2021年01月08日
真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-5 高丸コレクション
■プロローグ Vol.5
先月号で「面白い」と宣伝したから…ではないが、ドラマ『JIN-仁』の視聴率がシリーズ最高を記録した。
今秋放送開始された連続ドラマで二十%を超えたドラマはこれだけだという。
急いで原作の漫画も通しで読んでみた。なるほど、文字通り筋の通った内容。
ドラマではスルーしてしまった、生麦事件も登場する。さすがに、英国人を助けるなどということはないが、マーシャルやクラークを治療したイギリス公使館付の医師・ウィリアム・ウィリスとアメリカ人医師・ヘボン(ヘボン式ローマ字で有名)を助手に手術を行い、サムライに斬られて瀕死の外国人水兵を助けてしまう。
当時はまだ無い人工呼吸法で、ヘボンが「神の奇跡」と呟くシーンは圧巻だ。
因みに、ヘボンは本来ヘップバーンと発音する。あのオードリ・ヘップバーンと同じだ。当時の日本人にはヘボンと聴こえたのだろう。
ドラマは予算や時間の関係上、端折ってもいるし、原作にない登場人物など、オリジナルの設定になったりもしている。それはそれで、一粒で二度美味しいというものだ。
それにしても、医療シーンのリアルさは見事だ。
それもそのはず、医史監修に酒井シヅ氏(順天堂大学医学部名誉教授)、医療指導には冨田泰彦氏(杏林大学医学教育学教室講師)が名を連ねていた。
歴史監修に大庭邦彦氏(聖徳大学人文学部 日本文化学科教授) を起用するなど、歴史考証もしっかりしている。
惜しいかな、この号が発行される日が最終回。原作はまだ続いていて、佐久間象山、西郷隆盛、高杉晋作、皇女和宮、大相撲の陣幕久五郎など、実在の偉人が続々と登場する。
「稲むらの火」のモデル
気が付いたら、今回もドラマの宣伝に四分の一以上費やしてしまった。漫画やドラマに興味のない方は、さぞやご立腹でしょう。が、しかし、漫画で当時の雰囲気を知ることもあるし、漫画で新しい知識を得るということもある。
この漫画を読んで初めて知った人物に濱口儀兵衛という人がいる。なんと、あのヤマサ醤油の七代目当主である。年配の方なら、国語の教科書に載っていた『稲むらの火』という話をご存知だろう。
安政元年(一八五四)に紀伊半島を襲った大地震。地震のあと、津波が来襲することに気付いた一人の男が、祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束に火をつけて、村人を誘導して助けるという話。
この話は実話で、その主人公のモデルこそ、濱口儀兵衛なのである。
漫画ではペニシリンを大量に必要とする主人公のために、醤油蔵と職人たちを提供するという義侠心に富んだ人物として登場する。
実際の儀兵衛も、私財を投じて震災後の食糧確保や防波堤の建設を行い。西洋医学所の研究費用を寄付するなどの救済事業を行ったというから、ペニシリンの話もありえるような嘘である。
動乱期には、こうした傑出した人物、私利私欲でなく公利公欲で判断し行動する実業家が登場する。
いつから日本は、マネーだけを追い求める、私利私欲の虚業家や詐欺師ばかりの国になってしまったのか。
『キャピタリズム(資本主義)〜マネーは踊る〜』の監督マイケル・ムーアが「資本主義は邪悪だ」と批判しながら、かつてのアメリカは「すべての人の平等と幸福を願う国だった」と語っていたが、果たしてそうか?
なんだか、話がとんでもない方向に行きそうだ。幕末から明治、開港し国際都市となった横浜に大勢の商人が押し寄せた。「横浜商人」と呼ばれた彼らの業種は多岐にわたった。明治十四年に編まれた『横浜商人録』によれば、当時の横浜にあった商業の業種は187種、商店数は3068軒だったそうだ。
なかでも貿易商人、特に生糸の取引に目をつけた商人の台頭は凄まじいものがあった。
謎の商人・中居屋重兵衛
やっと絹の話が出てきた。一体この先どうなってしまうのかと、冷や冷やしたけど、よかった〜生糸が出てきて。(笑)
生糸が出てきたのには理由があった。(ここからは、幕末の話です)
天保十一年(1840)フランスのプロバンス地方で蚕の微粒子病が発生した。これが猛烈な勢いで、イタリアからスペインにまで伝染して、12年後には最悪の事態を迎えた。
当時、絹織物産業で栄えていたリヨンやミラノでは、生糸不足に悩み、上海で生糸を求めていたが、日本の生糸の方が良質だという情報が入ると、たちまち日本に生糸を求めてやって来るようになった。
つまり、安政六年(1859)の横浜開港は絶妙なタイミングだったのだ。
開港当時、外国人が何を欲しがっているかは誰も知らなかった。だから、店先には外国人が欲しがりそうなものを何種類も並べていたそうだ。
開港から26日経った六月二十八日、最初の商船で入港してきたイギリス商人のイソリキが(芝屋清五郎の店で、甲州島田造生糸六俵を一斤につき一分銀五ケで買った)これが生糸貿易の最初だと伝えられる。
じつは、それよりも早く絹織物を外国人に売り始めていた人物がいた。
上野国吾妻郡中居村(現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原)出身の商人中居屋重兵衛である。
この人物が面白い。ペリーが二度目に日本にやってきた安政元年(一八五四)に早くも外国人に絹織物を売り始めていた。
横浜開港の5年前ということは、つまり密売である。
密売によって蓄えた資金を元に、開港早々、本町四丁目に豪邸を立てた重兵衛。火薬の研究家でもあり、多くの志士とも交流があったという。しかし、出店してわずか二年目、生麦事件の前年に忽然と姿を消す。
屋根に銅の瓦を用いたことから「あかね御殿」と呼ばれた屋敷は、原因不明の火災で焼失した。
絹の道をゆく-6 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
先月号で「面白い」と宣伝したから…ではないが、ドラマ『JIN-仁』の視聴率がシリーズ最高を記録した。
今秋放送開始された連続ドラマで二十%を超えたドラマはこれだけだという。
急いで原作の漫画も通しで読んでみた。なるほど、文字通り筋の通った内容。
ドラマではスルーしてしまった、生麦事件も登場する。さすがに、英国人を助けるなどということはないが、マーシャルやクラークを治療したイギリス公使館付の医師・ウィリアム・ウィリスとアメリカ人医師・ヘボン(ヘボン式ローマ字で有名)を助手に手術を行い、サムライに斬られて瀕死の外国人水兵を助けてしまう。
当時はまだ無い人工呼吸法で、ヘボンが「神の奇跡」と呟くシーンは圧巻だ。
因みに、ヘボンは本来ヘップバーンと発音する。あのオードリ・ヘップバーンと同じだ。当時の日本人にはヘボンと聴こえたのだろう。
ドラマは予算や時間の関係上、端折ってもいるし、原作にない登場人物など、オリジナルの設定になったりもしている。それはそれで、一粒で二度美味しいというものだ。
それにしても、医療シーンのリアルさは見事だ。
それもそのはず、医史監修に酒井シヅ氏(順天堂大学医学部名誉教授)、医療指導には冨田泰彦氏(杏林大学医学教育学教室講師)が名を連ねていた。
歴史監修に大庭邦彦氏(聖徳大学人文学部 日本文化学科教授) を起用するなど、歴史考証もしっかりしている。
惜しいかな、この号が発行される日が最終回。原作はまだ続いていて、佐久間象山、西郷隆盛、高杉晋作、皇女和宮、大相撲の陣幕久五郎など、実在の偉人が続々と登場する。
「稲むらの火」のモデル
気が付いたら、今回もドラマの宣伝に四分の一以上費やしてしまった。漫画やドラマに興味のない方は、さぞやご立腹でしょう。が、しかし、漫画で当時の雰囲気を知ることもあるし、漫画で新しい知識を得るということもある。
この漫画を読んで初めて知った人物に濱口儀兵衛という人がいる。なんと、あのヤマサ醤油の七代目当主である。年配の方なら、国語の教科書に載っていた『稲むらの火』という話をご存知だろう。
安政元年(一八五四)に紀伊半島を襲った大地震。地震のあと、津波が来襲することに気付いた一人の男が、祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束に火をつけて、村人を誘導して助けるという話。
この話は実話で、その主人公のモデルこそ、濱口儀兵衛なのである。
漫画ではペニシリンを大量に必要とする主人公のために、醤油蔵と職人たちを提供するという義侠心に富んだ人物として登場する。
実際の儀兵衛も、私財を投じて震災後の食糧確保や防波堤の建設を行い。西洋医学所の研究費用を寄付するなどの救済事業を行ったというから、ペニシリンの話もありえるような嘘である。
動乱期には、こうした傑出した人物、私利私欲でなく公利公欲で判断し行動する実業家が登場する。
いつから日本は、マネーだけを追い求める、私利私欲の虚業家や詐欺師ばかりの国になってしまったのか。
『キャピタリズム(資本主義)〜マネーは踊る〜』の監督マイケル・ムーアが「資本主義は邪悪だ」と批判しながら、かつてのアメリカは「すべての人の平等と幸福を願う国だった」と語っていたが、果たしてそうか?
なんだか、話がとんでもない方向に行きそうだ。幕末から明治、開港し国際都市となった横浜に大勢の商人が押し寄せた。「横浜商人」と呼ばれた彼らの業種は多岐にわたった。明治十四年に編まれた『横浜商人録』によれば、当時の横浜にあった商業の業種は187種、商店数は3068軒だったそうだ。
なかでも貿易商人、特に生糸の取引に目をつけた商人の台頭は凄まじいものがあった。
謎の商人・中居屋重兵衛
やっと絹の話が出てきた。一体この先どうなってしまうのかと、冷や冷やしたけど、よかった〜生糸が出てきて。(笑)
生糸が出てきたのには理由があった。(ここからは、幕末の話です)
天保十一年(1840)フランスのプロバンス地方で蚕の微粒子病が発生した。これが猛烈な勢いで、イタリアからスペインにまで伝染して、12年後には最悪の事態を迎えた。
当時、絹織物産業で栄えていたリヨンやミラノでは、生糸不足に悩み、上海で生糸を求めていたが、日本の生糸の方が良質だという情報が入ると、たちまち日本に生糸を求めてやって来るようになった。
つまり、安政六年(1859)の横浜開港は絶妙なタイミングだったのだ。
開港当時、外国人が何を欲しがっているかは誰も知らなかった。だから、店先には外国人が欲しがりそうなものを何種類も並べていたそうだ。
開港から26日経った六月二十八日、最初の商船で入港してきたイギリス商人のイソリキが(芝屋清五郎の店で、甲州島田造生糸六俵を一斤につき一分銀五ケで買った)これが生糸貿易の最初だと伝えられる。
じつは、それよりも早く絹織物を外国人に売り始めていた人物がいた。
上野国吾妻郡中居村(現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原)出身の商人中居屋重兵衛である。
この人物が面白い。ペリーが二度目に日本にやってきた安政元年(一八五四)に早くも外国人に絹織物を売り始めていた。
横浜開港の5年前ということは、つまり密売である。
密売によって蓄えた資金を元に、開港早々、本町四丁目に豪邸を立てた重兵衛。火薬の研究家でもあり、多くの志士とも交流があったという。しかし、出店してわずか二年目、生麦事件の前年に忽然と姿を消す。
屋根に銅の瓦を用いたことから「あかね御殿」と呼ばれた屋敷は、原因不明の火災で焼失した。
絹の道をゆく-6 へ続く
生麦事件について解説をされる浅海武夫館長(79)。
残念ながら『生麦事件参考館』は、2014年5月3日に閉館となってしまいました。
残念ながら『生麦事件参考館』は、2014年5月3日に閉館となってしまいました。
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
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