新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2013年02月03日
魔女狩りを始動させた『魔女に与える鉄槌』はエロ本だった(1)
zeraniumのブログ より転載
*******************************************************************************
魔女狩りを始動させた『魔女に与える鉄槌』はエロ本だった E
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83670623
1198年にインノケンティウス3世がローマ法王の位につくと、カタリ派への弾圧を決め、1209年、ついに南フランスに討伐軍を送ることを決定しました。
彼は討伐軍を組織するにあたり、ローマ市民のなかに異端に対する怒りを巧みに煽りたて、一方で討伐軍には異端者の領地と財産を与えることを約束したのです。
何と老獪(ろうかい)な政治家でしょうか。つまり軍人一人ひとりに最も精力的に異端狩りを行なわせる方法は、彼らの欲に火をつけることだと心得ていたのです。
法王の命によって送られたこの軍隊は、アルビ十字軍と呼ばれました。
それははじめから南フランスのカタリ派という、キリスト教徒の討伐を目的として組織された最初の十字軍でした。
そして異端討伐は、その後20年間に渡って繰り広げられたのです。
アルビ十字軍が各地で行なったのは、住民の大虐殺でした。
そこではカタリ派かそうでないかということは、もはや関係がありませんでした。
なぜなら、そもそも略奪することが目的になっていたので、殺戮に迷いの入り込む余地はなく、彼らはむしろそれを愉しんでいました。
たとえば娘を井戸に落とし、その上から次々と大きな石を投げ込むという蛮行が行なわれたのがその典型でしょう。
いつの時代の十字軍も、その目的は領土と財産の収奪でした。
彼らが掲げた異教徒を滅ぼすという大義名分が、いかに都合のいい理由であったかを、アルビ十字軍は雄弁に物語っています。
なぜなら、同じキリスト教徒に対しても、明らかに異端ではなかった人々に対しても、変わりなく卑劣な蛮行が行なわれたからです。
先に述べたように、「キル」と「マーダー」は違うと発言した現代の宗教指導者の話を紹介しましたが、アルビ十字軍においてはいったいどこが違うというのでしょうか。
ですから「ちょっと待て!、頭は大丈夫か?」と、私が激しく突っ込みを入れたくなったのは、このような歴史的史実を知っていたからです。
13世紀の南フランスで行なわれた虐殺の膨大なエピソードがありますが、ここでその話に分け入ることはやめておきましょう。
そして、1229年の戦争終結までに、南フランスのあらゆる都市はすべて陥落したのです。
戦争終結の年、カタリ派に対する異端審問が始まりました。
しかし果たして、審問の法廷に引きずり出された人々が、本当に生き残ったカタリ派だったのか、ただの市民だったのかは今となってはわかりません。
拷問に次ぐ拷問によって、「私は神の教えに背きました」という異端の自白が強制されました。
なかには自ら無実を訴え続ける不屈の人もいましたが、そういう人は酷い拷問によって絶命しました。自白してもしなくても、とにかく死が待っていたのです。
これが残虐な拷問と処刑が繰り返される、中世の暗黒裁判の始まりを告げる号砲であったということができます。
そしてカタリ派への異端審問をきっかけとして、異端審問制という制度が生まれることになったのです。
この制度の特徴は、「恒久的」「専門組織」「全権委任」という点です。
つまり異端審問制というのは、最初から、「すべての権限を持ち、永遠に異端を取り締まる」というものでした。
異端審問官が果たす権能は裁判官だけではなく、現代の司法制度でいえば、彼らは検察であり、警察であり、処刑吏であり、白を黒と言いくるめて人を殺すための、人類史上最大の思想警察ともいうべき存在でした。
教皇グレゴリウス9世は、この組織が猛威を振るうための「秘薬」を、そっと注入することも忘れませんでした。
それは異端審問官の活動を支える収入源の中に、審問によって処刑される異端者の没収財産を含めたのです。
それはかつての教皇インノケンティウス3世がアルビ十字軍に用いた方法でしたが、しかし教皇グレゴリウス9世は、それが恒久的に働くように制度の中に埋め込んだのです。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
*******************************************************************************
*******************************************************************************
魔女狩りを始動させた『魔女に与える鉄槌』はエロ本だった E
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83670623
1198年にインノケンティウス3世がローマ法王の位につくと、カタリ派への弾圧を決め、1209年、ついに南フランスに討伐軍を送ることを決定しました。
彼は討伐軍を組織するにあたり、ローマ市民のなかに異端に対する怒りを巧みに煽りたて、一方で討伐軍には異端者の領地と財産を与えることを約束したのです。
何と老獪(ろうかい)な政治家でしょうか。つまり軍人一人ひとりに最も精力的に異端狩りを行なわせる方法は、彼らの欲に火をつけることだと心得ていたのです。
法王の命によって送られたこの軍隊は、アルビ十字軍と呼ばれました。
それははじめから南フランスのカタリ派という、キリスト教徒の討伐を目的として組織された最初の十字軍でした。
そして異端討伐は、その後20年間に渡って繰り広げられたのです。
アルビ十字軍が各地で行なったのは、住民の大虐殺でした。
そこではカタリ派かそうでないかということは、もはや関係がありませんでした。
なぜなら、そもそも略奪することが目的になっていたので、殺戮に迷いの入り込む余地はなく、彼らはむしろそれを愉しんでいました。
たとえば娘を井戸に落とし、その上から次々と大きな石を投げ込むという蛮行が行なわれたのがその典型でしょう。
いつの時代の十字軍も、その目的は領土と財産の収奪でした。
彼らが掲げた異教徒を滅ぼすという大義名分が、いかに都合のいい理由であったかを、アルビ十字軍は雄弁に物語っています。
なぜなら、同じキリスト教徒に対しても、明らかに異端ではなかった人々に対しても、変わりなく卑劣な蛮行が行なわれたからです。
先に述べたように、「キル」と「マーダー」は違うと発言した現代の宗教指導者の話を紹介しましたが、アルビ十字軍においてはいったいどこが違うというのでしょうか。
ですから「ちょっと待て!、頭は大丈夫か?」と、私が激しく突っ込みを入れたくなったのは、このような歴史的史実を知っていたからです。
13世紀の南フランスで行なわれた虐殺の膨大なエピソードがありますが、ここでその話に分け入ることはやめておきましょう。
そして、1229年の戦争終結までに、南フランスのあらゆる都市はすべて陥落したのです。
戦争終結の年、カタリ派に対する異端審問が始まりました。
しかし果たして、審問の法廷に引きずり出された人々が、本当に生き残ったカタリ派だったのか、ただの市民だったのかは今となってはわかりません。
拷問に次ぐ拷問によって、「私は神の教えに背きました」という異端の自白が強制されました。
なかには自ら無実を訴え続ける不屈の人もいましたが、そういう人は酷い拷問によって絶命しました。自白してもしなくても、とにかく死が待っていたのです。
これが残虐な拷問と処刑が繰り返される、中世の暗黒裁判の始まりを告げる号砲であったということができます。
そしてカタリ派への異端審問をきっかけとして、異端審問制という制度が生まれることになったのです。
この制度の特徴は、「恒久的」「専門組織」「全権委任」という点です。
つまり異端審問制というのは、最初から、「すべての権限を持ち、永遠に異端を取り締まる」というものでした。
異端審問官が果たす権能は裁判官だけではなく、現代の司法制度でいえば、彼らは検察であり、警察であり、処刑吏であり、白を黒と言いくるめて人を殺すための、人類史上最大の思想警察ともいうべき存在でした。
教皇グレゴリウス9世は、この組織が猛威を振るうための「秘薬」を、そっと注入することも忘れませんでした。
それは異端審問官の活動を支える収入源の中に、審問によって処刑される異端者の没収財産を含めたのです。
それはかつての教皇インノケンティウス3世がアルビ十字軍に用いた方法でしたが、しかし教皇グレゴリウス9世は、それが恒久的に働くように制度の中に埋め込んだのです。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
*******************************************************************************
2013年02月02日
13世紀南フランスの大虐殺 異端討伐前夜
zeraniumのブログ より転載
******************************************************************************
13世紀南フランスの大虐殺 異端討伐前夜 D
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83656962
ヨーロッパ中世の魔女裁判の前には、異端審問という暗黒裁判の前史があります。
異端とは、正統から外れているという意味ですが、球界の異端児や異端の科学者などの用いられ方をする現代では、「異端」とはそれほど悪いイメージではありません。
しかし宗教で異端という場合、それは重大な意味を持っており、とくにヨーロッパ中世ではそれは生命にかかわる問題であったのです。
異端という言葉がいつ生まれたのか定かではありませんが、キリスト教初期のころにすでに異端論争が行なわれていたことは聖書からも窺うことができます。
すでに紹介したように、コンスタンティヌス大帝の時代にアリウス派が異端とされたことはその典型です。
つまり教義に多様な考え方や解釈があることを許容せず、正統とするもの以外を撲滅しようとすることです。
もちろんそこで、何が正統であるかに決着をつけるのは、常に信仰ではなく政治力です。
コンスタンティヌス大帝が、三位一体を唱えるアタナシウス派を擁護したのもそうです。
それは三位一体の教義から、聖霊の位格が神と同じということになれば、聖霊の宿ったパウロの言葉も、公会議の議決も、神の言葉と見なすことができるので政治的に非常に利用しやすかったといえます。
コンスタンティヌス大帝の目的は、当時4つに分割されていたローマ帝国をまとめ、そこで唯一の皇帝として専制君主制を確立することでした。
そのために当時、人気の上昇していたキリスト教を利用したのです。
その意味でコンスタンティヌス大帝がキリスト教に求めたのは、自らへの忠誠と求心力であったはずです。
三位一体論議で異端とされたアリウス派が、その後どのような扱いを受けたかはわずかしか記録には残されていませんが、それによると、領土内において激しい迫害を受け、家を壊され、暴力を振るわれ、殺されたりし、ローマ帝国を追われていきました。
ちなみに当時、コンスタンティヌス大帝に対する東の正帝であったリキニウスは、このコンスタンティヌスの動きに激しく反発しました。
しかし圧倒的な不人気の中で、戦いに敗れたリキニウスは、コンスタンティヌスによって324年に処刑されました。
これによりローマ帝国は統一され、325年にニケア公会議がコンスタンティヌス大帝主宰で開かれ、キリスト教がローマで確立しました。
このように宗教と権力が結びつき、それが国教化されるということは、すなわち宗教が権力者の権力闘争の道具として採用されることを意味します。
ローマカトリック教会の歴史を振り返ると、12世紀頃までは、彼らには異端撲滅を行なう特別な事情が生じなかったように見えます。
しかし政治的には爛熟期の後の堕落、退廃期が訪れていました。
王侯たちは市民や領民の生活を顧みることなく、統治力は著しく失われていました。
しかし一方で宗教の面から見ると、この時期は教会の権威がかつてなく高まった時代であり、一般に、法王権の全盛時代と言われる時代が始まっていました。
そしてもちろん教会もまた、ひどい堕落と退廃の中にありました。
聖職の売買や聖職者が情婦を囲うことは日常茶飯事であり、教会の小部屋は尼僧と女性信徒との情事の場と化し、聖職者は私服を肥やすことばかりに熱心でした。
ダンテは13世紀に、『神曲地獄編』で逆さまに吊るされた教皇ニコラウス3世(在位1277−1280)を描き、ダンテと同時代の教皇ボニファティウス8世が彼と同じ運命をたどるだろうと予言しました。
つまりダンテはその一節に、教会の権力への告発状を表したのです。
ダンテの「神曲地獄編」は、民衆が当時の教会に対して抱いていた怒りの強さを、現代に伝えています。
聖書の物語を題材にとったルネッサンスの絵画は、神に救いを求める人間の激しい苦悩を描いたものが数多く見られます。
なぜこうも同じようなテーマで、しかもおどろおどろしいタッチの絵ばかりが描かれたのか、不思議に思ってきた人も多いでしょう。
その理由も、ルネッサンス絵画の作者たちが、内心にダンテと同じような怒りを抱え、それを創作動機に昇華して絵筆を握っていたからです。
そのような状態で人々が立ち上がり、宗教改革運動が起きるのは当然の流れと言わねばなりません。
実は異端審問と宗教改革は、切っても切れない関係にあります。
教会がなぜ異端審問を行なうのかといえば、その目的は教会の権威を守り、組織を防衛することです。
それは教会に不満を抱える異端者とされる信徒たちが、教会の足元を崩すようなことを主張していたからでした。
教会がもっとも金と権力を握った中世は、同時に教会がもっとも保身に注意しなければならない時代でもありました。
残酷な拷問と凄まじい虐殺の行なわれた中世の異端審問は、12世紀の南フランスで始まりました。
当時の南フランスでは、領主や市民はローマ法王の権威からは距離を置き、自ら自由な文化を育んでいました。
その地で人々の間に浸透していたのが、カタリ派といわれるキリスト教の一派でした。
カタリ派の「カタリ」とは、ギリシャ語で「清浄なるもの」を意味します。
地域によってはアルビ派ともバタリニ派とも呼ばれていました。
カタリ派そのものが消滅してしまったので、彼らの思想の詳細はわかりませんが、教会を否定し、どこで祈っても信仰に変わりはないとする信条を持っていました。
ローマカトリック教会では、祈りは教会で行なうものと定めていました。
つまり儀式は典礼に則り、それらは宗教指導者によって執り行われるものと決められていたのです。
それが教会の高い権威を象徴しており、信者への支配を強化する手段でもありました。
その結果、神への信仰のはずがいつの間にか教会に対する隷従へと変質し、同時に、信仰の場であるはずの教会が形式ばかりの信仰と金儲け、あるいは政治の場へと堕してしまいました。
カタリ派をはじめとする宗教改革派は、こうした教会のあり方が信仰を歪めるという問題の本質に、早くから気づいていました。
西洋の歴史ノンフィクションなどでは、宗教改革運動を「教会を否定する運動」というように、ただの1行で片づける記述が多いために当時の状況がわからず、真相が理解されてはいないようです。
つまり宗教改革は、信仰を守ることと、教会という場で祈ることとの矛盾に気づいた人々による、信仰の原点回帰が出発点になっていたのです。
信仰の本質について考えれば、祈る場所は関係ないはずです。
そしてその行き着く先は、そもそも教会は必要ないという終点なのです。これが、「宗教改革運動が教会を否定した」といわれている要因なのです。
ローマカトリック教会にとって、こうした宗教改革者たちの論理は、非常に都合の悪いものでした。
祈りの場としての教会を疑う信者が増えると、教会の権威は崩れてしまいます。
信仰を持つことと教会は何の関係もないということになると、これまで営々と執り行ってきた儀式は何のためかということになり、信仰の邪魔をしているのは教会のほうではないかという極論も成り立ちます。
かりにこの論理の元に民衆蜂起が起これば、キリスト教を国教とする政治権力の権威も崩れてしまいます。
政治と宗教は協力し合い、民衆を治め、国家を統治してきました。
それがコンスタンティヌス大帝以来続けられてきた統治システムでした。
しかし教会の腐敗と縛りが強化されるなかで、信仰の原点に立ち返るという論理が生まれ、それが精緻に作り上げられていた教会のシステムの壁に亀裂を入れたのです。
信仰の本質を究めれば究めるほど教会が否定されるわけですから、この論理が持つ破壊力は実に強力です。
性急に言えば、それを許すと、政治と宗教による統治システムが崩壊するのです。
それを、権力者が黙って見ているはずはありません。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
*******************************************************************************
@Petit_Soleil17 からのツイート
******************************************************************************
13世紀南フランスの大虐殺 異端討伐前夜 D
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83656962
ヨーロッパ中世の魔女裁判の前には、異端審問という暗黒裁判の前史があります。
異端とは、正統から外れているという意味ですが、球界の異端児や異端の科学者などの用いられ方をする現代では、「異端」とはそれほど悪いイメージではありません。
しかし宗教で異端という場合、それは重大な意味を持っており、とくにヨーロッパ中世ではそれは生命にかかわる問題であったのです。
異端という言葉がいつ生まれたのか定かではありませんが、キリスト教初期のころにすでに異端論争が行なわれていたことは聖書からも窺うことができます。
すでに紹介したように、コンスタンティヌス大帝の時代にアリウス派が異端とされたことはその典型です。
つまり教義に多様な考え方や解釈があることを許容せず、正統とするもの以外を撲滅しようとすることです。
もちろんそこで、何が正統であるかに決着をつけるのは、常に信仰ではなく政治力です。
コンスタンティヌス大帝が、三位一体を唱えるアタナシウス派を擁護したのもそうです。
それは三位一体の教義から、聖霊の位格が神と同じということになれば、聖霊の宿ったパウロの言葉も、公会議の議決も、神の言葉と見なすことができるので政治的に非常に利用しやすかったといえます。
コンスタンティヌス大帝の目的は、当時4つに分割されていたローマ帝国をまとめ、そこで唯一の皇帝として専制君主制を確立することでした。
そのために当時、人気の上昇していたキリスト教を利用したのです。
その意味でコンスタンティヌス大帝がキリスト教に求めたのは、自らへの忠誠と求心力であったはずです。
三位一体論議で異端とされたアリウス派が、その後どのような扱いを受けたかはわずかしか記録には残されていませんが、それによると、領土内において激しい迫害を受け、家を壊され、暴力を振るわれ、殺されたりし、ローマ帝国を追われていきました。
ちなみに当時、コンスタンティヌス大帝に対する東の正帝であったリキニウスは、このコンスタンティヌスの動きに激しく反発しました。
しかし圧倒的な不人気の中で、戦いに敗れたリキニウスは、コンスタンティヌスによって324年に処刑されました。
これによりローマ帝国は統一され、325年にニケア公会議がコンスタンティヌス大帝主宰で開かれ、キリスト教がローマで確立しました。
このように宗教と権力が結びつき、それが国教化されるということは、すなわち宗教が権力者の権力闘争の道具として採用されることを意味します。
ローマカトリック教会の歴史を振り返ると、12世紀頃までは、彼らには異端撲滅を行なう特別な事情が生じなかったように見えます。
しかし政治的には爛熟期の後の堕落、退廃期が訪れていました。
王侯たちは市民や領民の生活を顧みることなく、統治力は著しく失われていました。
しかし一方で宗教の面から見ると、この時期は教会の権威がかつてなく高まった時代であり、一般に、法王権の全盛時代と言われる時代が始まっていました。
そしてもちろん教会もまた、ひどい堕落と退廃の中にありました。
聖職の売買や聖職者が情婦を囲うことは日常茶飯事であり、教会の小部屋は尼僧と女性信徒との情事の場と化し、聖職者は私服を肥やすことばかりに熱心でした。
ダンテは13世紀に、『神曲地獄編』で逆さまに吊るされた教皇ニコラウス3世(在位1277−1280)を描き、ダンテと同時代の教皇ボニファティウス8世が彼と同じ運命をたどるだろうと予言しました。
つまりダンテはその一節に、教会の権力への告発状を表したのです。
ダンテの「神曲地獄編」は、民衆が当時の教会に対して抱いていた怒りの強さを、現代に伝えています。
聖書の物語を題材にとったルネッサンスの絵画は、神に救いを求める人間の激しい苦悩を描いたものが数多く見られます。
なぜこうも同じようなテーマで、しかもおどろおどろしいタッチの絵ばかりが描かれたのか、不思議に思ってきた人も多いでしょう。
その理由も、ルネッサンス絵画の作者たちが、内心にダンテと同じような怒りを抱え、それを創作動機に昇華して絵筆を握っていたからです。
そのような状態で人々が立ち上がり、宗教改革運動が起きるのは当然の流れと言わねばなりません。
実は異端審問と宗教改革は、切っても切れない関係にあります。
教会がなぜ異端審問を行なうのかといえば、その目的は教会の権威を守り、組織を防衛することです。
それは教会に不満を抱える異端者とされる信徒たちが、教会の足元を崩すようなことを主張していたからでした。
教会がもっとも金と権力を握った中世は、同時に教会がもっとも保身に注意しなければならない時代でもありました。
残酷な拷問と凄まじい虐殺の行なわれた中世の異端審問は、12世紀の南フランスで始まりました。
当時の南フランスでは、領主や市民はローマ法王の権威からは距離を置き、自ら自由な文化を育んでいました。
その地で人々の間に浸透していたのが、カタリ派といわれるキリスト教の一派でした。
カタリ派の「カタリ」とは、ギリシャ語で「清浄なるもの」を意味します。
地域によってはアルビ派ともバタリニ派とも呼ばれていました。
カタリ派そのものが消滅してしまったので、彼らの思想の詳細はわかりませんが、教会を否定し、どこで祈っても信仰に変わりはないとする信条を持っていました。
ローマカトリック教会では、祈りは教会で行なうものと定めていました。
つまり儀式は典礼に則り、それらは宗教指導者によって執り行われるものと決められていたのです。
それが教会の高い権威を象徴しており、信者への支配を強化する手段でもありました。
その結果、神への信仰のはずがいつの間にか教会に対する隷従へと変質し、同時に、信仰の場であるはずの教会が形式ばかりの信仰と金儲け、あるいは政治の場へと堕してしまいました。
カタリ派をはじめとする宗教改革派は、こうした教会のあり方が信仰を歪めるという問題の本質に、早くから気づいていました。
西洋の歴史ノンフィクションなどでは、宗教改革運動を「教会を否定する運動」というように、ただの1行で片づける記述が多いために当時の状況がわからず、真相が理解されてはいないようです。
つまり宗教改革は、信仰を守ることと、教会という場で祈ることとの矛盾に気づいた人々による、信仰の原点回帰が出発点になっていたのです。
信仰の本質について考えれば、祈る場所は関係ないはずです。
そしてその行き着く先は、そもそも教会は必要ないという終点なのです。これが、「宗教改革運動が教会を否定した」といわれている要因なのです。
ローマカトリック教会にとって、こうした宗教改革者たちの論理は、非常に都合の悪いものでした。
祈りの場としての教会を疑う信者が増えると、教会の権威は崩れてしまいます。
信仰を持つことと教会は何の関係もないということになると、これまで営々と執り行ってきた儀式は何のためかということになり、信仰の邪魔をしているのは教会のほうではないかという極論も成り立ちます。
かりにこの論理の元に民衆蜂起が起これば、キリスト教を国教とする政治権力の権威も崩れてしまいます。
政治と宗教は協力し合い、民衆を治め、国家を統治してきました。
それがコンスタンティヌス大帝以来続けられてきた統治システムでした。
しかし教会の腐敗と縛りが強化されるなかで、信仰の原点に立ち返るという論理が生まれ、それが精緻に作り上げられていた教会のシステムの壁に亀裂を入れたのです。
信仰の本質を究めれば究めるほど教会が否定されるわけですから、この論理が持つ破壊力は実に強力です。
性急に言えば、それを許すと、政治と宗教による統治システムが崩壊するのです。
それを、権力者が黙って見ているはずはありません。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
*******************************************************************************
@Petit_Soleil17 からのツイート
宗教の教義は常に権力者の都合で作られる
zeraniumのブログ より転載
*******************************************************************************
宗教の教義は常に権力者の都合で作られる C
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83635885
長い年月の間に聖書は、英語をはじめさまざまな世界の言葉に翻訳されていきました。
海外の旅行先のホテルなどに置いてある聖書は、たいていは英語のものです。
キリスト教に馴染みのない日本人はその理由を、「英語人口が多いからだろう」と考えるかもしれませんが、英語の聖書が備えられていることには、もっと根本的な理由があるのです。
英語の聖書というのは、それは通常イギリス国教会の聖書のことで、KJV聖書といわれます。
プロテスタントの聖書は英語で書かれたものであり、それ以外は正しい聖書ではないとさえ言えるのです。
そして実はカトリックの聖書も、英語の聖書はKJV聖書をベースにしています。
このKJVとはKing James Version の略です。
もともと『新約聖書』はギリシャ語で書かれていましたが、それがラテン語に翻訳されて広まっていきました。
しかしローマカトリックが正式に聖書と定めているのは、いまでもラテン語で書かれた聖書です。
それと同じ意味で、多くのプロテスタント教会が聖書と定めているのは、英語で書かれた聖書のみなのです。
だとすれば、誰が英語の聖書を翻訳し、編纂したのかが重要なポイントになります。
プロテスタントの英語聖書をつくったのは、スコットランドやイングランド、アイルランドを治めたジェームズ1世(チャールズ・ジェームズ・スチュワート)です。
彼は1611年に、イギリス国教会の典礼に使うという理由から、『欽定訳聖書』(KJV聖書)をつくりました。
それがつくられる以前までは、イギリスには「ジュネーブ聖書」と呼ばれる英語訳聖書が普及しており、人々に親しまれていました。
これは宗教改革運動への迫害を逃れてジュネーブに渡った、カルヴァン派の神学者たちによって翻訳されたものです。
聖書の英訳にも興味の尽きない歴史があります。
最初の英訳は、ジョン・ウィクリフによる英訳聖書(1408年)、その次がウィリアム・ティンダルによる英訳聖書(1525年)です。
ウィクリフとティンダルはともに宗教改革のリーダー的存在でした。
それ以後は、『マシュー版聖書』、『ジュネーブ聖書』、と次々刊行されましたが、『欽定訳聖書』はティンダル版聖書に大きな影響を受けています。
ジェームズ1世に、あらためて英訳聖書をつくることを決意させたものが何であったか、詳しい事情はわかりません。
ただ他の国王たちが、自分に服従しないと感じたジェームズ1世は、それまでの聖書をひどく嫌ったといわれています。
時代はまさに宗教改革の波に洗われ、イギリスの政治の歯車が大きな音とともに回り始めていました。
ですからジェームズ1世が、自らの力で新しい聖書を定めることが権力をさらに拡大する道である、と考えたことは想像に難くありません。
キング・ジェームズ1世の悪訳
54人の神学者たちが、どれほど正典の教えに忠実であろうとしたにせよ、彼らはジェームズ1世の政治的野望の手の平で踊らされていたにすぎません。
そして実際にジェームズ1世は、自分に都合のいい言葉を「そっと」聖書に忍び込ませたのです。
たとえば、「汝、殺すことなかれ」で知られるマタイ19:18は、カトリックの聖書では、Thou shalt do not kill となっていますが、『欽定訳聖書』では、Thou shalt do not murder となっており、kill が murder に変わっています。
もともとのギリシャ語では φονευω(phoneuo)という単語は kill を表す一般名詞です。
それは旧約の神が認める kill は murder ではないとするもので、まさに魔女狩りや十字軍の論理であり、それが聖書の文字に表されたのです。
そしてイギリスの国教会からアメリカに移住したピューリタンまでが、この聖書を使いました。
アメリカインディアンの虐殺もまさに murderではなく kill であり神は murder は禁じていても、 kill は禁じていないという論理で行なわれたのでしょう。
同じく、原爆投下の論理もそう感じられます。
「そんな馬鹿な」と思うかもしれませんが、ラリー・キング・ライヴのトーク番組で行なわれた議論が示すように、現実は確かにそうなっています。
そして就任式に臨む歴代のアメリカ大統領は「キル」を肯定するバイブルに片手を置き、「ヘルプ・ミー・ゴッド」と宣誓を行なうのです。
また、もともと「教会」は英語で congregation と言いますが、これをイギリス国教会を示す church に変えたのはジェームズ1世です。
ですからプロテスタントの開祖は、ジェームズ1世と言ってもいいのです。
私はジェームズ1世による訳語改変の理由が、彼の個人的理由から生まれたと考えているのですが、それは後で明らかにしていきます。
宗教は検証されない
さて、ここまでの話で重要な点は、宗教の教義というものは、いつの時代にも権力者に都合のいいように書き残されているということです。
そして文字として書かれた教義は、科学論文のように査読され、検証されることなく、いつの間にか人々の心に刻まれていきます。
なぜ検証しないかといえば、宗教はもともと検証できないものであり、「この部分は正しいけど、全体的には間違っている」ということになれば、もはやそれは信じられるものではなく、盲従する信者たちの求めに応じられるものではないからです。
救いを求める人ほど、騙しやすいものはありません。
金に困り、のどから手が出るほどお金が欲しいと思っている人ほど、詐欺に騙されやすいというのはいつの時代も変わりません。
同じことが宗教に救いを求める人にも言えるのです。
なぜ書かれた教義を盲目的に信用するかといえば、それは他人を信じていないにもかかわらず、信用できる対象が欲しいと考えているからです。
まず最初に、すべてのことを疑う
心を持てば、そのような浅薄な気持ちはすぐに消えてなくなります。
そうなると、自らの判断で信用できるものを受け入れようと前に出る自信が、逆に心に満ちてくるはずです。
満たされない心に作用するのは、これまでも常に宗教であり、言葉でした。
そしてその作用を強化し、増幅させたのが、書かれた言葉であり、印刷された言葉でした。
グーテンベルクの印刷術による発明は、人間が知識を獲得するうえで、それは極めて大きな役割を果たしたのは事実です。
しかしその反面、印刷術は、中世のヨーロッパの人々の心に誤まった固定観念を植え付ける役割も果たしたのです。
『魔女に与える鉄槌』という書物が繰り返し複製されることによって、誤まった固定観念が広められていくという、負の側面も存在しました。
権力者と宗教はその効果を利用し、この書物が版を重ねるにつれて、魔女狩りがいよいよ猛威を振るっていったのは偶然ではありません。
『魔女に与える鉄槌』がベストセラーになると、魔女に関する書物は次々と生み出されていき、その一つがジェームズ1世の手になる『デモノロジー』(悪魔学)です。
19世紀になると魔女狩りは終息しましたが、デモノロジーの流れは残りました。
ボードレールの『悪の華』などの悪魔文学は、まさにそれを受け継ぐものでした。
またフロイトが、精神分析学を確立したのも、自分が魔女であると自称する人々の心理を、解明しようと考えたことが発端であったのです。
その意味で、魔女狩りはヨーロッパ社会の形成を左右した非常に大きな試金石だった、という指摘もあります。
さて、現代におけるITの発明は、グーテンベルクによる印刷術に匹敵するといわれています。
その恩恵に浴する私たちは、外国の政府や新聞、ラジオ、テレビ、また個人が撮影した映像に至るまで、好きなように接し、保存し、加工することまでできるようになりました。
そうした情報は、専門家を含む大勢の人々の目というフィルターを通して、誤まった情報は修正され、淘汰されていきます。
その結果私たちはIT以前に比べると、はるかに正しく高い知識が得られる環境に暮らせるようになりました。
いつの時代も情報操作を行なう人間がいる
しかしながら、それは表の話であり、物事には必ず裏表が存在します。
ヨーロッパの中世にグーテンベルクの印刷術がもたらされたことが表だとすると、その印刷術によって『魔女に与える鉄槌』が中世もたらしたものが裏の世界であり、それは現代においても存在しています。
それは、専門家を含め大勢の人々によって検証されない情報であり、なかでも意図的な誤誘導や、洗脳を企む権力者によって行なわれる組織的な情報操作の世界です。
従来から、インターネットの世界で起こるこうした情報操作に対して、情報の1次ソースを確認したり、反対意見や複数の意見を吟味する情報リテラシーのキャンペーンが行なわれてきました。
しかし情報リテラシーは、悪質なサイトや金銭トラブルに巻き込まれないという程度のことには役立つとしても、権力者による意図的な情報操作に太刀打ちできるものではありません。
なぜなら情報操作の世界は、改竄された1次ソースや、一見すると反対意見のように読める「偽装した賛成意見」や、あるいは一見すると賛成意見のように読める「偽装した反対意見」などが蔓延する、情報空間世界だからです。
しかもツイッターの登場によって、こうした偽装情報はなおさら巧妙に流通しつつあります。
論理を持たず、感情に訴える「つぶやき」は、反論や反証をほとんど受け付けません。
誤まっていることをとがめても、「つぶやいただけなんだから、いいじゃん」、で終わりです。
これは現代に魔女狩りが流行する、非常に大きな環境的条件です。
これを利用する権力者はすでに現れているし、その動きは今後益々顕著になっていくでしょう。
それについては明らかにしていきますが、そのためにもヨーロッパ中世に起こった魔女狩りについて、もう少し深く考察を進める必要があります。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
*******************************************************************************
*******************************************************************************
宗教の教義は常に権力者の都合で作られる C
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83635885
長い年月の間に聖書は、英語をはじめさまざまな世界の言葉に翻訳されていきました。
海外の旅行先のホテルなどに置いてある聖書は、たいていは英語のものです。
キリスト教に馴染みのない日本人はその理由を、「英語人口が多いからだろう」と考えるかもしれませんが、英語の聖書が備えられていることには、もっと根本的な理由があるのです。
英語の聖書というのは、それは通常イギリス国教会の聖書のことで、KJV聖書といわれます。
プロテスタントの聖書は英語で書かれたものであり、それ以外は正しい聖書ではないとさえ言えるのです。
そして実はカトリックの聖書も、英語の聖書はKJV聖書をベースにしています。
このKJVとはKing James Version の略です。
もともと『新約聖書』はギリシャ語で書かれていましたが、それがラテン語に翻訳されて広まっていきました。
しかしローマカトリックが正式に聖書と定めているのは、いまでもラテン語で書かれた聖書です。
それと同じ意味で、多くのプロテスタント教会が聖書と定めているのは、英語で書かれた聖書のみなのです。
だとすれば、誰が英語の聖書を翻訳し、編纂したのかが重要なポイントになります。
プロテスタントの英語聖書をつくったのは、スコットランドやイングランド、アイルランドを治めたジェームズ1世(チャールズ・ジェームズ・スチュワート)です。
彼は1611年に、イギリス国教会の典礼に使うという理由から、『欽定訳聖書』(KJV聖書)をつくりました。
それがつくられる以前までは、イギリスには「ジュネーブ聖書」と呼ばれる英語訳聖書が普及しており、人々に親しまれていました。
これは宗教改革運動への迫害を逃れてジュネーブに渡った、カルヴァン派の神学者たちによって翻訳されたものです。
聖書の英訳にも興味の尽きない歴史があります。
最初の英訳は、ジョン・ウィクリフによる英訳聖書(1408年)、その次がウィリアム・ティンダルによる英訳聖書(1525年)です。
ウィクリフとティンダルはともに宗教改革のリーダー的存在でした。
それ以後は、『マシュー版聖書』、『ジュネーブ聖書』、と次々刊行されましたが、『欽定訳聖書』はティンダル版聖書に大きな影響を受けています。
ジェームズ1世に、あらためて英訳聖書をつくることを決意させたものが何であったか、詳しい事情はわかりません。
ただ他の国王たちが、自分に服従しないと感じたジェームズ1世は、それまでの聖書をひどく嫌ったといわれています。
時代はまさに宗教改革の波に洗われ、イギリスの政治の歯車が大きな音とともに回り始めていました。
ですからジェームズ1世が、自らの力で新しい聖書を定めることが権力をさらに拡大する道である、と考えたことは想像に難くありません。
キング・ジェームズ1世の悪訳
54人の神学者たちが、どれほど正典の教えに忠実であろうとしたにせよ、彼らはジェームズ1世の政治的野望の手の平で踊らされていたにすぎません。
そして実際にジェームズ1世は、自分に都合のいい言葉を「そっと」聖書に忍び込ませたのです。
たとえば、「汝、殺すことなかれ」で知られるマタイ19:18は、カトリックの聖書では、Thou shalt do not kill となっていますが、『欽定訳聖書』では、Thou shalt do not murder となっており、kill が murder に変わっています。
もともとのギリシャ語では φονευω(phoneuo)という単語は kill を表す一般名詞です。
それは旧約の神が認める kill は murder ではないとするもので、まさに魔女狩りや十字軍の論理であり、それが聖書の文字に表されたのです。
そしてイギリスの国教会からアメリカに移住したピューリタンまでが、この聖書を使いました。
アメリカインディアンの虐殺もまさに murderではなく kill であり神は murder は禁じていても、 kill は禁じていないという論理で行なわれたのでしょう。
同じく、原爆投下の論理もそう感じられます。
「そんな馬鹿な」と思うかもしれませんが、ラリー・キング・ライヴのトーク番組で行なわれた議論が示すように、現実は確かにそうなっています。
そして就任式に臨む歴代のアメリカ大統領は「キル」を肯定するバイブルに片手を置き、「ヘルプ・ミー・ゴッド」と宣誓を行なうのです。
また、もともと「教会」は英語で congregation と言いますが、これをイギリス国教会を示す church に変えたのはジェームズ1世です。
ですからプロテスタントの開祖は、ジェームズ1世と言ってもいいのです。
私はジェームズ1世による訳語改変の理由が、彼の個人的理由から生まれたと考えているのですが、それは後で明らかにしていきます。
宗教は検証されない
さて、ここまでの話で重要な点は、宗教の教義というものは、いつの時代にも権力者に都合のいいように書き残されているということです。
そして文字として書かれた教義は、科学論文のように査読され、検証されることなく、いつの間にか人々の心に刻まれていきます。
なぜ検証しないかといえば、宗教はもともと検証できないものであり、「この部分は正しいけど、全体的には間違っている」ということになれば、もはやそれは信じられるものではなく、盲従する信者たちの求めに応じられるものではないからです。
救いを求める人ほど、騙しやすいものはありません。
金に困り、のどから手が出るほどお金が欲しいと思っている人ほど、詐欺に騙されやすいというのはいつの時代も変わりません。
同じことが宗教に救いを求める人にも言えるのです。
なぜ書かれた教義を盲目的に信用するかといえば、それは他人を信じていないにもかかわらず、信用できる対象が欲しいと考えているからです。
まず最初に、すべてのことを疑う
心を持てば、そのような浅薄な気持ちはすぐに消えてなくなります。
そうなると、自らの判断で信用できるものを受け入れようと前に出る自信が、逆に心に満ちてくるはずです。
満たされない心に作用するのは、これまでも常に宗教であり、言葉でした。
そしてその作用を強化し、増幅させたのが、書かれた言葉であり、印刷された言葉でした。
グーテンベルクの印刷術による発明は、人間が知識を獲得するうえで、それは極めて大きな役割を果たしたのは事実です。
しかしその反面、印刷術は、中世のヨーロッパの人々の心に誤まった固定観念を植え付ける役割も果たしたのです。
『魔女に与える鉄槌』という書物が繰り返し複製されることによって、誤まった固定観念が広められていくという、負の側面も存在しました。
権力者と宗教はその効果を利用し、この書物が版を重ねるにつれて、魔女狩りがいよいよ猛威を振るっていったのは偶然ではありません。
『魔女に与える鉄槌』がベストセラーになると、魔女に関する書物は次々と生み出されていき、その一つがジェームズ1世の手になる『デモノロジー』(悪魔学)です。
19世紀になると魔女狩りは終息しましたが、デモノロジーの流れは残りました。
ボードレールの『悪の華』などの悪魔文学は、まさにそれを受け継ぐものでした。
またフロイトが、精神分析学を確立したのも、自分が魔女であると自称する人々の心理を、解明しようと考えたことが発端であったのです。
その意味で、魔女狩りはヨーロッパ社会の形成を左右した非常に大きな試金石だった、という指摘もあります。
さて、現代におけるITの発明は、グーテンベルクによる印刷術に匹敵するといわれています。
その恩恵に浴する私たちは、外国の政府や新聞、ラジオ、テレビ、また個人が撮影した映像に至るまで、好きなように接し、保存し、加工することまでできるようになりました。
そうした情報は、専門家を含む大勢の人々の目というフィルターを通して、誤まった情報は修正され、淘汰されていきます。
その結果私たちはIT以前に比べると、はるかに正しく高い知識が得られる環境に暮らせるようになりました。
いつの時代も情報操作を行なう人間がいる
しかしながら、それは表の話であり、物事には必ず裏表が存在します。
ヨーロッパの中世にグーテンベルクの印刷術がもたらされたことが表だとすると、その印刷術によって『魔女に与える鉄槌』が中世もたらしたものが裏の世界であり、それは現代においても存在しています。
それは、専門家を含め大勢の人々によって検証されない情報であり、なかでも意図的な誤誘導や、洗脳を企む権力者によって行なわれる組織的な情報操作の世界です。
従来から、インターネットの世界で起こるこうした情報操作に対して、情報の1次ソースを確認したり、反対意見や複数の意見を吟味する情報リテラシーのキャンペーンが行なわれてきました。
しかし情報リテラシーは、悪質なサイトや金銭トラブルに巻き込まれないという程度のことには役立つとしても、権力者による意図的な情報操作に太刀打ちできるものではありません。
なぜなら情報操作の世界は、改竄された1次ソースや、一見すると反対意見のように読める「偽装した賛成意見」や、あるいは一見すると賛成意見のように読める「偽装した反対意見」などが蔓延する、情報空間世界だからです。
しかもツイッターの登場によって、こうした偽装情報はなおさら巧妙に流通しつつあります。
論理を持たず、感情に訴える「つぶやき」は、反論や反証をほとんど受け付けません。
誤まっていることをとがめても、「つぶやいただけなんだから、いいじゃん」、で終わりです。
これは現代に魔女狩りが流行する、非常に大きな環境的条件です。
これを利用する権力者はすでに現れているし、その動きは今後益々顕著になっていくでしょう。
それについては明らかにしていきますが、そのためにもヨーロッパ中世に起こった魔女狩りについて、もう少し深く考察を進める必要があります。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
*******************************************************************************
2013年01月31日
ジャンヌ・ダルクとは誰だったのか?
読み物としては、面白いお話!(゚∀゚)
zeraniumのブログ より転載
*******************************************************************************
ジャンヌ・ダルクとは誰だったのか?
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83697455
ペドロは続けて話した。
「地球では権力者によって人命が奪われ続けており、それらが地球の文明化を妨げていた。
そして15世紀の中世ヨーロッパで繰り広げられていたその争いに、私は終止符を打とうとしていた。
私は地球の年齢で10歳になったとき、ジャンヌ・ダルクという地球人の中に存在していた。
まず最初に、私の父親(ジャンヌの父親)の陽性化に着手することから始めた。
私がなぜ「宿主」として農家の娘を選んだかといえば、多くの場合、地球人の進化と文明化のためには、高貴な生まれの者よりも、低い立場にある者の中から誕生することが必要であり、有効な手段になるからだ。
そうすることで、人間の美徳は、低い身分であれ高貴な立場であれ同じだということを示すことができるのだ。
両者の違いは、単なるお金であり、お金が搾取する者とされる者に振り分けてしまうのだ。
ジャンヌ・ダルクの母親は、文盲で貧しいユダヤ人だった。
しかし彼女は、他のどんな貴族の女性よりも、我々アプ星人が宿りやすい資質を豊かに備えていた。
しかしジャンヌの父親は、逆に陰性だった。
私ジャンヌは、父親にこれから起きるさまざまな予言を話して聞かせたが、彼はそれを聞くと恐れをなしてしまった。
そしてある日、彼は妻を庭に呼び出して言った、「わしらの娘には悪魔が憑いている。
だから森に連れて行って置き去りにし、あとはオオカミと熊に娘のことをまかせようと思う」
それを聞いた母親は驚いて泣き始め、夫の前にひざまづき、彼の足にしがみついて懇願した。
しかし父親は彼女を蹴飛ばすと家の中に入った。
その時10歳のジャンヌは弟と遊んでいた。
父は彼女を連れ出し、まるで柱でも担ぐような格好でジャンヌを肩に乗せると森に向かって歩き始めた。
その途中、馬に鉄具を付けている最中の友人に出会った。
するとジャンヌの父親は彼女を草むらに放り出し、馬の鉄具を付ける友人を手伝った。
作業が終わると父親は、娘を祈祷師のところに連れていきたいので、馬を貸してくれるように頼み込んだ。娘は病気で魔法にかけられていると言ったのだ。
そして友人は哀れに思い、馬を貸すことにした。
父親は彼女を抱きかかえて馬に乗ると、ギャロップで駆け出した。
二人は暗くなるまでギャロップで疾走した。日が暮れた頃、山のほぼ中腹まで来ると、父親は娘を馬から降ろし、彼はそのまま馬で走り去ってしまった。
しかしジャンヌには私が宿っていたので何も問題はなかった。
私はオオカミに囲まれると、オオカミたちにプラスイオンを照射した。
そしてその中でも一番強いオオカミの背中に乗ると、真っ直ぐ家に帰った。
私の父親は、私が家に戻って来ているのを見ると、驚いて卒倒しそうになった。
彼は妻に、何をしたかを何も話さなかったが、この出来事で、自分の娘は普通ではないと納得したのだった。
1週間後、ジャンヌの父親は、建材用の板を切り出すために森へと向かった。
彼はこの地方の農民の代弁者となることが決まり、フランス王シャルル7世の特別な援助を受けて小屋を建てることになったのだ。
しかし作業の最中に不幸にも、彼は自分が切り出した材木が崩れてその下敷きになってしまった。それは10頭の牛を使って材木を移動させない限り、彼を助け出すことは出来ない状況だった。
その時、私ジャンヌは山羊の群れを導いていたが、父に危険が迫っているという予感がした。
そこで私は父のいる場所に向かって走り、そこに着くと大量のプラスイオンを集めて材木を起こし、父を助け出したのだ。
そしてそれ以降、ジャンヌの父親は娘の忠実な友人となった。
こうして私は、フランス皇太子に近づくための手助けしてくれるように彼を説き伏せることができた。そして、彼のおかげで私の謁見は実現することになった。
私が11歳になった時、父は友人の軍人のところに連れて行ってくれた。
そして父と軍人は連れ立って、私をフランス皇太子の元へ案内してくれることになった。
私にとって皇太子の説得は一番難しく、かつ一番重要なことだった。
皇太子は私の目を見つめ、毅然とした態度で言った。
「我はお前が誰で、何を求めているかは知らぬが、お前は話し方を心得ておる。
お前はフランスを愛しておる。この事実だけで、お前の忠誠心を信じることができよう。
しかしながら、軍隊をお前の指揮下に置くというのは、きわどい行為だ。
そんなことは不可能だ。文盲で何の知識もないお前のような年若い娘が、軍隊を指揮できると思うのか?
我のもっとも優秀な戦士でさえ、訓練されたイギリスの射手によって斃(たお)されてしまった。
それにしても・・・・、お前はいったい何者なのだ?」
「では殿下、私はどのような証明をすればよろしいのでしょうか?」
「お前の叡智と攻撃計画を示せ。
それに、なぜそこまで勝利を確信できるのかが知りたい。
何でもよいから私に奇跡を見せてみろ。ここで、今すぐにだ」
私は彼に攻撃計画を説明したが、気に入ってはもらえなかった。
それで私は彼に尋ねた。今からここで皇太子ご本人に関する「奇跡」をご披露するが、あなたは冷静さを保っていられますか、と。
そして彼は大丈夫だと答え、側近の士官と参事たちに退室するようにと命じた。
私たちは執務室で二人きりになった。そこで私は集中してプラスイオンを集め、壁にタイム・スクリーンを出現させて、言った。
「殿下、この部屋で今からお目にかけるものを、誰にも明かさないとお約束してくださいますか?」
「約束しよう、少女よ」、と皇太子は決然とした態度で答えた。
「ではご覧下さい」、と私は言った。
彼はスクリーンを見つめ、フランス兵が敵の城塞に押し入る様子を目の当たりにした。
画面では私が彼に説明した計画どおり、パニック状態になったイギリス兵は退却して行った。
突如、場面は変り、次に彼の戴冠式の様子が映し出された。
頭上に王冠を戴き、宮殿の人々に囲まれて座っている自分の姿に気づいたとき、皇太子は嬉しそうに微笑んだ。そしてついに彼は、私の手を取り、囁くように言ったのだ。
「乙女よ、我の軍隊を好きにするがよい」
これはほんの数分の出来事だったが、皇太子が勝利を確信し、戦士たちが私に従うように命令してもらうためには充分だったのだ。
ジャンヌは「火あぶり」を免れる必要はもうなかった。
なぜならジャンヌという陽性の人間の人格は、自らのミッションをもう全うしたからだ。
修道士たちがジャンヌ・ダルクに火あぶりの刑を宣告したのは、彼女の持つ大きな力のためであり、自分たちの人々への説法の影響力が、そのためになくなることを怖れたためだった。
そして彼らが、ジャンヌの足元のうず高く積まれた薪に火を放った時、彼女である私は<分解>したのだ。
そして炎から離れ、<再融合>したので、私はまだ生き続けている。
その後も数年間、戦争は続いたが、最期には平和条約締結の日が訪れた。
その礎(いしずえ)となったのが、「ジャンヌ」の陽性な介入だったんだよ。」
「アプ星で見て、知って、体験したこと@」 ヴラド・カペタノヴィッチ著
抜粋したもの
*******************************************************************************
ビジネス情報誌といえば『週刊ダイヤモンド』送料無料でまずは4冊購読!(約1ヶ月)
zeraniumのブログ より転載
*******************************************************************************
ジャンヌ・ダルクとは誰だったのか?
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83697455
ペドロは続けて話した。
「地球では権力者によって人命が奪われ続けており、それらが地球の文明化を妨げていた。
そして15世紀の中世ヨーロッパで繰り広げられていたその争いに、私は終止符を打とうとしていた。
私は地球の年齢で10歳になったとき、ジャンヌ・ダルクという地球人の中に存在していた。
まず最初に、私の父親(ジャンヌの父親)の陽性化に着手することから始めた。
私がなぜ「宿主」として農家の娘を選んだかといえば、多くの場合、地球人の進化と文明化のためには、高貴な生まれの者よりも、低い立場にある者の中から誕生することが必要であり、有効な手段になるからだ。
そうすることで、人間の美徳は、低い身分であれ高貴な立場であれ同じだということを示すことができるのだ。
両者の違いは、単なるお金であり、お金が搾取する者とされる者に振り分けてしまうのだ。
ジャンヌ・ダルクの母親は、文盲で貧しいユダヤ人だった。
しかし彼女は、他のどんな貴族の女性よりも、我々アプ星人が宿りやすい資質を豊かに備えていた。
しかしジャンヌの父親は、逆に陰性だった。
私ジャンヌは、父親にこれから起きるさまざまな予言を話して聞かせたが、彼はそれを聞くと恐れをなしてしまった。
そしてある日、彼は妻を庭に呼び出して言った、「わしらの娘には悪魔が憑いている。
だから森に連れて行って置き去りにし、あとはオオカミと熊に娘のことをまかせようと思う」
それを聞いた母親は驚いて泣き始め、夫の前にひざまづき、彼の足にしがみついて懇願した。
しかし父親は彼女を蹴飛ばすと家の中に入った。
その時10歳のジャンヌは弟と遊んでいた。
父は彼女を連れ出し、まるで柱でも担ぐような格好でジャンヌを肩に乗せると森に向かって歩き始めた。
その途中、馬に鉄具を付けている最中の友人に出会った。
するとジャンヌの父親は彼女を草むらに放り出し、馬の鉄具を付ける友人を手伝った。
作業が終わると父親は、娘を祈祷師のところに連れていきたいので、馬を貸してくれるように頼み込んだ。娘は病気で魔法にかけられていると言ったのだ。
そして友人は哀れに思い、馬を貸すことにした。
父親は彼女を抱きかかえて馬に乗ると、ギャロップで駆け出した。
二人は暗くなるまでギャロップで疾走した。日が暮れた頃、山のほぼ中腹まで来ると、父親は娘を馬から降ろし、彼はそのまま馬で走り去ってしまった。
しかしジャンヌには私が宿っていたので何も問題はなかった。
私はオオカミに囲まれると、オオカミたちにプラスイオンを照射した。
そしてその中でも一番強いオオカミの背中に乗ると、真っ直ぐ家に帰った。
私の父親は、私が家に戻って来ているのを見ると、驚いて卒倒しそうになった。
彼は妻に、何をしたかを何も話さなかったが、この出来事で、自分の娘は普通ではないと納得したのだった。
1週間後、ジャンヌの父親は、建材用の板を切り出すために森へと向かった。
彼はこの地方の農民の代弁者となることが決まり、フランス王シャルル7世の特別な援助を受けて小屋を建てることになったのだ。
しかし作業の最中に不幸にも、彼は自分が切り出した材木が崩れてその下敷きになってしまった。それは10頭の牛を使って材木を移動させない限り、彼を助け出すことは出来ない状況だった。
その時、私ジャンヌは山羊の群れを導いていたが、父に危険が迫っているという予感がした。
そこで私は父のいる場所に向かって走り、そこに着くと大量のプラスイオンを集めて材木を起こし、父を助け出したのだ。
そしてそれ以降、ジャンヌの父親は娘の忠実な友人となった。
こうして私は、フランス皇太子に近づくための手助けしてくれるように彼を説き伏せることができた。そして、彼のおかげで私の謁見は実現することになった。
私が11歳になった時、父は友人の軍人のところに連れて行ってくれた。
そして父と軍人は連れ立って、私をフランス皇太子の元へ案内してくれることになった。
私にとって皇太子の説得は一番難しく、かつ一番重要なことだった。
皇太子は私の目を見つめ、毅然とした態度で言った。
「我はお前が誰で、何を求めているかは知らぬが、お前は話し方を心得ておる。
お前はフランスを愛しておる。この事実だけで、お前の忠誠心を信じることができよう。
しかしながら、軍隊をお前の指揮下に置くというのは、きわどい行為だ。
そんなことは不可能だ。文盲で何の知識もないお前のような年若い娘が、軍隊を指揮できると思うのか?
我のもっとも優秀な戦士でさえ、訓練されたイギリスの射手によって斃(たお)されてしまった。
それにしても・・・・、お前はいったい何者なのだ?」
「では殿下、私はどのような証明をすればよろしいのでしょうか?」
「お前の叡智と攻撃計画を示せ。
それに、なぜそこまで勝利を確信できるのかが知りたい。
何でもよいから私に奇跡を見せてみろ。ここで、今すぐにだ」
私は彼に攻撃計画を説明したが、気に入ってはもらえなかった。
それで私は彼に尋ねた。今からここで皇太子ご本人に関する「奇跡」をご披露するが、あなたは冷静さを保っていられますか、と。
そして彼は大丈夫だと答え、側近の士官と参事たちに退室するようにと命じた。
私たちは執務室で二人きりになった。そこで私は集中してプラスイオンを集め、壁にタイム・スクリーンを出現させて、言った。
「殿下、この部屋で今からお目にかけるものを、誰にも明かさないとお約束してくださいますか?」
「約束しよう、少女よ」、と皇太子は決然とした態度で答えた。
「ではご覧下さい」、と私は言った。
彼はスクリーンを見つめ、フランス兵が敵の城塞に押し入る様子を目の当たりにした。
画面では私が彼に説明した計画どおり、パニック状態になったイギリス兵は退却して行った。
突如、場面は変り、次に彼の戴冠式の様子が映し出された。
頭上に王冠を戴き、宮殿の人々に囲まれて座っている自分の姿に気づいたとき、皇太子は嬉しそうに微笑んだ。そしてついに彼は、私の手を取り、囁くように言ったのだ。
「乙女よ、我の軍隊を好きにするがよい」
これはほんの数分の出来事だったが、皇太子が勝利を確信し、戦士たちが私に従うように命令してもらうためには充分だったのだ。
ジャンヌは「火あぶり」を免れる必要はもうなかった。
なぜならジャンヌという陽性の人間の人格は、自らのミッションをもう全うしたからだ。
修道士たちがジャンヌ・ダルクに火あぶりの刑を宣告したのは、彼女の持つ大きな力のためであり、自分たちの人々への説法の影響力が、そのためになくなることを怖れたためだった。
そして彼らが、ジャンヌの足元のうず高く積まれた薪に火を放った時、彼女である私は<分解>したのだ。
そして炎から離れ、<再融合>したので、私はまだ生き続けている。
その後も数年間、戦争は続いたが、最期には平和条約締結の日が訪れた。
その礎(いしずえ)となったのが、「ジャンヌ」の陽性な介入だったんだよ。」
「アプ星で見て、知って、体験したこと@」 ヴラド・カペタノヴィッチ著
抜粋したもの
*******************************************************************************
ビジネス情報誌といえば『週刊ダイヤモンド』送料無料でまずは4冊購読!(約1ヶ月)
2013年01月24日
日本列島の侵略者:百済人に抹殺された縄文人の末裔達
噂の真相−真実を追い求めて(アメブロ版) より転載
************************************************************************************
http://ameblo.jp/bishamonten337/entry-11258864088.html
先住民であった土蜘蛛・熊襲・蝦夷の粛清と差別
”大化の改新”は日本列島が、百済王族である藤原一族の私物となるきっかけだったのです。
************************************************************************************
http://ameblo.jp/bishamonten337/entry-11258864088.html
先住民であった土蜘蛛・熊襲・蝦夷の粛清と差別
”大化の改新”は日本列島が、百済王族である藤原一族の私物となるきっかけだったのです。
土蜘蛛(つちぐも)・・・・・日本列島先住民族の総称。
熊襲(くまそ)・・・・・・・・・九州南部が勢力圏の縄文人末裔。
ちなみに隼人族とは、藤原一族の軍門に下った熊襲の一部と言われております。
蝦夷(えみし・えぞ)・・・・関東以北の東日本全域が勢力圏の縄文人末裔。
蝦夷と混同されがちだが、アイヌ民族は北方系との混血とも言われ、ルーツは縄文。
我々の住む日本列島の住人のルーツは以下の様になります。
1.大陸での権力闘争に敗れた人々。(権力者一族)
2.大陸や半島から避難してきた人々。
3.超古代より定住していた縄文人の末裔達。
4.南方ルート及び、太平洋より移動して来た人々。
つまり、日本人とは様々なルートから移動して来た人々の集合体
古代天皇家を傀儡化し、大和朝廷を掲げて日本列島を制圧した百済王族の藤原一族。
権力闘争に敗れた新羅系や高句麗系も日本列島になだれ込みます。
この構図は、現代においても全く変化はありません。
日本列島の侵略者の正体は、自己中心的な利己主義から生じる権力欲と支配欲。
冷酷で残虐な、弱肉強食の闘争本能を持った”血統”にこだわる人間とは思えない生命体だと言えるのでは無いでしょうか?
************************************************************************************
短期間で英語の発音矯正が出来るオンライン教材(特許申請中)