2021年01月29日
真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-10 高丸コレクション
■横浜編 Vol.5
豊臣秀吉が母親の大政所のために建てた『旧天瑞寺寿塔覆堂』。
徳川家康によって京都伏見城内に建てられた『月華殿』。
三代将軍徳川家光が二条城内に建てさせ、後に春日局が賜ったと伝わる『聴秋閣』。
織田信長の実弟で茶人の織田有楽斎の茶室『春草廬』。
八代将軍・徳川吉宗が幼少期に遊んだ紀州徳川家の別荘『巌出御殿(いわでごてん)』と推定される『臨春閣』。
綺羅星の如くならぶ歴史上の有名人。そのゆかりの建造物があることを知ったら、歴女を含めた戦国マニアの若者も、少しは三渓園に目を向けてくれるのではないだろうか。
もちろん、三渓園の魅力はそれだけじゃない。
旧東慶寺仏殿は鎌倉から、合掌造りの旧矢箆原家住宅は、飛騨の白川郷から、三渓園のシンボル・三重塔は京都から、日本建築の粋がここに結集されているといっても過言ではない。
日本文化の守護者
権力と富を得たものが、大庭園を造る。そんな例は枚挙に遑(いとま)がない。
だが、原三渓(富太郎)のように、自ら構想を練り、自ら足を運んで古建築を探し求め、樹木や草花は言うに及ばず、石の配置から山や滝や池まで、すべて自身で設計をして造り上げるなどという話は聞いたことがない。
それ以上に驚かされるのは、そのように精魂込めて造り上げた庭園を、一般市民に無料開放してしまったことだ。
「明媚なる自然の風景は別に造物主の領域に属し、余の私有にあらざるなり」明治四十三年に『横浜貿易新報』に載った富太郎の言葉である。
「明媚なる自然の風景を独り占めすることは、清き月の光を遮る浮雲の邪まなる心と同じだ」と宣言している。
三渓は実業家であるとともに、美術家であり、奉仕家でもあったのだ。
三渓は多くの若き芸術家のパトロンとしても知られている。
下村観山、前田青邨、小林古径、安田靫彦、横山大観…。近代日本画を代表する錚々たる顔ぶれが彼の世話になった。
月に六円で生計がたてられた時代に、月平均百円を支援していたというから半端ではない。かといって、タニマチヅラして偉ぶらなかったそうだ。それどころか、自ら集めた古美術の名品を彼らと共に観賞し、批評しあい、時に学んだ。
個人的な趣味が高じてということもあったろう。しかし、彼を突き動かしたのは危機感である。近代国家の玄関口「横浜」にあって、西洋文明に侵食されていく日本の姿をまざまざと目の当たりにしてきた彼だからこそ、日本の伝統文化や芸術の保護、保存に心血を注ぐ決意をしたのだと思う。
日本人はいつも極端に走る。明治維新以降の近代化の裏側には、古き日本文化の否定がある。明治の神仏判然(分離)令がいい例だ。
「寺と神社を別々にせよ」という命令が下ると、それまで拝んでいた仏像を破壊し、寺院を焼き払った。今も残る「首の無いお地蔵さま」は、愚かな廃仏毀釈運動の爪痕だろう。
大河ドラマ『龍馬伝』も最近、複雑な思いで観ている。西洋文明に驚き、感動し、心酔していく主人公や海軍操練所の若者たち。その対極にある攘夷派。
ドラマはちょうど、土佐勤皇党が粛清されるあたりだろうか。このあと、新旧の文明と思想の殺し合いが激化し、旧いものは一挙に淘汰されていくのだ。次に登場する新撰組もそうだ。
私のDNAなのだろうか、それとも前世の記憶がそうさせるのか…どうしても滅び行く方に感情移入してしまう。
八王子鼻の秘密
三渓園の入口に立っている。といっても、正門ではない。海に面した南門である。
ここからアクセスすると、正門から入ったのでは、絶対に味わえない風景に出会える。『上海横浜友好園』の池に浮かぶ湖心亭と、その向こうにある切り立った断崖だ。まるで水滸伝か三国志の世界。この断崖が昔の海岸線である。
現在、その海岸線にへばりつく形で「本牧市民公園」と「本牧市民プール」がある。
「三渓園の裏に岬があって、昔、その入り江で生糸の密貿易が行われていたんだよ」
と、声をひそめて教えてくれたのは、某歴史研究グループの男性だ。
「その岬の名前を『八王子鼻』という」
「八王子?…はな…ですか?」
「そうだ。八王子から絹の道を通って生糸が運ばれた。だから八王子鼻。三渓園がそこにあるのも偶然じゃないんだ。たぶん、原三渓も祖父さんの善三郎も密貿易に関わっていたんだな」
「まさか!」 どうも眉唾くさい。
大体、密貿易をしていたのは、開港前の話ではないか。中居屋重兵衛ならともかく、二人が関わっているはずがない。でも、三渓園の裏が密貿易の場所だったという話は面白い…ということで、この場所にやってきたのである。
市民プール横のスロープから崖の上にあがると、その裏、一段下がった所に、『横浜八聖殿郷土資料館』が建っていた。
法隆寺夢殿を模して建てた三層楼八角形の建物で、幕末から明治にかけての本牧、根岸の写真や市内で使われていた農具や漁具などが展示してある。
二階の展示室には建物の名前の由来となった八聖像(キリスト・ソクラテス・孔子・釈迦・聖徳太子・弘法大師・親鸞上人・日蓮上人)も置かれていた。
三渓園に行く人はいても、こちらまで足を運ぶ人はめったにいないのか、自分のほかにお客さんはいない。
ひと通り見て回ってから、すれ違った職員らしき男性を呼び止めて尋ねてみた。
「すいません。ここの地名ですが、もしかして八王子鼻っていいます?」
男性は一瞬、警戒するように私の顔を見つめたが、すぐに笑顔になって
「ええ、そうですよ。今は本牧鼻って呼んでいますけど、八王子鼻で間違いありません。鼻は岬のことですが、この断崖の下のところに、八王子権現を祀っていたんですよ」と、丁寧に教えてくれた。
「あ、なるほど。八王子の名前は権現様があったからですね」
「そうです、そうです。ああ、よかった。分かってくれる人で…」
満面の笑み。その安堵の表情に今度はこちらが違和感を覚えた。
絹の道をゆく-11 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
豊臣秀吉が母親の大政所のために建てた『旧天瑞寺寿塔覆堂』。
徳川家康によって京都伏見城内に建てられた『月華殿』。
三代将軍徳川家光が二条城内に建てさせ、後に春日局が賜ったと伝わる『聴秋閣』。
織田信長の実弟で茶人の織田有楽斎の茶室『春草廬』。
八代将軍・徳川吉宗が幼少期に遊んだ紀州徳川家の別荘『巌出御殿(いわでごてん)』と推定される『臨春閣』。
綺羅星の如くならぶ歴史上の有名人。そのゆかりの建造物があることを知ったら、歴女を含めた戦国マニアの若者も、少しは三渓園に目を向けてくれるのではないだろうか。
もちろん、三渓園の魅力はそれだけじゃない。
旧東慶寺仏殿は鎌倉から、合掌造りの旧矢箆原家住宅は、飛騨の白川郷から、三渓園のシンボル・三重塔は京都から、日本建築の粋がここに結集されているといっても過言ではない。
日本文化の守護者
権力と富を得たものが、大庭園を造る。そんな例は枚挙に遑(いとま)がない。
だが、原三渓(富太郎)のように、自ら構想を練り、自ら足を運んで古建築を探し求め、樹木や草花は言うに及ばず、石の配置から山や滝や池まで、すべて自身で設計をして造り上げるなどという話は聞いたことがない。
それ以上に驚かされるのは、そのように精魂込めて造り上げた庭園を、一般市民に無料開放してしまったことだ。
「明媚なる自然の風景は別に造物主の領域に属し、余の私有にあらざるなり」明治四十三年に『横浜貿易新報』に載った富太郎の言葉である。
「明媚なる自然の風景を独り占めすることは、清き月の光を遮る浮雲の邪まなる心と同じだ」と宣言している。
三渓は実業家であるとともに、美術家であり、奉仕家でもあったのだ。
三渓は多くの若き芸術家のパトロンとしても知られている。
下村観山、前田青邨、小林古径、安田靫彦、横山大観…。近代日本画を代表する錚々たる顔ぶれが彼の世話になった。
月に六円で生計がたてられた時代に、月平均百円を支援していたというから半端ではない。かといって、タニマチヅラして偉ぶらなかったそうだ。それどころか、自ら集めた古美術の名品を彼らと共に観賞し、批評しあい、時に学んだ。
個人的な趣味が高じてということもあったろう。しかし、彼を突き動かしたのは危機感である。近代国家の玄関口「横浜」にあって、西洋文明に侵食されていく日本の姿をまざまざと目の当たりにしてきた彼だからこそ、日本の伝統文化や芸術の保護、保存に心血を注ぐ決意をしたのだと思う。
日本人はいつも極端に走る。明治維新以降の近代化の裏側には、古き日本文化の否定がある。明治の神仏判然(分離)令がいい例だ。
「寺と神社を別々にせよ」という命令が下ると、それまで拝んでいた仏像を破壊し、寺院を焼き払った。今も残る「首の無いお地蔵さま」は、愚かな廃仏毀釈運動の爪痕だろう。
大河ドラマ『龍馬伝』も最近、複雑な思いで観ている。西洋文明に驚き、感動し、心酔していく主人公や海軍操練所の若者たち。その対極にある攘夷派。
ドラマはちょうど、土佐勤皇党が粛清されるあたりだろうか。このあと、新旧の文明と思想の殺し合いが激化し、旧いものは一挙に淘汰されていくのだ。次に登場する新撰組もそうだ。
私のDNAなのだろうか、それとも前世の記憶がそうさせるのか…どうしても滅び行く方に感情移入してしまう。
八王子鼻の秘密
三渓園の入口に立っている。といっても、正門ではない。海に面した南門である。
ここからアクセスすると、正門から入ったのでは、絶対に味わえない風景に出会える。『上海横浜友好園』の池に浮かぶ湖心亭と、その向こうにある切り立った断崖だ。まるで水滸伝か三国志の世界。この断崖が昔の海岸線である。
現在、その海岸線にへばりつく形で「本牧市民公園」と「本牧市民プール」がある。
「三渓園の裏に岬があって、昔、その入り江で生糸の密貿易が行われていたんだよ」
と、声をひそめて教えてくれたのは、某歴史研究グループの男性だ。
「その岬の名前を『八王子鼻』という」
「八王子?…はな…ですか?」
「そうだ。八王子から絹の道を通って生糸が運ばれた。だから八王子鼻。三渓園がそこにあるのも偶然じゃないんだ。たぶん、原三渓も祖父さんの善三郎も密貿易に関わっていたんだな」
「まさか!」 どうも眉唾くさい。
大体、密貿易をしていたのは、開港前の話ではないか。中居屋重兵衛ならともかく、二人が関わっているはずがない。でも、三渓園の裏が密貿易の場所だったという話は面白い…ということで、この場所にやってきたのである。
市民プール横のスロープから崖の上にあがると、その裏、一段下がった所に、『横浜八聖殿郷土資料館』が建っていた。
法隆寺夢殿を模して建てた三層楼八角形の建物で、幕末から明治にかけての本牧、根岸の写真や市内で使われていた農具や漁具などが展示してある。
二階の展示室には建物の名前の由来となった八聖像(キリスト・ソクラテス・孔子・釈迦・聖徳太子・弘法大師・親鸞上人・日蓮上人)も置かれていた。
三渓園に行く人はいても、こちらまで足を運ぶ人はめったにいないのか、自分のほかにお客さんはいない。
ひと通り見て回ってから、すれ違った職員らしき男性を呼び止めて尋ねてみた。
「すいません。ここの地名ですが、もしかして八王子鼻っていいます?」
男性は一瞬、警戒するように私の顔を見つめたが、すぐに笑顔になって
「ええ、そうですよ。今は本牧鼻って呼んでいますけど、八王子鼻で間違いありません。鼻は岬のことですが、この断崖の下のところに、八王子権現を祀っていたんですよ」と、丁寧に教えてくれた。
「あ、なるほど。八王子の名前は権現様があったからですね」
「そうです、そうです。ああ、よかった。分かってくれる人で…」
満面の笑み。その安堵の表情に今度はこちらが違和感を覚えた。
絹の道をゆく-11 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
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