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2021年04月02日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-16 高丸コレクション >>

■八王子編 Vol.4

浅川の治水と歴史
片倉製糸の回想はこれくらいにして、ふたたび2010年(平成22年)の萩原橋に戻る。

眼下を流れる浅川は、高い橋の上からでも川底の石が確認できるほど澄んでいる。この水の清らかさには理由がある。通常の都市河川のように土手をコンクリートで固めず、葦などの水生植物を繁殖させているからだ。

こうした環境対策は、水質の改善だけでなく、水の勢いを抑える治水の効果もある。

浅川-1.jpg


浅川は、これまで何度も氾濫を繰り返してきた。

天正19年(1591年)、徳川家康から八王子(後に横山)に所領を与えられた大久保石見守長安は、真っ先に宿場の建設と浅川の氾濫を防ぐための堤防を築いたという。

長安の官名をとって「石見(いわみ)土手」と名付けられた。その堤防の一部が市内千人町の宗格院(そうかくいん)という寺に残っている。

また、丸太を三角形に組んだ「聖牛(せいぎゅう)」と呼ばれる治水用具が江戸時代に設置されている。聖牛は、信玄堤で知られる甲州流の伝統的治水工法。おそらく、長安と同じ武田家の旧臣であった八王子千人同心たちが持ち込んだのであろう。

聖牛石見土手.jpg


浅川の源流は、八王子市と神奈川県相模原市緑区との境界にある陣場山(標高854.8m)。その麓に、詩人・中村雨紅が作詞した童謡「夕焼小焼」の舞台になった恩方村がある。

「あれっ?」地図を見て驚いた。萩原橋から上流方向に1kmほど歩くと南からやってきた支流の南浅川と合流するのだが、そこから先をなぞると浅川が消えて無くなるのだ。

調べたら、南浅川と合流する地点から上流にかけては「北浅川」と名前が変わるのだそうだ。楢原町付近で北浅川の河原に下りて歩いたことがあるが、北浅川という浅川の支流を歩いているのだと思っていた。

ちなみに、その付近からはメタセコイアの化石や、290万から210万年前に日本に生息していたというハチオウジゾウの化石が発見されている。



土方歳三の足跡
浅川を東方向に下れば、日野市石田で多摩川と合流する。日野の石田といえば、かの有名な新選組副長・土方歳三の生誕地だ。

歳三の生家は、多摩の「お大尽」と呼ばれるほどの豪農。副業として薬の製造販売を営んでいた。

売っていた薬は村の名を冠した「石田散薬」。打ち身、捻挫、筋肉痛はもとより、切り傷や骨折にまで効用があったという優れものの万能薬だ。

薬の原材料は、浅川の河原に生えている牛革草(ぎゅうかくそう)というタデ科の植物で、葉の形がソバの葉に似ていて、用水路の脇に生えていることからミゾソバとも呼ばれる。

刈り取りはなぜか土用の丑の日。バラガキ(乱暴者)と呼ばれた若き日の歳三が指揮を執り、石田村総出でミゾソバの刈り取りが行われたという。

(刈った草を乾燥させたあと黒焼きにし、薬研でおろして散薬にした。患者にはそれを熱燗の酒で一気に飲ませた)と、司馬遼太郎氏の小説「燃えよ剣」で紹介されている。

さらに(家伝「石田散薬」の行商をして武州はおろか、江戸、相州、甲州まで売り歩いた)と続く。

行商のかたわら剣術の道場を訪れ、薬と引き換えに剣術の手ほどきを受けていた…とあるから、後の世を見据えての剣術の修行でもあったのだろう。

石田散薬.jpg



甲州街道の日野宿から東へ行けば、布田、高井戸、内藤新宿の各宿場を経て10里(約40km)ほどで江戸日本橋へ出る。逆に甲州(山梨)方面には7里ほどで上野原の宿まで行ける。その途中に相州、現在の相模原市を通る。

南へは行かなかったのだろうか? 南とは、もちろん横浜方面である。

行った!…と思う。(武州はおろか)とは、武蔵の国は当たり前に行き来していたということだ。

浦賀にペリー率いる黒船艦隊が来航したのは1853年(嘉永6年)、横浜への来航は翌1854年だ。土方歳三この時18〜19歳、血気盛んなバラガキだ。行商の荷を担いで横浜まですっ飛んでいったに違いない。

使った道は当然、日野と横浜を結ぶ日野往還。現在の横浜上麻生線だ。鉄村、大場村、市ケ尾村…と、我が青葉区内を通る。途中、大山街道との交差点にある旅籠、現在も建物が現存する「綿屋」という旅籠に泊まったかも…なんて想像するだけで興奮する。

自分が幕末の歴史に興味を持ったのは小学校2年生の頃。テレビ時代劇『燃えよ剣』と『新選組血風録』を観たのがきっかけだ。土方を演じた栗塚旭の感情を抑えたニヒルな演技、冷徹な中にも優しさが隠されたその声。その渋いカッコ良さに子どもながら憧れたものである。
長じてからは新選組関係の小説、歴史読本を手当たりしだいに読んだ。

栗塚土方.jpg


二十代の頃は土方の足跡を訪ねて各地を旅して歩いた。日野の生家はもとより、新選組の屯所があった京都の壬生、官軍と戦った会津若松、さらに終焉の地である函館…。「滅びの美学」新選組の中でもひと際輝く人物だ。

浅川の川面を見つめていると、この清らかな流れの先に若き日の土方がいるような気がしてくる。

おっと話が脱線しすぎた。回想シーンの次は妄想シーンか!と、お叱りを受けそうなので現実に戻る。



萩原彦七の功績
萩原橋を渡りきったら、バス通りを北西に向かって歩く。通称「秋川街道」、八王子市街からあきる野市の五日市に至る主要地方道だ。正式には「東京都道32号八王子五日市線」という。地元に古くから住んでいる人に聞くと、かつては「五日市街道」と呼んでいたとのこと。

また、萩原橋ができる以前は「前田通り」と呼ばれていたらしい。その前田地区(現、中野上町)は、いたるところから清水が湧き出す農村地帯だったそうだ。その豊かな湧き水を利用して設立されたのが、萩原彦七による『萩原製糸工場』だ。

はじめは50人繰り(釜)の設備であったが、明治13年にフランス人シャモナールを招いて工場設備を100人繰りに増設。29年には250人繰りに増大した。これほど大規模な製糸工場は珍しく、明治天皇が東山道を御巡幸の際に、当時の参議を工場視察のために派遣されたことが宮内庁の日記に記録されている。

彦七氏はその後、養蚕伝習所を設けて生徒を養成したり、繰り糸の方法を書いた解説書の作成をするなど、製糸業の振興に精魂を傾けたという。

当然のごとく羽振りも良かったようで、工場の一画に湧き水を利用した池と庭園を造り、その池の中に数寄屋風の豪華な建物を建て、外国人との商取引に利用していた話や、自家用の二頭立て馬車に洋装で着飾った夫人を乗せ得意満面で八王子の街を押し回した話が残っている。

「行ってみたいよ中野の町へ 色で仕上げたあの機械」という歌が八王子の町中で流行したという。

外国人との商取引の成功は夫人による色仕掛けによるもの…という噂もあり、彦七夫妻を妬んだ市民が大勢いた事を伺わせる。

とはいえ、萩原橋の建設に総工費のほとんどを負担するなど、八王子の発展に寄与した最大の功労者であることは間違いない。

萩原彦七.jpg



わが国屈指の製糸工場を立ち上げ、八王子の発展のために私財を投げ売って貢献した彦七翁であったが、明治33年の生糸恐慌によって大きな打撃を受け、翌年、片倉製糸(当時は片倉組)に買収されてしまう。

晩年は不遇で、昭和4年、行路病者としてこの世を去った。享年80歳だったという。


つづく


※行路病者=飢えや疲れのため、道路上で倒れた、引取手のない病人


絹の道をゆく-17 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
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ある時は地域情報紙の編集長、ある時はフリーライター、またある時は紙芝居のオジサン、しこうしてその実態は・・・穏やかな心を持ちながら激しい憤りによって目覚めた伝説の唄う地域史研究家・・・歴史探偵・高丸だ!
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