2018年06月23日
拓馬篇−7章◇
廊下の喧騒が薄らいでいた。教室と廊下にいる生徒がへってきているのだ。多くの生徒は部活をしに行ったか、役員の務めを果たしているか、帰宅したか──そんな雑念が、廊下で勉学中の椙守の思考にのぼった。
椙守は集中がとぎれたついでに、すぐ横の空き教室を見る。そこにはヤマダと彼女の関係者がいる。彼女たちはある計画をくわだてる真っ最中だ。その計画は学校の教師たちに聞かれるとまずいらしい。それゆえ部外者をこの場に近づかせないよう、椙守が廊下で見張っている。
椙守は計画についてたずねなかった。だが集まったメンバーの顔触れを見ると、およその見当はつく。彼らは己が正義のために、また危険に身を晒すつもりなのだ。
(ケガをしなければいいけど……)
椙守はとくに自分と親しい幼馴染たちを心配した。根岸とヤマダの二人とは幼少時によく遊んだ仲だ。あの頃の遊戯は運動音痴な椙守でもどうにかついていけた。しかし、いまの彼らとは身体能力と度胸に差がついてしまっている。椙守が根岸たちに加担しない原因は、おもにその二点だ。
周囲の人間は椙守の心情をまったく知らない。彼らはおそらく、椙守が友人である根岸たちに非協力的なのを、信条のちがいのせいだと見做している。椙守は表向きはインテリで計算高い男子だ。根岸たちの行為を馬鹿げたこと、野蛮なことだと軽蔑して、関与しない──そんなふうに一人の女子に洞察された。
その女子は椙守の学業成績がよいのを根拠に、頻繁に勉強の話題をもちかけてくる。傍目には似た者同士だ。そのような向学心の高い女子生徒と椙守は波長が合いそうでいて、その実、椙守は彼女の言動に賛同しがたい部分を感じていた。だが椙守は彼女の発言をこばまない。同意できないなりに、彼女の言い分にはうなずける面も多かった。彼女の反応が学内関係者、とりわけ穏便をこのむ教師陣の代弁になっていそうなのだ。自分とは異なる意見の代表として、参考にしている。
(僕が……こんな体じゃなかったらな……)
もし根岸と同じ運動能力があったら。椙守は彼らの輪に加わっているところだ。そのくらい本心では彼らと同じ時間をすごしたいと思っている。その時間がどんなにおそろしいものであろうと、彼らが良心にかなう行動を心がけているかぎり、輝かしい思い出になりうる。
その考えに至ったきっかけは椙守の小学校生活にある。両親離婚後、故郷を離れた椙守にとって、根岸たちの記憶が心の支えになっていた。新天地での暮らしに慣れた中学時代では消えかかっていた情念だ。根岸たちと再会を果たしたばかりの時も、中学と同じだ。いまさら彼らとどう接してよいかわからず、みずから距離をちぢめることはしなかった。
だがいまはちがう。こうして幼馴染たちがなにかに情熱をそそぐ様子を見ていると、幼少時のように、自分も手伝いたいと思う。しかしそのすべが椙守には欠けている。
(でも、筋肉は……ついてきたかな)
椙守は手に持っていた参考書を左の小脇に抱えた。夏服を着ている自身の右腕に注目する。なんとなく、以前より腕が太くなった気がした。一ヶ月以上まえに自分の肉体を強くすると志して以来、トレーニングは継続している。現時点での腕力を測るため、ヤマダに腕相撲を挑戦してもいい頃合いかもしれない。
かつて筋トレのきの字もなかったころの椙守は、ヤマダとの力くらべで惨敗していた。いま思えばその時も自身の非力さをふがいなく感じたはずだが、自己鍛錬を実行するには至らなかった。悔しさをバネに苦手を克服する、という動機づけでは椙守に適合しなかったのだ。かえって、その能力は自分にはまったく関わりないことだと敬遠する方向にむかってしまった。
その意思を変えたきっかけは、元警備員という異色な経歴がある教師だ。彼が椙守を、将来強い武芸者になりうると告げた。
椙守自身「本当に?」と教師の鑑定結果を疑う気持ちがないわけではない。だがまた別の人物の存在が、教師を信じる補強になった。椙守が新人教師に言われたことをヤマダに話すと、彼女は「先生がそう言うならきっと合ってるよ」と同意を示した。同時に「ミッキーは背も肩幅もあるから、鍛えたら見違えると思う」とも肯定された。そんなふうに思っていたなら早く言ってくれればよかったのに、と椙守は多少の不満を感じた。だがよくよく考えると、彼女が椙守の不得意分野に対して意見を言えなかった原因はある。その雰囲気をつくっていたのは当人の椙守。なにより、教師の言葉がない状態で「強くなりそう」と言われても、彼女がからかっていると解釈する可能性は充分あった。
椙守は脆弱な肉体を克服しつつある。その体感をかみしめる最中、足音が廊下にひびいた。音は大きくなっていく。だれかが接近しているようだ。椙守は自分が廊下にいる動機を思い出し、警戒の姿勢に入る。
黒灰色のシャツを着た男性教師が歩いていた。彼は手に紙袋を提げている。その状態で椙守のクラスを観察した。そうして教室から注目を外すと、椙守と視線が合う。椙守は緊張した。この教師にヤマダたちのことを知られてはいけないのだ。
体格のよい教師は人の良さそうな笑顔をうかべながら、ゆっくり近づいてくる。
「スギモリさん、ひとつおたずねしたいのですが、よろしいですか?」
「えっ、はい……」
根岸らのいる教室に教師を接近させぬよう、椙守はみずからも移動した。教師に長居させるとボロが出そうなので、自分から相手の用件を聞き出す。
「シド先生はなにを聞きたいんですか?」
「オヤマダさんがどこにいるか、ご存知ですか」
「知っていますけど……あの子にどんな用があるんです?」
「この紙袋と、紙袋に入っている容器を返却したいと思いまして」
シドが紙袋を持ち上げた。紙袋を持つ彼の腕は太い。シドは先月からずっと、長袖シャツの袖をまくりあげた格好ですごしている。ひじから下は常に露出していて、腕の筋肉の隆起がはっきり見える。この筋肉は見た目以上に強靭だとヤマダが言っていた。その肌が浅黒いのもあいまって、たくましさが椙守とはくらべようがない。その差に椙守が敗北感を感じた。
「あの、どうかしました?」
シドは椙守がショックを受けるさまに気遣った。椙守は自身への気付けもかねて、目をしばたたく。
「いや、先生にはかなわないと思って……」
「なにがです?」
「その、腕の太さとか……」
肉体美を称賛された教師がやさしく笑う。
「私はもともとこういう体なのです。生まれつきの特徴を比較しても、貴方のためになりません」
教育者らしい意見だ。彼の指摘が正しいと椙守は思うが、その言葉に甘んじる気持ちにはならない。
「どうか私のことは気にせず、貴方自身が望んだ自分になれるように努力していってください」
「僕は先生みたいになれたらいいと思っているんです」
椙守は勢いで反論した。これは内に秘めていた思いだ。面とむかって本人に言えてしまう自分にびっくりする。だが後悔はしていない。シドのような膂力(りょりょく)があれば、根岸たちと共にいられる時間が長くなる。それは本心だ。
脈絡なく椙守の目標にされる教師は唖然とした。椙守はシドをおどろかせた非礼を詫びる。
「いきなり、こんなことを言ってすいません」
「いえ……貴方にそう思ってもらえて、光栄です」
敬う義理も理由もない生徒であっても、シドは敬意を払ってくれる。大人な対応を受けた椙守は、いまになって恥ずかしさがこみあげてきた。相手と顔をあわせられず、うつむく。すると視界にある紙袋の位置が下がった。
「貴方はなんのために、強くあろうと思ったのですか?」
「……根岸たちに置いていかれたくないんです」
「彼らのやっている悪者退治を、貴方もやろうと?」
「そうです。変なことを言ってるでしょうけど、それが僕のやりたいことです」
椙守はぐいっと顔を上げる。
「先生は、どうしてそんなに強くなったんです?」
椙守は先駆者から今後の参考になりそうなことをたずねた。これはむずかしい問いだったのか、シドの目元が若干けわしくなる。
「おぼえていません」
「理由をわすれるくらい、むかしから鍛えているんですか?」
「はい。物心がつくころから……ですね」
「そんなにちいさいときから……」
育った環境に差がありすぎる。椙守は生まれながらの強者との隔絶を感じた。椙守が落ち込む一方で、シドの表情がやわらぐ。
「貴方は強くあることがよいことだと思っているようですね」
彼の顔には憐憫らしき情もひそんでいた。その反応と彼の言葉の意味は、椙守には理解しがたい。強いことは当然良いことだ。そこになんの疑いの余地があるだろうか。
「先生は強くないほうがいいと思うんですか?」
「一長一短です。強ければやれることは増えるでしょう。たとえばセンタニさんたちです。彼らは強いから、弱者をしいたげる悪者に立ち向かえる……」
「そうですよ。弱かったら泣き寝入りするだけなんですから」
椙守が熱っぽくシドの例え話を肯定した。だが話者は生徒の一知半解ぶりをなげくように首を横にふる。
「ですが、まちがった力のふるい方をすると……一生、後悔し続ける」
裏を返せば、彼はその強さのせいで後悔していることがある──と椙守は直感で思った。しかし、あてずっぽうを口に出す勇気はなかった。
「つまらない話をしてしまいました」
シドは再度、紙袋を持ち上げる。彼は当初の用事をすませるつもりだ。椙守も話題の転換にそなえた。
「こちらのオヤマダさんの私物を、貴方にあずけてもよろしいでしょうか?」
「はい、僕から返しておきます」
椙守は紙袋を受け取った。袋の中にはプラスチック製の大きな容器がある。ヤマダは時折自作した料理を周囲に配布するので、その際に使ったものらしかった。
(先生に手料理を……?)
事の経緯をシドに質問してもよいのだろうが、これ以上この場に教師を留まらせる状況は忌避すべきだ。椙守はだまり、教師が去るのを待った。しかし教師はうごかない。
「ところで、スギモリさんはどうして廊下にいるんです?」
「え、ああ、気分転換に……」
「ウソはいけませんね」
椙守はどきりとした。ちらっと相手の顔をのぞいてみると、彼は笑顔のままだ。
「貴方はそこの空き教室にいるだれかを気にしているのでしょう?」
「どうして、そう思うんです?」
「反対の校舎から見ると、どの教室に人がいるのかわかります」
この学校には生徒のクラスがある校舎と対面する校舎がある。反対校舎は授業や部活などのために活用する建物。そちらの廊下からだと、中庭をはさんだ向かいの教室が丸見えになる。教室にはカーテンが設置してあるものの、カーテンを広げると逆にその教室だけ目立ってしまう。ヤマダは注目を集めないためにカーテンを使わなかったのか、それとも失念していたのかはさだかでない。
「じゃあ、ヤマダがここにいるのを知ってて、きたんですか?」
「はい。彼女が教壇でなにかやっているのを見ましたから」
「だったら僕に声をかけなくたって──」
「貴方が見張り番をしているようだったので、確認までに」
この教師は椙守もヤマダの関係者だと目している。その洞察は椙守の予想外だ。自分はヤマダたちが関わる騒動とは無関係な生徒だと周知されていたのに。
「か、『確認』って?」
「貴方の対応から推測するに……」
シドが椙守の顔をまじまじと見る。椙守は腹の内をさぐられまいと、目線をそらした。
「オヤマダさんは私に知られたくないことをしているようですね」
その指摘は正しいが核心を突いていない。シラを切ればごまかせる、と椙守は淡い期待を抱いた。
「同室者のかたがたはいつものメンツのようですし、また一暴れするつもりでしょうか」
どっこい、的確に読まれている。椙守はどうはぐらかしてよいものか、なやむ。
(おちつけ! まだ完全に知られたわけじゃない)
会話の切り口を考えるうち、シドは「責めるつもりはありませんよ」と温厚にささやく。
「貴方たちの計画の邪魔はしません。私から校長に告げ口することもないですし、安心してやってください」
「いいんですか、黙認して」
「はい。健闘を祈っています」
ほがらかな応援を受けてしまった。裏があるようにも思えず、椙守は真正直にシドを信じた。
椙守の不安が解消され、思考状態が安定した。そのせいか、ふと教師の行動の違和感を見つける。
「先生はなんの用事があって、むこうの校舎に行ったんです?」
「え?」
「ヤマダに借り物を返すなら、最初に彼女のクラスへ行くものだと思いますけど……」
椙守が常道(じょうどう)を説いた。教師は言いにくそうに「風聞を気にしまして」と答える。
「私が貴方がたのクラスへ行く回数が増えると、妙な評判を立てられるので……先に彼女のいる場所をわかっておこうと考えました」
「空振りをさけるために、わざわざ反対の校舎からヤマダを捜した、ということですか」
「ええ、そうです。納得していただけましたか?」
「はい、まあ……先生はモテますもんね」
椙守の知る範囲でも、シドとヤマダの接触の多さは話題になっている。彼は女子人気が高い。そういった偉丈夫との関係が目立つ女子はやっかまれがちだ。ヤマダたちの人柄を知る者からすれば的外れな攻撃である。シドもヤマダも、色恋はからっきし興味がない。そのようなひがみは無意味だが、他人を外見や偏見で決めつける連中には通じない道理だった。
好漢な教師が表情をくもらせる。
「オヤマダさんにはあらぬ風評被害が出てしまっているようで、申し訳ないことです」
「そんなことでへこたれる子じゃないですよ」
椙守が自信をもって答える。その根拠はヤマダと仙谷との人間関係にある。
「去年だって、仙谷を好きでいる女子とヤマダがぶつかってました。それでもあの子と仙谷は友だちのまんまでしょう?」
「……強い子ですね」
「あの子は個性的な人と友だちになるのが好きなんです」
「貴方も、そのうちのひとりですか?」
「はい、それに先生も」
シドが目を見開いた。ヤマダに友人認定されている可能性を自覚していなかったらしい。
「私も、彼女の友だち……ですか」
「そうですよ。教師と生徒なのに『友だち』は変かもしれないですけど……」
「いえ、対等な関係を築くことに違和感はありません。私は……オヤマダさんにそう思われることが、心苦しいのです」
「一学期で教師を辞めるから、ですか?」
シドの勤務当初から彼の早期退職は決まっていたのだと、椙守は聞いていた。その決定事項は、彼の授業を受ける生徒の多くが知っている。残された時間はあと一ヶ月程度だ。彼との別れを惜しむ生徒は多いだろう、とそのひとりである椙守は思っている。
「きっとヤマダはさびしがりますね」
「……仕方がないのです。私は、もどらなくてはいけない」
「はい。ムリに先生を引き止めようとは……僕もヤマダも、しません」
ただ、と椙守はつぶやく。
「また、ここにきてくれますか?」
「この学校に、ですか?」
「学校じゃなくてもいいんです。この町には僕らのだれかが、いつでもいると思います。ふらっと先生が遊びにきたと……それだけでも聞けたら、僕だってうれしいんです」
またも椙守は恥ずかしいことを平気で言ってのけた。以前の自分では考えられないくらい、本音をむき出しにしている。変容の主原因は目の前の好人物である。彼のような強さと聡明さを兼ね備えた男になりたいと思いはじめると、徐々にその素直な人柄に感化されたようだ。大きくちがう点は、シドは自分の要求を他者に押しつけないところだ。
ぶしつけな願いを聞かされた教師は黙している。椙守は彼を困らせてしまったと思う。
「すいません。先生にはゆずれない予定もあるのに、勝手なことを言って」
「いえ……貴方がそんなふうに思っていたと知って、安心しました」
「『安心』……?」
彼には似つかわしくない言葉だ。職務において瑕疵のない教師に、なんの不安があろうか。
シドは「あまり気にしないでください」と椙守の引っ掛かった部分を軽視した。言葉の綾を発したらしい教師がきびすを返す。彼は立ち去るようだ。会話の終着点が不明瞭なまま終わるのを椙守は不満に思ったが、シドが話したくないのならしょうがないとあきらめた。
「もしも、天のお導きがあったなら──」
別れゆく教師が足を止め、聖職者をにおわすフレーズを口に出す。
「私はふたたび、貴方のまえに現れるかもしれません」
彼は椙守を見返る。その横顔からは、普段黄色のサングラスのせいで見えない青い瞳がのぞいた。
「その時はまた、あの子が名付けた私の名を呼んでください」
ささやかな願いごとを告げると、シドは歩きだした。その際にかるく左手をあげた。人差し指には彼がいつも着けている指輪がある。指輪に付いた白い宝石が、椙守の印象にのこる。
(名前と、指輪……)
この二つがあればシドがどのような格好をしていようと見分けられる。そんな安心感が椙守を包んだ。
(『あの子が名付けた名前』の『あの子』は、ヤマダのことか)
学内ではシドの呼び名が本名のごとく定着しているが、本来はヤマダが発案したニックネームだ。学校ともヤマダとも縁が切れたとしても、彼はその名前をわすれずにいてくれるらしい。その義理堅さが、いずれ彼との再会を果たせる希望を椙守に与えてくれた。
シドは職員室のほうへ姿を消した。それでもなお椙守は感慨にひたる。うれしさとさびしさとが織り交ざる中、「椙守?」と背後から呼びかけられた──。
椙守は集中がとぎれたついでに、すぐ横の空き教室を見る。そこにはヤマダと彼女の関係者がいる。彼女たちはある計画をくわだてる真っ最中だ。その計画は学校の教師たちに聞かれるとまずいらしい。それゆえ部外者をこの場に近づかせないよう、椙守が廊下で見張っている。
椙守は計画についてたずねなかった。だが集まったメンバーの顔触れを見ると、およその見当はつく。彼らは己が正義のために、また危険に身を晒すつもりなのだ。
(ケガをしなければいいけど……)
椙守はとくに自分と親しい幼馴染たちを心配した。根岸とヤマダの二人とは幼少時によく遊んだ仲だ。あの頃の遊戯は運動音痴な椙守でもどうにかついていけた。しかし、いまの彼らとは身体能力と度胸に差がついてしまっている。椙守が根岸たちに加担しない原因は、おもにその二点だ。
周囲の人間は椙守の心情をまったく知らない。彼らはおそらく、椙守が友人である根岸たちに非協力的なのを、信条のちがいのせいだと見做している。椙守は表向きはインテリで計算高い男子だ。根岸たちの行為を馬鹿げたこと、野蛮なことだと軽蔑して、関与しない──そんなふうに一人の女子に洞察された。
その女子は椙守の学業成績がよいのを根拠に、頻繁に勉強の話題をもちかけてくる。傍目には似た者同士だ。そのような向学心の高い女子生徒と椙守は波長が合いそうでいて、その実、椙守は彼女の言動に賛同しがたい部分を感じていた。だが椙守は彼女の発言をこばまない。同意できないなりに、彼女の言い分にはうなずける面も多かった。彼女の反応が学内関係者、とりわけ穏便をこのむ教師陣の代弁になっていそうなのだ。自分とは異なる意見の代表として、参考にしている。
(僕が……こんな体じゃなかったらな……)
もし根岸と同じ運動能力があったら。椙守は彼らの輪に加わっているところだ。そのくらい本心では彼らと同じ時間をすごしたいと思っている。その時間がどんなにおそろしいものであろうと、彼らが良心にかなう行動を心がけているかぎり、輝かしい思い出になりうる。
その考えに至ったきっかけは椙守の小学校生活にある。両親離婚後、故郷を離れた椙守にとって、根岸たちの記憶が心の支えになっていた。新天地での暮らしに慣れた中学時代では消えかかっていた情念だ。根岸たちと再会を果たしたばかりの時も、中学と同じだ。いまさら彼らとどう接してよいかわからず、みずから距離をちぢめることはしなかった。
だがいまはちがう。こうして幼馴染たちがなにかに情熱をそそぐ様子を見ていると、幼少時のように、自分も手伝いたいと思う。しかしそのすべが椙守には欠けている。
(でも、筋肉は……ついてきたかな)
椙守は手に持っていた参考書を左の小脇に抱えた。夏服を着ている自身の右腕に注目する。なんとなく、以前より腕が太くなった気がした。一ヶ月以上まえに自分の肉体を強くすると志して以来、トレーニングは継続している。現時点での腕力を測るため、ヤマダに腕相撲を挑戦してもいい頃合いかもしれない。
かつて筋トレのきの字もなかったころの椙守は、ヤマダとの力くらべで惨敗していた。いま思えばその時も自身の非力さをふがいなく感じたはずだが、自己鍛錬を実行するには至らなかった。悔しさをバネに苦手を克服する、という動機づけでは椙守に適合しなかったのだ。かえって、その能力は自分にはまったく関わりないことだと敬遠する方向にむかってしまった。
その意思を変えたきっかけは、元警備員という異色な経歴がある教師だ。彼が椙守を、将来強い武芸者になりうると告げた。
椙守自身「本当に?」と教師の鑑定結果を疑う気持ちがないわけではない。だがまた別の人物の存在が、教師を信じる補強になった。椙守が新人教師に言われたことをヤマダに話すと、彼女は「先生がそう言うならきっと合ってるよ」と同意を示した。同時に「ミッキーは背も肩幅もあるから、鍛えたら見違えると思う」とも肯定された。そんなふうに思っていたなら早く言ってくれればよかったのに、と椙守は多少の不満を感じた。だがよくよく考えると、彼女が椙守の不得意分野に対して意見を言えなかった原因はある。その雰囲気をつくっていたのは当人の椙守。なにより、教師の言葉がない状態で「強くなりそう」と言われても、彼女がからかっていると解釈する可能性は充分あった。
椙守は脆弱な肉体を克服しつつある。その体感をかみしめる最中、足音が廊下にひびいた。音は大きくなっていく。だれかが接近しているようだ。椙守は自分が廊下にいる動機を思い出し、警戒の姿勢に入る。
黒灰色のシャツを着た男性教師が歩いていた。彼は手に紙袋を提げている。その状態で椙守のクラスを観察した。そうして教室から注目を外すと、椙守と視線が合う。椙守は緊張した。この教師にヤマダたちのことを知られてはいけないのだ。
体格のよい教師は人の良さそうな笑顔をうかべながら、ゆっくり近づいてくる。
「スギモリさん、ひとつおたずねしたいのですが、よろしいですか?」
「えっ、はい……」
根岸らのいる教室に教師を接近させぬよう、椙守はみずからも移動した。教師に長居させるとボロが出そうなので、自分から相手の用件を聞き出す。
「シド先生はなにを聞きたいんですか?」
「オヤマダさんがどこにいるか、ご存知ですか」
「知っていますけど……あの子にどんな用があるんです?」
「この紙袋と、紙袋に入っている容器を返却したいと思いまして」
シドが紙袋を持ち上げた。紙袋を持つ彼の腕は太い。シドは先月からずっと、長袖シャツの袖をまくりあげた格好ですごしている。ひじから下は常に露出していて、腕の筋肉の隆起がはっきり見える。この筋肉は見た目以上に強靭だとヤマダが言っていた。その肌が浅黒いのもあいまって、たくましさが椙守とはくらべようがない。その差に椙守が敗北感を感じた。
「あの、どうかしました?」
シドは椙守がショックを受けるさまに気遣った。椙守は自身への気付けもかねて、目をしばたたく。
「いや、先生にはかなわないと思って……」
「なにがです?」
「その、腕の太さとか……」
肉体美を称賛された教師がやさしく笑う。
「私はもともとこういう体なのです。生まれつきの特徴を比較しても、貴方のためになりません」
教育者らしい意見だ。彼の指摘が正しいと椙守は思うが、その言葉に甘んじる気持ちにはならない。
「どうか私のことは気にせず、貴方自身が望んだ自分になれるように努力していってください」
「僕は先生みたいになれたらいいと思っているんです」
椙守は勢いで反論した。これは内に秘めていた思いだ。面とむかって本人に言えてしまう自分にびっくりする。だが後悔はしていない。シドのような膂力(りょりょく)があれば、根岸たちと共にいられる時間が長くなる。それは本心だ。
脈絡なく椙守の目標にされる教師は唖然とした。椙守はシドをおどろかせた非礼を詫びる。
「いきなり、こんなことを言ってすいません」
「いえ……貴方にそう思ってもらえて、光栄です」
敬う義理も理由もない生徒であっても、シドは敬意を払ってくれる。大人な対応を受けた椙守は、いまになって恥ずかしさがこみあげてきた。相手と顔をあわせられず、うつむく。すると視界にある紙袋の位置が下がった。
「貴方はなんのために、強くあろうと思ったのですか?」
「……根岸たちに置いていかれたくないんです」
「彼らのやっている悪者退治を、貴方もやろうと?」
「そうです。変なことを言ってるでしょうけど、それが僕のやりたいことです」
椙守はぐいっと顔を上げる。
「先生は、どうしてそんなに強くなったんです?」
椙守は先駆者から今後の参考になりそうなことをたずねた。これはむずかしい問いだったのか、シドの目元が若干けわしくなる。
「おぼえていません」
「理由をわすれるくらい、むかしから鍛えているんですか?」
「はい。物心がつくころから……ですね」
「そんなにちいさいときから……」
育った環境に差がありすぎる。椙守は生まれながらの強者との隔絶を感じた。椙守が落ち込む一方で、シドの表情がやわらぐ。
「貴方は強くあることがよいことだと思っているようですね」
彼の顔には憐憫らしき情もひそんでいた。その反応と彼の言葉の意味は、椙守には理解しがたい。強いことは当然良いことだ。そこになんの疑いの余地があるだろうか。
「先生は強くないほうがいいと思うんですか?」
「一長一短です。強ければやれることは増えるでしょう。たとえばセンタニさんたちです。彼らは強いから、弱者をしいたげる悪者に立ち向かえる……」
「そうですよ。弱かったら泣き寝入りするだけなんですから」
椙守が熱っぽくシドの例え話を肯定した。だが話者は生徒の一知半解ぶりをなげくように首を横にふる。
「ですが、まちがった力のふるい方をすると……一生、後悔し続ける」
裏を返せば、彼はその強さのせいで後悔していることがある──と椙守は直感で思った。しかし、あてずっぽうを口に出す勇気はなかった。
「つまらない話をしてしまいました」
シドは再度、紙袋を持ち上げる。彼は当初の用事をすませるつもりだ。椙守も話題の転換にそなえた。
「こちらのオヤマダさんの私物を、貴方にあずけてもよろしいでしょうか?」
「はい、僕から返しておきます」
椙守は紙袋を受け取った。袋の中にはプラスチック製の大きな容器がある。ヤマダは時折自作した料理を周囲に配布するので、その際に使ったものらしかった。
(先生に手料理を……?)
事の経緯をシドに質問してもよいのだろうが、これ以上この場に教師を留まらせる状況は忌避すべきだ。椙守はだまり、教師が去るのを待った。しかし教師はうごかない。
「ところで、スギモリさんはどうして廊下にいるんです?」
「え、ああ、気分転換に……」
「ウソはいけませんね」
椙守はどきりとした。ちらっと相手の顔をのぞいてみると、彼は笑顔のままだ。
「貴方はそこの空き教室にいるだれかを気にしているのでしょう?」
「どうして、そう思うんです?」
「反対の校舎から見ると、どの教室に人がいるのかわかります」
この学校には生徒のクラスがある校舎と対面する校舎がある。反対校舎は授業や部活などのために活用する建物。そちらの廊下からだと、中庭をはさんだ向かいの教室が丸見えになる。教室にはカーテンが設置してあるものの、カーテンを広げると逆にその教室だけ目立ってしまう。ヤマダは注目を集めないためにカーテンを使わなかったのか、それとも失念していたのかはさだかでない。
「じゃあ、ヤマダがここにいるのを知ってて、きたんですか?」
「はい。彼女が教壇でなにかやっているのを見ましたから」
「だったら僕に声をかけなくたって──」
「貴方が見張り番をしているようだったので、確認までに」
この教師は椙守もヤマダの関係者だと目している。その洞察は椙守の予想外だ。自分はヤマダたちが関わる騒動とは無関係な生徒だと周知されていたのに。
「か、『確認』って?」
「貴方の対応から推測するに……」
シドが椙守の顔をまじまじと見る。椙守は腹の内をさぐられまいと、目線をそらした。
「オヤマダさんは私に知られたくないことをしているようですね」
その指摘は正しいが核心を突いていない。シラを切ればごまかせる、と椙守は淡い期待を抱いた。
「同室者のかたがたはいつものメンツのようですし、また一暴れするつもりでしょうか」
どっこい、的確に読まれている。椙守はどうはぐらかしてよいものか、なやむ。
(おちつけ! まだ完全に知られたわけじゃない)
会話の切り口を考えるうち、シドは「責めるつもりはありませんよ」と温厚にささやく。
「貴方たちの計画の邪魔はしません。私から校長に告げ口することもないですし、安心してやってください」
「いいんですか、黙認して」
「はい。健闘を祈っています」
ほがらかな応援を受けてしまった。裏があるようにも思えず、椙守は真正直にシドを信じた。
椙守の不安が解消され、思考状態が安定した。そのせいか、ふと教師の行動の違和感を見つける。
「先生はなんの用事があって、むこうの校舎に行ったんです?」
「え?」
「ヤマダに借り物を返すなら、最初に彼女のクラスへ行くものだと思いますけど……」
椙守が常道(じょうどう)を説いた。教師は言いにくそうに「風聞を気にしまして」と答える。
「私が貴方がたのクラスへ行く回数が増えると、妙な評判を立てられるので……先に彼女のいる場所をわかっておこうと考えました」
「空振りをさけるために、わざわざ反対の校舎からヤマダを捜した、ということですか」
「ええ、そうです。納得していただけましたか?」
「はい、まあ……先生はモテますもんね」
椙守の知る範囲でも、シドとヤマダの接触の多さは話題になっている。彼は女子人気が高い。そういった偉丈夫との関係が目立つ女子はやっかまれがちだ。ヤマダたちの人柄を知る者からすれば的外れな攻撃である。シドもヤマダも、色恋はからっきし興味がない。そのようなひがみは無意味だが、他人を外見や偏見で決めつける連中には通じない道理だった。
好漢な教師が表情をくもらせる。
「オヤマダさんにはあらぬ風評被害が出てしまっているようで、申し訳ないことです」
「そんなことでへこたれる子じゃないですよ」
椙守が自信をもって答える。その根拠はヤマダと仙谷との人間関係にある。
「去年だって、仙谷を好きでいる女子とヤマダがぶつかってました。それでもあの子と仙谷は友だちのまんまでしょう?」
「……強い子ですね」
「あの子は個性的な人と友だちになるのが好きなんです」
「貴方も、そのうちのひとりですか?」
「はい、それに先生も」
シドが目を見開いた。ヤマダに友人認定されている可能性を自覚していなかったらしい。
「私も、彼女の友だち……ですか」
「そうですよ。教師と生徒なのに『友だち』は変かもしれないですけど……」
「いえ、対等な関係を築くことに違和感はありません。私は……オヤマダさんにそう思われることが、心苦しいのです」
「一学期で教師を辞めるから、ですか?」
シドの勤務当初から彼の早期退職は決まっていたのだと、椙守は聞いていた。その決定事項は、彼の授業を受ける生徒の多くが知っている。残された時間はあと一ヶ月程度だ。彼との別れを惜しむ生徒は多いだろう、とそのひとりである椙守は思っている。
「きっとヤマダはさびしがりますね」
「……仕方がないのです。私は、もどらなくてはいけない」
「はい。ムリに先生を引き止めようとは……僕もヤマダも、しません」
ただ、と椙守はつぶやく。
「また、ここにきてくれますか?」
「この学校に、ですか?」
「学校じゃなくてもいいんです。この町には僕らのだれかが、いつでもいると思います。ふらっと先生が遊びにきたと……それだけでも聞けたら、僕だってうれしいんです」
またも椙守は恥ずかしいことを平気で言ってのけた。以前の自分では考えられないくらい、本音をむき出しにしている。変容の主原因は目の前の好人物である。彼のような強さと聡明さを兼ね備えた男になりたいと思いはじめると、徐々にその素直な人柄に感化されたようだ。大きくちがう点は、シドは自分の要求を他者に押しつけないところだ。
ぶしつけな願いを聞かされた教師は黙している。椙守は彼を困らせてしまったと思う。
「すいません。先生にはゆずれない予定もあるのに、勝手なことを言って」
「いえ……貴方がそんなふうに思っていたと知って、安心しました」
「『安心』……?」
彼には似つかわしくない言葉だ。職務において瑕疵のない教師に、なんの不安があろうか。
シドは「あまり気にしないでください」と椙守の引っ掛かった部分を軽視した。言葉の綾を発したらしい教師がきびすを返す。彼は立ち去るようだ。会話の終着点が不明瞭なまま終わるのを椙守は不満に思ったが、シドが話したくないのならしょうがないとあきらめた。
「もしも、天のお導きがあったなら──」
別れゆく教師が足を止め、聖職者をにおわすフレーズを口に出す。
「私はふたたび、貴方のまえに現れるかもしれません」
彼は椙守を見返る。その横顔からは、普段黄色のサングラスのせいで見えない青い瞳がのぞいた。
「その時はまた、あの子が名付けた私の名を呼んでください」
ささやかな願いごとを告げると、シドは歩きだした。その際にかるく左手をあげた。人差し指には彼がいつも着けている指輪がある。指輪に付いた白い宝石が、椙守の印象にのこる。
(名前と、指輪……)
この二つがあればシドがどのような格好をしていようと見分けられる。そんな安心感が椙守を包んだ。
(『あの子が名付けた名前』の『あの子』は、ヤマダのことか)
学内ではシドの呼び名が本名のごとく定着しているが、本来はヤマダが発案したニックネームだ。学校ともヤマダとも縁が切れたとしても、彼はその名前をわすれずにいてくれるらしい。その義理堅さが、いずれ彼との再会を果たせる希望を椙守に与えてくれた。
シドは職員室のほうへ姿を消した。それでもなお椙守は感慨にひたる。うれしさとさびしさとが織り交ざる中、「椙守?」と背後から呼びかけられた──。
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