2021年01月29日
真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-11 高丸コレクション
■横浜編 Vol.6
船の上から撮影されたのだろう、本牧の海岸線が埋め立てられる以前の八王子鼻(本牧岬)の写真が『八聖殿郷土資料館』の壁に飾られていた。
岬の頂は樹木に覆われ、白っぽい断崖絶壁には、バームクーヘンのような地層が浮き出ている。
樹木の間から八聖殿の屋根が顔を覗かせているが、海上交通の山当てに使われたのは、大きく枝を張った松の木に違いない。
八王子権現社の参道入口は荒波が打ち寄せる場所にあったという。
本牧の地名
東京湾に突き出た岬に「八王子権現が祀られていたんです」という郷土資料館の職員の方の説明に対して
「あ、なるほど。八王子の名前は権現様があったからですね」と返した自分の感想はじつに普通の反応で、
「ああ、よかった〜。分かってくれる人で…」と、ことさら喜ばれることではない。
何か異議を唱えられるとでも思ったのだろうか?
「いや、時々いるんですよ。『東京の八王子と関係があるんじゃないか?』と聞いてくる方が…。関係ありませんよ、と説明しても、『いや、八王子と横浜を結ぶシルクロードと、なにか関係があるに違いない』と自説を主張されて譲らない。本当に困りましたよ」
あ、そういうことか。八王子鼻の場所を確認したので、そういった類のお客さんと勘違いされたというわけだ。
「さらに『この近くに八王子道路があるじゃないか』とまで主張されて…。いやいや、あれも八王子という地名なんですよ…と説明したんですけどね」
それにしても、相当強い思い込みだ。思い込んだら他人の意見を聞かないという人は歴史愛好家には多い。聞かないどころか、他人の意見をせせら笑い、相手をグウの音も出ないくらいにやり込める。
話が逸れるが…、先日も「関東にはアイヌ語の地名なんて無い」と断言される方がいた。
「まだ分からないじゃないですか」と言っても、頑として譲らない。
アイヌ語研究の第一人者が「東北の白河以南にはアイヌ語は見つからなかった」と書いていた。というのが理由らしい。
「本当にそうか?」
自分も、青葉区の地名のいくつかをアイヌ語で解説してきた手前、そう断言されると不安になる。その第一人者の本とやらを借りて調べてみた。
そこには「アイヌ地名が、その昔は(白河以南に)あったにしても、失われてしまったのである」と、確かに書かれていた。しかし、末尾には「まったく無いとは言えない…今後の努力によって検出されていくだろう」と締めくくられている。
ようするに、自分は見つけられなかったが、後進の人たちの努力に期待をするということだ。
ホッとしたと同時に、腹がたってきた。その後進たちが努力もしないで「無い」と言い切ってしまったら、研究はそれで終わりではないか!
本牧の地名はアイヌ語だという説をネットで見つけた。
【ポン(小さい)・モリ(港)】が訛ったものだという。
(小さい)という意味のポンは北海道の地名に数ヶ所残っている。だが、モリは知らない。
確か、港は(トマリ)じゃなかっただろうか?
改めて手持ちのアイヌ語辞典を調べてみると、やはり港は【Tomari(トマリ)】であった。
泊(とまり)という地名は全国各地にある。青森の小泊や新潟の寺泊、沖縄県那覇市にもある。
もうひとつ「入江」をさす単語があるのを見つけた。
【moy(もィ)】だ。
岬の陰になっている静かな海、入江、浦のこととある。
【ポン・モィ】 これなら理解できる。 あくまでも、アイヌ語だったらの話だが…。
十二天社と八王子社
「こちらの写真を見てもらえば、お分かりいただけると思うのですけど」
職員の男性が指し示したのは、埋め立てられる前の本牧の航空写真。八聖殿の場所にはシールが貼られている。
「ここが八王子権現のあった場所です」と八聖殿のすぐ右側を指差した。
「今もあるんですか?」
「いえ、本牧神社に合祀されて今はありません」
ハマの奇祭「お馬流し」神事で名高い本牧神社は、かつて「十二天社」と呼ばれ、本牧岬の先端に張り出した出島の中に鎮座していた。
源頼朝が幕府の鬼門鎮護のため朱塗りの厨子を奉納したというから、創建は鎌倉時代より古い。
鳥居の足元まで波が打ち寄せる、風光明媚な景色が【横浜名所】という絵葉書(下)になっている。
本牧は、戦後間もなく米軍に接収された。 住民は退去させられ、『横浜海浜住宅地区』というアメリカの町が造られた。
アメリカの町に神社仏閣は不要だ。ということで、現在の本牧十二天二丁目に長く仮遷座させられていた。
米軍の接収が解除されたのは、なんと戦後五十年近く経った平成六年。本牧神社は、元の地には帰ることなく、三渓園の北(本牧和田19)に換地された。
「八王子社は残ってないんですが、参道があった場所に石碑が建てられていますので、行ってご覧になるといいですよ。場所はですね。この建物の正面の坂を降りて、住宅街を右に回りこむようにして…、ちょっと分かりづらいかな?」
「大丈夫ですよ。行けば分かります」と、大見得を切ったが、見事に迷ってしまった。
うろうろと住宅街の細い路地を行ったり来たり、やっとのことで史跡「おはちおうじさま」の碑にたどり着いた。
確かに八聖殿の東側だ。ここが参道付近ということは、自分が今立っている場所は、まさに海と陸の境目、後の住宅街や首都高湾岸線は、もちろん海の上だ。
その海は、風が変わりやすい地形と浅瀬が潜んでいるため、八王子鼻を廻った辺りで、転覆座礁することも度々だったという。
そのために社を建てたというが、それほど古いものではない。碑には「文久二年(1862)八王子・新町の氏子達により社は再建建立された」と記されている。
「文久二年…、あ、生麦事件の年だ」
確か、原善三郎が横浜で生糸売込問屋を開業したのも、その年じゃなかったっけ…。
絹の道をゆく-12 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
船の上から撮影されたのだろう、本牧の海岸線が埋め立てられる以前の八王子鼻(本牧岬)の写真が『八聖殿郷土資料館』の壁に飾られていた。
岬の頂は樹木に覆われ、白っぽい断崖絶壁には、バームクーヘンのような地層が浮き出ている。
樹木の間から八聖殿の屋根が顔を覗かせているが、海上交通の山当てに使われたのは、大きく枝を張った松の木に違いない。
八王子権現社の参道入口は荒波が打ち寄せる場所にあったという。
本牧の地名
東京湾に突き出た岬に「八王子権現が祀られていたんです」という郷土資料館の職員の方の説明に対して
「あ、なるほど。八王子の名前は権現様があったからですね」と返した自分の感想はじつに普通の反応で、
「ああ、よかった〜。分かってくれる人で…」と、ことさら喜ばれることではない。
何か異議を唱えられるとでも思ったのだろうか?
「いや、時々いるんですよ。『東京の八王子と関係があるんじゃないか?』と聞いてくる方が…。関係ありませんよ、と説明しても、『いや、八王子と横浜を結ぶシルクロードと、なにか関係があるに違いない』と自説を主張されて譲らない。本当に困りましたよ」
あ、そういうことか。八王子鼻の場所を確認したので、そういった類のお客さんと勘違いされたというわけだ。
「さらに『この近くに八王子道路があるじゃないか』とまで主張されて…。いやいや、あれも八王子という地名なんですよ…と説明したんですけどね」
それにしても、相当強い思い込みだ。思い込んだら他人の意見を聞かないという人は歴史愛好家には多い。聞かないどころか、他人の意見をせせら笑い、相手をグウの音も出ないくらいにやり込める。
話が逸れるが…、先日も「関東にはアイヌ語の地名なんて無い」と断言される方がいた。
「まだ分からないじゃないですか」と言っても、頑として譲らない。
アイヌ語研究の第一人者が「東北の白河以南にはアイヌ語は見つからなかった」と書いていた。というのが理由らしい。
「本当にそうか?」
自分も、青葉区の地名のいくつかをアイヌ語で解説してきた手前、そう断言されると不安になる。その第一人者の本とやらを借りて調べてみた。
そこには「アイヌ地名が、その昔は(白河以南に)あったにしても、失われてしまったのである」と、確かに書かれていた。しかし、末尾には「まったく無いとは言えない…今後の努力によって検出されていくだろう」と締めくくられている。
ようするに、自分は見つけられなかったが、後進の人たちの努力に期待をするということだ。
ホッとしたと同時に、腹がたってきた。その後進たちが努力もしないで「無い」と言い切ってしまったら、研究はそれで終わりではないか!
本牧の地名はアイヌ語だという説をネットで見つけた。
【ポン(小さい)・モリ(港)】が訛ったものだという。
(小さい)という意味のポンは北海道の地名に数ヶ所残っている。だが、モリは知らない。
確か、港は(トマリ)じゃなかっただろうか?
改めて手持ちのアイヌ語辞典を調べてみると、やはり港は【Tomari(トマリ)】であった。
泊(とまり)という地名は全国各地にある。青森の小泊や新潟の寺泊、沖縄県那覇市にもある。
もうひとつ「入江」をさす単語があるのを見つけた。
【moy(もィ)】だ。
岬の陰になっている静かな海、入江、浦のこととある。
【ポン・モィ】 これなら理解できる。 あくまでも、アイヌ語だったらの話だが…。
十二天社と八王子社
「こちらの写真を見てもらえば、お分かりいただけると思うのですけど」
職員の男性が指し示したのは、埋め立てられる前の本牧の航空写真。八聖殿の場所にはシールが貼られている。
「ここが八王子権現のあった場所です」と八聖殿のすぐ右側を指差した。
「今もあるんですか?」
「いえ、本牧神社に合祀されて今はありません」
ハマの奇祭「お馬流し」神事で名高い本牧神社は、かつて「十二天社」と呼ばれ、本牧岬の先端に張り出した出島の中に鎮座していた。
源頼朝が幕府の鬼門鎮護のため朱塗りの厨子を奉納したというから、創建は鎌倉時代より古い。
鳥居の足元まで波が打ち寄せる、風光明媚な景色が【横浜名所】という絵葉書(下)になっている。
本牧は、戦後間もなく米軍に接収された。 住民は退去させられ、『横浜海浜住宅地区』というアメリカの町が造られた。
アメリカの町に神社仏閣は不要だ。ということで、現在の本牧十二天二丁目に長く仮遷座させられていた。
米軍の接収が解除されたのは、なんと戦後五十年近く経った平成六年。本牧神社は、元の地には帰ることなく、三渓園の北(本牧和田19)に換地された。
「八王子社は残ってないんですが、参道があった場所に石碑が建てられていますので、行ってご覧になるといいですよ。場所はですね。この建物の正面の坂を降りて、住宅街を右に回りこむようにして…、ちょっと分かりづらいかな?」
「大丈夫ですよ。行けば分かります」と、大見得を切ったが、見事に迷ってしまった。
うろうろと住宅街の細い路地を行ったり来たり、やっとのことで史跡「おはちおうじさま」の碑にたどり着いた。
確かに八聖殿の東側だ。ここが参道付近ということは、自分が今立っている場所は、まさに海と陸の境目、後の住宅街や首都高湾岸線は、もちろん海の上だ。
その海は、風が変わりやすい地形と浅瀬が潜んでいるため、八王子鼻を廻った辺りで、転覆座礁することも度々だったという。
そのために社を建てたというが、それほど古いものではない。碑には「文久二年(1862)八王子・新町の氏子達により社は再建建立された」と記されている。
「文久二年…、あ、生麦事件の年だ」
確か、原善三郎が横浜で生糸売込問屋を開業したのも、その年じゃなかったっけ…。
絹の道をゆく-12 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
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