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2021年04月02日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-16 高丸コレクション >>

■八王子編 Vol.4

浅川の治水と歴史
片倉製糸の回想はこれくらいにして、ふたたび2010年(平成22年)の萩原橋に戻る。

眼下を流れる浅川は、高い橋の上からでも川底の石が確認できるほど澄んでいる。この水の清らかさには理由がある。通常の都市河川のように土手をコンクリートで固めず、葦などの水生植物を繁殖させているからだ。

こうした環境対策は、水質の改善だけでなく、水の勢いを抑える治水の効果もある。

浅川-1.jpg


浅川は、これまで何度も氾濫を繰り返してきた。

天正19年(1591年)、徳川家康から八王子(後に横山)に所領を与えられた大久保石見守長安は、真っ先に宿場の建設と浅川の氾濫を防ぐための堤防を築いたという。

長安の官名をとって「石見(いわみ)土手」と名付けられた。その堤防の一部が市内千人町の宗格院(そうかくいん)という寺に残っている。

また、丸太を三角形に組んだ「聖牛(せいぎゅう)」と呼ばれる治水用具が江戸時代に設置されている。聖牛は、信玄堤で知られる甲州流の伝統的治水工法。おそらく、長安と同じ武田家の旧臣であった八王子千人同心たちが持ち込んだのであろう。

聖牛石見土手.jpg


浅川の源流は、八王子市と神奈川県相模原市緑区との境界にある陣場山(標高854.8m)。その麓に、詩人・中村雨紅が作詞した童謡「夕焼小焼」の舞台になった恩方村がある。

「あれっ?」地図を見て驚いた。萩原橋から上流方向に1kmほど歩くと南からやってきた支流の南浅川と合流するのだが、そこから先をなぞると浅川が消えて無くなるのだ。

調べたら、南浅川と合流する地点から上流にかけては「北浅川」と名前が変わるのだそうだ。楢原町付近で北浅川の河原に下りて歩いたことがあるが、北浅川という浅川の支流を歩いているのだと思っていた。

ちなみに、その付近からはメタセコイアの化石や、290万から210万年前に日本に生息していたというハチオウジゾウの化石が発見されている。



土方歳三の足跡
浅川を東方向に下れば、日野市石田で多摩川と合流する。日野の石田といえば、かの有名な新選組副長・土方歳三の生誕地だ。

歳三の生家は、多摩の「お大尽」と呼ばれるほどの豪農。副業として薬の製造販売を営んでいた。

売っていた薬は村の名を冠した「石田散薬」。打ち身、捻挫、筋肉痛はもとより、切り傷や骨折にまで効用があったという優れものの万能薬だ。

薬の原材料は、浅川の河原に生えている牛革草(ぎゅうかくそう)というタデ科の植物で、葉の形がソバの葉に似ていて、用水路の脇に生えていることからミゾソバとも呼ばれる。

刈り取りはなぜか土用の丑の日。バラガキ(乱暴者)と呼ばれた若き日の歳三が指揮を執り、石田村総出でミゾソバの刈り取りが行われたという。

(刈った草を乾燥させたあと黒焼きにし、薬研でおろして散薬にした。患者にはそれを熱燗の酒で一気に飲ませた)と、司馬遼太郎氏の小説「燃えよ剣」で紹介されている。

さらに(家伝「石田散薬」の行商をして武州はおろか、江戸、相州、甲州まで売り歩いた)と続く。

行商のかたわら剣術の道場を訪れ、薬と引き換えに剣術の手ほどきを受けていた…とあるから、後の世を見据えての剣術の修行でもあったのだろう。

石田散薬.jpg



甲州街道の日野宿から東へ行けば、布田、高井戸、内藤新宿の各宿場を経て10里(約40km)ほどで江戸日本橋へ出る。逆に甲州(山梨)方面には7里ほどで上野原の宿まで行ける。その途中に相州、現在の相模原市を通る。

南へは行かなかったのだろうか? 南とは、もちろん横浜方面である。

行った!…と思う。(武州はおろか)とは、武蔵の国は当たり前に行き来していたということだ。

浦賀にペリー率いる黒船艦隊が来航したのは1853年(嘉永6年)、横浜への来航は翌1854年だ。土方歳三この時18〜19歳、血気盛んなバラガキだ。行商の荷を担いで横浜まですっ飛んでいったに違いない。

使った道は当然、日野と横浜を結ぶ日野往還。現在の横浜上麻生線だ。鉄村、大場村、市ケ尾村…と、我が青葉区内を通る。途中、大山街道との交差点にある旅籠、現在も建物が現存する「綿屋」という旅籠に泊まったかも…なんて想像するだけで興奮する。

自分が幕末の歴史に興味を持ったのは小学校2年生の頃。テレビ時代劇『燃えよ剣』と『新選組血風録』を観たのがきっかけだ。土方を演じた栗塚旭の感情を抑えたニヒルな演技、冷徹な中にも優しさが隠されたその声。その渋いカッコ良さに子どもながら憧れたものである。
長じてからは新選組関係の小説、歴史読本を手当たりしだいに読んだ。

栗塚土方.jpg


二十代の頃は土方の足跡を訪ねて各地を旅して歩いた。日野の生家はもとより、新選組の屯所があった京都の壬生、官軍と戦った会津若松、さらに終焉の地である函館…。「滅びの美学」新選組の中でもひと際輝く人物だ。

浅川の川面を見つめていると、この清らかな流れの先に若き日の土方がいるような気がしてくる。

おっと話が脱線しすぎた。回想シーンの次は妄想シーンか!と、お叱りを受けそうなので現実に戻る。



萩原彦七の功績
萩原橋を渡りきったら、バス通りを北西に向かって歩く。通称「秋川街道」、八王子市街からあきる野市の五日市に至る主要地方道だ。正式には「東京都道32号八王子五日市線」という。地元に古くから住んでいる人に聞くと、かつては「五日市街道」と呼んでいたとのこと。

また、萩原橋ができる以前は「前田通り」と呼ばれていたらしい。その前田地区(現、中野上町)は、いたるところから清水が湧き出す農村地帯だったそうだ。その豊かな湧き水を利用して設立されたのが、萩原彦七による『萩原製糸工場』だ。

はじめは50人繰り(釜)の設備であったが、明治13年にフランス人シャモナールを招いて工場設備を100人繰りに増設。29年には250人繰りに増大した。これほど大規模な製糸工場は珍しく、明治天皇が東山道を御巡幸の際に、当時の参議を工場視察のために派遣されたことが宮内庁の日記に記録されている。

彦七氏はその後、養蚕伝習所を設けて生徒を養成したり、繰り糸の方法を書いた解説書の作成をするなど、製糸業の振興に精魂を傾けたという。

当然のごとく羽振りも良かったようで、工場の一画に湧き水を利用した池と庭園を造り、その池の中に数寄屋風の豪華な建物を建て、外国人との商取引に利用していた話や、自家用の二頭立て馬車に洋装で着飾った夫人を乗せ得意満面で八王子の街を押し回した話が残っている。

「行ってみたいよ中野の町へ 色で仕上げたあの機械」という歌が八王子の町中で流行したという。

外国人との商取引の成功は夫人による色仕掛けによるもの…という噂もあり、彦七夫妻を妬んだ市民が大勢いた事を伺わせる。

とはいえ、萩原橋の建設に総工費のほとんどを負担するなど、八王子の発展に寄与した最大の功労者であることは間違いない。

萩原彦七.jpg



わが国屈指の製糸工場を立ち上げ、八王子の発展のために私財を投げ売って貢献した彦七翁であったが、明治33年の生糸恐慌によって大きな打撃を受け、翌年、片倉製糸(当時は片倉組)に買収されてしまう。

晩年は不遇で、昭和4年、行路病者としてこの世を去った。享年80歳だったという。


つづく


※行路病者=飢えや疲れのため、道路上で倒れた、引取手のない病人


絹の道をゆく-17 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。

2021年03月19日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-15 高丸コレクション

■八王子編 Vol.3

いつか見た情景
飛び降りたのは、「西中野二丁目」の停留所。八王子駅から「川口小学校(武蔵五日市)行き」に乗り、萩原橋で浅川を渡って三つめのバス停だ。住所は八王子市中野上町4丁目になる。

(もしかして、見間違いだったのでは?)

慌てて降りたのはいいが、急に不安になってきた。とはいえ、降りてしまったいじょうしかたない。白線を引いただけの狭い歩道を対向車を気にしながら、バス通りを引き返す。

80メートルほど歩いたところでパッと視界が開けた。民家が途絶え、現れたのはだだっ広い駐車場。
その真ん中に…

「あった!」

車窓からチラリと見えた、あの建物だ。間違いない。

Hachio-ji-1.jpg


切妻造りの木造二階家、茶色い板壁、ガタピシと音がしそうなガラス窓…、一棟だけかと思ったら、同じ形の建物がもう一つ隣に並んでいた。映画のセットではない、リアル「三丁目の夕日」だ。

なんて思うわけはない。それを見つけたのは1990年代はじめ、まだ映画「ALWAYS三丁目の夕日」は上映されていない。

とはいえ、まさしく昭和レトロ。懐かしさに引き寄せられるように駐車場の中へと踏み入っていた。。
今時珍しい舗装されていない砂利の駐車場。ジャリッ!ジャリッ!という足音がスイッチになったのか、さっき網膜に映し出された8ミリフィルムの映像がふたたび目の前に現れた。

いや、8ミリじゃない。今度は鮮明なビデオ映像だ。

広がる田んぼ、その中に建つ三角屋根の黒い工場。隣には、それに負けないくらいの大きな屋敷。あたりに漂う毛糸の香り…。

思い出した。ここは愛知県の一宮(いちのみや)だ。正確には、東海道線・木曽川駅の東側の田舎町。

愛知県の一宮については、「横浜編 Vol.4」の原三渓の故郷を紹介する回で紹介した。

小学校の頃、春と夏の休みには、名古屋から一時間ほどかけて、その一宮の従姉妹(いとこ)の家に泊まりがけで遊びに行っていた。現れた映像は、確かにその当時の風景だ。

頭がおかしいと思われるといけないので説明させていただく。信じられないかもしれないが、目を開けて他のものを見ているのに、視界の端っこの方に、まったく違う景色が見えることがある。それは例えば、旅先の町並みだったり、電車の車窓の風景だったり…しかも、飛んでいく山や川ばかりか看板の文字まではっきり読める。

おそらく、過去に見た記憶がフラッシュバックされるのだろう。

あ、やっぱり頭がおかしいのかもしれない。

この時も、田んぼの脇の用水路でザリガニやカエルを捕まえた時の情景や、藁を集めて田んぼの畦に造った秘密基地。土筆(ツクシ)の袴を取らされて、指が真っ黒になって皆で大笑いしたことなどが、ビビッドな映像となって現れた。

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あの時、小学校の担任(もちろん、女の先生)に、花飾りをプレゼントしようとレンゲ草を摘んだっけ。結局、持っていったときには枯れてしまってたけど…。

いや、そんなことはどうでもいい。

この建物だ。小学校の頃の木造校舎に似ているが、近寄ってまじまじと眺めると、そのとんでもない大きさに圧倒される。二階建てだが高さは三階建てくらいあろうか。そう思って屋根の上を見ると、採光のためなのか、もう一つ小さな屋根がのっかっている。

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それが養蚕農家の屋敷などに見られる「越(こし)屋根」だというのは後で知った。


日本機械工業株式会社
建物の反対側に回ると、入口に『日本機械工業株式会社 第一南秋寮』という看板があった。

(あ、会社の寮だったんだ!)

ぐるっと一周してみたが、昼間だからなのか住んでいる人の気配はない。

確かこの駐車場の道(秋川街道)を挟んだ向かい側にあったはず。墓参の帰りのバスで横を通った時に記憶していた。

気になると、とことん調べたくなるのが私の悪い癖。せっかくなので、会社を訪ねて話を聞いてみることにした。

バスで通過した時は気づかなかったが、日本機械工業の門構えも、守衛室のある門も、その向こうに見える事務所らしき建物も年季が入っている。こちらもまた昭和の香りがプンプンのロケーションだ。

門の前を流れる小川と桜の木がさらに趣を出している。松竹だったか,大映だったか忘れたが…昔の映画の撮影所が確かこんな感じ。しばし見惚れてしまっていた。

ん?敷地の奥に消防車が停まっている。しかも、一、二、三台。まさか、本当に映画の撮影所じゃないよね。

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「すいません。ちょっといいですか?」

門の横の守衛室に声をかけると、現れたのはとても穏やかで紳士的な守衛さん。

その雰囲気から、いかつくて無愛想な守衛さんが出てくるんじゃないか…と想像していたので、少しホッとした。

日本機械工業というから、てっきり機械部品を作っている会社だと思ったら、消防車の製造している会社なのだそうだ。しかも、世界初の消防自動二輪をはじめ、はしご車や化学消防車など、国産消防自動車のトップメーカー。そんなことも知らずに、のこのこ訪ねてきた自分が恥ずかしい。

「失礼しました。じつは駐車場の建物が気になりまして…伺ったんですけど。アレ結構古いですよね」

「古いですよ、八王子セイシジョの頃からのものですから」

同じような質問が今までにもあったのだろう、駐車場の建物のことを尋ねると、即答で返ってきた。しかし、セイシジョの意味が分からない。

「製糸。糸です。繭から生糸をつくる会社ですよ」

「ああ、そうですか。糸をつくる会社ですね」

糸を作る会社と聞いて、なぜ一宮の映像がよみがえってきたのか…その理由が分かった。

一宮にあった従姉妹の家は、紡績工場と撚糸工場を経営していた。

立ち並ぶのこぎりの歯の形をした三角屋根の工場。

むせ返るような糸の匂い。そうそう、木製の糸巻きは、子どもたちの恰好のの遊び道具だった。

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蚕の繭から糸をつくる製糸と、綿や羊毛といった短繊維から長い糸をつくる紡績の違いはあるが、どちらも「織物の町」。八王子製糸所と呼ばれるあの木造の建物が、自分の頭の中にあるビデオデッキの再生ボタンを押し、紡績工場とその周辺で遊んでいた頃の映像をよみがえらせてくれたのだ。

横浜編で原三渓の出身地・岐阜県柳津を紹介した時に、「一宮も柳津と同様に古くからの綿織物の産地である」と書いたが、じつは、一宮が「綿織物・毛織物」に移行したのは明治以降のこと。江戸時代は絹織物が盛んに行われていたのである。

地名の由来である尾張一の宮「真清田(ますみだ)神社」には、摂社として「服織(はとり)神社」が合祀され、萬幡豊秋津師比賣命 (よろずはたとよあきつしひめのみこと)という名の機織りの神様が祭神として祀られている。名前の「萬幡」は多くの織物を表し、「豊秋津」は穀物が豊かに実る秋、「師」は上質で美しい布を作る技師のこと、そして比賣命は女神。つまり、生糸で機を織る女性の神様だ。

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毎年7月に、その機織りの神様に感謝する「おりもの感謝祭」が開催される。仙台、平塚と並ぶ日本三大七夕まつりの一つ「一宮の七夕まつり」とは。この「おりもの感謝祭」のことなのである。

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ミス七夕やミス織物による「人力車七夕道中」や、神社に毛織物を奉納する「御衣奉献大行列」などが行われ、例年大勢の見物客で賑わう。もちろん自分も、子どもの頃に何度か連れて行ってもらっている。

日本機械工業の創業は大正11年と古い。横浜市鶴見区から八王子に工場を移したのは昭和18年で、それ以前は片倉製糸の工場『八王子製糸所』だったという。

「駐車場にも古い建物がありますね」

「ああ、あれは蚕を育てていた建物ですよ」

「蚕…、よ、養蚕っていうことですね」

「そう聞いています」

昭和12年(1937)に建てたられたものだそうで、間口9m、奥行き25mあるのだと…こちらも用意されてたかのように数字まで詳しく教えてくれた。

片倉製糸は、昭和5年に栽桑研究所(試験場)をすぐ近くの川口村に建設して、蚕に食べさせる桑の品種や土壌、肥料などの研究も行っていたのだという。

「川口村…ですか?」

これから行く霊園のあるバス停が「川口小学校前」だったよな…と、思い出したが、この時はそれほど気に留めることもなく、いつしか栽桑研究所のことも忘れてしまっていた。

これが片倉製糸との最初の出会い。

地名推理ファイルの連載を開始したのは、その10年後。「絹の道」に興味を持ち、その歴史を追いかけることになるのは、さらに7年後のこと。

まさか、この時に聞いた「片倉製糸」の名前が、絹の道を調べる上で重要なキーワードになろうなどと思いもよらなかった。

今考えると、片倉との第一次接近遭遇は単なる偶然ではないような気がする。それは、意味のある偶然の一致、そう!シンクロニシティ!

次回、その摩訶不思議な偶然に戦慄する!

つづく



絹の道をゆく-16 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。

2021年03月12日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-14 高丸コレクション

■八王子編 Vol.2

男軍人、女は工女
司馬遼太郎氏の小説は、そのほとんどを二十代の頃に読んだ。特に『坂の上の雲』は、寝るのも忘れるほど夢中になった。

「世界最弱」といわれた陸軍騎兵隊を鍛え上げ、強敵ロシアの「コサック騎兵隊」を撃退させた秋山好古(よしふる)。

類まれな戦略で、ロシア・バルチック艦隊を撃破した日本海海戦の首席参謀、秋山真之(さねゆき)。


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二人の主人公だけでなく、日本が壊滅するという危機的状況を見事回避した、高潔で志の高い政治家や軍人。祖国を守るために死地に飛び込んでいった無名の兵士たち。

明治を生きた男たちに対する敬慕と感謝の念、それが文庫本全8巻を読み終えたあとの偽らざる感情であった。
今もその気持ちは変わっていない。いないが…こうしてテレビドラマになり、それなりに人気を博してくると、「それでいいのか?」という批判精神がムクムクと首をもたげてくる。悪い癖だ。

日露戦争のわずか13年前、清国の提督・丁汝昌(ていじょしょう)が最新鋭の巨大艦6隻を率いて日本を恫喝するためにやってきた。この時、我が国の海軍力は、イギリスから買った小さな鋼鉄艦「扶桑」がたった一隻、あとは木造船という貧弱な海軍力だった。

しかし、その三年後。日清戦争勃発時の日本海軍の兵力は、驚くべきことに五十五隻を擁する強力な連合艦隊を編成するまでになっていた。

そして、三回にわたる大海戦で清国海軍を全滅させた。

これが日露の戦いの時には、百五十二隻。およそ三倍の兵力になっている。

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奇跡ともいえる長足の進歩の理由は、欧米からの借金(ユダヤ資本)であることは確かだ。

日露戦争の費用は総計で19億8612万円。当時の国家予算は8年分である。その内の4分の3は借金によって補ったといわれている。

さらに、外貨獲得のために政府が力を注いだのが産業革命と貿易である。
その貿易、明治から昭和の初めに至るまで、最大の輸出商品となったのが、まさに生糸だったのである。

当時、日本の輸出量の80%近くを生糸が占めていた。生糸が日本の経済を担っていたといっても過言ではない。全国数百万という、幼い工女たちが劣悪な環境の中で、命懸けでひいた糸が外貨を稼ぎ、それが軍艦や大砲に姿を変えていったのだ。

『あゝ野麦峠』の著者は(どこでどう狂ったのか、いつの間にか大事なことが忘れられて、『大和魂』にすり替えられてしまった)と嘆く。

この『絹の道』の第一回プロローグが調所一郎氏からの電話から始まったのも、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)だったのかもしれない。

彼の先祖である薩摩藩家老・調所笑左衛門廣郷(ひろさと)。彼もまた、成し得た仕事を評価されずに非業の最期を遂げた。

五百万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前だった薩摩藩の財政を立て直し、かつ財政改革および軍制改革を成功させ、明治維新を成し遂げる財力を蓄えたにもかかわらず、維新の英雄…西郷、大久保と敵対した極悪人というレッテルを貼られたのだ。

日本人というのは英雄が大好きである。スポットライトを浴びる表舞台の役者ばかりを称賛して、彼らを引き立たせるために、地道に仕事をしている裏方をないがしろにする。

大河ドラマがいい例だ。信長や秀吉や家康、源義経や伊達政宗は主人公になるが、それを影で支えた人々がどれだけ功績を残してもドラマにならないし、なったとしても視聴率は低い。ましてや庶民の活躍となると歯牙にもかけない。自分のような天の邪鬼でひねくれた性格の人間としては、なんとも腹立たしい。

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男軍人女は工女 糸をひくのも国のため

軍人ばかりが戦争をしてきたのではない。銃後の片隅で、必死に生きてきた工女たちもまた戦っていたのだ。このことを書かずして、「絹の道」など笑止千万。ドラマ『坂の上の雲』をご覧になる方は、是非そのことを念頭に入れて観ていただきたい。


八王子の街道
甲州街道(国道20号)が八王子駅の北をJR中央本線と平行して走っている。

横山町、八日町、八幡町、左右に商店が立ち並ぶバス通りを中心とした地域が、大久保長安が造った甲州街道最大の宿場町『八王子横山十五宿』である。

途中、本郷横丁東の交差点を左に入ると、路地の先に大久保長安の陣屋跡がある。中央本線の線路近くにある産千代稲荷(うぶちよいなり)神社がそれだ。

古い宿場だっただけに、周辺にはこうした史跡があふれている。

甲州街道をさらに西に行くと、追分町の交差点付近で二又に分かれる。陣場街道だ。

交差点には、文化八年(1811)江戸の足袋職人が高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に建てたといわれる道標が建っていた。

道標から陣場街道を少し進むと、今度は『八王子千人同心屋敷跡』の記念碑がある。

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千人同心とは、甲州口の警備と治安維持のために配置された半農半武の幕臣集団のこと。 甲斐の武田家が滅んだ際の遺臣たちを中心に編成された。

ちなみに、陣場街道の名前の元になった陣場山は、武田信玄が陣を置いたことから名づけられた。

甲州街道を戻り、本郷横丁の交差点を秋川街道に入る。墓参りに行くのに年二回バスで通る道だ。

交差点から北に500mほどで、浅川という川を渡る。

いつだったかバスを降りて歩いた時に、その橋の欄干とタイルに機織り機の絵柄が描かれているのを発見した。その時はあまり気にも留めなかったが、改めて調べてみると面白いことが分かってきた。

橋の名前は「萩原橋」という。

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明治三十三年、この地に製糸工場を営む萩原彦七という人物が、架設費用1万3千円(当時)を負担したことから、その名が付けられた。

明治十年、八王子初の器械製糸工場を創業。一時は「製糸王」と呼ばれるほどに成功した彦七だったが、大恐慌により大打撃を受け, 工場は明治三十四年に信州の片倉製糸に買収された。

ここで再び「片倉製糸」が登場する。

それに関連した建物が川を渡った先(中野上町)にある。見つけたのは、ずいぶん昔のことだ。

バスの窓のむこうに、そいつが現れたときの衝撃…。幼き日々の情景が、まるで8ミリ映画のように網膜の裏に映し出され、気がついら降車ブザーを押していた。
 

つづく



絹の道をゆく-15 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。

2021年02月26日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-13 高丸コレクション

■八王子編 Vol.1

プロローグから横浜編と、全12回にわたって幕末から明治期にかけての横浜の歴史と生糸に賭けた商人たちの活躍についてご紹介した。当時の時代背景や、生糸(絹)についての諸事情など、多少なりとも知っていただけたのではないだろうか。

本来なら終点から絹の道を遡りながら源流を目指すところだが…プロットも無く行き当りばったりで執筆している関係上、この先どこでどう道が逸れるか…果たして何年かかるかまったく見当がつかない。

源流である八王子に辿り着いたときに終点・横浜のことを忘れてしまっている(筆者自身が…)という可能性が非常に高い。なので、まずは終点・横浜から一気に八王子に飛ぶことにした。

織物の街・桑の都
八王子には私の父方の実家(宮澤家)の墓がある。元々は長野県の善光寺にあったのだが、長男である伯父が亡くなり、親戚兄弟のほとんどが東京に居を移したということで、二十年ほど前に八王子の川口町にある墓苑に改葬した。

以来、年二回のお彼岸には墓参を欠かさない。八王子の街は大きい。自然も豊富だし、公共施設も充実している。何より歴史が深い。行けば必ず周辺の史跡や城跡を訪ね、河原で遊び、美術館などで心の洗濯などをする。

墓参に通い始めて二十年あまり、八王子駅周辺の風景もずいぶんと様変わりした。

特に北口、バスロータリーの上に「ペデストリアンデッキ」と呼ばれる歩行者専用の立体回廊が出来たことで駅前の雰囲気が一変した。

こうした構造の通路が最初に造られたのは千葉の柏駅(常磐線)だそうだ。今では日本全国あらゆる駅で採用されている。一番大きいのは仙台駅、身近なら溝の口や新百合ヶ丘の駅前を想像していただければ話が早い。

このデッキが出来たことによって、駅前の渋滞が緩和され、歩行者の安全が確保された。それと同時に、八王子の街の歴史と文化をひと目で知ることができる大切なシンボルがひとつ消滅した。 

巨大な和蝋燭を立てたような、まっ白なモニュメント。そこには「織物の八王子」と大書されていた。

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通称「織物タワー」、昭和三十五年に建てられ、八王子市民はもとより八王子駅に降り立った大勢の人に親しまれたシンボルタワーだ。

現在、タワーの代わりに絹織物をかたどった虹色のオブジェがデッキの上に設置されている。だが、このオブジェを見て「ああ、八王子は絹織物の街なんだね」と思う人がどれほどいるだろうか?

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八王子は、「桑の都=桑都(そうと)」という美称で呼ばれている。

鎌倉時代初期の僧侶で歌人の西行が「浅川を渡れば富士の影清く 桑の都に青嵐吹く」と詠んだくらいだから、その歴史は古い。奈良平安の頃から桑の栽培や養蚕が行われ、その美称が定着していたのだろう。

生産品としての八王子織物の起源は戦国時代。北条氏康の三男・氏照の居城「滝山城」の城下で市が開かれ、そこで取引されていたという。

その後、徳川幕府の代官で甲州街道筋を担当した大久保長安が開設した横山十五宿で、毎月四と八の日に市が開かれるようになると、周辺の村々から繭や生糸、織物などが集まるようになった。

絹織物の操業が本格的に始まったのも江戸時代である。京都西陣の高機(たかばた)という手織り機と、博多織(帯地)などの先進的な技法が 桐生、足利から移住してきた技術者によって伝えられ、近郊農家の副業として広まった。

山地と平地の境界で、生糸の原料が手に入りやすく、江戸という巨大な消費地が近いという地理的条件。それに先進的な技術が加わったことによって八王子の織物業は急速に発展したのである。

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八王子のペデストリアンデッキには、溝の口の「キラリデッキ」と同じように愛称が付いている。その名も「マルベリーブリッジ」、マルベリーとは「桑の実」のことだ。

北口の駅前の大通り、甲州街道(国道20号)との交差点の向こう側には、同じように桑の木が植えられている。

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街路樹に桑の木が使われているのは、全国でもここだけだ。街路樹の桑はどれも10数mある。桑畑のイメージから大人の背丈くらいしかないと思い込んでいたので、「桑並木通り」という標識を見るまでは、街路樹が桑だとは考えもしなかった。

片倉製糸
この桑の木は、昭和三十年に『片倉製糸』から寄贈された。

片倉製糸…現在の『片倉工業株式会社』である。下着、靴下から医薬品、自動車部品、ショッピングセンターなどなど、現在手広く事業を展開している片倉工業だが、その成り立ちは長野県岡谷の小規模な製糸場であった。

明治六年(1873)、長野県諏訪郡川岸村(現在の岡谷市)で、片倉市助なる人物が、自宅の庭で座繰り(ざぐり=ハンドルの付いた手動の糸繰り機)という製糸機を使って生糸作りを始めた。

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その五年後、跡を継いだ二代目片倉兼太郎(片倉佐一)は、時勢の流れを敏感に感じとり、三十二人繰りの洋式器械を取り入れ、垣外(かいと)製糸場を開設。

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明治二十八年には、それを拡張させて片倉組を立ち上げ、それを継承する形で『片倉製糸紡績株式会社』を設立した。東京に進出以降は、事業を拡大し、日本国内だけでなく海外にも業務を展開、一財閥を形成するに至る。

明治五年から昭和六十二年(1987)まで、およそ115年間操業を続け、現在世界遺産登録をめざしている『富岡製糸場』を最終的に引き受けたのも片倉製糸だ。(平成十七年、富岡市に寄贈)

※富岡製糸場は、2014年6月21日の第38回世界遺産委員会(ドーハ)で正式登録されました。

因みに、それ以前の所有者は、製糸商・原富太郎の 原合名会社である。

あゝ野麦峠
長野県岡谷の製糸工場といえば、映画『あゝ野麦峠』を思い出さずにはいられない。飛騨の農家から諏訪、岡谷の製糸工場へ出稼ぎにいく女工たちの姿を描いた作品だ。

吹雪の中を危険な峠雪道を越え、劣悪な環境の元で懸命に働く少女たち。病のため貧しい実家に連れ戻される途中で息をひきとった主人公の姿に多くの人が涙した。

確認しようとレンタル店に行って探したがどこにも無い。


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調べてみたら、DVDどころかビデオにもなっていないという。これほど有名な作品にも関わらずだ。仕方なく、朝日新聞社から出版されている原作(著者・山本茂実)を図書館で借りて読むことにした。 

小説だと思い込んでいたが、十数年にわたる取材、360人もの元女工や関係者に対する聞き取り調査。明治期の生糸輸出量から女工の賃金、就業時間等の資料も添えられた完璧なドキュメンタリー作品であった。いや歴史書といってもいいだろう。

『製糸工女哀史』という副題が付いているように、読みながら何度も涙をこぼした。

それ以上に衝撃的だったのは、文明開化の真実の姿に気づかされたことである。

明治維新以降、死に物狂いで先進国の仲間入りを目指した後進国ニッポンが富国強兵政策を推し進め、日清・日露戦争に勝利し近代的工業国家へと生まれ変わることができたのは何故か?

『坂の上の雲』を読んでいるだけでは決して知ることのできない庶民の歴史がそこに描かれていた。
 

つづく

2021年02月02日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-12 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.7

呪われた…絹の道
「八王子を起点とするシルクロードはこの八王子鼻をもって終点としていたに違いない。これは密貿易の舞台にふさわしい背景であった」

映画『男たちの大和』の原作者として知られる辺見じゅん氏の著書「呪われたシルクロード」の第三章「欲望の道」の項に、こう書かれている。

ノンフィクション作家の辺見じゅん氏(本名、眞弓)は、角川書店の創業者・角川源義氏の娘で、角川春樹氏の実姉にあたる。「呪われた―」は、昭和五十年に、当時三十六歳だった彼女が著した処女作だ。

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東京八王子市南部の鑓水(やりみず)という地で実際に起きた殺人事件を糸口に、幕末から明治に活躍した生糸商人たちの栄枯盛衰や、八王子周辺の養蚕・製糸・機織(はたおり)などに携わる人々の生活や人間模様が細かく描き出されている。

当時三十六歳の女性が書いたとは思えない綿密で徹底した取材と調査。「呪われた…」というタイトルが示すとおり、随所に漂う禍々しさに、なんともいえない遣る瀬なさを感じたが…、上質なドキュメンタリー映画を観ているような錯覚に陥りながら面白く読んだ。

冒頭の文章の後、「三渓園は、鑓水商人大塚五郎吉と手を結び絹長者になった原善三郎の女婿によるもので、思い出深き地に贅をつくした庭園を造ったのも、絹長者生涯の記念碑と見ればうなずける」と続く。

アメリカが横浜開港を迫ったのは、オランダと日本の絹商人の密貿易のルート【絹の道】が、多摩を通って横浜に達していることを知っていたからだとも書かれている。

丹念な取材と調査の結果なのだろうが、幕末の歴史が根底からくつがえる内容だ。

私に「三渓園の裏で、密貿易が行われていた」と示唆した郷土史の男性も、八聖殿で「八王子鼻は、八王子と横浜を結ぶシルクロードと、関係があるに違いない」と、頑なに自己主張していたという御仁も、たぶん、この本を読んでいたに違いない。 


「おはちおうじさま」と地元の人々に親しまれた八王子権現の碑の前に立ち、先ほど見た埋め立て前の本牧の航空写真を思い出しながら、遠い江戸時代の地形を想像してみる。

社が再建されたのは文久二年。その背景に密貿易が関係していた…というのだろうか?

「いや、まさか」わざわざ密貿易の証拠を残すわけがない。たぶん、偶然だろう。だとすると、八王子から絹の道を使って生糸を運んできた商人は、その偶然と因縁を、商売の成功に結び付けて大いに喜んだに違いない。

八人の王子
八王子、八王子といっているが、果たして八王子の意味を知っている人がどれほどいるだろう?

読んで字の如く「八人の王子様」のことだということくらいは分かる。

インド仏教では祇園精舎の守護神。日本人にとっては疫病や災厄を追い払う心強いが恐ろしい神さま、その名も牛頭天王。

牛頭天王は、地名推理ファイルには何度も登場したお馴染みの神様だ。

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八王子は、その牛頭天王が雨乞いの神・沙伽羅(しゃがら)竜王の娘との間にもうけた八人の子どもたちのことだという。彼らは、牛頭天王の眷属(けんぞく=主神に従属する神々)として、すべての人間の吉凶の方角を司り、病気や災厄を祓うと信じられた。

江戸時代、「てんのう」は天皇陛下のことではなく、牛頭天王のことであった。

全国各地に牛頭天王を祀る天王社が建てられ、人々は「天王さま」と呼んで親しんでいた。医療技術の乏しい時代、疫病を打ち払ってくれる牛頭天王は、人々の心の拠り所であったのである。

この事が権威確立を急ぐ維新政府の…というより、復古主義を唱える国学者たちの癇に障った。

彼らは、神仏判然令(神仏分離令)を策定し、天王社の祭神をスサノオノミコトに変えさせると、神社の名前も、八坂神社、八雲神社、素盞嗚神社などに変えさせたのである。

全国に勧請されていた八王子社も、当然同じ運命をたどる。本牧の八王子権現はどうか?と思い、合祀された本牧神社に行ってみたら、案の定、八王子大明神という名前に変わっていた。

牛頭天王=スサノオだけではない。仏教がらみの祭神がアマテラスなど、記紀神話の神に置き換えられた例は枚挙に暇がない。

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そういえば今夜(この文章を書いている日)は七夕であった。

七夕と記紀神話で思い出したが、古事記の中に、天の安川(天の川)に対峙したアマテラスとスサノオが、誓約(うけひ)を交わして、それぞれが子を産んで、勝ち負けを競う話が出てくる。

結果、アマテラスの珠から五柱の男神が、スサノオの剣から三柱の女神が生まれた。(この八柱の神々を八王子として祀っている神社もある)

七夕と機織り
「邪心がないからこそ、女の子が産まれたのだ〜」と、勝ちを宣言したスサノオは、喜びのあまり田畑を壊したり、台所に大便をまき散らしたりと大暴れ。あげくの果てに、生きたまま剥いだ馬の皮をアマテラスが仕事をさせていた機織り小屋に放り込んで、機織り女を殺してしまう。

これに怒り悲しんだアマテラスが岩屋に隠れてしまうのが、有名な「天の岩戸」の話だ。

スサノオはその後も、食べ物の神(オオゲツ姫)を殺すのだが、その神さまの頭から生まれたのが蚕である。機織りや養蚕の歴史というのは、それほど古い。

因みに七夕は、桃の節句や端午の節句と同様、中国から伝わった暦のうえの行事である。この行事が日本の「棚機都女(たなばたつめ)」の伝説(水辺に小屋を建てて、祖先に布を織って捧げる行事)と結びついた。

七夕と書いて「たなばた」と読むのは、そのせいだ。

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絹の道をゆく-12 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次

2021年01月29日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-11 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.6

船の上から撮影されたのだろう、本牧の海岸線が埋め立てられる以前の八王子鼻(本牧岬)の写真が『八聖殿郷土資料館』の壁に飾られていた。

岬の頂は樹木に覆われ、白っぽい断崖絶壁には、バームクーヘンのような地層が浮き出ている。

樹木の間から八聖殿の屋根が顔を覗かせているが、海上交通の山当てに使われたのは、大きく枝を張った松の木に違いない。

八王子権現社の参道入口は荒波が打ち寄せる場所にあったという。

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本牧の地名
東京湾に突き出た岬に「八王子権現が祀られていたんです」という郷土資料館の職員の方の説明に対して

「あ、なるほど。八王子の名前は権現様があったからですね」と返した自分の感想はじつに普通の反応で、

「ああ、よかった〜。分かってくれる人で…」と、ことさら喜ばれることではない。

何か異議を唱えられるとでも思ったのだろうか?

「いや、時々いるんですよ。『東京の八王子と関係があるんじゃないか?』と聞いてくる方が…。関係ありませんよ、と説明しても、『いや、八王子と横浜を結ぶシルクロードと、なにか関係があるに違いない』と自説を主張されて譲らない。本当に困りましたよ」

あ、そういうことか。八王子鼻の場所を確認したので、そういった類のお客さんと勘違いされたというわけだ。

「さらに『この近くに八王子道路があるじゃないか』とまで主張されて…。いやいや、あれも八王子という地名なんですよ…と説明したんですけどね」

それにしても、相当強い思い込みだ。思い込んだら他人の意見を聞かないという人は歴史愛好家には多い。聞かないどころか、他人の意見をせせら笑い、相手をグウの音も出ないくらいにやり込める。

話が逸れるが…、先日も「関東にはアイヌ語の地名なんて無い」と断言される方がいた。

「まだ分からないじゃないですか」と言っても、頑として譲らない。

アイヌ語研究の第一人者が「東北の白河以南にはアイヌ語は見つからなかった」と書いていた。というのが理由らしい。

「本当にそうか?」
自分も、青葉区の地名のいくつかをアイヌ語で解説してきた手前、そう断言されると不安になる。その第一人者の本とやらを借りて調べてみた。

そこには「アイヌ地名が、その昔は(白河以南に)あったにしても、失われてしまったのである」と、確かに書かれていた。しかし、末尾には「まったく無いとは言えない…今後の努力によって検出されていくだろう」と締めくくられている。

ようするに、自分は見つけられなかったが、後進の人たちの努力に期待をするということだ。

ホッとしたと同時に、腹がたってきた。その後進たちが努力もしないで「無い」と言い切ってしまったら、研究はそれで終わりではないか!

本牧の地名はアイヌ語だという説をネットで見つけた。
【ポン(小さい)・モリ(港)】が訛ったものだという。

(小さい)という意味のポンは北海道の地名に数ヶ所残っている。だが、モリは知らない。

確か、港は(トマリ)じゃなかっただろうか?
改めて手持ちのアイヌ語辞典を調べてみると、やはり港は【Tomari(トマリ)】であった。

泊(とまり)という地名は全国各地にある。青森の小泊や新潟の寺泊、沖縄県那覇市にもある。

もうひとつ「入江」をさす単語があるのを見つけた。

【moy(もィ)】だ。

岬の陰になっている静かな海、入江、浦のこととある。

【ポン・モィ】 これなら理解できる。 あくまでも、アイヌ語だったらの話だが…。

十二天社と八王子社
「こちらの写真を見てもらえば、お分かりいただけると思うのですけど」

職員の男性が指し示したのは、埋め立てられる前の本牧の航空写真。八聖殿の場所にはシールが貼られている。

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「ここが八王子権現のあった場所です」と八聖殿のすぐ右側を指差した。

「今もあるんですか?」

「いえ、本牧神社に合祀されて今はありません」

ハマの奇祭「お馬流し」神事で名高い本牧神社は、かつて「十二天社」と呼ばれ、本牧岬の先端に張り出した出島の中に鎮座していた。

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源頼朝が幕府の鬼門鎮護のため朱塗りの厨子を奉納したというから、創建は鎌倉時代より古い。

鳥居の足元まで波が打ち寄せる、風光明媚な景色が【横浜名所】という絵葉書(下)になっている。

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本牧は、戦後間もなく米軍に接収された。 住民は退去させられ、『横浜海浜住宅地区』というアメリカの町が造られた。

アメリカの町に神社仏閣は不要だ。ということで、現在の本牧十二天二丁目に長く仮遷座させられていた。

米軍の接収が解除されたのは、なんと戦後五十年近く経った平成六年。本牧神社は、元の地には帰ることなく、三渓園の北(本牧和田19)に換地された。

「八王子社は残ってないんですが、参道があった場所に石碑が建てられていますので、行ってご覧になるといいですよ。場所はですね。この建物の正面の坂を降りて、住宅街を右に回りこむようにして…、ちょっと分かりづらいかな?」

「大丈夫ですよ。行けば分かります」と、大見得を切ったが、見事に迷ってしまった。

うろうろと住宅街の細い路地を行ったり来たり、やっとのことで史跡「おはちおうじさま」の碑にたどり着いた。

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確かに八聖殿の東側だ。ここが参道付近ということは、自分が今立っている場所は、まさに海と陸の境目、後の住宅街や首都高湾岸線は、もちろん海の上だ。

その海は、風が変わりやすい地形と浅瀬が潜んでいるため、八王子鼻を廻った辺りで、転覆座礁することも度々だったという。

そのために社を建てたというが、それほど古いものではない。碑には「文久二年(1862)八王子・新町の氏子達により社は再建建立された」と記されている。

「文久二年…、あ、生麦事件の年だ」

確か、原善三郎が横浜で生糸売込問屋を開業したのも、その年じゃなかったっけ…。
           
絹の道をゆく-12 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-10 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.5

豊臣秀吉が母親の大政所のために建てた『旧天瑞寺寿塔覆堂』。

徳川家康によって京都伏見城内に建てられた『月華殿』。

三代将軍徳川家光が二条城内に建てさせ、後に春日局が賜ったと伝わる『聴秋閣』。

織田信長の実弟で茶人の織田有楽斎の茶室『春草廬』。

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八代将軍・徳川吉宗が幼少期に遊んだ紀州徳川家の別荘『巌出御殿(いわでごてん)』と推定される『臨春閣』。

綺羅星の如くならぶ歴史上の有名人。そのゆかりの建造物があることを知ったら、歴女を含めた戦国マニアの若者も、少しは三渓園に目を向けてくれるのではないだろうか。

もちろん、三渓園の魅力はそれだけじゃない。

旧東慶寺仏殿は鎌倉から、合掌造りの旧矢箆原家住宅は、飛騨の白川郷から、三渓園のシンボル・三重塔は京都から、日本建築の粋がここに結集されているといっても過言ではない。

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日本文化の守護者
権力と富を得たものが、大庭園を造る。そんな例は枚挙に遑(いとま)がない。

だが、原三渓(富太郎)のように、自ら構想を練り、自ら足を運んで古建築を探し求め、樹木や草花は言うに及ばず、石の配置から山や滝や池まで、すべて自身で設計をして造り上げるなどという話は聞いたことがない。

それ以上に驚かされるのは、そのように精魂込めて造り上げた庭園を、一般市民に無料開放してしまったことだ。

「明媚なる自然の風景は別に造物主の領域に属し、余の私有にあらざるなり」明治四十三年に『横浜貿易新報』に載った富太郎の言葉である。

「明媚なる自然の風景を独り占めすることは、清き月の光を遮る浮雲の邪まなる心と同じだ」と宣言している。

三渓は実業家であるとともに、美術家であり、奉仕家でもあったのだ。

三渓は多くの若き芸術家のパトロンとしても知られている。

下村観山、前田青邨、小林古径、安田靫彦、横山大観…。近代日本画を代表する錚々たる顔ぶれが彼の世話になった。

月に六円で生計がたてられた時代に、月平均百円を支援していたというから半端ではない。かといって、タニマチヅラして偉ぶらなかったそうだ。それどころか、自ら集めた古美術の名品を彼らと共に観賞し、批評しあい、時に学んだ。

個人的な趣味が高じてということもあったろう。しかし、彼を突き動かしたのは危機感である。近代国家の玄関口「横浜」にあって、西洋文明に侵食されていく日本の姿をまざまざと目の当たりにしてきた彼だからこそ、日本の伝統文化や芸術の保護、保存に心血を注ぐ決意をしたのだと思う。

 

日本人はいつも極端に走る。明治維新以降の近代化の裏側には、古き日本文化の否定がある。明治の神仏判然(分離)令がいい例だ。

「寺と神社を別々にせよ」という命令が下ると、それまで拝んでいた仏像を破壊し、寺院を焼き払った。今も残る「首の無いお地蔵さま」は、愚かな廃仏毀釈運動の爪痕だろう。

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大河ドラマ『龍馬伝』も最近、複雑な思いで観ている。西洋文明に驚き、感動し、心酔していく主人公や海軍操練所の若者たち。その対極にある攘夷派。

ドラマはちょうど、土佐勤皇党が粛清されるあたりだろうか。このあと、新旧の文明と思想の殺し合いが激化し、旧いものは一挙に淘汰されていくのだ。次に登場する新撰組もそうだ。

私のDNAなのだろうか、それとも前世の記憶がそうさせるのか…どうしても滅び行く方に感情移入してしまう。

八王子鼻の秘密
三渓園の入口に立っている。といっても、正門ではない。海に面した南門である。

ここからアクセスすると、正門から入ったのでは、絶対に味わえない風景に出会える。『上海横浜友好園』の池に浮かぶ湖心亭と、その向こうにある切り立った断崖だ。まるで水滸伝か三国志の世界。この断崖が昔の海岸線である。

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現在、その海岸線にへばりつく形で「本牧市民公園」と「本牧市民プール」がある。

「三渓園の裏に岬があって、昔、その入り江で生糸の密貿易が行われていたんだよ」

と、声をひそめて教えてくれたのは、某歴史研究グループの男性だ。

「その岬の名前を『八王子鼻』という」

「八王子?…はな…ですか?」

「そうだ。八王子から絹の道を通って生糸が運ばれた。だから八王子鼻。三渓園がそこにあるのも偶然じゃないんだ。たぶん、原三渓も祖父さんの善三郎も密貿易に関わっていたんだな」

「まさか!」 どうも眉唾くさい。

大体、密貿易をしていたのは、開港前の話ではないか。中居屋重兵衛ならともかく、二人が関わっているはずがない。でも、三渓園の裏が密貿易の場所だったという話は面白い…ということで、この場所にやってきたのである。

市民プール横のスロープから崖の上にあがると、その裏、一段下がった所に、『横浜八聖殿郷土資料館』が建っていた。

法隆寺夢殿を模して建てた三層楼八角形の建物で、幕末から明治にかけての本牧、根岸の写真や市内で使われていた農具や漁具などが展示してある。

二階の展示室には建物の名前の由来となった八聖像(キリスト・ソクラテス・孔子・釈迦・聖徳太子・弘法大師・親鸞上人・日蓮上人)も置かれていた。

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三渓園に行く人はいても、こちらまで足を運ぶ人はめったにいないのか、自分のほかにお客さんはいない。

ひと通り見て回ってから、すれ違った職員らしき男性を呼び止めて尋ねてみた。

「すいません。ここの地名ですが、もしかして八王子鼻っていいます?」

男性は一瞬、警戒するように私の顔を見つめたが、すぐに笑顔になって

「ええ、そうですよ。今は本牧鼻って呼んでいますけど、八王子鼻で間違いありません。鼻は岬のことですが、この断崖の下のところに、八王子権現を祀っていたんですよ」と、丁寧に教えてくれた。

「あ、なるほど。八王子の名前は権現様があったからですね」

「そうです、そうです。ああ、よかった。分かってくれる人で…」

満面の笑み。その安堵の表情に今度はこちらが違和感を覚えた。
           
絹の道をゆく-11 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次

2021年01月28日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-9 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.4
三渓園。いわずと知れた横浜を代表する観光地…いや、三年前に国の名勝に指定されたので、日本を代表する日本庭園である。

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青葉区市ヶ尾にある佐藤畳店の二代目若大将が、三渓園に畳を納めているという話が飛び込んできたのは、地名推理で原三渓の話を書いている、まさにその時。

記事を書いていると…こういった(偶然)によく出くわす。

「世の中に偶然などというモノはない、すべては必然なのだ」と誰かが言っていたが、だとすると、こうした出会いは全て目に見えない力によって引きあわされたということになる。

「行き当たりばったり、計画性もなく書いているからそう思えるんだよ」
と周りの人間は笑うが、プロットを考えないからこそ起こり得るミラクル、神のみわざなのだと確信している。

今回、原三渓の生まれ故郷の公民館(柳津地域振興事務所)に思いつきで寄った日が、『原三渓展』の最終日だったというのもその一つ。

おかげで、図書室に行って資料を探す手間も省け、系図や生家の写真という貴重な資料も手に入った。

さらに驚いたのは、この年(平成二十一年)が三渓の生誕百四十年で、没後七十年の記念の年なのだ。

これを神のみわざと言わずしてなんと言おう。

そうだ。いっそ本名をとって「神の宮澤」とでもしておこうか。(笑)

ちなみに、佐藤畳店の若大将は、京都の老舗畳店で修行した腕利きの職人。その匠の技が評価されたのであろう。

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織物の産地
ちょうど展示物に目を通し終わったタイミングで、係の人が生家跡までの地図をコピーして持ってきてくださった。その地図を手に公民会を出て、生家跡に向かう。

公民館の前の道を西に行く。800mほど歩くと境川に出た。戦国時代まで美濃と尾張の境を流れていた旧木曽川だ。大洪水で流路が変わり、今では長良川に注ぐ支流となっている。

三渓(青木富太郎)の生地である佐波村(さばむら、現在の羽島郡柳津町)は、美濃の国の中心、加納藩・永井家三万二千石の領地であった。岐阜駅の南800mほどの所に、加納城の遺構(石垣、土塁、堀跡)が残っている。

岐阜といえば、織田信長の居城であった金華山の山頂にそびえる岐阜城が有名だが、加納城は関ヶ原の合戦後に破却された岐阜城の建材を使って建てられた。徳川による天下普請によって1602年に築かれた平城で、奥平氏、戸田氏、安藤氏、永井氏と城主をかえながら明治を迎えている。

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境川は、その加納城のすぐわきを流れて佐波村まで下る。

境川に架かる橋の手前に、『カラフルタウン岐阜』というショッピングモールがある。最近は、どこに行ってもこの手の巨大ショッピングモールを見かける。が、ここは少し他とは事情が異なっていた。

運営は『トレッサ横浜』という、あのトヨタグループの会社。じつは、すぐ隣にある『トヨタ紡織(ぼうしょく)』という会社の工場跡地に建設されたのだそうだ。

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『トヨタ紡織』は自動車内装品などを作る会社だが、ルーツは言うまでもなく、世界のトヨタの礎を築いた豊田佐吉の『豊田式織機』である。

紡織の文字を見て、お隣愛知県の一宮市を思い出した。一宮には親戚がいて、実家から車で1時間もかからないので、毎年のように遊びに行っていた。

その親戚も紡績工場を営んでいた。ノコギリのような三角屋根の工場。羊毛、綿などの天然繊維の糸の独特な匂いは今も鼻の奥に残っている。木製の糸巻きは子どもの格好のおもちゃであった。

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地図で確認すると、ここ柳津と織物と七夕まつりで有名な愛知県の一宮市とは、木曽川を挟んで数キロしか離れていない。

思ったとおり、柳津も一宮と同様に古くからの綿織物の産地、さらに養蚕や製糸も盛んであった。

また、岐阜は信州や上州の生糸を京都に運ぶ中継地でもある。このあたり、秩父絹を江戸の呉服問屋へ送る中継地であった義理の祖父、原善三郎の生誕地と似ている。

三渓が、のちに富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸業を営むことになったのも、こうした幼少期の原風景と見えないい「糸」で繋がっていたのではなかろうか。


サバと境川
橋を渡ると、気持ちのいい川風が吹いてきた。広々とした空と河川敷がなんとも言えず清々しい。橋の上を県道が走り、車の騒音が喧しい現代でさえそう感じるのだから、明治時代はどんなに静かで平穏な土地であったことか。

三渓の生家である青木邸址は、川を渡った、すぐ左手の住宅街にあった。現在は天理教会の建物になっている。

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まわりを見渡すと、ビルの上に(アオキ)の看板。(洋服屋ではない)地図には、青木染工場、株式会社青木、青木進学塾、と青木の文字が散見する。さすが、佐波村きっての名家である。

富太郎(三渓)は、筆頭庄屋(戸長)青木家の長男として生まれた。17歳で上京し、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。学生をしながら、跡見女学校の歴史の先生をしているときに、原善三郎の孫娘・屋寿子と恋仲になる。 

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そして、善三郎に気に入られて養子縁組を結び原家に入るのだが、普通、長男が他家に養子に行くことなど考えられない。よく青木家の親が許したと思う。 

二十代の頃に出雲地方を旅していて、「あんた、養子にならないか?」と誘われたことがある。

「今なら車も家も付いてくるよ」と、通販番組のようなセリフに心がグラッときたが、そのことを親に話したら「長男が、なにバカなこと言ってるの!」と、えらく怒られた。

偉いのは、富太郎の父親だ。息子の可能性を信じていたからこそ、涙を飲んで決断したのだろう。

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帰り道、橋の上からもう一度、境川の流れと佐波の住宅街を振り返った。

「境川と佐波という組み合わせ…、どっかで聞いたことがあるぞ。何だっけ?…あ、『七さば巡り』だ」

東京町田から相模原、横浜、大和、藤沢の市境を経て相模湾に注ぐ境川。その中流域に左馬、佐婆、佐波、鯖とサバの名がついた神社が十二社ある。

「七さば巡り」とは、一日のうちに七社のサバ神社を回れば、麻疹(はしか)や百日咳などの疫病を祓うことができるという古来からの風習である。祭神の源義朝の官職が左馬頭(さまのかみ)だったから…などの説があるが、サバの由来は定かではない。

サバと境川には何か因果関係があるのだろうか? 

※この疑問は後日【皐月の鯖の福さがし 相模七さば参りミステリー紀行】という特集記事で検証することになる。

本牧三之谷
境川の川面を見ていたら、公民館の展示資料に書かれていたことを思い出した。

境川は暴れ川で、佐波の人々は洪水に何度も泣かされた。そのつど、立ち上がる農民たちを支えたのは大地である。

土地はどんな時代も価値を失わない。その教訓を三渓は生まれ故郷で学んだ。そして、祖父善三郎に儲けた金で土地を買うことを勧める。

こうして買い求められた土地が本牧三之谷である。

明治三十五年、富太郎は六万坪の広大な三之谷に移り住み、名を「三渓」と改めた。
 
絹の道をゆく-10 へ続く 

※2016年、生家からほど近い場所に「原三渓記念室」がオープンした。
地元・佐波村(現岐阜市柳津町)出身の実業家の足跡を伝える貴重な施設だ。岐阜で生まれ、横浜に移住した偉大なる大先輩が、こうして生まれ故郷で顕彰されていること感慨無量。自分のことのように嬉しい。


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この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次


真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-8 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.3

生糸が輸出産業の花形だったといっても、すべての生糸商人が大もうけしたわけではない。

生糸の商いというのは投機である。巨万の富を築いた商人が生まれる一方で、その何倍もの商人たちが没落していった。卓越した先見性と行動力、そして運の強いものが相場を制するのは現代も変わらない。もっとも、現代はパソコンの前に座っているだけなので、行動はキーを叩くだけだが…。

仲居屋重兵衛もそうだったが、原善三郎も行動の人だった。

群馬や埼玉の田舎から出てきて、生き馬の目を抜くような激しい競争に打ち勝つには、まず行動することであった。のちに、横浜を拠点とする有力財閥となり、本牧と野毛山の広大な敷地に山荘と別荘を持つに至る善三郎だが、その邸の床の間には古びて汚れた地下足袋が飾られていたという。

善三郎にとって商いとは、歩くことだった。山を越え、谷を越えて、生糸の原産地を訪ね歩き、買い付けた商品を横浜まで売りに行く。そうした地道な商売が成功へとつながった。



どてらい男
犬も歩けば棒に当たる。男歩けば勝ち目に当たる♪
そわそわするなよ、男は度胸♫


原善三郎のことを調べていたら、『どてらい男(やつ)』というテレビドラマを思い出した。 今から35年ほど前(1973年〜1977年)のドラマだ。

原作は花登筺(はなと・こばこ)、主人公は西郷輝彦演じる『猛やん』こと山下猛造。福井から大阪の機械工具問屋に丁稚奉公に入った主人公猛やんが、主人や番頭からいびられながらも商人(あきんど)として成長してゆき、最後には自分の店を持って大成功するというストーリーだ。

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1時間がこれほど短く感じたドラマは後にも先にも無い。当時中学生だった私は、原作を図書館で借りてきて読むほど熱中した。映像が残っていないということなので、DVD化は無理としても、何とかリメイクして欲しい。

どてらい男の主題歌にあるように、歩いていけば、勝ち目にも当たるが、落ち目にも当たる。善三郎も落ち目に当たった。

開港間もない横浜で、仲間から外油(石油)が儲かると聞いた善三郎、虎の子の三百両をはたいて、外国商人からありったけの石油を買い付けた。それを日本国内で売れば倍の儲けになる…はずだった。しかし、油を入れた空き樽が新しすぎて、油が流出。虎の子の三百両を失ってしまったのだ。

失望のあまり、一度は国に帰ろうかと思った善三郎。ここからが凄い。浅草で出会った占い師に、「同じ道を行けば、取り戻せる」と聞いて、とってかえし、取引先の染め絹問屋から金を借りると、今度は空き樽を丹念にチェック、ふたたび石油を買いつけて、三日としないうちに負けを取り戻している。

また、尊王攘夷の浪士に、寝込みを襲われ、金を強請(ゆす)られたりもしているが、機先を制し、相手を怒らせることなくあしらっている。

とにかく豪胆。失敗しても、それをすぐに成功に結びつける。占いを聞いて、すぐに行動するところは、単純といえば単純だが…、この過程で絹よりも生糸に将来性があることを嗅ぎ取り、次の商売に活かしていくあたりのエピソードがドラマと重なる。

まさに横浜の『どてらい男』である。


商人から政治家へ
それから十三年、彼と茂木惣兵衛の二人で横浜の生糸取扱量の三分の一を占めるほどの成功をおさめ、気がつけば「横浜は、善くも悪しくも、亀善の腹ひとつにて、事決まるなり」と狂歌にも詠まれるまでになっていた。

明治初期は、横暴な外国商人が多く、荷を持ち込んでも、検査が済むまでは手付金も払わない。検査に不合格なら返却されるし、品質に問題が無くても、自国の市場が景気悪くなったと言って突き返されるなど、買い手有利に物事が運ばれていた。

値引きなどは当たり前。当初は個別の取引で、市場価格も決まっていなかった。善三郎は、そうした事態に対処するため、横浜商工会議所や横浜蚕糸貿易商組合を設立し、日本の商権回復のために奔走したのである。

先の狂歌は、財閥に対する揶揄も含まれるであろうが、こうした公私を越えた働きに対する評価でもある。

明治五年、新橋〜横浜間に日本初の鉄道が正式営業を開始した。

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善三郎は、この祝賀式典で横浜庶民を代表して天皇陛下の前で祝辞を述べるという栄誉に与っている。この時、外国人代表として祝辞を述べたのが、誰あろう、あの生麦事件で重傷を負った、イギリス商人・ウィリアム ・マーシャルなのだ。

因みに、善三郎とマーシャルは、ともに1827年生まれの同い年である。

明治二十二年(1889)、横浜市制が施行、市議会議員に選出された善三郎は初代議長に就任する。そして三年後、市会から中央政界へと登りつめるのである。

三渓のふるさと
昨年暮れ、名古屋に帰省したときに、足を延ばして岐阜県美濃市にある母方の実家の墓参りをした。 翌日、急に思い立って、岐阜駅から名鉄電車に乗り、柳津(やないづ)に向かった。

柳津は、善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚して原家に入った原富太郎(旧姓・青木富太郎、のちの原三渓)の生まれ故郷である。 せっかく、岐阜まで足を延ばしたのだから、原三渓の故郷がどんな所か見てみたくなったのだ。

柳津駅は真新しいが無人駅だった。無人だから人に聞くわけもいかず、携帯電話のナビを頼りに公民館を訪ねた。思いつきで来たので、資料も何もない。公民館なら、何か実家の手がかりになる物があるだろう、と思って寄ったのだが…、果たして…正解であった。

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正解どころではない。

「ちょうど、『原三渓展』をやっていたんですよ」と係の方。

しかも、この日が最終日だという。

なんという奇跡! 運命! いや、これは天命に違いない。

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絹の道をゆく-9 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次

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ある時は地域情報紙の編集長、ある時はフリーライター、またある時は紙芝居のオジサン、しこうしてその実態は・・・穏やかな心を持ちながら激しい憤りによって目覚めた伝説の唄う地域史研究家・・・歴史探偵・高丸だ!
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