2015年05月04日
認知症って?
認知症って?
かみさんの母親が認知症になって、家の中はばらばらになっている。かみさんは毎日の様に、片道2時間 往復 4時間かけて、かみさんの実家に通っている。かみさんの母親は、”貯金通帳が盗られた” といって真夜中であろう明け方であろうと、時間に関係なく電話をかけてくる。電話がかかり始めると、1分おきにかかってくる。実家の電話通話料は2万円ほどになっている。かみさんは実家に泊まって面倒をみようと試みたが、怖くて泊まれない、とのこと。結局通いでの介護で、”いらいら” しっぱなし。
子どもは、高校3年で大学受験でいらいらしているところに、”おばあさんが嫌い”である。もっとも認知症になったおばあさんの話題は、人の嫌がる、説教、愚痴、自慢、恩を着せる、内容ばかりで、同じ話しばかりである。さらに、我が儘ときている。もう嫌いをと売り越して軽蔑している。
そんな中で、娘、かみさん、おばあさん の強烈な3人の女性に振り回されつづけている。一人になれた時に、一人でビールを飲めた時だけが唯一落ち着ける時間になっている。そんな時、ふと考える。認知症ってなんなんだろう?と。なぜ、狙った様に、こうも人が嫌がることばかりするのだろうか?と妄想しています。そこで私は私なりの仮説を立ててみました。
1.認知症は人間として、後から発達した脳の機能から衰えていく。 記憶力、判断能力から衰え、動物本来の機能は最後に衰える。
2.人間の本能は動物に近く。自分が生きることが第一。
3.人間は本来、疑い深く、凶暴性をもっている。
4.生きていくためには、強い人に従うか、自分が他の人を従わせるかのいずれか。
この様に想定すると、認知症になった方の行動は、脳の高度な部分の機能が低下したときに起こる行動。その人の性格から起因される行動とみることができる。ちょうど酔っ払ったときにする異常行動と同じ様な感じである。酔っ払ったとき、けんかをするか、泣くか、説教ぽくなるか、愚痴るか、ねるか、など、人によって様々ではあるが、その人の本質的な性格の一部が出てくるのでしょう。おばあさんは、もともと攻撃的でしつこい、電話魔で、自分本位、で私の嫌いなタイプの一つであった。その悪いものが強烈になり、手に負えなくなった感じである。
よく、認知症の方への対応として、否定してはいけない、とよく言われる。貯金通帳が盗られたといわれても、いっしょに探してあげれば、落ち着く、とのことである。それですめばいいのですが、なかなかそうはできません。勝手に妄想して、Aさんがもっていったから取りに行ってくれ、とか、人の店にいって、騒ぎ始めたり、とか、次から次へと新手を出してきます。
そこで、いまは否定してはいけない、との方針はやめて、徹底的に否定しています。私の考えでは、自己を肯定されると安心して穏やかになる認知症の方は否定しない方がよい、と思っていますが、肯定されると図にのる認知症の方はますます凶暴になってしまいます。そこで、今の私の対応は ”飴、ムチと無視” です。 おばあさんの尊厳を守って穏やかにするのではなく、おばあさんは弱い存在として意識させ、強いものに従わなければ、と感じさせる、対応です。具体的には、穏やかなときは穏やかに対応し、わがままをいったときは、脅迫に近いことばを織り交ぜながら説教します。おばあさんと近づき過ぎるとなれなれしくなってしまい横暴になります。そこで適度の無視し、距離を保ちます。癇癪を起こしたときは力で抑えます。今までは癇癪を起こしたときは避難でしたが、その時次第ですが、力付くで抑えることも試しています。おばあさんは私を怖がりますが、それで収まるときもあります。犬のしつけと同じで有効かもしれません。
もともと人間は、他の動物の同じ様に、自分本位で支配するかされるかで生き残ってきた、と感じています。共同生活をはじめるとその様な特性は生き残るためにマイナスの特性となり、その様な特性を抑える様に脳が発達した人間の方が、子孫を残しやすくなり、子孫を残してきた、と想像しています。
ちょっと強引ですが、これを学習という視点からみると、今はテスト結果に順位を付け、子どもに勉強させ様とする。子どもは本能的にみんなより強い存在になろうと勉強する。諦めた人は、別の道で強い人間になろうとするか、強い人の傘のしたに入ろうとし、そのグループを探す。今の教育方法と人間の脳の特性を合っているか、日々考えながら、子どもへの対応を考えています。
かみさんの母親が認知症になって、家の中はばらばらになっている。かみさんは毎日の様に、片道2時間 往復 4時間かけて、かみさんの実家に通っている。かみさんの母親は、”貯金通帳が盗られた” といって真夜中であろう明け方であろうと、時間に関係なく電話をかけてくる。電話がかかり始めると、1分おきにかかってくる。実家の電話通話料は2万円ほどになっている。かみさんは実家に泊まって面倒をみようと試みたが、怖くて泊まれない、とのこと。結局通いでの介護で、”いらいら” しっぱなし。
子どもは、高校3年で大学受験でいらいらしているところに、”おばあさんが嫌い”である。もっとも認知症になったおばあさんの話題は、人の嫌がる、説教、愚痴、自慢、恩を着せる、内容ばかりで、同じ話しばかりである。さらに、我が儘ときている。もう嫌いをと売り越して軽蔑している。
そんな中で、娘、かみさん、おばあさん の強烈な3人の女性に振り回されつづけている。一人になれた時に、一人でビールを飲めた時だけが唯一落ち着ける時間になっている。そんな時、ふと考える。認知症ってなんなんだろう?と。なぜ、狙った様に、こうも人が嫌がることばかりするのだろうか?と妄想しています。そこで私は私なりの仮説を立ててみました。
1.認知症は人間として、後から発達した脳の機能から衰えていく。 記憶力、判断能力から衰え、動物本来の機能は最後に衰える。
2.人間の本能は動物に近く。自分が生きることが第一。
3.人間は本来、疑い深く、凶暴性をもっている。
4.生きていくためには、強い人に従うか、自分が他の人を従わせるかのいずれか。
この様に想定すると、認知症になった方の行動は、脳の高度な部分の機能が低下したときに起こる行動。その人の性格から起因される行動とみることができる。ちょうど酔っ払ったときにする異常行動と同じ様な感じである。酔っ払ったとき、けんかをするか、泣くか、説教ぽくなるか、愚痴るか、ねるか、など、人によって様々ではあるが、その人の本質的な性格の一部が出てくるのでしょう。おばあさんは、もともと攻撃的でしつこい、電話魔で、自分本位、で私の嫌いなタイプの一つであった。その悪いものが強烈になり、手に負えなくなった感じである。
よく、認知症の方への対応として、否定してはいけない、とよく言われる。貯金通帳が盗られたといわれても、いっしょに探してあげれば、落ち着く、とのことである。それですめばいいのですが、なかなかそうはできません。勝手に妄想して、Aさんがもっていったから取りに行ってくれ、とか、人の店にいって、騒ぎ始めたり、とか、次から次へと新手を出してきます。
そこで、いまは否定してはいけない、との方針はやめて、徹底的に否定しています。私の考えでは、自己を肯定されると安心して穏やかになる認知症の方は否定しない方がよい、と思っていますが、肯定されると図にのる認知症の方はますます凶暴になってしまいます。そこで、今の私の対応は ”飴、ムチと無視” です。 おばあさんの尊厳を守って穏やかにするのではなく、おばあさんは弱い存在として意識させ、強いものに従わなければ、と感じさせる、対応です。具体的には、穏やかなときは穏やかに対応し、わがままをいったときは、脅迫に近いことばを織り交ぜながら説教します。おばあさんと近づき過ぎるとなれなれしくなってしまい横暴になります。そこで適度の無視し、距離を保ちます。癇癪を起こしたときは力で抑えます。今までは癇癪を起こしたときは避難でしたが、その時次第ですが、力付くで抑えることも試しています。おばあさんは私を怖がりますが、それで収まるときもあります。犬のしつけと同じで有効かもしれません。
もともと人間は、他の動物の同じ様に、自分本位で支配するかされるかで生き残ってきた、と感じています。共同生活をはじめるとその様な特性は生き残るためにマイナスの特性となり、その様な特性を抑える様に脳が発達した人間の方が、子孫を残しやすくなり、子孫を残してきた、と想像しています。
ちょっと強引ですが、これを学習という視点からみると、今はテスト結果に順位を付け、子どもに勉強させ様とする。子どもは本能的にみんなより強い存在になろうと勉強する。諦めた人は、別の道で強い人間になろうとするか、強い人の傘のしたに入ろうとし、そのグループを探す。今の教育方法と人間の脳の特性を合っているか、日々考えながら、子どもへの対応を考えています。
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