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2020年02月21日

伝説の“史上最強力士” 雷電爲右衛門

江戸時代に実在した“怪物”

今日2月21日は伝説の力士・雷電爲右衛門が亡くなった日です。(文政八年 1825年)


相撲といえば、先場所は“幕尻”、つまり幕内番付最下位の徳勝龍が優勝したことで話題となりましたね。

しかし、日本の国技にも関わらず、モンゴル人力士の強さばかりが目立つ昨今の大相撲には嘆いている相撲ファンも多いことでしょう。(徳勝龍は日本人ですが)

僕も今は時間がある時たまに見る程度で、相撲への興味が薄くなって久しいですね。

僕の場合、千代の富士、双羽黒、北勝海(現 八角理事長)、大乃国、小錦、北天佑などが活躍していた時代はけっこう夢中になって見てました。(かなり懐かしい!)

相撲ファンの間で「歴代の力士の中で誰が一番強かったか?」を語ると、それぞれの世代で活躍した力士が違うので一概には決められません。

そんな中でも、

“恐らく史上最強だったのではないか?”

と囁かれているのがこの雷電なのです。

大相撲の歴史は江戸時代前期頃から始まるのですが、江戸時代後期に登場した雷電の凄まじいまでの活躍によって大相撲がメジャーな存在になったと言っても過言ではありません。

では、雷電とはどれほど凄い力士だったのでしょうか?

というわけで、今回は雷電爲右衛門について語りたいと思います。

強過ぎるゆえのハンデ !?

雷電爲右衛門(らいでん ためえもん) 明和四年(1767年)〜 文政八年(1825年)
雷電爲右衛門.jpg

雷電は信濃(長野県)大石村(現・東御市)に生まれます。本名は関 太郎吉

雷電は幼い頃から体格に恵まれていたため相撲部屋にスカウトされたのですが、その体格が規格外なのです。

身長197a、体重169`

この身長体重は「力士として理想的な体格」とされているのですが、これに近い恵まれた体格の日本人力士は現在でもほとんどいません。

まして、現代人よりも一回り近く小さかった当時の日本人からすれば、雷電はまさに“怪物級”の存在だったでしょう。

17歳で相撲部屋に入門した雷電は、なんと初土俵で無敗の初優勝をしてしまったのです。

その後も雷電の快進撃は続き、当時は谷風(雷電の兄弟子)、小野川という二人の横綱が存在しましたが、雷電は小野川に一度も負けなかったのです。

ある場所中、雷電が対戦相手の八角政右衛門の腕を閂(かんぬき)で折ってしまうというアクシデントが起こりました。

この事態を重くみた運営側は、雷電があまりに強過ぎるため、閂・張り手・突っ張り・鯖折りを雷電に限って「禁じ手」としたのです。

これだけのハンデを課せられてしまったにも関わらず、その後も雷電が負けることはほとんどありませんでした。

雷電は土俵生活21年間で、優勝相当29回(うち連続優勝9回)、通算成績285戦254勝10敗(残り21戦は分け他)、そして

勝率はなんと.962!

という驚異的な数字を残しました。

しかし、優勝回数だけ見れば、「白鵬(43回)や大鵬(32回)、千代の富士(31回)に及ばないじゃないか」と思う方もいるでしょう。

ところが、当時の大相撲は年間二場所しか行われておらず、しかも雷電は実質34場所(全休した場所を除く)しか出場していないので、それらを考慮すればいかに凄い数字かがわかります。(※白鵬94場所、大鵬69場所、千代の富士81場所、いずれも幕内場所)

こうして雷電は生涯にわたり好敵手に恵まれないまま、文化八年(1811年)45歳で引退しました。



なぜ横綱になれなかったのか?

雷電の生涯を見ていくと、一つの大きな疑問が湧いてきます。

これほど驚異的に強かったのに、なぜ雷電は横綱になれなかったのか?

ということです。

雷電の最高位は大関であり、引退するまで横綱にはなっておりません。

これにはいくつかの説が存在します。

まず一つには、将軍の上覧相撲の機会を与えられなかったためとする説です。

この当時、江戸城内で将軍に謁見し、将軍の前で相撲を取る上覧相撲を行なった谷風と小野川が初の横綱になったという慣例がありました。

時の11代将軍・徳川家斉は雷電を「天下無双」と称えていましたが、結局上覧相撲には雷電を呼びませんでした。

その理由として、雷電が強過ぎて雷電と好勝負できる対戦相手が一人もいなかったので、やる前から雷電が勝つとわかり切っている相撲に家斉が興味を示さなかったのではないかと考えられます。

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大名どうしの確執が原因 !?

もう一つ有力な説として考えられるのがこれです。

当時の番付では最高位は大関であり、横綱は名誉の称号でした。

そのため、横綱の称号を得るには、特定の大名家が権限を持つ許可に申請する必要がありました。

当時の力士は大名のお抱えとなっていて、雷電を抱えていたのは出雲(島根県)の松平家でしたが、横綱の免許を与える資格を持つ吉田司家は肥後(熊本県)の細川家に属していました。

しかし、なぜか松平家は細川家に雷電の横綱昇進を申請しなかったのです。

恐らく、松平家と細川家の間に何らかの確執があったため、松平家は申請をしなかったと思われます。

もし、大名どうしの確執が原因で横綱になれなかったのが事実ならば、雷電はあまりにも気の毒と言わざるを得ませんね。



まとめ

  • 江戸時代の力士・雷電爲右衛門は身長197a、体重169`という驚くべき体格で勝率.962という驚異的な強さを誇った

  • 雷電はあまりに強過ぎたため、閂・張り手・突っ張り・鯖折りを禁じ手とされた

  • 雷電が横綱になれなかった理由は上覧相撲に呼ばれなかった、大名の都合で横綱昇進を申請しなかったなどが考えられる


ちなみに、40年前に大ヒットしたYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の「ライディーン」という曲は、この伝説の力士・雷電から命名したそうです。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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