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2018年02月05日

古代ギリシア 重装歩兵の戦術

長田龍太 新起源社

タイトルの通り。

武装面では部隊を守る盾が重要視されており、逆に鎧は軽視されていた模様。武器は槍が主で、斧はあまり使われなかった。剣も使われた模様。弓は臆病者の武器とされて軽視されてたらしいが、傭兵などが使用した模様。
ミケーネ時代は戦車(戦闘馬車)と投げやり、とそれに伴う軽装歩兵。それが盾と投げ槍に変化し最終的に槍と盾の密集体系になったらしい。レリーフなどからの推測。

象も使われていたらしいが、大型のインド象と小型のアフリカゾウ(マルミミゾウと呼ばれる小型種と推定されているが不明)がおり、インド象はインド人の象使いを連れてきて運用していたらしい、インド象は基本インドへのルートを確保した国しか使えなかった。鼻の力は強く鼻だけで馬を持ち上げられたとか。
ラクダ兵もおり、馬がラクダのにおいを嫌うらしいので対騎兵ように使われていたとか。騎兵は大体歩兵の10分の1だったそうだ。

またカタペルテス(オクシベレス=弩、ペトロボロス=投石器)の解説もあり、当時の技術で20tもの巨大ペトロボロスが作られたという。
重すぎて野戦では使いにくかったようだが、野戦でも偽装退却からの待ち伏せなどで使われ効果があった模様。

不明な点も多いらしく、記録によると重装歩兵とは別に同数の軽装歩兵がいたらしいが、重要視されなかったために記述が乏しく、数が多いにも関わらずなにしたかわからないという。
元々ギリシア軍は村同士の略奪、襲撃から始まっており、それが拡大したものらしい。

ギリシアで平野での大規模戦闘が起きやすかった理由に、山がちなギリシアでは間道が多すぎて敵がどのルートを通って攻めてくるかわからないので、平野で迎撃したほうが確実だったとか。

ギリシア、マケドニア、ヘレニズムと3期に分けて武装や戦術を解説したうえで、3時代の戦いをそれぞれ1例づつ取り出して経過を解説、最終的にマグネシアでローマ軍に油断なくしっかりと準備したうえで戦った上に緒戦は優勢だったにも関わらず敗北したため、完全にギリシアのファランギタイは時代遅れになり、各国はローマをまね始めたとして終わらせている。

えらく淡々と記述しており、書き方も微妙に参考書風。あまりにも淡々としすぎているため部分的にシリアスな笑い(狙ってる気もする)部分もあり。
ギリシアの戦い、戦術に関する本は他の国や地域時代と比べ多く出版されており(体感)これもその一つなんだろう。

ヨーロッパ史における戦争 マイケル・ハワード

マイケル・ハワード 中央公論社

ヨーロッパの戦史。封建諸侯かあ始まり、テクノロジーによる現代戦までを7章に分けておおむね時系列で綴る。
1封建騎士の戦争:諸民族の侵入の中で各地の伯によってかろうじて防衛がなされていた、また外敵がなくなると騎士たちは勝手に争うようになり私戦ばかりになった模様。
2傭兵の戦争:多くの傭兵が戦った時代、傭兵たちは仕事がなくなると略奪を働いたりと不安要素でもあった、安定した雇用主はごく一部しか存在しなかった。
マキャベリの時代にかぶっており、またマキャベリは傭兵に批判的だったこともあり、マキャベリのいくつかの言動が引用されている。傭兵たちは一度大損害を出すと補充が困難なため、なるべく損害を出さないように戦った、ゆえにマキャベリの言う状況が生まれた。
3:商人の戦争
大航海時代、各地に出向いた商人たちはそれぞれ武装をして相争った、また現地民との争いに備えて拠点はそれが植民地支配を目的とするか単なる交易拠点かはともかくとして重武装していた。
4:専門家の戦争
所謂軍人が出現し、戦争は専門家によって戦われるようになった。銃が普及していき、安く大量に生産でき訓練期間も他の武器より短くて済む銃は戦争を変えた。
5:革命の戦争
所謂ナポレオン戦争。
6:民族の戦争
戦争は各民族間で争われるようになり、封建時代の領主の土地争いや相続争いからは離れていく。
7技術者の戦争
第一次、第二次世界大戦の頃。戦車などが開発されたが、それの運営には多大な人員、つまり歩兵や燃料や砲弾の補給などが必要になり、結果軍隊はどんどん巨大化した。そして総力戦の時代へと突入する。
エピローグヨーロッパ時代の終焉
アメリカ、ソ連というヨーロッパを起源にしながらもその外側に拡大していた2大国の存在もあり、ヨーロッパはもはやそれだけで完結できる地域ではなくなった

ネイティブ・アメリカン 鎌田遵

鎌田遵 岩波

所謂ネイティブ・アメリカンの現代史。

元々バッファローを狩っていた部族は高蛋白食が基本だったのに、バッファローが部族の補給源を断つためにアメリカに狩りつくされると炭水化物しか食うものがなくなり糖尿病。
インディアンズの語源はかつて所属していた野球選手が先住民出身だったためだそうだが、かなり苦労したそうでヤジも多く、結局失意のうちに亡くなったそう。
部族認定にはその部族の血が一定以上必要なため、複数の部族の混血ではどこの部族にも認定されないという問題がある。
カジノは成功しているところは一部のよう。失業率は高くまた都市部と居留地とで温度差も大きい。カジノで成功した部族は土地を買い戻す運動を行っている。
伝統工芸品の販売はそれで生計を立てているモノも多いが、非先住民系の外見を模したものも多く出回っており困っている模様。

などなど


アーリア人 青木健

青木健 講談社

アーリア人(インド、イラン人)の特にイスラム化以前の歴史。
イスラム化、チュルク化以前のアーリア人、主にパルニ族(パルティア人)、ペルシア人、サカ族、ソグド人、ホラズム人、ホータンなどのタリム盆地のチュルク化以前のアーリア系都市国家など、
ロクな史料がなく大規模な遺跡だけが残ってるような状態の国や民族も多く(パルティアなどは史料の残存数の少なさは割と有名)、謎は多い。

ペルシア帝国:(メディア王国)→クル朝、ハカーマニシュ朝ペルシア帝国(メディアは吸収)→(セレコウス朝)→(アルシャク朝)→ササーン朝という流れだったそう。
実は肝心の本拠地であるペルシア州は重要な交易ルートから外れており、割と重要性が低く、建国後はあまり重要ではなくなったようで、所謂ペルセポリスは単なる祭祀用の都市でしかなかった。
帝国の中心は人口は1500万程度でオアシス都市が点在するだけで人口密度は低く、ゆえに求心力がなくなるとすぐに遠隔地の都市は独立してしまう不安定なものだったらしい。

アルシャク朝(所謂パルティア):ペルシア帝国とは別系統の国家だが、移動した挙句にペルシア語よりになったりと割とペルシア化されていた模様。もともとセレコウス朝を追って建国しただけに初期はギリシア(ヘレニズム)都市の影響が強かったものの、定住化したパルニ人と遊牧民のままだったパルニ人との間で対立が起こり、結果遊牧系のパルニ人が勝利したが、その後は王朝は安定せずに延々と内乱が繰り返されて荒れていく。大国のわりに史料不足に定評があることは言及されているが、よく言われる「ササン朝の時に廃棄された説」は言及なし。
定住型は親ローマ、遊牧型は反ローマであり、定住型はローマの手が伸びていた模様。

キンメリア→スキタイ→サルマタイ→アラン:黒海沿岸で遊牧生活を送っていた、アランはフン族(多分モンゴル・トルコ系だが不明、匈奴との関係は不明)に敗れて逃げ回り一部はフランスへ逃げ込み遊牧生活を続け、気が付いたら消滅。最後にアランに関してはフランスに人名としてかろうじて記憶される。

エフタル:多分アーリア系、ペルシアを苦しめまくった上にインドまで攻め込んだがそのまま突厥に滅ぼされた。

オセット人:コーカサスの山中で定住化した遊牧アーリア人の生き残り。

ソグド人:中央アジアで巨大な大規模な商業ネットワークを持って世界中を飛び回っていた民族。しかしソグド人はイスラム教徒へ征服され、中国方面も安緑山の乱やチュルク人の拡大によって不安定になり商圏は衰頽、然しその後ウイルグル帝国(マーニー教がなぜか国教、ゾロアスターではなく)が勃興するとその下で再び繁栄するがチュルク系に吸収されて10世紀には消滅。
都市国家の集合体に過ぎず、強力な勢力が多い中央アジアにおいて周辺民族の支配を受け続けており、ハカーマニシュ朝(ペルシア帝国)→グレゴ・バクトリア(ヘレニズム国家)→クシャーナ(大月氏)→独立オアシス都市→イスラム帝国とイスラム化→独立→チュルク化という流れらしい。
オアシス都市が独立していた5世紀ごろは、考古学だとサマルカンドが大発展していたらしいので、この時期が全盛期。

パシュトゥーン:最後の遊牧アーリア人であり、最後の遊牧帝国であるアフガニスタン王国を建国した。アーリア系遊牧民がチュルク系にとってかわられる中なぜ生き残ったかは不明。
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