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2021年03月12日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-14 高丸コレクション

■八王子編 Vol.2

男軍人、女は工女
司馬遼太郎氏の小説は、そのほとんどを二十代の頃に読んだ。特に『坂の上の雲』は、寝るのも忘れるほど夢中になった。

「世界最弱」といわれた陸軍騎兵隊を鍛え上げ、強敵ロシアの「コサック騎兵隊」を撃退させた秋山好古(よしふる)。

類まれな戦略で、ロシア・バルチック艦隊を撃破した日本海海戦の首席参謀、秋山真之(さねゆき)。


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二人の主人公だけでなく、日本が壊滅するという危機的状況を見事回避した、高潔で志の高い政治家や軍人。祖国を守るために死地に飛び込んでいった無名の兵士たち。

明治を生きた男たちに対する敬慕と感謝の念、それが文庫本全8巻を読み終えたあとの偽らざる感情であった。
今もその気持ちは変わっていない。いないが…こうしてテレビドラマになり、それなりに人気を博してくると、「それでいいのか?」という批判精神がムクムクと首をもたげてくる。悪い癖だ。

日露戦争のわずか13年前、清国の提督・丁汝昌(ていじょしょう)が最新鋭の巨大艦6隻を率いて日本を恫喝するためにやってきた。この時、我が国の海軍力は、イギリスから買った小さな鋼鉄艦「扶桑」がたった一隻、あとは木造船という貧弱な海軍力だった。

しかし、その三年後。日清戦争勃発時の日本海軍の兵力は、驚くべきことに五十五隻を擁する強力な連合艦隊を編成するまでになっていた。

そして、三回にわたる大海戦で清国海軍を全滅させた。

これが日露の戦いの時には、百五十二隻。およそ三倍の兵力になっている。

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奇跡ともいえる長足の進歩の理由は、欧米からの借金(ユダヤ資本)であることは確かだ。

日露戦争の費用は総計で19億8612万円。当時の国家予算は8年分である。その内の4分の3は借金によって補ったといわれている。

さらに、外貨獲得のために政府が力を注いだのが産業革命と貿易である。
その貿易、明治から昭和の初めに至るまで、最大の輸出商品となったのが、まさに生糸だったのである。

当時、日本の輸出量の80%近くを生糸が占めていた。生糸が日本の経済を担っていたといっても過言ではない。全国数百万という、幼い工女たちが劣悪な環境の中で、命懸けでひいた糸が外貨を稼ぎ、それが軍艦や大砲に姿を変えていったのだ。

『あゝ野麦峠』の著者は(どこでどう狂ったのか、いつの間にか大事なことが忘れられて、『大和魂』にすり替えられてしまった)と嘆く。

この『絹の道』の第一回プロローグが調所一郎氏からの電話から始まったのも、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)だったのかもしれない。

彼の先祖である薩摩藩家老・調所笑左衛門廣郷(ひろさと)。彼もまた、成し得た仕事を評価されずに非業の最期を遂げた。

五百万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前だった薩摩藩の財政を立て直し、かつ財政改革および軍制改革を成功させ、明治維新を成し遂げる財力を蓄えたにもかかわらず、維新の英雄…西郷、大久保と敵対した極悪人というレッテルを貼られたのだ。

日本人というのは英雄が大好きである。スポットライトを浴びる表舞台の役者ばかりを称賛して、彼らを引き立たせるために、地道に仕事をしている裏方をないがしろにする。

大河ドラマがいい例だ。信長や秀吉や家康、源義経や伊達政宗は主人公になるが、それを影で支えた人々がどれだけ功績を残してもドラマにならないし、なったとしても視聴率は低い。ましてや庶民の活躍となると歯牙にもかけない。自分のような天の邪鬼でひねくれた性格の人間としては、なんとも腹立たしい。

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男軍人女は工女 糸をひくのも国のため

軍人ばかりが戦争をしてきたのではない。銃後の片隅で、必死に生きてきた工女たちもまた戦っていたのだ。このことを書かずして、「絹の道」など笑止千万。ドラマ『坂の上の雲』をご覧になる方は、是非そのことを念頭に入れて観ていただきたい。


八王子の街道
甲州街道(国道20号)が八王子駅の北をJR中央本線と平行して走っている。

横山町、八日町、八幡町、左右に商店が立ち並ぶバス通りを中心とした地域が、大久保長安が造った甲州街道最大の宿場町『八王子横山十五宿』である。

途中、本郷横丁東の交差点を左に入ると、路地の先に大久保長安の陣屋跡がある。中央本線の線路近くにある産千代稲荷(うぶちよいなり)神社がそれだ。

古い宿場だっただけに、周辺にはこうした史跡があふれている。

甲州街道をさらに西に行くと、追分町の交差点付近で二又に分かれる。陣場街道だ。

交差点には、文化八年(1811)江戸の足袋職人が高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に建てたといわれる道標が建っていた。

道標から陣場街道を少し進むと、今度は『八王子千人同心屋敷跡』の記念碑がある。

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千人同心とは、甲州口の警備と治安維持のために配置された半農半武の幕臣集団のこと。 甲斐の武田家が滅んだ際の遺臣たちを中心に編成された。

ちなみに、陣場街道の名前の元になった陣場山は、武田信玄が陣を置いたことから名づけられた。

甲州街道を戻り、本郷横丁の交差点を秋川街道に入る。墓参りに行くのに年二回バスで通る道だ。

交差点から北に500mほどで、浅川という川を渡る。

いつだったかバスを降りて歩いた時に、その橋の欄干とタイルに機織り機の絵柄が描かれているのを発見した。その時はあまり気にも留めなかったが、改めて調べてみると面白いことが分かってきた。

橋の名前は「萩原橋」という。

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明治三十三年、この地に製糸工場を営む萩原彦七という人物が、架設費用1万3千円(当時)を負担したことから、その名が付けられた。

明治十年、八王子初の器械製糸工場を創業。一時は「製糸王」と呼ばれるほどに成功した彦七だったが、大恐慌により大打撃を受け, 工場は明治三十四年に信州の片倉製糸に買収された。

ここで再び「片倉製糸」が登場する。

それに関連した建物が川を渡った先(中野上町)にある。見つけたのは、ずいぶん昔のことだ。

バスの窓のむこうに、そいつが現れたときの衝撃…。幼き日々の情景が、まるで8ミリ映画のように網膜の裏に映し出され、気がついら降車ブザーを押していた。
 

つづく



絹の道をゆく-15 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
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ある時は地域情報紙の編集長、ある時はフリーライター、またある時は紙芝居のオジサン、しこうしてその実態は・・・穏やかな心を持ちながら激しい憤りによって目覚めた伝説の唄う地域史研究家・・・歴史探偵・高丸だ!
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