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2011年12月29日

十三月の翼・3(天使のしっぽ・二次創作作品)







 はい、木曜日。2001年・2003年製作アニメ、「天使のしっぽ」の二次創作掲載の日です。(当作品の事を良く知りたい方はリンクのWikiへ)。
 ヤンデレ、厨二病、メアリー・スー注意



イラスト提供=M/Y/D/S動物のイラスト集。転載不可。

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                  ―逢魔―

 

 「・・・今日は無事に終わって、良かった・・・。」
 宵闇に染まる町を歩きながら、悟郎はそう呟いた。
 今日、彼は一件の手術に助手として参加していた。
 決して簡単な病状ではなかったが、幸いこれといったトラブルもなく手術は終わった。
 術後の患畜の容態も安定している。
 後は感染症さえ起こさなければ、そう長く待つこともなく飼い主のもとへと戻ることが出切るだろう。
 手術の結果を聞かされた飼い主の、涙でくしゃくしゃになった笑顔を思い出し、悟郎は微笑む。
 それだけで、苦労も疲労も全てが報われた思いがする。
 心地よい疲労感と充実感に浸りながら、家路を行くその足取りは朝とは打って変わって軽い。
 と、その目に一件の洋菓子店がとまる。
 最近出来た店。結構評判が良いらしい。
 「今日は出掛けに心配かけちゃったし、お詫びに皆にケーキでも買っていこうかな・・・?」
 そう思った悟郎が、その店に足を向けたその時――
 「・・・止めときなよ。・・・そこのお菓子、見た目だけで中身は添加物ゴッチャリ。身体に毒、入れるようなもんだよ・・・。」
 不意に背後からかけられた声に、悟郎の身体は凍りついた。
 仕事の疲労感と充実感は一瞬で消え、入れ替わるように、今朝の奇妙な違和感が甦る。
 「お菓子食べたいなら、わたしが作ってあげる。そんな出来合いのより、美味しいよ?きっと。」
 そんな・・・
 ありえない・・・
 だって・・・
 あれは・・・
 「・・・夢の筈?」
 クスリと笑う気配。
 「・・・現実は夢、夜の夢こそ真実・・・。言ったのは、人間の小説家だったかな・・・?言い得て、妙だと思わない?ねぇ、ご主人様。」
 すぐ後ろに、それが立つ。
 氷の様に冷たい気配。夢の中で感じた、あの気配。
 「・・・いつまでそっち向いてるの?こっち、向いてよ。ほら。」
 「・・・。」
 促されるままに、身体が後ろを向く。
 目の前で、白い髪とリボンが揺れる。
 黒い洋装。
 白い肌。
 夢の中そのままの姿。
 スカートの裾を持って、優雅に会釈。琥珀の瞳が悟郎を映し、ニコリと微笑んだ。
 「改めまして。お久しぶり、ご主人様。」
 言葉を紡ぐ唇の隙間で、鋭い牙がキラリと光る。
 いつしか、空には赤錆色の満月が浮かんでいた。 


 「・・・君は・・・誰・・・?」
 戦慄く様な口調で、目の前の少女に尋ねる。
 少女は答えず、ただニコニコと笑っている。目の前に悟郎が居る。それだけのことがひどく嬉しくて仕方がないとでも言う様に。
 いつしか、周囲から人影が消えていた。
 全ての音が消えていた。
 全ての光が消えていた。
 降り注ぐのはただ、天に浮かぶ紅月の光だけ。
 たっぷりの沈黙の後、少女はやっと口を開いた。
 「・・・分からない?ご主人様。分かんないよねぇ。あの頃はわたし、こんな恰好してなかったもんね。」
 そう言って、自分の姿を見せつける様に片足でクルンと回って見せる。
 円を描く様に舞う白髪が、甘い香を散らす。薄手のスカートがはためいて、白い足が露になるがそれを気にする様子もない。
 「君は・・・守護天使・・・?」
 「さぁ、どうでしょう・・・?」
 悟郎の問いに疑問形で答えると、少女はスルリと右手を差し出す。
 「わたしと一緒に来て。そしたら、教えてあげる。」
 その誘いに、悟郎は戸惑う。
 確かに、目の前の少女に対する興味はあった。
 しかし、それ以上に心の奥底で本能が警鐘を鳴らしていた。
 目の前の手を取ったら、取り返しのつかないことになる。そんな、確信に近い予感があった。
 知らず知らずのうちに、後ずさる。
 それを見た少女が、不思議そうに小首を傾げる。
 「何で、逃げるの?」
 悟郎の後を追う様に、少女が踏み出す。それに圧される様に、悟郎はまた一歩、後ずさる。
 「・・・わたしのこと・・・怖い?」
 そう言った琥珀色の瞳に、悲しげな光が浮かぶ。
 「怖がらないで!!わたし、何もしないよ?ご主人様の嫌がること、何にもしない。絶対、絶対!!」
 まるで悪戯を見つかった子供が言い訳をする様に、焦燥と悔恨と、恐れの混じった声が言葉を紡ぐ。
 「だから、逃げないで・・・。一緒にいて・・・。この手で触れさせて・・・。それだけでいいの。それだけで・・・。」
 その必死とも、悲壮ともとれる声に悟郎の胸が痛む。けれど、悟郎の本能は互いの距離を縮めることを決して許さなかった。
 「・・・・・・!!」
 と、少女が詰め寄る足を止め、涙に潤んだその瞳を悟郎の視線に合わせる。
 見れば、琥珀色だった筈の瞳が朱く染まり、燃える炎の様に揺らめいていた。
 「・・・それとも・・・」
 紡がれた言葉からは、それまで込められていた、情愛と熱情が消えていた。
 暗く、低く、冷酷ささえ感じさせるその声に、悟郎の背筋に冷たいものが走る。
 「あなたはまた、わたしを突き放すの・・・?あの時みたいに・・・!!」
 「・・・え?」
 悟郎の動揺を無視し、少女は独り言の様に言葉を紡ぐ。
 「でもね・・・?・・・駄目だよ・・・。・・・許さないよ・・・。ご主人様・・・。あの時みたいになんか・・・させないよ・・・。だって、ずっと待ってたんだもの・・・。ずっと、ずっと・・・!!」
 少女の瞳が、その輝きを増していく。
 より朱く。
 より、禍々しく。
 「あなたはわたしのもの・・・。わたしだけのもの・・・。ずっと、ずっと、永遠に・・・!!」
 「・・・!!」
 その鬼気に、悟郎は戦慄きながらも退路を求め周囲に視線を走らせる。
 そんな悟郎を見て、少女は嘲る様にカラカラと笑う。
 「駄目駄目。ここ、とっくに結界はってあるんだよ。気がつかなかった?さっきから全然、人が来ないでしょ?」
 悟郎の背が、後ろにあった洋菓子店のドアに当たる。自動である筈のそれはしかし、機能の対象となるべき悟郎の存在に何の反応も示さない。ただ硬く閉ざされたまま、逃げ道を阻む壁と化していた。
 後ろにはガラスの壁。前には少女。
 進退極り、立ちすくむ悟郎。
 その前で、少女が獲物を手中にした喜びに笑う。
 「言ったよね?ご主人様。もう、離れないって。離さないって。・・・逃がさないって・・・」
 白い手が、悟郎に向かって伸びる。
 ゆっくりと、しかし確実に。
 そして―
 「ご主人様!!」
 清冽な声が悪夢の静寂を切り裂き、黄金色の風が悟郎と少女を別つ様に閃いた。
 「「!!」」
 悟郎と少女。両者の目が驚きに見開かれる。
 悟郎の目には軽やかに揺れる、黄金(こがね)色の髪の房が。
 少女の目には、群れを守る犬狼の如き眼差が、それぞれに映し出されていた。
 「ご主人様、大丈夫!?」
 「アカネ・・・!?」
 その細い肩をいからせ、悟郎を守る様に立つ少女―アカネは、それまで彼が見たこともない様な緊張感を持って、目の前の少女に対峙していた。
 「・・・守護天使・・・。人除けの結界じゃ、効果無いや。迂闊だったなぁ・・・。」
 「・・・誰だ・・・いや、あなたは一体、何?」
 油断のない視線を向けながら、アカネは朱い瞳で自分を睨む少女に問いかける。
 「・・・人間じゃない。でも、守護天使でもない・・・。その妖気・・・ひょっとして、怨霊?」
 「・・・そんな低俗なもんと、一緒にしないでよ・・・。」
 アカネの言葉に、ムッとした顔で少女が答える。
 「・・・朝は蛙と犬で、今度は狐?・・・さすがはご主人様、慕われてるねぇ・・・。でも・・・」
 少女は不意にその右腕を肩の高さまで上げると、ブンと振り下ろした。
 シャリンッ
 大きく広い袖口から細長いものが滑る様に飛び出て、彼女の手に納まる。
 「「――!?」」
 その手の中のものを見て、悟郎とアカネが同時に息を呑む。
 「ご主人様、わたしと話してる。あなた、邪魔。」
 次の瞬間、物凄いスピードで、少女がアカネに肉迫した。
 「「!!」」
 ザクッ!!
 静寂に包まれた結界の中に、酷く鈍い音が無気味に響いた。

 
 パリンッ
 「うわっ!!ビックリしたぁ・・・。」
 「ツバサちゃん、大丈夫!?」
 「うん・・・。大丈夫。だけど・・・。」
 砕けた茶碗を拾いながら、ツバサがつぶやく。
 「なんか、これ・・・。急に割れたみたいだったんだよね・・・。落としたわけでもないのにさ・・・。」
 「え・・・?」
 隣で、いっしょに欠片を拾っていたランが眉を潜める。
 「何か・・・嫌な予感がする・・・。」
 そう言って、ツバサは手にした破片をじっと見つめる。
 その手の中で、真っ二つに割れた悟郎のネームペイントが蛍光灯の光を反し、悲しげに輝いていた。


 「・・・く・・・!!」
 低く押し殺す様なアカネの声と、少女の舌打ちが交差する。
 とっさに前にかざされた、アカネの通学カバン。
 それに、鋭い切っ先がギリギリと食い込んでいた。
 少女の手にあったもの。それは一振りの小剣。
 小剣とはいっても、以前ユキが護身用に携帯していたものとは違い、「レイピア」と呼ばれる洋刀の類を短く造り直した様な、細く鋭い針を思わせる刀身をもったもの。
 その刀身は黒曜石から削り出した様に黒く、紅い月光を反して不気味に光っている。
 硬い合成樹脂製の革と、その中に収まった厚い辞書や教科書類に辛うじて阻まれたそれは、それでも刀身の半ばまで突き刺さり、ギシギシと不気味な音を立てていた。
 カバンの反対側に突き出たその切っ先は、その狙いを迷うことなくアカネの左胸に定めている。
 あと一瞬、アカネがカバンをかざすのが遅れていれば、小剣とはいえ、その刀身の長さは少女の二の腕ほどはある代物。心臓はおろか、身体そのものさえも刺し貫かれていたであろうことは、容易に予想出来た。
 自分の身体スレスレで煌く黒刃に、アカネの背筋を冷たいものが伝う。それは、転生以来久しく感じたことのない、あまりにも明確な殺意。
 蒼ざめたアカネの顔を見て、少女が愉しげに口元を歪める。
 それは、行為とはそぐわない酷く無邪気な笑み。
 「ふうん・・・。さすがは元狐。いい反射神経してるねぇ?でも・・・」
 そう言って、小剣を持つ手に力を込める。ズズ・・と気味の悪い手応えとともに刃が押し込まれ、突き出た切っ先がアカネの身に近づく。それに気をとられた瞬間―
 「ご主人様御守りするには、ちょっと足らな過ぎるんじゃない?ほらっ?」
 少女が笑いながら、空いていた左手でアカネの胸倉を掴んだ。
 次の瞬間、アカネの視界がクルンと回る。
 「・・・え?」
 放り投げられたのだと気がついたのは、木の葉の様に舞った身体が背中から硬いアスファルトの地面に叩きつけられた後だった。
 「―――っ・・・!!」
 全身を貫く衝撃。肺から無理やりに押し出された空気が、声の代わりに激痛となってアカネの身体を震わせる。
 「・・・く・・・」
 痺れる様な痛みに戦慄きながら、それでも起き上がろうとアスファルトに爪を立てる。しかし、彼女がその身を起こしきる前に、その喉元にチクリと冷たい痛みが走った。
 「・・・!!」
 アカネの細い首に鋭い黒針がピタリと突きつけられ、その切っ先がごく浅く、アカネの首筋に埋まっていた。
 それを突きつける本人は、身動きの取れなくなったアカネを嬲るような視線で見下ろしていた。
 「あははっ。チェックメイトォ!」
 朱い三日月がパクパクと動いて、そんな言葉を無邪気に紡いだ。
 「駄目じゃん。全然、駄目。そんなんで、どうやってご主人様御守りする気なの?」
 明らかな嘲りの混じったその言葉に、アカネの顔が悔しげに歪む。
 そんなアカネの顔を見て、少女はケラケラと笑う。
 その有様に、呆然としていた悟郎が我に帰った。
 「アカネ!!」
 思わず走り寄ると、少女とアカネの間に強引に身を割り込ませた。
 「!!」
 少女が、慌てて刃を引く。
 「ご主人様、駄目っ!!」
 アカネが苦しい息の下から叫ぶが、悟郎は耳を貸さない。
 彼女を守る様に、凛とした表情で目の前の少女を睨み付ける。
 その視線を受けて、少女の表情に戸惑いの色が浮かぶ。
 「・・・・・・。」
 「・・・・・・。」
 しばしの静寂。
 やがて、少女が視線を外し、それを悟郎の後ろのアカネに向ける。
 向けられたその顔が、ニタリと歪む。
 それは、先刻までの無邪気さとは打って変わった怖気がくる程に冷淡な笑み。そして、一言。
 「ざまぁないの。守護天使が守られてちゃ、世話ないねぇ?」
 そこに込められたのは、憎悪さえ感じさせる侮蔑と悪意。
 アカネの肩が、ビクリと震える。少女はそんなアカネを一瞥し、そして、
 「まぁ、いいか・・・。あんたなんかの血で、ご主人様汚したくないし・・・。それに・・・」
 そう呟いて、ふとその瞳を虚空に舞わせる。
 「・・・なんか、また邪魔がふえそうだし・・・。」
 忌々しげに虚空を睨むと、その視線を改めて悟郎に向ける。
 「ご主人様、ごめんね。今日、何だか日が悪いみたい。積もる話、今度また、日を改めて・・・。」
 いつしかその瞳を染めていた朱は消え、暗く澄んだ琥珀の輝きが元の様にその瞳を満たしていた。

 瞬間、少女の背で閃く黒い光。
 その暗い輝きの中から、燐光とともに浮かび上がる方体。
 光が収束し、伸び出る一対の羽。
 シルエットだけを見れば、守護天使の翼に酷似している。
 しかし、それを形成するのは光り輝く純白の羽毛ではなく、真っ黒い皮膜とその中を縦横に走る無数の翅脈。
 黒曜石から削り出した様な、闇色をした羽虫の翅。
 形ばかりは天使の翼を模したそれは、まるで庇護と慈愛の象徴たる天使のそれの、アンチテーゼの様にも思えた。

 漆黒の翅をヒュンと鳴らして、少女が微笑む。
 「ご主人様、宿題。」
 「え・・・?」
 「今度会う時までに、わたしの名前、思い出してね?でないと・・・」
 琥珀の瞳が一瞬朱に染まり、キロリとアカネを見つめる。
 ニタリと三日月に歪む、小さな口。
 その笑みに含まれた意味を理解した悟郎の顔が、血の気を失う。
 「約束だよ・・・。忘れないでね・・・?」
 フィイイ・・・ン・・・
 静寂の中、昏々と湧く清水の様に、涼やかな音が湧き起こる。
 それは少女の背の翅が、周囲の空気を、細かく細かく、刻む音。
 (この音・・・!)
 低く静かに響くその音が、悟郎の記憶の何処かを微かに、だけど確かに、揺さ振った。
 戸惑う、悟郎。
 その心の動揺を見透かしたかの様に、少女が目を細める。
 「お休みなさい、ご主人様。良い夢を・・・。」
 その言葉とともに、翅が大きく一閃。
 閃いた黒い軌跡が一瞬、視界を覆う。
 「!!」
 再び目を空けた時、少女の姿はすでになかった。
 ただ、その翅音の残滓だけが夜の大気を微かに震わせていた。

                    
 「・・・・・・。」
 悟郎はしばしの間、呆然と少女の消えた空間を見つめていた。
 身体に纏わり付く、少女の翅音の残滓。
 確かに覚えのある、あの羽音。
 何時?
 何処で?
 いくら手の届く範囲の記憶を探っても、答えの欠片さえも拾えない。
 しかし、確信があった。
 自分と、彼の少女との間に在った交錯の時間。
 それは曖昧でありながら、確かに存在していたのだと。
 探さねばならない。記憶の地層の、心の鍵戸の、深い深い奥底に、埋没している筈のそれを。
 さもないと、さもないとあの娘は―


 「ご主人様・・・。」
 悟郎の思考は、不意に背後から聞こえた声に遮られた。
 我に帰り振りかえると、どうにか身を起こしたアカネがこちらを見上げていた。
 アスファルトに叩きつけられた時に出来たのであろう、白い肌の所々に幾つも浮かんだ内出血の痕が痛々しい。
 「!! アカネ、大丈夫かい!?」
 悟郎が膝まづいて視線を合わせると、アカネはオズオズと手を伸ばし、悟郎の頬にそっと触れた。
 「ご主人様・・・怪我、ない?」
 「ああ、僕は大丈夫。アカネの方こそ・・・ ?」
 そこまで言った時、悟郎は頬に触れるアカネの手が妙に熱い事に気がついた。見れば、その顔から漂白した様に血の気が失せている。呼吸も、妙に荒い。
 「・・・アカネ・・・?」
 「ごめん・・・なさい。・・わた・・し・・何も・・出来な・・かった・・・。」
 振り絞るような声。そして、その身体がゆっくりと、力尽きたように悟郎の腕の中に崩れ落ちる。
 「アカネッ!?」
 抱き止めた腕を通して、アカネの体温が伝わる。
 熱い。明らかに、発熱している。
 悟郎は慌てて、その身体の細部に医学の片鱗に携わる者としての目を走らせる。外傷は内出血のみ。辛うじて、骨折の類は免れている様子。衝撃で、内臓に損傷でも受けたのかとも思ったが、それでこんな急激な発熱が起こるとは思えない。と、焦燥に駆られながら走らされた悟郎の視線が、異様なものを見止めた。
 それは、苦しげに喘ぐアカネの首筋。先程、少女が手にした小剣でつけた、小さな小さな刺し傷。爪楊枝の先程の深さしかないその傷の周辺が、不気味な紫色に変色していた。その色は、明らかに他の内出血のものとは違う。
 「―――っ!!」
 悟郎の脳裏に、嫌な予感が走った。
 そっと指を伸ばし、その傷に触れる。触れた瞬間、アカネが小さく呻いて顔を歪ませる。傷は熱を持ち、腫れていた。
 (・・・まさか・・・)

 ―毒―

 あの剣に、毒が仕込まれていた?
 自分の至った結論に、悟郎は全身の血の気が引いていくのを感じた。
 悟郎は近くのベンチに着ていた上着を広げ、そこにアカネを横たえると、急いで携帯を取り出した。
 番号を押すのももどかしく、救急車を呼ぶ。
 しかし、
 「な・・なんで!?」
 携帯が、通じない。否、通じる通じない以前に、携帯そのものが機能しない。充電が十分なのは出掛けに確認済み。にも関らず、携帯は只々沈黙を続けるだけ。
 「・・・ゴメン!!アカネ、ちょっとだけ待ってて!!」
 そう言うと、悟郎は近くに設置されていた公衆電話に走った。受話器を取り、ボタンを押す。
 けれど―
 「・・・くぅ・・・っ!!」
 悔しげな声を上げ、叩きつけるように受話器を置く。薄々予想していたものの、やはり機能していない。考えてみれば、先程店の自動ドアも動かなかった。
 ―駄目駄目。ここ、とっくに結界はってあるんだよ。―
 今はいない少女が、先刻発した言葉が思い出される。その結界が、主の失せた今に至って尚持続され、周辺の電気機器の機能さえも麻痺させているのだ。加えて、もともとが「人除け」の結界。他の人が訪れることもなく、助けを求める事も出来ない。
 少女の、無邪気な嘲笑が聞こえたような気がした。
 「なんで・・・ここまで・・・こんな・・・」
 呆然としながら、横たわるアカネの側らにひざまずく。
 首の傷周りの変色が広がっていた。毒はゆっくりと、しかし確実に彼女の身体を蝕んでいる。アカネの細い肩が、その苦しみを代弁するかのように震えていた。
 「・・・・・・。」
 悟郎はキッと表情を引き締めると、アカネの身体をそっと抱き上げた。アカネは脂汗を浮かべ、昏睡したまま。
 「アカネ・・・少しの、我慢だから・・・。」
 結界の外に出ることさえ適えば、携帯も使えるし、人に助けを求めることも出来る筈。
 結界の範囲が狭い事を祈りつつ、悟郎が足を踏み出したその時―
 不意に、視界の隅で金色の光が舞う。
 冷え切っていた空気が優しい温もりに包まれ、重苦しい闇の帳が朝日に照らされる霧の様に千々に途切れ、溶け去った。
 不意に伸びてきた白い手が、苦しげに上下するアカネの胸の上に優しく置かれる。
  「よく、頑張りましたね。アカネさん・・・。」
 言葉と共に慈しみの力が流れ込み、アカネの内に巡る呪毒を浄化する。
 みるみる内に傷は癒え、苦悶の息遣いは安らかな寝息へと変っていった。
 「!!」
 驚いて視線を上げた悟郎の目の前で、純白の神衣がフワリと舞う。淡雪色の肌。艶やかに流れる黒髪。薄く紅をさした唇が、穏やかな声で言葉を紡ぐ。
 「・・・御久しぶりです。御主人様・・・。」
 「・・・ユキさん!?」
 懐かしい顔に聖母の微笑みを浮かべ、彼女はそこに立っていた。


                                                       
                                     続く                                                                                                              
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