎない。目標は素晴らしい人間に為る事なのだから。
 素晴らしい人間とは、自分で納得するものだけでは無く、家族や周りの人・そして多くの人達が下す彼への評価全てだ。例え金メダルを取れなくともこれからの彼の人生の貴重な肥料と為った事だろう。


                   以上
















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