2021年01月28日
真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-8 高丸コレクション
■横浜編 Vol.3
生糸が輸出産業の花形だったといっても、すべての生糸商人が大もうけしたわけではない。
生糸の商いというのは投機である。巨万の富を築いた商人が生まれる一方で、その何倍もの商人たちが没落していった。卓越した先見性と行動力、そして運の強いものが相場を制するのは現代も変わらない。もっとも、現代はパソコンの前に座っているだけなので、行動はキーを叩くだけだが…。
仲居屋重兵衛もそうだったが、原善三郎も行動の人だった。
群馬や埼玉の田舎から出てきて、生き馬の目を抜くような激しい競争に打ち勝つには、まず行動することであった。のちに、横浜を拠点とする有力財閥となり、本牧と野毛山の広大な敷地に山荘と別荘を持つに至る善三郎だが、その邸の床の間には古びて汚れた地下足袋が飾られていたという。
善三郎にとって商いとは、歩くことだった。山を越え、谷を越えて、生糸の原産地を訪ね歩き、買い付けた商品を横浜まで売りに行く。そうした地道な商売が成功へとつながった。
どてらい男
犬も歩けば棒に当たる。男歩けば勝ち目に当たる♪
そわそわするなよ、男は度胸♫
原善三郎のことを調べていたら、『どてらい男(やつ)』というテレビドラマを思い出した。 今から35年ほど前(1973年〜1977年)のドラマだ。
原作は花登筺(はなと・こばこ)、主人公は西郷輝彦演じる『猛やん』こと山下猛造。福井から大阪の機械工具問屋に丁稚奉公に入った主人公猛やんが、主人や番頭からいびられながらも商人(あきんど)として成長してゆき、最後には自分の店を持って大成功するというストーリーだ。
1時間がこれほど短く感じたドラマは後にも先にも無い。当時中学生だった私は、原作を図書館で借りてきて読むほど熱中した。映像が残っていないということなので、DVD化は無理としても、何とかリメイクして欲しい。
どてらい男の主題歌にあるように、歩いていけば、勝ち目にも当たるが、落ち目にも当たる。善三郎も落ち目に当たった。
開港間もない横浜で、仲間から外油(石油)が儲かると聞いた善三郎、虎の子の三百両をはたいて、外国商人からありったけの石油を買い付けた。それを日本国内で売れば倍の儲けになる…はずだった。しかし、油を入れた空き樽が新しすぎて、油が流出。虎の子の三百両を失ってしまったのだ。
失望のあまり、一度は国に帰ろうかと思った善三郎。ここからが凄い。浅草で出会った占い師に、「同じ道を行けば、取り戻せる」と聞いて、とってかえし、取引先の染め絹問屋から金を借りると、今度は空き樽を丹念にチェック、ふたたび石油を買いつけて、三日としないうちに負けを取り戻している。
また、尊王攘夷の浪士に、寝込みを襲われ、金を強請(ゆす)られたりもしているが、機先を制し、相手を怒らせることなくあしらっている。
とにかく豪胆。失敗しても、それをすぐに成功に結びつける。占いを聞いて、すぐに行動するところは、単純といえば単純だが…、この過程で絹よりも生糸に将来性があることを嗅ぎ取り、次の商売に活かしていくあたりのエピソードがドラマと重なる。
まさに横浜の『どてらい男』である。
商人から政治家へ
それから十三年、彼と茂木惣兵衛の二人で横浜の生糸取扱量の三分の一を占めるほどの成功をおさめ、気がつけば「横浜は、善くも悪しくも、亀善の腹ひとつにて、事決まるなり」と狂歌にも詠まれるまでになっていた。
明治初期は、横暴な外国商人が多く、荷を持ち込んでも、検査が済むまでは手付金も払わない。検査に不合格なら返却されるし、品質に問題が無くても、自国の市場が景気悪くなったと言って突き返されるなど、買い手有利に物事が運ばれていた。
値引きなどは当たり前。当初は個別の取引で、市場価格も決まっていなかった。善三郎は、そうした事態に対処するため、横浜商工会議所や横浜蚕糸貿易商組合を設立し、日本の商権回復のために奔走したのである。
先の狂歌は、財閥に対する揶揄も含まれるであろうが、こうした公私を越えた働きに対する評価でもある。
明治五年、新橋〜横浜間に日本初の鉄道が正式営業を開始した。
善三郎は、この祝賀式典で横浜庶民を代表して天皇陛下の前で祝辞を述べるという栄誉に与っている。この時、外国人代表として祝辞を述べたのが、誰あろう、あの生麦事件で重傷を負った、イギリス商人・ウィリアム ・マーシャルなのだ。
因みに、善三郎とマーシャルは、ともに1827年生まれの同い年である。
明治二十二年(1889)、横浜市制が施行、市議会議員に選出された善三郎は初代議長に就任する。そして三年後、市会から中央政界へと登りつめるのである。
三渓のふるさと
昨年暮れ、名古屋に帰省したときに、足を延ばして岐阜県美濃市にある母方の実家の墓参りをした。 翌日、急に思い立って、岐阜駅から名鉄電車に乗り、柳津(やないづ)に向かった。
柳津は、善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚して原家に入った原富太郎(旧姓・青木富太郎、のちの原三渓)の生まれ故郷である。 せっかく、岐阜まで足を延ばしたのだから、原三渓の故郷がどんな所か見てみたくなったのだ。
柳津駅は真新しいが無人駅だった。無人だから人に聞くわけもいかず、携帯電話のナビを頼りに公民館を訪ねた。思いつきで来たので、資料も何もない。公民館なら、何か実家の手がかりになる物があるだろう、と思って寄ったのだが…、果たして…正解であった。
正解どころではない。
「ちょうど、『原三渓展』をやっていたんですよ」と係の方。
しかも、この日が最終日だという。
なんという奇跡! 運命! いや、これは天命に違いない。
絹の道をゆく-9 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
生糸が輸出産業の花形だったといっても、すべての生糸商人が大もうけしたわけではない。
生糸の商いというのは投機である。巨万の富を築いた商人が生まれる一方で、その何倍もの商人たちが没落していった。卓越した先見性と行動力、そして運の強いものが相場を制するのは現代も変わらない。もっとも、現代はパソコンの前に座っているだけなので、行動はキーを叩くだけだが…。
仲居屋重兵衛もそうだったが、原善三郎も行動の人だった。
群馬や埼玉の田舎から出てきて、生き馬の目を抜くような激しい競争に打ち勝つには、まず行動することであった。のちに、横浜を拠点とする有力財閥となり、本牧と野毛山の広大な敷地に山荘と別荘を持つに至る善三郎だが、その邸の床の間には古びて汚れた地下足袋が飾られていたという。
善三郎にとって商いとは、歩くことだった。山を越え、谷を越えて、生糸の原産地を訪ね歩き、買い付けた商品を横浜まで売りに行く。そうした地道な商売が成功へとつながった。
どてらい男
犬も歩けば棒に当たる。男歩けば勝ち目に当たる♪
そわそわするなよ、男は度胸♫
原善三郎のことを調べていたら、『どてらい男(やつ)』というテレビドラマを思い出した。 今から35年ほど前(1973年〜1977年)のドラマだ。
原作は花登筺(はなと・こばこ)、主人公は西郷輝彦演じる『猛やん』こと山下猛造。福井から大阪の機械工具問屋に丁稚奉公に入った主人公猛やんが、主人や番頭からいびられながらも商人(あきんど)として成長してゆき、最後には自分の店を持って大成功するというストーリーだ。
1時間がこれほど短く感じたドラマは後にも先にも無い。当時中学生だった私は、原作を図書館で借りてきて読むほど熱中した。映像が残っていないということなので、DVD化は無理としても、何とかリメイクして欲しい。
どてらい男の主題歌にあるように、歩いていけば、勝ち目にも当たるが、落ち目にも当たる。善三郎も落ち目に当たった。
開港間もない横浜で、仲間から外油(石油)が儲かると聞いた善三郎、虎の子の三百両をはたいて、外国商人からありったけの石油を買い付けた。それを日本国内で売れば倍の儲けになる…はずだった。しかし、油を入れた空き樽が新しすぎて、油が流出。虎の子の三百両を失ってしまったのだ。
失望のあまり、一度は国に帰ろうかと思った善三郎。ここからが凄い。浅草で出会った占い師に、「同じ道を行けば、取り戻せる」と聞いて、とってかえし、取引先の染め絹問屋から金を借りると、今度は空き樽を丹念にチェック、ふたたび石油を買いつけて、三日としないうちに負けを取り戻している。
また、尊王攘夷の浪士に、寝込みを襲われ、金を強請(ゆす)られたりもしているが、機先を制し、相手を怒らせることなくあしらっている。
とにかく豪胆。失敗しても、それをすぐに成功に結びつける。占いを聞いて、すぐに行動するところは、単純といえば単純だが…、この過程で絹よりも生糸に将来性があることを嗅ぎ取り、次の商売に活かしていくあたりのエピソードがドラマと重なる。
まさに横浜の『どてらい男』である。
商人から政治家へ
それから十三年、彼と茂木惣兵衛の二人で横浜の生糸取扱量の三分の一を占めるほどの成功をおさめ、気がつけば「横浜は、善くも悪しくも、亀善の腹ひとつにて、事決まるなり」と狂歌にも詠まれるまでになっていた。
明治初期は、横暴な外国商人が多く、荷を持ち込んでも、検査が済むまでは手付金も払わない。検査に不合格なら返却されるし、品質に問題が無くても、自国の市場が景気悪くなったと言って突き返されるなど、買い手有利に物事が運ばれていた。
値引きなどは当たり前。当初は個別の取引で、市場価格も決まっていなかった。善三郎は、そうした事態に対処するため、横浜商工会議所や横浜蚕糸貿易商組合を設立し、日本の商権回復のために奔走したのである。
先の狂歌は、財閥に対する揶揄も含まれるであろうが、こうした公私を越えた働きに対する評価でもある。
明治五年、新橋〜横浜間に日本初の鉄道が正式営業を開始した。
善三郎は、この祝賀式典で横浜庶民を代表して天皇陛下の前で祝辞を述べるという栄誉に与っている。この時、外国人代表として祝辞を述べたのが、誰あろう、あの生麦事件で重傷を負った、イギリス商人・ウィリアム ・マーシャルなのだ。
因みに、善三郎とマーシャルは、ともに1827年生まれの同い年である。
明治二十二年(1889)、横浜市制が施行、市議会議員に選出された善三郎は初代議長に就任する。そして三年後、市会から中央政界へと登りつめるのである。
三渓のふるさと
昨年暮れ、名古屋に帰省したときに、足を延ばして岐阜県美濃市にある母方の実家の墓参りをした。 翌日、急に思い立って、岐阜駅から名鉄電車に乗り、柳津(やないづ)に向かった。
柳津は、善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚して原家に入った原富太郎(旧姓・青木富太郎、のちの原三渓)の生まれ故郷である。 せっかく、岐阜まで足を延ばしたのだから、原三渓の故郷がどんな所か見てみたくなったのだ。
柳津駅は真新しいが無人駅だった。無人だから人に聞くわけもいかず、携帯電話のナビを頼りに公民館を訪ねた。思いつきで来たので、資料も何もない。公民館なら、何か実家の手がかりになる物があるだろう、と思って寄ったのだが…、果たして…正解であった。
正解どころではない。
「ちょうど、『原三渓展』をやっていたんですよ」と係の方。
しかも、この日が最終日だという。
なんという奇跡! 運命! いや、これは天命に違いない。
絹の道をゆく-9 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
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