アフィリエイト広告を利用しています

2020年04月06日

焼きそばを2回作る

全然外で飲んでいない。
先月も飲みに出たのは4回くらいか。コロナでの自粛もあるが、居酒屋Yが無くなったこともある。
晩メシは適当だ。ビールのあてに豆類を食べ、そのあと冷凍パスタが多いか。レンジ5分程度の冷凍パスタにはまっている。ラクでいい。

金曜も4時半に会社を出た。どうしよう。焼きそばが食いたくなった。
近くのスーパーでカット野菜2種、豚肉、焼きそば、ソースを買う。1人前の材料より多い。一度買ったら、また近い日に同じメニューになる。これがあるから自炊はイヤなのだ。
けっこう手際よく作る。最後に目玉焼きを載せる。

外に出ないと、ずっとテレビだ。ビールは350ml1本だけ。そのあとは焼酎。居酒屋Yの喪失とコロナ渦でこの生活も定着したか。
土曜はジム。さすがにジムに行くのはどうかと思っていた。3月まではスタジオ閉鎖だったが、4月より再開するという。僕はスタジオには入らないが、どう考えても「3密」条件を満たしている。
筋トレエリアは3密になっていない。元々人の少ないジムだ。この騒ぎで更に少なくなり、フロアはいつも5人程度だ。

スタジオ参加した人と筋トレエリアや共用部分で接するのが危険だと思っていた。まあ、よく考えれば筋トレエリアでも同じか。少ないとはいえ、人が集まっているのだ。
本来なら行かないだろう。いや、行ってはいけないのだろう。
でも筋トレが僕にとってのモチベーションだ。1週間身体を動かすためには欠かせない。悩んだが、少なかったら筋トレと思って行ったら、3人ほどしか居なかった。

筋トレの後は鍼。鍼はいつも2人ほど施術中なのだが、この日は誰もいない。他の人にとって、鍼も不要・不急の部類なのだろうか。僕には違うが。
Aセンセイと色んな話をしながら打ってもらった。3月30日に起きたことも話す。いつも自分の状態はできるだけ詳しく話すようにしている。

最初に脚と手を仰向けで打ってもらうのだが、今回は腓骨筋が気になっていた。いつもジムでストレッチの時にあちこちを押す。右脚は押せばピリッとくるポイントが多くあり、そのポイントも日によって変わる。この日は腓骨筋が気になっていた。
不思議なのだ。いつも打つ場所ではあるが、一番最初にその腓骨筋をセンセイは触りだす。
驚かない。もし聞いても「何か違って見えたので…」と言われるだけだ。気になる箇所を一目で発見できる神がかりな治療家は実際にいるのだ。

この前から打つ箇所が増えている。最初のころやってもらっていた頭皮鍼もやってもらっている。
どこに打ってもらった鍼がどう効いたということは判らない。ただ、良くなっているという事実だけで考えている。
唯一、明らかに効いた鍼がある。いつ頃だったろう。左の大腿四頭筋に打ってもらい、しばらく置いている間に鍼が曲がるほどピクン・ピクンした鍼。この後に左脚が力強く踏みしめられるようになった。

土曜も昨晩と同じように過ごした。酒とテレビ。
日曜は午後からジム。日曜日は土曜日よりも外出者は少ない。ジムも2人しかいなかった。
日曜日は英会話を終わらせ、焼きそば再び作った。つまらない日々の繰り返し。自ら楽しみを見出すしかない。あまりにも外飲みや誰かと過ごすことに慣れてしまった自分がいる。

さあ、今週も外出なしの出勤。会社にも飽きてきた。
posted by shigenon at 08:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年12月19日

居酒屋めぐり

昨日は早く帰って録画した「陸王」を見ようと思っていた。さすがに昨晩は飲み食べすぎ。
と思ったらT君から電話。居酒屋Gで待ち合わせて飲んだ。久しぶりにリカコもいたので、からかいながら飲んでいた。まだ就職が決まっていないという。また、銀行員の彼氏が出来たらしい。
そこからタクシーに乗って家近くの居酒屋Kへ。

居酒屋Kは9月以来か。コンペで打ち上げをして以来だ。店はマスターとママでやっている。
ここはカラオケ居酒屋だ。下町ゆえにお年寄りも多い。カラオケは自ら歌いたい方ではない。
家から歩いて行くには10分位かかるので、一人で行くことは無い。

結局23時半くらいに「お先」した。健常な時だったら、いくら飲んでも次に日にそれほど影響を及ぼすことはなかった。神経の損傷は、いつもと違うことをすると何が起きるかわからない。
突然、身体の動きが悪くなることもある。充分な睡眠が日常のケアになる。
この日も歩いて帰ったが、案の定左脚の動きが悪い。これは酒ではなく、寒さが原因だが。

今日は仕事先から直帰。調子は悪くない、気圧配置が良いのかな。
posted by shigenon at 12:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年10月24日

広島への車中にて

今日から広島。仕事としては明日と明後日なのだが、とうしても古い知り合いに会いたくなった。幸い若干は自由にできる立場だ。先週はかなりの仕事量をこなしたし、少し位はという甘えだ。

余裕だろうと思って飛行機の予約を先週にした。なんと良い時間が空席待ち。昨日、むなしくもANAからは取れませんとのメール。
新幹線だと東京から広島までは約4時間。仕方ない。

先週もそうなのだが、二泊の出張はやっかいだ。というのは、鞄の選択。ガラガラを引くほどの量はない。二泊まで入る厚めの出張鞄を持つのだが、二泊分は重い。
受傷して重い荷物を持つのが難しくなった。
筋トレでは重い荷重を動かせるのに自分でも不思議だ。

普段の通勤は、これも昔買った革の鞄なので結構重い。これを袈裟に架けている。もちろん中身はスマホくらいでほとんど空だ。
この何倍もの重さと厚みのある鞄を袈裟に架け、満員電車ではおろしたりするのが疲れる。片手に持つ杖も必要なのだが、この時は邪魔になる。

でもほぼ自由に動けることに感謝しないといけない。あの時、なにかが違っていたら今は新幹線に乗っていない。

今日の夜は焼き鳥屋。先週、一年ぶりに電話した。営業しているとのことで安心。マスターは昨年、入院したと聞いたから。
昨日、電話がかかってきた。「兄ちゃん、明日来るんやね、楽しみにしとるよ」と。

初めて行ったのが27歳くらいか。確かに兄ちゃんだ。その兄ちゃんも54歳だよ・・。
マスターの奥さんは5年ほと前に亡くなった。いつも優しく、賄いのカレーを最後に出してくれた。

今日は広島でレンタカーを借り、昔仲良かった得意先ともう無くなったが、よく飲んでた店の常連さんの魚屋さんを訪ねてみるつもり。

明日からは真面目に仕事します。

posted by shigenon at 08:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年07月11日

2016年

2016年正月は道後温泉で迎えた。両親と姉夫婦で。恐らくこの頃から今に至るまで症状は変わっていないと思う。良く感じたり、悪く感じたりの繰り返し。
1月4日に東京に戻って「餅つき大会」9升のもち米を用意した。もちろん、こんなことをするのはT君。

この年から完全に元の生活パターンに戻っている。ただ冬場のゴルフは無理だった。3月下旬のゴルフスタートまではほぼ毎日飲んでいたような。しかし、「痛さ」「痺れ」を気にしないことだけでは毎日は過ごせない。「不自由」という言葉は適切なのか。けっこう自由に生きてきた自分として、ちょっと自由な気持ちや身体でなくなった。

ジムでの筋トレ、少しずつだが荷重を上げるようになった。退院した時、「ラットプルダウン」は18kgが精いっぱいだった。しかも真っ直ぐ引き下ろせない。左腕の力が無かったから、左が下げられない。このころから24kgを真っ直ぐ降ろせるようになった。他のマシンも受傷前までの荷重は無理だが、少しづつ荷重をアップさせた。
ただ、筋肉は前のようには付かなかった。特に大胸筋が付かない。働いている筋肉がどこかで止まっているという感覚がある。

足の筋肉はけっこう付いた。受傷前はステップマシン程度しかやっていなかったが、レッグカール・レッグエクステンション・レッグプレスを少しやっただけなのだが。

なんで筋トレがリハビリと思ったか。ほかに自分で出来ることがなかったから。筋肉が付けば足は踏ん張れるのは間違いないと思ったし、腕に筋肉が付けば重いモノも持てると思った。
足は踏ん張れるようになったと思う。手は・・・やはり使い方なのだろう。左手では2リットル満タンのペットボトルをもってコップに注ぐのは難しい。
これは握力なのだ。残念ながら握力はある程度までしか戻らない。調子良い時で右が35、左が22くらい。それでも入院中よりは良くなった。受傷前は55と50だったと記憶している。

すこしづつ歩けるようにはなったが、会社への通勤には杖を持っている。杖がなくてもヨロヨロ歩けるのだが、まさに転ばぬ先の杖。
ポケモンGOが始まった時には、スマホ歩きで急に立ち止まる人も多かった。流れに沿って歩いていて、急に止まることはなかなか難しい。杖は頼りになる。また、“そういう人”だと認識してもらえる。

うまく歩けるときもあれば、無理な時もある。筋トレでは右の筋肉は付くのだが、左は付きにくいようだ。両手・両足を均等に使うマシンなのだが、左は軽い麻痺があるからか。
またキレイに筋肉がつかない。ところどころ凹んだ状態。その部分の神経がうまく稼働していないのか?
筋肉がいくら付いても神経はまた別物なんだ。
階段でつまずく時もある。登りで。左足が上がっているつもりで上がっていないのだ。

2016年の生活は受傷前と変わらなかった。ほぼ毎日近所の飲み屋に行く。ただ、21時過ぎには帰るが。休み前は深酒。毎週土曜には鍼、土日はジム。
毎週行っていたゴルフは、さすがにシーズン月で2回か3回。これまで参加していた飲み屋のゴルフにも復帰した。

時々、すごく痛みや痺れが強くなる。低気圧だ。これだけはどうしょうもない。また、月の満ち欠けも身体に影響があるとも聞いた。でも自然が相手だとどうしょうもない。そんな日は早くから飲んでやり過ごした。

2016年は元の自分を随分取り戻せた。仕事もまずまず順調であった。
posted by shigenon at 09:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年07月07日

退院して仕事復帰後の様子

会社へ行き始めた頃の症状は、【なんとか一人で歩けるが疲れる】【両手の痺れは変わらず】【右脚は痺れて感覚なし】【胴体の右は感覚なし】【両手に皮膚の異常感覚】【両肩に疼痛】という状態だった。
通勤で杖は必要だった。無理やり杖で勢いをつけて足を出しているという状態。また、スマホを見ながら歩く人は、急に立ち止まることもあり杖が無いと止まれなかった。社内では病院と同じくフラットなので何とか歩けた。

時々強く痺れや痛みを感じる時がある。それはどうも気圧に影響されるようだった。
また、身体に悪いと解りながらなので自業自得なのだが、タバコを吸うと右脚全体が熱くなり痺れがひどくなった。これは血管が収縮しておこる現象と思った。
夜、酒を飲みながらタバコを吸ってもこのようにはならなかった。酒で血行が良いからなのだろうか。

朝は最寄駅発の始発に乗った。これまでよりも10分早く起きないと朝の準備が追いつかなかった。特にワイシャツのボタンに手間取った。
ボタンを引っかけて止める器具は壊れたら困るので2個購入していた。これを使ってボタンを閉めていたのだが、リハビリのため使わないようにしていた。

入院している間に通勤の風景が変わった。始発は違うホームから出るので並ぶのだが、大体顔を見知った人が同じ場所にいた。
109日の不在期間で見知った顔が少なくなっていた。いつも心の中で「あの子はかわいいな」とか「あの人は太ったな」とか色んなことを考えながら並んでいた。大都会、人は入れ替わる。自分も109日間消えた人だったのだ。

会社は定時の18時に出た。これまでは帰って毎日飲みに行っていたが、それほど食欲もないので適当なインスタント食品や弁当を食べ、マッサージ器に乗って21時半には寝る生活が続いた。
ひとりで家の近く・倒れた前の日に行っていた居酒屋Yに飲みに行っても21時には帰ってシャワーして寝ていた。酒についてのリハビリは順調で、これまでと変わらない量を飲むようになっていた。
飲み仲間のT君とは週末によく飲んだ。相変わらず毎週ゴルフに行っているようだった。

毎年10月にT君の関係者で盛大なゴルフコンペを開いていた。大体60人位集まり、宴会して泊まってもう1ラウンドというコンペ。OBや池ポチャに罰金を科し、毎年5.6万円程度を震災の子供たちを支援する団体に寄付していた。
このコンペの幹事や宴会の司会をずっと受け持っていた。ゴルフもそろそろ復帰したかった。
左腕の可動域も少しずつ広くなってきた。しかし痺れや皮膚の異常感覚、痙性、便秘の他に発汗障害があった。夏場のゴルフは不安があった。

病院のリハビリは6月末で終わった。一般的に脳梗塞や脊髄損傷などはリハビリ期間が受傷後6か月らしい。(それ以降は保険点数が下がると何かに書いてあったが)
最初はPTさんOTさんで一時間ずつだったが、6月に入ってOTさんだけになった。
PTさんが、もう足のリハビリの必要はないと院長に言ったようだ。世話になったのだが、3月の退院騒動の時も、このPTさんは「もうリハビリの必要はない」との意見を病棟医に言っている。またか。
症状は変わらない。何かをしないと。

家のすぐ近くにU接骨院があった。かなりの年輩の方だが、柔整師の大会で1位とかHPに書いてあった。そこにも通うことにした。
その先生は「背骨が肝心」といって背骨周りを軽い力で押す。その時に「ウー・ウー」と声を出す。
自身の身体に効いたのかどうかは判らない。ただ、嫌な感覚ではなかったのでしばらく通った。
「気」という治療を僕は全面否定しない。確かにそのようなものはあるのでは?と思っている。

これまで行っていたO鍼灸院には不信感が芽生えてきた。何かを売ろうとするのだ。最初は冷え予防ということで、足首のサポーターを勧められた。そんなものはネットで安く買えるので断ったが。
血流検査をしきりに勧める。かつて仕事で、確か医療器系の展示会でやったことがある。指に針をさして少し血を出して顕微鏡で見るというものだ。その血液検査の後に酵素ドリンクを飲んで血行が良くなったということをやりたかったようだ。
ある日、いきなり血液検査をされた。血を見るのが嫌だったので断っていたのが、その日の支払いに血液検査代1080円と記載されていた。
その場では文句は言わなかった。次2回予約を入れていたので、それを終わらせてこことはお別れすることにした。次の予約をしないことと微妙な雰囲気を感じてか、その次の診療では、仕事復帰のお祝いといって酵素ドリンクを頂いた。でも、もう次で終わると決めていた。
さあ、替わりの鍼灸院を探さないと。

西洋医学ではもう治す限界を感じていた。薬を飲んで良くなっていくわけでもない。痛みは色々な抑え方があるようだが、何とか我慢できる程度。何らかの“力”が働かないと良くはならないことは解っていた。
posted by shigenon at 11:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年07月06日

退院後の生活B

そうした日々を送っているうちにGWになり、久しぶりに実家に帰った。電車や新幹線、大きな荷物など不安はいっぱいであったが、何とかこなした。
駅で待ち合わせて同級生と飲みに行く予定だった。わかりにくい場所で散々歩いたのだが、今から思えば歩く機能は随分回復していたのだなぁと思う。

実家ではのんびり過ごした。いつもは同級生とゴルフをするのだが、今回はパス。
入院当時を知らない同級生は、何かで入院して治ったから退院したんだなという感覚のよう。
頸髄や脊髄を損傷するということで抱える後遺症は、なかなか見えない。
骨折して入院して、少し不自由な状態で退院して治っていくようなイメージで思う人も多い。

「損傷した頸髄や脊髄は治らない」という現実を抱えるのは自分だけなのだ。
悲観的になる人も多い。症状に悩まされ、気力を失う人も多い。どう受け入れてどうするかは自分次第。

GWが終わり、会社に復帰する日が近づいてきた。

会社に出社したのは5月15日。翌日が土曜日なので、疲れてもゆっくりできると考えて。
部下にメールの整理を頼んでいたが、莫大な量のメールの削除が仕事のスタートになった。
半年ぶりのデスク。入院前に買っていた手帳も半分は空白。デスクのカレンダーは昨年12月のまま。
3か月程度は一人での外出(得意先訪問)はしないよう言われる。見舞いに来ていただいたり、心配いただいた得意先に行く段取りを組む。

パソコンは左手の人差し指がうまく動かないので変な打ち方になる。
でも、入院中に「天声人語」に30分かかった頃よりはスピードアップした。とにかく仕事はサラリーをもらっている以上、自分の生業だ。幸い半年以上先のことを考えた行動ができていたので、自部門の業績は落ち込んではいなかった。ただ、自分の世界で実施していた仕事に様々な横やりが入っていた。

リハビリ病院には会社を休んで毎週通院し、OTさんPTさんにリハビリをしてもらった。
病院での診察は1か月に1回だった。身体を動かすようになって、麻痺とか痙攣とかすることがあった。
リボトリールという薬が処方された。神経の興奮を抑える効果があるらしい。調べると「うつ病」の薬でもあるらしい。

それ以外に何か効果的な「治療」はないのだろうか。近所の“すごく混む”I整形外科に行ってみた。
ここは以前、ゴルフで左手が痺れた時に行ったことがある。近所の大きな病院の整形外科長をしていた医者。その時の診断は「胸郭出口症候群」。具体的な治療はないと言われた。
2時間近く待って診察。レントゲンをとり、頸髄損傷でリハビリ中だが、もっと効果的な“治療”はできないか、またこの医院にもPTさんがいるのでリハビリ通院できないか尋ねた。

I院長は「うちでは対応できません」「重病ですよ」「今言っている病院で治療して下さい」「今飲んでいる薬は神経の薬だからうちでは出せない」と、全くもって相手にしてくれなかった。
2時間待って、この対応は悲しかった。

それならばと、これも家の近くのK整形外科を訪ねた。
K整形外科の先生は優しい初老の方で、これまでも何度か診てもらったことがある。そういえば、ゴルフで痛めた左肩もI整形外科で冷たくあしらわれたため、K整形外科に行ったことを思い出した。

K先生は「とりあえずリハビリでは電気とマッサージくらいかな」とのこと。保険の通院費をもらうには医者に通う必要があったので、整骨院から切り替えて通うことにする。
その後になるが、筋肉が付き始めると同時に神経性疼痛が激しくなってきた。
病院では薬をもらっていたが、痙性を抑える薬と痛風の薬。K整形外科で神経性疼痛の薬・リリカを処方してもらう。
posted by shigenon at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年07月03日

退院後の生活@

4月14日に最初に入院した病院に行った。
入院していた時の担当だった看護師さん、PTさん、OTさんに挨拶。みんなが驚いていた。「全然ふつうじゃない」
そう、杖をついてはいるものの、見た目は全くの普通だった。また、パジャマも着ていない。
病棟のエレベーターではその後に診察してもらう主治医とも会った。「歩けているんですね」

このあとの診察では、退院時にもらった薬では足りないからと追加で処方され、MRIを予約させられた。
これからもここが通院する病院だという感じで。ただもうMRIは勘弁してほしかった。
あのキンコンカンを今は聞きたくなかった。

翌日、リハビリ病院で院長診察。昨日の病院でMRIを予約したことを言うと、「こちらにもMRIはあるので受けなくいい」と言われる。まあ、そういう風に話を持っていったのだが。
両方の病院に行かないといけないのですかとも聞く。院長は両方のオーナーなのだが、リハビリ病院だけで良いとのことになる。

翌週から週1回の通院リハビリが実施されることになった。さあ、それ以外に自分でできることを考えないと。仕事復帰は5月15日と決めた。

109日間の入院生活は全ての筋肉を落としていた。外から見える筋肉よりもインナーマッスルが大事ということも学んだ。筋肉名も入院中にPTさんやOTさんやネットから学んだ。
暇さえあればスマホで筋肉図を見て、どの筋肉を鍛えたら歩けるか・スムーズに動かせるかを想像していた。・・・実際は筋肉だけの問題ではないのだが。

ジムは毎日行った。
これまでは脚はステップマシンだけだったが、マシンで大腿四頭筋と下腿三頭筋を鍛え始めた。「レッグエクステンション」「レッグカール」「レッグプレス」を新たに始めた。
腕は「引く動作」も必要だと思い「シーデッド・ロー」も加えた。
相変わらず関節の可動域は良くなかった。単なる関節が固くなった問題なのか・それとも麻痺に起因するものかが解らなかった。
これは通院の時にPTさんやOTさんに聞くが、解らないとのことだった。

自転車の乗り方も上手になってきた。タイヤの空気が減っていた。いつも行っていたクリーニング屋の隣のメガネ屋に無料の自動空気入れがおいてあり、前からよく使わせてもらっていた。

そのメガネ屋で空気をいれるのだが、全く入らない。昼の暇な時間だったので店長が出てきて見てくれた。「虫ゴムが破れていますね」「少し押し込めば大丈夫ですよ」
しかしながらゴムを引っぱる握力はなかった。店長が引っ張って空気を入れてくれた。
メガネ屋だけにメガネの似合う店長だった。

もう50も超え、そろそろ遠近両用が欲しかった。店ののぼりには「4980円〜」という看板が。それほど高い店ではないのだろう。
「ありがとう、メガネ買うよ」といって店に入った。
気に入ったデザインを選んでいたら、店のどんどん奥の方へ。気に入ったフレームは35000円くらいだった。レンズ込みだし、まあいいか。2日分の個室代だ。
この当時は全て入院していた個室代を基準にモノの金額を推し量っていた。

レンズに遠・中・近を入れて処方。合計で65000円と言う。どうも遠近のレンズは別料金のようだった。
しばらく人と接していなくて、優しくしてくれたから少し値切って購入。
今も掛けているが、レンズの上下幅が短いので遠・中はあまり機能していないが・・。
posted by shigenon at 15:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年06月30日

退院して数日の様子

とにかくシャバでの生活になった。
これまで簡単に出来たことができない。洗濯ばさみも、左手ではつまめなかった。掃除機も右手で持つものの、左手で障害物を動かせなかった。これまでは結構几帳面に毎週掃除をしていたのだが、2,3週間に1回でいいと思った。仕方ない。
心配だった階段の上り降りも手すりと杖でなんとかなった。杖は退院翌日に着くよう楽天で頼んでおいた。これまで“守られた生活”をしていた者には、外での生活はかなりの緊張感を強いられた。

買い物をしても、財布からお金を出すのに時間がかかる・自販機のお釣りが取れずにばら撒くなどもあった。
ポケットに小銭を入れていても、健常な頃は100円玉や10円玉の区別はついたが、痺れで全く判らなかった。出すときにばら撒くこともあった。仕方なく小銭入れを持つことにした。

寝室の倒れた場所を見て思い出すのが、倒れた時に「助けて」と大声で叫んだこと。よくドラマや映画で敵に捕らえられ、潔く「殺せ」とかのシーンがある。シチュエーションが違うから何とも言えないが「オレは命乞いをしてまで生きたかったんだ」ということを想う。生きてやろう、不自由になった身体でも。でも生きている限り絶対に元通りになってやる。

リハビリ病院へは退院後も通院リハビリをすることになっていた。リハビリ病院は外来を基本的に実施していなく、急性期に入院した病院しか外来は受け付けていないとのことだった。でも、回復期にリハビリをしてくれたPTさんに引き続きお願いしたかった。自分の回復経過が一番わかってくれているのだから。しかし、そのための手間があった。
最初に入院した病院に行き、その時の主治医に診てもらい、その後にリハビリ病院で院長に診察してもらうという手順。理解不能だった。同じグループで。

住んでいる街の様子は微妙に変化していた。ミニスーパーが出来ていたり、建物が壊されていたり。109日というのは長い日なのだ。その街を歩く僕も変わってしまった。
外を歩くのは怖かった。比較的何でも徒歩圏で揃うのだが、500メートルを歩くことはできなかった。
自転車はエアロバイクを入院中にしていたので、なんとか動かせると思った。
何とか動かせるが、必死にグリップを握らないといけなかった。

以前から行っていたジムはそのまま会員登録したままだった。まずは毎日ジムにいくことにした。
(今は週何回という会費設定で通っているが、この頃は月額だった)
全国規模のフィットネスなのだが、このジムはそれほど混んでいない。筋トレが回復の道という考えは変わらなかった。

ロッカールームの鏡で見る自分の身体は情けなかった。やせ細っていた。入院前は不摂生放題で、ベスト72キロが74キロを超えることもあった。毎日飲んで、最後にラーメンという生活だったから。
体重は66キロまで落ちていた。

ジムではまずストレッチをマットの上でするのだが、病院にいる時と変わらず地面に座るのも一苦労だった。身体はカチカチで、これまでのルーティンでしていたストレッチも満足にできなかった。

筋肉は1か月くらいで付くはず。入院前にやっていた筋トレのマシンを順番にやってみた。
受傷前は軽いストレットの後、「フライ」30kg12回×2、「アブドミナルクランチ」59kg24回×2、「チェストプレス」39.5kg12回×2、「ラットプルダウン」39.5kg12回後・前、そして時々「ステップマシン」を10分程度気まぐれで乗って、ストレッチ、風呂というメニューだった。風呂以外で3,40分のトレーニング。
これまでは基本的に何か目的を持ってトレーニングをしていたわけでなく、出ている腹が少しでも引っ込んで見えるよう大胸筋を鍛えること、ドライバーが飛ぶよう腕力を付ける、その日飲むビール分くらいのカロリー消費といった理由の筋トレだった。

これからは自分を回復させるためのトレーニングだ。これまでのマシンはとても従来の荷重は無理だった。とにかく、動かせるだけの荷重をかけて動かした。
とにかく恐々と筋トレをやり始めた。風呂に入る時も、滑らないよう注意した。
posted by shigenon at 11:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年06月29日

退院

東洋医学はどうなんだろうと思い始めた。

話しは戻るが、リハビリ病院に転院してしばらくして同じ病棟のフロアに入院していて顔を良く合わせるNさんと話をするようになった。
Nさんは脳梗塞で入院しており、知り合った頃は退院間際でよく外出もしていた。ソムリエだそうで、新店もオープン準備もあり早く退院を望んでいた。

Nさんの症状は麻痺が強く、舌も痺れているとのこと。歩くことは問題ないように見えた。
Nさん曰くは、「鍼治療が有効かな」と。退院したNさんはしばらく通院リハビリしていて、来たときは病棟へも顔をだしていた。わざわざ自分の通っている鍼灸院の名刺を持ってきてくれた。

僕自身、受傷前は慢性的な肩こりで毎週マッサージ通いだった。鍼治療も何度か受けたことがあった。さっそくネットで調べてみた。
頸髄損傷を高い確率で治すという中国の鍼灸院を発見した。ここは、頸髄損傷だけでなく、どんな難病も鍼治療で治せると。信じるしかなかった。

3月末の退院勧告が避けられ、「社会復帰」をイメージしながら入院生活を送った。ただ、家に戻って一人で何かをするということへの不安は消えなかった。住んでいる部屋は3Fなのだが、部屋まではかなり急な階段だった。それを毎日上がったり下りたり出来るのだろうか。

3月の中旬から退院までは、自身でかなりハードなメニューをこなした。OTさんやPTさんに自室でできるリハビリを書いてもらい、休むことなく繰り返した。友達にゴルフクラブを持ってきてもらおうかとも思ったが、さすがに問題になりそうなのでやめた。

毎日外出許可をとって病院周りをウロウロした。ある時弁当を買って近くの公園で桜を見ながら食べようと思った。弁当のソースが開けられない・割箸がキレイに割れないなど“守られた生活”からの1人立ちは簡単ではないことを実感した。

4月10日がやってきた。不安はあるものの、自分で決めた日だ。
T君に頼んで車で迎えに来てもらった。
荷物を部屋に運んでもらい、丁度昼だったので一緒に近所の蕎麦屋へ行った。

話しは全く変わるが、札幌に住んでいた若い時に1週間入院したことがある。気管支炎で。(くだらない話だが、3日目位に退院の検査があったのだが、豊胸な看護師さんが2つめまでボタンを開けていたので、呼吸が乱れて良い数値が出ず3日入院が延びたという青い思い出がある)
その退院した日に缶ビール1本飲めなかったな・と思い出しながら蕎麦屋でビールで乾杯。その頃よりも肝臓が進化しているのか、すんなり1本飲めた。
瓶ビール中瓶が左手で持てなかった。まず、左手で中瓶を持てることを目標にした。

その日は何をしたのだろう。夕方まで飲んだ記憶もあるし、そのあとどうしたのか。焼酎も飲んだように思う。家に帰ってタバコも1本吸った。久しぶりのタバコは旨かった。
ただただ自分のベッドで眠った。起きれば全てが元通りになっていることを少し期待しながら。
posted by shigenon at 12:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年06月22日

リハビリ病院での生活E

その後わかったことだが、外泊した時に「全部大丈夫」的な答えをしたことがいけなかったようだ。
病棟での担当看護師がそう言っていた。(この看護師さんは担当として紹介されたのだが、あまり病室には顔を出してくれなかった。脳疾患の患者さんは時として思いもかけない行動をするので、そちらの患者さんに忙しかったのかと思う)
また、元気に(周りから見れば)廊下や階段で歩いたりトレーニングしている姿も、既に退院できる人に見えたようだ。

身体もそうだが、気持ちもまだ退院に向けた準備が整っていなかった。人に決められたくなかった。(ふつう、大抵の場合は病院側が判断するのだろうが)
それにしても、A医師の言い方や言うタイミングは違うのではないか。真剣にリハビリに取り組んでいる最中に。リハビリの時間を返してくれとさえ思った。
また、自分の知り合いが個室を求めているために僕を追い出そうとしているのかと思ったりもした。頑張っている自分だったが、このことで不安に苛まれてイライラがつのった。

その翌日、たまたま看護主任が病室に来たので相談した。自分はこの時点で退院しても生活が一人でできる状況ではないこと・自分としては一日単位で目標を決めた機能の回復を決めており、そのためには4月10日まで必要であることなど。

その看護主任がどう病棟医にどう言ってくれたかはわからない。不安に2日位過ごした後、病棟医からは「好きなだけ居ていい」と言われた。その言い方も気に食わなかったが。

全く話は変わるが、この病院の入院していたフロアには入院前に思い出がある。
東京に来て毎日のように行った居酒屋「S」で知り合った大工のNさん。ご夫婦で良く飲みに来られていた。当時70歳近かったと思う。一緒にゴルフも行ったし、旅行もいったし、頻繁に来られていたので長い時間をご一緒した方。そのNさんが脳出血だったと思うが入院したのがまさにこの病院のこのフロア。見舞いに行くと車いすのNさんは「おぅ、外へ連れて行ってくれるか」と。僕「外へ出てもいいんですか?」Nさん「いいんだよ」
エレベーターで車いすを降ろして、駅の高架下の商店街を小一時間うろうろした。

戻ったら大騒ぎになっていた。Nさんもそうだが、僕もかなり怒られた。病院のルールが解っていなかった。Nさんはその後退院。以前のように飲みに来なくなったけど、その後公園でばったり会った。そして時間が早かったのでサイゼリアでビールを飲んで一緒に「S」に行った。また、その日は職人グループの花見とのことで、全然関係ない僕もご一緒させてもらった。
残念ながらその翌年くらいに再発して亡くなった。
その同じ所に入院していたのだが、その時に怒られたと思われる看護師さんと思われる方がまだ勤務されていた。覚えているかわからないので、言い出せなかったが。

さあ、4月10日に向けて回復のトレーニングと、その日以降の自立を具体的に考え始めた。
この時点でも痺れは酷く、指も上手くうごかない。仕事復帰となればシャツにネクタイ。
あいにく持っているシャツは全てがボタンダウンだった。外泊した際にシャツを持ってきたが、ボタンを留めるには長い時間がかかった。
昔、仕事で「福祉用具選定相談員」の資格を持っていた。(介護関係の新規事業の企画をやっていたことがある)そのため、ボタンを簡単に止められる器具を知っていたので、病院出入りの業者に頼んで購入した。

この時点で、大変申し訳ないのだがOTさんPTさんによるリハビリ内容には懐疑的になっていた。これまでたくさんのアドバイスをいただいたし、その後も色んな知識をいただき感謝しかないのだが、所詮治すのは自分。進展のない自分の状態へのイラつきだったのかもしれない。退院を告げた病棟医からは担当のOTさんPTさんが「もうこの人はリハビリの必要がない」と言ったと聞いたことも、かなりショックだった。

スマホで「頸髄損傷 治療」「頸髄損傷 リハビリ」とかのワードで何度検索したかわからない。どれも症状の解説ばかりで、有効な治療はないようであった。
posted by shigenon at 08:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院
ファン
検索
<< 2024年04月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
shigenonさんの画像
shigenon
2014年クリスマスイブのプレゼントは最悪でした。 「頸髄損傷」というケガなのか病気なのか・・その症状との戦いの記録と現在の日々をアップします。 (2018年4月追加) 不全の頸髄損傷は「健常な人」に見えます。“ふつうに見える”様に努力をしています。が、反面、「もう良くなったんだ」と思われがち。 骨折とは違い、中枢神経の損傷は完全回復はしないという現実。 「健常に見える」「もっと良くなるよう努力する」「もう治っているんでしょ」の狭間で何とか毎日を過ごしています。
プロフィール