アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2019年11月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2019年11月24日

アナタの「家紋」は? 知ら無い人増え危機 背景に文化全体の揺らぎ 




 


 

 アナタの「家紋」は? 知ら無い人増え危機 背景に文化全体の揺らぎ


         〜兵庫・丹波篠山市 丹波新聞 11/24(日) 9:00配信〜


      11-24-20.jpg

                墓石に刻まれた家紋


 〜知ってますか? アナタの家の家紋・・・バリエーションも含めれば2万種近くもあると云われる日本独自の紋章「家紋」戦国武将や有名大名のみ為らず、世界的に見て名字が非常に多い日本には大半の家に存在する。しかし研究者によると、自分の家の家紋を知ら無い人が増え、このママでは一般社会から消えてしまう恐れもあると云う。日本固有の文化に危機が迫って居る。ソモソモ家紋とは何か。危機の原因は何なのか〜







 その前に、一寸エピソードを・・・ 地図から消えた村 祟り恐れ住民ら毎年墓参り

 11-24-2.jpg

 夙村の跡 現在はスギやヒノキの植林に覆われて居る 2018年9月23日午前10時29分兵庫県篠山市味間南で

 兵庫県の内陸部にある篠山市に、江戸時代に忽然と地図から姿を消した村がある。近隣住民は今も村民の墓を大切に守り、毎年、秋分の日に手厚く祀って居るが、墓参りの起こりは「祟りを恐れて」の事だった。消え去った村「夙(しゅく)」に迫る。

 通婚差別も香典やり取り 緩やかに交流

     11-24-3.jpg

 夙村の人々との香典のヤリトリを記した香典帳を手にする御前さん。「しく」「夙」の字が見て獲れる

 夙村が在ったのは、現在の味間南(約160戸)の中。村の在った場所は、現在、植林されたスギやヒノキが林立する森に為って居るが、その山中には屋敷跡と見られる台地が点在し、1カ所に集められた墓石や石仏など約30基が鎮座して居る。
 夙村の研究をして居る住職・酒井勝彦さん(74)によると、1687年(貞享4)の日付がある「篠山領地誌」に夙の記述が登場する。大辞泉によると、夙とは「江戸時代、畿内多く居住し、賤民(せんみん)視された人々」とある。
 「夙村の人々は、通婚の差別は受けて居た様だが、疎外されて居た訳では無く、味間南とは緩やかな交流があった」と酒井さん。その証拠に味間南の旧家の御前昇さん(85)が保有する御前家の江戸時代の香典帳から、夙の人々と香典を遣り取りして居た記述が見付かって居る。

 柿渋師集団の村か

 11-24-4.jpg

  夙村の跡 80戸を形成した時期もあったとされる 現在はスギやヒノキの植林に覆われて居る

 嘉永4〜5年(1851〜52年)に書かれた「多紀郡明細記」に「柿渋師 夙村ノモノ」の記述がある。柿渋は、未熟な青い柿の実を砕いて絞り、その汁を発酵・熟成させて作る赤褐色の液体。防腐・防水効果や、補強、医薬品、紙布の染料等、当時は多くの利用があったとされる。
 酒井さんは「夙の人々は柿渋を製造する職人集団で、柿を求めて各地を巡る出稼ぎの人々だったのでは」と話す。

 疫病蔓延? 80戸が7年で7戸に

 一時期、80戸を誇る大きな村を形成して居た夙村だが、嘉永年間(1848―55年)の僅か7年の間に7戸に迄戸数を減らし、更にその後、全戸が無く為ったと云う記述が1884年(明治17)に編さんされた「兵庫県多紀郡地誌」にある。
 「僅か7年間と云う短期間で7戸に迄減ったのは疫病が流行ったからでは」と酒井さんは推測。自寺の過去帳から葬儀件数を割り出した処、同時期の件数が平年の4・4倍にも跳ね上がって居り、近隣の他の寺においても高い値を示して居る事実から「村の9割近くがアッと云う間に無く為ってしまうと云う事は、矢張り流行り病が原因と考えてしまう」と話す。

 大火相次ぎ 明治期から供養

 11-24-5.jpg

           夙村跡で墓参りをする味間南の住民たち

 その後、明治中期から後期に掛けて味間南で火災が続いた。余りに相次ぐ大火に、当時の村人達はその原因を「消滅した夙の人達の霊を放置して居るからだ」と噂した。そこで村人達は、夙の村跡の掃除をしたり、夙の氏神であった加茂神社の御神体を味間南の岩上神社に、仏像(阿弥陀如来坐像)を同集落の地蔵堂に夫々祀る等した(1908年)
 更に、山中に散在して居た夙の人々の墓石を1カ所に集め、毎年、秋の彼岸には地元の住職を迎えて供養をする様に為った。以来、大きな火事は起こって居ないと云う。

 今年も住民約30人が村の跡が残る集落東部の井根山の麓へと向かい、墓掃除を行った後、墓前にシキミや線香等を供え、森の中に読経を響かせた。今年も無事に墓参りを終えた味間南自治会長の男性(67)は「事の始まりは祟りを恐れての事だったかも知れない。しかし現在は、過つての隣人の墓があると云うのに何もしないのは忍び無い、と云う気持ちで祀って居ます」と言い「もう既に我々の世代では夙に付いて詳しい事は判ら無い状況に為って居るが、そう云う村が実在したと云う歴史を、この墓を守りながら後世に伝えていかなくては」と話して居る。

 2018年10月2日 カテゴリー  ニュース  丹波篠山市 エピソードおわり


 




 本文に戻る「家紋の発祥は平安後期とされます。先ず、世襲する領地や財産が出来、他の家と区別する為に名字が増えた。そして、公家の西園寺家が自分の乗る牛車が直ぐ判る様に印(巴紋)を着けた。これが公家の間で流行った訳です」

          11-24-21.jpg

        家紋に付いて研究して居る田中さん 兵庫県丹波篠山市黒岡

 そう話すのはネットサイト「家紋ワールド」を運営する研究者で、日本家紋研究会理事の田中豊茂さん(66)兵庫県丹波篠山市 田中さんに教えを請いながら家紋の歴史を紐解いた。

 発祥は公家の間の「ブーム」

 平安後期に流行した家紋は牛車だけでなく、衣服や調度品にも使われる様に為る。そして平安末期から武家が台頭し、鎌倉時代に入って武家社会に為ると、武士達は戦場での武功をアピールする事や敵味方を識別する為、武具や旗等に家紋を入れる様に為った。そして、武功に対する恩賞として領地が与えられたり、又、領地替えがあったりした事で、武家と共に家紋も爆発的に全国に広まった。因みに公家の家紋は雅な印象。武家は武骨で目立つものが多いそう。

 江戸時代に為ると何と云っても「この紋所が目に入らぬか」でお馴染み、徳川将軍家の「三つ葉葵」が家紋ヒエラルキーの頂点に立つ。権威の象徴でもあり、同時に憧れでもあった様で、庶民の中でも歌舞伎役者や遊女、浪人等元は武家の流れを汲む人々も家紋を使い出した。
 そして明治。武家は衰退したものの、庶民も名字を名乗る事に為り、特に禁止され無かった家紋が再び浸透した。家紋は常に日本の歴史と共にあった。

 都市部出る人増え忘れられ

 明治、大正、昭和、平成そして令和を迎えた今、自分の家の家紋を知ら無い人が増えて来て居る。田中さんによると、家紋と云う文化が色濃く残って居たのは地方部。しかし、往来が自由に為るに連れ、田舎を離れて都市部で暮らし始める人が増える。そんな家庭が世代を経て行くうちに、名字は伝わっても家紋は忘れられて行ったのだと云う。背景には、刀や調度品等家紋を入れて子孫に引き継ぐモノが減った現実がある。
 例えば着物。洋装が基本に為り、大人で家紋入りの着物を着るのは結婚式位に為った。「着物文化」の衰退は家紋の危機に密接に関係して居る。

 更に近年では「継ぐ人が居ない」「管理が大変、費用も掛かる」等の理由で、家紋が刻まれる事もある墓の「墓じまい」が進む。墓には家紋以外にも先祖の情報も多く記されて居る為、自身のルーツを辿る事が更に難しく為る。
 日本の文化全体の揺らぎに伴って、家紋も危機を迎えて居る様だ。実際、記者の同僚も自分の家紋を知ら無かったり「見た事はあるけど、どんなだったかナぁ?」と云う人が多かった。

 田中さんは警鐘を鳴らしつつも「それでも家紋は本当に面白い。我が家の家紋を知れば、先祖が何処で何をして居たか見えて来るかもですよ」とホホ笑む。

         11-24-22.jpg

          様々な種類がある家紋(田中さんのホームページより)

 洗練されたデザインに魅力

 田中さんが屋号「播磨屋」で運営するサイト「家紋ワールド」には戦国大名や氏族のもの等5000種近い家紋が掲載されて居る。元々日本史が好きで家系図等を調べて行くうち、付随する「家紋」の洗練されたデザインに魅力を感じたそう。
 そんな田中さんは、イベント時等に「家紋鑑定」のブースを出して居る。来場者の家紋からルーツを探ると云う内容だ。試しに記者の家に伝わる家紋「結び雁金(かりがね)」を鑑定して貰った。

 先祖との繋がり「想像」に楽しさ

 記者の実家は京都府の丹波地域「この辺りでは、戦国時代、氷上郡(現・兵庫県丹波市 京都・丹波地域と隣接)を治め、明智光秀とも激戦を繰り広げた赤井家が同じ家紋ですよ」行き成り戦国武将の名が飛び出した。
 「又、真田信繁で知られる信濃の真田家も結び雁金。伝承では氷上郡に居た武家に信濃から遣って来た人が居たとされて居るので、何か関係があるのかも」真田信繁と言えば、NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公だ。

 記者が知る限り農家だった我が家に赤井や真田との繋がりがあるとは到底思え無いが、昔、亡く為った祖母から「我が家は足軽だったらしい」と聞いた事がある。もしかして? 淡い期待が芽生え始めたが、田中さんは「家紋が同じと言うだけで関係があったと確定は出来ません。憧れで決めた事もある様ですし」と冷静だ。
 しかし「とは言え、確証は無いけれど、何か繋がりがあった可能性もある。そんな事を想像するだけでも楽しいでしょ。これも家紋の良さですよ」鑑定士の目がキラリと輝いた。

 家紋は歴史に通ずる鍵

 家紋を知る事は家を知る事。そして、家を知る事は歴史を知る事。私達日本人は誰しもが歴史に繋がる鍵を知らずに受け継いで居る。田中さんは言う「家紋を知ろうとする事で、お爺ちゃんやお婆ちゃんと話したり、お墓に行って見る切っ掛けに為る。そんな事が、家や文化を守ろうと云う意識に繋がる筈です」

 皆さんも「我が家の家紋」を調べてみては?


                 以上


 




 【管理人のひとこと】

 丹波篠山・・・何か、懐かしい感情を喚起させる地名だ。兵庫県の山奥・・・とのイメージだが、以前に当ブログで取り上げた「デカンショ節」の発祥のご当地。
 主題は「家紋」・・・実は私の実家の家紋も私達家族・兄姉の誰一人も知ら無い。両親共に亡く為り数十年も経ち、その様な事に興味も無かったのが本音で、一度剣道の防具を新調する際、胴に家紋を入れては?とのスポーツ店との話が出た時に調べた事がある程度。兄弟も遠く離れて生活して居るので、結局は判らず仕舞いだった。父の実家は旧士族(明治時代)なので家紋が有るのは当然で、調べようと思えば判る事ではあったのだが、ソチラとは行き来が無い。
 西欧の複雑な幾何学模様のものとは異なり、日本の家紋はとてもシンプルにデザインされた紋章だ。実に簡略に質素に出来上がって居て、その分この文化を廃らせるのは勿体無い。現在でも屋号と共に利用されて居る。最も、最近はお墓も不必要に思わる時代なので、この文化もどうなることか・・・







:*・°☆。・*☆・*:*・°☆*。・*☆・*☆*。・*☆・*

      ≪全身に使える美容機器≫

    まだ間に合う!年齢を気にしない毎日に

    マイナスイオンで全身美容

     【イオントリートメント氣's】

      ↓↓↓詳しくはコチラ↓↓↓
 https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=35DCS4+201GZ6+44DO+BXB8Z

:*・°☆。・*☆・*:*・°☆*。・*☆・*☆*。・*☆・*








×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。