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2021年01月25日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-6 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.1

わが日の本は島国よ 朝日かがよう海に

連りそばだつ島々なれば あらゆる国より舟こそ通え 

されば港の数多かれど この横浜にまさるあらめや

むかし思えば とま屋の煙 ちらりほらりと立てりしところ

yokohama-1-1.jpg



明治四十二年(1909)に作られた森鴎外作詞の『横浜市歌』である。横浜の小学校に通っていた人なら、誰もが歌える(…はず)。

歌詞の意味は…、(島国である日本は、当然港の数も多い。だから、色んな国の船がやって来る。だけど、この横浜に勝るスゴイ港なんて他にありませんよ。昔は、貧乏な漁村だったのに、こんな立派な国際的な港になっちゃいました)簡単に言えば、こんな感じだろうか。





苫屋の煙が…原因?
「とま屋」が粗末な小屋ということで、開港以前の横浜は「貧しい寒村」だったという説明が、横浜の昔を説明する際に、必ず付け加えられる。

(貧村、辺鄙、何も無い…)どうも、この解説には釈然としない。

これと似た違和感は、青葉区や都筑区の昔を説明するときにも感じる。

「昔は、横浜のチベットって言われていたんだよ。何も無くてね」

辺鄙な所、不便な所だという意味でチベットを使う(何気に聞いていたけど、チベットの人にしてみたら本当に失礼な話だ)。

郷土史を勉強すればわかるが、古代の遺跡や古墳も数多く発掘されているし、主要な街道も集中している。むしろ、他の地域よりも先進的で歴史も深い。

明治41年(1908年)に横浜線が、昭和2年(1927)に小田急線が開通し、その間に挟まれて遠くに出かけるのに不便だった…というだけの話。村の様子はどこも同じであった。

どうも、急激に発展した土地や町の場合、それ以前の過去を過小に表現したがるようだ。一代で財を築いた成金が、苦労話を何倍にも膨らまして話すのと似ていて…なんともはやな気持ちになる。

文部省唱歌の『われは海の子』の歌詞の中にも

「煙たなびく苫屋こそ/我がなつかしき住家なれ」と出てくる。

この歌の舞台は鹿児島だと言われているが、江戸時代、日本中の漁村の原風景には、苫屋があったのだろう。

神奈川や六浦(金沢区)の港に比べて、小さい村だったというだけで、寒村とまで言ってしまうのは、どうかと思うのだが…。

ちなみに、森鴎外が生まれたのは文久二年。生麦事件が起きた年である。

yokohama-1-3.jpg



象山と坦庵
さて、その横浜村がどうして選ばれたかである。

最初に横浜開港を主張したのは、佐久間象山(しょうざん)だと言われている。

信州松代藩の藩士で、幕末の兵学者・思想家である象山は、地元松代で日本初の電信実験を成功させるなど、洋学に造詣が深く、「和魂洋才」(日本人の精神をもちながら、西洋の学問を取り入れる)を説いた。

江戸で開いた塾には、吉田松陰・小林虎三郎・勝海舟・河井継之助・坂本龍馬といった幕末史を彩るスターたちが弟子として入門している。象山の肖像画が残っているが、見るからに恐ろしい。海兵隊を率いて上陸したペリー提督が、思わず会釈をしてしまったという伝説が残っているほどだ。

象山が横浜開港説を唱えたのは、そのペリーが旗艦サスケハナ号を含む七隻の軍艦を率いてやってきた安政元年(1854)、開港の五年前である。

当時、松代藩の軍議役として横浜の警備に当たっていた象山は、日米和親条約に下田開港を盛り込んだ海防掛・江川坦庵(たんなん)の提案に猛反対して、横浜こそ開港するべきだと主張した。下田よりも横浜の方が守りやすいという軍事的な理由だという。

象山は江川の弟子として西洋砲術を学んでいるにも関わらず、下田開港は江川の「私利私欲である」とまで極論している。

私利私欲とは言いすぎだが、江川が反射炉に用いるコークスを輸入するために、下田を主張したことは否めない。ちなみに、江川の師であり、ブレーンだったのが、大山街道・荏田宿に泊まった『遊相日記』の渡辺崋山だ。江川は、幕府の海防政策について崋山から助言も得ている。

yokohama-ALL.jpg



幕末の天才外交官
日米和親条約締結の三年後、来日したアメリカ総領事のハリスが大阪開港を希望したのに対し、象山に続いて横浜開港論を主張して対抗したのが、老中首座・阿部正弘にその才能を見出されて海防掛目付から外国奉行にまで出世した岩瀬忠震(ただなり)である。

ハリスをして「彼が全権で、日本は幸福だ」と言わしめるほどの人物で、幕末のジャーナリスト・福地源一郎も、「幕末の三傑」の一人として小栗忠順・水野忠徳とともに評価している。

ただ、ハリスに対して「横浜」とは言わず、横浜も含めた「神奈川」の開港と言っている。ようするに、知名度の低い横浜村をぼかして伝えたのである。

結局、東海道に直結する神奈川宿は、不測の事態が起きる可能性が高く、神奈川湊は遠浅で、大型船の停泊には適さないため、対岸の横浜村に開港場を新設することが決定した。主導したのは、大老・井伊直弼である。

外国側(ハリスとイギリス総領事オールコックなど)は、繁華で開けた神奈川の開港をしつこく主張したが、外国商人たちは神奈川よりも港として適している横浜村に賛成した。幕府は外国側を納得させるため横浜の町造りを急ぎ、そのために江戸や近国の富農、豪商に対し、半ば強制的に移住を命じた。

先月号の最後に登場した中居屋重兵衛も、命じられた一人だという。 
 
面白いのは、重兵衛も佐久間象山の弟子だったということだ。そして、江川坦庵、岩瀬忠震などとも昵懇の間柄だという。

象山が横浜開港を叫んだ年、弟子の吉田松陰がアメリカ船で密航を企てた。

重兵衛が外国人に絹織物を密売したのも同じ年である。開国の先覚者と呼ばれる中居屋重兵衛。この男、いったい何者なのであろうか?

中居屋重兵衛.jpg




絹の道をゆく-7 へ続く 



この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次
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ある時は地域情報紙の編集長、ある時はフリーライター、またある時は紙芝居のオジサン、しこうしてその実態は・・・穏やかな心を持ちながら激しい憤りによって目覚めた伝説の唄う地域史研究家・・・歴史探偵・高丸だ!
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