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2021年03月19日
真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-15 高丸コレクション
■八王子編 Vol.3
いつか見た情景
飛び降りたのは、「西中野二丁目」の停留所。八王子駅から「川口小学校(武蔵五日市)行き」に乗り、萩原橋で浅川を渡って三つめのバス停だ。住所は八王子市中野上町4丁目になる。
(もしかして、見間違いだったのでは?)
慌てて降りたのはいいが、急に不安になってきた。とはいえ、降りてしまったいじょうしかたない。白線を引いただけの狭い歩道を対向車を気にしながら、バス通りを引き返す。
80メートルほど歩いたところでパッと視界が開けた。民家が途絶え、現れたのはだだっ広い駐車場。
その真ん中に…
「あった!」
車窓からチラリと見えた、あの建物だ。間違いない。
切妻造りの木造二階家、茶色い板壁、ガタピシと音がしそうなガラス窓…、一棟だけかと思ったら、同じ形の建物がもう一つ隣に並んでいた。映画のセットではない、リアル「三丁目の夕日」だ。
なんて思うわけはない。それを見つけたのは1990年代はじめ、まだ映画「ALWAYS三丁目の夕日」は上映されていない。
とはいえ、まさしく昭和レトロ。懐かしさに引き寄せられるように駐車場の中へと踏み入っていた。。
今時珍しい舗装されていない砂利の駐車場。ジャリッ!ジャリッ!という足音がスイッチになったのか、さっき網膜に映し出された8ミリフィルムの映像がふたたび目の前に現れた。
いや、8ミリじゃない。今度は鮮明なビデオ映像だ。
広がる田んぼ、その中に建つ三角屋根の黒い工場。隣には、それに負けないくらいの大きな屋敷。あたりに漂う毛糸の香り…。
思い出した。ここは愛知県の一宮(いちのみや)だ。正確には、東海道線・木曽川駅の東側の田舎町。
愛知県の一宮については、「横浜編 Vol.4」の原三渓の故郷を紹介する回で紹介した。
小学校の頃、春と夏の休みには、名古屋から一時間ほどかけて、その一宮の従姉妹(いとこ)の家に泊まりがけで遊びに行っていた。現れた映像は、確かにその当時の風景だ。
頭がおかしいと思われるといけないので説明させていただく。信じられないかもしれないが、目を開けて他のものを見ているのに、視界の端っこの方に、まったく違う景色が見えることがある。それは例えば、旅先の町並みだったり、電車の車窓の風景だったり…しかも、飛んでいく山や川ばかりか看板の文字まではっきり読める。
おそらく、過去に見た記憶がフラッシュバックされるのだろう。
あ、やっぱり頭がおかしいのかもしれない。
この時も、田んぼの脇の用水路でザリガニやカエルを捕まえた時の情景や、藁を集めて田んぼの畦に造った秘密基地。土筆(ツクシ)の袴を取らされて、指が真っ黒になって皆で大笑いしたことなどが、ビビッドな映像となって現れた。
あの時、小学校の担任(もちろん、女の先生)に、花飾りをプレゼントしようとレンゲ草を摘んだっけ。結局、持っていったときには枯れてしまってたけど…。
いや、そんなことはどうでもいい。
この建物だ。小学校の頃の木造校舎に似ているが、近寄ってまじまじと眺めると、そのとんでもない大きさに圧倒される。二階建てだが高さは三階建てくらいあろうか。そう思って屋根の上を見ると、採光のためなのか、もう一つ小さな屋根がのっかっている。
それが養蚕農家の屋敷などに見られる「越(こし)屋根」だというのは後で知った。
日本機械工業株式会社
建物の反対側に回ると、入口に『日本機械工業株式会社 第一南秋寮』という看板があった。
(あ、会社の寮だったんだ!)
ぐるっと一周してみたが、昼間だからなのか住んでいる人の気配はない。
確かこの駐車場の道(秋川街道)を挟んだ向かい側にあったはず。墓参の帰りのバスで横を通った時に記憶していた。
気になると、とことん調べたくなるのが私の悪い癖。せっかくなので、会社を訪ねて話を聞いてみることにした。
バスで通過した時は気づかなかったが、日本機械工業の門構えも、守衛室のある門も、その向こうに見える事務所らしき建物も年季が入っている。こちらもまた昭和の香りがプンプンのロケーションだ。
門の前を流れる小川と桜の木がさらに趣を出している。松竹だったか,大映だったか忘れたが…昔の映画の撮影所が確かこんな感じ。しばし見惚れてしまっていた。
ん?敷地の奥に消防車が停まっている。しかも、一、二、三台。まさか、本当に映画の撮影所じゃないよね。
「すいません。ちょっといいですか?」
門の横の守衛室に声をかけると、現れたのはとても穏やかで紳士的な守衛さん。
その雰囲気から、いかつくて無愛想な守衛さんが出てくるんじゃないか…と想像していたので、少しホッとした。
日本機械工業というから、てっきり機械部品を作っている会社だと思ったら、消防車の製造している会社なのだそうだ。しかも、世界初の消防自動二輪をはじめ、はしご車や化学消防車など、国産消防自動車のトップメーカー。そんなことも知らずに、のこのこ訪ねてきた自分が恥ずかしい。
「失礼しました。じつは駐車場の建物が気になりまして…伺ったんですけど。アレ結構古いですよね」
「古いですよ、八王子セイシジョの頃からのものですから」
同じような質問が今までにもあったのだろう、駐車場の建物のことを尋ねると、即答で返ってきた。しかし、セイシジョの意味が分からない。
「製糸。糸です。繭から生糸をつくる会社ですよ」
「ああ、そうですか。糸をつくる会社ですね」
糸を作る会社と聞いて、なぜ一宮の映像がよみがえってきたのか…その理由が分かった。
一宮にあった従姉妹の家は、紡績工場と撚糸工場を経営していた。
立ち並ぶのこぎりの歯の形をした三角屋根の工場。
むせ返るような糸の匂い。そうそう、木製の糸巻きは、子どもたちの恰好のの遊び道具だった。
蚕の繭から糸をつくる製糸と、綿や羊毛といった短繊維から長い糸をつくる紡績の違いはあるが、どちらも「織物の町」。八王子製糸所と呼ばれるあの木造の建物が、自分の頭の中にあるビデオデッキの再生ボタンを押し、紡績工場とその周辺で遊んでいた頃の映像をよみがえらせてくれたのだ。
横浜編で原三渓の出身地・岐阜県柳津を紹介した時に、「一宮も柳津と同様に古くからの綿織物の産地である」と書いたが、じつは、一宮が「綿織物・毛織物」に移行したのは明治以降のこと。江戸時代は絹織物が盛んに行われていたのである。
地名の由来である尾張一の宮「真清田(ますみだ)神社」には、摂社として「服織(はとり)神社」が合祀され、萬幡豊秋津師比賣命 (よろずはたとよあきつしひめのみこと)という名の機織りの神様が祭神として祀られている。名前の「萬幡」は多くの織物を表し、「豊秋津」は穀物が豊かに実る秋、「師」は上質で美しい布を作る技師のこと、そして比賣命は女神。つまり、生糸で機を織る女性の神様だ。
毎年7月に、その機織りの神様に感謝する「おりもの感謝祭」が開催される。仙台、平塚と並ぶ日本三大七夕まつりの一つ「一宮の七夕まつり」とは。この「おりもの感謝祭」のことなのである。
ミス七夕やミス織物による「人力車七夕道中」や、神社に毛織物を奉納する「御衣奉献大行列」などが行われ、例年大勢の見物客で賑わう。もちろん自分も、子どもの頃に何度か連れて行ってもらっている。
日本機械工業の創業は大正11年と古い。横浜市鶴見区から八王子に工場を移したのは昭和18年で、それ以前は片倉製糸の工場『八王子製糸所』だったという。
「駐車場にも古い建物がありますね」
「ああ、あれは蚕を育てていた建物ですよ」
「蚕…、よ、養蚕っていうことですね」
「そう聞いています」
昭和12年(1937)に建てたられたものだそうで、間口9m、奥行き25mあるのだと…こちらも用意されてたかのように数字まで詳しく教えてくれた。
片倉製糸は、昭和5年に栽桑研究所(試験場)をすぐ近くの川口村に建設して、蚕に食べさせる桑の品種や土壌、肥料などの研究も行っていたのだという。
「川口村…ですか?」
これから行く霊園のあるバス停が「川口小学校前」だったよな…と、思い出したが、この時はそれほど気に留めることもなく、いつしか栽桑研究所のことも忘れてしまっていた。
これが片倉製糸との最初の出会い。
地名推理ファイルの連載を開始したのは、その10年後。「絹の道」に興味を持ち、その歴史を追いかけることになるのは、さらに7年後のこと。
まさか、この時に聞いた「片倉製糸」の名前が、絹の道を調べる上で重要なキーワードになろうなどと思いもよらなかった。
今考えると、片倉との第一次接近遭遇は単なる偶然ではないような気がする。それは、意味のある偶然の一致、そう!シンクロニシティ!
次回、その摩訶不思議な偶然に戦慄する!
絹の道をゆく-16 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
いつか見た情景
飛び降りたのは、「西中野二丁目」の停留所。八王子駅から「川口小学校(武蔵五日市)行き」に乗り、萩原橋で浅川を渡って三つめのバス停だ。住所は八王子市中野上町4丁目になる。
(もしかして、見間違いだったのでは?)
慌てて降りたのはいいが、急に不安になってきた。とはいえ、降りてしまったいじょうしかたない。白線を引いただけの狭い歩道を対向車を気にしながら、バス通りを引き返す。
80メートルほど歩いたところでパッと視界が開けた。民家が途絶え、現れたのはだだっ広い駐車場。
その真ん中に…
「あった!」
車窓からチラリと見えた、あの建物だ。間違いない。
切妻造りの木造二階家、茶色い板壁、ガタピシと音がしそうなガラス窓…、一棟だけかと思ったら、同じ形の建物がもう一つ隣に並んでいた。映画のセットではない、リアル「三丁目の夕日」だ。
なんて思うわけはない。それを見つけたのは1990年代はじめ、まだ映画「ALWAYS三丁目の夕日」は上映されていない。
とはいえ、まさしく昭和レトロ。懐かしさに引き寄せられるように駐車場の中へと踏み入っていた。。
今時珍しい舗装されていない砂利の駐車場。ジャリッ!ジャリッ!という足音がスイッチになったのか、さっき網膜に映し出された8ミリフィルムの映像がふたたび目の前に現れた。
いや、8ミリじゃない。今度は鮮明なビデオ映像だ。
広がる田んぼ、その中に建つ三角屋根の黒い工場。隣には、それに負けないくらいの大きな屋敷。あたりに漂う毛糸の香り…。
思い出した。ここは愛知県の一宮(いちのみや)だ。正確には、東海道線・木曽川駅の東側の田舎町。
愛知県の一宮については、「横浜編 Vol.4」の原三渓の故郷を紹介する回で紹介した。
小学校の頃、春と夏の休みには、名古屋から一時間ほどかけて、その一宮の従姉妹(いとこ)の家に泊まりがけで遊びに行っていた。現れた映像は、確かにその当時の風景だ。
頭がおかしいと思われるといけないので説明させていただく。信じられないかもしれないが、目を開けて他のものを見ているのに、視界の端っこの方に、まったく違う景色が見えることがある。それは例えば、旅先の町並みだったり、電車の車窓の風景だったり…しかも、飛んでいく山や川ばかりか看板の文字まではっきり読める。
おそらく、過去に見た記憶がフラッシュバックされるのだろう。
あ、やっぱり頭がおかしいのかもしれない。
この時も、田んぼの脇の用水路でザリガニやカエルを捕まえた時の情景や、藁を集めて田んぼの畦に造った秘密基地。土筆(ツクシ)の袴を取らされて、指が真っ黒になって皆で大笑いしたことなどが、ビビッドな映像となって現れた。
あの時、小学校の担任(もちろん、女の先生)に、花飾りをプレゼントしようとレンゲ草を摘んだっけ。結局、持っていったときには枯れてしまってたけど…。
いや、そんなことはどうでもいい。
この建物だ。小学校の頃の木造校舎に似ているが、近寄ってまじまじと眺めると、そのとんでもない大きさに圧倒される。二階建てだが高さは三階建てくらいあろうか。そう思って屋根の上を見ると、採光のためなのか、もう一つ小さな屋根がのっかっている。
それが養蚕農家の屋敷などに見られる「越(こし)屋根」だというのは後で知った。
日本機械工業株式会社
建物の反対側に回ると、入口に『日本機械工業株式会社 第一南秋寮』という看板があった。
(あ、会社の寮だったんだ!)
ぐるっと一周してみたが、昼間だからなのか住んでいる人の気配はない。
確かこの駐車場の道(秋川街道)を挟んだ向かい側にあったはず。墓参の帰りのバスで横を通った時に記憶していた。
気になると、とことん調べたくなるのが私の悪い癖。せっかくなので、会社を訪ねて話を聞いてみることにした。
バスで通過した時は気づかなかったが、日本機械工業の門構えも、守衛室のある門も、その向こうに見える事務所らしき建物も年季が入っている。こちらもまた昭和の香りがプンプンのロケーションだ。
門の前を流れる小川と桜の木がさらに趣を出している。松竹だったか,大映だったか忘れたが…昔の映画の撮影所が確かこんな感じ。しばし見惚れてしまっていた。
ん?敷地の奥に消防車が停まっている。しかも、一、二、三台。まさか、本当に映画の撮影所じゃないよね。
「すいません。ちょっといいですか?」
門の横の守衛室に声をかけると、現れたのはとても穏やかで紳士的な守衛さん。
その雰囲気から、いかつくて無愛想な守衛さんが出てくるんじゃないか…と想像していたので、少しホッとした。
日本機械工業というから、てっきり機械部品を作っている会社だと思ったら、消防車の製造している会社なのだそうだ。しかも、世界初の消防自動二輪をはじめ、はしご車や化学消防車など、国産消防自動車のトップメーカー。そんなことも知らずに、のこのこ訪ねてきた自分が恥ずかしい。
「失礼しました。じつは駐車場の建物が気になりまして…伺ったんですけど。アレ結構古いですよね」
「古いですよ、八王子セイシジョの頃からのものですから」
同じような質問が今までにもあったのだろう、駐車場の建物のことを尋ねると、即答で返ってきた。しかし、セイシジョの意味が分からない。
「製糸。糸です。繭から生糸をつくる会社ですよ」
「ああ、そうですか。糸をつくる会社ですね」
糸を作る会社と聞いて、なぜ一宮の映像がよみがえってきたのか…その理由が分かった。
一宮にあった従姉妹の家は、紡績工場と撚糸工場を経営していた。
立ち並ぶのこぎりの歯の形をした三角屋根の工場。
むせ返るような糸の匂い。そうそう、木製の糸巻きは、子どもたちの恰好のの遊び道具だった。
蚕の繭から糸をつくる製糸と、綿や羊毛といった短繊維から長い糸をつくる紡績の違いはあるが、どちらも「織物の町」。八王子製糸所と呼ばれるあの木造の建物が、自分の頭の中にあるビデオデッキの再生ボタンを押し、紡績工場とその周辺で遊んでいた頃の映像をよみがえらせてくれたのだ。
横浜編で原三渓の出身地・岐阜県柳津を紹介した時に、「一宮も柳津と同様に古くからの綿織物の産地である」と書いたが、じつは、一宮が「綿織物・毛織物」に移行したのは明治以降のこと。江戸時代は絹織物が盛んに行われていたのである。
地名の由来である尾張一の宮「真清田(ますみだ)神社」には、摂社として「服織(はとり)神社」が合祀され、萬幡豊秋津師比賣命 (よろずはたとよあきつしひめのみこと)という名の機織りの神様が祭神として祀られている。名前の「萬幡」は多くの織物を表し、「豊秋津」は穀物が豊かに実る秋、「師」は上質で美しい布を作る技師のこと、そして比賣命は女神。つまり、生糸で機を織る女性の神様だ。
毎年7月に、その機織りの神様に感謝する「おりもの感謝祭」が開催される。仙台、平塚と並ぶ日本三大七夕まつりの一つ「一宮の七夕まつり」とは。この「おりもの感謝祭」のことなのである。
ミス七夕やミス織物による「人力車七夕道中」や、神社に毛織物を奉納する「御衣奉献大行列」などが行われ、例年大勢の見物客で賑わう。もちろん自分も、子どもの頃に何度か連れて行ってもらっている。
日本機械工業の創業は大正11年と古い。横浜市鶴見区から八王子に工場を移したのは昭和18年で、それ以前は片倉製糸の工場『八王子製糸所』だったという。
「駐車場にも古い建物がありますね」
「ああ、あれは蚕を育てていた建物ですよ」
「蚕…、よ、養蚕っていうことですね」
「そう聞いています」
昭和12年(1937)に建てたられたものだそうで、間口9m、奥行き25mあるのだと…こちらも用意されてたかのように数字まで詳しく教えてくれた。
片倉製糸は、昭和5年に栽桑研究所(試験場)をすぐ近くの川口村に建設して、蚕に食べさせる桑の品種や土壌、肥料などの研究も行っていたのだという。
「川口村…ですか?」
これから行く霊園のあるバス停が「川口小学校前」だったよな…と、思い出したが、この時はそれほど気に留めることもなく、いつしか栽桑研究所のことも忘れてしまっていた。
これが片倉製糸との最初の出会い。
地名推理ファイルの連載を開始したのは、その10年後。「絹の道」に興味を持ち、その歴史を追いかけることになるのは、さらに7年後のこと。
まさか、この時に聞いた「片倉製糸」の名前が、絹の道を調べる上で重要なキーワードになろうなどと思いもよらなかった。
今考えると、片倉との第一次接近遭遇は単なる偶然ではないような気がする。それは、意味のある偶然の一致、そう!シンクロニシティ!
次回、その摩訶不思議な偶然に戦慄する!
つづく
絹の道をゆく-16 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
2021年03月12日
真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-14 高丸コレクション
■八王子編 Vol.2
男軍人、女は工女
司馬遼太郎氏の小説は、そのほとんどを二十代の頃に読んだ。特に『坂の上の雲』は、寝るのも忘れるほど夢中になった。
「世界最弱」といわれた陸軍騎兵隊を鍛え上げ、強敵ロシアの「コサック騎兵隊」を撃退させた秋山好古(よしふる)。
類まれな戦略で、ロシア・バルチック艦隊を撃破した日本海海戦の首席参謀、秋山真之(さねゆき)。
二人の主人公だけでなく、日本が壊滅するという危機的状況を見事回避した、高潔で志の高い政治家や軍人。祖国を守るために死地に飛び込んでいった無名の兵士たち。
明治を生きた男たちに対する敬慕と感謝の念、それが文庫本全8巻を読み終えたあとの偽らざる感情であった。
今もその気持ちは変わっていない。いないが…こうしてテレビドラマになり、それなりに人気を博してくると、「それでいいのか?」という批判精神がムクムクと首をもたげてくる。悪い癖だ。
日露戦争のわずか13年前、清国の提督・丁汝昌(ていじょしょう)が最新鋭の巨大艦6隻を率いて日本を恫喝するためにやってきた。この時、我が国の海軍力は、イギリスから買った小さな鋼鉄艦「扶桑」がたった一隻、あとは木造船という貧弱な海軍力だった。
しかし、その三年後。日清戦争勃発時の日本海軍の兵力は、驚くべきことに五十五隻を擁する強力な連合艦隊を編成するまでになっていた。
そして、三回にわたる大海戦で清国海軍を全滅させた。
これが日露の戦いの時には、百五十二隻。およそ三倍の兵力になっている。
奇跡ともいえる長足の進歩の理由は、欧米からの借金(ユダヤ資本)であることは確かだ。
日露戦争の費用は総計で19億8612万円。当時の国家予算は8年分である。その内の4分の3は借金によって補ったといわれている。
さらに、外貨獲得のために政府が力を注いだのが産業革命と貿易である。
その貿易、明治から昭和の初めに至るまで、最大の輸出商品となったのが、まさに生糸だったのである。
当時、日本の輸出量の80%近くを生糸が占めていた。生糸が日本の経済を担っていたといっても過言ではない。全国数百万という、幼い工女たちが劣悪な環境の中で、命懸けでひいた糸が外貨を稼ぎ、それが軍艦や大砲に姿を変えていったのだ。
『あゝ野麦峠』の著者は(どこでどう狂ったのか、いつの間にか大事なことが忘れられて、『大和魂』にすり替えられてしまった)と嘆く。
この『絹の道』の第一回プロローグが調所一郎氏からの電話から始まったのも、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)だったのかもしれない。
彼の先祖である薩摩藩家老・調所笑左衛門廣郷(ひろさと)。彼もまた、成し得た仕事を評価されずに非業の最期を遂げた。
五百万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前だった薩摩藩の財政を立て直し、かつ財政改革および軍制改革を成功させ、明治維新を成し遂げる財力を蓄えたにもかかわらず、維新の英雄…西郷、大久保と敵対した極悪人というレッテルを貼られたのだ。
日本人というのは英雄が大好きである。スポットライトを浴びる表舞台の役者ばかりを称賛して、彼らを引き立たせるために、地道に仕事をしている裏方をないがしろにする。
大河ドラマがいい例だ。信長や秀吉や家康、源義経や伊達政宗は主人公になるが、それを影で支えた人々がどれだけ功績を残してもドラマにならないし、なったとしても視聴率は低い。ましてや庶民の活躍となると歯牙にもかけない。自分のような天の邪鬼でひねくれた性格の人間としては、なんとも腹立たしい。
男軍人女は工女 糸をひくのも国のため
軍人ばかりが戦争をしてきたのではない。銃後の片隅で、必死に生きてきた工女たちもまた戦っていたのだ。このことを書かずして、「絹の道」など笑止千万。ドラマ『坂の上の雲』をご覧になる方は、是非そのことを念頭に入れて観ていただきたい。
八王子の街道
甲州街道(国道20号)が八王子駅の北をJR中央本線と平行して走っている。
横山町、八日町、八幡町、左右に商店が立ち並ぶバス通りを中心とした地域が、大久保長安が造った甲州街道最大の宿場町『八王子横山十五宿』である。
途中、本郷横丁東の交差点を左に入ると、路地の先に大久保長安の陣屋跡がある。中央本線の線路近くにある産千代稲荷(うぶちよいなり)神社がそれだ。
古い宿場だっただけに、周辺にはこうした史跡があふれている。
甲州街道をさらに西に行くと、追分町の交差点付近で二又に分かれる。陣場街道だ。
交差点には、文化八年(1811)江戸の足袋職人が高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に建てたといわれる道標が建っていた。
道標から陣場街道を少し進むと、今度は『八王子千人同心屋敷跡』の記念碑がある。
千人同心とは、甲州口の警備と治安維持のために配置された半農半武の幕臣集団のこと。 甲斐の武田家が滅んだ際の遺臣たちを中心に編成された。
ちなみに、陣場街道の名前の元になった陣場山は、武田信玄が陣を置いたことから名づけられた。
甲州街道を戻り、本郷横丁の交差点を秋川街道に入る。墓参りに行くのに年二回バスで通る道だ。
交差点から北に500mほどで、浅川という川を渡る。
いつだったかバスを降りて歩いた時に、その橋の欄干とタイルに機織り機の絵柄が描かれているのを発見した。その時はあまり気にも留めなかったが、改めて調べてみると面白いことが分かってきた。
橋の名前は「萩原橋」という。
明治三十三年、この地に製糸工場を営む萩原彦七という人物が、架設費用1万3千円(当時)を負担したことから、その名が付けられた。
明治十年、八王子初の器械製糸工場を創業。一時は「製糸王」と呼ばれるほどに成功した彦七だったが、大恐慌により大打撃を受け, 工場は明治三十四年に信州の片倉製糸に買収された。
ここで再び「片倉製糸」が登場する。
それに関連した建物が川を渡った先(中野上町)にある。見つけたのは、ずいぶん昔のことだ。
バスの窓のむこうに、そいつが現れたときの衝撃…。幼き日々の情景が、まるで8ミリ映画のように網膜の裏に映し出され、気がついら降車ブザーを押していた。
絹の道をゆく-15 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
男軍人、女は工女
司馬遼太郎氏の小説は、そのほとんどを二十代の頃に読んだ。特に『坂の上の雲』は、寝るのも忘れるほど夢中になった。
「世界最弱」といわれた陸軍騎兵隊を鍛え上げ、強敵ロシアの「コサック騎兵隊」を撃退させた秋山好古(よしふる)。
類まれな戦略で、ロシア・バルチック艦隊を撃破した日本海海戦の首席参謀、秋山真之(さねゆき)。
二人の主人公だけでなく、日本が壊滅するという危機的状況を見事回避した、高潔で志の高い政治家や軍人。祖国を守るために死地に飛び込んでいった無名の兵士たち。
明治を生きた男たちに対する敬慕と感謝の念、それが文庫本全8巻を読み終えたあとの偽らざる感情であった。
今もその気持ちは変わっていない。いないが…こうしてテレビドラマになり、それなりに人気を博してくると、「それでいいのか?」という批判精神がムクムクと首をもたげてくる。悪い癖だ。
日露戦争のわずか13年前、清国の提督・丁汝昌(ていじょしょう)が最新鋭の巨大艦6隻を率いて日本を恫喝するためにやってきた。この時、我が国の海軍力は、イギリスから買った小さな鋼鉄艦「扶桑」がたった一隻、あとは木造船という貧弱な海軍力だった。
しかし、その三年後。日清戦争勃発時の日本海軍の兵力は、驚くべきことに五十五隻を擁する強力な連合艦隊を編成するまでになっていた。
そして、三回にわたる大海戦で清国海軍を全滅させた。
これが日露の戦いの時には、百五十二隻。およそ三倍の兵力になっている。
奇跡ともいえる長足の進歩の理由は、欧米からの借金(ユダヤ資本)であることは確かだ。
日露戦争の費用は総計で19億8612万円。当時の国家予算は8年分である。その内の4分の3は借金によって補ったといわれている。
さらに、外貨獲得のために政府が力を注いだのが産業革命と貿易である。
その貿易、明治から昭和の初めに至るまで、最大の輸出商品となったのが、まさに生糸だったのである。
当時、日本の輸出量の80%近くを生糸が占めていた。生糸が日本の経済を担っていたといっても過言ではない。全国数百万という、幼い工女たちが劣悪な環境の中で、命懸けでひいた糸が外貨を稼ぎ、それが軍艦や大砲に姿を変えていったのだ。
『あゝ野麦峠』の著者は(どこでどう狂ったのか、いつの間にか大事なことが忘れられて、『大和魂』にすり替えられてしまった)と嘆く。
この『絹の道』の第一回プロローグが調所一郎氏からの電話から始まったのも、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)だったのかもしれない。
彼の先祖である薩摩藩家老・調所笑左衛門廣郷(ひろさと)。彼もまた、成し得た仕事を評価されずに非業の最期を遂げた。
五百万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前だった薩摩藩の財政を立て直し、かつ財政改革および軍制改革を成功させ、明治維新を成し遂げる財力を蓄えたにもかかわらず、維新の英雄…西郷、大久保と敵対した極悪人というレッテルを貼られたのだ。
日本人というのは英雄が大好きである。スポットライトを浴びる表舞台の役者ばかりを称賛して、彼らを引き立たせるために、地道に仕事をしている裏方をないがしろにする。
大河ドラマがいい例だ。信長や秀吉や家康、源義経や伊達政宗は主人公になるが、それを影で支えた人々がどれだけ功績を残してもドラマにならないし、なったとしても視聴率は低い。ましてや庶民の活躍となると歯牙にもかけない。自分のような天の邪鬼でひねくれた性格の人間としては、なんとも腹立たしい。
男軍人女は工女 糸をひくのも国のため
軍人ばかりが戦争をしてきたのではない。銃後の片隅で、必死に生きてきた工女たちもまた戦っていたのだ。このことを書かずして、「絹の道」など笑止千万。ドラマ『坂の上の雲』をご覧になる方は、是非そのことを念頭に入れて観ていただきたい。
八王子の街道
甲州街道(国道20号)が八王子駅の北をJR中央本線と平行して走っている。
横山町、八日町、八幡町、左右に商店が立ち並ぶバス通りを中心とした地域が、大久保長安が造った甲州街道最大の宿場町『八王子横山十五宿』である。
途中、本郷横丁東の交差点を左に入ると、路地の先に大久保長安の陣屋跡がある。中央本線の線路近くにある産千代稲荷(うぶちよいなり)神社がそれだ。
古い宿場だっただけに、周辺にはこうした史跡があふれている。
甲州街道をさらに西に行くと、追分町の交差点付近で二又に分かれる。陣場街道だ。
交差点には、文化八年(1811)江戸の足袋職人が高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に建てたといわれる道標が建っていた。
道標から陣場街道を少し進むと、今度は『八王子千人同心屋敷跡』の記念碑がある。
千人同心とは、甲州口の警備と治安維持のために配置された半農半武の幕臣集団のこと。 甲斐の武田家が滅んだ際の遺臣たちを中心に編成された。
ちなみに、陣場街道の名前の元になった陣場山は、武田信玄が陣を置いたことから名づけられた。
甲州街道を戻り、本郷横丁の交差点を秋川街道に入る。墓参りに行くのに年二回バスで通る道だ。
交差点から北に500mほどで、浅川という川を渡る。
いつだったかバスを降りて歩いた時に、その橋の欄干とタイルに機織り機の絵柄が描かれているのを発見した。その時はあまり気にも留めなかったが、改めて調べてみると面白いことが分かってきた。
橋の名前は「萩原橋」という。
明治三十三年、この地に製糸工場を営む萩原彦七という人物が、架設費用1万3千円(当時)を負担したことから、その名が付けられた。
明治十年、八王子初の器械製糸工場を創業。一時は「製糸王」と呼ばれるほどに成功した彦七だったが、大恐慌により大打撃を受け, 工場は明治三十四年に信州の片倉製糸に買収された。
ここで再び「片倉製糸」が登場する。
それに関連した建物が川を渡った先(中野上町)にある。見つけたのは、ずいぶん昔のことだ。
バスの窓のむこうに、そいつが現れたときの衝撃…。幼き日々の情景が、まるで8ミリ映画のように網膜の裏に映し出され、気がついら降車ブザーを押していた。
つづく
絹の道をゆく-15 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。