3月3日といえば「桃の節供」「上巳の節供」。ひな祭り・おひなさまには幼いころからなじみがあるものの、その意味や起源などをきちんと理解している人は意外と少ないのではないでしょうか?
今回は、桃の節供を前に、知っておきたいおひなさまの歴史・意味を紹介します!
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おひなさまは「厄除け」にきく!
上巳(じょうし)とは、3月上旬の「巳の日」のこと。この日に水辺で足を洗って厄落としをする中国の習慣が、平安時代、日本にも定着しました。また、日本には紙で作った「人形(ひとがた)」でカラダをなでて穢れを移し、自分の身代わりとして川海に流すことで無病息災を祈る「流しびな」の風習があります。
この厄よけ・邪気払いの意味をもつ「信仰のひな」の起源とされる「流しひな」と、「愛玩・人形遊びのひな」の起源とされる「ひいな遊び」とが結びついて、貴族の間で人形を飾り、祀るようになったのが、おひなのはじまりとされます。
江戸時代に入り、二代将軍・秀忠の娘が後水尾天皇のお妃さまとして宮廷に入る際、京都の御所で盛大なひな祭りが行われたのをきっかけに、幕府や大奥でもひな祭りを行うようになりました。これが、やがて武士階級から町人へと広まり、江戸幕府が3月3日を祝日に設定したことで、大衆も盛んにお祝いするようになったのです!
■ おひなさまは、はじめは立っていた!?
土をコロコロと丸めてつくった頭に棒を刺し、紙の衣装を着せたシンプルな形が、ひな人形の原型でした。江戸時代になり、この立った姿勢の立びなが坐びなへ、紙びなが裂びなへと芸術的・技術的に発展し、今の「観賞用のひな」に変化しました。
■ 時代とともに変化するおひなさま
多くのひなは「寛永」「元禄」「享保」などの年号で呼ばれています。これは、このころに登場した様式という意味で、その時代に生まれたおひなさまというわけではありません。それぞれの特徴は?
<寛永びな>
三代将軍・家光の時代のひな。女びなは袴をつけ、袖を大きく広げていました。まだ髪の毛はなく、頭が黒く塗られているだけのシンプルなつくり。男びなは、冠と頭が一体化した状態でつくられていたのだそう。坐びなの原型といわれています。
<元禄びな>
寛永びなの発展系。徐々に技巧が加えられるようになりました。
<享保びな>
享保から寛政にかけて、ひな人形は進化。サイズも大型化し、40cmを超えるひなも登場。能面のような美しい顔立ち、手足の細工も細やかになるに連れて、衣装もどんどん豪華になりました。男びなは、太刀を持ち冠をかぶるスタイル。女びなは、天冠をかぶり檜扇をもつように。
<次郎左衛門びな>
ひな人形の世界に突如現れた、京都の人形師・ひな屋岡田次郎左衛門が創作した高級なおひなさま。顔も享保びなとは異なり「引目・鉤鼻」。裕福な家庭で一躍人気に。
<古今びな>
江戸の上野池之端の人形問屋・大槌屋が、京の次郎左衛門びなに対抗して職人・原舟月につくらせたひな人形。写実的な美しさをもち、現代の「親王びな」の原型とされています。
武者人形・こけし・市松人形・七福神・だるまなど...日本には、世界的に見ても比類ないほど多種多様な人形があるものの、「お」と「さま」がつくのは「おひなさま」だけ。すばらしい日本の人形文化の頂点に位置するのが「おひなさま」と言えます