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2016年10月25日
電話級アマチュア無線技士(昭和48年不合格・51年合格)
しばらくは過去の合格記録を書きたいと思います。古すぎて参考にならないとは思いますが。
この資格は、現在は第四級アマチュア無線技士といいます。ご挨拶で書いた通り、小学校6年生の時授業を早退して、大田区蒲田にある日本電子工学院に行きました。きっかけはラジオ少年だったので、世界と交信することに憧れたからです。当時はまだ平日の試験しかなく、先生と同級生に見送られました。失敗した場合のことを考えるとイヤでしたねえ。
結果としてまったく手応えがなく不合格。勉強不足というレベルではなく、そもそも勉強ができる子でもないのに、独学での理解なんて無理でした。見事に赤っ恥です。
当時の記憶として、受験申請書の書き方がよく分からないため、雑誌「初歩のラジオ」の誠文堂新光社に、詳しい書き方を問い合わせたことがあります。国家試験の時期の付録だったのです。しかし現在のようにインターネットは無い時代です。調べるのも手続きも大変でした。当時の編集部の皆さんには、感謝の気持ちでいっぱいです。
時は過ぎ高校1年生のとき、リベンジを果たしました。とはいえ平日の受験は嫌だったので、夏休みを利用して約2週間、養成課程講習会に通いました。講習会というとバカにされがちですが、最後の試験は国家試験と異なり、選択式ではなく筆記式で面倒でした。現在の講習会は2日で済むようで、時代は変わりましたね。また当時は免許証の申請に当たっては、医師の診断書が必要で、親に費用を出してもらうのが嫌だったなあ。
ちなみに当時の免許証は紙製のこんなやつです。「日本国政府」と書かれているのが重々しいですね。その後ラミネート型に変わり、現在はホログラムが付いたクレジットカードサイズのプラスチック製です。
この資格は、現在は第四級アマチュア無線技士といいます。ご挨拶で書いた通り、小学校6年生の時授業を早退して、大田区蒲田にある日本電子工学院に行きました。きっかけはラジオ少年だったので、世界と交信することに憧れたからです。当時はまだ平日の試験しかなく、先生と同級生に見送られました。失敗した場合のことを考えるとイヤでしたねえ。
結果としてまったく手応えがなく不合格。勉強不足というレベルではなく、そもそも勉強ができる子でもないのに、独学での理解なんて無理でした。見事に赤っ恥です。
当時の記憶として、受験申請書の書き方がよく分からないため、雑誌「初歩のラジオ」の誠文堂新光社に、詳しい書き方を問い合わせたことがあります。国家試験の時期の付録だったのです。しかし現在のようにインターネットは無い時代です。調べるのも手続きも大変でした。当時の編集部の皆さんには、感謝の気持ちでいっぱいです。
時は過ぎ高校1年生のとき、リベンジを果たしました。とはいえ平日の受験は嫌だったので、夏休みを利用して約2週間、養成課程講習会に通いました。講習会というとバカにされがちですが、最後の試験は国家試験と異なり、選択式ではなく筆記式で面倒でした。現在の講習会は2日で済むようで、時代は変わりましたね。また当時は免許証の申請に当たっては、医師の診断書が必要で、親に費用を出してもらうのが嫌だったなあ。
ちなみに当時の免許証は紙製のこんなやつです。「日本国政府」と書かれているのが重々しいですね。その後ラミネート型に変わり、現在はホログラムが付いたクレジットカードサイズのプラスチック製です。
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2016年10月18日
ご挨拶
どうも50代半ばのオッサンのナヲ次郎です。思い返せば小学校6年生のとき、学校を早退して蒲田の日本電子工学院(現日本工学院)に電話級アマチュア無線技士(現4級)の国家試験を受けに行ったのが始まりでした。しかし当時のバカな頭にはハードルが高すぎました。
その後、高校1年の夏休みに講習会に2週間ほど通ってリベンジしました。昭和の時代は今より取得が面倒でしたが、これが資格取得の始まりになるとは当時は思いもしなかったなあ。
10年ちょっと資格取得から離れていましたが、これからは雑食でいろいろなジャンルを攻めていきたいと思っています。
その後、高校1年の夏休みに講習会に2週間ほど通ってリベンジしました。昭和の時代は今より取得が面倒でしたが、これが資格取得の始まりになるとは当時は思いもしなかったなあ。
10年ちょっと資格取得から離れていましたが、これからは雑食でいろいろなジャンルを攻めていきたいと思っています。