病棟での担当看護師がそう言っていた。(この看護師さんは担当として紹介されたのだが、あまり病室には顔を出してくれなかった。脳疾患の患者さんは時として思いもかけない行動をするので、そちらの患者さんに忙しかったのかと思う)
また、元気に(周りから見れば)廊下や階段で歩いたりトレーニングしている姿も、既に退院できる人に見えたようだ。
身体もそうだが、気持ちもまだ退院に向けた準備が整っていなかった。人に決められたくなかった。(ふつう、大抵の場合は病院側が判断するのだろうが)
それにしても、A医師の言い方や言うタイミングは違うのではないか。真剣にリハビリに取り組んでいる最中に。リハビリの時間を返してくれとさえ思った。
また、自分の知り合いが個室を求めているために僕を追い出そうとしているのかと思ったりもした。頑張っている自分だったが、このことで不安に苛まれてイライラがつのった。
その翌日、たまたま看護主任が病室に来たので相談した。自分はこの時点で退院しても生活が一人でできる状況ではないこと・自分としては一日単位で目標を決めた機能の回復を決めており、そのためには4月10日まで必要であることなど。
その看護主任がどう病棟医にどう言ってくれたかはわからない。不安に2日位過ごした後、病棟医からは「好きなだけ居ていい」と言われた。その言い方も気に食わなかったが。
全く話は変わるが、この病院の入院していたフロアには入院前に思い出がある。
東京に来て毎日のように行った居酒屋「S」で知り合った大工のNさん。ご夫婦で良く飲みに来られていた。当時70歳近かったと思う。一緒にゴルフも行ったし、旅行もいったし、頻繁に来られていたので長い時間をご一緒した方。そのNさんが脳出血だったと思うが入院したのがまさにこの病院のこのフロア。見舞いに行くと車いすのNさんは「おぅ、外へ連れて行ってくれるか」と。僕「外へ出てもいいんですか?」Nさん「いいんだよ」
エレベーターで車いすを降ろして、駅の高架下の商店街を小一時間うろうろした。
戻ったら大騒ぎになっていた。Nさんもそうだが、僕もかなり怒られた。病院のルールが解っていなかった。Nさんはその後退院。以前のように飲みに来なくなったけど、その後公園でばったり会った。そして時間が早かったのでサイゼリアでビールを飲んで一緒に「S」に行った。また、その日は職人グループの花見とのことで、全然関係ない僕もご一緒させてもらった。
残念ながらその翌年くらいに再発して亡くなった。
その同じ所に入院していたのだが、その時に怒られたと思われる看護師さんと思われる方がまだ勤務されていた。覚えているかわからないので、言い出せなかったが。
さあ、4月10日に向けて回復のトレーニングと、その日以降の自立を具体的に考え始めた。
この時点でも痺れは酷く、指も上手くうごかない。仕事復帰となればシャツにネクタイ。
あいにく持っているシャツは全てがボタンダウンだった。外泊した際にシャツを持ってきたが、ボタンを留めるには長い時間がかかった。
昔、仕事で「福祉用具選定相談員」の資格を持っていた。(介護関係の新規事業の企画をやっていたことがある)そのため、ボタンを簡単に止められる器具を知っていたので、病院出入りの業者に頼んで購入した。
この時点で、大変申し訳ないのだがOTさんPTさんによるリハビリ内容には懐疑的になっていた。これまでたくさんのアドバイスをいただいたし、その後も色んな知識をいただき感謝しかないのだが、所詮治すのは自分。進展のない自分の状態へのイラつきだったのかもしれない。退院を告げた病棟医からは担当のOTさんPTさんが「もうこの人はリハビリの必要がない」と言ったと聞いたことも、かなりショックだった。
スマホで「頸髄損傷 治療」「頸髄損傷 リハビリ」とかのワードで何度検索したかわからない。どれも症状の解説ばかりで、有効な治療はないようであった。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image