2022年11月24日
第28訓 西郷隆盛の遺訓を現代に顧みて
明治維新の立役者の西郷隆盛の訓話をまとめた「南洲翁遺訓」を垣間見て、
現代の日本の政治や世相を自分ながら解説してみよと思います。
南洲翁遺訓は全部で41訓ありますが、今日は第28訓を垣間見てみます。
序文
尊卑貴賎の差別無し
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原文
道を行うには、尊卑貴賎の差別無し。
摘んで言へば、尭・舜は天下に王として、
万機の政事を執り給へども、其の職とする所は教師也。
孔夫子は魯国を始め、何方へも用ヰられず、屡々困厄に逢ひ、
匹夫にて世を終へ給ひしかども、三千の徒皆道を行ひし也。
仮名入り
みち おこな そうぴきせん さべつな
道を行うには、尊卑貴賎の差別無し。
つま い ぎょう しゅん てんか おう
摘んで言へば、尭・舜は天下に王として、
まんき せいじ と たま そ しょく ところ きょうしなり
万機の政事を執り給へども、其の職とする所は教師也。
こうふし ろのくに はじ いすかた もちい しばしばこんやく あ
孔夫子は魯国を始め、何方へも用ヰられず、屡々困厄に逢ひ、
ひっぷ よ お たま さんぜん とみなみち おこな なり
匹夫にて世を終へ給ひしかども、三千の徒皆道を行ひし也。
私流訳
正しい道を行うことには、身分が高いとか低いとか、
裕福とか、貧乏とかという差別はまったくない。
歴史上の偉人を例に言えば、
古代中国の尭や舜(共に古代中国の偉大な帝王)は、
国王となって、政治の多くの重要なことを善政を行っていたが、
もともとは一介の教育者のような存在だった。
孔子先生は、は魯の国を始め、どこの国にも政治家として用いられず、
何度も困難な目に遭い、最後には身分の低いままにを終えられたが、
三千人といわれるその子弟は、皆その教えに従って道を行ったのである。
私流解釈
南洲翁遺訓には、「道」という言葉がよくでる。
道とは、今までは、「正しい道」と思っていたが
毎回、こうやってブログを書いていると
この道という言葉が指しているのは、「正しい道」という解釈が違うと感じる次第である。
南洲翁遺訓の本は、いろいろあるが大抵はこの解釈で、
私もそういうふうに解釈していたが、
この頃、この道という言葉が指しているのは、
「あなたの道」ということではないかと感じる次第です。
人によって正しさは違うし、歩む道も違う、境遇も違う。
今、自分自身の目の前にあること、
目の前の仕事かもしれない、
目の前のやらないといけないことかもしれない、
自分の今の境遇は、昨日とは違うし、明日は変わるかもしれない、
ただ、今、目の前の境遇は絶対必然であり、自分しか体験できない唯一無二のことである。
自分が向かっていくこと、自分が目的にしていること、それが道と感じる次第であります。
何も王になることや聖人になることが道ではなく、
今、自分が進んでいること、叶えたいことが道であると解釈しほうが
この「道」の解釈がピタとくると考える次第であります。
そして、この道は「あなたの道」という唯一無二であるから、
何にもとらわれず、尊卑貴賤の区別なしの存在であります。
現代に顧みて
尊卑貴賤という言葉で自分の境遇と考えるも良し、
相手に対してもそんなことをしていないか戒めと捉えることもできます。
つい失礼なことを言ってしまったことはよくある。
相手を下と思っていないだろうか、
差別や区別なく常に目の前の人たとえ、
部下や仕入先や年下や高齢者や障害者や
現代で言えばLGBTQとも言えるだろう。
すべての人に対して、尊重し・謙虚に・理解しようと思えば差別・区別はなくなる。
まさに尊卑貴賤の差別無しである。
最後まで読んで頂きまして有難うございます。
押して頂くと励みになります。
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稲盛和夫の南洲翁遺訓の解説本
経営者の視点では素晴らしい本です。
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森信三の南洲翁遺訓の解説本
修身や道徳の視点では必見の本です。
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現代の日本の政治や世相を自分ながら解説してみよと思います。
南洲翁遺訓は全部で41訓ありますが、今日は第28訓を垣間見てみます。
序文
尊卑貴賎の差別無し
原文
道を行うには、尊卑貴賎の差別無し。
摘んで言へば、尭・舜は天下に王として、
万機の政事を執り給へども、其の職とする所は教師也。
孔夫子は魯国を始め、何方へも用ヰられず、屡々困厄に逢ひ、
匹夫にて世を終へ給ひしかども、三千の徒皆道を行ひし也。
仮名入り
みち おこな そうぴきせん さべつな
道を行うには、尊卑貴賎の差別無し。
つま い ぎょう しゅん てんか おう
摘んで言へば、尭・舜は天下に王として、
まんき せいじ と たま そ しょく ところ きょうしなり
万機の政事を執り給へども、其の職とする所は教師也。
こうふし ろのくに はじ いすかた もちい しばしばこんやく あ
孔夫子は魯国を始め、何方へも用ヰられず、屡々困厄に逢ひ、
ひっぷ よ お たま さんぜん とみなみち おこな なり
匹夫にて世を終へ給ひしかども、三千の徒皆道を行ひし也。
私流訳
正しい道を行うことには、身分が高いとか低いとか、
裕福とか、貧乏とかという差別はまったくない。
歴史上の偉人を例に言えば、
古代中国の尭や舜(共に古代中国の偉大な帝王)は、
国王となって、政治の多くの重要なことを善政を行っていたが、
もともとは一介の教育者のような存在だった。
孔子先生は、は魯の国を始め、どこの国にも政治家として用いられず、
何度も困難な目に遭い、最後には身分の低いままにを終えられたが、
三千人といわれるその子弟は、皆その教えに従って道を行ったのである。
私流解釈
南洲翁遺訓には、「道」という言葉がよくでる。
道とは、今までは、「正しい道」と思っていたが
毎回、こうやってブログを書いていると
この道という言葉が指しているのは、「正しい道」という解釈が違うと感じる次第である。
南洲翁遺訓の本は、いろいろあるが大抵はこの解釈で、
私もそういうふうに解釈していたが、
この頃、この道という言葉が指しているのは、
「あなたの道」ということではないかと感じる次第です。
人によって正しさは違うし、歩む道も違う、境遇も違う。
今、自分自身の目の前にあること、
目の前の仕事かもしれない、
目の前のやらないといけないことかもしれない、
自分の今の境遇は、昨日とは違うし、明日は変わるかもしれない、
ただ、今、目の前の境遇は絶対必然であり、自分しか体験できない唯一無二のことである。
自分が向かっていくこと、自分が目的にしていること、それが道と感じる次第であります。
何も王になることや聖人になることが道ではなく、
今、自分が進んでいること、叶えたいことが道であると解釈しほうが
この「道」の解釈がピタとくると考える次第であります。
そして、この道は「あなたの道」という唯一無二であるから、
何にもとらわれず、尊卑貴賤の区別なしの存在であります。
現代に顧みて
尊卑貴賤という言葉で自分の境遇と考えるも良し、
相手に対してもそんなことをしていないか戒めと捉えることもできます。
つい失礼なことを言ってしまったことはよくある。
相手を下と思っていないだろうか、
差別や区別なく常に目の前の人たとえ、
部下や仕入先や年下や高齢者や障害者や
現代で言えばLGBTQとも言えるだろう。
すべての人に対して、尊重し・謙虚に・理解しようと思えば差別・区別はなくなる。
まさに尊卑貴賤の差別無しである。
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経営者の視点では素晴らしい本です。
森信三の南洲翁遺訓の解説本
修身や道徳の視点では必見の本です。
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