2013年02月03日
魔女狩りを始動させた『魔女に与える鉄槌』はエロ本だった(1)
zeraniumのブログ より転載
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魔女狩りを始動させた『魔女に与える鉄槌』はエロ本だった E
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83670623
1198年にインノケンティウス3世がローマ法王の位につくと、カタリ派への弾圧を決め、1209年、ついに南フランスに討伐軍を送ることを決定しました。
彼は討伐軍を組織するにあたり、ローマ市民のなかに異端に対する怒りを巧みに煽りたて、一方で討伐軍には異端者の領地と財産を与えることを約束したのです。
何と老獪(ろうかい)な政治家でしょうか。つまり軍人一人ひとりに最も精力的に異端狩りを行なわせる方法は、彼らの欲に火をつけることだと心得ていたのです。
法王の命によって送られたこの軍隊は、アルビ十字軍と呼ばれました。
それははじめから南フランスのカタリ派という、キリスト教徒の討伐を目的として組織された最初の十字軍でした。
そして異端討伐は、その後20年間に渡って繰り広げられたのです。
アルビ十字軍が各地で行なったのは、住民の大虐殺でした。
そこではカタリ派かそうでないかということは、もはや関係がありませんでした。
なぜなら、そもそも略奪することが目的になっていたので、殺戮に迷いの入り込む余地はなく、彼らはむしろそれを愉しんでいました。
たとえば娘を井戸に落とし、その上から次々と大きな石を投げ込むという蛮行が行なわれたのがその典型でしょう。
いつの時代の十字軍も、その目的は領土と財産の収奪でした。
彼らが掲げた異教徒を滅ぼすという大義名分が、いかに都合のいい理由であったかを、アルビ十字軍は雄弁に物語っています。
なぜなら、同じキリスト教徒に対しても、明らかに異端ではなかった人々に対しても、変わりなく卑劣な蛮行が行なわれたからです。
先に述べたように、「キル」と「マーダー」は違うと発言した現代の宗教指導者の話を紹介しましたが、アルビ十字軍においてはいったいどこが違うというのでしょうか。
ですから「ちょっと待て!、頭は大丈夫か?」と、私が激しく突っ込みを入れたくなったのは、このような歴史的史実を知っていたからです。
13世紀の南フランスで行なわれた虐殺の膨大なエピソードがありますが、ここでその話に分け入ることはやめておきましょう。
そして、1229年の戦争終結までに、南フランスのあらゆる都市はすべて陥落したのです。
戦争終結の年、カタリ派に対する異端審問が始まりました。
しかし果たして、審問の法廷に引きずり出された人々が、本当に生き残ったカタリ派だったのか、ただの市民だったのかは今となってはわかりません。
拷問に次ぐ拷問によって、「私は神の教えに背きました」という異端の自白が強制されました。
なかには自ら無実を訴え続ける不屈の人もいましたが、そういう人は酷い拷問によって絶命しました。自白してもしなくても、とにかく死が待っていたのです。
これが残虐な拷問と処刑が繰り返される、中世の暗黒裁判の始まりを告げる号砲であったということができます。
そしてカタリ派への異端審問をきっかけとして、異端審問制という制度が生まれることになったのです。
この制度の特徴は、「恒久的」「専門組織」「全権委任」という点です。
つまり異端審問制というのは、最初から、「すべての権限を持ち、永遠に異端を取り締まる」というものでした。
異端審問官が果たす権能は裁判官だけではなく、現代の司法制度でいえば、彼らは検察であり、警察であり、処刑吏であり、白を黒と言いくるめて人を殺すための、人類史上最大の思想警察ともいうべき存在でした。
教皇グレゴリウス9世は、この組織が猛威を振るうための「秘薬」を、そっと注入することも忘れませんでした。
それは異端審問官の活動を支える収入源の中に、審問によって処刑される異端者の没収財産を含めたのです。
それはかつての教皇インノケンティウス3世がアルビ十字軍に用いた方法でしたが、しかし教皇グレゴリウス9世は、それが恒久的に働くように制度の中に埋め込んだのです。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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魔女狩りを始動させた『魔女に与える鉄槌』はエロ本だった E
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83670623
1198年にインノケンティウス3世がローマ法王の位につくと、カタリ派への弾圧を決め、1209年、ついに南フランスに討伐軍を送ることを決定しました。
彼は討伐軍を組織するにあたり、ローマ市民のなかに異端に対する怒りを巧みに煽りたて、一方で討伐軍には異端者の領地と財産を与えることを約束したのです。
何と老獪(ろうかい)な政治家でしょうか。つまり軍人一人ひとりに最も精力的に異端狩りを行なわせる方法は、彼らの欲に火をつけることだと心得ていたのです。
法王の命によって送られたこの軍隊は、アルビ十字軍と呼ばれました。
それははじめから南フランスのカタリ派という、キリスト教徒の討伐を目的として組織された最初の十字軍でした。
そして異端討伐は、その後20年間に渡って繰り広げられたのです。
アルビ十字軍が各地で行なったのは、住民の大虐殺でした。
そこではカタリ派かそうでないかということは、もはや関係がありませんでした。
なぜなら、そもそも略奪することが目的になっていたので、殺戮に迷いの入り込む余地はなく、彼らはむしろそれを愉しんでいました。
たとえば娘を井戸に落とし、その上から次々と大きな石を投げ込むという蛮行が行なわれたのがその典型でしょう。
いつの時代の十字軍も、その目的は領土と財産の収奪でした。
彼らが掲げた異教徒を滅ぼすという大義名分が、いかに都合のいい理由であったかを、アルビ十字軍は雄弁に物語っています。
なぜなら、同じキリスト教徒に対しても、明らかに異端ではなかった人々に対しても、変わりなく卑劣な蛮行が行なわれたからです。
先に述べたように、「キル」と「マーダー」は違うと発言した現代の宗教指導者の話を紹介しましたが、アルビ十字軍においてはいったいどこが違うというのでしょうか。
ですから「ちょっと待て!、頭は大丈夫か?」と、私が激しく突っ込みを入れたくなったのは、このような歴史的史実を知っていたからです。
13世紀の南フランスで行なわれた虐殺の膨大なエピソードがありますが、ここでその話に分け入ることはやめておきましょう。
そして、1229年の戦争終結までに、南フランスのあらゆる都市はすべて陥落したのです。
戦争終結の年、カタリ派に対する異端審問が始まりました。
しかし果たして、審問の法廷に引きずり出された人々が、本当に生き残ったカタリ派だったのか、ただの市民だったのかは今となってはわかりません。
拷問に次ぐ拷問によって、「私は神の教えに背きました」という異端の自白が強制されました。
なかには自ら無実を訴え続ける不屈の人もいましたが、そういう人は酷い拷問によって絶命しました。自白してもしなくても、とにかく死が待っていたのです。
これが残虐な拷問と処刑が繰り返される、中世の暗黒裁判の始まりを告げる号砲であったということができます。
そしてカタリ派への異端審問をきっかけとして、異端審問制という制度が生まれることになったのです。
この制度の特徴は、「恒久的」「専門組織」「全権委任」という点です。
つまり異端審問制というのは、最初から、「すべての権限を持ち、永遠に異端を取り締まる」というものでした。
異端審問官が果たす権能は裁判官だけではなく、現代の司法制度でいえば、彼らは検察であり、警察であり、処刑吏であり、白を黒と言いくるめて人を殺すための、人類史上最大の思想警察ともいうべき存在でした。
教皇グレゴリウス9世は、この組織が猛威を振るうための「秘薬」を、そっと注入することも忘れませんでした。
それは異端審問官の活動を支える収入源の中に、審問によって処刑される異端者の没収財産を含めたのです。
それはかつての教皇インノケンティウス3世がアルビ十字軍に用いた方法でしたが、しかし教皇グレゴリウス9世は、それが恒久的に働くように制度の中に埋め込んだのです。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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