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2019年09月06日

今日一日、生きた自分を褒めてもいいのかな。

ここ1ヵ月で、
10年かかって止めたパキシルではないけど
新しい抗うつ薬が復活してしまった。

それの副作用なのか、午前中は
逆らえない眠気と全身の脱力感に襲われる。

朝はちゃんとアラーム通りに起きれるけど、
起きて活動できず二度寝してしまい、
午後の通所までに必死でまた起きるの繰り返し。



パキシルを最大50mg飲むに至るまで、
当時は自閉症スペクトラム障害が判明しておらず
「鬱病」と診断名が付いた。

今回、長期的な無気力に襲われ、
この間に一度受診したが診断名は特に付いていない。

だけど、
あんなに長い間闘ってようやく止めた抗うつ薬を
また飲まなければいけなくなったことは
悔しくてたまらない。



先週あたりまでは
洗濯以外の家事ができなくなり
家の中がかなり散らかった。

食事の準備もできなかったので
台所はきれいな、というか未使用のまま時が過ぎた。

そして今は、増えた薬の副作用なのか
立っていられないくらいの脱力感やめまいで、
活発に動けなくなっている。

働いていた時より、パキシルを止められた時より、
何かしらができない自分がいる。



そうやって、”できていた頃の自分”と
比べてしまう気持ちを消すのは難しい。

人と比べないで、過去の自分と比べないで
今を見ようとわかっていても、

やっぱり一度はできていた栄光時代は
今の自分だけを見る足枷になる。



だけど、その頃と今日とで
間違いなく共通してできていることがある。

それは、今日一日を生きていられたこと。



もう生きていたくない、
この寂しさや苦しい気持ちが続くなら
もう終わりにしたい、

そんな思いがありながらも
実行に移さなかった自分がいる。

※「生きていたくない矛盾。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/275/0



だから今日一日、生きていられたことで
自分自身を褒めてもいいのかな。

生きるのが面倒で、自分の世話が面倒で
もう終わらせたい、眠りたい気持ちは抑えられなくても、

実際に眠る行為に移さなかったことは
充分に自分を褒めてあげる理由になるのかな。

そもそも自分を褒めるのに
理由なんていらないのかな。

本当に今さらだけど、
今日を生き続けた自分を褒める気に
少しはなれた気がした。



抗うつ薬を
また飲み始めなければいけなくなっても、

今は一人だから、例え今より悪化しても
かつてのように寝たきりになれない
後がない感覚が消えなくても、

とりあえずその日が終わるまで
布団に入って寝るまでを生きたことを
褒めてあげよう。

どれだけ終わらせたいと思っても、
終わらせなかった自分を、褒めてあげよう。


posted by 理琉(ワタル) at 01:32 | TrackBack(0) | 生き方

2019年09月05日

Googleからの初アクセス記念。

アクセス数やリンク元なんかに
一喜一憂しても仕方ないとわかっていても、

やっぱり数字は気になってしまうのが人情。



記事数が280を超えた最近、
ある日のアクセス解析を何気なく見ていたら、

初めてリンク元に「Google」があった。



どんなキーワードで検索されたのかは不明、
どうやらこれはGoogleの意向か仕様上かの関係で
わからないらしい。

確かな情報ではないが、
Googleアプリの「おすすめ記事」一覧に
掲載された先からのアクセス、らしい。



僕の生き様の記録、そして
僕の経験の発信が誰かの気持ちを救えるなら、
そんな思いでブログを書いている。

決してアクセスを集めたり
商業的な目的でやっていないにしても、
記念という意味でこれは嬉しかった。

それだけたくさんの人に見てもらえて、
その中の誰か一人の心に何か響いたら嬉しい。



この日、初めてあったGoogleからのアクセスは「1」。

世の中では「Google砲」と呼ばれる
いきなり数千アクセスが集まるような現象もあるらしい。

僕を含め、人間は数字に弱い生き物だから、
たくさんの人が見てくれる証かも知れない
アクセス数が増えることは嬉しい。

だけど、繰り返しになるが決して
「Google砲」を狙っているわけではないし、
そのために書き続けているわけでもない。

綺麗事に聞こえるかも知れないけど、
初めてからアクセスがあったことは素直に喜びつつ、

僕がブログを書く目的を忘れないでいたい。



進歩した時こそ、初心を大切に。


タグ:生きる
posted by 理琉(ワタル) at 21:23 | TrackBack(0) | 人生観

2019年09月04日

寝転がって見た青空。

僕は公園に敷き物を持って行って
昼寝したり読書したりのんびりするのが好き。

もう5ヶ月近く前、今年4月に
公園でマガモさんに会ったことを書いた。

→「公園のベンチで読書。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/141/0

この頃はようやく雪が無くなって、
外で寝転がれる日がぽつぽつ出て来ていた。



その同じ公園に、土日どちらも訪問。
もちろん、敷き物を持って。

近所であり、自転車でよく通る道なりなので
ちょくちょく訪れてはいたけど、
本格的に昼寝しに訪れるのは4月以来。



4月はちらほらいたマガモさん。
今回はかなり大所帯でくつろいでいらした。

写真には映り切らなかったけど、
あと10羽くらいここに集まっていた。

20190901_142030.jpg

人との距離が1メートルを切っても
逃げるどころかふてぶてしく寝る彼ら。

たぶん20分くらい彼らをじーっと見ていた。



快晴、芝生に敷き物をセットし寝転がる。

20190901_144447.jpg

今日は割と風が強いけど、
冷たい風ではなく、心地よい風。

凧を上げてる子たちがいたけど、
強風にあおられてなかなか難しそうだった。



楽しそうにはしゃぐ子と
関係が良さそうな両親の姿を見て
羨ましい思考になるのはお決まりのパターン。

もうこれは、楽しそうな親子に出くわす限り
一生感じ続ける思いなんだろうなぁ。

考えないようにするよりも
上手く付き合っていく方が得策か。



それにしても、
「マガモさんまた会えたね」だなんて
はしゃぎながらずっと見つめてる僕は
完全に大人の僕とは別人だ。

スピリチュアル的な意味ではなく
僕の中に子どものまま居る3歳の自分、
インナーチャイルドを見つけてから、
そんな反応をする自分に驚かなくなったっけ。

※故郷へ帰り、
 インナーチャイルドを見つけたエピソード。

泣かないと決めてたのに。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/179/0

一番話したかった相手は”自分”だった。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/183/0

その年齢の時に、
本来出していいはずの気持ちを抑えて
出せなかった自分の姿なんだから。



9月も半ばになれば急速に寒くなり、
マガモさんたちは越冬のため去ってしまう。

ああやってのんびり日向ぼっこする姿は
来年まで見られないのかと思うと少し寂しい。

だから、快晴の今日、出逢えて本当によかった。

まだ日向ぼっこができるくらい暖かいうちに、
もう一度来てのんびりしたい。

2019年09月03日

公園、草野球の試合を観て。

何をする気力も湧かないなら
日向ぼっこしながら読書でもしようと
久しぶりに公園へ行った。



隣接する野球場では
草野球の試合が行われていた

試合をぼーっと眺めながら、
僕が小学性の頃、バスケと野球
どちらを始めるか迷っていた時期を思い出した。



僕が10歳の時
バスケと野球、同じくらい大好きだったので、

ミニバス少年団か野球チームか
どちらに入るか本気で迷っていた。

結局バスケ少年団に入ったのは
地元で実業団バスケチーム(現:Bリーグ)の試合があり
前座試合のミニバス少年団チームに憧れたから、

それと、僕は野球でセカンドとショートをやりたかったけど
左利きでは逆手になるので、やらせてもらえないかも知れないと
わかったから、

あとは打席に立つよりも、ずっと守っていたいくらい
打撃より守備が好きだったから。

プラス、世俗的な理由でスポーツ刈りを嫌ったから。



小学校の時はキャッチボールやノックをするが
野球チームには入らず、それ以降はバスケを続けていく。

でも、こういう草野球チームの試合を見てると
自分もまた野球をしたくなる。

いいなぁ、また野球がしたいなぁと思いながら
試合終盤の7回あたりまでぼーっと見ていた。



ユニフォームを着ている人が大半だが、
他のスポーツのウェアを着ている人も何名かいて、
中にはデニムとTシャツの未経験者らしき人もいた。

人数が足りなくて助っ人で来たのだろうか。

ボールは硬式、軟式どちらだろう。

僕は遊びで軟式のボールを使っていたけど、
僕のような野球チーム未経験者でも
受け入れてくれる場所があるなら

ぜひともまた野球をやりたいものだ。



おや、雨がぱらぱら降ってきた。

かと思えばすぐに止んで、また少しぱらぱらと。

試合の進行に支障が出るほどではないので、
試合はそのまま続けられていた。

止んで、降ってを小刻みに繰り返す内に、
試合終了時にはすっかり日が照り付けていた。

僕は日向ぼっこしながらうとうとしていた。

無気力になって以来、陽の光をたくさん浴びたのは
初めてかも知れない。

心のもやもやと、次々に押し寄せる不安が
少しだけ吹き飛んだ気がした。



そんな、野球への想いを馳せた午後。

目線を野球場から広場に移すと、
あぁ、やっぱり楽しそうな親子がたくさん。

お母さんお父さんに抱っこをせがむ子、
我が子と一緒になって夢中で遊ぶ親の姿、

いいなぁ、うらやましいなぁ。

僕も親とこんなふうに、抱っこをせがんだり
夢中になって遊びたかったなぁ。

もう手に入らないんだな…。



いけない、
公園に来て、ほほえましい家族を見ると
お決まりの思考パターンだ。

何はともあれ、最後にはからっと晴れて、
久しぶりに気持ちのよい公園を楽しめた。

以前あれだけはまっていた読書は
今回しなかったけど、

寒くなる前にできるだけ公園での日向ぼっこはしたい。

今度晴れる日に、また来よう。


posted by 理琉(ワタル) at 01:47 | TrackBack(0) | 生き方

2019年09月02日

目を合わせるのが怖い。

僕は人とほとんど目を合わせることができない。

これは確か、僕が大学生くらいの頃から
誰ともなく指摘されてきた。



それでは対人関係でいろいろ困るからと、
人の眉間や鼻筋を見なさいというようなことを
いろいろ教わって、何とかその方法を実行している。

「広汎性発達障害」でお医者さんが書いた診断書にも
「目を合わせることはできない」と記載されていたから、
何かしらの関連性はあるのかも知れない。



バスケをプレーしている時、
僕自身は周りを見渡しているつもりでも、

「うつむき気味だから、もっと顔と目線を上げてみたら?」
と指摘されることがある。

言われてみると確かに、
人の顔の目から上を見るのが怖いので、
きょろきょろしながらも周りと目を逸らしていた。

相手の目を見ることができれば、
視線のフェイクや次のプレーの読みに役立つので、
指摘されて以来、なんとか克服しようと
プレー中はなるべく相手の目線を見るようにしている。



人と目が合ってしまった時、僕が一番に感じるのは
「怖い」という感情。

怖いの内容として一番大きいのは
「何か悪いことしたかな…?」という罪悪感。

人の視線が多数集まるような場所は特に苦手で、
そういう場所では顔や視線を上げられず、

「自分はどこか変なのかな…?」という思いと、
自分を笑っているかも知れない視線が刺さる。



目が合ったことによって、絡まれたり
何か不利益になった経験はないけど、

例えば駅の構内を歩いていて
ふと目が合ってしまうと急いで逸らす。

そして条件反射のように、心の中から自動的に
「目が合ってしまってすみませんでした」
という謝罪の言葉が出ている。(口には出さない)



人と目を合わせる、目が合うことに対して
ここまで卑屈なのはどうしてだろう。

遡っていって、1つは短かった幼稚園時代。

当時、幼稚園児の時点で眼鏡をかけるのは珍しく、
園児の中で僕一人だけが眼鏡っ子だった。

珍しいので当然、眼鏡に注目が集まり、
僕には「メガネザル」というあだ名が付けられた。

とても嫌だったが、当時は眼鏡を外すと
ほとんど何も見えなかったので外すことができず。

園児の中で唯一眼鏡をかけている僕に視線が集まり、
嬉しくないあだ名で呼ばれることにストレスを感じた。



もう1つ思い浮かぶのは中高バスケ部時代。

僕は今でもそうだが、無駄に代謝がよく、
ものすごい量の汗をかく。

1回の練習で5〜6枚のシャツを使い、
時には汗ジミが見えることもある。

中高バスケ部の面々はそれを見逃さず、
部室の壁に「汗ジミのあるウェアは認めない」
という部の規則のような文章を書いて
僕のことをいじめてきた。

このいじめを受けて以来、
僕は白いウェアを部活で着れなくなり、
中高6年間は濃紺や黒のウェアのみで
過ごすことを余儀なくされた。



自分が身に着けているものが奇異に見られ、
不名誉なあだ名を付けられる。

自分が着ているウェアを不潔がられ、
部室の壁に書かれるくらいのいじめを受ける。

人からの目を恐れ、人と目を合わせられない
直接の原因はこの2つの苦い経験かも知れない。



今、僕の周りには目が合ったことで
何かを言ってくる人はいないし、
目を合わせられないほど怖い人もいない。

面談などで相手と向き合う時は
できる限り相手の目か、眉間、鼻筋を見ようと
努めている自分がいる。

人からのマイナスな気持ちの目線に晒された過去があって、
僕は人からの視線を恐れているのは確か。

大丈夫、もう誰も自分のことを攻撃してこない。

そう自分に言い聞かせながら、
今日も相手の目を見て話す訓練をしている。


2019年09月01日

あなただから大切なんだよ。

「あなただから大切なんだよ」
という実感がほしかった。



自分たちが求める基準を満たす
学校の成績を取ってくるから、ではなく、

自分たちが勧める仕事に就いたから、ではなく、

自分たちの言うことを素直に聞いて、
思い通りになってくれるから、でもない。

ただそこにいて、生まれてきてくれて
ありがとうと伝えられてみたかった。



期待に応えるから大切
理想通りになるから大切

そんな条件付きじゃなくて、

何に応えられなくても
他の誰かじゃだめなんだよ
あなただから大切なんだよ

そんな実感がほしかった。



母方の祖母にだけは
もしかしたらもらえていたのかも知れない。

祖母以外の人からは
もらえた確証を実感できない。

「無条件の愛情」とよく言われるけど、
出された条件に沿えるかどうかによって
認められるかが決まることが多かった僕は

無条件の愛情という感覚がわからない。



この欠乏感と自己否定感は
条件を満たしさえすればあなたじゃなくてもいいと
そんなメッセージを受け取ってしまったからだろうか。

従っているうちはお人形
反抗すればたちまち問題児、厄介者。

求められるものと、僕が求めるものが違った。
ただそれだけなのに

「わがまま」「自分勝手」

僕は求められる条件に沿わないと
愛情はもらえないものなんだと学習してしまった。



学校の成績よりも、就職先よりも、
何よりもあなたが大切。

あなたがいてくれること自体に
あなたが考えてることを伝えてくれることに
ありがとうと伝えたい。

こんな気持がほしかったというのは
僕のわがままか、過剰な要求なんだろうか。


posted by 理琉(ワタル) at 00:22 | TrackBack(0) | 家族

2019年08月31日

急遽、就職の可能性。

就労移行支援事業所に通い始めて
ちょうど2ヵ月。

求人を探したり、企業見学に行ったり
履歴書を具体的に用意したりという活動は
これまでのところまったくせず、

とにかく”通うこと”に慣れる、
そして色々な仕事にチャレンジする日々。



そんな中、急展開で就職する可能性が浮上。

就労移行支援事業所で
抜け殻のように無気力な僕を見たスタッフさんが
急遽時間を作ってくれて面談となった。

生活保護を使う、落ちる恐怖が
僕にとって最大のストレスになっていると
スタッフさんは見抜いており、

今は就職を勧めるよりも
気力を取り戻すことが先決とわかった上で、
僕に合うかも知れない職場を紹介してくれた。



詳しい業務内容や職場見学は
後日改めてということになったが、

主な内容は画像や情報のトリミングで、
ブラインドタッチができる場合は
PCを使った他の業務もあるらしい。

生活保護を使わなくて済む可能性を
提案してくれたことに感謝している。



最近、「もう楽になりたい」思いに浸食され、
働くことはおろか、食べることに対しても
「食べて延命して何になるの?」と思い始めてしまってる。

病院の先生は

生き続ける意味への問いはとても大切、
だけどすぐに答えが出るものじゃないから
ひとまず置いておくことも手だよと仰っていた。

働くとなったら、僕は今の投げやりな思いを
ひとまず置いておくことができるのだろうか。



せっかくスタッフさんが提案してくれたのに、
深く考える癖のある僕は、そんな余計な懸念まで
自然に引き出してしまう。

深く考えず、もっと素直に
「生活保護を使わなくてもいいかも知れないんだ」と
喜べる性格だったらいいのに。





posted by 理琉(ワタル) at 00:14 | TrackBack(0) | 働き方

2019年08月30日

今日はまだ、家がある。

何かポジティブなことを探そうとして
思いがけず見つけた感情。



夜、家に帰り、ドアを閉めると。
「あぁ、今日も家があった、よかった。」



今まで感じたことのない、
一日の終わりに家があったことへの安堵感。

正確には「今日は”まだ”家がある」だけど、

これまでは家のドアを閉めて
最初に感じたのは寂しさだったから、

初めての感情に、戸惑いと安堵が同居している。



当たり前じゃないはずなのに、
あることが当たり前に思ってしまうもの。

失ったり、失う危機に瀕して初めて、
残っているものに目を向けることができる。

口で言うのは簡単だけど、
実際に家が無くなる危機に直面している今、

その意味を初めてリアルに感じることができた。



それともう1つ、布団で寝れること。
外敵を気にすると言ったら変だけど、
安全な場所で寝れること。

これも同じく、あって当たり前じゃないし、
明日もあるかはわからない。

今日はもう寝ようと思い立って
実際にすぐ寝れる場所があって当然ではなくて、
あることが既に貴重なこと。



宿を取らないで遠くに旅行に行き、
今晩の寝ぐらにするネットカフェを探すのは楽しい。

けどそれは、自分の家、寝る場所が
帰るところに帰ればちゃんとあると
保障されてるからこそ楽しめること。

僕は苦手だけどジェットコースターって、
安全がちゃんと保障されてるから楽しめる。

乗ったら生きて帰れるかわからないとなったら
ちょっと意味合いが違ってくる。それと似ている。



色々あって、流れ着いたこの場所、この境遇。

家にしても寝る場所にしても、
突き詰めればお金を払い続けられず
維持できない危機に直面している。

どこかで何とかできただろう、などと
後悔しようと思えばいくらでもできるけど、
失う危機を味わって初めてできる感謝があった。

ポジティブなことを絞り出したにせよ、
家や寝る場所が”まだ”ちゃんとあることに、
上辺じゃなく心から感謝できた。
posted by 理琉(ワタル) at 01:03 | TrackBack(0) | 人生観

2019年08月29日

優しいお父さんと、抱っこをせがむ子と。

久しぶりに、
近くのお気に入りの温泉に行った。

お風呂から上がり、
脱衣所で扇風機を浴びながらぼーっとしていると、

3歳くらいの男の子と、
日焼けした体格のいいお父さんが上がってきた。



見た目で判断するわけではないが、
体格のいいお父さんは、体重計に興味津々の子に
優しく微笑みかけ、言葉をかける。

体重計の周りをぐるぐる回りながら
その子はお父さんへ抱っこをせがみ、走り寄る。



その様子を見ていた僕は、
気がつけば温泉の脱衣所で一人、泣いていた。

壁に背を向け、ロッカーの陰に隠れ、
周りの人に表情を見られないようにしながら、
バスタオルで顔を拭くふりをしながら泣いた。



こんなお父さんがほしかった、
こんなあったかい親子関係がほしかった。

それが叶わなかったのは誰のせいかと
犯人捜しをする自分が嫌だった。

僕が話しかけるのを放棄したのが悪いのか、
僕を受け入れようとしなかった親が悪いのか、

相変わらずバスタオルでごまかしながら
不毛な犯人捜しが頭の中を駆け巡った。



涙を拭い、着替えてロビーのベンチへ移動した。

またしばらくぼーっとしていると
脱衣所からさっきの親子が出てきた。

先にお風呂から上がって、
ロビーで待っていたであろうお嬢さんが
待ちかねたようにお父さんの方へ駆けていった。

お父さんはそれを嬉しそうに抱きかかえていた。

今度は泣かなかった。

涙の代わりに、胸の奥の方から
孤独感と寂しさが湧き上がってくるのを流れとして感じた。



あの1シーンだけを見て、
幸せな家庭かどうかなんてわからないけど、

子どもたちがああやって無警戒にお父さんに寄りつき、
お父さんも優しく迎えてくれるのは
普段からそういう信頼関係ができているからだ。

子どもはいつも家でびくびくしてるのに、
外に出たら父に対して違う反応を無理してするなんて
そんな不自然なパフォーマンスには見えなかった。



温泉にいる間は再び泣くことはなかった。

けど、帰りの自転車を漕ぎながら、
そして家に帰った後でまた泣いた。

こうしたかった。

こんな親子関係がほしかった。

決して叶うことのない願いだけが
僕一人しかいない部屋にこだました。



運命を決めている誰かがいるなら、
僕にはあたたかい親子関係をあげないと
どうして決めたんだろう。

この子には親とのあたたかい経験をあげる、
この子にはあげないで大人になってもらう、
それを決めている誰かがいるなら出てきてほしい。

どんな説明を受けても納得しないのを
わかっててこんなことを言うのもなんだけど、

僕にあたたかい親子の経験をあげないと決めた
その理由を教えてほしい。


posted by 理琉(ワタル) at 23:52 | TrackBack(0) | 家族

2019年08月28日

僕を受け入れてくれる親がほしかった。

ないものねだりとわかっていても書きたい
子どもの話を聞いてくれる親のもとに生まれたかった



携帯を持ちたい、あの大学を受験したい
頼み事がある時には覚悟を決めて
びくびくしながら話しかけ

背中に汗を感じながら一言話しかけると
それ以降こちらの話を挟む余地を与えず
長い自分語りと持論の演説を延々と繰り返す

自分がお前くらいの時はいかに苦労したか
男とはこうあるべきだと呪文のように繰り返す



僕の意見に、考えに耳を傾けたり
受け入れられたりされなかったことへの
寂しさと悲しみに、激しく襲われている

受け入れられる以前に
子どもの話を聞こう、受け入れようとする姿勢すら
親からは感じられなかった

彼らはただ自分の言いたいことだけを延々と主張する

キャッチボールどころか
僕が投げたボールを受け取ろうとすらしなかった



投げること自体を幼少から諦めたが
意を決して背中に汗をかきながら投げても
捕球しようとすらしない彼らに対して

僕の投げる考えが、意見がだめだから
彼らは受け取ろうとしないのか、
彼らが受け取ろうとする考えを持てない僕は
だめな存在なのかと自分を責めた

ひたすら自分語りの演説を浴びせられると
早く終わってくれと面倒になるのは終盤で
僕の何がそんなに気に入らないんだろうと
ひたすら自分の悪いところを探し続けた



彼らに自分の考えを話しても無駄だと諦め
何も言わなくなった僕に対して
彼らは何も言って来なかった

彼らは僕のことを気にかけていないんじゃないだろうか
僕の考えを受け止める気がない以前に
僕自身に興味がないんじゃなかろうか

自分にとって一番近しいはずの人たちに
自分を受け入れてもらえないなら
誰が自分の味方なんだろうか

僕は孤独感と寂しさでいっぱいだった
親を信用できない自分への怒りと罪悪感が募った



子どもは親を選んで生まれてくるんだとしたら
どうして僕はあの親の元を選んだんだと
生まれる前の僕の選択を責める

子どもは親を選べないんだとしたら
くじ引きか何かでランダムに決まってるんだとしたら
自分の話に耳を傾けようとしない親元にあたった
僕のくじ運を恨む

生まれてしまった以上
配られたカードでどう勝負するかが大切
そんなことは言われなくても頭ではわかってる

だけど僕をあの親元にあてがった何かがあるなら
この子は「親に自分を受け入れられない環境に身を置かせてやろう」
などというタスクをわざわざ課した意図を教えてほしい



手に入らないとわかっていても書く

僕は

怯えることなく気軽に話したり笑い合ったり楽しんだり
自分の考えてることや話したいことを聞こうとしてくれる
そんな親がほしかった…
posted by 理琉(ワタル) at 00:35 | TrackBack(0) | 家族
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理琉(ワタル)
自閉傾向の強い広汎性発達障害。鬱病から再起後、低収入セミリタイア生活をしながら好きなスポーツと創作活動に没頭中。バスケ・草野球・ブログ/小説執筆・MMD動画制作・Vroidstudioオリキャラデザインに熱中。左利き。 →YouTubeチャンネル
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