2019年09月02日
目を合わせるのが怖い。
僕は人とほとんど目を合わせることができない。
これは確か、僕が大学生くらいの頃から
誰ともなく指摘されてきた。
それでは対人関係でいろいろ困るからと、
人の眉間や鼻筋を見なさいというようなことを
いろいろ教わって、何とかその方法を実行している。
「広汎性発達障害」でお医者さんが書いた診断書にも
「目を合わせることはできない」と記載されていたから、
何かしらの関連性はあるのかも知れない。
バスケをプレーしている時、
僕自身は周りを見渡しているつもりでも、
「うつむき気味だから、もっと顔と目線を上げてみたら?」
と指摘されることがある。
言われてみると確かに、
人の顔の目から上を見るのが怖いので、
きょろきょろしながらも周りと目を逸らしていた。
相手の目を見ることができれば、
視線のフェイクや次のプレーの読みに役立つので、
指摘されて以来、なんとか克服しようと
プレー中はなるべく相手の目線を見るようにしている。
人と目が合ってしまった時、僕が一番に感じるのは
「怖い」という感情。
怖いの内容として一番大きいのは
「何か悪いことしたかな…?」という罪悪感。
人の視線が多数集まるような場所は特に苦手で、
そういう場所では顔や視線を上げられず、
「自分はどこか変なのかな…?」という思いと、
自分を笑っているかも知れない視線が刺さる。
目が合ったことによって、絡まれたり
何か不利益になった経験はないけど、
例えば駅の構内を歩いていて
ふと目が合ってしまうと急いで逸らす。
そして条件反射のように、心の中から自動的に
「目が合ってしまってすみませんでした」
という謝罪の言葉が出ている。(口には出さない)
人と目を合わせる、目が合うことに対して
ここまで卑屈なのはどうしてだろう。
遡っていって、1つは短かった幼稚園時代。
当時、幼稚園児の時点で眼鏡をかけるのは珍しく、
園児の中で僕一人だけが眼鏡っ子だった。
珍しいので当然、眼鏡に注目が集まり、
僕には「メガネザル」というあだ名が付けられた。
とても嫌だったが、当時は眼鏡を外すと
ほとんど何も見えなかったので外すことができず。
園児の中で唯一眼鏡をかけている僕に視線が集まり、
嬉しくないあだ名で呼ばれることにストレスを感じた。
もう1つ思い浮かぶのは中高バスケ部時代。
僕は今でもそうだが、無駄に代謝がよく、
ものすごい量の汗をかく。
1回の練習で5〜6枚のシャツを使い、
時には汗ジミが見えることもある。
中高バスケ部の面々はそれを見逃さず、
部室の壁に「汗ジミのあるウェアは認めない」
という部の規則のような文章を書いて
僕のことをいじめてきた。
このいじめを受けて以来、
僕は白いウェアを部活で着れなくなり、
中高6年間は濃紺や黒のウェアのみで
過ごすことを余儀なくされた。
自分が身に着けているものが奇異に見られ、
不名誉なあだ名を付けられる。
自分が着ているウェアを不潔がられ、
部室の壁に書かれるくらいのいじめを受ける。
人からの目を恐れ、人と目を合わせられない
直接の原因はこの2つの苦い経験かも知れない。
今、僕の周りには目が合ったことで
何かを言ってくる人はいないし、
目を合わせられないほど怖い人もいない。
面談などで相手と向き合う時は
できる限り相手の目か、眉間、鼻筋を見ようと
努めている自分がいる。
人からのマイナスな気持ちの目線に晒された過去があって、
僕は人からの視線を恐れているのは確か。
大丈夫、もう誰も自分のことを攻撃してこない。
そう自分に言い聞かせながら、
今日も相手の目を見て話す訓練をしている。
これは確か、僕が大学生くらいの頃から
誰ともなく指摘されてきた。
それでは対人関係でいろいろ困るからと、
人の眉間や鼻筋を見なさいというようなことを
いろいろ教わって、何とかその方法を実行している。
「広汎性発達障害」でお医者さんが書いた診断書にも
「目を合わせることはできない」と記載されていたから、
何かしらの関連性はあるのかも知れない。
バスケをプレーしている時、
僕自身は周りを見渡しているつもりでも、
「うつむき気味だから、もっと顔と目線を上げてみたら?」
と指摘されることがある。
言われてみると確かに、
人の顔の目から上を見るのが怖いので、
きょろきょろしながらも周りと目を逸らしていた。
相手の目を見ることができれば、
視線のフェイクや次のプレーの読みに役立つので、
指摘されて以来、なんとか克服しようと
プレー中はなるべく相手の目線を見るようにしている。
人と目が合ってしまった時、僕が一番に感じるのは
「怖い」という感情。
怖いの内容として一番大きいのは
「何か悪いことしたかな…?」という罪悪感。
人の視線が多数集まるような場所は特に苦手で、
そういう場所では顔や視線を上げられず、
「自分はどこか変なのかな…?」という思いと、
自分を笑っているかも知れない視線が刺さる。
目が合ったことによって、絡まれたり
何か不利益になった経験はないけど、
例えば駅の構内を歩いていて
ふと目が合ってしまうと急いで逸らす。
そして条件反射のように、心の中から自動的に
「目が合ってしまってすみませんでした」
という謝罪の言葉が出ている。(口には出さない)
人と目を合わせる、目が合うことに対して
ここまで卑屈なのはどうしてだろう。
遡っていって、1つは短かった幼稚園時代。
当時、幼稚園児の時点で眼鏡をかけるのは珍しく、
園児の中で僕一人だけが眼鏡っ子だった。
珍しいので当然、眼鏡に注目が集まり、
僕には「メガネザル」というあだ名が付けられた。
とても嫌だったが、当時は眼鏡を外すと
ほとんど何も見えなかったので外すことができず。
園児の中で唯一眼鏡をかけている僕に視線が集まり、
嬉しくないあだ名で呼ばれることにストレスを感じた。
もう1つ思い浮かぶのは中高バスケ部時代。
僕は今でもそうだが、無駄に代謝がよく、
ものすごい量の汗をかく。
1回の練習で5〜6枚のシャツを使い、
時には汗ジミが見えることもある。
中高バスケ部の面々はそれを見逃さず、
部室の壁に「汗ジミのあるウェアは認めない」
という部の規則のような文章を書いて
僕のことをいじめてきた。
このいじめを受けて以来、
僕は白いウェアを部活で着れなくなり、
中高6年間は濃紺や黒のウェアのみで
過ごすことを余儀なくされた。
自分が身に着けているものが奇異に見られ、
不名誉なあだ名を付けられる。
自分が着ているウェアを不潔がられ、
部室の壁に書かれるくらいのいじめを受ける。
人からの目を恐れ、人と目を合わせられない
直接の原因はこの2つの苦い経験かも知れない。
今、僕の周りには目が合ったことで
何かを言ってくる人はいないし、
目を合わせられないほど怖い人もいない。
面談などで相手と向き合う時は
できる限り相手の目か、眉間、鼻筋を見ようと
努めている自分がいる。
人からのマイナスな気持ちの目線に晒された過去があって、
僕は人からの視線を恐れているのは確か。
大丈夫、もう誰も自分のことを攻撃してこない。
そう自分に言い聞かせながら、
今日も相手の目を見て話す訓練をしている。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/9130622
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック