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2021年01月08日
真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-5 高丸コレクション
■プロローグ Vol.5
先月号で「面白い」と宣伝したから…ではないが、ドラマ『JIN-仁』の視聴率がシリーズ最高を記録した。
今秋放送開始された連続ドラマで二十%を超えたドラマはこれだけだという。
急いで原作の漫画も通しで読んでみた。なるほど、文字通り筋の通った内容。
ドラマではスルーしてしまった、生麦事件も登場する。さすがに、英国人を助けるなどということはないが、マーシャルやクラークを治療したイギリス公使館付の医師・ウィリアム・ウィリスとアメリカ人医師・ヘボン(ヘボン式ローマ字で有名)を助手に手術を行い、サムライに斬られて瀕死の外国人水兵を助けてしまう。
当時はまだ無い人工呼吸法で、ヘボンが「神の奇跡」と呟くシーンは圧巻だ。
因みに、ヘボンは本来ヘップバーンと発音する。あのオードリ・ヘップバーンと同じだ。当時の日本人にはヘボンと聴こえたのだろう。
ドラマは予算や時間の関係上、端折ってもいるし、原作にない登場人物など、オリジナルの設定になったりもしている。それはそれで、一粒で二度美味しいというものだ。
それにしても、医療シーンのリアルさは見事だ。
それもそのはず、医史監修に酒井シヅ氏(順天堂大学医学部名誉教授)、医療指導には冨田泰彦氏(杏林大学医学教育学教室講師)が名を連ねていた。
歴史監修に大庭邦彦氏(聖徳大学人文学部 日本文化学科教授) を起用するなど、歴史考証もしっかりしている。
惜しいかな、この号が発行される日が最終回。原作はまだ続いていて、佐久間象山、西郷隆盛、高杉晋作、皇女和宮、大相撲の陣幕久五郎など、実在の偉人が続々と登場する。
「稲むらの火」のモデル
気が付いたら、今回もドラマの宣伝に四分の一以上費やしてしまった。漫画やドラマに興味のない方は、さぞやご立腹でしょう。が、しかし、漫画で当時の雰囲気を知ることもあるし、漫画で新しい知識を得るということもある。
この漫画を読んで初めて知った人物に濱口儀兵衛という人がいる。なんと、あのヤマサ醤油の七代目当主である。年配の方なら、国語の教科書に載っていた『稲むらの火』という話をご存知だろう。
安政元年(一八五四)に紀伊半島を襲った大地震。地震のあと、津波が来襲することに気付いた一人の男が、祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束に火をつけて、村人を誘導して助けるという話。
この話は実話で、その主人公のモデルこそ、濱口儀兵衛なのである。
漫画ではペニシリンを大量に必要とする主人公のために、醤油蔵と職人たちを提供するという義侠心に富んだ人物として登場する。
実際の儀兵衛も、私財を投じて震災後の食糧確保や防波堤の建設を行い。西洋医学所の研究費用を寄付するなどの救済事業を行ったというから、ペニシリンの話もありえるような嘘である。
動乱期には、こうした傑出した人物、私利私欲でなく公利公欲で判断し行動する実業家が登場する。
いつから日本は、マネーだけを追い求める、私利私欲の虚業家や詐欺師ばかりの国になってしまったのか。
『キャピタリズム(資本主義)〜マネーは踊る〜』の監督マイケル・ムーアが「資本主義は邪悪だ」と批判しながら、かつてのアメリカは「すべての人の平等と幸福を願う国だった」と語っていたが、果たしてそうか?
なんだか、話がとんでもない方向に行きそうだ。幕末から明治、開港し国際都市となった横浜に大勢の商人が押し寄せた。「横浜商人」と呼ばれた彼らの業種は多岐にわたった。明治十四年に編まれた『横浜商人録』によれば、当時の横浜にあった商業の業種は187種、商店数は3068軒だったそうだ。
なかでも貿易商人、特に生糸の取引に目をつけた商人の台頭は凄まじいものがあった。
謎の商人・中居屋重兵衛
やっと絹の話が出てきた。一体この先どうなってしまうのかと、冷や冷やしたけど、よかった〜生糸が出てきて。(笑)
生糸が出てきたのには理由があった。(ここからは、幕末の話です)
天保十一年(1840)フランスのプロバンス地方で蚕の微粒子病が発生した。これが猛烈な勢いで、イタリアからスペインにまで伝染して、12年後には最悪の事態を迎えた。
当時、絹織物産業で栄えていたリヨンやミラノでは、生糸不足に悩み、上海で生糸を求めていたが、日本の生糸の方が良質だという情報が入ると、たちまち日本に生糸を求めてやって来るようになった。
つまり、安政六年(1859)の横浜開港は絶妙なタイミングだったのだ。
開港当時、外国人が何を欲しがっているかは誰も知らなかった。だから、店先には外国人が欲しがりそうなものを何種類も並べていたそうだ。
開港から26日経った六月二十八日、最初の商船で入港してきたイギリス商人のイソリキが(芝屋清五郎の店で、甲州島田造生糸六俵を一斤につき一分銀五ケで買った)これが生糸貿易の最初だと伝えられる。
じつは、それよりも早く絹織物を外国人に売り始めていた人物がいた。
上野国吾妻郡中居村(現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原)出身の商人中居屋重兵衛である。
この人物が面白い。ペリーが二度目に日本にやってきた安政元年(一八五四)に早くも外国人に絹織物を売り始めていた。
横浜開港の5年前ということは、つまり密売である。
密売によって蓄えた資金を元に、開港早々、本町四丁目に豪邸を立てた重兵衛。火薬の研究家でもあり、多くの志士とも交流があったという。しかし、出店してわずか二年目、生麦事件の前年に忽然と姿を消す。
屋根に銅の瓦を用いたことから「あかね御殿」と呼ばれた屋敷は、原因不明の火災で焼失した。
絹の道をゆく-6 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
先月号で「面白い」と宣伝したから…ではないが、ドラマ『JIN-仁』の視聴率がシリーズ最高を記録した。
今秋放送開始された連続ドラマで二十%を超えたドラマはこれだけだという。
急いで原作の漫画も通しで読んでみた。なるほど、文字通り筋の通った内容。
ドラマではスルーしてしまった、生麦事件も登場する。さすがに、英国人を助けるなどということはないが、マーシャルやクラークを治療したイギリス公使館付の医師・ウィリアム・ウィリスとアメリカ人医師・ヘボン(ヘボン式ローマ字で有名)を助手に手術を行い、サムライに斬られて瀕死の外国人水兵を助けてしまう。
当時はまだ無い人工呼吸法で、ヘボンが「神の奇跡」と呟くシーンは圧巻だ。
因みに、ヘボンは本来ヘップバーンと発音する。あのオードリ・ヘップバーンと同じだ。当時の日本人にはヘボンと聴こえたのだろう。
ドラマは予算や時間の関係上、端折ってもいるし、原作にない登場人物など、オリジナルの設定になったりもしている。それはそれで、一粒で二度美味しいというものだ。
それにしても、医療シーンのリアルさは見事だ。
それもそのはず、医史監修に酒井シヅ氏(順天堂大学医学部名誉教授)、医療指導には冨田泰彦氏(杏林大学医学教育学教室講師)が名を連ねていた。
歴史監修に大庭邦彦氏(聖徳大学人文学部 日本文化学科教授) を起用するなど、歴史考証もしっかりしている。
惜しいかな、この号が発行される日が最終回。原作はまだ続いていて、佐久間象山、西郷隆盛、高杉晋作、皇女和宮、大相撲の陣幕久五郎など、実在の偉人が続々と登場する。
「稲むらの火」のモデル
気が付いたら、今回もドラマの宣伝に四分の一以上費やしてしまった。漫画やドラマに興味のない方は、さぞやご立腹でしょう。が、しかし、漫画で当時の雰囲気を知ることもあるし、漫画で新しい知識を得るということもある。
この漫画を読んで初めて知った人物に濱口儀兵衛という人がいる。なんと、あのヤマサ醤油の七代目当主である。年配の方なら、国語の教科書に載っていた『稲むらの火』という話をご存知だろう。
安政元年(一八五四)に紀伊半島を襲った大地震。地震のあと、津波が来襲することに気付いた一人の男が、祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束に火をつけて、村人を誘導して助けるという話。
この話は実話で、その主人公のモデルこそ、濱口儀兵衛なのである。
漫画ではペニシリンを大量に必要とする主人公のために、醤油蔵と職人たちを提供するという義侠心に富んだ人物として登場する。
実際の儀兵衛も、私財を投じて震災後の食糧確保や防波堤の建設を行い。西洋医学所の研究費用を寄付するなどの救済事業を行ったというから、ペニシリンの話もありえるような嘘である。
動乱期には、こうした傑出した人物、私利私欲でなく公利公欲で判断し行動する実業家が登場する。
いつから日本は、マネーだけを追い求める、私利私欲の虚業家や詐欺師ばかりの国になってしまったのか。
『キャピタリズム(資本主義)〜マネーは踊る〜』の監督マイケル・ムーアが「資本主義は邪悪だ」と批判しながら、かつてのアメリカは「すべての人の平等と幸福を願う国だった」と語っていたが、果たしてそうか?
なんだか、話がとんでもない方向に行きそうだ。幕末から明治、開港し国際都市となった横浜に大勢の商人が押し寄せた。「横浜商人」と呼ばれた彼らの業種は多岐にわたった。明治十四年に編まれた『横浜商人録』によれば、当時の横浜にあった商業の業種は187種、商店数は3068軒だったそうだ。
なかでも貿易商人、特に生糸の取引に目をつけた商人の台頭は凄まじいものがあった。
謎の商人・中居屋重兵衛
やっと絹の話が出てきた。一体この先どうなってしまうのかと、冷や冷やしたけど、よかった〜生糸が出てきて。(笑)
生糸が出てきたのには理由があった。(ここからは、幕末の話です)
天保十一年(1840)フランスのプロバンス地方で蚕の微粒子病が発生した。これが猛烈な勢いで、イタリアからスペインにまで伝染して、12年後には最悪の事態を迎えた。
当時、絹織物産業で栄えていたリヨンやミラノでは、生糸不足に悩み、上海で生糸を求めていたが、日本の生糸の方が良質だという情報が入ると、たちまち日本に生糸を求めてやって来るようになった。
つまり、安政六年(1859)の横浜開港は絶妙なタイミングだったのだ。
開港当時、外国人が何を欲しがっているかは誰も知らなかった。だから、店先には外国人が欲しがりそうなものを何種類も並べていたそうだ。
開港から26日経った六月二十八日、最初の商船で入港してきたイギリス商人のイソリキが(芝屋清五郎の店で、甲州島田造生糸六俵を一斤につき一分銀五ケで買った)これが生糸貿易の最初だと伝えられる。
じつは、それよりも早く絹織物を外国人に売り始めていた人物がいた。
上野国吾妻郡中居村(現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原)出身の商人中居屋重兵衛である。
この人物が面白い。ペリーが二度目に日本にやってきた安政元年(一八五四)に早くも外国人に絹織物を売り始めていた。
横浜開港の5年前ということは、つまり密売である。
密売によって蓄えた資金を元に、開港早々、本町四丁目に豪邸を立てた重兵衛。火薬の研究家でもあり、多くの志士とも交流があったという。しかし、出店してわずか二年目、生麦事件の前年に忽然と姿を消す。
屋根に銅の瓦を用いたことから「あかね御殿」と呼ばれた屋敷は、原因不明の火災で焼失した。
絹の道をゆく-6 へ続く
生麦事件について解説をされる浅海武夫館長(79)。
残念ながら『生麦事件参考館』は、2014年5月3日に閉館となってしまいました。
残念ながら『生麦事件参考館』は、2014年5月3日に閉館となってしまいました。
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-4 高丸コレクション
■プロローグ Vol.4
またまたドラマの話で恐縮だが、日曜夜九時からやっている日曜劇場『JIN-仁』が面白い。
「脳外科医が、幕末の江戸へタイムスリップしてしまい、満足な医療器具も薬もない環境で江戸時代の人々の命を救う」という、漫画が原作の、いわゆる歴史SFという荒唐無稽な話なのだが、これが中々見応えがある。正直、大河ドラマよりも時代考証など丁寧に制作されている。幕末の江戸の写真と現代の同じ場所の写真をオーバーラップさせて対比させるという、テレビ版「わが町今昔」風のオープニングも好い。
坂本龍馬や勝海舟、緒方洪庵といった実在の人物も登場するが、役者の演技も上手いので、違和感が無い。因みに、坂本龍馬役の内野聖陽(まさあき)さん、「風林火山」の山本勘助の時から注目している大好きな役者さんだが、港北区出身で、実家は小机駅前の「雲松院」。小田原北条氏ゆかりの由緒あるお寺だそうだ。
何故いきなりドラマの話になるのかというと、このドラマで、主人公の医者がタイムスリップする年代が、まさに「生麦事件」があった文久二年(1862)なのである。
当時、江戸の町は、コレラが大流行している。これを主人公が現代医学の知識を使って治していくというストーリー。舞台が江戸ということで、今後、生麦事件が描かれるかは不明であるが(原作には、それらしい箇所が出てくるらしい…すみません。まだ原作読んでいないものですから)
これからの展開が大いに気になる番組であることは間違いない。
薩摩人の評価
さて、慰霊祭も自顕流の演武も無事終了し、生麦参考館において酒席が用意され、出席者に料理が振る舞われた。
宴もたけなわの頃、一人の男性がスクッと立ち上がるなり、山階宮晃親王(やましなのみや あきらしんのう)が詠んだという七言絶句を朗々と吟じ始めた。
親王が明治初期に「老将」(=島津久光)の事件を回顧されて詠んだ「薩州老将髪衝冠」で始まる漢詩で、参考館の中庭に石碑が建てられている。
歌碑の資金を提供したのは薩摩藩士の子孫の方で、除幕式には、薩摩藩士の子孫の方が三十人ほど訪れたそうである。
鹿児島で浅海館長の講演を聴いたという方が何名かお見えになっていた。皆さん、講演を聴くまでは、「短慮な薩摩人が、戦争につながるような、とんでもない事件を引き起こした」という認識だったそうで、鹿児島県人が明治維新を語る場合でも、生麦事件の話は自然と避けていたという。館長の講演を聴いて認識が改まったと、ビールを飲みながら笑っておられた。
意外であった。生麦事件のような過激な行動こそ、薩摩隼人の面目躍如ではごわはんか!と誇りにしていると思った。
鹿児島といえば、西郷どんの人気は絶大である。次が島津斉彬だろうか、篤姫も大河のおかげで人気急上昇。同時に若き家老、小松帯刀(たてわき)も高く評価されている。
彼の場合、西郷・大久保の後ろに隠れて評価が低すぎたのだ。
生麦事件のあと、彼の冷静な判断が、外国人居留地と薩摩藩の一触即発の事態を回避できたのだし、薩長同盟も彼の聡明さあってこそだ。
こんなことを書くと、薩摩人に怒られそうだが、西郷や斉彬の人気は、多分に小説やドラマの影響のような気がする。特に西郷という人物は、謎めいていて、本性が分かりにくい。写真も残っていないし、隠密として働き、権謀術数で薩摩藩を誘導していったというイメージが(あくまでも、自分の評価だが)拭えない。
相楽 総三(さがら そうぞう)率いる赤報隊を使い捨てにした件といい、『敬天愛人』の思想と相反する行動、イメージとの乖離は否めない。
評価できるといえば、生麦から薩英戦争におけるイギリスと薩摩、幕府と薩摩のやりとりを見てみると、薩摩藩の外交担当者の能力の高さには驚かされる。外国人相手に堂々と交渉するその姿は、小気味いい。今の政治家にも見習ってもらいたいものだ。この辺りの描写は、吉村昭著「生麦事件」に詳しい。
明治維新の立役者は有名人だけが活躍したのではない!ということが、よく分かる。
外人墓地に眠る三人
今も執筆活動の傍ら、研究者として活動をされている浅海館長。10年ほど前、講演会の謝礼の中から、約400万の修繕費を出して、事件で死亡したリチャードソンの墓を改修された。
当時、草は生い茂り、墓石の痛みも激しかったそうだ。
重傷を負った三人は、事件の後、どうなったのか?
まず、無傷だったマーガレット・ワトソン・ボラディル夫人(香港のイギリス人商人トマス・ボラディルの妻)だが、彼女は事件後、香港からイギリスに帰国した。
のちに娘を出産したが、難産のため亡くなったと伝えられる。事件から8年後というから、まだ三十六歳である。 事件当時が二十八歳、精神的なトラウマがあったことは想像に難くない。
横浜のイギリス人会社員「ウッドソープ・チャールス・クラーク」は、アメリカ商社、ハード商会の社員で、事件の年に上海支局から横浜支局へ派遣されている。
この時二十八歳、肩に後遺症が残ったが、事件後も横浜で引き続き仕事に従事している。事件の後遺症だろうか、五年後に三十三歳という若さで亡くなっている。
「ウィリアム・マーシャル」は、開港された横浜に在住する生糸商人で事件当時は三十五歳であった。彼もまた横浜で仕事を続けている。亡くなったのは十一年後、四十六歳であった。
二人とも若くして亡くなっているのは、やはり事件の後遺症が原因だろうか?
2006年、彼ら二人の墓は、地元の有志が募った募金でリチャードソンの墓の脇に移設された。
それにしても、あれだけの事件の後も日本を離れず、結局、異国の地に骨を埋めたというは、どういう訳だろう?長時間の船旅に耐えられない傷だったのか、よほど日本が気に入っていたのか、それとも、商売繁盛で帰るに帰れなかったのか…。
生糸を商っていたというマーシャルが気になった。
絹の道をゆく-5 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
またまたドラマの話で恐縮だが、日曜夜九時からやっている日曜劇場『JIN-仁』が面白い。
「脳外科医が、幕末の江戸へタイムスリップしてしまい、満足な医療器具も薬もない環境で江戸時代の人々の命を救う」という、漫画が原作の、いわゆる歴史SFという荒唐無稽な話なのだが、これが中々見応えがある。正直、大河ドラマよりも時代考証など丁寧に制作されている。幕末の江戸の写真と現代の同じ場所の写真をオーバーラップさせて対比させるという、テレビ版「わが町今昔」風のオープニングも好い。
坂本龍馬や勝海舟、緒方洪庵といった実在の人物も登場するが、役者の演技も上手いので、違和感が無い。因みに、坂本龍馬役の内野聖陽(まさあき)さん、「風林火山」の山本勘助の時から注目している大好きな役者さんだが、港北区出身で、実家は小机駅前の「雲松院」。小田原北条氏ゆかりの由緒あるお寺だそうだ。
何故いきなりドラマの話になるのかというと、このドラマで、主人公の医者がタイムスリップする年代が、まさに「生麦事件」があった文久二年(1862)なのである。
当時、江戸の町は、コレラが大流行している。これを主人公が現代医学の知識を使って治していくというストーリー。舞台が江戸ということで、今後、生麦事件が描かれるかは不明であるが(原作には、それらしい箇所が出てくるらしい…すみません。まだ原作読んでいないものですから)
これからの展開が大いに気になる番組であることは間違いない。
薩摩人の評価
さて、慰霊祭も自顕流の演武も無事終了し、生麦参考館において酒席が用意され、出席者に料理が振る舞われた。
宴もたけなわの頃、一人の男性がスクッと立ち上がるなり、山階宮晃親王(やましなのみや あきらしんのう)が詠んだという七言絶句を朗々と吟じ始めた。
親王が明治初期に「老将」(=島津久光)の事件を回顧されて詠んだ「薩州老将髪衝冠」で始まる漢詩で、参考館の中庭に石碑が建てられている。
歌碑の資金を提供したのは薩摩藩士の子孫の方で、除幕式には、薩摩藩士の子孫の方が三十人ほど訪れたそうである。
鹿児島で浅海館長の講演を聴いたという方が何名かお見えになっていた。皆さん、講演を聴くまでは、「短慮な薩摩人が、戦争につながるような、とんでもない事件を引き起こした」という認識だったそうで、鹿児島県人が明治維新を語る場合でも、生麦事件の話は自然と避けていたという。館長の講演を聴いて認識が改まったと、ビールを飲みながら笑っておられた。
意外であった。生麦事件のような過激な行動こそ、薩摩隼人の面目躍如ではごわはんか!と誇りにしていると思った。
鹿児島といえば、西郷どんの人気は絶大である。次が島津斉彬だろうか、篤姫も大河のおかげで人気急上昇。同時に若き家老、小松帯刀(たてわき)も高く評価されている。
彼の場合、西郷・大久保の後ろに隠れて評価が低すぎたのだ。
生麦事件のあと、彼の冷静な判断が、外国人居留地と薩摩藩の一触即発の事態を回避できたのだし、薩長同盟も彼の聡明さあってこそだ。
こんなことを書くと、薩摩人に怒られそうだが、西郷や斉彬の人気は、多分に小説やドラマの影響のような気がする。特に西郷という人物は、謎めいていて、本性が分かりにくい。写真も残っていないし、隠密として働き、権謀術数で薩摩藩を誘導していったというイメージが(あくまでも、自分の評価だが)拭えない。
相楽 総三(さがら そうぞう)率いる赤報隊を使い捨てにした件といい、『敬天愛人』の思想と相反する行動、イメージとの乖離は否めない。
評価できるといえば、生麦から薩英戦争におけるイギリスと薩摩、幕府と薩摩のやりとりを見てみると、薩摩藩の外交担当者の能力の高さには驚かされる。外国人相手に堂々と交渉するその姿は、小気味いい。今の政治家にも見習ってもらいたいものだ。この辺りの描写は、吉村昭著「生麦事件」に詳しい。
明治維新の立役者は有名人だけが活躍したのではない!ということが、よく分かる。
つづく
外人墓地に眠る三人
今も執筆活動の傍ら、研究者として活動をされている浅海館長。10年ほど前、講演会の謝礼の中から、約400万の修繕費を出して、事件で死亡したリチャードソンの墓を改修された。
当時、草は生い茂り、墓石の痛みも激しかったそうだ。
重傷を負った三人は、事件の後、どうなったのか?
まず、無傷だったマーガレット・ワトソン・ボラディル夫人(香港のイギリス人商人トマス・ボラディルの妻)だが、彼女は事件後、香港からイギリスに帰国した。
のちに娘を出産したが、難産のため亡くなったと伝えられる。事件から8年後というから、まだ三十六歳である。 事件当時が二十八歳、精神的なトラウマがあったことは想像に難くない。
横浜のイギリス人会社員「ウッドソープ・チャールス・クラーク」は、アメリカ商社、ハード商会の社員で、事件の年に上海支局から横浜支局へ派遣されている。
この時二十八歳、肩に後遺症が残ったが、事件後も横浜で引き続き仕事に従事している。事件の後遺症だろうか、五年後に三十三歳という若さで亡くなっている。
「ウィリアム・マーシャル」は、開港された横浜に在住する生糸商人で事件当時は三十五歳であった。彼もまた横浜で仕事を続けている。亡くなったのは十一年後、四十六歳であった。
二人とも若くして亡くなっているのは、やはり事件の後遺症が原因だろうか?
2006年、彼ら二人の墓は、地元の有志が募った募金でリチャードソンの墓の脇に移設された。
それにしても、あれだけの事件の後も日本を離れず、結局、異国の地に骨を埋めたというは、どういう訳だろう?長時間の船旅に耐えられない傷だったのか、よほど日本が気に入っていたのか、それとも、商売繁盛で帰るに帰れなかったのか…。
生糸を商っていたというマーシャルが気になった。
絹の道をゆく-5 へ続く
生麦事件について解説をされる浅海武夫館長(79)。
残念ながら『生麦事件参考館』は、2014年5月3日に閉館となってしまいました。
残念ながら『生麦事件参考館』は、2014年5月3日に閉館となってしまいました。
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-3 高丸コレクション
■プロローグ Vol.3
演武による慰霊
「チエェェェェーイ!」
甲高い奇声が生麦商店街の路地裏にこだまする。猿叫(えんきょう)、薬丸自顕流の独特な気合である。
慰霊祭を終えたあと、参加者一行は、場所を生麦事件参考館前の路地に移動した。
参考館の門の前には、白い道着に紺の袴の男性七名と女性一名が並ぶ。全員が素足で、通常の木刀を更に太く長くした棒(ゆすの木で拵えた木刀)を手にしている。
先頭の若者が、その木刀を天に向かって突き上げ、腰を落としたかと思うと、猿叫を発しながら、目の前の立木に向かって駆けて行き、その蜻蛉(とんぼ)と呼ばれる独特な姿勢から、続けざまに立木に向かって棒を打ち下ろす。
初めて生で見る自顕流の立木打ち(横木打ち)。その迫力たるや凄まじい。
「薩摩の初太刀をはずせ」と、新撰組の近藤勇も恐れた自顕流の打ち込みは、この単調な稽古を一日に何千回と繰り返すことによって生み出されたのである。
立木打ちに続いて、長棒との組み手「槍止め」の演武があり、最後に「抜き」と呼ばれる技が披露された。
腰に差した状態から、一瞬の素早さで斬り上げる。『抜き・即・斬』、すなわち、抜いたときには、すでに相手を斬っているという電光石火の早業だ。
最初に六名が、ゆすの木刀で、次に上級者らしい二人が、真剣で「抜き」を披露した。目の前で刀を抜かれると、さすがにゾッとする。
リチャードソンが負った致命傷もこの「抜き」によるものである。実践に即した剣法、端的に言ってしまえば殺人剣だ。もちろん、彼らが人を斬るために、自顕流を習っているわけではない。
「気概」の養成、「長幼の序」の精神、真髄を探求し、先人の「遺風」を後人に伝える。自ら「充実」して他人を犯さず。といった心得を実践するために、日々精進しているのは、その顔つきを見てもわかる。
すべての演武を終了すると、参加者だけでなく、何事かと見物にきた近所の方からも、拍手がわき上がった。
自顕流によって命を落とした英国人リチャードソンの慰霊祭で、こうした激しい演武を行うのはいかがなものか?と眉を顰める人も確かにいる。
だが今回、自顕流の演武を実際に目撃できたことは自分にとっても、慰霊祭に参列した人たちにとっても、意義のあることだったと思う。
なぜなら、生麦事件こそ「尊皇攘夷」をスローガンに掲げていた幕末の志士たちが「開国」へと180度舵をきりかえた端緒となった重要な出来事だからである。
だからこそ、開国博でやってほしかった!
「開国は、一滴の血を流すこともなく平和に行われた」と嘯くプロデューサー氏に見てもらいたかった。
近代国家成立の原点
故、吉村昭氏の著書「生麦事件」の解説に、「生麦事件こそ、明治維新への六年間の激動のかたちを作った原点であり…歴史の特定の事件をこえて、一般の、普遍的な戦争、政争、人間の生き方について考えを及ぼす契機をもつ」と記されている。
「桜田門外の変を、歴史を躍進させた事例として評価する」
幕末に起きた様々な暗殺事件を否定しながら、こう語ったのは、故、司馬遼太郎氏である。そういう意味では、この生麦事件も歴史の流れを変えた事例として評価すべき出来事だといえるのではないだろうか。
吉村氏の著書は極めてフィクションが少ない。綿密な取材に基づいた事実のみが淡々と書き記されているだけである。それでいて、読者を疲れさせないのは、リアルな臨場感と登場人物の細かい感情の動きまで描写されているからだろう。
「生麦事件」のあとがきには、生麦事件の地道な研究者である浅海武夫館長を評価する文が記されていた。
生麦で酒屋を営んでいた浅海さんが生麦事件の資料を集めるきっかけになったのは、鹿児島の男性からの一通の手紙に書かれていた「日本の近代国家成立に至る重要な事件なのに、資料館がなぜないのか」という質問であった。
以来、仕事の合間に、神田の古書店に通い、地元で起きた歴史的大事件の資料や文献を探して歩くようになった。
事件を報じたイギリスの新聞があると聞けば、ロンドンの古書店に連絡し、それを入手。先月号で書いた『甦る幕末 ライデン大学写真コレクション』の表紙の写真は、オランダの博物館に交渉し、十ヶ月かけて取り寄せた。
二十年間で集めた資料は約一千点。平成六年に、自宅を改造し、集めた資料を展示する参考館を開設した。
それだけではない、還暦を過ぎ、酒屋の経営を退いたあと、早稲田大学で十年、大阪市立大学で二年、近代日本史を勉強されたというから畏れ入る。
絹の道をゆく-4 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
演武による慰霊
「チエェェェェーイ!」
甲高い奇声が生麦商店街の路地裏にこだまする。猿叫(えんきょう)、薬丸自顕流の独特な気合である。
慰霊祭を終えたあと、参加者一行は、場所を生麦事件参考館前の路地に移動した。
参考館の門の前には、白い道着に紺の袴の男性七名と女性一名が並ぶ。全員が素足で、通常の木刀を更に太く長くした棒(ゆすの木で拵えた木刀)を手にしている。
先頭の若者が、その木刀を天に向かって突き上げ、腰を落としたかと思うと、猿叫を発しながら、目の前の立木に向かって駆けて行き、その蜻蛉(とんぼ)と呼ばれる独特な姿勢から、続けざまに立木に向かって棒を打ち下ろす。
初めて生で見る自顕流の立木打ち(横木打ち)。その迫力たるや凄まじい。
「薩摩の初太刀をはずせ」と、新撰組の近藤勇も恐れた自顕流の打ち込みは、この単調な稽古を一日に何千回と繰り返すことによって生み出されたのである。
立木打ちに続いて、長棒との組み手「槍止め」の演武があり、最後に「抜き」と呼ばれる技が披露された。
腰に差した状態から、一瞬の素早さで斬り上げる。『抜き・即・斬』、すなわち、抜いたときには、すでに相手を斬っているという電光石火の早業だ。
最初に六名が、ゆすの木刀で、次に上級者らしい二人が、真剣で「抜き」を披露した。目の前で刀を抜かれると、さすがにゾッとする。
リチャードソンが負った致命傷もこの「抜き」によるものである。実践に即した剣法、端的に言ってしまえば殺人剣だ。もちろん、彼らが人を斬るために、自顕流を習っているわけではない。
「気概」の養成、「長幼の序」の精神、真髄を探求し、先人の「遺風」を後人に伝える。自ら「充実」して他人を犯さず。といった心得を実践するために、日々精進しているのは、その顔つきを見てもわかる。
すべての演武を終了すると、参加者だけでなく、何事かと見物にきた近所の方からも、拍手がわき上がった。
自顕流によって命を落とした英国人リチャードソンの慰霊祭で、こうした激しい演武を行うのはいかがなものか?と眉を顰める人も確かにいる。
だが今回、自顕流の演武を実際に目撃できたことは自分にとっても、慰霊祭に参列した人たちにとっても、意義のあることだったと思う。
なぜなら、生麦事件こそ「尊皇攘夷」をスローガンに掲げていた幕末の志士たちが「開国」へと180度舵をきりかえた端緒となった重要な出来事だからである。
だからこそ、開国博でやってほしかった!
「開国は、一滴の血を流すこともなく平和に行われた」と嘯くプロデューサー氏に見てもらいたかった。
近代国家成立の原点
故、吉村昭氏の著書「生麦事件」の解説に、「生麦事件こそ、明治維新への六年間の激動のかたちを作った原点であり…歴史の特定の事件をこえて、一般の、普遍的な戦争、政争、人間の生き方について考えを及ぼす契機をもつ」と記されている。
「桜田門外の変を、歴史を躍進させた事例として評価する」
幕末に起きた様々な暗殺事件を否定しながら、こう語ったのは、故、司馬遼太郎氏である。そういう意味では、この生麦事件も歴史の流れを変えた事例として評価すべき出来事だといえるのではないだろうか。
吉村氏の著書は極めてフィクションが少ない。綿密な取材に基づいた事実のみが淡々と書き記されているだけである。それでいて、読者を疲れさせないのは、リアルな臨場感と登場人物の細かい感情の動きまで描写されているからだろう。
「生麦事件」のあとがきには、生麦事件の地道な研究者である浅海武夫館長を評価する文が記されていた。
生麦で酒屋を営んでいた浅海さんが生麦事件の資料を集めるきっかけになったのは、鹿児島の男性からの一通の手紙に書かれていた「日本の近代国家成立に至る重要な事件なのに、資料館がなぜないのか」という質問であった。
以来、仕事の合間に、神田の古書店に通い、地元で起きた歴史的大事件の資料や文献を探して歩くようになった。
事件を報じたイギリスの新聞があると聞けば、ロンドンの古書店に連絡し、それを入手。先月号で書いた『甦る幕末 ライデン大学写真コレクション』の表紙の写真は、オランダの博物館に交渉し、十ヶ月かけて取り寄せた。
二十年間で集めた資料は約一千点。平成六年に、自宅を改造し、集めた資料を展示する参考館を開設した。
それだけではない、還暦を過ぎ、酒屋の経営を退いたあと、早稲田大学で十年、大阪市立大学で二年、近代日本史を勉強されたというから畏れ入る。
絹の道をゆく-4 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次