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2021年01月28日

NR-あお葉のこと葉 ファイル-8

ばっちらげっこ
  ばっちらげっこ。一瞬、この地方独特のカエルの呼び名かと思った。

「昔は兄弟が多いから、ごはんどきはバッチラゲッコ。モタモタしてると食いっぱぐれんのよ」

少子化のためか、最近はあまり見かけないが、昔の家庭では日常の光景。そう、おかずの奪い合いのこと。「先を争って競争する」ことを多摩地方や神奈川県では(ばっちらげっこ)と言うのだそうだ。

調べてみると、山梨県では(ばっちらこう)。同じく、群馬県は(ばっちらこと)。長野県では、先を争うという意味で(ばっちらがる)。静岡県では電車の座席取りなど、独占するという時に(ばっち)(ばった)(ばっちらがう)を使う。

ニュアンスは微妙に違うが、(ばっちら)だけで「争う」「奪う」という意味になることは間違いない。ちなみに、茨城県は(ばいさらー)栃木県は(ばいさりあう)…と、少し穏やかな感じになる。

ばっちらげっこ.jpg


 後ろにくっつく(げっこ、こう、こと、がる、がう)は、複合動詞として使われる「〇〇合う」に該当する。

並べてみると(げっこ)だけが、はっちゃけた印象を受ける。以前紹介した(おっぺす)のように、促音を入れて強調するこの地方独特の言い回しなのだろう。穏やかな北関東との気質の違いが表れていて、じつに興味深い。

このコロナ禍でおかずも個別に取り分けるようになった。家庭内のばっちらげっこも消滅していくのだろう。それに引き替え、災害が起きるたびに繰り広げられるスーパーやコンビニでの争奪戦。電池だ!マスクだ!消毒液だ!こんなバッチラは、もうケッコウだ!


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2021年01月02日

NR-あお葉のこと葉 ファイル-6

屋号 後編
 「おんまし」という屋号がある。青葉区および、周辺の地域でよく耳にする屋号だが、地元の人に聞いてもその謂れは判然としない。

 「馬でも回したんじゃねぇか」と、ある地主さん。なるほど、お馬(おんま)回し…か。博労(馬喰)、馬車屋、馬医に馬の鑑定人など、馬を扱う職業がズラッと脳裏に浮かんだ。かつて、区内の各地で農耕馬による競馬が行われていた。その関係かもしれない。

 川崎市の資料の中に【領主が領内を馬で巡検したおりに、村の境界のところで馬の首を巡らした場所をオンマワシという】との説が記載されていた。と、すると職業でなく地名屋号になる。さらに、【洪水に見舞われたとき、川の流れを向う側へと必死に追い回した場所】という文章もあった。麻生区下麻生にある「恩廻」という地名について記された箇所だ。

恩廻は鶴見川が大きく蛇行している地点の字名で、現在そこには「恩廻調整池」という、大雨などで溢れた川の水を地下の巨大トンネルに流して貯留する施設が建っている。こういった施設のおかげで鶴見川は洪水災害から免れているのだ。

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 江戸時代、同じ場所に「五か村用水」の取水口があった。下流にある上鉄、中鉄、下鉄の三つの鉄村と大場村、市ケ尾村の五つの村に水を引くための灌漑用水で、江戸初期に小泉次大夫という代官によって整備された。

 川の水を(追い回す)という言い方にはどうも違和感がある。もしかすると、洪水ではなく、農家に「恩恵」をもたらす「水」をまわす。恩をまわす=恩廻し(オンマワシ)=オンマシ…になったのではないだろうか。水は天からの「施し」。

施されたら施し返す 「恩まわし」です!ってね。

つづく

2021年01月01日

NR-あお葉のこと葉 ファイル-5

屋号 前編
 古くから続く農村には、家ごとに苗字とは別の通称がある。屋号、または家名と呼ばれ、同一姓の多い土地でそれぞれの家を判別するのに都合が良い。

 屋号は全国どの地方にもある。地方によって特色はあるが、そのパターンは概ね以下のように大別できる。○兵衛・○三郎など…先祖の名前や渾名由来。分家・新宅・隠居など…家のつながり由来。日向・日陰・原・○○谷戸・堂前・宮の下など…地名や地形、場所、位置由来。そして、醤油や・豆腐や・鍛冶や・下駄や…といった職業由来。ここでいう職業とは現金収入を得るため農閑期を利用して営まれた農間余業のこと。食料品から日用雑貨、衣類など…それはバラエティに富んでいて、村という小さな共同体の中で生活に必要なものは、ほとんど賄うことができた。

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知り合いに「かさ」という屋号の地主さんがいる。最初、傘や笠作りの家だと思っていたが、他の村の屋号を調べてみると、「かさ」の登場頻度は極めて高い。そんなに傘(笠)の需要はあったのだろうか…?疑問に思っていたら、都筑区に「上サ」と書いて「かさ」と読む字名を発見した。「上の方」をあらわす言葉で、関東にはよくある地名だという。

 「サ」は、「おら東京さ行ぐだ」の「さ」、格助詞の「へ」や「に」に該当する。屋号の「かさ」が上の方を表す「上サ」なら、他の屋号よりも多くて当然だし、起伏の激しい多摩丘陵ならではの屋号だと納得できる。

 意味不明の言葉も、このように心のドローンを飛ばして俯瞰して見れば謎は解けるのだ。というわけで、次回も空を飛んで謎の屋号に迫ってみたい!

つづく

2020年06月11日

NR-あお葉のこと葉 ファイル-4

谷戸 番外編
 先祖の墓参りをしようと生まれ故郷の岐阜県に帰った。岐阜駅でフリーパス乗車券(510円)を買い、バスで向かったのは美濃市。途中思い立ち、山県市の中洞という集落で途中下車した。

 中洞には今年の大河ドラマの主人公・明智光秀の墓(桔梗塚)がある。複数存在する生誕地の一つで、山崎の合戦で死なず、この地に隠れ住んだという生存伝説まで残されている。途中下車したのは、その史跡を見学する…ためではなく、「谷戸」を確認するため。

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 実は岐阜県は谷戸のような地形を「洞(ほら)」と呼ぶのである。バス停から七分、小さな川の上流に向かって歩いていくと、その先に「光秀産湯の井戸」、さらに奥に「桔梗塚」はあった。

「ほら〜!」思わず声が出た。山に囲まれたこの地形、まごうことなく谷戸だ。

23-中洞.jpg


 この中洞から長良川の支流・武儀川に沿って歩く。山県市と関市をまたぐ「やまぼうし街道」と呼ばれる国道を四キロほど進むと、今度は春日局の屋敷跡(関市武芸川町)がある。

 春日局は光秀の寵臣・斎藤利三の娘。三代将軍・家光の乳母になる直前まで夫の稲葉正成や子どもたちと、ここ「谷口の里」で暮らした。

 「お局道」と呼ばれる小径が残っている。屋敷から裏の神社へ通ったといわれる参道だ。神社の名は「猪之洞神明社」。そう、ここも「洞」が付く。

猪之洞.jpg


 近くで畑仕事をされていた土地の方に尋ねると

「ほーやて、山に囲まれとるやろ。こういう土地を『ホラ』って呼ぶんだわなも」

 と、美濃訛りで親切に教えてくれた。

 母の実家は、谷口の北、山を越えた先にある。板取川の流域にある美濃和紙の里だ。

 実家の隣の集落が鮎で有名な「関市洞戸」。最近は「モネの池」と呼ばれる観光スポットが人気を呼んでいる。

 さらに「神洞」「湯の洞」と洞地名が点在する。子どもの頃から慣れ親しんでいる洞地名だが、谷戸地形と同義だと知って見方が変わった。

 墓参を済ませ再びバスに乗っての帰り道、「谷戸」というバス停を通過した。

tando.jpg


(げっ!谷戸と洞は別なのか!)

 焦って運転手さんに確認すると

 「あ〜あれは『たん・ど』って読むんですよ」

 その言葉にホッ!と、安堵した。

 洞だけでなく、史跡や文化遺産も満載の我が「美濃の国」。コロナ騒動が収束した暁には、ぜひとも訪ねてみてほしい。
 
谷戸編 おわり


★この旅の顛末は近日「放浪ファイル」として、さらに詳しくアップする予定。 乞うご期待!

NR-あお葉のこと葉 ファイル-3

谷戸 後編
 丘陵地が雨や湧水等の浸食により形成されたヤト地形。神奈川県ではヤト(谷戸)と呼ぶが、東京湾の対岸の千葉県ではヤツ(谷津)と呼び、県の大半を占める。

 東京は渋谷、四ツ谷など戸も津も付かないヤ(谷)一文字。と、思いきや。それは府内(江戸の市街地)に限ったことで、その外側はヤトが多く、若干だがヤツも混じっていた。

 練馬区に、かつて「練馬七谷戸」と呼ばれる地域があったという。二十歳の頃に住んでいた区なので調べてみたら、豊島園の周辺…なんと、自分が住んでいたアパートの場所。どうりで!住宅街なのにヒキガエルが大量発生すると思った。

 埼玉県も含めた北関東も同様にヤト、ヤツが混在するが、さらにそこへヤチ(谷地)が加わる。谷地は東北地方では馴染みのある言葉。民俗学者の柳田國男氏によるとアイヌ語起源で沼沢や湿地を意味する言葉らしい。

 湧水や湧水で侵食されてできたヤト、ヤチも当然湿地帯。もしかすると、湿地の意味する広義のヤチが、東北から関東に下りてくる過程で狭義のヤツ、ヤト、ヤに変化していったのかもしれない。

 神奈川はほぼヤトだと書いたが、かつての武士の都・鎌倉だけは違っていた。扇ガ谷、亀ヶ谷など歴史に登場する地も含め、ヤツ地名が五〇以上。ヤト地域である横須賀、逗子、藤沢に囲まれるようにしてヤツらは鎌倉を占拠していた。

 いや、一か所ほころびがあった。横浜市金沢区だ。鎌倉の出入り口の一つ、朝比奈の切通しから鎌倉幕府の外港・平潟湾(金沢八景)へ抜けるルートにヤツらはいた。

 港の先は房総半島…なるほど、義朝だったか!

 源義朝…頼朝・義経の父親である。彼は房総半島で少年期を過ごし、土地の豪族たちから「上総御曹司」と呼ばれていた。その後、拠点を移して住んだのが鎌倉の亀ケ谷。

 つまり、房総半島からヤツらを連れてきたのは義朝に違いない!

 そう結論づけようとしたら、小田原にもヤツ地名が散らばっているのを見つけてしまった。
う〜ん、ヤット(谷戸)と謎が解けるところだったのに!厄介なヤツ(谷津)だ。
 
番外編につづく

NR-あお葉のこと葉 ファイル-2

谷戸 前編
わが人生「山あり谷あり」なら、わが郷土・青葉区は「丘あり谷戸あり」である。

 高尾山麓から南東に向かって下りてきた多摩丘陵。その小高い丘陵台地が雨や湧き水によって浸食されて形成された谷状の地形を谷戸(やと)と呼ぶ。

青葉区が開発される前の航空写真を見れば、樹木の生い茂った黒っぽい丘陵地と白い谷戸がまるで毛布のシワのように折り重なっているのが分かる。



 青葉区(当時は緑区)に越してきた頃、近所のスナックで「谷野さん」という方と知り合った。

 ボトルの名前を見て、「ヤノさん」と呼んでいたら、しばらくして「ヤノじゃなくヤトノです」と笑いながら訂正された。

 慌てて謝ったが、「なぜ(ト)が入るんですか?」と訊ねる勇気は二十代の自分にはなく、ただ釈然としない気持ちだけが残った。

 谷戸という地名があることを知ったのは、ずいぶん経ってからのこと。

 最初に出会ったのは、元石川町にある尾作(おざく)谷戸だ。県道13号の覚永寺下信号から荏子田方面へ伸びる細長い集落の呼称だと地元の方に教わった。

 現在、遊水地や老人ホームの建設で景観が変わってしまったが、たまプラーザの一角に、こんなにもファンタスティックで叙情的な風景が残されていたのか!と猛烈に感動したのを覚えている。

 谷戸の景観が楽しめる場所として「寺家ふるさと村」が有名だが、恩田の白山谷戸や奈良川の源流にある土橋(つちはし)谷戸も、谷戸の自然や雰囲気がそのまま残されている。

谷戸.jpg


 あざみ野駅と江田駅の間には、かつて自然の宝庫と呼ばれた赤田の谷戸が東西に横たわっていた。
小黒谷戸(荏田)、蓬谷戸(美しが丘西)、中谷戸(千草台)などはバス停にその名を留める。

 鴨志田の中谷都バス停も本来は中谷戸だったに違いない。荏田北の長谷第一、第二公園は思わず(はせ)と読みそうになるが、(ながやと)と読む。奈良三丁目の熊ケ谷も戸が付かないが、(くまがやと)だ。

 調べてみると、本来は「谷」一文字で(やと)と読んでいたらしい。なるほど、谷野さんの名前に(ト)が入るのは、本来の読みだったのだ。

 
後編につづく


NR-あお葉のこと葉 ファイル-1

おっぺす・ぼっこす
捨てる神あれば拾う神あり。
神奈川県全域を網羅する地域情報紙「タウンニュース」の青葉区版に現在、不定期だが連載記事の寄稿をさせてもらっている。

題して「あお葉のこと葉ファイル」

わが地元・青葉区の歴史、地名、伝説にまつわる言葉や、方言など…この地方独特な言葉を拾い集め、その背景や歴史を掘り下げる…という内容。

すでに四回掲載され、好評を博している(そうだ)。

こちらでは、紙面に書ききれなかった内容を加え、新たに書きおろし(Newly written)でご紹介。

地域メディアの編集者として、またさて、どんな言葉が飛び出すか?

新旧住民のあわいで

青葉区はご存じのように東京急行電鉄による多摩田園都市開発によって大きく変貌を遂げた街である。私が越してきた昭和50年代には、代々この地で暮らしてきた旧住民の方と、開発が始まると同時に移住してきた新住民の方の間には目に見えない壁があった。

新住民といっても、私のような「はぐれ鳥」はごく少数で、駅周辺の社宅や社員寮に住む20〜30代が大半。あとは高級住宅地に新居を構えた50〜60代くらいの資産家で構成されていた。

たまプラーザや青葉台あたりの夜の街に出没するのは、もっぱら社員寮に住む20代30代の若者たち。
そこに、私たち「はぐれ鳥」がちゃっかり紛れ込み、大いに飲み、語り、時にハメを外して暴れまわっていた…というのが三十数年前の青葉区。

そんな夜の街の「スナック」「パブ」と呼ばれた夜のお店の上得意といえば、リッチな旧住民の皆さんであった。

ゆったりとボックス席に座り、はしゃぎ騒ぐ我々新住民の若者を気にするでもなく静かにグラスを傾けながら店のママと歓談し、カラオケの十八番を気持ちよく歌ったらスッと帰る。粋である!

ほとんどの若者は、そういった常連さんとは一線を画していたように思う。

名称未設定 1.jpg


誘うリズム

ところが、人間好きで好奇心旺盛な性格が幸いしたのか、お調子者な性格が気に入られたのか、新住民なりたてにも関わらず旧住民=地主の皆さんにはいろいろと可愛がってもらうようになっていた。

採れたての野菜をいただいたり、祭りに連れて行ってもらったり…。

なにより楽しかったのは昔の暮らしについて話を聞くことだった。
多摩弁、武州弁と呼ばれる独特の方言が、旅へ誘(いざな)う線路のリズムのように心地よく耳にひびき、いつの間にか開発される以前の時代へタイムスリップしていた。

そのリズムの一つが促音便訛り。
「落ちる」を「落っこちる」。「歩いていく」を「歩ってく」。「散らかす」は「おっちらげ」で「広げる」は「おっぴろげ」など、小さな「つ」が入ることでよりリアルなイメージできる。

さすがに「おっぺす」「ぼっこす」と聞いたときには、「外国語か?」と思って聞き返していたが…。

こうした促音便に「べえ」「だんべえ」という関東地方で広く使われている「べーべー言葉」が入ったりしたらもう完璧。

心揺さぶられずにはいられない。

「青葉区の 歴史あれかしお祭りの 人ごみの中に そを聴きにゆく」

歴史探偵の活力の源泉はそこにあったのだ。

人生は山あり谷あり。順風満帆な楽しい時期だけではない。
理不尽な仕打ちや、裏切りなどで心がぼっこされることもある。

それでも前を向いて頑張っていれば必ず誰かが背中をおっぺして応援してくれる。

さ、地域のために頑張んべえ! 前に向かって歩ってくべえ!
              
 
つづく



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ある時は地域情報紙の編集長、ある時はフリーライター、またある時は紙芝居のオジサン、しこうしてその実態は・・・穏やかな心を持ちながら激しい憤りによって目覚めた伝説の唄う地域史研究家・・・歴史探偵・高丸だ!
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