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2021年05月26日

日本が「余りに無謀な戦争」を仕掛けた真の理由 ターニングポイントは「ノモンハン事件」




 日本が「余りに無謀な戦争」を仕掛けた真の理由


 ターニングポイントは「ノモンハン事件」


  東洋経済オンライン 5/25(火) 17:01配信



     5-25-20.jpg

 日本はなぜ「無謀な戦争」に突入したのか? 写真は1941年12月8日のLos Angeles Times (写真 American Stock Archive Getty) 5-25-20


 アジア・太平洋戦争で、日本は壊滅的なダメージを受けて敗北した。戦争では数え切れ無い日本人が命を失い諸都市は焦土と化した。戦後は実質的にアメリカの占領下に入ったが、他国に支配されるのは初めての上、武器を奪われ植民地も放棄させられた。アメリカとの圧倒的な国力の差を知って居た筈の日本が、何故無謀な戦争に突入してしまったのか? 

 大きな理由のひとつである「ノモンハン事件・1939年」にクローズアップ。歴史研究家の河合敦氏の新書『教科書の常識がくつがえる!最新の日本史』から一部抜粋・再構成してお届けする。
 先ずノモンハン事件を理解する為には、日中関係を理解する必要があるので、簡単に満州事変からの流れを抑えて置こう。第一次世界大戦で空前の好景気を経験した日本だったが、大正9年(1920)に戦後恐慌に見舞われてから10年以上不景気が続いた上、昭和5年(1930)には世界恐慌が波及して昭和恐慌が到来した。

 国民のヒーロー「関東軍」の暴走  

 国民は、政党内閣に失望し軍部に期待する様に為る。この支持を背景に関東軍が暴走して行く。関東軍は、満州に駐留する日本軍である。ポーツマス条約でロシアから得た関東州(南満州の一部)と満鉄を守備する為に駐留した陸軍部隊が、大正8年(1919)に独立して関東軍と為ったのだ。
 関東軍は昭和6年(1931)9月、自分達で奉天郊外の柳条湖で満鉄線路を爆破し蔣介石の国民政府(中国を統治して居た政権)の仕業だとして、中国基地への攻撃を開始(柳条湖事件)する。日本列島の3倍近い面積を有する満州を占領しようとしたのだ。

 こうして始まった満州事変だが、若槻礼次郎内閣は不拡大方針を公表した。処が関東軍はこれを無視して行動を拡大、朝鮮に駐留して居た林銑十郎率いる朝鮮(駐箚)軍も勝手に越境して関東軍の支援を始めた。すると軍中央も関東軍の行動を追認。事態を収拾出来ないと考えた若槻内閣は総辞職した。
 一方、不況に苦しむ国民の多くは、関東軍の行動を熱狂的に支持した。翌年、関東軍は占領下においた奉天・吉林・黒竜江省(東三省)に満州国を樹立した。国の執政(リーダー)には、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅・溥儀(あいしんかくら・ふぎ)が就任するが、完全に関東軍の傀儡国家だった。

    5-26-36.jpeg

              満州事変の調査 リットン調査団
 
 更に関東軍は、北の興安省と西の熱河省へも進軍した。只、日本陸軍は満州だけでは満足せず、昭和10年(1935)から満州に隣接する華北五省(河北・山東・山西・綏遠・チャハル省)を中国から切り離して勢力下に置こうとした。(華北分離工作)
 陸軍がこれ程広大な地を支配しようとするのは、関東軍参謀・石原莞爾の世界最終戦争論の影響が大きかった。石原は「日本はアメリカと航空機戦を中心とする最終戦争を戦う事に為るので、それに耐え得る国力を着ける必要がある。だから先ず、五カ年計画で経済力を着けて来たソ連が満州を奪う前に日本の植民地にし、持久戦と為ってもアメリカと戦える国力を保持すべきだ」と考えたのである。
 
 更に、満州事変は経済的な理由も大きかった。世界恐慌から脱する為、イギリスやフランス等は、他国の商品に高関税を掛けたり輸入制限を行い、自国と植民地との間(ブロック経済圏)で保護貿易政策を始めた。この為、日本の商品は売れ無く為った。
 こう為って來ると、植民地が少ない帝国主義国家は不利だ。だから新興国のドイツやイタリアは、植民地の再分配を求め軍事力を強化して他国へ侵攻し植民地を増やして行った。同じく日本も本土・台湾・朝鮮・満州と支配地を拡大し、ブロック経済圏(円ブロック)の確立を目指したのだ。

 国民政府の蔣介石は、毛沢東の共産党との内戦を優先し日本軍の侵略を黙認して来たが、華北分離政策が進むと方針を転換、共産党と手を組んで中国から日本勢力を排除しようと決意した。そんな状況の昭和12年(1937)7月7日、日本の支那駐屯軍が北京郊外の盧溝橋付近で夜間の軍事演習をして居た際銃撃を受けた。これを中国軍の攻撃だと考え、日本軍は中国軍に戦いを仕掛けて戦闘に発展した。世にいう盧溝橋事件である。
 紛争は現地で停戦が成立したが、近衛文麿内閣が軍部の意向を受け増派を決定したのである。すると共産党と連携した国民党の蔣介石は徹底抗戦を宣言、日中両軍の全面衝突に発展してしまう。

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                   近衛首相

 ドイツが仲介に入って講和交渉(トラウトマン和平工作)が行われるが、近衛内閣は相手への条件を厳しくする等して破綻させた。陸軍参謀本部等は、広大な中国との全面戦争はソ連に対する備えを薄くすると反対したが、近衛内閣は更に「国民政府を対手とせず」と云う声明を発表し、講和・交渉の相手である国民政府を否認して戦争収拾の道を自ら閉ざした。  
 こうして日中戦争が泥沼化する中、列強諸国は国民政府を支援する様に為る。ソ連も支援国の一つであった。蔣介石が中国共産党と手を結んだからである。

 社会主義国・ソ連との対立  

 ここで日ソ関係に付いて簡単に説明しよう。第一次世界大戦中にロシア革命が起こると、日本はアメリカやイギリスとシベリアに出兵して革命を牽制、ソ連が誕生した後も日本軍はシベリアに駐留し続けたが、大正11年(1922)に撤兵し同14年に日ソ基本条約を結んで国交を樹立した。 
 だが、天皇制を国体とする日本は、社会主義国家であるソ連を警戒し続けた。日本の傀儡である満州国が樹立されると、その国境はソ連と接する様に為り、国境付近では小さな紛争が度々起こり緊張状態が続いて居た。  

 日中戦争が始まると、今述べた様にソ連が国民政府を支援した事もあり、日ソ関係は更に険悪と為った。ソ連は国民政府と相互不可侵条約を締結し、同政府に大量の軍需物資を輸送すると共に極東に軍備を増強する様に為る。
 そして昭和13年(1938)7月、ソ連軍が〔ソ連・満州国・朝鮮〕の国境地帯にある張鼓峰(ちょうこほう・豆満江下流の小丘陵)に陣地を構築したのである。この為朝鮮に駐留する日本軍は、第十九師団を送って張鼓峰周辺のソ連軍を撃退した。
 
 しかしこの時昭和天皇は武力行使を認めず、故に大本営も許可して居なかった。なのに勝手に動いた訳だ。この様に関東軍を初め海外の大陸や半島に駐屯する日本陸軍は暴走する傾向が強く、これが結果として日本を破滅に追い込む一因と為る。
 現地の日本軍が武力行使に出たのは、ソ連が日中戦争にどれ程本気で介入して來る気かを判断する材料にする為だったと云われるが、日本が張鼓峰を占拠するとソ連は激しく張鼓峰を攻め立てる様に為った。 8月に入ると、更に機械化された部隊を続々と集結させ日本の3倍の勢力で戦いを挑んで来た。こうして激戦と為り、日本軍(第十九師団)は526名の戦死者を出し、戦傷を含めると22%を超える損害率と為った。  

 この苦戦は、日本軍中央が張鼓峰に増派し無かった事も大きい。ソ連が日中戦争に本格参戦する事を警戒し大本営が不拡大方針を執ったからである。ただ、近年公開されたソ連側の資料によると、日本軍に比べてソ連軍は倍近い規模の犠牲者を出して居た事が判明した。日本軍は寡兵(かへい・少ない兵力)で善戦して居たのである。
 とは云え、ギリギリの段階で張鼓峰を維持して居る状況ゆえ、結局、日本政府からソ連へ停戦を求める事に為った。

 こうして8月中に停戦が成立した訳だが、この武力衝突で日本軍は、ソ連軍が大量の戦車や重砲、航空機を所有する機械化部隊に転身して居り、その手強さをハッキリ知った。にも関らず、何も対応し無かった事で翌年のノモンハン事件の失態を招く事に為ったのである。

 「ノモンハン事件」と云う名の戦争  

 翌昭和14年(1939)5月、再びソ連との間で国境紛争が勃発する。ハルハ河東岸のノモンハンと呼ぶ〔満州国とモンゴル人民共和国・外蒙古〕の国境地帯である。モンゴル人民共和国は、ソ連の支援で中国から独立したばかりだった。ノモンハンは満州国もモンゴルも自国の領土と主張する地域である。 
 5月10日から両国軍の衝突が始まり、日本軍(第二十三師団)は一旦モンゴル軍を退却させたが、ソ連軍が応援に来てモンゴル軍と共に再びノモンハンに陣地を作り始めた。そこで日本軍は一部をノモンハンに派遣したがその主力は全滅した。

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            両軍とも多大な犠牲者を出してしまった

 尚且つ、ソ連軍は大量の航空機や重火砲・そして戦車を含む大兵力をノモンハン付近に集結させたのである。この為日本側(関東軍)も漸次兵力を増やして行った。  
 実は、紛争が起こる1ヶ月前、関東軍の作戦参謀・辻政信「満ソ国境紛争処理要綱」を作成、それが関東軍全軍に通達されて居た。国境線を確り確定させ、もし紛争が起こったら兵力の多寡に関係無く武力を行使して勝てと云う内容だった。この要綱が事件を拡大したのは間違い無いとされる。

 こうしてノモンハンを巡って日本軍とソ連・モンゴル連合軍の大規模な衝突が始まると、更に国境紛争と云う範疇(はんちゅう)を超え、互いに敵の陣地を激しく空爆し遭う様に為る。只、大本営や軍中央は、敵陣地への空爆は認めて居ないし、戦いの規模の拡大も赦して居ない。
 詰り、又も関東軍(満州国を守備する日本軍)が暴走したのである。尚、日本の戦車はソ連軍に全く歯が立たず、第一戦車団は帰還を余儀無くされ、戦いは次第に日本側が劣勢に立たされて行った。

 日中戦争が泥沼化しつつ在る居り故、この事態を早期に解決すべきだと云う意見も在ったが、結局、現地の関東軍は戦線を拡大して行き、第二十三師団を全面投入して行った。只、大本営は援軍を送ら無かったので、兵力は敵の4分の1程度(異説あり)だった。  
 しかもソ連の機械化部隊には歯が立たず、約1万7000人の死傷者を出して完全に第二十三師団は壊滅状態と為った。師団の約3割が戦死したと云うから大敗北だと云える。只近年、ソ連・モンゴル軍の方が犠牲者が多く、戦いでは日本軍の方が優勢だった事が判明して居る。
 壊滅的な打撃を受けたものの、関東軍の参謀達は負けていないと云う感覚が強かった。これは軍中央との大きな違いだろう。又、武器に付いてもソ連軍の高度な機械化は事実に反すると云う説もある。

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                日独伊三国同盟を祝う国民

 ドイツに振り回される日本  

 尚、日本軍とソ連・モンゴル軍が激戦を演じて居る最中の8月23日、驚くべき外交上の出来事が起こった。独ソ不可侵条約が結ばれたのである。これ迄反目して居たドイツとソ連が手を組んだのである。実は日本は、ソ連等共産主義に対抗する為、昭和11年(1936)、日独防共協定(翌年イタリアが参加)を結んで居た。処が日本に全く知らせる事無くドイツはソ連と不可侵条約を結んだのである。 
 この外交上の失態を受け、平沼騏一郎内閣が総辞職してしまったのである。更にである。翌9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻、するとイギリスとフランスがドイツに宣戦、第二次世界大戦が勃発したのである。
 
 この事態の急変を受け、大本営は関東軍に戦闘の停止(3日間)を厳命、その間に日本政府はソ連に停戦を申し入れた。しかも国境は、ソ連とモンゴルの主張するラインを受け入れてしまった。詰り結果を見れば、ノモンハン事件は日本側の敗北に終わったのである。
 さて、寡兵な日本軍が優勢だったノモンハンでの戦いだが、大本営はこれ以後ソ連への対応は極めて慎重に為った。積極的にソ連と対峙すべきだと云う北進論が影を潜めたのである。又この事件での責任を負わされ、関東軍の参謀の多くは予備役に編入された。

 一方のソ連は、日本との全面戦争の憂いが無く為ると、ドイツに続いてポーランドへ侵攻して行った。逆に日本では南進論が台頭して來る。東南アジアへの進出である。
 日中戦争は2年以上が過ぎても終わる気配が無く、85万人を超える将兵を投入し続けたので、日本国内では物資の不足が深刻化し始める。如何にかして国民政府を降伏させたいが、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連などが大量の物資を送り続けて居るので困難だった。逆に日本に対して列強諸国は、経済制裁を強化する一方だった。
 
 この為、石油やボーキサイトなど資源が豊富な東南アジアへ進出しようと云うのが南進論である。北進論が消滅したのに加え、ドイツが連戦連勝を続け、フランスを降伏させイギリスを追い詰めて居た。それが益々国民の南進論への支持を過熱させた。 
 この為日本政府は昭和15年(1940)に日独伊三国同盟を結び、更に翌年、ソ連と日ソ中立条約を結んだのである。こうして北進論を完全に放棄した日本は、ドイツの勝ちに乗じて、英米との戦争覚悟でフランス領インドシナ等への進出を開始してしまう。

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 その結果、アメリカが大いに怒り、日本への石油輸出を止め、結果として日本が暴発する様な形で太平洋戦争へ雪崩れ込んで行くのである。ノモンハン事件による北進論の衰退・放棄からの南進政策の実施が、こうした流れを作った訳で、まさにノモンハン事件は歴史のターニングポイントなのである。

 何故無謀な太平洋戦争に突き進んだのか?   

 それだけでは無い。NHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦い」の制作に当たった田中雄一氏は、その著書『ノモンハン 責任なき戦い』(講談社現代新書)で「日本は何故無謀な太平洋戦争に突き進んだのか。国家の破綻を避ける事が出来なかったのか」と云う問いを発し「戦後、数多くの識者や専門家達が投げて来たこの問いにひとつの示唆を与える出来事が『ノモンハン事件』である」と明言する。

 さらに「ロングセラーとなった『失敗の本質』(戸部良一他)も、ノモンハン事件を「失敗の序曲」というべき戦いと位置づけている」として「情報の軽視、兵力の逐次投入、軍中央と現地部隊の方針のずれなど、そこには太平洋戦争で噴き出す日本軍部の欠陥が凝縮されていた」と論じ、「ノモンハン事件を太平洋戦争へのポイント・オブ・ノーリターンだとするならば、日本軍はなぜそこで立ち止まり、進むべき道を再考できなかったのだろうか」と述べている。まさにその指摘どおりだと思う
 ちなみにノモンハン事件の責任者の一人とされた辻政信は、一時左遷されたが、昭和16年(1941)に復権し、真珠湾攻撃と同時におこなわれたマレー半島奇襲上陸の作戦を主導し、その後も軍中央の命令を軽視して独断で戦いを進めていった。その後も辻の所為で作戦に大きな混乱や支障を何度も招く事に為った。



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                河合 敦 歴史研究家










失踪から60年・・・ラオスに消えた陸軍参謀・辻政信の真相




  失踪から60年・・・ラオスに消えた陸軍参謀

 「辻政信」は池田勇人首相の「密使」だった


  デイリー新潮 5/25(火) 5:56配信



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                   辻政信 5-25-1

 〜ノモンハン事件やマレー上陸作戦等を指揮し「作戦の神様」と称された陸軍参謀の辻政信。戦後は潜伏生活を経て国会議員に転じたが、1961年 視察先のラオスで消息を絶つ。以来60年・・・作家の早瀬利之氏が初めて明かされる「日記」をもとにその謎に迫った〜

 
                      * * *
 

 東京・世田谷区松原にある辻の自宅に、白いトランクが届けられたのは消息を絶ったひと月後の1961年5月下旬だった。送り主は外務省。戦後も国会議員として海外出張が多く、1年の3分の1を渡航先で過ごしていた彼の愛用トランクは半畳程の大きさで、ベージュの牛革で角が縁どられ、所々擦り切れていた。辻の二男・毅(たけし)氏(78)が回想する。

 「当時は兄が父の秘書をして居た頃で、私は大学生に為ったばかりでしたが『大使館から預かって居た物を送って来ましたからお返しします』と一筆添えられたトランクを開けて唖然としました。と云うのも、中には衣類と共に、父が最初に到着したベトナムのサイゴン(現ホーチミン)のホテルで記した61年4月4日から、タイ・バンコク滞在中の4月12日までの日記が数冊、入っていたのです」  

 処が、長男が父の消息を問い合わせると、外務省からは予期せぬ返事が。

 『そちらで勝手に調べてください』と、素っ気無く電話を切られてしまいました。母も私達兄弟も〔公務で渡航したのに何故こんな仕打ちを受け無ければ為ら無いのか〕と、泣き崩れてしまったのを思い出します」  

 そうした遺族の思いは現在も変わる事は無い。今回、二男がその存在を初めて明かして呉れた「滞在日記」では、辻の渡航が時の総理の〔特命〕だった事が確かに裏付けられて居た。  
 外務省から冷たくあしらわれた辻家では、父の消息に繋がる手掛かりを探すべく、借金で工面した150万円を手に長男が足取りを辿った。先ず香港へと飛び、当地で乗り継いでサイゴンに入って大使館関係者と面会。続いてカンボジアのプノンペンバンコクラオスのビエンチャンと足取りを追った。  
 が、各国の日本大使館や邦銀の現地支店長等を訪ね歩いても手掛かりは何ひとつ無し。およそ1週間にわたる調査を終えた長男は、悄然として帰国せざるを得なかった。  

 外務省から届けられたトランクは、ビエンチャンに在る日本大使館からタイ経由で送り返されて居た。辻が、東京銀行ビエンチャン支店行員兼通訳だった赤坂勝美と共に、大使館員の運転するジープでビエンチャンを出発したのは61年4月21日の朝だった。  
 同行者の赤坂は仏印のビンで敗戦を迎えた。当時は第14軍86連隊通信隊の伍長だったが、敗戦を知り脱走してラオスに入り、その後は自由ラオス軍の将兵として植民地奪還を目指す仏軍と交戦している。

 ラオスの奥地を最も知る日本人であり、辻が消息を絶った2年後には現地の日本大使館に職を得ている。赤坂は引き続き、過つて部下だったラオス兵と共に辻の遺骨を捜して居たが、78年8月、突然ラオス政府から「好ましく無い言動をした」との理由で国外退去を命じられ、日本に帰国している。辻と赤坂を乗せたジープはビエンチャンから北へ向かい、ルアンプラバン街道(13号公路)に到着する。

 そこで赤坂の友人に紹介された2人の青年僧と合流。運転手と赤坂に別れを告げ、辻自身も僧侶に扮して3人で歩き始めた。辻はパスポートや周恩来と一緒に納まった写真・旅行小切手や衣類・そして日本から持参したパールのネックレスなどを風呂敷に包んで青年僧に持たせ、自らはズダ袋にバンコクで買った真鍮の仏像を入れて右肩に掛け、更に北を目指して行った。  
 当時のラオスは内戦が続き、右派・左派・中道の3勢力が争っていた。辻が消息を絶ったおよそ2カ月後、産経新聞が中立派のプーマ殿下にインタビューして居り、その中で殿下は 「辻氏はバンビエンの我が軍司令部を訪れ、その後ジャール平原に行った」等と答えて居る。又同じ中立派首脳のフォンサバン内相も、翌月の同紙でこう語っている。
 「昨年5月、バンビエンに居た時、辻氏がジャール平原に行く許可が欲しいと訊ねて来た。パスポートを確認して通行証にサインした」  

 何故、ビエンチャンから100キロ北のバンビエンへと向かったのか。それはジャール平原のカンカイ村から、ハノイ行きの飛行機が飛んで居たからである。現に辻はフォンサバン内相に対し「ホー・チ・ミンに会いにハノイへ行く」と明かして居た。  
 処が、村に到着した辻は、左派のパテト・ラオ軍に捉えられてしまう。スパイの嫌疑を掛けられた彼は、61年6月頃には同軍司令官の自宅に監禁されて居た事が、通訳を務めた中国人カメラマンの後年の証言で明らかに為る。辻の足跡はこのカンカイ村で消えて居た・・・

 僧侶や大学教授に化けて
 
 辻は1902年、石川県の東谷奥村(現在の加賀市)に生まれ、山中高等小学校卒業後、17年に難関の名古屋陸軍地方幼年学校に入学した。卒業時は首席で、東京の陸軍中央幼年学校・続く陸軍士官学校も共に首席で卒業、銀時計を賜って居る。
 28年には原隊の金沢師団歩兵第7連隊に所属しながら陸軍大学校を受験。成績優秀の「軍刀組」で卒業した。初戦は32年1月の第1次上海事変で、中隊長として出撃し、足を撃たれたものの再度の出撃を果たしている。翌年秋、陸軍参謀本部付。

 幼い頃、往復12キロの通学で足腰を鍛えただけあって、前線では「参謀の見本」と呼ばれた。ちなみに陸軍では最多となる42回の異動を重ねている。その辻が、生涯にわたり信奉していたのが石原莞爾である。
 36年5月、関東軍参謀部付と為った辻(当時中尉)は挨拶を兼ねて東京の参謀本部を訪問。作戦課長だった石原と対面し、その夜は高田馬場の石原宅に招かれ、満州建国と満州国協和会の意義を聞かされた。

 石原を遣り込めてやろうと意気込んで居たものの 〈満州建国の精神は民族協和に置き、日・満・漢・蒙・鮮の5族は日本を中核として相互に協和融合する。その理想を達成する為に満州帝国協和会を使った〉 そう聞かされ考えを180度転換させられた。以後、辻は石原を「先覚の導師」と呼び、石原の東亜連盟運動に加担して行く。  

 実戦での辻は機略縦横にて勇猛果敢・奇襲戦法を得意とする辣腕の参謀で〔何をしでかすか分からない男〕だった。41年12月8日のマレー・シンガポール攻略作戦を立案し、自ら前線を指揮。織田信長の桶狭間・上杉謙信の川中島の戦いを思わせる奇襲作戦は的中し、英軍を駆逐して世界を驚嘆させた。  
 前線に立ったのは32年1月の上海事変から45年6月5日、バンコクの第39軍司令部に作戦主任参謀長として着任する迄の13年余り。

 バンコク着任時はビルマで負傷した右腕を首から吊り青竹の杖を着いて居た。初陣と為った上海での2発を初め前線で計7発の敵弾を受けて居り「ビルマでは皮肉にも日本製の銃でゲリラ兵に撃たれた」とも語って居る。二男の毅氏によれば「子供の頃、風呂場で父の背中を流した時、傷口が無数に突起して居たのを覚えています。体に受けた7発の弾の小さな破片が、未だ沢山入ったママで、触るとデコボコしていました」

 終戦をバンコクで迎えた辻(当時大佐)が、タイの僧侶に扮して潜伏生活に入ったのは玉音放送の2日後である。潜伏を勧めたのは第18方面軍の浜田平(ひとし)参謀副長だった。辻の著書『潜行三千里』によると、司令官室で行われた最後の会議で、浜田は静かに「辻君、頼む。これからの日本は十年二十年忍ばねば為らぬ。出来る事なら中国に潜行し、アジアの将来の為に新しい道を開いて呉れんか」と切り出したと云う。

 辻は「大陸に潜り、仏の道を通じて日タイ永遠の楔(くさび)に為ろう」と決意して黄衣を纏い、僧侶出身の特攻志願兵7人と共に8月17日、タイに潜入。そのひと月後、浜田は自決した。
 最初に身を隠したのは、英軍の爆撃で破壊された寺の境内に在る小さな日本人納骨堂だった。現地では「青木憲信」と云う偽名を用いていたが、9月15日にはその行方を追う英軍の先遣隊がバンコクに着陸。程無くタイの警察も寺を見張り始めた為、一行は暗闇の市街に散る事と為った。  

 ラオスとの国境の町ウボンを目指した辻は、メコン川を渡って対岸のビエンチャンに到着。そこから再び川を下る。下船後は陸路サハナケットへ。ベトナムの東海岸沿いにフエからビンを経てハノイへ向かった。そして空路で昆明(こんめい)に。46年3月には重慶(じゅうけい)に入り、以降2年余りにわたり、国民党の庇護の下大陸での潜伏生活に入ったのである。
 48年5月16日には北京大学の教授に扮して上海からの引揚げ船に乗り、10日後、佐世保に到着。船内では永井荷風の甥と隣り合う等し、この時の心情を『潜行三千里』では 〈初めて歩一歩埠頭の土を踏んだ時、人目につかぬようにソーッと一握りの土をすくいあげて香りを嗅いだ。六年振りに嗅ぐ祖国の土の香である。国敗れたれど山河は残っていた〉 そう記している。

 ベストセラー作家から国政へ
 
 最も、念願の帰国を果たした辻の身柄には、戦犯容疑で英国から懸賞金が掛けられて居た。日本の巡査も辻の母親や妻子・兄弟まで尾行し全国に顔写真が配られて居た為、国内でも炭鉱や無住寺に身を潜め、又東京・奥多摩で樵(きこり)や車引きをする生活を余儀無くされた。  
 戦犯指定が解除されると、辻は書き終えていた手記『潜行三千里』を早速「サンデー毎日」で発表し単行本もベストセラーと為った。参謀員は日記を着ける習わしがあり、辻も中国大陸に居る間、大型のノート3冊に毎日の行動を記して居た。

 又潜伏中には、自身の参戦を回想した『十五対一 ビルマの死闘』を、その後『ノモンハン』『ガダルカナル』も書き上げている。52年2月刊行の『シンガポール』も大いに売れ、戦記作家として所得番付にも名を連ねるに至った。
 スッカリ時の人と為った辻は52年6月、中央大学講堂で5千人の学生を前に講演し「米ソ戦の渦中に入るな」と題して「中立の可能性はないか」「吉田総理は李承晩によく似ている」「既成政党は何故自衛自立を叫び得ないか」等と説いた。

 その頃、戦前から衆議院議員を務め、石原莞爾の盟友でもあった木村武雄によって「導師」の死の詳細を知らされ号泣した辻は、政界進出を打診されて腹を決めている。
 その2カ月後には、金沢の兼六公園で5万人の大聴衆を前に「アジアの黎明」と題して「蒋介石はなぜ負けたのか」「海外へ出ない軍隊を」「民兵で治安を護ろう」等と講演。これが、旧7連隊(金沢)の仲間達が辻を国政に担ぎ出す切っ掛けにも為った。  

 52年10月の総選挙で、辻は印税収入を資金に無所属で石川1区から出馬しトップ当選した。再選は「バカヤロー解散」後の53年4月。55年には日本民主党から出馬しトップで3選。更に58年、岸内閣の下で自民党から出て最下位で4選を果たしている。  
 が、辻は金銭面で岸を追及した為59年4月に党を除名される。そのママ議員辞職すると直ちに鞍替えし、6月の参院選では無所属で全国区から立候補した。選挙戦では岸の地元・山口県で第一声を上げ「岸はロッキード社から金を貰った」と徹底的に攻撃。結果は全国3位の快勝だった。  

 辻は鳩山一郎政権下の55年9月、中ソ訪問議員団のメンバーとして北京を訪れ周恩来と会談している。2度目の海外視察は57年1月で、中近東14カ国を視察し、最後に北京に立ち寄って周と再び会談。この時に撮影したチトー・ナセル・周恩来との写真は複写し、60年前の「死地への旅」にも携行して居た。

 池田勇人からの「餞別」
 
 61年4月、参議院に40日間の休暇願を提出した辻は、視察目的でインドシナ半島へ渡航する。出発前夜には何時も通り自宅で夕食を採りながら、家族には「参院の東南アジア旅行の順番が当たった」とだけ伝えていた。
 主たる目的はベトナム戦争を回避する為ホー・チ・ミンと会談する事だったが、身内にもその〔重大任務〕に付いては告げて居なかったのである。トランクの荷物の中には、ラオスの殿下夫人へ贈る為のネックレス2本と共に針と糸も入って居た。  

 この裁縫用具に付いては郷里の山中温泉にある高級旅館「かよう亭」の上口(かみぐち)昌徳社長が当時、議員会館を訪ねた際「僧衣を現地で縫う為に持って行く」と聞かされている。前回の潜伏生活の体験から必要性を感じて居たのだ。
 そもそも辻は何時、東南アジア視察を思い立ったのか。諸説ある中で毅氏は 「その年の3月、私が東大に合格した事で父は『これで息子は、オレが死んでもメシが食える』と安堵し、渡航する決心が着いたのだと思います」
 
 そう推し量る。一方で当時、池田勇人首相は、6月に米大統領ジョン・F・ケネディとの会談が予定されて居た。ケネディは就任後の1月にベトナム・ラオスなどインドシナ問題に取り組む方針を打ち出しており、辻は渡航前に池田と〔ラオスに入ってインドシナの情報を報告する〕約束を交わしている。
 辻は日頃から「アジアはアジア人の手で、ベトナムとラオスはホー・チ・ミン政府でまとめることだ」と考えていた。  

 ラオス行きは飽く迄辻本人の意思によるものだったが、池田はその資金として2度に分けて200万円を手渡している。辻は又、池田の秘書だった伊藤昌哉「南方の飛行機は頼り無い。もし事故でも遭ったら、僕の秘書の面倒を見て欲しい」 「ラオスを通ってハノイへ出たい」等と話していた。
 出発の朝は、常々口にしていた「軍人は戦に為ったら昼も夜もメシが喰えんから朝食べて置く」との主義通りに朝食を平らげ公用車に妻子と同乗して飛行場へ。毅氏は 「父は、飛行機のタラップを上がってからの様子が何時もと違いました」と、こう述懐する。

 「機内に姿が消えて間も無く、父は入口の所に戻って来て私達に手を振ったのです。それが4回ありました。戻ったかと思うと、又タラップの所に出て来てコッチを見て、何か言いた気に・・・私たち家族が父の顔を見たのはこれが最後でした」

 辻は200字詰めの原稿用紙に日記を綴って居た。4月4日、香港に到着し、1時間後サイゴン行きに乗り継ぐ。旅行中の日記によると、同日にサイゴンの日本大使館で大使と会い、次の日はゴ・ディン・ジエム大統領と会談。
 その傍ら、旧知の人からベトナムの政治・経済・軍事について聴き、町を歩いて民心を視察する。サイゴンには7日まで滞在し、翌日プノンペンに飛ぶ。4月10日、プノンペンからバンコクへ入る。何れの地でも大使と会い、政情やラオス内戦の様子などを聴く。

 バンコクには過つてのタイ人の部下が居り、3派に分かれたラオスで左派のパテト・ラオ軍にソ連・中共の支援が強まって居る事など、インドシナの軍事情報を精力的に収集した。バンコクには13日まで滞在、大使館の手配でビエンチャンまで飛行機で送って貰う。
 12日の日記には〈今、池田総理への報告書を書き上げた〉とある。ベトナム・カンボジア・タイで得た相当な情報を書き連ね、翌13日には大使に航空便での発送を頼んだとみられるが、無事池田の基に届いたかどうかは今もって定かでない。  

 前出の池田の秘書・伊藤は「辻個人の調査で、池田は依頼して居ない」と語って居るのだが〔公務〕だった事は日記からも明白である。同じく前出の「かよう亭」社長の上口氏は、議員会館の辻の部屋に池田の別の秘書が「池田からの餞別です」と、特製の日本酒を届けに来た場に偶然居合わせている。製造元は広島・竹原の池田の実家で、忠義の「忠」に勇人の「勇」「忠勇」と云う銘柄。特別な人にしか渡さ無い、云わば「誓いの印」の酒だった。
 秘書はこの時「池田から〔ご無事でご報告をお待ちしています〕との事です」と告げ、封筒も渡して去って居る。  

 この時、残りの100万円が手渡されたのだろう。バンコクのホテルで最後の報告書をまとめ上げた辻は大役を果たし、さぞ肩の荷が下りたに違いない。

 「辻先生は私に、戦争を回避する為ハノイでホー・チ・ミンと会い、その後昆明・香港を経由して北京に入り帰国する予定だと話していました」上口氏はそう明かす。バンビエンを発ってジャール平原でパテト・ラオ軍に捕えられた辻の消息に付いては、後に赤坂の部下だったラオス兵の一人が 〈3人の兵が平原で辻を銃殺し、近くに埋めた〉と信憑性のある証言をしている。

 またハノイ駐在のラオス大使も、日本の商社員に「ジャール平原で捕まった辻は、パテト・ラオに殺された」と語っている(田々宮英太郎『権謀に憑かれた参謀 辻政信─太平洋戦争の舞台裏』参照)  
 辻の銃殺を指揮したのは上級将校では無く、一地区長の判断だったとの情報もある。言葉が通じ無い中、何をもって辻をスパイと決め着けたのか。毅氏は次の様に推測する。

 「父を殺したのは軍事産業の手下の者ではないでしょうか。ベトナムでの戦争回避に動いた父が、恐らく邪魔に為ったのです」  

 一方で、監禁されて居たカンカイ村の司令官の家から辻が脱出し、ビエンチャンに引き返そうとした処で再び捕まったとの説も消えて居ない。ともあれ、現職の国会議員が国交のあるラオスでスパイ扱いされて殺されたと云う「事件」が起きながら、政府は辻の行動を〔私的な視察旅行〕と見做したママ、60年経っても事実関係を調べようとしない。国を挙げて遺骨収拾に取り組むべき処、今尚遺骨は探せ無い状態である。
 (文中一部敬称略)

 早瀬利之(はやせとしゆき) 作家 昭和15年長崎県生まれ 昭和38年鹿児島大卒 著書に『タイガー・モリと呼ばれた男』『石原莞爾 満州ふたたび』『敗戦 されど生きよ』などがある

「週刊新潮」2021年5月20日号 掲載 新潮社



 〜管理人のひとこと〜

 参謀・辻正信氏の名前は、管理人のレポートの中でも、特に軍記ものの中では「悪役」として頻繁に出てくる。学校では秀才で通り士官学校・陸軍大学の首席だった・・・とあり、実務の面でも行動でも頭脳に偏らず率先して行う模範的軍人だった様だ。
 他人より明晰な頭脳で果敢に事に対する・・・出世街道を進み終戦時は大佐・参謀だった。詰り頭でっかちな文人では無く行動が伴う武人で、上から評価の高い優等生なのだ。散々手前勝手な行動をして周囲を煩わせただろうが、真面目で真摯に取り組む秀才は、何をしでかしても許されたのだ。それだけ期待も大きかった。 誉れ高い彼の人生で、最後が尻切れトンボに為ってしまったが、最後まで波乱に飛んだ一生だった訳だ。

                    以上













 





「松鶴家千とせ」が明かす「浅草芸人」伝説




 「ビートたけしは酒を飲んで収録に来た」「渥美清にバカヤローと怒られ・・・」 

 
 「松鶴家千とせ」が明かす「浅草芸人」伝説

 デイリー新潮 5/24(月) 10:56配信


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               松鶴家千とせ 5-24-4


 アフロヘアにあごひげ、サングラスと云うファンキーな出で立ちで登場し、お茶の間を沸かせた松鶴家千とせ師匠(83)は、長年浅草を活動の拠点にしている。百花繚乱の芸人達と、ウツロウ街を大いに語るぜ、イェーイ・・・

                  * * *


 「ポン!」 「嫌、それロンや!」 「アチャー、遣られた!」


       5-26-4.jpg 中田ダイマル・ラケット 5-26-4

 今からおよそ50年前の名古屋の大須演芸場。本日最初の漫談の舞台を終えた松鶴家千とせは、次の出番まで大阪の兄弟漫才師の中田ダイマル・ラケット等と何時もの楽屋麻雀に興じていた。 高い手を振り込んで腐って居ると、そこへ「師匠の芸風を慕ってます」と言って無名の若手漫才コンビが闖入して来た。

 「僕は、テッキリベテランの中田さん達を訪ねて来たんだろうと思ってたんです。そしたらダイマルさんが『わてらでっか、それとも、東京はんか』って二人に聞いた。詰り、どっちの師匠が目当てなのかを確認したんです。すると、コンビの片割れの猫背の方が『東京ハン・・・嫌、千とせ師匠です』って、ボソボソッと言うじゃない。ナンだ、僕なのかって。それが、ビートたけしとの初対面でした。  
 その少し前迄僕が組んで居たコンビの漫才を見て居たそうで『パンチの効いたネタが好きでした』なんて言うんだけど、終始俯き加減でシャイと云うよりネクラな印象。これは、その後もずっと変わら無かったですがね」



      5-26-5.jpg ビートたけし  5-26-5


 やがてツービートと為るビートたけし(74)ビートきよし(71)の両人と出会った日の事を、千とせはこう振り返った。
 1938年 満州生まれの福島育ち。15歳でジャズシンガーを目指して上京し、夫婦漫才の松鶴家千代若・千代菊に入門。70年代半ば、アフロヘアにサングラス姿で「俺が昔、夕焼けだった頃」と始まる漫談で一世を風靡。レコード「わかんねェだろうナ」は160万枚のミリオンヒットと為り、映画「トラック野郎 望郷一番星」にも出演した。
 アレから半世紀、千とせは、戦後浅草の黄金期を知る数少ない生き証人と為ったが、その「浅草の灯」が消えたと言われて久しい。

 「70年代まで浅草には、お笑いや演芸系の事務所だけで大小合わせて60は在ったんじゃないかな。それが今やホボゼロと云う有り様。淋しい限りです」


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               華やかなりし浅草六区街 5-26-6

 終戦後、東京随一の歓楽街「浅草六区」は、演芸場初め寄席・映画館・浪曲や女剣劇の常打ち小屋などが犇(ひし)めく、まさに日本のブロードウェイだった。中でも男達の鬱屈を晴らして呉れたストリップは人気で、ロック座・東洋劇場等、何処も大盛況。  
 ビートたけしの古巣とも云われるフランス座には、明日のスターを夢見る若手芸人だけで無く、井上ひさし等作家志望も集まり、浅草文化の中心とも称された程。由利徹・渥美清・コント55号を結成する坂上二郎と萩本欽一(80)等、後に日本の喜劇界を牽引する錚々たる顔ブレが、ダンサーの煽情的な踊りの合間にコントや寸劇を演じて居た。


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                 渥美清 5-24-7

 「国民的俳優と為る渥美さんですら、当時は未だ自分のスタイルも出来上がっていなくて、何時も物静かに他の人の芸を観察して居る印象でした。浅草に限らず、今では名優と呼ばれる伊東四朗さんも、てんぷくトリオの一員で、大人しい感じの人でした。
 昨年、惜しくもコロナで亡くなったザ・ドリフターズの志村けんさんも、所謂坊や時代で、何時も慌ただしく下働きして居た。夫々に、三波伸介さん、いかりや長介さんと云う強烈な個性のリーダーの下で、自分の芸を存分に発揮出来るタイミングを待って居たんですね」



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 闇営業での交流
 
 「ソモソモ幕間の寸劇など、女の裸が目当ての男性客は見向きもしない。結局は、トイレタイムと為るのがオチ。そこを、どう自分に目を向けさせるか。少しでも場数を踏みたくて飛び込みで劇場を訪ね、幕が開く前の10分を貰って、そこで芸を遣らせて貰ったり・・・ 僕等に取って、当時の浅草は町全体が芸の学校みたいな感じで、色んな学びの場があったんです」


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                 由利徹 左 5-26-7

 その一つが、事務所や師匠のワクを超えた正規では無い営業。云わば、2年程前に吉本興業のタレント達が世間を賑わせた〔闇営業〕だった。

 「例えば、地元浅草の不動産会社の社長さんが、創業記念の集まりや忘年会とかに、タニマチと為って芸人を呼ぶんです。芸人側にも、面倒見の好い世話役が居たものです。僕は、関敬六さんから好く声を掛けられて居ました。  
 そこで僕ら若手は、普段は見られ無い他人の芸に触れたり、時には司会迄遣らされますから、自然に腕が磨かれるんです。そんな宴席には、フランキー堺さん等も居て。彼の様な大御所は破格のギャラだったでしょうが、僕らは小遣い程度でしたね。或る時は、矢張りフランス座出身の俳優の長門勇さんの代役で、浅草から九州くんだりまで営業へ行った事もありました」



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                  長門勇さん  5-26-8


 好く働き好く遊んだ・・・飲む打つ買うは、浅草芸人のまさに芸の肥やしだった。

 「酒を飲みに行って、イザお勘定と為った時『金が無い』『俺も無い』で、誰一人キャッシュを持って無かった事も。それでも、先輩の顔パスで飲めたし、居合わせた客が贔屓の芸人がいると云うので奢って呉れたり。 たこ八郎さんなんて、芸人達を引き連れてベロンベロンに為って飲み廻ってる姿を好く目撃したもんです。楽屋では、麻雀は勿論、花札にチンチロリン。これも、胴元に為る人は決まってました。意外に、漫才師では無く落語家の真打だったりするんです。  
 テレビでお茶の間の人気者だった或る師匠は『オーイ、集まれ』で、落語家も漫才師も垣根無く誘って呉れました。この人は吉原へも大勢で繰り出して行く。でもね、ヤッパリ遊んで居る人の方が魅力的で、人も集まるし芸にも艶があるんですよね」
 

 今では御法度だが、当時の浅草では未だヒロポンも蔓延して居た。

 「これも、師匠が『ヒロポン、行くぞ』と声を掛けると、弟子がソソクサと準備を始めるんです。そうそう、一時はパイプカットも芸人仲間で流行って『皆で遣ろう』ナンて大騒ぎした事もありましたっけ」  

 落語家の話が出たが、お笑いと古典落語のジャンルを超えた交流も今以上に盛んだった。


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 「噺家の世界で楽屋のムードメーカーだったのが、眼鏡がトレードマークの月の家圓鏡さん(後の八代目橘家圓蔵)好く、連れ出して貰いました。 『笑点』の司会をして居た五代目三遊亭圓楽師匠は、偶々家が近所のご縁もあったんだけど、楽屋でも何時も笑顔で、まさしく〔星の王子さま〕でした。好くゴルフをしたのが古今亭志ん朝さん。不思議にウマが合ったんです」

 「酒飲んでました」

 そんな修業の期間を経て、実力コンビ〔千とせ・羊かん〕として、NHK漫才コンクールでは本選の常連に為って居た千とせだったが、相方とケンカ別れで3年でコンビ解消。33歳にして漫談に転身した3年後、前述の「わかんねェだろうナ」のギャグで大ブレイクを果たす。

 「レコードに映画にCMも20社以上で、人生が一変しました。電話はボンボン掛かって來るし、所謂ダブルブッキングしちゃって、天下のNHKさんから『コッチは1週間の出演を保証するんだ、向こうを断って呉れ』ナンて無茶言われて困ったもんです」  

 1日にテレビ番組5本を掛け持ちし、ギャラは15分の出演で100万円にも跳ね上がり、ヤガテ自身の個人事務所を設立。ジャズのノリを取り入れた斬新な漫談で第一線に躍り出た訳だが、これを最初に認めて呉れたのは意外にも落語界の大物だった。

 「立川談志さんが『アイツのネタは、全部自分で考えてる。頭の中を割って見てみたい』ナンて言って呉れた。アノ人らしく、オリジナル性を高く評価して呉れたんです。そう云えば、談志さんも東京は小石川の出身ですよね」
 

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                  立川談志 5-26-10


 千とせが売れ始めた頃、足並み揃えてでは無いが、出会って以来、何かと面倒を見て来たツービートも世に出て行く。今でも鮮明に記憶して居ると云う〔騒動〕が起きたのは、テレビで初共演した時のこと。
 千とせの計らいで山城新伍の「独占! 男の時間」に出る事に為ったツービートだったが、本番当日2時間も遅刻して来たかと思えば、赤い顔して神妙な面持ちで座っている。


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                 ツービート 5-26-11


 「お前ら、何してたんだ」尋ねる千とせに、たけし「初めてテレビに出るから、オッカナクテ酒飲んでました」  スタジオ中が酒臭く為る程だったと云うが、千とせは怒鳴りはしなかった。「嫌々、何だか可愛いな、と思ったんですよ。それ位ウブな方が、これから素直に伸びて行くんじゃないかって」  
 実際、コンビ躍進のカギを握るボケとツッコミの役割について、千とせが助言した時にも、

 「ツービートは、当初、リズム感が悪かった。と云うのは、山形出身のきよしが中心に喋って居たから、訛りで漫才のテンポが止まって居たんですよ。二人の役割を逆にする様に言ったら、足立区生まれのたけしのスピード感ある喋りに、きよしが『よしなさい』でツッコミを入れるスタイルがハマった。  
 そのうち、テレビでの見せ方も判って來る。3分間での勝負なんだからもうボケもツッコミも無い、時には入れ代わったり両方ヤレと云う風に変わって行って、それをアイツらも見事に熟しながら自分達の芸風にして行った、生まれ変わった様だった」
 

 舞台での度胸は、最初から据わって居たと云う。

 「それは、たけしもフランス座の裸と裸の間で鍛えられてたから。だから僕も直ぐにもテレビに出して遣ろうと思って居たら、アノ酔っぱらい騒動だった。アノ頃、僕の追っ掛けみたいな風来坊も浅草に居て、こっちが小遣い迄挙げる様に為って居たんです。或る時、ソイツが泣きながら楽屋まで来て言うんだ『たけしに千円取られた』って。  
 後で聞いたら、たけしの野郎『どうせ、千とせ師匠から貰った金だろ』って、ソイツから千円巻き上げて飲みに行ったって云うんだ。でも、ヤッパリ何処か憎め無いキャラクターでしたね」

「千とせ、バカヤロー」
 
 要約、夕焼け漫談で頂点を極めた千とせだったが、売れた事で思わぬ誤算もあった。

 「渥美清さんとは不思議なご縁で、渥美さんの弟子だった男が漫談を勉強したいと云うんで、僕の処へ弟子入りして来たんです。キッと、それを恩義に感じて呉れて居たんだろうね。或る時、渥美さんが遣って来て言うんです。『千とせ。何やってるんだよ、バカヤロー』 どうも、浅草の後輩で夕焼けネタで話題だった僕を、松竹の映画『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』にキャスティング出来ないかと考えて居て呉れたみたい。なのに僕は、先にライバル東映のトラック野郎に出ていた。
 この二つの映画は、公開年も同じ76年なんです。色々想像しましたよ。親分格の渥美さんが夕焼けで、子分の僕が小焼けで、アノ寅さん映画で〔夕焼け小焼けコンビ〕を演じて居たら・・・とかね。勿論トラック野郎も嬉しかったんですが、渥美さんとは同じ浅草育ちですから、是非共演したかった。マア、ツクヅク逃した魚は大きい」


 今でも口惜しそうだ。

 「結局、渥美さんとはその弟子の結婚式で同席したりしましたが、その後、アチラは着実に映画俳優としての地位を築いて行って接点は無く為りました。多分僕だけで無く、誰も渥美さんと個人的なお付き合いは無かったのでは。
 仕事の現場に居た筈が、飲み会等に為るとフッと消えて居るんです。芸人同士の交流は余り好ま無い様子で、渥美さんやフランキー堺さんは、所謂〔ドロン〕の天才と言われてましたね」



     5-26-14.jpg フランキー堺 5-26-14
 

 ブレイクから間も無くして、千とせはアメリカ進出を図る。現在、吉本興業所属の女性タレントである渡辺直美の渡米プランが話題だが、その意味では元祖渡米芸人とも云えそうだ。

 「渡辺さんはチャレンジでしょう。だが、僕の場合は、急に売れて、このままハードスケジュールを熟していたら命を取られると思っての逃亡でした。3年も海外を行き来して日本のテレビに出無いで居たら、何時の間にか『元祖一発屋』ナンて事に為って、もうお呼びじゃ無いと判るんです。僕らは、テレビの使い捨て世代の第一号なんです」  

 皮肉にも、この80年代初めから漫才ブームが巻き起こり、ツービートやB&Bが爆発的人気を博し、テレビでも「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」が始まる。

 「帰国して舞台に上がると、お客さんが僕の悪口を言っていると感じる様に為って居た・・・対人恐怖症の診断でした。仕事も激減した時、たけしが自分がメインの『元気が出るテレビ!!』に呼んで呉れたり、きよしも地方のCM出演に誘って呉れたんです。立場が逆転した様でしたが素直に有難かった。  
 僕が貧乏してると思ったのか、たけしが、女房宛てに立派なカニを送って呉れた事もありました。カニは僕の好物と云うのを知ってたんじゃないかナァ。アイツらしいです。アノ頃からですね、浅草が途端に元気を無くして行ったのは」


 浅草に恩返し
 
 フト気付けば、数多の芸人達がキラ星のごとく輝いて居た浅草の時代は遥か彼方へ。M-1初め昨今のテレビのお笑い番組等を見ても、吉本興業や大手芸能事務所が半ば独占状態。浅草の笑いが衰退した理由を、千とせはこう語った。

 「東京の芸人は、昔から群れ無い傾向がある。今も、事務所に属さずにフリーで遣って居る人は実は多いんです。自然、テレビからの声は掛かり難い。その上、狭量な小屋主達が居て、他所の舞台に立った芸人をシャットアウトしたりするから、若手も伸び無い」  

 その若手の側も又、随分変わった。

         5-26-13.png 東八郎さん 5-26-13


 「今じゃ、師匠に弟子入りして苦労するより、50万円もの授業料を払って大手事務所の芸能スクールに入ろうって云う時代でしょう。詰り、遊びが無い。闇が好いとは思いませんが、師匠から伝承されたり侠客文化みたいなもので成り立って居た浅草の魅力も在った筈。  
 僕らは〔浅草っ子〕と云いますが、東八郎さん初め内海桂子師匠・浅香光代さんに欽ちゃんやたけしなんかもそうだが、元々浅草や近辺の生まれ育ちで、江戸の匂いを感じさせる芸人さんもスッカリ居なく為ってしまった。マア、東京組で今も頑張ってるなと思うのはナイツ位でしょうか」
 

 浅草が往時の輝きを取り戻す日を信じて、千とせは今日も自ら舞台に立ち続ける。


 「恩返しの積りで、若手もベテランも集め『うたとお笑い』と題した演芸会を毎月木馬亭で主催して居ます。浅草の笑いのファンを増やすには、生の舞台を見て貰うに限るんです。その為にも、お客さんがドッと集まって来る様な新時代のスターが早く出て来ないかなぁ」


 堀ノ内雅一(ほりのうちまさかず)作家 ノンフィクションライター

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 1958年 北九州市小倉生まれ ノンフィクションライターとして主に人物ドキュメントなどを手掛ける 著書に『阿部定正伝』『指紋捜査官』など 「週刊新潮」2021年5月20日号 掲載 新潮社



 〜管理人のひとこと〜

 文章にもある「一発屋」・・・幾程の芸人がこれに泣かされたのだろうか。偶々注目を集めた芸人が特異な芸をする為に集中的にTV番組に出させる・・・この売り方を「一発屋殺し」とでも云うのだろうか。恐らく半年もせずに飽きられて廃れるのがオチなのだ。
 が、TV局や芸能界は、何度も何度もこの下手な売り出し方をしては「一発屋」を量産する。特に小学生や幼児にも流行る「リズムねた」に多い様だ。何故判り切った事を何度も・・・と思うのは今に始まった事では無い様だ。中には再度ブレークする芸人も居ないでは無いのだが、ホントに限られた人しか存在しない・・・芸人を人材としてでは無く、何処からでも調達可能な消耗品としか観ていない商業主義の塊のようなものだろう。芸人の方も「断る」テクニックを知らなくてはなら無いのだが・・・こちらの都合でコントロール出来る程この社会は甘く無いのだろうが・・・


















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