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2021年01月29日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-11 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.6

船の上から撮影されたのだろう、本牧の海岸線が埋め立てられる以前の八王子鼻(本牧岬)の写真が『八聖殿郷土資料館』の壁に飾られていた。

岬の頂は樹木に覆われ、白っぽい断崖絶壁には、バームクーヘンのような地層が浮き出ている。

樹木の間から八聖殿の屋根が顔を覗かせているが、海上交通の山当てに使われたのは、大きく枝を張った松の木に違いない。

八王子権現社の参道入口は荒波が打ち寄せる場所にあったという。

八王子鼻.jpg


 

本牧の地名
東京湾に突き出た岬に「八王子権現が祀られていたんです」という郷土資料館の職員の方の説明に対して

「あ、なるほど。八王子の名前は権現様があったからですね」と返した自分の感想はじつに普通の反応で、

「ああ、よかった〜。分かってくれる人で…」と、ことさら喜ばれることではない。

何か異議を唱えられるとでも思ったのだろうか?

「いや、時々いるんですよ。『東京の八王子と関係があるんじゃないか?』と聞いてくる方が…。関係ありませんよ、と説明しても、『いや、八王子と横浜を結ぶシルクロードと、なにか関係があるに違いない』と自説を主張されて譲らない。本当に困りましたよ」

あ、そういうことか。八王子鼻の場所を確認したので、そういった類のお客さんと勘違いされたというわけだ。

「さらに『この近くに八王子道路があるじゃないか』とまで主張されて…。いやいや、あれも八王子という地名なんですよ…と説明したんですけどね」

それにしても、相当強い思い込みだ。思い込んだら他人の意見を聞かないという人は歴史愛好家には多い。聞かないどころか、他人の意見をせせら笑い、相手をグウの音も出ないくらいにやり込める。

話が逸れるが…、先日も「関東にはアイヌ語の地名なんて無い」と断言される方がいた。

「まだ分からないじゃないですか」と言っても、頑として譲らない。

アイヌ語研究の第一人者が「東北の白河以南にはアイヌ語は見つからなかった」と書いていた。というのが理由らしい。

「本当にそうか?」
自分も、青葉区の地名のいくつかをアイヌ語で解説してきた手前、そう断言されると不安になる。その第一人者の本とやらを借りて調べてみた。

そこには「アイヌ地名が、その昔は(白河以南に)あったにしても、失われてしまったのである」と、確かに書かれていた。しかし、末尾には「まったく無いとは言えない…今後の努力によって検出されていくだろう」と締めくくられている。

ようするに、自分は見つけられなかったが、後進の人たちの努力に期待をするということだ。

ホッとしたと同時に、腹がたってきた。その後進たちが努力もしないで「無い」と言い切ってしまったら、研究はそれで終わりではないか!

本牧の地名はアイヌ語だという説をネットで見つけた。
【ポン(小さい)・モリ(港)】が訛ったものだという。

(小さい)という意味のポンは北海道の地名に数ヶ所残っている。だが、モリは知らない。

確か、港は(トマリ)じゃなかっただろうか?
改めて手持ちのアイヌ語辞典を調べてみると、やはり港は【Tomari(トマリ)】であった。

泊(とまり)という地名は全国各地にある。青森の小泊や新潟の寺泊、沖縄県那覇市にもある。

もうひとつ「入江」をさす単語があるのを見つけた。

【moy(もィ)】だ。

岬の陰になっている静かな海、入江、浦のこととある。

【ポン・モィ】 これなら理解できる。 あくまでも、アイヌ語だったらの話だが…。

十二天社と八王子社
「こちらの写真を見てもらえば、お分かりいただけると思うのですけど」

職員の男性が指し示したのは、埋め立てられる前の本牧の航空写真。八聖殿の場所にはシールが貼られている。

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「ここが八王子権現のあった場所です」と八聖殿のすぐ右側を指差した。

「今もあるんですか?」

「いえ、本牧神社に合祀されて今はありません」

ハマの奇祭「お馬流し」神事で名高い本牧神社は、かつて「十二天社」と呼ばれ、本牧岬の先端に張り出した出島の中に鎮座していた。

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源頼朝が幕府の鬼門鎮護のため朱塗りの厨子を奉納したというから、創建は鎌倉時代より古い。

鳥居の足元まで波が打ち寄せる、風光明媚な景色が【横浜名所】という絵葉書(下)になっている。

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本牧は、戦後間もなく米軍に接収された。 住民は退去させられ、『横浜海浜住宅地区』というアメリカの町が造られた。

アメリカの町に神社仏閣は不要だ。ということで、現在の本牧十二天二丁目に長く仮遷座させられていた。

米軍の接収が解除されたのは、なんと戦後五十年近く経った平成六年。本牧神社は、元の地には帰ることなく、三渓園の北(本牧和田19)に換地された。

「八王子社は残ってないんですが、参道があった場所に石碑が建てられていますので、行ってご覧になるといいですよ。場所はですね。この建物の正面の坂を降りて、住宅街を右に回りこむようにして…、ちょっと分かりづらいかな?」

「大丈夫ですよ。行けば分かります」と、大見得を切ったが、見事に迷ってしまった。

うろうろと住宅街の細い路地を行ったり来たり、やっとのことで史跡「おはちおうじさま」の碑にたどり着いた。

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確かに八聖殿の東側だ。ここが参道付近ということは、自分が今立っている場所は、まさに海と陸の境目、後の住宅街や首都高湾岸線は、もちろん海の上だ。

その海は、風が変わりやすい地形と浅瀬が潜んでいるため、八王子鼻を廻った辺りで、転覆座礁することも度々だったという。

そのために社を建てたというが、それほど古いものではない。碑には「文久二年(1862)八王子・新町の氏子達により社は再建建立された」と記されている。

「文久二年…、あ、生麦事件の年だ」

確か、原善三郎が横浜で生糸売込問屋を開業したのも、その年じゃなかったっけ…。
           
絹の道をゆく-12 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-10 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.5

豊臣秀吉が母親の大政所のために建てた『旧天瑞寺寿塔覆堂』。

徳川家康によって京都伏見城内に建てられた『月華殿』。

三代将軍徳川家光が二条城内に建てさせ、後に春日局が賜ったと伝わる『聴秋閣』。

織田信長の実弟で茶人の織田有楽斎の茶室『春草廬』。

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八代将軍・徳川吉宗が幼少期に遊んだ紀州徳川家の別荘『巌出御殿(いわでごてん)』と推定される『臨春閣』。

綺羅星の如くならぶ歴史上の有名人。そのゆかりの建造物があることを知ったら、歴女を含めた戦国マニアの若者も、少しは三渓園に目を向けてくれるのではないだろうか。

もちろん、三渓園の魅力はそれだけじゃない。

旧東慶寺仏殿は鎌倉から、合掌造りの旧矢箆原家住宅は、飛騨の白川郷から、三渓園のシンボル・三重塔は京都から、日本建築の粋がここに結集されているといっても過言ではない。

旧東慶寺仏殿.jpg



 

日本文化の守護者
権力と富を得たものが、大庭園を造る。そんな例は枚挙に遑(いとま)がない。

だが、原三渓(富太郎)のように、自ら構想を練り、自ら足を運んで古建築を探し求め、樹木や草花は言うに及ばず、石の配置から山や滝や池まで、すべて自身で設計をして造り上げるなどという話は聞いたことがない。

それ以上に驚かされるのは、そのように精魂込めて造り上げた庭園を、一般市民に無料開放してしまったことだ。

「明媚なる自然の風景は別に造物主の領域に属し、余の私有にあらざるなり」明治四十三年に『横浜貿易新報』に載った富太郎の言葉である。

「明媚なる自然の風景を独り占めすることは、清き月の光を遮る浮雲の邪まなる心と同じだ」と宣言している。

三渓は実業家であるとともに、美術家であり、奉仕家でもあったのだ。

三渓は多くの若き芸術家のパトロンとしても知られている。

下村観山、前田青邨、小林古径、安田靫彦、横山大観…。近代日本画を代表する錚々たる顔ぶれが彼の世話になった。

月に六円で生計がたてられた時代に、月平均百円を支援していたというから半端ではない。かといって、タニマチヅラして偉ぶらなかったそうだ。それどころか、自ら集めた古美術の名品を彼らと共に観賞し、批評しあい、時に学んだ。

個人的な趣味が高じてということもあったろう。しかし、彼を突き動かしたのは危機感である。近代国家の玄関口「横浜」にあって、西洋文明に侵食されていく日本の姿をまざまざと目の当たりにしてきた彼だからこそ、日本の伝統文化や芸術の保護、保存に心血を注ぐ決意をしたのだと思う。

 

日本人はいつも極端に走る。明治維新以降の近代化の裏側には、古き日本文化の否定がある。明治の神仏判然(分離)令がいい例だ。

「寺と神社を別々にせよ」という命令が下ると、それまで拝んでいた仏像を破壊し、寺院を焼き払った。今も残る「首の無いお地蔵さま」は、愚かな廃仏毀釈運動の爪痕だろう。

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大河ドラマ『龍馬伝』も最近、複雑な思いで観ている。西洋文明に驚き、感動し、心酔していく主人公や海軍操練所の若者たち。その対極にある攘夷派。

ドラマはちょうど、土佐勤皇党が粛清されるあたりだろうか。このあと、新旧の文明と思想の殺し合いが激化し、旧いものは一挙に淘汰されていくのだ。次に登場する新撰組もそうだ。

私のDNAなのだろうか、それとも前世の記憶がそうさせるのか…どうしても滅び行く方に感情移入してしまう。

八王子鼻の秘密
三渓園の入口に立っている。といっても、正門ではない。海に面した南門である。

ここからアクセスすると、正門から入ったのでは、絶対に味わえない風景に出会える。『上海横浜友好園』の池に浮かぶ湖心亭と、その向こうにある切り立った断崖だ。まるで水滸伝か三国志の世界。この断崖が昔の海岸線である。

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現在、その海岸線にへばりつく形で「本牧市民公園」と「本牧市民プール」がある。

「三渓園の裏に岬があって、昔、その入り江で生糸の密貿易が行われていたんだよ」

と、声をひそめて教えてくれたのは、某歴史研究グループの男性だ。

「その岬の名前を『八王子鼻』という」

「八王子?…はな…ですか?」

「そうだ。八王子から絹の道を通って生糸が運ばれた。だから八王子鼻。三渓園がそこにあるのも偶然じゃないんだ。たぶん、原三渓も祖父さんの善三郎も密貿易に関わっていたんだな」

「まさか!」 どうも眉唾くさい。

大体、密貿易をしていたのは、開港前の話ではないか。中居屋重兵衛ならともかく、二人が関わっているはずがない。でも、三渓園の裏が密貿易の場所だったという話は面白い…ということで、この場所にやってきたのである。

市民プール横のスロープから崖の上にあがると、その裏、一段下がった所に、『横浜八聖殿郷土資料館』が建っていた。

法隆寺夢殿を模して建てた三層楼八角形の建物で、幕末から明治にかけての本牧、根岸の写真や市内で使われていた農具や漁具などが展示してある。

二階の展示室には建物の名前の由来となった八聖像(キリスト・ソクラテス・孔子・釈迦・聖徳太子・弘法大師・親鸞上人・日蓮上人)も置かれていた。

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三渓園に行く人はいても、こちらまで足を運ぶ人はめったにいないのか、自分のほかにお客さんはいない。

ひと通り見て回ってから、すれ違った職員らしき男性を呼び止めて尋ねてみた。

「すいません。ここの地名ですが、もしかして八王子鼻っていいます?」

男性は一瞬、警戒するように私の顔を見つめたが、すぐに笑顔になって

「ええ、そうですよ。今は本牧鼻って呼んでいますけど、八王子鼻で間違いありません。鼻は岬のことですが、この断崖の下のところに、八王子権現を祀っていたんですよ」と、丁寧に教えてくれた。

「あ、なるほど。八王子の名前は権現様があったからですね」

「そうです、そうです。ああ、よかった。分かってくれる人で…」

満面の笑み。その安堵の表情に今度はこちらが違和感を覚えた。
           
絹の道をゆく-11 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次

2021年01月28日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-9 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.4
三渓園。いわずと知れた横浜を代表する観光地…いや、三年前に国の名勝に指定されたので、日本を代表する日本庭園である。

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青葉区市ヶ尾にある佐藤畳店の二代目若大将が、三渓園に畳を納めているという話が飛び込んできたのは、地名推理で原三渓の話を書いている、まさにその時。

記事を書いていると…こういった(偶然)によく出くわす。

「世の中に偶然などというモノはない、すべては必然なのだ」と誰かが言っていたが、だとすると、こうした出会いは全て目に見えない力によって引きあわされたということになる。

「行き当たりばったり、計画性もなく書いているからそう思えるんだよ」
と周りの人間は笑うが、プロットを考えないからこそ起こり得るミラクル、神のみわざなのだと確信している。

今回、原三渓の生まれ故郷の公民館(柳津地域振興事務所)に思いつきで寄った日が、『原三渓展』の最終日だったというのもその一つ。

おかげで、図書室に行って資料を探す手間も省け、系図や生家の写真という貴重な資料も手に入った。

さらに驚いたのは、この年(平成二十一年)が三渓の生誕百四十年で、没後七十年の記念の年なのだ。

これを神のみわざと言わずしてなんと言おう。

そうだ。いっそ本名をとって「神の宮澤」とでもしておこうか。(笑)

ちなみに、佐藤畳店の若大将は、京都の老舗畳店で修行した腕利きの職人。その匠の技が評価されたのであろう。

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織物の産地
ちょうど展示物に目を通し終わったタイミングで、係の人が生家跡までの地図をコピーして持ってきてくださった。その地図を手に公民会を出て、生家跡に向かう。

公民館の前の道を西に行く。800mほど歩くと境川に出た。戦国時代まで美濃と尾張の境を流れていた旧木曽川だ。大洪水で流路が変わり、今では長良川に注ぐ支流となっている。

三渓(青木富太郎)の生地である佐波村(さばむら、現在の羽島郡柳津町)は、美濃の国の中心、加納藩・永井家三万二千石の領地であった。岐阜駅の南800mほどの所に、加納城の遺構(石垣、土塁、堀跡)が残っている。

岐阜といえば、織田信長の居城であった金華山の山頂にそびえる岐阜城が有名だが、加納城は関ヶ原の合戦後に破却された岐阜城の建材を使って建てられた。徳川による天下普請によって1602年に築かれた平城で、奥平氏、戸田氏、安藤氏、永井氏と城主をかえながら明治を迎えている。

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境川は、その加納城のすぐわきを流れて佐波村まで下る。

境川に架かる橋の手前に、『カラフルタウン岐阜』というショッピングモールがある。最近は、どこに行ってもこの手の巨大ショッピングモールを見かける。が、ここは少し他とは事情が異なっていた。

運営は『トレッサ横浜』という、あのトヨタグループの会社。じつは、すぐ隣にある『トヨタ紡織(ぼうしょく)』という会社の工場跡地に建設されたのだそうだ。

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『トヨタ紡織』は自動車内装品などを作る会社だが、ルーツは言うまでもなく、世界のトヨタの礎を築いた豊田佐吉の『豊田式織機』である。

紡織の文字を見て、お隣愛知県の一宮市を思い出した。一宮には親戚がいて、実家から車で1時間もかからないので、毎年のように遊びに行っていた。

その親戚も紡績工場を営んでいた。ノコギリのような三角屋根の工場。羊毛、綿などの天然繊維の糸の独特な匂いは今も鼻の奥に残っている。木製の糸巻きは子どもの格好のおもちゃであった。

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地図で確認すると、ここ柳津と織物と七夕まつりで有名な愛知県の一宮市とは、木曽川を挟んで数キロしか離れていない。

思ったとおり、柳津も一宮と同様に古くからの綿織物の産地、さらに養蚕や製糸も盛んであった。

また、岐阜は信州や上州の生糸を京都に運ぶ中継地でもある。このあたり、秩父絹を江戸の呉服問屋へ送る中継地であった義理の祖父、原善三郎の生誕地と似ている。

三渓が、のちに富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸業を営むことになったのも、こうした幼少期の原風景と見えないい「糸」で繋がっていたのではなかろうか。


サバと境川
橋を渡ると、気持ちのいい川風が吹いてきた。広々とした空と河川敷がなんとも言えず清々しい。橋の上を県道が走り、車の騒音が喧しい現代でさえそう感じるのだから、明治時代はどんなに静かで平穏な土地であったことか。

三渓の生家である青木邸址は、川を渡った、すぐ左手の住宅街にあった。現在は天理教会の建物になっている。

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まわりを見渡すと、ビルの上に(アオキ)の看板。(洋服屋ではない)地図には、青木染工場、株式会社青木、青木進学塾、と青木の文字が散見する。さすが、佐波村きっての名家である。

富太郎(三渓)は、筆頭庄屋(戸長)青木家の長男として生まれた。17歳で上京し、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。学生をしながら、跡見女学校の歴史の先生をしているときに、原善三郎の孫娘・屋寿子と恋仲になる。 

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そして、善三郎に気に入られて養子縁組を結び原家に入るのだが、普通、長男が他家に養子に行くことなど考えられない。よく青木家の親が許したと思う。 

二十代の頃に出雲地方を旅していて、「あんた、養子にならないか?」と誘われたことがある。

「今なら車も家も付いてくるよ」と、通販番組のようなセリフに心がグラッときたが、そのことを親に話したら「長男が、なにバカなこと言ってるの!」と、えらく怒られた。

偉いのは、富太郎の父親だ。息子の可能性を信じていたからこそ、涙を飲んで決断したのだろう。

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帰り道、橋の上からもう一度、境川の流れと佐波の住宅街を振り返った。

「境川と佐波という組み合わせ…、どっかで聞いたことがあるぞ。何だっけ?…あ、『七さば巡り』だ」

東京町田から相模原、横浜、大和、藤沢の市境を経て相模湾に注ぐ境川。その中流域に左馬、佐婆、佐波、鯖とサバの名がついた神社が十二社ある。

「七さば巡り」とは、一日のうちに七社のサバ神社を回れば、麻疹(はしか)や百日咳などの疫病を祓うことができるという古来からの風習である。祭神の源義朝の官職が左馬頭(さまのかみ)だったから…などの説があるが、サバの由来は定かではない。

サバと境川には何か因果関係があるのだろうか? 

※この疑問は後日【皐月の鯖の福さがし 相模七さば参りミステリー紀行】という特集記事で検証することになる。

本牧三之谷
境川の川面を見ていたら、公民館の展示資料に書かれていたことを思い出した。

境川は暴れ川で、佐波の人々は洪水に何度も泣かされた。そのつど、立ち上がる農民たちを支えたのは大地である。

土地はどんな時代も価値を失わない。その教訓を三渓は生まれ故郷で学んだ。そして、祖父善三郎に儲けた金で土地を買うことを勧める。

こうして買い求められた土地が本牧三之谷である。

明治三十五年、富太郎は六万坪の広大な三之谷に移り住み、名を「三渓」と改めた。
 
絹の道をゆく-10 へ続く 

※2016年、生家からほど近い場所に「原三渓記念室」がオープンした。
地元・佐波村(現岐阜市柳津町)出身の実業家の足跡を伝える貴重な施設だ。岐阜で生まれ、横浜に移住した偉大なる大先輩が、こうして生まれ故郷で顕彰されていること感慨無量。自分のことのように嬉しい。


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この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次


真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-8 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.3

生糸が輸出産業の花形だったといっても、すべての生糸商人が大もうけしたわけではない。

生糸の商いというのは投機である。巨万の富を築いた商人が生まれる一方で、その何倍もの商人たちが没落していった。卓越した先見性と行動力、そして運の強いものが相場を制するのは現代も変わらない。もっとも、現代はパソコンの前に座っているだけなので、行動はキーを叩くだけだが…。

仲居屋重兵衛もそうだったが、原善三郎も行動の人だった。

群馬や埼玉の田舎から出てきて、生き馬の目を抜くような激しい競争に打ち勝つには、まず行動することであった。のちに、横浜を拠点とする有力財閥となり、本牧と野毛山の広大な敷地に山荘と別荘を持つに至る善三郎だが、その邸の床の間には古びて汚れた地下足袋が飾られていたという。

善三郎にとって商いとは、歩くことだった。山を越え、谷を越えて、生糸の原産地を訪ね歩き、買い付けた商品を横浜まで売りに行く。そうした地道な商売が成功へとつながった。



どてらい男
犬も歩けば棒に当たる。男歩けば勝ち目に当たる♪
そわそわするなよ、男は度胸♫


原善三郎のことを調べていたら、『どてらい男(やつ)』というテレビドラマを思い出した。 今から35年ほど前(1973年〜1977年)のドラマだ。

原作は花登筺(はなと・こばこ)、主人公は西郷輝彦演じる『猛やん』こと山下猛造。福井から大阪の機械工具問屋に丁稚奉公に入った主人公猛やんが、主人や番頭からいびられながらも商人(あきんど)として成長してゆき、最後には自分の店を持って大成功するというストーリーだ。

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1時間がこれほど短く感じたドラマは後にも先にも無い。当時中学生だった私は、原作を図書館で借りてきて読むほど熱中した。映像が残っていないということなので、DVD化は無理としても、何とかリメイクして欲しい。

どてらい男の主題歌にあるように、歩いていけば、勝ち目にも当たるが、落ち目にも当たる。善三郎も落ち目に当たった。

開港間もない横浜で、仲間から外油(石油)が儲かると聞いた善三郎、虎の子の三百両をはたいて、外国商人からありったけの石油を買い付けた。それを日本国内で売れば倍の儲けになる…はずだった。しかし、油を入れた空き樽が新しすぎて、油が流出。虎の子の三百両を失ってしまったのだ。

失望のあまり、一度は国に帰ろうかと思った善三郎。ここからが凄い。浅草で出会った占い師に、「同じ道を行けば、取り戻せる」と聞いて、とってかえし、取引先の染め絹問屋から金を借りると、今度は空き樽を丹念にチェック、ふたたび石油を買いつけて、三日としないうちに負けを取り戻している。

また、尊王攘夷の浪士に、寝込みを襲われ、金を強請(ゆす)られたりもしているが、機先を制し、相手を怒らせることなくあしらっている。

とにかく豪胆。失敗しても、それをすぐに成功に結びつける。占いを聞いて、すぐに行動するところは、単純といえば単純だが…、この過程で絹よりも生糸に将来性があることを嗅ぎ取り、次の商売に活かしていくあたりのエピソードがドラマと重なる。

まさに横浜の『どてらい男』である。


商人から政治家へ
それから十三年、彼と茂木惣兵衛の二人で横浜の生糸取扱量の三分の一を占めるほどの成功をおさめ、気がつけば「横浜は、善くも悪しくも、亀善の腹ひとつにて、事決まるなり」と狂歌にも詠まれるまでになっていた。

明治初期は、横暴な外国商人が多く、荷を持ち込んでも、検査が済むまでは手付金も払わない。検査に不合格なら返却されるし、品質に問題が無くても、自国の市場が景気悪くなったと言って突き返されるなど、買い手有利に物事が運ばれていた。

値引きなどは当たり前。当初は個別の取引で、市場価格も決まっていなかった。善三郎は、そうした事態に対処するため、横浜商工会議所や横浜蚕糸貿易商組合を設立し、日本の商権回復のために奔走したのである。

先の狂歌は、財閥に対する揶揄も含まれるであろうが、こうした公私を越えた働きに対する評価でもある。

明治五年、新橋〜横浜間に日本初の鉄道が正式営業を開始した。

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善三郎は、この祝賀式典で横浜庶民を代表して天皇陛下の前で祝辞を述べるという栄誉に与っている。この時、外国人代表として祝辞を述べたのが、誰あろう、あの生麦事件で重傷を負った、イギリス商人・ウィリアム ・マーシャルなのだ。

因みに、善三郎とマーシャルは、ともに1827年生まれの同い年である。

明治二十二年(1889)、横浜市制が施行、市議会議員に選出された善三郎は初代議長に就任する。そして三年後、市会から中央政界へと登りつめるのである。

三渓のふるさと
昨年暮れ、名古屋に帰省したときに、足を延ばして岐阜県美濃市にある母方の実家の墓参りをした。 翌日、急に思い立って、岐阜駅から名鉄電車に乗り、柳津(やないづ)に向かった。

柳津は、善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚して原家に入った原富太郎(旧姓・青木富太郎、のちの原三渓)の生まれ故郷である。 せっかく、岐阜まで足を延ばしたのだから、原三渓の故郷がどんな所か見てみたくなったのだ。

柳津駅は真新しいが無人駅だった。無人だから人に聞くわけもいかず、携帯電話のナビを頼りに公民館を訪ねた。思いつきで来たので、資料も何もない。公民館なら、何か実家の手がかりになる物があるだろう、と思って寄ったのだが…、果たして…正解であった。

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正解どころではない。

「ちょうど、『原三渓展』をやっていたんですよ」と係の方。

しかも、この日が最終日だという。

なんという奇跡! 運命! いや、これは天命に違いない。

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絹の道をゆく-9 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次

NR-あお葉のこと葉 ファイル-8

ばっちらげっこ
  ばっちらげっこ。一瞬、この地方独特のカエルの呼び名かと思った。

「昔は兄弟が多いから、ごはんどきはバッチラゲッコ。モタモタしてると食いっぱぐれんのよ」

少子化のためか、最近はあまり見かけないが、昔の家庭では日常の光景。そう、おかずの奪い合いのこと。「先を争って競争する」ことを多摩地方や神奈川県では(ばっちらげっこ)と言うのだそうだ。

調べてみると、山梨県では(ばっちらこう)。同じく、群馬県は(ばっちらこと)。長野県では、先を争うという意味で(ばっちらがる)。静岡県では電車の座席取りなど、独占するという時に(ばっち)(ばった)(ばっちらがう)を使う。

ニュアンスは微妙に違うが、(ばっちら)だけで「争う」「奪う」という意味になることは間違いない。ちなみに、茨城県は(ばいさらー)栃木県は(ばいさりあう)…と、少し穏やかな感じになる。

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 後ろにくっつく(げっこ、こう、こと、がる、がう)は、複合動詞として使われる「〇〇合う」に該当する。

並べてみると(げっこ)だけが、はっちゃけた印象を受ける。以前紹介した(おっぺす)のように、促音を入れて強調するこの地方独特の言い回しなのだろう。穏やかな北関東との気質の違いが表れていて、じつに興味深い。

このコロナ禍でおかずも個別に取り分けるようになった。家庭内のばっちらげっこも消滅していくのだろう。それに引き替え、災害が起きるたびに繰り広げられるスーパーやコンビニでの争奪戦。電池だ!マスクだ!消毒液だ!こんなバッチラは、もうケッコウだ!


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真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-7 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.2

「松蔭先生はすごい御方じゃ!」と、大河ドラマで桂小五郎が激賞していたが、確かに吉田松陰は凄い人だと思う。

まず、その行動力。自分が吉田松陰に惹かれたのはその尋常じゃない行動力にある。そのエネルギーの源泉はどこにあるのか?それを知りたくて生誕地である山口県萩を訪れたのは1987年(昭和62年)。27歳の時だ。

穏やかな、それは穏やかな城下町。松蔭の…いや、松蔭の弟子である高杉晋作や久坂玄瑞のあの狂おしいほどの激情など微塵も感じられない静かで落ち着きのある港町であった。

街の雰囲気は最高である。なにより人が優しい。
一つ一つ挙げていったら紙面がいくらあっても足りないくらい、いろんな方にお世話になった。けっして交通の便のよくない萩の町に生涯で四度も足を運んだのはそのためだ。

おっと、話は幕末の横浜であった。萩の街の素晴らしさについては、また別の機会に!

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松蔭と商人
さて、そんぼ松蔭先生である。弟子の金子重之輔と二人で、伊豆下田からペリーの黒船に乗り込み、密航を企てようとしたのが嘉永七年(1854)の三月二十八日。結果は周知のとおり。

アメリカ側に乗船を拒絶されて失敗し、自ら奉行所に出頭して投獄されるのだが、じつは松蔭、最初から下田に向かったわけではない。事件の二十二日前は、東海道の保土ヶ谷宿に潜んで、ペリー宛の手紙をしたためていた。この三日前に横浜で日米和親条約が締結されたからだ。このあとまさか、下田へ向かうとは思ってもいなかった。

その保土ヶ谷の宿に、ひとりの人物が密かに訪ねてきた。誰あろう、あの中居屋重兵衛である。

松蔭にとっては、佐久間象山門下の兄弟子にあたる。

確証は無いが、象山の意を受けて松蔭との連絡係をしていたのではなかろうか。たぶん、ペリーが下田に向かったことを教えに行ったのだろう。

それを聞いた松蔭、慌てて下田へ向かう。

 
先にも述べたが、この年に重兵衛は外国人相手に密貿易を行っている。

重兵衛も、何とか外国船に近づけないものかと横浜辺りをうろついていた。そこで、黒船に荷物を運び入れている相撲取りの姿を見つける。幕府はペリーに進呈する品物を力士に運ばせていたのだ。

その中に重兵衛が贔屓にしている小柳という力士がいた。彼は小柳に頼んでアメリカ側に渡りをつけてもらい、自らも人足に化けて外国人に近づいた。そして、絹織物を売りつけることにまんまと成功したのである。

重兵衛は、ペリーが下田に向かうことを知ると、今度は故郷の上州(群馬県)に取って返した。ここが松蔭と商人の思想、考え方の違いである。

上州で生糸を仕入れた重兵衛は、そのまま下田に直行し大儲け。ただ、儲けただけでなく、外国事情もしっかりと調査している。 

象山も密航を教唆した罪を問われ蟄居させられているので、重兵衛だけがオイシイ思いをしたことになる。



義をもって利となす
幕府が諸外国を納得させるため、横浜の町造りを急がせ、江戸をはじめ近隣諸国の富農や豪商に対し、強制的に移住を命じたこと。当時、日本橋に店を構えていた重兵衛も命じられた一人だということは先月号で書いた。

だが、どうも彼の出店は下田事件の翌年に内定していたらしい。懇意にしている外国奉行・岩瀬忠震(ただなり)らが便宜を図ったのだろう。広大な土地を借り受け、屋根に銅の瓦を用いた「あかね御殿」と呼ばれる屋敷を建てた。豪奢にしたのは外国人に侮られないため、外国奉行からの示唆があったという。

のちに神奈川奉行から「町人の身分で二階建て、しかも御禁制の銅瓦を葺くなどとは、もってのほかである」と咎められるが、まさにこの時「安政の大獄」という嵐の真っ只中。懇意の外国奉行たちは、悉く井伊直弼によって罷免されていた。

桜田門外の変が起きたのは、重兵衛が奉行所に呼び出された半年後である。

井伊大老暗殺の報が飛脚によってもたらされたとき、重兵衛は飛び上がらんばかりに喜んだという。何故なら、大老に致命傷を与えた短銃こそ、重兵衛が水戸浪士に提供したものだったのだ。 


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重兵衛のイデオロギーは「尊王開国」。水戸の浪士らが掲げる「尊王攘夷」とは相容れない。それでも、彼らに協力したのは、松蔭も含め、有為な人物が次つぎと抹殺されていくことへの義憤。そして「利を以って利となさず、義を以って利となす」という重兵衛の行動哲学のあらわれだろう。

とはいっても、安政の大獄はクーデターを未然に防ぐ正当な弾圧。

よって時の大老・井伊直弼の殺害は立派なテロだ。

翌年、重兵衛は突如横浜から姿を消す。水戸浪士との関係が幕吏の知ることとなったため、家族に累が及ぶのを恐れて逃亡したという。影武者を使って逃げ延びたとも、千葉で死んだとも伝えられる。「あかね御殿」も莫大な財産も火災によって焼失した。

坂本龍馬のように、世界を股にかけて商売することを夢みていたというが、じつにミステリアスな人物である。


原善三郎
店を構えてわずか二年。彗星の如く現れ、彗星の如く去った重兵衛の姿をじっと見据えて、時を待っていた人物がいる。

中居屋に荷主として店に商品を置いてもらっていた『原善三郎』である。

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「原の目」と呼ばれる鋭い眼力で、生糸の品質を見抜き。自分の目に適った良質な糸だけを仕入れる。地道で堅実な商法は、江戸で評判を呼んだ。

生麦事件をはじめ、尊攘浪士の殺生事件が頻繁に起きていた開港直後の横浜を「四、五年経ったら面白かんべぇが、今じゃぁ地獄の一丁目でがんす」と警戒していた善三郎が、横浜に「亀屋」という店を出したのは、慶応元年(1865)、重兵衛が失踪した四年後である。場所は横浜弁天通3丁目、荷主から生糸を買い上げる売り込み業者に転じたのである。

善三郎の出身は武蔵国渡瀬村、現在の埼玉県児玉郡神川町である。じつは10年前に、この地を訪れている。しかも二回。この時は「鬼と鉄」の研究が目的で、御室ヶ獄という山をご神体とする金鑚神社、その下を流れる神流川。いずれも砂鉄と関係があると踏んでの調査であった。

その奥に鬼の伝説で有名な「鬼石」の街。庭石として有名な三波石が産出する三波石峡や冬桜が咲く城峰神社がある。

善三郎の生家は、その金鑚神社の麓、神流川沿いで醸造業や質屋も営む豊かな農家であった。

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絹の道をゆく-8 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次

2021年01月25日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-6 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.1

わが日の本は島国よ 朝日かがよう海に

連りそばだつ島々なれば あらゆる国より舟こそ通え 

されば港の数多かれど この横浜にまさるあらめや

むかし思えば とま屋の煙 ちらりほらりと立てりしところ

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明治四十二年(1909)に作られた森鴎外作詞の『横浜市歌』である。横浜の小学校に通っていた人なら、誰もが歌える(…はず)。

歌詞の意味は…、(島国である日本は、当然港の数も多い。だから、色んな国の船がやって来る。だけど、この横浜に勝るスゴイ港なんて他にありませんよ。昔は、貧乏な漁村だったのに、こんな立派な国際的な港になっちゃいました)簡単に言えば、こんな感じだろうか。





苫屋の煙が…原因?
「とま屋」が粗末な小屋ということで、開港以前の横浜は「貧しい寒村」だったという説明が、横浜の昔を説明する際に、必ず付け加えられる。

(貧村、辺鄙、何も無い…)どうも、この解説には釈然としない。

これと似た違和感は、青葉区や都筑区の昔を説明するときにも感じる。

「昔は、横浜のチベットって言われていたんだよ。何も無くてね」

辺鄙な所、不便な所だという意味でチベットを使う(何気に聞いていたけど、チベットの人にしてみたら本当に失礼な話だ)。

郷土史を勉強すればわかるが、古代の遺跡や古墳も数多く発掘されているし、主要な街道も集中している。むしろ、他の地域よりも先進的で歴史も深い。

明治41年(1908年)に横浜線が、昭和2年(1927)に小田急線が開通し、その間に挟まれて遠くに出かけるのに不便だった…というだけの話。村の様子はどこも同じであった。

どうも、急激に発展した土地や町の場合、それ以前の過去を過小に表現したがるようだ。一代で財を築いた成金が、苦労話を何倍にも膨らまして話すのと似ていて…なんともはやな気持ちになる。

文部省唱歌の『われは海の子』の歌詞の中にも

「煙たなびく苫屋こそ/我がなつかしき住家なれ」と出てくる。

この歌の舞台は鹿児島だと言われているが、江戸時代、日本中の漁村の原風景には、苫屋があったのだろう。

神奈川や六浦(金沢区)の港に比べて、小さい村だったというだけで、寒村とまで言ってしまうのは、どうかと思うのだが…。

ちなみに、森鴎外が生まれたのは文久二年。生麦事件が起きた年である。

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象山と坦庵
さて、その横浜村がどうして選ばれたかである。

最初に横浜開港を主張したのは、佐久間象山(しょうざん)だと言われている。

信州松代藩の藩士で、幕末の兵学者・思想家である象山は、地元松代で日本初の電信実験を成功させるなど、洋学に造詣が深く、「和魂洋才」(日本人の精神をもちながら、西洋の学問を取り入れる)を説いた。

江戸で開いた塾には、吉田松陰・小林虎三郎・勝海舟・河井継之助・坂本龍馬といった幕末史を彩るスターたちが弟子として入門している。象山の肖像画が残っているが、見るからに恐ろしい。海兵隊を率いて上陸したペリー提督が、思わず会釈をしてしまったという伝説が残っているほどだ。

象山が横浜開港説を唱えたのは、そのペリーが旗艦サスケハナ号を含む七隻の軍艦を率いてやってきた安政元年(1854)、開港の五年前である。

当時、松代藩の軍議役として横浜の警備に当たっていた象山は、日米和親条約に下田開港を盛り込んだ海防掛・江川坦庵(たんなん)の提案に猛反対して、横浜こそ開港するべきだと主張した。下田よりも横浜の方が守りやすいという軍事的な理由だという。

象山は江川の弟子として西洋砲術を学んでいるにも関わらず、下田開港は江川の「私利私欲である」とまで極論している。

私利私欲とは言いすぎだが、江川が反射炉に用いるコークスを輸入するために、下田を主張したことは否めない。ちなみに、江川の師であり、ブレーンだったのが、大山街道・荏田宿に泊まった『遊相日記』の渡辺崋山だ。江川は、幕府の海防政策について崋山から助言も得ている。

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幕末の天才外交官
日米和親条約締結の三年後、来日したアメリカ総領事のハリスが大阪開港を希望したのに対し、象山に続いて横浜開港論を主張して対抗したのが、老中首座・阿部正弘にその才能を見出されて海防掛目付から外国奉行にまで出世した岩瀬忠震(ただなり)である。

ハリスをして「彼が全権で、日本は幸福だ」と言わしめるほどの人物で、幕末のジャーナリスト・福地源一郎も、「幕末の三傑」の一人として小栗忠順・水野忠徳とともに評価している。

ただ、ハリスに対して「横浜」とは言わず、横浜も含めた「神奈川」の開港と言っている。ようするに、知名度の低い横浜村をぼかして伝えたのである。

結局、東海道に直結する神奈川宿は、不測の事態が起きる可能性が高く、神奈川湊は遠浅で、大型船の停泊には適さないため、対岸の横浜村に開港場を新設することが決定した。主導したのは、大老・井伊直弼である。

外国側(ハリスとイギリス総領事オールコックなど)は、繁華で開けた神奈川の開港をしつこく主張したが、外国商人たちは神奈川よりも港として適している横浜村に賛成した。幕府は外国側を納得させるため横浜の町造りを急ぎ、そのために江戸や近国の富農、豪商に対し、半ば強制的に移住を命じた。

先月号の最後に登場した中居屋重兵衛も、命じられた一人だという。 
 
面白いのは、重兵衛も佐久間象山の弟子だったということだ。そして、江川坦庵、岩瀬忠震などとも昵懇の間柄だという。

象山が横浜開港を叫んだ年、弟子の吉田松陰がアメリカ船で密航を企てた。

重兵衛が外国人に絹織物を密売したのも同じ年である。開国の先覚者と呼ばれる中居屋重兵衛。この男、いったい何者なのであろうか?

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絹の道をゆく-7 へ続く 



この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次

2021年01月08日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-5 高丸コレクション 

■プロローグ Vol.5

先月号で「面白い」と宣伝したから…ではないが、ドラマ『JIN-仁』の視聴率がシリーズ最高を記録した。

今秋放送開始された連続ドラマで二十%を超えたドラマはこれだけだという。
急いで原作の漫画も通しで読んでみた。なるほど、文字通り筋の通った内容。

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ドラマではスルーしてしまった、生麦事件も登場する。さすがに、英国人を助けるなどということはないが、マーシャルやクラークを治療したイギリス公使館付の医師・ウィリアム・ウィリスとアメリカ人医師・ヘボン(ヘボン式ローマ字で有名)を助手に手術を行い、サムライに斬られて瀕死の外国人水兵を助けてしまう。

当時はまだ無い人工呼吸法で、ヘボンが「神の奇跡」と呟くシーンは圧巻だ。

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因みに、ヘボンは本来ヘップバーンと発音する。あのオードリ・ヘップバーンと同じだ。当時の日本人にはヘボンと聴こえたのだろう。

ドラマは予算や時間の関係上、端折ってもいるし、原作にない登場人物など、オリジナルの設定になったりもしている。それはそれで、一粒で二度美味しいというものだ。

それにしても、医療シーンのリアルさは見事だ。

それもそのはず、医史監修に酒井シヅ氏(順天堂大学医学部名誉教授)、医療指導には冨田泰彦氏(杏林大学医学教育学教室講師)が名を連ねていた。

歴史監修に大庭邦彦氏(聖徳大学人文学部 日本文化学科教授) を起用するなど、歴史考証もしっかりしている。

惜しいかな、この号が発行される日が最終回。原作はまだ続いていて、佐久間象山、西郷隆盛、高杉晋作、皇女和宮、大相撲の陣幕久五郎など、実在の偉人が続々と登場する。



「稲むらの火」のモデル
気が付いたら、今回もドラマの宣伝に四分の一以上費やしてしまった。漫画やドラマに興味のない方は、さぞやご立腹でしょう。が、しかし、漫画で当時の雰囲気を知ることもあるし、漫画で新しい知識を得るということもある。

この漫画を読んで初めて知った人物に濱口儀兵衛という人がいる。なんと、あのヤマサ醤油の七代目当主である。年配の方なら、国語の教科書に載っていた『稲むらの火』という話をご存知だろう。

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安政元年(一八五四)に紀伊半島を襲った大地震。地震のあと、津波が来襲することに気付いた一人の男が、祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束に火をつけて、村人を誘導して助けるという話。 

この話は実話で、その主人公のモデルこそ、濱口儀兵衛なのである。

漫画ではペニシリンを大量に必要とする主人公のために、醤油蔵と職人たちを提供するという義侠心に富んだ人物として登場する。

実際の儀兵衛も、私財を投じて震災後の食糧確保や防波堤の建設を行い。西洋医学所の研究費用を寄付するなどの救済事業を行ったというから、ペニシリンの話もありえるような嘘である。

動乱期には、こうした傑出した人物、私利私欲でなく公利公欲で判断し行動する実業家が登場する。

いつから日本は、マネーだけを追い求める、私利私欲の虚業家や詐欺師ばかりの国になってしまったのか。

『キャピタリズム(資本主義)〜マネーは踊る〜』の監督マイケル・ムーアが「資本主義は邪悪だ」と批判しながら、かつてのアメリカは「すべての人の平等と幸福を願う国だった」と語っていたが、果たしてそうか?

なんだか、話がとんでもない方向に行きそうだ。幕末から明治、開港し国際都市となった横浜に大勢の商人が押し寄せた。「横浜商人」と呼ばれた彼らの業種は多岐にわたった。明治十四年に編まれた『横浜商人録』によれば、当時の横浜にあった商業の業種は187種、商店数は3068軒だったそうだ。

なかでも貿易商人、特に生糸の取引に目をつけた商人の台頭は凄まじいものがあった。


謎の商人・中居屋重兵衛
やっと絹の話が出てきた。一体この先どうなってしまうのかと、冷や冷やしたけど、よかった〜生糸が出てきて。(笑)

生糸が出てきたのには理由があった。(ここからは、幕末の話です)

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天保十一年(1840)フランスのプロバンス地方で蚕の微粒子病が発生した。これが猛烈な勢いで、イタリアからスペインにまで伝染して、12年後には最悪の事態を迎えた。

当時、絹織物産業で栄えていたリヨンやミラノでは、生糸不足に悩み、上海で生糸を求めていたが、日本の生糸の方が良質だという情報が入ると、たちまち日本に生糸を求めてやって来るようになった。

つまり、安政六年(1859)の横浜開港は絶妙なタイミングだったのだ。

開港当時、外国人が何を欲しがっているかは誰も知らなかった。だから、店先には外国人が欲しがりそうなものを何種類も並べていたそうだ。  

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開港から26日経った六月二十八日、最初の商船で入港してきたイギリス商人のイソリキが(芝屋清五郎の店で、甲州島田造生糸六俵を一斤につき一分銀五ケで買った)これが生糸貿易の最初だと伝えられる。

じつは、それよりも早く絹織物を外国人に売り始めていた人物がいた。

上野国吾妻郡中居村(現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原)出身の商人中居屋重兵衛である。

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この人物が面白い。ペリーが二度目に日本にやってきた安政元年(一八五四)に早くも外国人に絹織物を売り始めていた。

横浜開港の5年前ということは、つまり密売である。

密売によって蓄えた資金を元に、開港早々、本町四丁目に豪邸を立てた重兵衛。火薬の研究家でもあり、多くの志士とも交流があったという。しかし、出店してわずか二年目、生麦事件の前年に忽然と姿を消す。

屋根に銅の瓦を用いたことから「あかね御殿」と呼ばれた屋敷は、原因不明の火災で焼失した。
 

絹の道をゆく-6 へ続く
 

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生麦事件について解説をされる浅海武夫館長(79)。
残念ながら『生麦事件参考館』は、2014年5月3日に閉館となってしまいました。



この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。

地名推理ファイル 絹の道編 目次

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-4 高丸コレクション 

■プロローグ Vol.4

またまたドラマの話で恐縮だが、日曜夜九時からやっている日曜劇場『JIN-仁』が面白い。

「脳外科医が、幕末の江戸へタイムスリップしてしまい、満足な医療器具も薬もない環境で江戸時代の人々の命を救う」という、漫画が原作の、いわゆる歴史SFという荒唐無稽な話なのだが、これが中々見応えがある。正直、大河ドラマよりも時代考証など丁寧に制作されている。幕末の江戸の写真と現代の同じ場所の写真をオーバーラップさせて対比させるという、テレビ版「わが町今昔」風のオープニングも好い。

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坂本龍馬や勝海舟、緒方洪庵といった実在の人物も登場するが、役者の演技も上手いので、違和感が無い。因みに、坂本龍馬役の内野聖陽(まさあき)さん、「風林火山」の山本勘助の時から注目している大好きな役者さんだが、港北区出身で、実家は小机駅前の「雲松院」。小田原北条氏ゆかりの由緒あるお寺だそうだ。

何故いきなりドラマの話になるのかというと、このドラマで、主人公の医者がタイムスリップする年代が、まさに「生麦事件」があった文久二年(1862)なのである。

当時、江戸の町は、コレラが大流行している。これを主人公が現代医学の知識を使って治していくというストーリー。舞台が江戸ということで、今後、生麦事件が描かれるかは不明であるが(原作には、それらしい箇所が出てくるらしい…すみません。まだ原作読んでいないものですから)

これからの展開が大いに気になる番組であることは間違いない。


薩摩人の評価
さて、慰霊祭も自顕流の演武も無事終了し、生麦参考館において酒席が用意され、出席者に料理が振る舞われた。

宴もたけなわの頃、一人の男性がスクッと立ち上がるなり、山階宮晃親王(やましなのみや あきらしんのう)が詠んだという七言絶句を朗々と吟じ始めた。

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親王が明治初期に「老将」(=島津久光)の事件を回顧されて詠んだ「薩州老将髪衝冠」で始まる漢詩で、参考館の中庭に石碑が建てられている。 

歌碑の資金を提供したのは薩摩藩士の子孫の方で、除幕式には、薩摩藩士の子孫の方が三十人ほど訪れたそうである。

鹿児島で浅海館長の講演を聴いたという方が何名かお見えになっていた。皆さん、講演を聴くまでは、「短慮な薩摩人が、戦争につながるような、とんでもない事件を引き起こした」という認識だったそうで、鹿児島県人が明治維新を語る場合でも、生麦事件の話は自然と避けていたという。館長の講演を聴いて認識が改まったと、ビールを飲みながら笑っておられた。

意外であった。生麦事件のような過激な行動こそ、薩摩隼人の面目躍如ではごわはんか!と誇りにしていると思った。

鹿児島といえば、西郷どんの人気は絶大である。次が島津斉彬だろうか、篤姫も大河のおかげで人気急上昇。同時に若き家老、小松帯刀(たてわき)も高く評価されている。

彼の場合、西郷・大久保の後ろに隠れて評価が低すぎたのだ。

生麦事件のあと、彼の冷静な判断が、外国人居留地と薩摩藩の一触即発の事態を回避できたのだし、薩長同盟も彼の聡明さあってこそだ。

こんなことを書くと、薩摩人に怒られそうだが、西郷や斉彬の人気は、多分に小説やドラマの影響のような気がする。特に西郷という人物は、謎めいていて、本性が分かりにくい。写真も残っていないし、隠密として働き、権謀術数で薩摩藩を誘導していったというイメージが(あくまでも、自分の評価だが)拭えない。

相楽 総三(さがら そうぞう)率いる赤報隊を使い捨てにした件といい、『敬天愛人』の思想と相反する行動、イメージとの乖離は否めない。 

評価できるといえば、生麦から薩英戦争におけるイギリスと薩摩、幕府と薩摩のやりとりを見てみると、薩摩藩の外交担当者の能力の高さには驚かされる。外国人相手に堂々と交渉するその姿は、小気味いい。今の政治家にも見習ってもらいたいものだ。この辺りの描写は、吉村昭著「生麦事件」に詳しい。

明治維新の立役者は有名人だけが活躍したのではない!ということが、よく分かる。

つづく
 

外人墓地に眠る三人
今も執筆活動の傍ら、研究者として活動をされている浅海館長。10年ほど前、講演会の謝礼の中から、約400万の修繕費を出して、事件で死亡したリチャードソンの墓を改修された。

当時、草は生い茂り、墓石の痛みも激しかったそうだ。

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重傷を負った三人は、事件の後、どうなったのか?

まず、無傷だったマーガレット・ワトソン・ボラディル夫人(香港のイギリス人商人トマス・ボラディルの妻)だが、彼女は事件後、香港からイギリスに帰国した。

のちに娘を出産したが、難産のため亡くなったと伝えられる。事件から8年後というから、まだ三十六歳である。 事件当時が二十八歳、精神的なトラウマがあったことは想像に難くない。

横浜のイギリス人会社員「ウッドソープ・チャールス・クラーク」は、アメリカ商社、ハード商会の社員で、事件の年に上海支局から横浜支局へ派遣されている。

この時二十八歳、肩に後遺症が残ったが、事件後も横浜で引き続き仕事に従事している。事件の後遺症だろうか、五年後に三十三歳という若さで亡くなっている。

「ウィリアム・マーシャル」は、開港された横浜に在住する生糸商人で事件当時は三十五歳であった。彼もまた横浜で仕事を続けている。亡くなったのは十一年後、四十六歳であった。

二人とも若くして亡くなっているのは、やはり事件の後遺症が原因だろうか?

2006年、彼ら二人の墓は、地元の有志が募った募金でリチャードソンの墓の脇に移設された。

それにしても、あれだけの事件の後も日本を離れず、結局、異国の地に骨を埋めたというは、どういう訳だろう?長時間の船旅に耐えられない傷だったのか、よほど日本が気に入っていたのか、それとも、商売繁盛で帰るに帰れなかったのか…。

生糸を商っていたというマーシャルが気になった。 


絹の道をゆく-5 へ続く


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生麦事件について解説をされる浅海武夫館長(79)。
残念ながら『生麦事件参考館』は、2014年5月3日に閉館となってしまいました。



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真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-3 高丸コレクション 

■プロローグ Vol.3


演武による慰霊
「チエェェェェーイ!」

甲高い奇声が生麦商店街の路地裏にこだまする。猿叫(えんきょう)、薬丸自顕流の独特な気合である。

慰霊祭を終えたあと、参加者一行は、場所を生麦事件参考館前の路地に移動した。

参考館の門の前には、白い道着に紺の袴の男性七名と女性一名が並ぶ。全員が素足で、通常の木刀を更に太く長くした棒(ゆすの木で拵えた木刀)を手にしている。

先頭の若者が、その木刀を天に向かって突き上げ、腰を落としたかと思うと、猿叫を発しながら、目の前の立木に向かって駆けて行き、その蜻蛉(とんぼ)と呼ばれる独特な姿勢から、続けざまに立木に向かって棒を打ち下ろす。

初めて生で見る自顕流の立木打ち(横木打ち)。その迫力たるや凄まじい。

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「薩摩の初太刀をはずせ」と、新撰組の近藤勇も恐れた自顕流の打ち込みは、この単調な稽古を一日に何千回と繰り返すことによって生み出されたのである。

立木打ちに続いて、長棒との組み手「槍止め」の演武があり、最後に「抜き」と呼ばれる技が披露された。

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腰に差した状態から、一瞬の素早さで斬り上げる。『抜き・即・斬』、すなわち、抜いたときには、すでに相手を斬っているという電光石火の早業だ。

最初に六名が、ゆすの木刀で、次に上級者らしい二人が、真剣で「抜き」を披露した。目の前で刀を抜かれると、さすがにゾッとする。

リチャードソンが負った致命傷もこの「抜き」によるものである。実践に即した剣法、端的に言ってしまえば殺人剣だ。もちろん、彼らが人を斬るために、自顕流を習っているわけではない。

「気概」の養成、「長幼の序」の精神、真髄を探求し、先人の「遺風」を後人に伝える。自ら「充実」して他人を犯さず。といった心得を実践するために、日々精進しているのは、その顔つきを見てもわかる。

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すべての演武を終了すると、参加者だけでなく、何事かと見物にきた近所の方からも、拍手がわき上がった。

自顕流によって命を落とした英国人リチャードソンの慰霊祭で、こうした激しい演武を行うのはいかがなものか?と眉を顰める人も確かにいる。

だが今回、自顕流の演武を実際に目撃できたことは自分にとっても、慰霊祭に参列した人たちにとっても、意義のあることだったと思う。

なぜなら、生麦事件こそ「尊皇攘夷」をスローガンに掲げていた幕末の志士たちが「開国」へと180度舵をきりかえた端緒となった重要な出来事だからである。

だからこそ、開国博でやってほしかった!

「開国は、一滴の血を流すこともなく平和に行われた」と嘯くプロデューサー氏に見てもらいたかった。


近代国家成立の原点
故、吉村昭氏の著書「生麦事件」の解説に、「生麦事件こそ、明治維新への六年間の激動のかたちを作った原点であり…歴史の特定の事件をこえて、一般の、普遍的な戦争、政争、人間の生き方について考えを及ぼす契機をもつ」と記されている。

「桜田門外の変を、歴史を躍進させた事例として評価する」

幕末に起きた様々な暗殺事件を否定しながら、こう語ったのは、故、司馬遼太郎氏である。そういう意味では、この生麦事件も歴史の流れを変えた事例として評価すべき出来事だといえるのではないだろうか。

吉村氏の著書は極めてフィクションが少ない。綿密な取材に基づいた事実のみが淡々と書き記されているだけである。それでいて、読者を疲れさせないのは、リアルな臨場感と登場人物の細かい感情の動きまで描写されているからだろう。

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「生麦事件」のあとがきには、生麦事件の地道な研究者である浅海武夫館長を評価する文が記されていた。

生麦で酒屋を営んでいた浅海さんが生麦事件の資料を集めるきっかけになったのは、鹿児島の男性からの一通の手紙に書かれていた「日本の近代国家成立に至る重要な事件なのに、資料館がなぜないのか」という質問であった。

以来、仕事の合間に、神田の古書店に通い、地元で起きた歴史的大事件の資料や文献を探して歩くようになった。

事件を報じたイギリスの新聞があると聞けば、ロンドンの古書店に連絡し、それを入手。先月号で書いた『甦る幕末 ライデン大学写真コレクション』の表紙の写真は、オランダの博物館に交渉し、十ヶ月かけて取り寄せた。

二十年間で集めた資料は約一千点。平成六年に、自宅を改造し、集めた資料を展示する参考館を開設した。

それだけではない、還暦を過ぎ、酒屋の経営を退いたあと、早稲田大学で十年、大阪市立大学で二年、近代日本史を勉強されたというから畏れ入る。     


絹の道をゆく-4 へ続く
 

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この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。

地名推理ファイル 絹の道編 目次
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高丸
ある時は地域情報紙の編集長、ある時はフリーライター、またある時は紙芝居のオジサン、しこうしてその実態は・・・穏やかな心を持ちながら激しい憤りによって目覚めた伝説の唄う地域史研究家・・・歴史探偵・高丸だ!
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