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2021年01月28日

NR-あお葉のこと葉 ファイル-8

ばっちらげっこ
  ばっちらげっこ。一瞬、この地方独特のカエルの呼び名かと思った。

「昔は兄弟が多いから、ごはんどきはバッチラゲッコ。モタモタしてると食いっぱぐれんのよ」

少子化のためか、最近はあまり見かけないが、昔の家庭では日常の光景。そう、おかずの奪い合いのこと。「先を争って競争する」ことを多摩地方や神奈川県では(ばっちらげっこ)と言うのだそうだ。

調べてみると、山梨県では(ばっちらこう)。同じく、群馬県は(ばっちらこと)。長野県では、先を争うという意味で(ばっちらがる)。静岡県では電車の座席取りなど、独占するという時に(ばっち)(ばった)(ばっちらがう)を使う。

ニュアンスは微妙に違うが、(ばっちら)だけで「争う」「奪う」という意味になることは間違いない。ちなみに、茨城県は(ばいさらー)栃木県は(ばいさりあう)…と、少し穏やかな感じになる。

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 後ろにくっつく(げっこ、こう、こと、がる、がう)は、複合動詞として使われる「〇〇合う」に該当する。

並べてみると(げっこ)だけが、はっちゃけた印象を受ける。以前紹介した(おっぺす)のように、促音を入れて強調するこの地方独特の言い回しなのだろう。穏やかな北関東との気質の違いが表れていて、じつに興味深い。

このコロナ禍でおかずも個別に取り分けるようになった。家庭内のばっちらげっこも消滅していくのだろう。それに引き替え、災害が起きるたびに繰り広げられるスーパーやコンビニでの争奪戦。電池だ!マスクだ!消毒液だ!こんなバッチラは、もうケッコウだ!


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真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-7 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.2

「松蔭先生はすごい御方じゃ!」と、大河ドラマで桂小五郎が激賞していたが、確かに吉田松陰は凄い人だと思う。

まず、その行動力。自分が吉田松陰に惹かれたのはその尋常じゃない行動力にある。そのエネルギーの源泉はどこにあるのか?それを知りたくて生誕地である山口県萩を訪れたのは1987年(昭和62年)。27歳の時だ。

穏やかな、それは穏やかな城下町。松蔭の…いや、松蔭の弟子である高杉晋作や久坂玄瑞のあの狂おしいほどの激情など微塵も感じられない静かで落ち着きのある港町であった。

街の雰囲気は最高である。なにより人が優しい。
一つ一つ挙げていったら紙面がいくらあっても足りないくらい、いろんな方にお世話になった。けっして交通の便のよくない萩の町に生涯で四度も足を運んだのはそのためだ。

おっと、話は幕末の横浜であった。萩の街の素晴らしさについては、また別の機会に!

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松蔭と商人
さて、そんぼ松蔭先生である。弟子の金子重之輔と二人で、伊豆下田からペリーの黒船に乗り込み、密航を企てようとしたのが嘉永七年(1854)の三月二十八日。結果は周知のとおり。

アメリカ側に乗船を拒絶されて失敗し、自ら奉行所に出頭して投獄されるのだが、じつは松蔭、最初から下田に向かったわけではない。事件の二十二日前は、東海道の保土ヶ谷宿に潜んで、ペリー宛の手紙をしたためていた。この三日前に横浜で日米和親条約が締結されたからだ。このあとまさか、下田へ向かうとは思ってもいなかった。

その保土ヶ谷の宿に、ひとりの人物が密かに訪ねてきた。誰あろう、あの中居屋重兵衛である。

松蔭にとっては、佐久間象山門下の兄弟子にあたる。

確証は無いが、象山の意を受けて松蔭との連絡係をしていたのではなかろうか。たぶん、ペリーが下田に向かったことを教えに行ったのだろう。

それを聞いた松蔭、慌てて下田へ向かう。

 
先にも述べたが、この年に重兵衛は外国人相手に密貿易を行っている。

重兵衛も、何とか外国船に近づけないものかと横浜辺りをうろついていた。そこで、黒船に荷物を運び入れている相撲取りの姿を見つける。幕府はペリーに進呈する品物を力士に運ばせていたのだ。

その中に重兵衛が贔屓にしている小柳という力士がいた。彼は小柳に頼んでアメリカ側に渡りをつけてもらい、自らも人足に化けて外国人に近づいた。そして、絹織物を売りつけることにまんまと成功したのである。

重兵衛は、ペリーが下田に向かうことを知ると、今度は故郷の上州(群馬県)に取って返した。ここが松蔭と商人の思想、考え方の違いである。

上州で生糸を仕入れた重兵衛は、そのまま下田に直行し大儲け。ただ、儲けただけでなく、外国事情もしっかりと調査している。 

象山も密航を教唆した罪を問われ蟄居させられているので、重兵衛だけがオイシイ思いをしたことになる。



義をもって利となす
幕府が諸外国を納得させるため、横浜の町造りを急がせ、江戸をはじめ近隣諸国の富農や豪商に対し、強制的に移住を命じたこと。当時、日本橋に店を構えていた重兵衛も命じられた一人だということは先月号で書いた。

だが、どうも彼の出店は下田事件の翌年に内定していたらしい。懇意にしている外国奉行・岩瀬忠震(ただなり)らが便宜を図ったのだろう。広大な土地を借り受け、屋根に銅の瓦を用いた「あかね御殿」と呼ばれる屋敷を建てた。豪奢にしたのは外国人に侮られないため、外国奉行からの示唆があったという。

のちに神奈川奉行から「町人の身分で二階建て、しかも御禁制の銅瓦を葺くなどとは、もってのほかである」と咎められるが、まさにこの時「安政の大獄」という嵐の真っ只中。懇意の外国奉行たちは、悉く井伊直弼によって罷免されていた。

桜田門外の変が起きたのは、重兵衛が奉行所に呼び出された半年後である。

井伊大老暗殺の報が飛脚によってもたらされたとき、重兵衛は飛び上がらんばかりに喜んだという。何故なら、大老に致命傷を与えた短銃こそ、重兵衛が水戸浪士に提供したものだったのだ。 


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重兵衛のイデオロギーは「尊王開国」。水戸の浪士らが掲げる「尊王攘夷」とは相容れない。それでも、彼らに協力したのは、松蔭も含め、有為な人物が次つぎと抹殺されていくことへの義憤。そして「利を以って利となさず、義を以って利となす」という重兵衛の行動哲学のあらわれだろう。

とはいっても、安政の大獄はクーデターを未然に防ぐ正当な弾圧。

よって時の大老・井伊直弼の殺害は立派なテロだ。

翌年、重兵衛は突如横浜から姿を消す。水戸浪士との関係が幕吏の知ることとなったため、家族に累が及ぶのを恐れて逃亡したという。影武者を使って逃げ延びたとも、千葉で死んだとも伝えられる。「あかね御殿」も莫大な財産も火災によって焼失した。

坂本龍馬のように、世界を股にかけて商売することを夢みていたというが、じつにミステリアスな人物である。


原善三郎
店を構えてわずか二年。彗星の如く現れ、彗星の如く去った重兵衛の姿をじっと見据えて、時を待っていた人物がいる。

中居屋に荷主として店に商品を置いてもらっていた『原善三郎』である。

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「原の目」と呼ばれる鋭い眼力で、生糸の品質を見抜き。自分の目に適った良質な糸だけを仕入れる。地道で堅実な商法は、江戸で評判を呼んだ。

生麦事件をはじめ、尊攘浪士の殺生事件が頻繁に起きていた開港直後の横浜を「四、五年経ったら面白かんべぇが、今じゃぁ地獄の一丁目でがんす」と警戒していた善三郎が、横浜に「亀屋」という店を出したのは、慶応元年(1865)、重兵衛が失踪した四年後である。場所は横浜弁天通3丁目、荷主から生糸を買い上げる売り込み業者に転じたのである。

善三郎の出身は武蔵国渡瀬村、現在の埼玉県児玉郡神川町である。じつは10年前に、この地を訪れている。しかも二回。この時は「鬼と鉄」の研究が目的で、御室ヶ獄という山をご神体とする金鑚神社、その下を流れる神流川。いずれも砂鉄と関係があると踏んでの調査であった。

その奥に鬼の伝説で有名な「鬼石」の街。庭石として有名な三波石が産出する三波石峡や冬桜が咲く城峰神社がある。

善三郎の生家は、その金鑚神社の麓、神流川沿いで醸造業や質屋も営む豊かな農家であった。

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絹の道をゆく-8 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次

2021年01月25日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-6 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.1

わが日の本は島国よ 朝日かがよう海に

連りそばだつ島々なれば あらゆる国より舟こそ通え 

されば港の数多かれど この横浜にまさるあらめや

むかし思えば とま屋の煙 ちらりほらりと立てりしところ

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明治四十二年(1909)に作られた森鴎外作詞の『横浜市歌』である。横浜の小学校に通っていた人なら、誰もが歌える(…はず)。

歌詞の意味は…、(島国である日本は、当然港の数も多い。だから、色んな国の船がやって来る。だけど、この横浜に勝るスゴイ港なんて他にありませんよ。昔は、貧乏な漁村だったのに、こんな立派な国際的な港になっちゃいました)簡単に言えば、こんな感じだろうか。





苫屋の煙が…原因?
「とま屋」が粗末な小屋ということで、開港以前の横浜は「貧しい寒村」だったという説明が、横浜の昔を説明する際に、必ず付け加えられる。

(貧村、辺鄙、何も無い…)どうも、この解説には釈然としない。

これと似た違和感は、青葉区や都筑区の昔を説明するときにも感じる。

「昔は、横浜のチベットって言われていたんだよ。何も無くてね」

辺鄙な所、不便な所だという意味でチベットを使う(何気に聞いていたけど、チベットの人にしてみたら本当に失礼な話だ)。

郷土史を勉強すればわかるが、古代の遺跡や古墳も数多く発掘されているし、主要な街道も集中している。むしろ、他の地域よりも先進的で歴史も深い。

明治41年(1908年)に横浜線が、昭和2年(1927)に小田急線が開通し、その間に挟まれて遠くに出かけるのに不便だった…というだけの話。村の様子はどこも同じであった。

どうも、急激に発展した土地や町の場合、それ以前の過去を過小に表現したがるようだ。一代で財を築いた成金が、苦労話を何倍にも膨らまして話すのと似ていて…なんともはやな気持ちになる。

文部省唱歌の『われは海の子』の歌詞の中にも

「煙たなびく苫屋こそ/我がなつかしき住家なれ」と出てくる。

この歌の舞台は鹿児島だと言われているが、江戸時代、日本中の漁村の原風景には、苫屋があったのだろう。

神奈川や六浦(金沢区)の港に比べて、小さい村だったというだけで、寒村とまで言ってしまうのは、どうかと思うのだが…。

ちなみに、森鴎外が生まれたのは文久二年。生麦事件が起きた年である。

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象山と坦庵
さて、その横浜村がどうして選ばれたかである。

最初に横浜開港を主張したのは、佐久間象山(しょうざん)だと言われている。

信州松代藩の藩士で、幕末の兵学者・思想家である象山は、地元松代で日本初の電信実験を成功させるなど、洋学に造詣が深く、「和魂洋才」(日本人の精神をもちながら、西洋の学問を取り入れる)を説いた。

江戸で開いた塾には、吉田松陰・小林虎三郎・勝海舟・河井継之助・坂本龍馬といった幕末史を彩るスターたちが弟子として入門している。象山の肖像画が残っているが、見るからに恐ろしい。海兵隊を率いて上陸したペリー提督が、思わず会釈をしてしまったという伝説が残っているほどだ。

象山が横浜開港説を唱えたのは、そのペリーが旗艦サスケハナ号を含む七隻の軍艦を率いてやってきた安政元年(1854)、開港の五年前である。

当時、松代藩の軍議役として横浜の警備に当たっていた象山は、日米和親条約に下田開港を盛り込んだ海防掛・江川坦庵(たんなん)の提案に猛反対して、横浜こそ開港するべきだと主張した。下田よりも横浜の方が守りやすいという軍事的な理由だという。

象山は江川の弟子として西洋砲術を学んでいるにも関わらず、下田開港は江川の「私利私欲である」とまで極論している。

私利私欲とは言いすぎだが、江川が反射炉に用いるコークスを輸入するために、下田を主張したことは否めない。ちなみに、江川の師であり、ブレーンだったのが、大山街道・荏田宿に泊まった『遊相日記』の渡辺崋山だ。江川は、幕府の海防政策について崋山から助言も得ている。

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幕末の天才外交官
日米和親条約締結の三年後、来日したアメリカ総領事のハリスが大阪開港を希望したのに対し、象山に続いて横浜開港論を主張して対抗したのが、老中首座・阿部正弘にその才能を見出されて海防掛目付から外国奉行にまで出世した岩瀬忠震(ただなり)である。

ハリスをして「彼が全権で、日本は幸福だ」と言わしめるほどの人物で、幕末のジャーナリスト・福地源一郎も、「幕末の三傑」の一人として小栗忠順・水野忠徳とともに評価している。

ただ、ハリスに対して「横浜」とは言わず、横浜も含めた「神奈川」の開港と言っている。ようするに、知名度の低い横浜村をぼかして伝えたのである。

結局、東海道に直結する神奈川宿は、不測の事態が起きる可能性が高く、神奈川湊は遠浅で、大型船の停泊には適さないため、対岸の横浜村に開港場を新設することが決定した。主導したのは、大老・井伊直弼である。

外国側(ハリスとイギリス総領事オールコックなど)は、繁華で開けた神奈川の開港をしつこく主張したが、外国商人たちは神奈川よりも港として適している横浜村に賛成した。幕府は外国側を納得させるため横浜の町造りを急ぎ、そのために江戸や近国の富農、豪商に対し、半ば強制的に移住を命じた。

先月号の最後に登場した中居屋重兵衛も、命じられた一人だという。 
 
面白いのは、重兵衛も佐久間象山の弟子だったということだ。そして、江川坦庵、岩瀬忠震などとも昵懇の間柄だという。

象山が横浜開港を叫んだ年、弟子の吉田松陰がアメリカ船で密航を企てた。

重兵衛が外国人に絹織物を密売したのも同じ年である。開国の先覚者と呼ばれる中居屋重兵衛。この男、いったい何者なのであろうか?

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絹の道をゆく-7 へ続く 



この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次

2021年01月08日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-5 高丸コレクション 

■プロローグ Vol.5

先月号で「面白い」と宣伝したから…ではないが、ドラマ『JIN-仁』の視聴率がシリーズ最高を記録した。

今秋放送開始された連続ドラマで二十%を超えたドラマはこれだけだという。
急いで原作の漫画も通しで読んでみた。なるほど、文字通り筋の通った内容。

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ドラマではスルーしてしまった、生麦事件も登場する。さすがに、英国人を助けるなどということはないが、マーシャルやクラークを治療したイギリス公使館付の医師・ウィリアム・ウィリスとアメリカ人医師・ヘボン(ヘボン式ローマ字で有名)を助手に手術を行い、サムライに斬られて瀕死の外国人水兵を助けてしまう。

当時はまだ無い人工呼吸法で、ヘボンが「神の奇跡」と呟くシーンは圧巻だ。

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因みに、ヘボンは本来ヘップバーンと発音する。あのオードリ・ヘップバーンと同じだ。当時の日本人にはヘボンと聴こえたのだろう。

ドラマは予算や時間の関係上、端折ってもいるし、原作にない登場人物など、オリジナルの設定になったりもしている。それはそれで、一粒で二度美味しいというものだ。

それにしても、医療シーンのリアルさは見事だ。

それもそのはず、医史監修に酒井シヅ氏(順天堂大学医学部名誉教授)、医療指導には冨田泰彦氏(杏林大学医学教育学教室講師)が名を連ねていた。

歴史監修に大庭邦彦氏(聖徳大学人文学部 日本文化学科教授) を起用するなど、歴史考証もしっかりしている。

惜しいかな、この号が発行される日が最終回。原作はまだ続いていて、佐久間象山、西郷隆盛、高杉晋作、皇女和宮、大相撲の陣幕久五郎など、実在の偉人が続々と登場する。



「稲むらの火」のモデル
気が付いたら、今回もドラマの宣伝に四分の一以上費やしてしまった。漫画やドラマに興味のない方は、さぞやご立腹でしょう。が、しかし、漫画で当時の雰囲気を知ることもあるし、漫画で新しい知識を得るということもある。

この漫画を読んで初めて知った人物に濱口儀兵衛という人がいる。なんと、あのヤマサ醤油の七代目当主である。年配の方なら、国語の教科書に載っていた『稲むらの火』という話をご存知だろう。

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安政元年(一八五四)に紀伊半島を襲った大地震。地震のあと、津波が来襲することに気付いた一人の男が、祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束に火をつけて、村人を誘導して助けるという話。 

この話は実話で、その主人公のモデルこそ、濱口儀兵衛なのである。

漫画ではペニシリンを大量に必要とする主人公のために、醤油蔵と職人たちを提供するという義侠心に富んだ人物として登場する。

実際の儀兵衛も、私財を投じて震災後の食糧確保や防波堤の建設を行い。西洋医学所の研究費用を寄付するなどの救済事業を行ったというから、ペニシリンの話もありえるような嘘である。

動乱期には、こうした傑出した人物、私利私欲でなく公利公欲で判断し行動する実業家が登場する。

いつから日本は、マネーだけを追い求める、私利私欲の虚業家や詐欺師ばかりの国になってしまったのか。

『キャピタリズム(資本主義)〜マネーは踊る〜』の監督マイケル・ムーアが「資本主義は邪悪だ」と批判しながら、かつてのアメリカは「すべての人の平等と幸福を願う国だった」と語っていたが、果たしてそうか?

なんだか、話がとんでもない方向に行きそうだ。幕末から明治、開港し国際都市となった横浜に大勢の商人が押し寄せた。「横浜商人」と呼ばれた彼らの業種は多岐にわたった。明治十四年に編まれた『横浜商人録』によれば、当時の横浜にあった商業の業種は187種、商店数は3068軒だったそうだ。

なかでも貿易商人、特に生糸の取引に目をつけた商人の台頭は凄まじいものがあった。


謎の商人・中居屋重兵衛
やっと絹の話が出てきた。一体この先どうなってしまうのかと、冷や冷やしたけど、よかった〜生糸が出てきて。(笑)

生糸が出てきたのには理由があった。(ここからは、幕末の話です)

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天保十一年(1840)フランスのプロバンス地方で蚕の微粒子病が発生した。これが猛烈な勢いで、イタリアからスペインにまで伝染して、12年後には最悪の事態を迎えた。

当時、絹織物産業で栄えていたリヨンやミラノでは、生糸不足に悩み、上海で生糸を求めていたが、日本の生糸の方が良質だという情報が入ると、たちまち日本に生糸を求めてやって来るようになった。

つまり、安政六年(1859)の横浜開港は絶妙なタイミングだったのだ。

開港当時、外国人が何を欲しがっているかは誰も知らなかった。だから、店先には外国人が欲しがりそうなものを何種類も並べていたそうだ。  

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開港から26日経った六月二十八日、最初の商船で入港してきたイギリス商人のイソリキが(芝屋清五郎の店で、甲州島田造生糸六俵を一斤につき一分銀五ケで買った)これが生糸貿易の最初だと伝えられる。

じつは、それよりも早く絹織物を外国人に売り始めていた人物がいた。

上野国吾妻郡中居村(現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原)出身の商人中居屋重兵衛である。

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この人物が面白い。ペリーが二度目に日本にやってきた安政元年(一八五四)に早くも外国人に絹織物を売り始めていた。

横浜開港の5年前ということは、つまり密売である。

密売によって蓄えた資金を元に、開港早々、本町四丁目に豪邸を立てた重兵衛。火薬の研究家でもあり、多くの志士とも交流があったという。しかし、出店してわずか二年目、生麦事件の前年に忽然と姿を消す。

屋根に銅の瓦を用いたことから「あかね御殿」と呼ばれた屋敷は、原因不明の火災で焼失した。
 

絹の道をゆく-6 へ続く
 

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生麦事件について解説をされる浅海武夫館長(79)。
残念ながら『生麦事件参考館』は、2014年5月3日に閉館となってしまいました。



この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。

地名推理ファイル 絹の道編 目次

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-4 高丸コレクション 

■プロローグ Vol.4

またまたドラマの話で恐縮だが、日曜夜九時からやっている日曜劇場『JIN-仁』が面白い。

「脳外科医が、幕末の江戸へタイムスリップしてしまい、満足な医療器具も薬もない環境で江戸時代の人々の命を救う」という、漫画が原作の、いわゆる歴史SFという荒唐無稽な話なのだが、これが中々見応えがある。正直、大河ドラマよりも時代考証など丁寧に制作されている。幕末の江戸の写真と現代の同じ場所の写真をオーバーラップさせて対比させるという、テレビ版「わが町今昔」風のオープニングも好い。

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坂本龍馬や勝海舟、緒方洪庵といった実在の人物も登場するが、役者の演技も上手いので、違和感が無い。因みに、坂本龍馬役の内野聖陽(まさあき)さん、「風林火山」の山本勘助の時から注目している大好きな役者さんだが、港北区出身で、実家は小机駅前の「雲松院」。小田原北条氏ゆかりの由緒あるお寺だそうだ。

何故いきなりドラマの話になるのかというと、このドラマで、主人公の医者がタイムスリップする年代が、まさに「生麦事件」があった文久二年(1862)なのである。

当時、江戸の町は、コレラが大流行している。これを主人公が現代医学の知識を使って治していくというストーリー。舞台が江戸ということで、今後、生麦事件が描かれるかは不明であるが(原作には、それらしい箇所が出てくるらしい…すみません。まだ原作読んでいないものですから)

これからの展開が大いに気になる番組であることは間違いない。


薩摩人の評価
さて、慰霊祭も自顕流の演武も無事終了し、生麦参考館において酒席が用意され、出席者に料理が振る舞われた。

宴もたけなわの頃、一人の男性がスクッと立ち上がるなり、山階宮晃親王(やましなのみや あきらしんのう)が詠んだという七言絶句を朗々と吟じ始めた。

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親王が明治初期に「老将」(=島津久光)の事件を回顧されて詠んだ「薩州老将髪衝冠」で始まる漢詩で、参考館の中庭に石碑が建てられている。 

歌碑の資金を提供したのは薩摩藩士の子孫の方で、除幕式には、薩摩藩士の子孫の方が三十人ほど訪れたそうである。

鹿児島で浅海館長の講演を聴いたという方が何名かお見えになっていた。皆さん、講演を聴くまでは、「短慮な薩摩人が、戦争につながるような、とんでもない事件を引き起こした」という認識だったそうで、鹿児島県人が明治維新を語る場合でも、生麦事件の話は自然と避けていたという。館長の講演を聴いて認識が改まったと、ビールを飲みながら笑っておられた。

意外であった。生麦事件のような過激な行動こそ、薩摩隼人の面目躍如ではごわはんか!と誇りにしていると思った。

鹿児島といえば、西郷どんの人気は絶大である。次が島津斉彬だろうか、篤姫も大河のおかげで人気急上昇。同時に若き家老、小松帯刀(たてわき)も高く評価されている。

彼の場合、西郷・大久保の後ろに隠れて評価が低すぎたのだ。

生麦事件のあと、彼の冷静な判断が、外国人居留地と薩摩藩の一触即発の事態を回避できたのだし、薩長同盟も彼の聡明さあってこそだ。

こんなことを書くと、薩摩人に怒られそうだが、西郷や斉彬の人気は、多分に小説やドラマの影響のような気がする。特に西郷という人物は、謎めいていて、本性が分かりにくい。写真も残っていないし、隠密として働き、権謀術数で薩摩藩を誘導していったというイメージが(あくまでも、自分の評価だが)拭えない。

相楽 総三(さがら そうぞう)率いる赤報隊を使い捨てにした件といい、『敬天愛人』の思想と相反する行動、イメージとの乖離は否めない。 

評価できるといえば、生麦から薩英戦争におけるイギリスと薩摩、幕府と薩摩のやりとりを見てみると、薩摩藩の外交担当者の能力の高さには驚かされる。外国人相手に堂々と交渉するその姿は、小気味いい。今の政治家にも見習ってもらいたいものだ。この辺りの描写は、吉村昭著「生麦事件」に詳しい。

明治維新の立役者は有名人だけが活躍したのではない!ということが、よく分かる。

つづく
 

外人墓地に眠る三人
今も執筆活動の傍ら、研究者として活動をされている浅海館長。10年ほど前、講演会の謝礼の中から、約400万の修繕費を出して、事件で死亡したリチャードソンの墓を改修された。

当時、草は生い茂り、墓石の痛みも激しかったそうだ。

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重傷を負った三人は、事件の後、どうなったのか?

まず、無傷だったマーガレット・ワトソン・ボラディル夫人(香港のイギリス人商人トマス・ボラディルの妻)だが、彼女は事件後、香港からイギリスに帰国した。

のちに娘を出産したが、難産のため亡くなったと伝えられる。事件から8年後というから、まだ三十六歳である。 事件当時が二十八歳、精神的なトラウマがあったことは想像に難くない。

横浜のイギリス人会社員「ウッドソープ・チャールス・クラーク」は、アメリカ商社、ハード商会の社員で、事件の年に上海支局から横浜支局へ派遣されている。

この時二十八歳、肩に後遺症が残ったが、事件後も横浜で引き続き仕事に従事している。事件の後遺症だろうか、五年後に三十三歳という若さで亡くなっている。

「ウィリアム・マーシャル」は、開港された横浜に在住する生糸商人で事件当時は三十五歳であった。彼もまた横浜で仕事を続けている。亡くなったのは十一年後、四十六歳であった。

二人とも若くして亡くなっているのは、やはり事件の後遺症が原因だろうか?

2006年、彼ら二人の墓は、地元の有志が募った募金でリチャードソンの墓の脇に移設された。

それにしても、あれだけの事件の後も日本を離れず、結局、異国の地に骨を埋めたというは、どういう訳だろう?長時間の船旅に耐えられない傷だったのか、よほど日本が気に入っていたのか、それとも、商売繁盛で帰るに帰れなかったのか…。

生糸を商っていたというマーシャルが気になった。 


絹の道をゆく-5 へ続く


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生麦事件について解説をされる浅海武夫館長(79)。
残念ながら『生麦事件参考館』は、2014年5月3日に閉館となってしまいました。



この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。

地名推理ファイル 絹の道編 目次

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-3 高丸コレクション 

■プロローグ Vol.3


演武による慰霊
「チエェェェェーイ!」

甲高い奇声が生麦商店街の路地裏にこだまする。猿叫(えんきょう)、薬丸自顕流の独特な気合である。

慰霊祭を終えたあと、参加者一行は、場所を生麦事件参考館前の路地に移動した。

参考館の門の前には、白い道着に紺の袴の男性七名と女性一名が並ぶ。全員が素足で、通常の木刀を更に太く長くした棒(ゆすの木で拵えた木刀)を手にしている。

先頭の若者が、その木刀を天に向かって突き上げ、腰を落としたかと思うと、猿叫を発しながら、目の前の立木に向かって駆けて行き、その蜻蛉(とんぼ)と呼ばれる独特な姿勢から、続けざまに立木に向かって棒を打ち下ろす。

初めて生で見る自顕流の立木打ち(横木打ち)。その迫力たるや凄まじい。

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「薩摩の初太刀をはずせ」と、新撰組の近藤勇も恐れた自顕流の打ち込みは、この単調な稽古を一日に何千回と繰り返すことによって生み出されたのである。

立木打ちに続いて、長棒との組み手「槍止め」の演武があり、最後に「抜き」と呼ばれる技が披露された。

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腰に差した状態から、一瞬の素早さで斬り上げる。『抜き・即・斬』、すなわち、抜いたときには、すでに相手を斬っているという電光石火の早業だ。

最初に六名が、ゆすの木刀で、次に上級者らしい二人が、真剣で「抜き」を披露した。目の前で刀を抜かれると、さすがにゾッとする。

リチャードソンが負った致命傷もこの「抜き」によるものである。実践に即した剣法、端的に言ってしまえば殺人剣だ。もちろん、彼らが人を斬るために、自顕流を習っているわけではない。

「気概」の養成、「長幼の序」の精神、真髄を探求し、先人の「遺風」を後人に伝える。自ら「充実」して他人を犯さず。といった心得を実践するために、日々精進しているのは、その顔つきを見てもわかる。

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すべての演武を終了すると、参加者だけでなく、何事かと見物にきた近所の方からも、拍手がわき上がった。

自顕流によって命を落とした英国人リチャードソンの慰霊祭で、こうした激しい演武を行うのはいかがなものか?と眉を顰める人も確かにいる。

だが今回、自顕流の演武を実際に目撃できたことは自分にとっても、慰霊祭に参列した人たちにとっても、意義のあることだったと思う。

なぜなら、生麦事件こそ「尊皇攘夷」をスローガンに掲げていた幕末の志士たちが「開国」へと180度舵をきりかえた端緒となった重要な出来事だからである。

だからこそ、開国博でやってほしかった!

「開国は、一滴の血を流すこともなく平和に行われた」と嘯くプロデューサー氏に見てもらいたかった。


近代国家成立の原点
故、吉村昭氏の著書「生麦事件」の解説に、「生麦事件こそ、明治維新への六年間の激動のかたちを作った原点であり…歴史の特定の事件をこえて、一般の、普遍的な戦争、政争、人間の生き方について考えを及ぼす契機をもつ」と記されている。

「桜田門外の変を、歴史を躍進させた事例として評価する」

幕末に起きた様々な暗殺事件を否定しながら、こう語ったのは、故、司馬遼太郎氏である。そういう意味では、この生麦事件も歴史の流れを変えた事例として評価すべき出来事だといえるのではないだろうか。

吉村氏の著書は極めてフィクションが少ない。綿密な取材に基づいた事実のみが淡々と書き記されているだけである。それでいて、読者を疲れさせないのは、リアルな臨場感と登場人物の細かい感情の動きまで描写されているからだろう。

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「生麦事件」のあとがきには、生麦事件の地道な研究者である浅海武夫館長を評価する文が記されていた。

生麦で酒屋を営んでいた浅海さんが生麦事件の資料を集めるきっかけになったのは、鹿児島の男性からの一通の手紙に書かれていた「日本の近代国家成立に至る重要な事件なのに、資料館がなぜないのか」という質問であった。

以来、仕事の合間に、神田の古書店に通い、地元で起きた歴史的大事件の資料や文献を探して歩くようになった。

事件を報じたイギリスの新聞があると聞けば、ロンドンの古書店に連絡し、それを入手。先月号で書いた『甦る幕末 ライデン大学写真コレクション』の表紙の写真は、オランダの博物館に交渉し、十ヶ月かけて取り寄せた。

二十年間で集めた資料は約一千点。平成六年に、自宅を改造し、集めた資料を展示する参考館を開設した。

それだけではない、還暦を過ぎ、酒屋の経営を退いたあと、早稲田大学で十年、大阪市立大学で二年、近代日本史を勉強されたというから畏れ入る。     


絹の道をゆく-4 へ続く
 

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この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。

地名推理ファイル 絹の道編 目次

2021年01月07日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-2 高丸コレクション 

■プロローグ Vol.2 


生むき、生意気、生・・・
生麦の地名には、この辺り一帯に麦畑が広がっていたという説と、生の貝をむく「生むき」が「生むぎ」に転じたという説がある。

麦畑だから生麦という説は、少しムギ…いやムリがある。あえて生にする理由がわからない。生麦村が海に面していたことから考えても、(貝の生むき)の方に説得力はある。

『新編武蔵風土記稿』には、面白い話が記されている。

江戸時代の初め、徳川二代将軍秀忠の行列が、この辺りを通った時、道がぬかるんでいて通行できなかった。すると、村人が機転をきかせ、街道脇の麦畑から生麦を刈り取って、水溜りに敷き、行列を無事に通過させたので,それに感謝した秀忠が、この一帯に生麦という地名を与えたというのだ。

江戸城に新鮮な魚貝類を献上するために、幕府は漁猟の優先的特権を与えた。羽田、大井、芝、品川などの「御菜八ヶ浦」である。その一つとして生麦村も指定を受け特権を与えられている。

貝の佃煮が名産で、道に白い貝殻が敷きつめられていたというから、たぶん、広がる麦畑と貝の「生むき」の二つを足して「生麦」としたのではないだろうか。

早い話、ダジャレである。

親父ギャグをフンッと鼻で笑う同僚の〇〇女史よりも、江戸時代の人の方がおおらかで、よほどユーモアとウィットに富んでいる。

ついでに話も飛んでしまうが、お許しを。

来年(2010年)の大河ドラマは、『篤姫』の二番煎じか、幕末が舞台の『龍馬伝』に決まった。さらにその次の年、平成二十三年(2011年)もすでに決まっている。

『江 〜姫たちの戦国〜』というタイトルだそうだ。

(え…?)

(え)ではない。「ごう」と読む。
近江国小谷城主・浅井長政と織田信長の妹・お市の方の間に生まれた、史上名高い『浅井三姉妹』の三女。江姫、もしくは小督(おごう)、江与(えよ)とも呼ばれる。淀君の妹で、のちに先述の徳川秀忠に嫁ぎ、三代将軍・家光を生んだ。諡号は、崇源院(すうげんいん)。

現在のたまプラーザ、あざみ野(元石川、美しが丘、あざみ野などの旧石川村)や荏田村、王禅寺村、川和村は、崇源院の化粧料のために年貢を納めていた土地だということは、これまで何度も書いてきた。(王禅寺には「化粧面」という地名も残っている)

崇源院が亡くなったときは、こうした村々から棺をかつぐ人が集まったそうだ。そして、あざみ野4丁目にある満願寺には、秀忠と崇源院の位牌まで納められている。

これだけ濃密な関係なら、今度こそ、ドラマの最後にやっている○○紀行で採り上げてくれるだろう。「天地人」の上杉三郎は脇役だったが、今度は主役である。生意気なことを言わせてもらうと、これで採りあげなかったら、制作側の怠慢を疑わざるを得ない。(と、挑発してみる)

二代将軍・秀忠公の話題が出たことで横道に逸れてしまったが、この話はぜひ覚えておいてほしい。


甦る幕末
閑話休題。 麦畑が広がっていたからというわけではないが、生麦にはキリンビールの工場がある。

京浜急行「生麦」駅を降りて、商店街を国道15号(第一京浜)に向かって歩く。国道に出て信号を渡り、50mほどでビール工場に突きあたる。その工場の正門前の道が東海道である。

突き当りの角を左に曲がり、鶴見方面におよそ400m行くと、民家のフェンスに、「生麦事件発生現場」の説明板が貼ってある。

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男性三名、女性一名のイギリス人が、行列を乱したとの理由で薩摩藩士に襲われた現場がここだ。

女性は無傷だったが、男性三人は深手を負った。彼らは居留地のある横浜に向かって逃げた。追ってくるサムライの恐怖に怯えながら必死で馬を走らせた。

だが、瀕死の重傷を負っていた英国商人リチャードソンだけが、途中耐え切れず落馬した。

「もはや助かるまい」追って来た薩摩藩士・海江田信義はそう判断すると、介錯のつもりで止めを刺した。

二十代の頃、朝日新聞社が出した『甦る幕末〜ライデン大学写真コレクションより〜』という写真集を買った。今も手元にある。

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表紙カバーの写真は、幕末の生麦村。東海道の真ん中に三人のサムライがポーズを決め、カメラ目線で立っている。その後には茅葺き屋根の民家が並んでいて、その一軒、茶屋とおぼしき建物の葦簾(よしず)の陰から旅人が二人、顔を覗かせている。

民家に挟まれた東海道は、異様に狭い。この狭さで大名行列とすれ違おうというのは無理な話だ。なぜ四人は馬を下りなかったのだろう? 行列を見た瞬間に脇に寄せるのは当然だし、下馬して礼をとるのが、当時のこの国の法だ。現に、事件の直前に行列に出くわしたアメリカ人・ヴァン・リードは、馬を横道に入れ、脱帽し、膝をついて頭を下げている。

写真集には、生麦事件の関係者(といっても、外国人のみだが)と、リチャードソンの遺体も掲載されている。生麦を歩いてみて、改めてこれらの写真を見直すと、147年前の事件が、最近起こった殺人事件のように生々しく感じられる。

参考館にも、同じ写真が飾られていた。傍らのテレビでは、館長・浅海武夫さんの講演会のビデオが流されている。私も数年前に出演した「TVフォーラムかながわ」だ。

最初は立ったまま観ていたのだが、その面白さに惹きこまれ、立てかけてあった椅子を持ち出して見入っていた。

講談を聴いているような面白さ。いや、滔々とよどみなく語られるそれは講談を超えている。おかげで、見てきたように事件のあらましを知ることができた。

私費を投じて参考館を設立した浅海館長。その誠実な人柄と経歴にすっかり魅了されてしまった。館長の人となりを紹介したいが、その前に、便宜を図ってもらい取材させていただいた慰霊祭について触れよう。

 

生麦事件慰霊祭
8月21日金曜日、じりじりとした残暑の中、三々五々集まった参加者は、碑の前の歩道に張られたテントの中で記帳をすませると、慰霊碑の周りで時間が来るのを待っていた。

午後二時、顕彰会の代表の挨拶によって『生麦事件百四十七年記念祭』は幕を開けた。碑の入り口に掲げられた日の丸とイギリスのユニオン・ジャックの旗を背に、神主さんが粛々と式を進める。

祝詞の奏上がなされたあと、参加者が順に玉串をささげて祭壇に進み、異国の地で非業の死を遂げたイギリス人の霊を、それぞれの思いで慰める。

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その様子をカメラに納めて、振り返ると、調所さんと目が合った。微かに頷く調所さん。その隣に紳士が二人立っている。

小柄だが、凛として隙のない物腰。薬丸自顕流・第十四代宗家の薬丸康夫さんだ。もう一人の髭を生やした恰幅のいい男性は鹿児島出身だという。あとで参考館の浅海館長から、海江田信義の末裔の方だとお聞きした。 

幕末の軍制改革で自顕流を復活させた調所広郷。その自顕流で、薩摩武士を幕末最強に仕立て上げた薬丸兼義。そして、兼義に自顕流を学び、生麦事件の当事者となった有村俊斎こと海江田武次信義。奇しくも、直接的間接的に、この生麦事件に関わった薩摩人の末裔が、この日、この現場で顔を合わせたのである。

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右から海江田信義の末裔の方、調所一郎氏、薬丸自顕流・第十四代宗家の薬丸康夫さん
 
             


絹の道をゆく-3 へ続く


この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。

地名推理ファイル 絹の道編 目次

2021年01月02日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-1 高丸コレクション 

■プロローグ Vol.1

横浜駅で京浜急行品川行き普通に乗り換え六つ目、生麦駅で下車する。東口を出て商店街を通り、第一京浜国道(15号)に出る一つ手前の路地を右折した四軒目に『生麦事件参考館』がある。

自宅を改良して造られた私設の資料館の門を入り、チャイムを押した。

あれ?「絹の道をゆく」というタイトルなのに、なぜいきなり横浜の生麦なの?

期待されてた方には申し訳ない。 その答えは、半月ほど前にさかのぼるのである。

薬丸自顕流と調所廣郷
携帯の着メロが鳴った。最近設定し直した大河ドラマ『篤姫』の挿入曲「正鵠」。フラメンコギターの音色が喫茶店に響き渡る

「ごぶさたしています。調所です」

慌てて携帯を取ると、聞き覚えのあるバリトン。声の主は調所(ずしょ)一郎氏だ。

珍しい名字だが、歴史に詳しい方ならピンとくるはず。篤姫にも登場した幕末の薩摩藩家老「調所笑左衛門廣郷(ひろさと)」の七代目、調所一郎氏である。

会社を経営する傍ら、薩摩文化も研究されていて、薩摩藩独特の刀や刀装具を紹介した『薩摩拵(さつまこしらえ)』を2003年に出版された。

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最近(2009年)では、財務省の松田学氏らと共著で「永久国債の研究」という本を出版、薩摩藩の財政を立て直した先祖の実例を踏まえ、日本の将来のために画期的な提言をされている。  

観光大使もされていて、昨年暮れに鹿児島に旅行した際には、ひとかたならぬお世話になった。その調所さんから開口一番、「例の演武の件、生麦でやることに決まりましたよ」という報告があった。
 
今年の初め、「開港150年」の記念事業に関わっているという話を調所さんにしたところ。

「自顕流(じげんりゅう)の演武のデモンストレーションを開港博でやったら面白いんじゃないですか」という提案をいただいた。

「あ、それはいいですね〜!鹿児島と横浜は歴史的にも関係が深いですし」

歴史的関係よりも、自分自身が見てみたい!というほうが強い。

自顕流(薬丸自顕流)とは、鹿児島に伝わる剣術の流派である。
同じ読みの示現流と混同されるが、示現流が薩摩藩の御留(おとめ)流として門外不出であるのに対して、自顕流は実践を徹底的に重視して、一撃必殺の豪快な流儀ということで薩摩の下級藩士を中心に広まった。 

藩主からは忌避されたらしく、江戸時代中期には、中興の祖である薬丸兼武が屋久島に流刑になっている。
その自顕流を剣術師範として復活させたのが、当時軍制改革の責任者であった家老の調所廣郷なのである。

桜田門外の変で井伊直弼の首級をあげた有村次左衛門や、人斬り半次郎こと桐野利秋。西郷の弟の従道、そして日本海海戦でバルチック艦隊を破った東郷平八郎と、幕末から明治に活躍する薩摩藩士のほとんどが、この自顕流の門弟である。

よくよく考えると、調所廣郷は財政改革だけでなく、軍事面でも薩摩藩が雄藩として活躍するための礎を築いたということになる。もしも、薩摩藩に調所が存在しなかったら、維新はまったく違うものになっていたであろうことは間違いない。

開国博の真実
そのアイデアに魅力を感じた私は、さっそく「Y150」の総合プロデューサーにその話を持っていった。

フンフンと話は聞いてくれたものの、その表情から乗り気のなさが伝わってくる。
最後に「わかりました」という返事をもらったのでしばらく待っていたが、結局その話が進展することはなかった。

市を挙げての大きなイベントである。
固まっているプログラムを変更することは不可能なんだろう…くらいに思っていた。

後日、大桟橋ホールで行われた「横濱地図博覧会」で挨拶に立ったプロデューサー氏。その挨拶の言葉を聞いて愕然とした。

「横浜の開港、日本の開国は実に平和裏に行われました…」

ショックであとの言葉はうろ覚えだが、確か、「一滴の血を流すこともなく、日本は鎖国を解いて国を開き、近代文明国家の仲間入りを果たした。その先人たちの功績を讃えて開国博というイベントを皆で盛り上げていきましょう」というような内容だったと思う。

(なるほど、そういうことか)

乗り気がなかった理由が分かった。ガス灯が点った、鉄道が開通した。ビールやテニスやクリーニングも横浜が発祥だ。いいこと尽くめの開国には、血の匂いは無用。そう、エンジンの匂いの巨大クモがお似合いなのだ。

確かに条約締結は平和裏であったろう。しかし、日本に外国船が頻繁に来航するようになった幕末から明治維新の歴史をみれば、それがまったく的外れな意見であることはあきらかである。

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しかし、会場にいる人々は、それを疑うこともなく大きな拍手を送っている。

ペリー来航後に起きた、安政の大獄、桜田門外の変、攘夷派浪士による外国人殺傷事件。
そして、生麦事件とそれに続く薩英戦争に続く下関戦争…と、実際に外国と戦争をしているではないか!

内戦では戊辰戦争や北越戦争、これだってイギリスとフランスの代理戦争といってもいい。日本が開国したことで、どれだけの多くの命が散っていったことか。

泣きたくなってきた。別に血生臭い話を大々的に取り上げろと言っているのではない。史実を無視して捻じ曲げるのが許せないのだ。

生麦事件
その話を調所さんに伝えると。

「そうですか…、でも、そんなものかもしれませんね」と、冷静な返事がかえってきた。

調所さんから電話があったのは、それからひと月後である。

「8月21日が生麦事件のあった日なんですけど、この日に生麦事件顕彰会によって毎年追悼祭が行われているんですよ。演武のデモンストレーションはそこで行われます」

生麦事件の追悼祭とは驚いた。
さすが調所広郷の末裔。次の手をしっかり打っていた。

教科書にも載っている大事件。詳細はともかく、事件が起きたことは子どもでも知っている。

文久二年(1862)8月21日、馬に乗った4人の英国人(男性3名、女性1名)が、関内の居留地から川崎大師へ行くために東海道の生麦村を通りかかった。その時、江戸からやってきた薩摩藩の行列に出くわす。

英国人は馬を戻そうとするが、道が狭い上に慌てていたのか、馬が行列の中に入り込んでしまった。怒った薩摩藩士が斬りつけ、一人が死亡、二人が重傷を負った。

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現在、亡くなった一人、リチャードソンが落馬した地点、国道15号線と旧東海道の交流地点、キリンビール横浜工場の一角に「生麦事件碑」が建っている。

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調所さんから報告を受けた私は、追悼祭の詳細を聞こうと『生麦事件参考館』を訪れたのである。    
           

絹の道をゆく-2 へ続く


この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。

地名推理ファイル 絹の道編 目次


 

NR-あお葉のこと葉 ファイル-6

屋号 後編
 「おんまし」という屋号がある。青葉区および、周辺の地域でよく耳にする屋号だが、地元の人に聞いてもその謂れは判然としない。

 「馬でも回したんじゃねぇか」と、ある地主さん。なるほど、お馬(おんま)回し…か。博労(馬喰)、馬車屋、馬医に馬の鑑定人など、馬を扱う職業がズラッと脳裏に浮かんだ。かつて、区内の各地で農耕馬による競馬が行われていた。その関係かもしれない。

 川崎市の資料の中に【領主が領内を馬で巡検したおりに、村の境界のところで馬の首を巡らした場所をオンマワシという】との説が記載されていた。と、すると職業でなく地名屋号になる。さらに、【洪水に見舞われたとき、川の流れを向う側へと必死に追い回した場所】という文章もあった。麻生区下麻生にある「恩廻」という地名について記された箇所だ。

恩廻は鶴見川が大きく蛇行している地点の字名で、現在そこには「恩廻調整池」という、大雨などで溢れた川の水を地下の巨大トンネルに流して貯留する施設が建っている。こういった施設のおかげで鶴見川は洪水災害から免れているのだ。

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 江戸時代、同じ場所に「五か村用水」の取水口があった。下流にある上鉄、中鉄、下鉄の三つの鉄村と大場村、市ケ尾村の五つの村に水を引くための灌漑用水で、江戸初期に小泉次大夫という代官によって整備された。

 川の水を(追い回す)という言い方にはどうも違和感がある。もしかすると、洪水ではなく、農家に「恩恵」をもたらす「水」をまわす。恩をまわす=恩廻し(オンマワシ)=オンマシ…になったのではないだろうか。水は天からの「施し」。

施されたら施し返す 「恩まわし」です!ってね。

つづく

2021年01月01日

NR-あお葉のこと葉 ファイル-5

屋号 前編
 古くから続く農村には、家ごとに苗字とは別の通称がある。屋号、または家名と呼ばれ、同一姓の多い土地でそれぞれの家を判別するのに都合が良い。

 屋号は全国どの地方にもある。地方によって特色はあるが、そのパターンは概ね以下のように大別できる。○兵衛・○三郎など…先祖の名前や渾名由来。分家・新宅・隠居など…家のつながり由来。日向・日陰・原・○○谷戸・堂前・宮の下など…地名や地形、場所、位置由来。そして、醤油や・豆腐や・鍛冶や・下駄や…といった職業由来。ここでいう職業とは現金収入を得るため農閑期を利用して営まれた農間余業のこと。食料品から日用雑貨、衣類など…それはバラエティに富んでいて、村という小さな共同体の中で生活に必要なものは、ほとんど賄うことができた。

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知り合いに「かさ」という屋号の地主さんがいる。最初、傘や笠作りの家だと思っていたが、他の村の屋号を調べてみると、「かさ」の登場頻度は極めて高い。そんなに傘(笠)の需要はあったのだろうか…?疑問に思っていたら、都筑区に「上サ」と書いて「かさ」と読む字名を発見した。「上の方」をあらわす言葉で、関東にはよくある地名だという。

 「サ」は、「おら東京さ行ぐだ」の「さ」、格助詞の「へ」や「に」に該当する。屋号の「かさ」が上の方を表す「上サ」なら、他の屋号よりも多くて当然だし、起伏の激しい多摩丘陵ならではの屋号だと納得できる。

 意味不明の言葉も、このように心のドローンを飛ばして俯瞰して見れば謎は解けるのだ。というわけで、次回も空を飛んで謎の屋号に迫ってみたい!

つづく
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ある時は地域情報紙の編集長、ある時はフリーライター、またある時は紙芝居のオジサン、しこうしてその実態は・・・穏やかな心を持ちながら激しい憤りによって目覚めた伝説の唄う地域史研究家・・・歴史探偵・高丸だ!
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