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2019年08月16日

徴用工判決の背後にある 安倍首相の危険な対韓外交



 

 徴用工判決の背後にある 安倍首相の危険な対韓外交



            〜月刊日本<菊池英博氏>2018.11.19〜



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 11月4日にBloombergが行ったインタビューでも元徴用工への補償は「韓国側に責任」と語っていた河野太郎外相。沈黙を守って居た韓国政府も6日に生命を出してこれ等の河野外相の発言を批判


 




 10月30日に韓国大法院(最高裁判所)は、韓国が日本の植民地支配下に在った時代に徴用された原告に対して「雇用者であった新日鉄住金に対して損害賠償を命じる判決(一人1000万円)」を下した。


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 この判決を知るや否や安倍首相は直ちに「この問題は1965年の日韓請求権交渉で完全かつ最終的に解決した」と主張し、河野太郎外相は韓国のイ・スファン駐日大使を外務省に呼び着け「日韓の未来志向の関係に努力をして来たが(今回の判決は)極めて心外だ」「判決は日韓の友好関係を根本から覆すものだ、韓国政府は直ちに必要な措置を取って貰いたい」と抗議した。
 更に河野外相は「今回の判決は、国際法に基づいて秩序が成り立つ国際社会への挑戦だ」「完全かつ最終的に終わった話であり判決は暴挙だ」と述べ、国際司法裁判所への提訴を含めて検討する考えを示した。

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 これに対して韓国政府は、1週間経っても沈黙を守って来たが、6日夜に声明を発表し、韓国大法院の判決に対する河野外相の発言に付いて「問題の根源を度外視したママ、私達の国民感情を刺激して居て、非常に憂慮して居る」「過剰対応で非常に遺憾だ」と述べ、逆に河野外相の発言を批判した為、日韓両国の対立は深まる様相を呈して来た。
 「問題の根源を度外視したママ」と云う韓国政府の声明文に、本質を知る道があるのではないか。「問題の根源」が日本側に有る様に受け止められるので、2012年12月以来の第二次安倍政権の対韓外交を振り返ってみよう。


 




 第一の「問題の根源」 慰安婦問題

「第一の根源」は慰安婦問題だ。慰安婦問題は、村山内閣の官房長官だった河野洋平氏が1993年に発表した河野談話(「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」)で解決済みであった。
 河野談話の要旨は「慰安婦の設置は日本軍が要請し、直接・間接に関与した事」「その為、甘語、強圧による等に依って本人達の意志に反して集められた事実が数多あり、痛ましいものであった」と謝罪して居る。

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 処が2014年3月23日のテレビ番組で、自民党の総裁補佐官であった萩生田光一氏が「新しい事実が出て呉れば新しい談話を発表すれば好い、(安倍首相も新談話を)何処でも否定して居ない」「検証結果に依っては新たな談話を発表すれば好い」と述べた。その後、安倍首相は国会で「河野談話を継承する」と発言したが、この事件によって日韓関係は大きく損なわれた。

 その後2015年12月28日に突然、岸田外相と韓国の尹外交部長官との間で、慰安婦問題に対する「日韓合意」が成立し、安倍首相は「慰安婦問題に官憲・軍部が関与して居た事」を改めて認めて、慰安婦への謝罪の気持ちを表現した。同時に韓国政府が元慰安婦支援の為設立する財団に日本政府が10億円を拠出し、両国が協力して行く事を確認した。

 この声明後直ちに、米国のケリー国務長官が合意を評価する声明を出したので「事前に米国から和解の勧告があったのではないか」(某自民党首脳)との声が聞かれた。
 安倍側近の発言が一旦河野談話を否定し、韓国民を傷着けた上で、再度、河野談話を認める事に為り「寝て居る子」を起して韓国国民の感情を害しただけの結末であった。

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 第二、第三の「問題の根源」は?

 「第二の根源」は、本年2月のピョンチャン五輪での安倍首相の発言だ。韓国の文在寅大統領が北朝鮮の金与正との会談で朝鮮半島の平和と統一への道を必死に模索して居る時に、同大統領と会談した安倍首相は「五輪が終わったら米韓軍事演習を再開して欲しい」と発言した。
 同大統領は直ちに「これは韓国の主権の問題だ」と突っぱねたが、安倍首相の発言は「平和を望む韓国の主権を踏みにじる発言」として韓国政府は2回も公表し、マスコミも安倍批判を強めた。

 「第三の根源」「日本政府は南北朝鮮の停戦を望んで居ない」と報ぜられた事だ。(東京新聞・2018年9月24日)韓国と北朝鮮は終戦宣言に積極的である。トランプは「戦争ゲームは止めよう」と宣言し、北朝鮮の核を削減させた上で休戦を考えて居ると見られる。朝鮮半島の平和を望んで居ないのは安倍首相だけではないのか。

 安倍首相の韓国に対する政治姿勢は世界の潮流に反し、日本を孤立させる危険な外交である。



 <文/菊池英博>エコノミスト。東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)を経て1995年文京女子大学教授に。現在は日本金融財政研究所所長

 提供元/月刊日本編集部げっかんにっぽん●「日本の自立と再生を目指す、闘う言論誌」を標榜する保守系オピニオン誌。「左右」という偏狭な枠組みに囚われない硬派な論調とスタンスで知られる。
 月刊日本 げっかんにっぽん●Twitter ID=@GekkanNippon。「日本の自立と再生を目指す、闘う言論誌」を標榜する保守系オピニオン誌。「左右」と云う偏狭な枠組みに囚われ無い硬派な論調とスタンスで知られる。


 



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「少女像」展示中止が波紋 ソモソモ「慰安婦問題」とは?





 「少女像」展示中止が波紋 ソモソモ「慰安婦問題」とは?



               〜THE PAGE 8/15(木) 9:00配信〜


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 韓国ソウルの日本大使館前に設置された「少女像」「あいちトリエンナーレ」でもこの少女像を模した展示がなされた

 
 愛知県で開かれて居る国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、元慰安婦を象徴する少女像等の展示が中止された事が議論を呼んで居ます。展示を巡っては、名古屋市の河村たかし市長等が中止を求めた事や、市民の抗議メール・電話が相次いだのみ為らず、脅迫紛(まが)いのFAXが届いた事から「表現の自由」を中心とした問題として論じられて居ます。
 ここでは、ソモソモ慰安婦問題とはどう云うものなのか、経緯と論点に付いて、今一度振り返ってみたいと思います。「アジア女性基金」の創設に外務官僚として関わった平和外交研究所代表の美根慶樹氏に寄稿して貰いました。


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            「あいちトリエンナーレ2019」ポスター







 底流に在った国際的な女性差別撤廃への取り組み

 慰安婦問題に付いて日韓関係や国連等多国間関係に於いて関心が高まり、本格的に取り上げられる様に為ったのは1990年代に入ってからです。取り分け大きな切っ掛けと為ったのは1991年、旧日本軍の慰安所で辛い体験を強いられた韓国人の金学順(キム・ハクスン)氏による証言だったと言われて居ます。
 国際的には、女性に対する差別を無くし、尊厳を守ってその地位の向上を図る運動から、慰安婦問題の取り組みに発展する流れがそれ以前からありました。グローバルな女性の権利運動として日韓関係に負け無い重要な問題です。

 女性の地位向上に付いて大きな転機と為ったのは、1979年に国際連合第34回総会で採択された「女子に対するアラユル形態の差別の撤廃に関する条約」Convention on the Elimination of all forms of Discrimination Against Women、略して CEDAWであり、1976〜1985年の「国連女性の10年」の中で最大の成果でした。この条約は1981年に発効し、日本も1985年に批准しました。
 バルカン半島では、金学順氏のカミングアウトと同じ1991年、旧ユーゴスラビア(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国)を構成した共和国が相次いで独立運動を開始しました。その中で多数の女性が性暴力の被害者と為り「紛争下に於ける女性への暴力」に付いて国際的関心が高まったのです。

 そして、1993年の国連世界人権会議・ウィーン会議を経て1995年に北京で開催された第4回国連世界女性会議・北京女性会議と為り、アラユル形態の「武力紛争下に於ける女性の人権の侵害」が非難され、その防止と被害者の救済が叫ばれました。北京女性会議で合意された男女平等を実現する為の包括的な処方箋「北京行動綱領」には12の関心分野があり、その一つが「女性と武力紛争」でした。

 日本政府は90年代半ばに「河野談話」と「村山談話」

 日本政府が慰安婦問題に付いて見解を示す様に為ったのは、宮沢喜一首相が韓国を訪問する1992年からであり、同首相は「旧日本軍の関与を認めお詫びしたい」と述べ、又、加藤紘一官房長官は「お詫びと反省」を表明する談話を発表しました。
 そして日本政府は、関連資料の調査や韓国で被害女性等関係者への聞き取りを行い、その結果を踏まえ、河野洋平官房長官は1993年8月、日本政府の考えを示す談話を発表しました。その中には次の様な言及がありました。

  慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送に付いては、旧日本軍が直接或は間接に関与した。
  慰安婦の募集に付いては、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言・強圧による等、本人達の意思に反して集められた事例が数多くあり、更に(日本の)官憲等が直接これに加担した事もあった。
  政府は改めて、その出身地の如何(いかん)を問わず、所謂従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身に渉り癒し難い傷を負われた全ての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。
  又、その様な気持ちを我が国としてどの様に表すかと云う事に付いては、有識者のご意見等も徴(ちょう)しつつ、今後共真剣に検討する。
 

 村山富市首相は戦後50周年を迎えるに際して、1994年と95年の2回に渉って談話を発表しました。太平洋戦争に付いては「国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略に依って、多くの国々、取り分けアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と述べました。(1995年談話)
 この談話に基づき、日本政府は「財団法人女性の為のアジア平和国民基金(アジア女性基金)」を設置すると共に、政府の資金で総額7億円規模の「医療福祉支援事業」の開始を決定しました。

 アジア女性基金は1996年から、フィリピン・韓国・台湾に於いて、元慰安婦各人に対して一人当たり200万円の「償い金」を渡す「償い事業」を行いました。その際、橋本龍太郎首相からの「心からお詫びと反省の気持ち」を表す手紙を添えました。
 慰安婦の認定は各国の関係機関に委ねました。同基金は2007年3月を以て活動を終え解散しました。最終的に、フィリピン・韓国・台湾で285人の元慰安婦を対象として「償い事業」を実施しました。事業総額は5億7000万円でした。

 インドネシアに於いては、日本政府からの拠出金を基に、元慰安婦と称する女性を中心とした高齢者を対象に総額3億8000万円の事業を、又オランダでは、同じく日本政府からの拠出金を基に、79人に対して一人辺り300万円の医療福祉支援を行いました。


 




 韓国の運動家は「日本は政府としての謝罪と補償を」
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 アジア女性基金による償い事業に付いては、国際的に肯定的な評価を得て居ますが、日本政府に更なる努力を求める声も根強くあります。韓国で元慰安婦を支援して居る運動家はアジア女性基金を積極的に評価せず「日本政府は謝罪と補償をすべきだ」と主張して居ます。
 意見が分かれる原因は、1965年日韓基本条約と同時に締結された日韓請求権協定に付いての法的解釈の違いにあります。日本政府は「請求権協定は・・・両国間の請求権に関する問題は、完全且つ最終的に解決された」と明記して居り、元慰安婦の請求権も解決済みであると云う立場です。日本政府としては、法的責任は無いが道義的立場から生存して居る慰安婦に支援を行いました。


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     慰安婦問題で毎週水曜日にソウルの日本大使館周辺で行われる「水曜デモ」


 一方、韓国の運動家は、元慰安婦の請求権は消滅して居らず、財団法人であったアジア女性基金では無く、日本は飽く迄政府として公式に法的補償をすべきだと云う考えです。韓国政府は運動家の主張を支持し、日本政府に善処を要望して来ました。
 「謝罪」に付いては、韓国の運動家は「謝罪と補償」をセットで要求する為か、前述の様に宮沢首相以下、歴代の日本の首相が明確に謝罪して来た事実を無視して居ます。そして、彼等はソウルの日本大使館周辺で毎週水曜日、日本に謝罪と補償を求める「水曜デモ」を主宰し、2011年には同大使館前に「少女像」を設置したので外交問題に為りました。又、彼等は2016年、在釜山日本国総領事館前にも「少女像」を設置しました。

 日本政府に法的責任を求めた「クマラスワミ報告」

        8-16-5.jpg クマラスワミ氏


 一方、国連等多国間の場では、国連人権委員会(現在は「人権理事会」)の下で1993年に特別報告者と為ったラディカ・クマラスワミは3年後の1996年「女性に対する暴力とその原因及び結果に関する報告書」を発表し、その第1付属文書で慰安婦問題を論じました。
 その中でクマラスワミは、日本政府の努力を一定程度積極的に評価し、アジア女性基金に付いては「道義的観点からこの基金設置を歓迎するが、しかし、それは国際法上の『慰安婦』の法的請求を免れさせるものでは無い」との見解を示しました。そして、日本政府に対し「日本軍に依って設置された慰安所制度が国際法違反である事を認め、その法的責任を受け入れる事」等6項目の勧告を行いました。

 クマラスワミ報告に付いては日本の研究者により一部内容に付いて誤りがある事が指摘されました。特に朝日新聞が一旦報道したものの、後に偽証であったと認めた故吉田清治氏の証言を引用して居る点に付いて、日本政府は2014年10月に是正を求めましたが、クマラスワミは、それは一部の問題であり論旨には影響無いとして是正に応じませんでした。
 過ちを是正し無いのは不合理だと思われるかも知れませんが、クマラスワミは「女性に対する差別としての暴力」と云う膨大な課題に付いて調査・研究し、問題提起をしたのであり、引用した一部の資料の誤り(それは結論に影響が無いと本人は説明して居る)を是正し無くても責められ無いと思います。

 クマラスワミ報告は発表された際に、人権委員会で熱狂的な歓迎を受けました。その後の国際社会での展開はクマラスワミが指摘した通りの潮流に為って居ます。この国際的大勢を軽視して、細かい事実関係の表現に拘るべきでは無いと考えます。


 




 「誰が強制したか」曖昧(あいまい)なまま続けられる議論

 日本と国際社会の間では法的解釈の他「強制性」が繰り返し問題に為って来ましたが、これに付いては主語、詰まり「誰が強制したか」と云う事をハッキリさせ無いまま論じられる嫌いがあります。日本政府は「旧日本軍が強制連行した」と云う事は、河野談話を含め一度も表明して居ないのに、日本の国会等で「強制性」の議論が起こるのは遺憾な事です。
 この強制性の問題は、今日の性暴力犯罪に関する議論に通じる重要な論点です。「強制する」とは、決して首に縄を着けて引き摺り出すと云う様な事だけとは限らず、貧しさ等から甘い言葉に弄(ろう)される事も自由意志では無いと云う点で、強制されたと見做される様に為って居ます。
 又、慰安婦は「性奴隷」であったと表現される事があります。日本政府はこの表現は「事実に反し、不適切」だとして、女子差別撤廃委員会等関係機関で使用し無い様求めましたが、決着は着いて居ません。

 慰安婦問題での日本に対する国際機関の厳しい見方
 

 女性に対する暴力問題に取り組む国際機関は数が多く複雑です。「国連人権理事会」「女子差別撤廃委員会」「拷問禁止委員会」「強制的失踪委員会」「自由権規約委員会」「国際労働機関(ILO)」等で、ホボ定期的に慰安婦問題が取り上げられます。
 これ等の中には国連で無く、独立の条約に基づいた機関が含まれて居ますが、余りに複雑に為るので条約名はイチイチ記さ無い事とします。これ等諸機関での日本政府に対する見方に付いては厳しいものがあります。女子差別撤廃委員会では「日本の指導者や公職に有る者が、慰安婦問題に対する責任を過小評価し、被害者を再び傷つける様な発言は辞める様」と異例の勧告が行われた事もあります。

 又、慰安婦問題に付いては、韓国等被害者が出た国だけで無く、多数の国が関心を持ち、日本の対応を見守って居ます。
 欧米諸国では、2007年に米(下院外交委員会)・オランダ・カナダの議会や欧州議会でも慰安婦問題に関して日本政府に対し謝罪を求める決議が採択されました。この様な決議が相次いだのは、安倍首相による「強制性」に関する発言(特に2006年10月6日の衆議院予算委員会での「強制性に付いては事実を裏付けるものは出て来て居なかったのでは無いか」等)が切っ掛けであったと言われて居ます。

 日本では多数の国際機関の動向をフォローするのが困難であり、必ずしも逐一報道される事も無いので、日本国内と国際社会との間で可なりの温度差がありますが、国際社会の動向には細心の注意が必要です。韓国の運動家はこれ等諸機関を巧みに利用し、時には強引に働き掛けて居り、更に、国際機関の意見を日韓間に持ち込んで彼等の主張の強化に努めて居ます。


 




 文政権に依って無視された2015年の日韓合意
 
 日韓間では、2015年12月、岸田文雄外相と韓国の尹炳世(ユン・ビョンセ)外相との会談で慰安婦問題を最終的に解決する事が合意されました。具体的には次の内容でした。

  日本政府は、元慰安婦の方々の心の傷を癒やす措置として10億円を拠出する。
  安倍首相が心からおわびと反省の気持ちを表明する。
  韓国政府は、在韓国日本大使館前の少女像を撤去するよう努力する(当時は釜山総領事館前には設置されていませんでした)。
  今回の合意の実行により,この問題は「最終的かつ不可逆的に解決される」。
  両国政府は、今後,国連等国際社会において互いに非難・批判することを控える。


 そして2016年7月、韓国政府は日本からの拠出金により「和解・癒やし財団」を設立し事業を開始しました。同年12月の同財団の発表によると「合意時に生存して居た元慰安婦46人の内、34人が事業を受け入れる意思を明らかにした。その内31人に既に支給を決定し29人に支給を終えた。残りの人に付いても支給手続きを進めて居る」と云う事でした。
 しかし翌年5月に、文在寅(ムン・ジェイン)大統領が就任してから、財団による事業継続は困難に為りました。文大統領は「日韓合意では元慰安婦の意見が十分反映され無かった」「不均衡な合意が一層不均衡に為った」「政府間で最終的・不可逆的解決を宣言したとしても問題は再燃する」等と表明しました。

 更に日韓合意の再検証を命じ、その結果に付いて「日韓合意は手続き上も内容上も重大な欠陥があったと確認された。政府間の公式的な約束と云う重みはあるが、この合意では慰安婦問題は解決され無い」と述べました。
 そして2019年7月、財団は遂に解散されてしまいました。少女像は依然として設置されたママです。日本政府は厳重に抗議すると共に、飽く迄2015年の日韓合意に従って解決を図るべきだと強調して居ます。

 文在寅政権による、合意を一方的に無視した行動で、慰安婦問題は解決の展望が見え無い状態に戻ってしまいました。又、同政権は所謂「徴用工」問題に関しても日韓請求権協定に定められた協議に応じ無い等、理不尽な姿勢を取って居ます。
 日本政府としては誠に遺憾ですが、粘り強く対応し韓国政府の反省を促す努力を続けるしか無いと思われます。



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 美根慶樹(みね・よしき) 平和外交研究所代表。1968年外務省入省。中国関係・北朝鮮関係・国連・軍縮等の分野が多く、在ユーゴスラビア連邦大使・地球環境問題担当大使・アフガニスタン支援担当大使・軍縮代表部大使・日朝国交正常化交渉日本政府代表等を務めた。2009年退官。2014年迄キヤノングローバル戦略研究所研究主幹



 【管理人のひとこと】


 この文章は、根の深い従軍慰安婦問題に関しての「飽く迄も日本政府としての公式報道」だと受け取るものです。単に女性の人権問題で終わらず、軍・国家権力としての責任に付いては公式には認めて居ない・・・外交オンチな安倍氏の発言で今までのお詫びと謝罪が無に為ってしまい、韓国の逆鱗に触れてしまったのです。


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          中国戦線の従軍慰安所の女性達 香川茂陸軍伍長が撮影


 確かに、軍が従軍慰安婦の募集や移動の様な無法な命令書等は、既に焼却されてしまい残ってる筈も無いのです。従軍慰安婦は、当時の公娼制度として普通に軍の依頼で民間業者が斡旋したもので、当時の大人・・・特に中国大陸や南方戦線で戦った将兵には公然のものでした。彼女達の移動や医療に身の回りのお世話は、司令官の指示で楼主や軍医達によって為されたものです。



 




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2019年08月15日

戦争礼讃の過激思想は「経済失政による国民生活の困窮」から生まれる




 【終戦記念日特集5】
  

  戦争礼讃の過激思想 「経済失政による国民生活の困窮」から生まれる








           〜現代ビジネス 8/15(木) 11:01配信〜



 国粋主義は如何(いか)にして台頭したか

 この時期に為ると毎年、太平洋戦争に関する様々なドキュメンタリー番組が各局で放映される。お盆休みで長期休暇と云う方も少なからずいらっしゃると思うが、実家に帰省してこの様なドキュメンタリー番組を見る機会もあるかも知れ無い。
 今年も様々な切り口から日本が太平洋戦争へ突き進んで行く過程を描いた番組が放映される様だが、8月12日に放映されたNHKスペシャル「かくて〈自由」は死せり 〜或る新聞と戦争への道〜」は非常に興味深い内容であった。

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 当番組は、最近発見された「日本新聞」の記事の解析結果を元に、言論界が如何にして戦争に協力的に為って行くかを時系列で追ったものである。「日本新聞」とは、アノ悪名高き「治安維持法」制定に関わった小川平吉氏が創刊した右派系新聞である。
 「日本新聞」は大正デモクラシー期の1925年に創刊され、10年後の1935年に廃刊と為った。創刊当時、「日本新聞」は、自由主義を謳歌して居た大正期に於いて、国粋主義を主張する超少数派の集うカルト的なメディアであった。だが、10年後には、この国粋主義が国民の圧倒的な支持を得る事と為り「創刊時の目的をホボ達成した」として廃刊する事に為る。

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 一体この10年間の日本に何が在ったのだろうか? と云うのが番組の趣旨であった。この番組では、浜口雄幸首相(当時)が東京駅で狙撃され重傷を負った1930年11月14日を歴史の転換点と捉えて居る様に感じた。
 浜口雄幸は、1930年1月21日にロンドンで開催された軍縮会議で軍の反対を押し切り軍縮条約に調印した。これに憤慨した右翼活動家によって浜口首相は狙撃され死去した。その後「血盟団事件(井上準之助蔵相の暗殺)」「5.15事件(犬養毅首相らの暗殺)」等の右翼活動家らによるテロ事件が頻発し政党政治は瓦解して行く。そして政党に代わって、その後の日本の政治を担って行ったのが軍部であった。


 「日本新聞」を中心とした右系メディアは、政党政治を批判すると同時にテロリスト等に対して同情的な記事を頻繁に掲載する事で世論を転換させた。そして、この右系メディアを上手く利用しながら、世論を好戦的に誘導し政治の主導権を奪ったのが軍部であった。
 即ち、自由主義の象徴であった政党政治の崩壊が右翼活動家のテロを契機に加速し、テロ行為を同情的に描写した右系メディアの世論誘導によって、日本は戦争への道を突き進む事に為った・・・と云うのが番組の骨格であったと思われる。

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                 2.26事件

 そして、その一翼を担ったのが「日本新聞」であり「日本新聞」創刊時に創刊趣旨に賛同した言論人・政治家・軍人の中から戦争を主導した人物が多く輩出されたとされる。


 




 戦争へ向かわざるを得無かった要因

 今回のドキュメンタリー番組は、これ迄存在は知られながら実物が発見されて来なかった「日本新聞」のバックナンバーを発見し、その内容を詳細に分析した点が「売り」だった様だが、内容的には古典的な歴史の教科書の解釈を超えるものでは無かった。

 筆者は、平成のデフレ問題を考察する為に、過去におけるデフレの事例と比較する必要があると考え、戦前昭和の経済に付いて調べた事がある。(『脱デフレの歴史分析 〜「政策レジーム」転換で辿る近代日本〜』というタイトルで藤原書店より上梓させて頂いた)
 そこで、当時出版された雑誌や書物を読み、そして、当時の経済統計を用いた定量分析を行ったが、日本が戦争へ突き進まざるを得無かった要因をマクロ経済の側面から観た場合に、これ迄は見過ごされて来た重要なポイントが幾つか有る事が判った。その幾つかを簡単に指摘すると以下の様に為る。

 1) 大正デモクラシー期の自由主義的社会が崩壊したのは、歴史的には「悲劇のヒーロー」として同情的な扱いを受ける立憲民政党内閣の浜口雄幸首相・井上準之助蔵相の下で断行された「金解禁」が齎(もたら)した深刻なデフレであった。
 その意味で、凶弾に倒れたとは言え、両者の犯した経済失政の影響は深刻だった。彼等の経済失政の帰結は、ドイツのワイマール共和国の経済失政がナチスドイツの台頭をもたらした構図とホボ同じである。

 2) その後、経済失政による政権交代を請けて誕生した立憲政友会の犬養毅首相・高橋是清蔵相の下でのリフレーション政策(高橋財政)は、現在の文脈で云うと、典型的な「財政拡大+金融緩和」のポリシーミックスであった。この中で、金融緩和として日銀による国債引受は、今の「量的緩和」に近いものであった。
 但し「高橋財政」期のリフレーション政策は、経済政策の「レジーム転換」による人々の期待転換の効果が大きかったので、実際にはそれ程大きな金融緩和には為ら無かった。それ処か、日銀による国債引受実施から約半年後には、国債の市中売却(今で言う処の「出口政策」)を始めて居る。
 因みに、当時の日本は「ゼロ金利」状態にも為ら無かった。同時期の米国FRBはゼロ金利・量的緩和を実施したが、当時の日銀はゼロ金利迄は踏み込まずに済んだ。

 3) 但し、昭和恐慌によるデフレ、特に商品価格の暴落によって、養蚕業を中心に農村部の困窮は容易には払拭出来無かった。農村部は軍部に取っては兵力の供給源であったが、同時に当時の農村部は恐慌による需要収縮によって多くの「人口余剰」を抱えて居た。
 1931年9月に勃発した満州事変、それに続く、中国本土での戦争は、軍部に取っては「戦争ビジネス」を通じた既得権益の獲得・擁護、農村部に取っては「人口余剰」の雇用対策に為った可能性がある。もしそうだとすれば、リフレーション政策の行く先が、最早「大正デモクラシーの復活」では無かった事は自明だった様に思える。

 4) 満州事変は「デフレ政策の立憲民主党」から「リフレ政策の立憲政友会へ」のレジーム転換を民衆に強く印象付けると云う意味でリフレ政策を補完する効果が大きかった可能性が否定出来無い。
 そして、その満州事変の戦況を報道する新聞等のメディアは、満州事変を機に発行部数を飛躍的に増加させて居り、メディアは商業上も軍部と「共存共栄の関係」に在った事が容易に想像出来る。当時は、中央紙だけでは無く地方紙も発行部数を大幅に増やして居る。しかも、群馬や長野・山梨と言った養蚕業が盛んな県での新聞販売店売上高が多かった点も特徴的である。その意味で、メディアが戦争を肯定的に報道する点もビジネス的には合理性を有すると思われる。

 5) 高橋是清蔵相は1935年には、リフレーション政策からの出口を模索して居り、国債発行の減額等を構想して居た。だが軍部とメディアに取っては、戦争は言わば擁護すべき既得権益であり、更には満州を新しい経済体制の実験場と考える「革新官僚」に取っても同様であったので、実行のプロセスは兎も角阻止すべき対象であったのだろう。

 歴史に「if(もし)」があるなら、立憲民政党政権下でリフレ政策が実行されて居れば、場合に依っては大正デモクラシー期の様な自由主義が復活して居たかも知れ無い。逆に云うと、軍人が「侮蔑(ぶべつ)の対象」と為って居た大正デモクラシー期は、軍部に取っては絶対に復活させては為ら無い局面であり、この軍部の意向が、政権交代を実現したい立憲政友会の利害と一致した処に戦争の悲劇の遠因があったと思われる。
 そして、立憲政友会のリフレ政策と同時に実行された満州事変によって、軍部は「侮蔑の対象」を脱し、政治の主役に躍り出る事に為った。


 




 経済政策の失敗がもたらす悲劇

 もう一つ興味深い点は、1935年に「日本新聞」が廃刊に為って以降の右派の動向である。確かに、右派が「退廃的・堕落的」と見做し嫌悪して居た大正デモクラシーの自由主義は消滅したが、純粋思想的な右派の抱く「アジアの連帯・解放」に向けて世の中が進んで行ったかと言えば、必ずしもそうでは無い側面がある。

 石原莞爾が絶望した様に、満州国は新興財閥と関東軍の利権搾取の場と化す等、アジアへの進出は、右派の崇高な思想を実現すると云うよりも、利権ビジネス展開が優先される様に為った。
 例えば、アメリカが、当初は満州の共同統治を提案して居た事等を考えると、太平洋戦争も日米経済戦争の一種として見る事も可能かも知れ無い。そして、そう云う展開を忸怩(じくち)たる思いで観て居た国粋主義者も多く居たと聞く。

 以上の様に、大正デモクラシーから太平洋戦争へのプロセスに於いて、右派と言われる人々の立ち位置も様々であり、これ等の人々の主義・主張の変遷を追えば追う程状況が複雑化して好く判ら無く為る。だが、既得権益、若しくは利権の獲得競争と云う経済の視点から観ると、戦争へのプロセスは可なり合理的に説明出来るのではないか。

 最後に当番組には、小林八十吉氏と云う長野県の小学校の音楽教師が登場する。小林氏は、大正デモクラシー期には自由主義的な音楽教育を率先して行って居たが、昭和恐慌による地元養蚕業の壊滅と農村の貧困を観て国粋主義者に転向、小学校教員を辞し右翼思想の普及に奔走する。
 庶民が、経済的困窮に直面して過激思想に傾倒して行く典型例だが、番組中、彼の子息が残された日記を読むシーンで、終戦前4日から日記が破り捨てられて居る事を発見し絶句する。その理由は不明だが、本人が終戦間際に自分の転向が間違って居た事を知ったとすれば悲しい限りである。

 太平洋戦争の一番の教訓は、経済政策の失敗が国民を困窮される事が国家の存続を危うくする程の破滅的な影響を齎(もたら)す事である。その点を改めて認識させられた番組であった。


        安達 誠司   以上



 



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世界一の富裕国のルクセンブルク 何故高級車も高層マンションも無いのか


 

 世界一の富裕国・ルクセンブルク 何故 高級車も高層マンションも無いのか

 
        〜2019上半期BEST5 文春オンライン 8/14(水) 17:00配信〜


 




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          地域エコノミストの藻谷浩介氏 コピーライトマーク深野未季/文藝春秋


 〜2019年上半期(1月〜6月)文春オンラインで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。国際部門の第1位はこちら!(初公開日 2019年4月25日)〜/span>


 「超高齢化社会・少子化の日本はこれからどうやって食べて行ったら好いのだろう」「これから地方都市は次々と崩壊する?」

 ・・・漠然とした将来への不安を抱える日本社会に対して、ルクセンブルクがモデルケースとしてヒントに為ると云う。最新刊『 世界まちかど地政学NEXT 』を上梓した地域エコノミストの藻谷浩介氏が語る、世界の中の日本とその未来とは?

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 国民一人当たりのGDPが日本の2.6倍もあるルクセンブルク

 ・・・ルクセンブルクと云うと、ドイツ、フランス、ベルギーに囲まれた小国で、日本人からすると馴染みの薄い地域です。何故この国に注目して居るのでしょうか?

 藻谷 ルクセンブルク大公国は、佐賀県程度の広さで人口は60万人程の極小国ですが、国民一人当たりのGDP(国内総生産)は10万ドル超、詰まり日本の2.6倍以上もある世界一の富裕国です。
 今から30年程前、私が未だ大学生の頃に訪れた時は鉄鋼業の国でした。普通なら、イギリスのバーミンガムの様に鉄鋼中心の都市は凋落の一途を辿る筈が、何時の間にかルクセンブルクは金融で浮上した。今や、ロンドンやフランクフルトに次ぐ、一大金融センターに為って居るんですね。


 ・・・何故そんな事が可能に為ったんでしょうか。

  藻谷 不思議ですよね。何処かの本に理由が書かれて居るのかも知れませんが、私は本の前に「現地を読む」と云う主義です。その場を自分で訪れて「何があるか」そしてそれ以上に「本来ある筈なのに無いものは何か」を観察するのです。

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 ルクセンブルクの中心地に無かったもの

 藻谷 私は名探偵ホームズや怪盗ルパンのシリーズを多年愛読して居るのですが、ホームズもルパンも同じ方法で推理をします。警察が「現場に何があったか、何が落ちて居たか」からシナリオを組み立てては失敗するのに対し、ホームズやルパンは「そう云うシナリオなら、他にアレも落ちて居る筈なのに、現場には見当たら無い。何故有る筈のものが無いのか。とすれば本当のシナリオは何か」と考える訳です。

 と云う事でルクセンブルクの中心を歩いてみたのですが、先ず高層マンションがありません。富める都市はNYにしろシンガポールにしろ、或はお台場でも、街の中心に超高層マンションが林立して、その上でワインを飲みながら我々の様な下々の者を見下ろして居る人達が居るものですが(笑)、ここはヨーロッパの古き良き田舎町と云う風情でスノッブ感ゼロ。
 美味しそうなレストランは少ないし、賑やかなお店は全然無くて空き店舗が目立つ程です。しかも、都市の繁栄には必須の筈の交通のアクセスも凄く悪い。行きは近くのブリュッセルからは電車でも車でも3時間も掛かり、帰りはLCCが飛んで無いからこのご時世に正味2時間のフライト片道6万円も懸りました。そんな中で何故金融ハブとして成り立って居るのだろうと。不思議ですよね。
 

 ・・・所謂富裕都市に有るものが「無い」訳ですね。

 藻谷 小奇麗な街を歩きながら、高級外車を見無い事にも気付きました。「俺は金持ちだぜ」って見せ着ける様な〈華麗なるギャツビー〉や成金らしき人の姿も殆ど居ない。表向きには、極普通の静かで上品な地域にしか見え無いんです。
 居住者の45%は外国人で、特にポルトガル人の労働者が多いそうなのですが、単純労働者が作業して居るのを見ないし、ホームレスも寝て居ない。そうやって「不在」のものを洗い出して行くと「格差を最小化する」事で金融業と社会秩序を成り立たせて来たこの国特有の知恵が見えて来ます。

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 ルクセンブルクが世界一の富裕国に為った仕組み

 ルクセンブルクの稼ぎ手は「放牧された金融業」です。金融と云う暴れ馬を野放にしつつコントロールして、その「上がり」を取って居る。小さな独立国なので、EUの規制の範囲内とは言え、ロンドンやフランクフルトが為れ無いオフショア市場に為れる・・・詰まり規制を緩めて怪しい資金も含め大量のお金を呼び込んで居るのです。
 言わば、ドル圏のケイマン諸島みたいなポジション取りをユーロで遣って居る。スイスにも一寸似て居ますが、スイスは独自通貨なので、ユーロ圏のルクセンブルクの方がEUから資金を集め易いと云う強みもあります。

 因みに日本もルクセンブルクに対し、2017年ですと6000億円程の第一次所得黒字(金利配当を得た事による黒字)です。リスクの高いオフショア市場で大儲けして居るルクセンブルクに、日本企業も投資してそれだけのお零れを得て居る訳です。
 とは言え、金融関係者は国民の1割も居ません。彼等だけが葉巻をふかして外車に乗って、高層マンションを建て捲くればどう為るか? 目に見える格差が拡大して社会秩序が崩壊しますよね。小国程互いの格差が見え易いので特に配慮が必要です。


 ・・・格差を最小化する仕組みを意識的に作って来たと云う事でしょうか。

 藻谷 その通りです。帰国してから調べてみたら、格差の大小を示すジニ係数が小さい。移民層もそれ為りの水準の所得を得て居るんですね。
 移民が非常に多いのに貧困が表に見え無い地域として代表的なのが、シンガポールとカナダとルクセンブルクでしょう。端的に云うと、シンガポールは他宗教排斥や人種差別の言論を封じる事で、カナダは福祉国家として移民にも平等に教育機会を与える事で、そしてルクセンブルクは富裕層が富を見せ着け無い配慮によって、不満が生じ難くして居ます。それは最良のテロ対策にも為って居る事は言う迄もありません。

 そんなルクセンブルク人は、歴史の経緯の中でフランス化したドイツ人です。日常語はドイツの方言、食べ物もドイツ料理ですが、例えば法律用語はフランス語。文弱なフランスにも野暮なドイツにも為り切れ無いと云う国民意識は、第一次大戦を経て強まり先の大戦でナチスに蹂躙されてから更に高まった。
 でもフランスとドイツが喧嘩をする度に、ドチラかに侵略されて来た歴史があり、単独で安全保障は無理。ではどうしたかと云うと、ベルギーやオランダと手を結んでEU形成の中核に為るんですね。EUの中にフランスとドイツを収め仲良くさせる事で、自国の独立を守り抜いたのです。


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 大国の狭間に在る ルクセンブルクと極東の島国日本

 ・・・大国の狭間に在ると云う地政学的な位置を踏まえ、対応した戦略を取って来た訳ですね。極東の島国日本にも参考に為る部分が多そうです。

 藻谷 そうなんです。小国と言え度学ぶべき点が幾つもあります。第一に、製造業中心の堅実な国柄だったのに金融でも稼ぐ国へと変化した事です。得意分野を一つに決め着け無いと云う姿勢は、日本の各県にも参考にして貰いたい。
 第二に、非常に強い独立意識がありながら、自国中心主義を辞めた事。EU統合の核と為り独仏を和解させる事で、自国の安全と国外マーケットを確保した。
 実は、周りの国が平和な程国の経済が潤う構造は日本も同じです。我々は何も武器を売って儲ける国じゃ無いのだから、例えば中国やインドが戦争をしても何の得にも為ら無いんです。数字は正直で、アジアが安定する程日本の国際収支は改善します。2017年の日本の経常収支黒字は20兆円を超えバブル期の倍以上なのです。一番のお得意様はアメリカで日本が13兆円の黒字でしたが、2番目の中国(香港含む)からも5兆3000億円も儲けさせて頂いた。3位の韓国からも2兆7000億円の黒字を稼いで居ます。


 ・・・何と、韓国がトップ3のお客様に入って居るんですね。

 藻谷 だから、もう少し大事にした方が好いんですよ(笑)。因みに台湾からは2兆円位、シンガポールからは1兆5000億円位稼いで居ますが、黒字の稼ぎ手はハイテク部品や機械・金融・観光なので、もしアジアが紛争地帯に為ればこうした黒字は吹っ飛んでしまう。
 2018年の訪日外国人数は3000万人を超えましたが、4人に1人が中国人で4人に1人が韓国人です。要するに半分は中国と韓国ですので、彼等の景気が好い程日本も儲かります。兎に角周りが繁栄した方が自分も儲かると云うのが、日本とルクセンブルクの共通点です。自力では安全保障の出来無いルクセンブルクが独自の立場を保ちつつ周辺国の関係を平和へと仕向け、その中で世界1の豊かさを享受して居る事に、日本はもっと学ぶべきでしょう。

 因みにシンガポールは将にルクセンブルクの真似をして居て、ASEANを作りその中心に入って、マレーシアとインドネシアを仲良くさせる事で安全と経済的繁栄を作り出しています。もっと云うと、インドネシアとマレーシアの富裕層にドンドン自国内に不動産投資をさせて家を買わせる事によって、シンガポールが攻撃対象に為ら無い構造を作って居るんですね。
 ルクセンブルクもヨーロッパ中の人が投資して居るから、当然攻撃ナンてされません。小国程国際関係における地政学的な勘が強く、国内格差にも十分に配慮して産業振興を進めて居るんですね。


 ・・・新著の中で、21世紀の地政学は軍事力等のハードパワーでは無く、経済力・文化力・民族意識等のソフトパワーの方が大きな役割を果たすと云う指摘は新鮮でした。

 ルクセンブルクに無くて日本には在るもの

 藻谷 21世紀に於いて、軍事力による物理的な占領って意味がありません。例えばヒトラーみたいなのがもう一度出て来て、ルクセンブルクやシンガポールを占領しても何も得るものは無い。そこに有るお金は逃げて行くだけで投資は呼び込め無い。大戦後のヨーロッパが植民地を次々と手放したのは、全然儲から無くて意味が無かったからです。そんな事より経済的に進出して投資だけした方が、住民の面倒看なくて済むので楽ですよ。

 日本は自前で安全保障が出来無いから主権国家じゃ無い、アメリカの植民地みたいな国だと云う声もありますが「植民地」と云う割には、アメリカから年間13兆円も黒字を稼いで居て随分儲かって居る訳です。
 詰まり経済力の様なソフトパワーが21世紀の国際社会ではトテモ重要です。中韓台星(星はシンガポール)の4国からだけで年に12兆円近くも黒字を稼いで居る日本が、そんな数字も確かめずに自分の側から排外主義的なスタンスを執る様では「ソフトパワーの地政学」の時代に生き残れません。

 これ迄世界105カ国を巡って来て改めて思うのは、今日本人の自己認識と世界から見た時の日本が激しくズレて来て居ると云う事。日本は「これから食べて行け無く為る危機」には無いし、世界の中で「誇りを失って居る国」でも無い。
 世界中の観光客が日本に来たら大喜びです。ニューヨークで好いホテルに泊まったって、日本のお持て成しやサービスに比べたら極めて劣るのが現実です。夜、東京の街を歩いたって、暗めの街路でも落ち着いて静かで安全ですから。

 最後にひとつ。ルクセンブルクには無くて日本に有るものはコンテンツ発信力です。ルクセンブルクは地形的には一寸金沢に似た処のある城塞都市で、中心街の規模も似て居ますが、ルクセンブルクに兼六園や武家屋敷や茶屋街は有りません。加賀料理も無いし「金沢21世紀美術館」も無い。
 ルクセンブルク人が金沢を見たら「ナンと多くの独自の文化コンテンツを持って居る街だ」と思うでしょう。ソモソモ日本全体に、30個〜40個のルクセンブルクが在っても可笑しく無い。そんなポテンシャルを日本の各地方都市は秘めても居ます。今、日本のソフトパワーの等身大の実力はどれ程のものか、地政学を踏まえてドンな振る舞いをする事が日本の繁栄を呼び込むのか、本書が日本の自画像を認識し直す切っ掛けに為れば嬉しく思います。



 藻谷浩介(もたに・こうすけ)1964年山口県生まれ。地域エコノミスト。鞄本政策投資銀行参事役を経て、現在、鞄本総合研究所調査部主席研究員。東京大学法学部卒業。米コロンビア大学経営大学院卒業。
 著書に『実測!ニッポンの地域力』『デフレの正体』『世界まちかど地政学』共著に『里山資本主義』(NHK広島取材班、『経済成長なき幸福国家論』(平田オリザ氏)対談集『完本 しなやかな日本列島のつくりかた』等がある。







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 2019年上半期 国際部門 BEST5

 1位:世界一の富裕国・ルクセンブルクには、何故高級車も高層マンションもないのか
 https://bunshun.jp/articles/-/13268

 2位:韓国政府は何故「日韓関係」の深刻な状況を認識して居ないのか
 https://bunshun.jp/articles/-/13267

 3位:『まんぷく』が描か無かった「台湾の娘」と詐欺師に狙われた1400万円の遺産相続
 https://bunshun.jp/articles/-/13266

  4位:「文在寅大統領は徴用工にお金を渡せ!」被害者団体の訴えが韓国社会で黙殺されて居る
 https://bunshun.jp/articles/-/13265

 5位:日本人が知ら無いアリアナ・グランデ「文化の盗用」批判の背景とは
 https://bunshun.jp/articles/-/13264

      「文春オンライン」編集部  以上


 







2019年08月14日

戦時中女性アナに為った19歳 何故彼女は終戦前に「敗戦」を知って居たのか




 【終戦記念特集4】


 戦時中女性アナに為った19歳

 何故彼女は終戦前に「敗戦」を知って居たのか



 




 〜NHKの放送局でラジオアナウンサーをして居た女性達。東京をB29の空襲が襲う中、一体彼女達どんな日々を過ごしたのか。そして8月15日の玉音放送の放送をどう迎えたのか。当時を知る女性に話を聞いた〜


    〜Kota Hatachi 籏智 広太 BuzzFeed News Reporter, Japan2019/08/14 06:00〜




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         NHKラジオアナウンサーだった頃の武井照子さん


 太平洋戦争末期、ラジオのアナウンサーをして居た女性達が居る。男性の多くが出征し、空襲が激しく為る中で、彼女達は何を思い、マイクと向き合って居たのか。そして、どう戦争の時代を生き抜き、敗戦の日を迎えたのか。1944年、19歳で日本放送協会(NHK)に入局した或る女性の半生を聞いた。


 「私はね、ラジオと同い年なんですよ」

 そうBuzzFeed Newsの取材に話し始めたのは、武井照子さん。1925(大正14)年生まれの94歳だ。元アナウンサーだからこそ。その声は今も淀み無く、一言一言が聞き取り易い。ラジオっ子だったと云う武井さんは、自らの幼少期を語り始めた。

 「小さい頃は、夕方に遣って居た『コドモの新聞』と云う番組を噛り付く様にして聞いていたんです」

 未だ、戦争も始まって居なかった幼少期。大正ロマンの残り香が漂う自由な時代だった。「実に伸び伸びして居ましたね。し過ぎて居たかも」
 今の埼玉県羽生市生まれ。実家は足袋屋で、店の女将をして居た祖母が東京に用事がある度買って来て呉れたチョコレートが楽しみだった。5人兄妹の真ん中の一人娘で「女の子らしくは無かった」と笑う。雑誌も『少女倶楽部』よりも、兄や弟達が買った「少年倶楽部」が好きだったと云う。人気漫画『のらくろ』のテーマソングは、今でも歌える。明治時代の軍歌の替え歌で、作品と共に流行して居た。


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       ♪黒いからだに大きな目。陽気に元気に生き生きと・・・


 『少年倶楽部』の♪のらくろは、何時も皆を笑わせる。戦に出ればその度に、働き振りも目覚ましく。ドンドン増える首の星。末は大佐か元帥か・・・「ナンで覚えて居るんだろう。皆で声合わせて歌ってたからかな」歌い終えると、武井さんはまた笑った。

 大好きだった夏休み

 毎年、夏は一際楽しみな季節だった。お祭りが、その始まりの合図だ。町内毎の神輿はキラキラと飾り付けられ、揃いの浴衣を着た若人達が引っ張る様子は、兎に角綺麗だった。夜店に並ぶのは金魚、水ヨーヨー、針金細工、カルメ焼き……子供心を擽るものばかりだった。
 「でも、お好み焼きだけは絶対ダメと母に言われたんです。丁度疫痢が流行った時だったから……疫痢に為ると避病院(隔離病棟)に入れられて、誰も看て呉れ無いまま痩せて死ぬんだと聞いて、怖くって食べられませんでした」

 夏にはもう一つ、楽しみがあった。茨城の大洗にあった別荘だ。「毎年夏祭りが終わると、東武電車と汽車、オンボロバスを乗り継いで行くんです。目の前が海で、朝起きて一寸顔を洗ったら突っ走る。ひと月そんな所にズッと居るんですから、本当に楽しかったですね」
 中でも、別荘に集まって居た親戚の大学生達と過ごす日々が忘れられ無いと云う。一緒に映写機でアメリカの喜劇映画を見たり、チャイコフスキーのレコードを流したり。流行のダンスを教えて貰ったり、ボートで海に繰り出したりーー夜は蚊帳を吊って、怖い話を聞かせて貰った。1ヶ月間海際で過ごすから、新学期は真っ黒に焼けて登校して居たと云う。

 「非国民」と呼ばれて

 熊谷の女学校に入ってからは、時偶(ときたま)、東武電車で東京に出て映画や芝居を見に行く事もあった。
お気に入りだったのは、ハリウッド女優のディアナ・ダービンだ。その歌を一生懸命覚えながら「英語ってとっても綺麗だなって。将来は英文科に行こうと思ったんです」
 そんな「キラキラ」として居た武井さんの少女時代にも、戦争の足音は段々と近付いて居た。4年生の夏休み、大洗から学校に呼び出されたのだ。
 「学校に戻ると、教室で学年主任の先生から『この非常時に、海水浴に行って居るとは何事だ。非国民だ』と言われたんです。その言葉がとっても応えちゃって。どうして、そこまで言われ無きゃいけないのかって……」


 




 そのまま東京の実践女子専門学校(今の実践女子学園)に進学。英語を学びたいと云う気持ちは最早諦めざるを得無かった。丁度時代は太平洋戦争が開戦する直前で、英語が「敵性語」と見做される風潮が増して居たからだ。
 「選んだのは国文科。本当は英語を遣りたかったけれど、排斥が厳しく為って来て居たし、行きませんでした」

 父親が反対したアナウンサー

 戦況は、年を経る毎に悪化して行った。最早ハリウッド映画を楽しむ事は出来無く為った。食べ物や衣服は配給、切符制に。学生達は工場等で勤労奉仕をさせられる様に為った。
 「空気は急では無く、徐々に徐々に変わって行く感じでしたよ。贅沢は敵だとか。パーマネントは止しましょうとか、立て看板が掛かる様に為って。そう云うのに段々慣らされて行く。そう云う事って、あるじゃないですか」

 そんな状況でも笑顔は忘れ無かった、武井さんは云う。当時、勤労奉仕先の工場で写した記念写真では、皆明るい笑顔を見せて居る。
 「戦時中に皆ニコニコして居ると云うのは可笑しいかも知れませんけれど、女の子ですからね。普段はニコニコして居ますよ。一日中辛い顔をして居た事なんて無いですから」
 しかし、大きな力には抗い様が無かった。戦争の影響で、本来は1945年3月に卒業する筈だった武井さん達は、半年の繰り上げ卒業を選択させられた。

 「教師に為りたかったけれど、そう出来無い状況で。丁度放送員の募集が出て居たので、アナウンサーに為ったら私でも役に立つかなと思ったんです。父親はこんなに危ない時に東京に居るなんて、と反対して居ました」

 女は男の「代わり」だった

 「お国の為に何か出来る事があるなら」と云う気持ちから、武井さんはアナウンサーの道を選ぶことにした。「入ってから最初に在ったのは、アナウンサー学校での研修でした。本当は3ヶ月の筈なのだけれど、私達は1ヶ月半しか無かったんですよ」
 当時、日本放送協会の本部が置かれて居た東京放送会館は内幸町にあった。武井さんは兄や叔父と住んでいた目黒の家から、省線(今のJR)を使って新橋迄通勤をして居たと云う。ビルには防空の為に迷彩が施してあり、縞模様みたいに為って居た事を覚えている。食糧事情は逼迫して居たが、局内の食堂は開いて居た。

 「食堂にあったのは、うどんの乾麺。私達は『ちぎれうどん』って呼んでいたんです。長いんじゃ無い、捨てちゃうような折れたヤツだから。味とかはアンマリ覚えて無いですけれど、それでも食べるものがあるだけ、マシですよね」

 東京で採用された同期の女性アナウンサーは13人。一つ上の代までは、女性が一人居るか居ないかだったが、若い男性の多くが徴兵されて居た時代だ。
 「戦争中はね、女性は男の代わりだったの」と武井さんは云う。それでも、ニュースや空襲警報を任されたのは男性アナウンサーだった。
 「所謂、大本営発表とかニュースは遣らされ無かった。女の人が遣ると、堂々と雄大に出来無いから。キッと、軍からの指示でしょうね」


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 戦地に向けて届けたニュース

 当時のラジオは、全てが戦争一色だった訳では無い。音楽や物語、ドラマ等の「慰安番組」も多く放送されて居た。武井さんはそうした番組と共に、海外向けの短波放送を担当して居たと云う。
 「短波放送は夜中にも遣ら無きゃいけ無いので交代制で。南米向けとか、戦地向けとか、色々なものがあったんです。東京の新聞に書いてあるニュースを読んだりして居ました。政治的では無く、家庭的なニュースばかりでしたね」
 真夜中にひとり、スタジオから地球の反対側に向けて語りかけるーー「本当に伝わって居るのかな」と思って居たと云う。

 「後は、ドラマや子供番組。この頃は生放送でドラマもやってましたから、そのタイトルを読むことも。子供向けのお話番組は『爆弾三勇士』とか戦争のものばかり。児童劇団もありましたが、子供が疎開で少なくて、集めるのが大変だったそうですよ」

 制服があった訳では無く、もんぺ姿で働いて居た。おしゃれ盛りの19歳だった武井さんは、どう感じていたのか。
 「皆好きで着て居た訳じゃ無い。でも、派手な格好は出来ませんでしたから、着物を仕立て直してブラウスにするとか、そう云う工夫はしましたね。後、男の人は殆ど国民服でしょう、男性アナウンサーが『ナンだこれ、ミットもねえや』と言っていました」


 




 空襲が激しく為っても

 研修を終えた頃、東京が初めて本格的な空襲に襲われた。1944年11月24日、80機のB29が都内各所を爆撃したのだ。
 「局内には小さなアナウンスボックスがあって、そこで和田さんが初めての空襲警報をヤッタんです。窓から顔だけ見えたんですが、こっちはどう為るかと思って、本当、胸が痛く成程の気持ちで見て居たんですよね」
 和田さんとは、後に玉音放送を担当する事に為る、和田信賢アナウンサーだ。「そうすると、とても穏やかな声で『空襲警報発令、空襲警報発令』と……。落ち着いて、と呼び掛ける様な放送で、本当にホッとしたんです。和田さんって、凄い人だなって感じましたね」


 この日を皮切りに、東京への空襲は激しさを増して行く。当初は局内から警報を報じて居たが、その内、アナウンサーが軍の司令部に常駐する様に為ったと云う。武井さん自身も、1945年5月23日の空襲で目黒の家を焼け出された。
 警報を聞いて慌ててリュックに詰め込んだのは、配給の米と兄の大切にして居た本。防火水槽の水を被り目黒川沿いに逃げ隠れた。

 「朝に為って戻ると、家は無く為って居た。仕方無いから、局に行く事にしたんです。省線も動いて居ないから歩いてね。そしたら『オオ、お前も焼けて来たか』と言われて迎えられて。今日はアッチの家、明日はコッチの家が遣られる、そんな時代でしたからね」

 家族には無事を連絡する事が出来無かったが、放送を通じて武井さんの声は届いて居たと、後に為ってから知った。


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 「美しかったB29」そして空襲

 しかし、災難は続く。2日後の5月25日、今度は放送会館の傍が空襲にあったのだ。

 「宿泊所に為って居る病院のベッドに居たんですが、窓から見たらアッチコッチ全部メラメラと燃えて居て。それで、同僚達と一緒に消火活動をしたんです。下火に為ってから部屋に戻って、お互いの顔見たら、煤で真っ黒けに為って居るのね。笑っちゃって」

 翌朝、地方各局と本部を繋いで状況を報告する「ライン送り」で「東京は酷い空襲でしたけれども、放送会館は無事でした」と伝えられた。「私達が会館を守ったんだ」と云う誇らしさは、今も胸に残って居るという。
 そんな武井さんの手元には、当時の罹災証明書と給料明細がある。「戦時手当」「銃後後援会費」と云う文字が、当時の特異性を浮かび上がらせる。過酷な状況の中で、死を意識した事はあったのか。

 「無いですね。兎に角、綺麗なんですよ。病院の建物には蔦の葉が絡まって居て、チラチラ燃えて居て、道路の真ん中には紙クズの燃えかすが川みたいに流れる。恐怖を感じるのでは無くて、それを超えてタダタダ綺麗なんです」
 「現実だと言っても、物凄い空気の中に居るからね。例えばB29が空を飛ぶでしょ。ジュラルミンの物体が浮かんで居るのが見える訳ですよ。サーチライトに照らされるとそれが光るわけね。ヤッパリ綺麗だって思って居ましたね」


 8月14日、敗戦を知った

 1945年8月14日のことだ。「女子だけ此処に来なさい」女性職員達が、アナウンス室に集められた。呼び掛けたのは、浅沼博アナウンサー室長だった。浅沼室長は数人を前にして、こう語り掛けた。「日本は、負けました」と。「とっても静かに仰いましたね。普段からお茶目で面白い、何時もフザケテ居た方だから。負けたよと言われても。どう考えて好いか判ら無いじゃないですか」
 更に、こうも言ったと云う。「こう云う時には、必ず反乱軍が起きる。その時に君達がピストルを突き着けられたら、君達は自分の身を守りなさい。読めと言われたら読んで好いんだよ」

 目黒を焼け出されて以降、羽生の実家から通勤をして居た武井さんは、家に帰ると父親に日本の敗戦を伝えた。父親からは、「そうか」と云う一言だけが返って来た。「父は判って居たのかも知れませんね。私達は負けるなんて事、考え無い様にされて居たけれど」


 



 
 誰も、何も言わ無かった

 翌日、8月15日は、太陽がジンジンと照り着ける様な夏の日だった。出社はせず、実家でラジオに耳を澄ませた。セミの鳴き声だけが鳴り響く中、空襲警報で聞き慣れた「和田さん」の穏やかな声が聞こえた。玉音放送だった。

 「ラジオの前に集まって聞いて居た人は、誰も何も言いませんでしたね。何も」

 既にその事実を知っていた武井さんは、粛々とその現実を受け止めるしか無かった。何故敗戦と云う大きな事実を、女性達に伝えたのかーー後に為って浅沼室長に聞くと、こんな言葉が帰って来たと云う。
「君達を、助けたかったからだよ」浅沼室長が言って居た様に、放送会館には8月15日未明に反乱軍によって包囲された。反乱軍側は玉音放送の阻止と声明の放送を要求したが、職員の機転で最悪の事態は避けられた。

 あの時代とは、なんだったのか

 戦後、GHQの指導下の下でアナウンサーを続け、1982年迄NHKで働き続けた武井さん。今「あの時代」を振り返り、何を思うのか。聞くと、武井さんはサッパリとした口調でこう語った。

 「これも巡り合わせだと思います。戦争があったから一年繰り上げ卒業に為って、先生では無くアナウンサーに為ったのだから」
 「私達は兎に角、空襲が頻発する中で夢中に為って仕事をして居た。自分が遣れることを遣って居ただけ。国の為に、必死で働いて居ただけですよね」


                   以上


 



 



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「戦争の死者」とは誰か? 今日本人が考えるべき重要な問題




  【終戦日記念特集3】



 「戦争の死者」とは誰か? 今日本人が考えるべき重要な問題


 



       
          〜現代ビジネス 8/14(水) 10:00配信〜




 「死者」を思う季節

 日本人は夏に為ると「死者」に付いて思わざるを得無く為る。何故ならそれは「お盆」と「終戦」と云うレベルが異なる二つの〈行事〉が真夏に行われるからだ。しかし、現在の私達は、異常気象による灼熱の下で、十分に死者に思いを巡らせる事が出来て居るだろうか。

 古来日本では、仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)から派生した祖霊供養である「お盆」が、新暦の7月に、或は旧暦に8月に行われて来た。今では「盆踊り」も本来は、死者の霊を慰める為、共同体毎に行われるものだった。家々では、迎え火を焚いて先祖の魂を迎え、送り火と共に祖霊を送る。又麻幹(おがら)にキュウリやナスビを刺した「精霊馬(しょうりょうま)」が、お盆にあの世とこの世を行き来する祖霊の乗り物として供えられた。
 現在公開中の映画『天気の子』にも、迎え火と精霊馬が印象的に映し出される。『天気の子』は間違い無く、夏のお盆を扱った映画なのである。

 1945年の8月、6日に広島、9日に長崎に原爆が投下された。そして15日には玉音放送が流れ、日本人は「敗戦」を実感した。アレから74年が経ち、時代は昭和から平成、令和へと移った。そして今、8月の6日と9日と15日は、記念日や祈念日として思い起されるものの、歳時記の一項目に過ぎ無く為ったかの様でもある。

 加藤典洋『敗戦後論』の問題提起

 今アノ戦争以来、隣国との関係が厳しい状態にある。にも関わらず、或は逆にその為なのか、戦争の死者に付いて正面から向き合う事を、日本人は避けて居る様に感じられる。
 令和元年の現在「太平洋戦争の日本の死者」とは、どの様な死者を指し示すと人々は考えて居るのだろう。そこで問い掛けてみたいのは、昭和の戦争に於ける「日本の戦死者」とは、どの範囲迄を指し示すのか、と云う事だ。

 太平洋戦争に於ける死者の問題に付いては、今から20年程前「日本の三百万の死者を悼む事を先に置いて、その哀悼を通じてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への贖罪に至る道は可能か」と問い掛けて物議を醸し、論争を巻き起こした人物が居る。文芸評論家の加藤典洋である。

 「悪い戦争に駆り出されて死んだ死者を、無意味のママ深く哀悼するとはどう云う事か。そしてその自国の死者への深い哀悼が、例えば私達を二千万のアジアの死者の前に立たせる」(『敗戦後論』講談社・1997年/ちくま学芸文庫・2015年)


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                靖国神社


 『敗戦後論』はその後、所謂「歴史主体論争」を巻き起こした。加藤の問題提起に対して〈左派〉の学者・研究者から、何故「アジアの死者」より「日本の死者」を先んじて考慮に容れ無ければ為ら無いのかと、云う批判が噴出したのである。
 加藤は、憲法9条の「戦争放棄」条項や靖国神社に於けるA級戦犯合祀を巡り、日本の国内で解(ほど)くに解け無い「ねじれ」が起こるのは、300万の日本の死者に向き合って来無かったからではないかと問い掛けたのである。しかし、こうした論法は、ナショナリズムの創出に過ぎ無い、と非難を浴びる事に為ったのだ。

 尚当時、編集者だった私は、この論議を受けて、加藤に『日本の無思想』(平凡社新書・1999年)を書き下ろして貰った。今年の5月、加藤は71歳で逝去したが、その問題提起は今こそ省みられるべきだろう。


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              千鳥ヶ淵戦没者墓苑


 




 靖国神社と千鳥ヶ淵に祀られる「死者」

 戦争の死者に対しては主に「戦死者」と「戦没者」と云う2つの言い表し方がある。それに呼応する様に、戦争の死者を慰霊・追悼、或は顕彰する為の施設が東京に2つ設けられて居る。云う迄も無く「靖国神社」と「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」だ。

 靖国神社は1869年東京招魂社として創建され、1879年に現在の社号に改称された。戊辰戦争や明治維新に功の有った志士に始まり、日清戦争・日露戦争・第1次世界大戦・第2次世界大戦等戦死者を「英霊」として祀って居る。1939年からは府県毎に護国神社、市町村毎に忠魂碑が設立され、靖国神社を頂点とする英霊奉賛のシステムが整えられて行った。

 靖国神社は1978年に、刑死・獄死したA級戦犯14人を合祀。中曾根康弘首相が1985年に戦後初めて首相として公式参拝し、韓国・中国等の反発を招く事と為った。これ以後、首相の公式参拝は中止されたが、2001年8月に小泉純一郎首相が参拝し、近隣諸国から再び抗議を受けた。近年では、2013年末に安倍晋三首相が参拝し、韓国・中国から強く抗議されて居る。

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、1959年に創建された。この墓苑には、日中戦争・太平洋戦争に於いて、海外で戦死した日本の軍人・軍属・民間人の遺骨の内、身元不明や引き取り手が無い等の理由で、遺族に引き渡す事が出来無かった遺骨が納められて居る。(今年5月現在37万69柱を安置)
 又、苑内の六角堂には、昭和天皇から下賜された骨壺に各地の遺骨を少しずつ納め、それを、全戦没者の象徴として安置して居る。千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、政教分離の原則により、特定の宗教宗派に属さ無い施設とされ、毎年5月に厚生労働省主催の慰霊行事として拝礼式が行われる他、8月15日には内閣総理大臣が参列するのが恒例と為って居る。

「民主主義」は戦争の死者を区別するべきでは無い

 加藤典洋は、日本の戦争の死者を「300万人」と数えて「2000万人」のアジアの死者に対置した。しかし今、日中戦争・太平洋戦争の「戦死者」と云う時には、約250万人の軍人・軍属の死者を指す事が多い。それ以外の民間人、空襲や原爆、植民地等で亡く為った約50万人もの死者は「戦災死者」や「一般戦災死没者」等と呼ばれ戦死者と区別される。

 加藤の『敗戦後論』では、アジアの死者やA級戦犯と対比する為「戦死者」と「戦災死者」を分けては居ない。この点に付いては、その後の論争でも批判された。「戦争の死者」に付いて考え様とする時、又靖国神社の祭神を問題にする時、戦災死者の事を避けては通れ無いだろう。
 靖国神社は、日本の軍人・軍属以外の死者も祭神に祀って居る。同神社のホームページには、その様な祭神について、以下の様に記されて居る。

 「軍人ばかりで無く、戦場で救護の為に活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡く為られた学徒等、軍属・文官・民間の方々も数多く含まれて居り、その当時、日本人として戦い亡く為った台湾及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、大東亜戦争終結時に所謂戦争犯罪人として処刑された方々等も同様に祀られて居ます」

 この説明を読んでも、私が靖国神社の祭神に違和感を覚えるのは、普通の民間人が祭神に含まれて居ない事だ。日中戦争・太平洋戦争では「国民総動員法」(1938年)が制定され「一億玉砕」のスローガンの下に、民間人も戦争を戦った筈である。従軍看護婦や軍需工場で働いて居た学徒の他に、婦人も少国民も〈従軍〉を余儀無くされ、数多くの戦死者が出たのである。

 日本人の宗教観念の中に本来、軍人と民間人の死を分け隔てる様な事は無かった。武運の長久を勇ましい神に願ったり、非業の死を遂げた者の御霊(ごりょう)を鎮めると言った祭祀の有り方は長い歴史を持つ。けれども、戦地に赴いた者、戦争を指示した者と、戦争の一翼を担わされた民間人を分け隔てる宗教裏付けは何処にも無いのだ。
 更に、一宗教法人とは言え、嫌宗教法人だからこそ、靖国神社が戦後民主主義の中で機能しようとするなら、死者を区別し、差別する等持っての他である。

 靖国神社は、戦争の死者の全てを祀るべきだと私は思う。『日本国憲法』を順守するなら、戦中の過誤を神社と云う宗教的主体に基づき、軍人・軍属と民間人の間に横たわる〈死〉の差別を解消すべきだろう。

 私は『死者の民主主義』(トランスビュー)と題した新刊で、柳田国男の民俗学を基に、日本の社会は生者だけで構成されて来たのでは無く、死者や精霊や小さな神々、妖怪等も重要な参加者だったと主張した。私の考えでも、死者を「戦死者」と「戦災死者」に分類すると云う事は有り得ないのである。


 




 戦争の〈当事者〉が祭神に祀られるべきだ

 加藤は『日本国憲法』の成立過程に遡(さかのぼ)り、日本の死者とアジアの死者に対する向き合い方の「ねじれ」を指摘した。今私は『日本国憲法』に基づき、戦死者と戦災死者は「民主主義」の名の基に区別されるべきでは無いと考える。更にその上で、アジアの民家人の死者を祭神に祀るかどうかも、靖国神社は考慮すべきなのではないか。

 一方、極東軍事裁判で裁かれたA級戦犯は「戦争の死者」と云うより「戦後の死者」である。靖国神社が、太平洋戦争に深く関わり、戦後に亡く為った死者を祭神に加えて置きたいと云うのであれば、昭和天皇も祭神に加えるべきではないだろうか。

 私はここで昭和天皇はA級戦犯だと言おうとして居るのでは無い。戦争に〈当事者〉として関わったと云う点では、民間人も軍人・軍属も変わる事が無い。靖国神社は民間人以上に、A級戦犯の戦争への〈当事者性〉を認めて(或は評価して)、祭神に祀り顕彰する事にしたのだろう。もしその通りであるなら、昭和天皇は崩御と共に、祭神に加えるべきだった。

 本稿の様な問題提起は、アイロニーかパラドックスだと見向かれ無いかも知れない。しかし靖国問題の本質は、戦争の死者達が、当事者性を配慮されず引き裂かれて居る事にあると民俗学者である私は思う。令和最初の夏、私達は戦死者とは一体誰の事であるかを、改めて考えるべきだろう。


        畑中 章宏  以上




 

 


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餓死 物乞い スリ・・・戦争が生み出した「浮浪児」その厳し過ぎる生活



 【終戦日記念特集2】

 

 餓死 物乞い スリ・・・戦争が生み出した「浮浪児」 その厳し過ぎる生活


 




            〜現代ビジネス 8/13(火) 10:00配信〜


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 本当の戦争の始まり

 戦争の犠牲と為るのは、何時もか弱き者だ。敗戦後、日本には戦災で両親を失った戦災孤児の数が約12万人に上ったと云われて居る。この内、引き取り手が居らず、路上で身一つで生き無ければ為ら無く為った「浮浪児」と呼ばれた子供達は3万5千人に上ったと推測されて居る。 (朝日年鑑1947年)

 私は10年来、元浮浪児達に会い、その体験を記録すると云う取材を進めて来た。2014年には『浮浪児1945・・・戦争が生んだ子供達・・・』(新潮文庫)と云うノンフィクションに、それ等の成果をまとめた。その経験から言えば、実態は3万5千人以上に上るだろう。後に述べる様に、浮浪児には戦災孤児以外から為った者も居り、それを合わせると膨大な数に上った事は想像に難く無いからだ。元浮浪児の一人は、私にこんな言葉を残した。

 「日本の終戦記念日は昭和20年8月15日ナンだよ。だけど、そこから先が、浮浪児に取って本当の戦争の始まりだった。生き延びる為の戦争だ。その事を知って欲しくて、君に初めて浮浪児だった時の事を語るんだ」
 
 これから述べるのは、そうして語られた浮浪児達の証言に基づいた歴史だ。


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 「仲間の死体は自分達で片づけて居た」

 浮浪児達の多くは戦時中の空襲に依って生まれた。終戦の年の1945年の冬から夏に掛けて、東京、大阪、仙台、愛知、福岡等日本中の都市が米軍の空襲に晒された。此処で親を失った子供達が、誰に頼る事も出来ずに町の路上で寝起きする「浮浪児」と為って行ったのである。
 東京では上野駅に浮浪児が多く集まって居たと云われて居るが、それには理由がある。3月10日の東京大空襲に依って、東京の下町は焼け野原と為ってしまった。未だ寒いその時期、寒風を避けられる数少ない場所が上野駅の地下道だったのだ。

 上野駅の地下道には最大で7千人位が暮らして居たと云われて居り、元浮浪児達の証言に依れば、混雑し過ぎて横に為る事は出来ず、大小便もその場でして居たと云う。この内、子供の数は1割から2割。詰まり、上野の地下道だけで最大で千人前後の浮浪児が寝起きして居た事に為る。
 地下道での生活は非常に厳しいものだった。敗戦後の日本は空前の食糧難に襲われて居た。当然、路上で暮らす人々に迄救済の手は届かず、当時の新聞では「上野駅で処理された浮浪者の餓死死体は多い日に6人を数へ、先月の平均は1日2.5人だった」(朝日新聞10月18日)と記されて居る。

 だが、元浮浪児によれば「仲間の死体は自分達で片付けて居たから、もっと多い筈だよ。1日十数人は死んで居た筈」との事だった。忘れては為ら無いのが、自殺者も多かった事だ。浮浪児の中には、小学生低学年位の幼い子も沢山居た。
 彼等は日中は物乞いをしたり、ゴミを漁ったり、時には犬や猫を殺して食べてナンとか生きて居たが、飢餓・寒さ・病気・差別等の中で段々と生きる気力を削がれ、自ら命を絶つ事を選んだ。

 元浮浪児で後に暴力団員と為った石原伸司(2018年に殺人事件を起こした後に自殺)に依れば、浮浪児仲間と共に墨田川の畔を歩いて居た処、一人が「もう疲れたよ」と呟き、そのまま川に飛び込んで死んだと云う。 又、農薬を飲んで自殺を図ろうとしたものの死に切れず、三日三晩血を吐いて悶え苦しんで死んだ子供も居たそうだ。

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 上野と闇市の関係 

 上野に集まった浮浪児達を救ったのが、終戦から程無くして現在のアメ横に生まれた闇市だ。この闇市は朝鮮出身の人達が作ったのが始まりとされ、その後日本人達が次々と露店を建てて居た。浮浪児達の中には、闇市の露店の手伝いをする者も出て来た。
 皿洗いをしたり、箱の上に乗って商品の叩き売りをしたりする。1日働けば、露天の店主から1日分の賄いや小遣いを貰えたと云う。又、未就学児位の小さな子達は働く事が出来無いので、落ちているものを漁った。露店の前に転がって居る野菜や残飯を拾って食べたり、小銭を拾って懐に入れたのだ。

 元浮浪児の菅野恭一郎は次の様に語って居た。

 「闇市で食べ物を拾って居たりすると、屋台の主人が『坊主、コッチで働け』って声を掛けて呉れるんですよ。お駄賃なら、2、30円貰えたかな。屋台のウドンが5円の時代だったので満腹に為る事が出来ましたよ。
 時々、テキヤの人がお小遣いを呉れる事もあるんですよ。『坊主、ヒモジイ思いしてんな、これでも食え』ってお金を呉れる。あの人達も戦争で苦労して来たので、僕みたいな浮浪児を哀れに思って助けて呉れたんでしょう」



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 当時のテキヤは、今の暴力団と違って、アウトローではあったが、町の顔役みたいな役割を持って居たし、警察からも闇市の取り締まりを求められて居た。そう云う意味では、未だ人情と云うものがあった時代だったのだ。
 更に闇市の影響で上野駅が賑わい出すと、子供達は駅前で様々な商売を始めた。「バタ屋(廃品回収業、ゴミ拾い)」「モク拾い(煙草の吸殻を拾って売る)」「新聞売り(新聞社で買って来た新聞を少し利益を乗せて売る)」等だ。人気があったのは靴磨きだ。靴磨きの少年は「シューシャインボーイ」と呼ばれて居た。駅を出た所に木箱を抱えてズラッと並んで「靴みがきはどうですか」と叫んで客引きをする。

 元浮浪児に依れば、靴墨(くつずみ)はチョコレートを呉れる進駐軍の兵隊に頼んでPX(進駐軍専用の売店)から買って来て貰い、靴を磨く布は電車の座席のシートをカッターで切ったものを使って居たと云う。人々も浮浪児を哀れに思って積極的に靴を磨かせて挙げて居た。


 




 盗みが見付かって撃ち殺された子も…

 こうした子供達の中には、スリや盗みと云った悪事をして食い繋いで行か無ければ為ら無い子も少なくなかった。スリは、通称「チャリンコ」と呼ばれ、犯罪の中でも花形だった。テクニックも色々とあった。
 「ナタ切り」と云ってカミソリでバッグを上から二つに裂いて中身を取る方法「てつぽう」と云って通行人の右胸にブツカリ、ソッチに神経が行って居る間に左胸のポケットのサイフを抜き取る方法等だ。

 こうしたスリの技術を身に着ける為の「スリの学校」為るものまであった。スリの名人が浮浪児達を一つの家に住まわせて、スリの技を徹底的に教え込み、その上前を撥ねるのだ。
 実際に、私が取材した元浮浪児によれば、山谷や深川や川崎等にスリの学校があって、此処へ行くと1週間位豪遊させて貰えて、その後に良い暮らしを続けたければスリに為れと言われると云う事だった。今ならば、窃盗集団に組み込まれたと云うべきだろう。
 泥棒に関しては、露店等から商品を盗むだけで無く、ヤクザの窃盗集団の様なものもあった。ヤクザの大人達に連れられて、進駐軍の倉庫に缶詰等を盗みに行くのだ。只、実際は捨て駒にされて居た様だ。

 これの経験を上羽秀彦は語る。

 「ヤクザに連れられて倉庫荒らしに行くんだけど、簡単や無い。入り口には機関銃を持った兵士が何人も居て、バレれば問答無用で射殺やわ。俺達も必死に為って金網の穴を潜り抜けて倉庫の下の空気孔から内部に入って、食糧・毛布・石鹸ナンかを盗み出した。途中で見付かって撃ち殺された子も居たよ」

 上羽は違うが、元浮浪児達の証言に依れば、悪事をして稼ぐ浮浪児と、そうで無い浮浪児には違いがあったと云う。終戦から1、2年は純粋な戦災孤児が大半だったそうだ。彼等は或る日突然空襲で親を失った子供であり、中には育ちが良い子も居る。その為、彼等の多くは浮浪児に為っても道を踏み外さず、露店の手伝いや商売をして生きて行こうとした。
 だが、終戦から暫くすると、家出少年が浮浪児として町に現れ出す。親が戦争に依って心を病んで家に帰って来て、敗戦のショックや将来への不安、生活難から家庭内暴力を振るう様に為ったり、アルコールや薬物に溺れたりする様に為る。その暴力に耐え兼ねて家出をして上野に遣って来るのだ。

 こう云う子は荒れた家庭の犠牲者であり、上野に来た時には心が荒んでしまって居る事がある。それ故、前者に比べれば、暴力的な素行が目立ち、積極的に悪事に手を染める事があったそうだ。これは複数の元浮浪児が語って居る事であり、当事者にしてみればその印象は少なからずあったと云う事なのだろう。
 1949年頃には、純粋な戦災孤児より家出少年の方が浮浪児としては大きな割合を占める様に為って行ったらしい。

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 路上で手を差し伸べた大人達
 
 そんな浮浪児達にも、路上で手を差し伸べて呉れた大人達が居た。私が取材で最も感銘を受けたのが、浮浪児達がそう云う大人と出会った瞬間だった。
 例えば、上野駅の周辺には、戦争に依って手足を失う等した「傷痍軍人」の姿があった。彼等がハーモニカやアコーディオンを弾いて物乞いをして居たのである。浮浪児達はそんな傷痍軍人達を可愛そうに思って手伝いをした。
 目の見え無い傷痍軍人が居れば物乞いをする所迄手を引いて行って挙げ、足の不自由な傷痍軍人が居れば飲み物や食べ物を差し入れて挙げた。傷痍軍人は、そんな浮浪児達を我が子の様に可愛がり「おじさんが、君達に読み書きを教えて挙げ様」と言って、路上の片隅で文字や計算を教えて挙げた。

 これはパンパンと呼ばれて居た売春をして居た女性達も同じだった。戦争で家族を失った若い女性、夫を失った未亡人等が、日々の生活に困って路上に立ち、春をヒサイデ居た。浮浪児達にして見れば、彼女達はお姉さんみたいな年齢だった事から懐(なつ)いて行った。彼女達の方も、弟の様に可愛がり、お菓子を上げたり、ご飯を食べさせて挙げたりした。


 




 元浮浪児の村上早人はパンパンと同棲した経験がある。

 「パンパンが俺の事を憐れんで家に連れて行って呉れたんだ。寝る場所とご飯を毎日用意して呉れて、時間のある時は読み書きや計算を教えて呉れた。お蔭で俺は社会で必要な最低限の知識を身に着けることが出来た。もしアソコで読み書きを教わって居なかったら、大人に為っても真面な事は何一つ出来無かっただろうね」
 
 傷痍軍人にせよ、パンパンにせよ、彼等は戦争に依ってドン底に叩き落された人々だ。だからこそ、同じく戦争に依って親を失い、路上で生きて行かざるを得無かった浮浪児を他人事とは思えず手を差し伸べ、そして将来の為を思って読み書きや計算を教えて挙げたのだろう。

 記憶して置か無ければ為ら無い事

 こうした浮浪児達が、上野でどの様に死を潜り抜けて生き、70数年の人生を駆け抜けて行ったのか。詳しい事は、拙著『浮浪児1945・・・戦争が生んだ子供たち・・・』をお読み頂ければと思う。只一つ書き記して置きたいのは、同じ路上の住民だけで無く、一般市民も浮浪児の救済に立ち上がったと云う事だ。
 或る人は、上野駅で出会った浮浪児達を放って置く事が出来ず、自宅に次々と連れ帰り、私財を投じて育て上げた。こうした処が、数年後には今の児童養護施設と為って行く。現在ある児童養護施設の中には、そうヤッテ出来た処も少なく無い。

 終戦から74年。1945年8月15日は、日本軍の兵士に取っては戦争の終わりだったかも知れ無い。だが、親を失い、路上に放り出された浮浪児達に取っては、長い長い苦しみの人生の始まりだった。その事を、私達は記憶して置か無ければ為ら無いだろう。



         著者 石井 光太氏  以上


 



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2019年08月13日

枝野氏も豹変させた山本太郎の圧倒的な存在感


 

 枝野氏も豹変させた 山本太郎の圧倒的な存在感



         〜プレジデントオンライン 8/13(火) 18:15配信〜




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  参議院本会議を終え写真に納まる「れいわ新選組」木村英子議員・山本太郎代表・舩後靖彦議員


 〜野党再編の動きが活発化して居る。野党と云うと、今は山本太郎代表が率いる「れいわ新選組」や「NHKから国民を守る党」と云った新興政党が注目されて居るが、秘かに立憲民主党を中心とした旧民主党勢力が、再結集に向けて動いて居るのだ。最大の要因は、参院選での「れいわ」旋風だと云う。野党結集の裏事情を解説しよう〜


 何故このタイミングで「超然主義」を捨てたのか

 「豹変」と表現しても、好いだろう。立民の枝野幸男代表はこれ迄、他党から合流や統一会派、比例区での統一名簿作成等のラブコールを繰り返し受けて来た。しかし、その都度「永田町の数合わせと見られたく無い」等と拒否。結局、参院選での選挙協力は、1人区で野党を1本化する等限定的なものに留まった。その、頑なな姿勢は「超然主義」等と揶揄されて来た。
 その枝野氏が8月5日、国民民主党の玉木雄一郎代表、衆院会派「社会保障を立て直す国民会議」の野田佳彦代表と相次いで会談し、衆院で統一会派を組もうと提案したのだ。


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 提案後の記者会見では、当然の様に枝野氏の豹変に付いての質問が続いた。枝野氏の答えは「そうした事が必要なフェーズに入った」と云う歯切れの悪いものだった。
 ソモソモ枝野氏が国民民主等に手渡した文書も分かり難い。文書では、安倍政権が「数の力」を背景にした横暴を繰り返して居る事を強調した上で、それに対抗する為に「数の上でも、論戦力の上でもより強力な野党第1会派を作る」事が必要だとして居る。
 理屈は分かるが、安倍政権が数の力を背景にした政権を運営する状態は、もう何年も続いて居る。「何故今なのか」と云う疑問は残る。


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 旧民主を結集してから「れいわ」と協議する戦略

 枝野氏が変わった理由はハッキリして居る。7月の参院選挙で立民が思う様な議席を確保出来無かったからだ。初めての参院選を改選7議席で臨んだ立民は17議席獲得。躍進した様に見えるが、選挙前には20議席を超えるとの見方もあった。伸び悩んだのだ。

 2017年の衆院選で見せた「枝野人気」も、今回は明らかに陰りが見えた。今のままでは「安倍1強」を脅かす事は出来無いと総括せざるを得無い結果だった。特に枝野氏が危機感を持ったのは山本太郎氏の存在感だった。参院選での山本氏の人気は、2年前の衆院選で自分に寄せられた期待を遥かに上回るものがあった。
 立民と「れいわ」は、脱原発、弱者目線等、政策的に立ち位置が似て居る。しかも「れいわ」の方が、よりリベラルで、より歯切れが好い。詰まり「れいわ」は立民に取って強力なライバルと為る可能性がある。実際「れいわ」が参院選比例区で獲得した228万余りの票は、本来為らば立民に行く票が多く含まれて居た。


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 「数の力」を背景に参院でも共闘関係を作る

 仮に次の衆院選で「れいわ」と選挙協力が出来ず、競合する事に為ったら間違い無く沈んでしまう。「れいわ」も含む野党共闘を確立するのが唯一の生きる道。しかも自分が主導する形で野党共闘を築きたい。
 そう云う枝野氏の心理を読めば、旧民主党勢力の国民民主と「社会保障」で統一会派を組もうと声を掛けた理由が手に取る様に分かる。先ず、旧民主党勢力で大きな塊を作った後、山本氏との交渉に入る考えなのだろう。

 ソモソモ今回の枝野提案が衆院に限定した統一会派を念頭にして居る理由は何だろうか。「れいわ」は参院で2議席確保したが衆院はゼロ。衆参同時に統一会派を組むと云う事に為れば「れいわ」にも声を掛けるのが筋だ。しかし、枝野氏はその手は取ら無かった。先ず「れいわ」の居ない衆院で塊を作り、その後で「数の力」を背景に「れいわ」の居る参院でも共闘関係を作る。そう云った思惑が透けて見える。

 旧民主党勢力内で内輪揉めして居る暇は無い

 今の処、衆院統一会派構想は成就しそうな空気に為って来て居る。国民民主も、野田氏等「社会保障」も、枝野氏の声掛けを基本的には歓迎して居る。
 枝野氏の声掛けは、好く読むと「院内会派『立憲民主党・無所属フォーラム』に加わって、衆議院で共に戦って頂きたく」とある。国民民主や「社会保障」と新しい統一会派を組もうと云う呼び掛けでは無く、自分達の会派に入る様求めて居る。対等合併では無く吸収合併を呼び掛けて居るのだ。

 これは玉木氏や野田氏に取っては屈辱的な提案だ。実際、国民民主内には反対論も根強い。それでも玉木氏が前向きの姿勢を示して居るのは、玉木氏も枝野氏と同様に、嫌それ以上に自分達の党の将来に危機感を持って居るからだ。彼等も「れいわ」と競合する事の恐怖を感じて居る。旧民主党勢力内で内輪揉めして居る暇は無いのである。
 枝野氏が提起した「統一会派」構想は多少の曲折はあるだろうが、会派名を変えるとか、参院側の結集に付いても文書を交わす等の妥協を経て成就するのではないか。


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 「100人擁立」は取り下げへ 山本氏も共闘に乗る構え

 これ迄野党内では何度か結集の機運が出たが、その都度温度差が露呈し、それをマスコミが報道する事で成就し無い事が続いて来た。今は山本氏やN国に注目が集まり、旧民主党勢力は余り関心を持たれて居ない。ネガティブな報道が出ないお蔭で、結集もし易いかも知れ無い。だとしたら、これも「れいわ」現象の余波と云う事に為るのだろう。

 山本氏の方はどう考えて居るのか。参院選直後には、衆院選に候補者を独自に100人立てると云うアドバルーンを揚げた山本氏。この発言が、枝野氏等を「統一会派」に走らせたとも云えるのだが、山本氏は最近、時事通信社のインタビューに対し「(100人を立てると云うのは)単独でヤル場合だ。野党が共闘して行くなら協力する」と述べて居る。
 参院選期間中は、自分達の事を「最も厄介な抵抗勢力」と呼んで居た山本氏だが、野党共闘に向けては柔軟な様だ。

 衆院選は289ある1人区(小選挙区)が主戦場と為り、自民党候補との一騎打ちに勝た無ければ為ら無い。単独で戦うよりも野党結集に乗った方が成算があると云う計算が山本氏の頭の中にはある。山本氏は最近、政権交代の必須課題として「野党共闘の深化」を挙げて居る。

 天王山は10月27日の参院埼玉補選

 立憲・国民・「社会保障」の3会派が衆院で統一会派を組むと117人の勢力と為る。自民党は285議席なので「1強」を脅かす存在と迄は言え無いが、安定した支持を持つ立憲、労組の支持を受ける国民民主、首相経験者の野田氏等政治経験豊かで選挙にも強いメンバーが揃う「社会保障」が手を組めば、それ為りにインパクトがある。
 そこと山本氏の「れいわ」が手を組めば、有権者は「今度こそヤル気だ」と思うかも知れない。当面の天王山は10月27日に行われる運びの参院埼玉補選だ。そこで野党が統一候補を擁立し、街頭演説で枝野・玉木・野田の3氏と山本氏と並ぶ事が出来れば、ゲームは面白く為る。

 補選候補が山本氏なら更に盛り上がる

 この際、山本氏が補選の候補と為ると云うウルトラCも浮上して来るかも知れ無い。今、国会議員バッジを持た無い山本氏は、次期衆院選に出馬する意欲を見せて居る他、来夏の東京都知事選にも色気を見せて居る。しかし、衆院選や都知事選よりも早く行われる埼玉の参院補選で山本氏「野党共闘深化の象徴」として立ち振る舞えば、注目度も高まる。当選すれば国会での野党の戦力も上がるだろう。

 枝野氏は自身の地元でもある埼玉の補選で、何処までリーダーシップを発揮出来るか。真価が問われる処だ。そして、その推移は野党共闘の行方を左右するのは勿論の事、安倍晋三首相の衆院解散戦略にも影響を及ぼす事に為る。


      プレジデントオンライン編集部  以上



 【管理人のひとこと】


 衆院選挙に向けて野党の集合離散が始まる様だ。選挙目当ての数合わせ・・・無論そんな批判は覚悟の上だろうが、出来る事なら或る程度の政策上の擦り合わせを行った末の「統一会派では無く、もう少し次元の高い意志の統一された組織」と為る方が見栄えもするし対自民に対する影響力も違うだろう。一番に理想的なのが新たな党名の下に集まる組織だ。
 ここで問題なのが、この仲間から共産党を外してしまうのか、そして社民党も離れるのか・・・10月の消費増税の仕掛け人である野田氏が入る事で「消費税ゼロ」を唄う山本氏と折り合いが着くのか・・・の問題が残るのでは無かろうか。

 管理人としては、消費税に対する税思想が根本的に異なる野田氏と山本氏は、所謂、水と油では無かろうかと感じるのだが。野田氏が加入する事で不純な要素が混じり結集する力が削がれる様な気がする。それよりも、共産党との協調を強めた方が山本氏の政策がより鮮明に為り強化されると感じる。
 旧民主党からフラフラと宙に浮く動きで、結局は自民党二階派入りをした某氏の様に、新自由主義的な感覚が消費増税・プライマリーバランス重視を政策に押し上げた背景にある。言わば、ノン・リベラル臭が匂う人達だ。そこが、旧民主のアキレス腱であり松下政経塾生の限度だろう。

 彼等は、如何しても現実(自民の政治)を否定出来ず、それを肯定しつつ改革や変化で交わそうとするのだが、結局は全ての政策は自民に持って行かれてしまう。元々違いは無いのだから、単に自民の反主流派の一翼に過ぎ無い。それが限度であり、行く行くは自民に吸収される事に為る。
 無論、この手の政治家も大切であり、行く行くは二階氏の様に自民の幹部に為る人も出様が、山本氏とは相容れ無いだろう。彼は、初めから自民政治の否定から入る政治家なのだから。

 埼玉参院補選・都知事候補と、山本氏には選択肢は多いのだが、出来れば、野党合同統一の指導者・シンボルとしてモットモット大きく育って欲しい。その為には、直ぐに職を得ずフリーな立場で広く深く研鑽を積み、出来れば海外の与野党とも懇意に為って、知識や人脈を広げて貰いたい・・・





韓国で日本ボイコットに反旗? 日本文化めぐり分断国家の世論割れる


  

 韓国で日本ボイコットに反旗? 日本文化巡り分断国家の世論割れる



      〜ニューズウィーク日本版 8/13(火) 18:17配信〜




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 「堤川国際音楽映画祭」を主催する堤川市長は、日本製品のボイコット行動を理解するとしつつ、純粋な芸術作品として日本映画を上映すると伝えた


 半導体材料の輸出規制から一気に拡がった日韓の対立は、アッと云う間に日本の文化や訪日旅行に対しボイコットする流れが出ているが......ここ最近、日韓両国政府の対立が慌ただしい。
 連日の様にニュースで報道され、ネットでも「韓国」の文字を見ない日は無い。それ迄も様々な摩擦はあったものの、日本側が輸出管理の「ホワイト国」から韓国を除外した事で、更に問題が深刻化して居る。

 韓国でもこの件に関する日本側の動きに付いて大きく報道され、政府同士の政治的な問題から始まった対立は、民間レベルにまで広がって来て居る。これも日本製品不買運動から「行か無い/買わ無い/売ら無い」をキャッチフレーズとした様々なボイコットに迄エスカレートしつつある。そして今、日本ボイコット「NO JAPAN」の波はエンターテインメントや芸術の分野にまで押し寄せて来た。


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     公開延期に為った『ドラえもん のび太の月面探査記』韓国版


 先日、元AKB48のメンバーだった竹内美宥さんが、7月末に韓国で発表する筈だった新曲のリリース延期を発表した。プロデューサーのユン・ジョンシンさんのインスタグラム投稿によると、日韓関係の悪化を考慮しての決断だと云う。
 竹内美宥さんは、日韓共同制作の女性アイドルオーディション番組『PRODUCE 48』に参加、最終選考まで残った実績があり、この番組終了後にAKBを卒業。その後、韓国の事務所の門を叩き研究生としてトレーニングからスタートし、ミニライブ等でデビューに向けた準備を進めて居た。実力派シンガーを抱える事務所からソロデビューを果たす直前での延期だけに竹内さんの落胆は如何ばかりだろう。

 他にも、Twice等韓国で活躍して居るK-POPアイドルグループの日本人メンバーに対して、ネットで連日の様に日本や日本人に対する批判が書き込まれたりして居る。又、7月には日本のタンゴバンド、クワトロシエントスが、韓国の芸術の殿堂ホールでコンサートを行った際に、曲間のMC中に韓国人の聴衆の一人が立ち上がり日本人批判を叫んだと云うトラブル迄起きて居る。

 一方、今年10月に日本で開催予定の「第59回ミス・インターナショナル」では、韓国のミスコリア大会で入賞した7人が参加予定だったが、今年はボイコットする旨を発表して居る。
 又、8月1日に愛知県で開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」にて、慰安婦を象徴する少女像を含む展示が3日目で中止された。開幕から2日目で1400件を上る抗議が届き、放火予告の脅迫まであった為だ。
 この様な大きな事件以外にも様々な場所で日韓関係の悪化がエンターテインメントや芸術の分野に影を落として居る。

 映画界では日本映画自粛の動き

 そして筆者が個人的に恐れて居た映画界に迄その影響が出始めた。8月14日に韓国で公開予定だった『映画ドラえもん のび太の月面探査記』の配給会社は「国民感情を考慮し、公開を無期限延期した」と発表した。現在も「年内に公開」と云う記載はあるものの、何時に為るか等の情報は無い。
 又ドラえもんよりもひと足先に公開された劇場版『名探偵コナン 紺青の拳』は、8月9日の時点で観客動員数が21万8千人と云う結果と為ってしまった。

 2016年公開された『名探偵コナン 純黒の悪夢』は約52万人。2017年公開の『名探偵コナン から紅の恋歌』45万人、去年公開の『名探偵コナン ゼロの執行人』42万人と云う動員累計数を見ても、今年の客足の落ち込みは明らかである。
 韓国でも人気の高いアニメシリーズ2作の劇場版だけに、ここ迄影響が出てしまうと日本映画を扱っている映画輸入会社は驚きを隠せない様子だ。
 又、8月29日から開催される「忠清北道国際武芸アクション映画祭」では、元々日本映画『座頭市』をモチーフにして居た公式ポスターを急きょ差し替え、映画祭期間中に行われる筈だった「座頭市オリジナルセクション」の上映中止を発表した。

 そして映画コンテンツの2次版権への影響をみると、公営放送局EBSは、7月27日オンエアの「世界の名画」で、日本映画『万引き家族』を放送予定だったが、直前でイタリア映画『夕陽のガンマン』(1965年)に差し替えた。
 映画輸入会社は、劇場での売り上げだけでは無く、その後展開される2次版権も見越して映画を購入する。放送局に放送権を売り、配信コンテンツ会社とインターネットやVODの版権を取り引きする事で利益を上げる作品もある。だからこそ、何百万人も動員出来るハリウッドの派手な超大作とは反対の、公開規模は小さくても素晴らしい作品を買い付けて公開する事が出来るのである。


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              映画『万引き家族』


  映画『万引き家族』の是枝裕和監督は、韓国でも人気が高い日本人監督のひとり。しかもカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した話題作である。そんな作品ですら放送を取り辞める様な状況に為ってしまったら、今後韓国の放送局は日本映画の放送権購入を渋りだし兼ね無い。そうすると、韓国の映画買い付けバイヤーは日本映画の購入から足が遠のいてしまうのは確実だ。

 この様な悲観的なニュースが目立つ一方で、日韓関係に前向きな決断をした映画祭も現れた。

 8月8日から開催されている「堤川国際音楽映画祭」だ。今年で15回目に為る堤川国際音楽映画祭は、今年上映される127本の映画の内7本が日本映画(アメリカ/フランス等との合作含む)だった。上映プログラムが発表されたのは、日韓関係がこれ程悪化する以前だったが、日韓両政府の対立が深刻に為って行くに連れ堤川市議会は7本の映画の上映中止を要請。
 しかし、今回の映画祭組織委員長を務めるイ・サンチョン堤川市長はそれに屈せず、開催4日前の8月4日にSNSを通じて「7本の内4本は、日本と外国との合作及び投資作品で、残りの3作も政治とは関係の無い映画だ。これ等の映画は政治と切り離した純粋な芸術作品である」と上映中止する考えの無い事を発表。
 日本政府批判や日本製品のボイコットをする行動に理解を示しつつも、映画を愛する観客として映画祭への日本作品参加を認めた。

 又、日中韓合作アニメ映画『あなたをずっとあいしてる』は、一時は公開が危ぶまれたが、合作であり韓国が企画・制作・投資も行った事を強調し、8月14日に無事公開が決定した。冒頭で書いた様に、奇しくも同日公開予定だった『劇場版ドラえもん のび太の月面探査記』は無期限延期と云う結果に為ってしまっただけに『あなたをずっとあいしてる』は興行的にも成功して欲しいものである。

 「映画の奇跡」を邪魔するな

 筆者自身は政治の専門家では無いので、現在の日韓関係に付いてドチラが悪い等アレコレ論じる積りも無い。しかし「映画」に携わって居る者のひとりとしてエンターテインメントや芸術についてだけは一言言わせて貰いたい。
 映画バイヤーとして様々な国の映画を国境を越えて配給して来た筆者は、今迄何度も映画に国境は無いと云う奇跡を目にして来た。自分が輸入した日本映画の試写会で感動したと涙目に為りながらワザワザお礼を言いに来た韓国人女性観客。
 韓国映画にハマり、輸入前の字幕の着いていない韓国映画迄全部見たいが為に必死で語学勉強した結果ペラペラに為った日本人。プサン映画祭で、何とか日本人監督にその監督の作品が素晴らしかった一言伝えたいが為にホテル前で何時間も待って居た映画学校に通う韓国人学生・・・

  筆者自身、映画の世界で生きて行くと決めたのは『JFK』と云うハリウッド映画を小学生の時に観たことが切っ掛けだった。もしも何等かの理由で規制が掛かる等してこの映画が日本で公開され無かったら、その後の人生は大きく変わって居ただろう。そう云う意味では自分自身、映画に国境は無いと云う奇跡の証人である。
 だから常に自分が輸入した映画はどんな作品であれ「もしかしたら観客のその後の人生を変えてしまうかも知れ無い」と云う気持ちで大切に公開して居た。だからこそ、政治的対立から特定の国の映画がこの様に排除されると云う事態に付いては決して黙っては居られ無い。

 勿論、観客が自身の好みと違うとか、主義主張と相容れ無いと云う事で日本映画や韓国映画を観に行か無いのは個人の自由である。しかし、文化やアートに政治が介入するとか、逆に政治的な対立に忖度して創り手が作品を見て貰え無い、観客が観る事を憚(はばか)れる、と云った事態は、絶対に許され無い。在っては為ら無い事なのである。


  ウォリックあずみ  以上

メディア不信と新聞離れの時代に、鋭い記事目立つ毎日新聞の「挑戦」



 

 メディア不信と新聞離れの時代に 鋭い記事目立つ毎日新聞の「挑戦」


     〜HARBOR BUSINESS Online kash  PIXTA(ピクスタ)8/13(火) 8:31配信〜


 




 光る記事目立ち始めた最近の毎日新聞

 映画『新聞記者』でも描かれて居たが、今新聞記者を巡る環境に注目が集まって居る。その一方で、デジタル化に押された部数の伸び悩み、或いは政権による圧力「中立公正」というお題目を勘違いした政権への忖度、記者の力量不足など、内外に「報道の信頼性」を阻害する問題を幾つも抱えて居るのもまた現実だ。

 そんな中、ここ最近際立ってエッジの利いた記事を連発している新聞がある。毎日新聞だ。例えば、三原じゅん子議員の「恥を知れ」演説で語られた「民主党政権の3年間、年金支給額は、何と引き下げられて居た。安倍内閣は全く違います」発言を一早くファクトチェックした「年金支給額は増えたのか 三原じゅん子議員の演説をファクトチェック」 (6月30日)
 或いは参院選投票日前日に行われた安倍首相の秋葉原演説をリポートした「『親安倍』『反安倍』の人達が罵り合い 騒乱の安倍首相『秋葉原演説』を見に行く」(7月20日)等である。どちらも「忖度」とは真逆の、鋭い視点に立ち尚且つ速報性にも富んだ記事だ。

 毎日新聞の何が変わったのか?ここ最近、当サイトでメディアへの苦言を呈して来た法政大学の上西充子教授が、これ等の記事を統括する毎日新聞統合デジタル取材センターのセンター長、齊藤信宏氏を直撃。その「変化」の背景を聞いた。



 一騎当千の記者が存分に書ける環境

 上西充子教授(以下、上西) 最近、私はHBOLでこういう記事を出したんですね。朝日新聞の参院選前の連載である「問う 2019参院選」の第一回「『嘲笑する政治』続けるのか」(7月7日)と云う記事に付いての記事なんですが。アノ記事は全体としては好いんだけど「笑われる野党にも責任がある」と云う一言があったんです。

 バランスを取って居るのかも知れないけど、流石に問題点は「嘲笑する側」の政権にある訳で、こう云う言い方は無いだろうと批判したんです。他にも、新元号の発表の時の報道を批判する記事や、小川淳也議員による根本匠厚生労働大臣の不信任決議案の趣旨弁明演説を悪意ある切り取りをして報じたNHKを批判する記事とか。
 そうした歪曲された報道だけで無く、高度プロフェショナル制度等は踏み込んだ報道が少無かった感もあり、国会が如何に異常な状態に為っているか、報じられる事が減って来ているんじゃないか、ものが言え無く為っているんじゃないかと云う危機感を抱いて居て。

 そんな中で、ここの処毎日新聞の記事に目が行く事が多く為ったんです。例えば、ご飯論法もインフォグラフィクスを入れて分り易く取り上げて頂いたり(参照:政府答弁は論点のスリ替え? ネットで話題「ご飯論法」|2018/5/27、おさらい「ご飯論法」って? 「パンは食べたが黙って置く」すり替え答弁を可視化|2018/11/19)、三原じゅん子議員演説のファクトチェックや安倍首相の選挙前秋葉原演説等、目立った記事が多く、それが統合デジタル取材センターによるものだと云うクレジットが多くて。
 踏み込んだ記事と云うのは文字数が要るけど、Webだからこそ可能なので、デジタルで遣っているのかなと。デジタルで踏み込んだ記事を書く事によって、それが読まれて評価されてって云う好循環が回る様な仕組みがあるんであれば、そう云う仕組みに今回一寸注目をしまして、お話を伺いたいと思ったんです。


 統合デジタル取材センター長・齊藤信宏氏(以下、齊藤) ありがとうございます。前提として統合デジタル取材センター(以下、統デジ)と云うのは今から2年、もう2年半近くに為りますけども、2017年の春に出来たんです。
 私自身はこの春、経済部長から異動して現職に為ったんですが、この春から大きく変わった点があるんですね。それは統合デジタル取材センターの記者の人数を倍増したことなんです。なので、先生が最近好く目につく様になったという一因は、単純にマンパワーが倍になったと云うこともあります。
 只、この部署は、2年半前から居る記者も含めて、政治部、経済部、社会部、外信部、それから大阪本社とか福岡本社といった各部署の、言わば一騎当千の記者を集めているんです。私は所属長として、他の3人のデスクと現場の記者の原稿を見る立場ですが、細かいことを言わなくてもじゃんじゃん原稿を上げて呉れるんですよ。


 上西 一カ月でどの位の記事量を配信しているんですか?

 齊藤 ざっくり言って、月に100本から120本ぐらいですね。単純に30で割ったとして1日4本位になりますけど、土日は少し少なくなります。だから1日4〜5本ですね。
 統デジの記事の特徴としては、第一に紙の新聞記事とは字数が大きく違うと云うことがあります。1本の行数が格段に長く、新聞的に言う30〜40行位のベタ記事が無いんですね。元々、紙の新聞って、スペースに制限があるので、削られることが大前提なんです。だから大きな事件があると、それまで一面のアタマにあった記事も全部削られてベタ記事に為ってしまうこともある。それが紙の新聞の宿命でした。
 処が今はデジタルなので、書けばどんな大事件が起ころうが選挙があろうが、4千字でも5千字でも幾らでも載せられる。そのため、記者は取材の成果を全部、字にする事ができる。そう云うところに、一騎当千の記者達も、遣り甲斐を感じてやってくれてるんじゃないかと思っています。


 上西 こういう記事を書きたいって云うのは、夫々の書き手が決めるんですか?

 齊藤 週に1回、全員集めて会議をヤッテいます。そこで、今週取材するネタを3本出してくださいと。
 例えば、参院選投票日前日に、安倍首相の演説を秋葉原に聞きに行くと云う企画をある記者が出しました。それは月曜日にネタを出して、7月20日土曜日に取材。でも翌日は投票日なので、取材したその日に出さないと意味がない原稿です。
 そのため、月曜日のネタだし後に、彼は安倍さんの過去の演説についての取材メモや記事などを読み直し、現場の取材以外のデータを全部揃えた状態で当日現場に行って、その後バーっと原稿を書いて夜中までに出しました。



 




 官邸や社内政治部からの「クレーム」は?

 上西 この記事が良いのは、配信されたのがホボ選挙の日じゃないですか。普通そう云う時って当たり障りのない、安倍首相はこう言いました、みたいなストレート記事だけで踏み込んだことを言わ無い様なものを出すと思うんですけど、これ可成り政権批判的なニュアンスもありますね。

 齊藤 これまで、確かに報道はバランスを凄く大事にして来たんです。特に選挙取材って物凄くセンシティブなものがあるので。
 これまでの政治部による報道がまさにそうですし、新聞社もテレビ局も、例えば自民党を取り上げたら、立憲民主も取り上げなきゃいけないし、共産党も取り上げなきゃっていうやり方をしていたんです。でも、それによって、選挙期間中の報道って、物凄く平板に為っているんです。今でも新聞で政策比較とかやっていますが、どうしても当たり障りの無い内容に為り勝ちなんですよ。
 ネットで読んでいる人っていうのは、新聞みたいに家に届く訳ではありませんから、読みたく無ければ読ま無いわけです。詰まらなければ読んで貰えないんです。だから、読者に読んで貰える様な記事を出さないといけないという気持ちが記者全員にあると思います。

 あと、ネットの好いところは、紙面は制約があるし、パっと見ると写真が並ぶので、各党の党首が揃っていないと何かバランスを欠いた感じになりますよね。でも、ネットであれば、その日は、山本太郎さん、次の日は安倍晋三さん、次は枝野幸男さんと、一日交代で誰か党首が出ていればそれでトータルで1週間見たら、バランス取れるんじゃないですかと。
 だから、安倍首相の演説を取材した同じ記者は、山本太郎さんも取り上げて、その次の日は別の記者が、秋葉原でコスプレやった玉木雄一郎さんを取り上げた記事も出しているんです。


 上西 政権批判的な記事を出すと、官邸からクレームが来たりしませんでしたか? テレビだと、街頭インタビューの取り上げ方などに偏りがあるとして、幹部あてに電話が来たなんて話がありましたけど……。

 齊藤 それは無かったですね。テレビは影響力が大きいからセンシティブになっているのかもしれませんね。ただ、もし私が政治部記者で、官邸詰めの記者だとしますよね。で、私が普段から首相官邸を取材して、安倍さんとか菅さんとか、官房副長官とか、そういった人たちを取材していて、そんな私が批判的な記事を書くと「ちょっと齊藤さん、何時もね、あれだけお付き合いして色々なことをザックバランに話しているのに、これは無いでしょう。貴方、一寸どう云うことですか?」って、言って来る可能性はあります。
 後は、社内で、政治部のデスクから「アノ表現は一寸品が無いんじゃないですかね」みたいなことを言われた事ありますが、クレームと云う程のものはありませんね。飽く迄感想レベルです。


 旧態依然とした新聞社の「改革」

 上西 いま、政治部・社会部という他部署の話が出ましたが、統合デジタル取材センターっていうのはそういう色んなところから、2017年春に人員が集められた訳ですか。デジタル記事を書く為に?

 齊藤 はい。新聞業界というのは、実はすごく硬直した組織になっていたんです。霞が関の官僚の人と話していると、よく言われるのは「霞が関のこと批判してくれるのはいいと思う。古いとか旧態依然としてるとかって。でも少なくとも霞が関は省庁再編もしてるし、なくなった官庁もあるし、大蔵省は二つに割れて財務省と金融庁になったりしてるんですよ。でも、新聞社はなんですか」と。
 確かにその通りで、明治時代からほぼ政治部・経済部・社会部・外信部・運動部って縦割りの組織は変わっていないらしいんです。

 更にその組織の中で、朝刊夕刊に原稿を出す、特ダネを出すというのも変わっていない。これが100年以上続いていたわけです。紙に出すことが最大の目的で、紙で特ダネを書くことと、紙に事件や事故の一報を載せるというのが最大の仕事なんです。
 例えば朝刊の締め切りが夜だとしますよね? そうするとですね、朝発生した事件、あるいは午前中に起こったような出来事でも、夕刊への一報の出稿が終われば、後は翌朝の朝刊に間に合えば好いなとなる。そうすると、ユッタリ昼ご飯食べて、お茶飲んで、ちょっと取材相手と連絡を取って、取材したりして。で、夕方5時6時ぐらいから「さてやるか」っていう感じで、原稿を書き始めるわけです。
 そうしたら、ネット上ではもうバンバンその話は流れているんですよ。で、翌朝にはもう古臭い話になってしまう。

 こうした習慣は染み付いたものなので、ナカナカ改められ無い。それならばゲリラ部隊を作ろうと。そういう目的で設置されたのが統合デジタル取材センターです。だから私も、最初の頃、記者たちにこう言ったんです。「我々は、政治部・経済部・社会部から記事をぶんどって来る、原稿をぶんどって来るのが仕事だから、もう彼らがモタモタして居る様だったら、こっちで書きますからと言って、ガーッとこっちでやっちゃえ」って。つまりこう、社内で変革していく為に突破口を作ろうという思いで設置されたんです。


 上西 突破口を作ろうっていうことは、どこが決断したんですか?

 齊藤 それは上層部ですね。というのも、記者クラブ持ちだったり、遊軍だったり、様々な記者が1000人近くいますが、彼らは各々課題があって夫々の課題を追い掛けているわけです。そうして眼の前の仕事に追われていると、新聞の部数が年々減って居て、デジタルの時代に為ってますよって云うことはわかっていても、なかなか動けないわけです。だから、上の人間がこれジャ駄目だと声をかけないといけなかった。処が、一回声をかけてみたら「出来る奴」が出て来て、ダーッと動き始めるんです。

 上西 そういうスタッフはやはり若い世代になるんですか? とはいえ、こうした長い記事となると、1人で企画を立てて、アノ人に聞こうとかそういうアテもあって、取材して全部書いてだから、かなり力量がいりますよね。

 齊藤 大体10年目位ですね。新人は支局に必ず4〜5年行って、そこで事件取材とか選挙の取材とか、高校野球だとか社会人野球だとかの取材をして、その後、東京や大阪、福岡の各本社等に異動して、大きな組織に入ってそこでヤル。そこで5年ほど経験を積んだ記者を、よりすぐって引き抜いてきた感じです。


 




 縦割りを超えて起きたケミストリー

 上西 これまではその社会部と経済部と政治部ってのが縦割りだったわけですよね。それが各々が違うところから来ることによって、何かケミストリーと言うか、そういうのはあったんですか?

 齊藤 これが面白いことに、記者たちはすごくプレッシャーを感じていたようなんです。要は、出来る記者というのが集まっているので、彼はこんなのを書いた、彼女はこんなのを書いたというのをすごく気にしているらしくて。
 だから月曜日の企画会議がすごく嫌だとか言う声もありましたね。後は、他の人とネタが被ったらどうしようとか。ただ、みんな興味関心が微妙に違っていて、不思議と被らないんですよ。最も、選挙の取材とかは同じような話が出てきたんで、チームを組ませることもありましたが。
 夫々に得意のジャンルっていうのは矢張りあるんです。例えば政治部経験が長い記者は、アノ自民党の「ネトウヨ小冊子」として話題に為った冊子も、一早く何処かから入手して来て「これみてくださいよ」って言ってきた。


 上西 やはりそういう「得意分野」を作るためにも、10年くらいかかるんですね。で、そうした人はいたけど、書く場所がなかった。それが統デジができたことで書く場を得たと。

 齊藤 はい。そして今も、各部に書ける人間、書く場所を与えたら活躍する人間はいます。いるんですけど、例えば総理番やってねって言われたら、安倍首相にずっとくっつく。政調番といったら政調会長の動きをずっと追うとか、そういうそのルーティーンの仕事があるわけです。
 ただ、それは、ルーティーンの仕事かもしれないけど、実は彼らはものすごく一般の人はリーチできないような世界にリーチしてるんですよ。だから僕も常々政治部や経済部に言ってるんです。ルーティーンの仕事だとしても絶対読まれる記事になるネタがあるって。

 例えば、麻生太郎さんがいますよね。彼は火曜日と金曜日の閣議後に必ず記者会見やるんです。このとき、妙なことを言ったら記事にはなりますが、そうじゃないときも火曜日と金曜日は必ず麻生さんの話を記者は聞いているわけです。
 だったら、担当記者は、あの会見の一部始終を「麻生日記」とかいって、閣議から帰ってきたときの表情から、服装から、帽子かぶってたのかぶってないのとか、なんか足組んで座ってたとか、記者がこう言ったらそれに対して「お前勉強不足だな」と言ったとかね。そういう一部始終を全部原稿書いて、こっちにくれよと。そしたらそのまま出すからって。絶対読まれるよって。

 経済部で言うと日銀の黒田総裁が、必ずあの政策決定をやった後はみっちり1時間ぐらい会見やるんですよ。そこで、大したこと喋らないときもあるんですけど、それでも結構あーでもないこーでもないといろんな言い訳したりするんです。それなんかも、断片だけじゃなくて、ずらっと全部見せたらいいんじゃないかって。そんなことはたぶん、現場にいて紙の新聞だけを作ってきた記者は、思いがなかなか至らないんですよね。


 上西 紙幅を気にしなくていいデジタルだからできることですね。会見とかって、ギュッと圧縮するとまともなこと言っているように聞こえてしまいます。実際はウニャウニャ言っているだけであっても。それが、全文を見ることでわかっちゃうんですよね。

 齊藤 吉本興業の岡本昭彦社長の会見も5時間半でしたけど、全部文字起こしして、全文をネットに流せって、わーっとやったんです。生放送はやっていましたからそれ見てる人は好いでしょうけど、5時間半見てる人はナカナカいないんですよね。だから文字に起こすことによって、暇な時間にちょっと見て、ざーっと斜め読みしていったら、こんなことを言ってるんだってわかるんですよ。


 




 読者が「ジャーナリズム」を応援して支える時代

 HBOL編集部 先ほど記者の間で良い意味での競争心があるということをおっしゃいましたが、書いた記者にその書いた記事毎のPV(ページビュー)みたいなものっていうのは公開されているんですか?

 齊藤 それもですね、実はこれまではあんまりしてなかったんですけど、この春から前日にどんな記事がPV稼いだかっていう、1位から20位までのランク、それからユニークユーザー(一定期間内にサイトを訪問して記事を見て呉れた人)で、うちの有料会員に繋がる様な読み方をしてくれた読者の数が多かった1位から20位の記事を、メールで編集局の全員で共有するようにしています。
 それだけでも、だいぶ各部も3ヶ月で心持ちが変わってきました。例えば政治部はデジタル担当デスクを1人置いて、面白い政治ネタが政治部からも出てくるようになってきています。

 新聞で一面のアタマに為る記事と、ネットでPVを稼ぐ記事って全然違いますよね。それが、新聞だけ作っているとなかなか想像できないんです。で、何かというと、どうせネットって猫の話だとか、どこのタレントが結婚したとかそういうのが読まれるんだろうっていうぐらいの感覚でいる人たちも多いんですよ。いやそうじゃないですよと。安倍さんの話でも一番読まれていますよと。そういうことをまず伝えていくことから始めているんです。


 HBOL編集部 逆に言うと今年の春までそれができていなかったというのは、確かに組織的に旧態依然としていたんですね。でもそうなってくると、これからPV至上主義の弊害も出てくる可能性があるわけですね。

 齊藤 そのへんは色々研究しているところです。例えば、日経さんはデジタルでは新聞業界の最先端を行っているけど、敢えてPVを知らせてないって聞きました。逆に、もう全部自分のパソコンで自分の書いた記事から他の人の書いた記事までPVを見られるという社もあると聞きます。どちらがいいのか、研究しつつという感じです。
 ただ、各社共通しているのは、新聞社はもうPVの広告収入よりサブスクリプションというか有料会員をどう獲得して行くかに主眼を置いていると思います。なので、PVも指標としては参考にするけど、本当に必要な記事はどういう記事かというと、デジタル毎日を有料で購読して呉れる方がキチッと読んで呉れている記事ということになりますから、そこを重視しています。そして、有料会員も、昨年から見ると2倍、3倍と増えており、効果は出ていると思っています。


 HBOL編集部 ただ、有料になるとニュースを広めるという点ではデメリットがありますよね。

 齊藤 そこは確かに大きな課題です。ただ我々からするとですね、元々有料だったでしょうって云う気持ちもあるんですよ。新聞を取って頂いている方々は有料で取って頂いていたので、それが1990年代の後半位からネットで無料で読む流れになり、それが常識になってしまった。
 私は10年くらい前にアメリカにいたことがありますが、私がいた当時のアメリカが、今の日本の状況と同じような感じでした。それまで全部無料で見せていたのを、ウォールストリートジャーナルとか、ニューヨーク・タイムズとかワシントン・ポストが最初に閉じて有料化し始めて、閉じると当然のことながら、今おっしゃったような議論がヤッパリ起きたわけです。
 でも、そもそもニュースが無料というのはおかしいだろうと。これだけ人件費かけて、手間かけて作っているのに、無料じゃないよという意識を、もう1回、読んでいる方々に持って貰わないと。この業界自体がジャーナリズムも含めて、成り立た無いよという原点に立ち返っているという感じです。


 上西 読者の側も、ジャーナリズムっていうのを支えるためにもサブスクしないとなっていう意識を持つ必要があるということですね。

 齊藤 あとは、今の最大の課題は、若い世代をどう取り込んでいくかです。生まれてこの方新聞を読んだことがないという人が多い30代ぐらいまでの方々をどうするかということですね。
 単に一報報じるだけだったら、ネットのニュースを見てねって話なんですけども、例えば話題になっているれいわ新選組の現象って何なの? 山本太郎さんってどうしてこんなに人気があるの? とかを読み解くような記事……つまり、視点というか、ものの見方みたいなものを提供できる記事を増やしていきたいなと思っているんですよね。
 そうすると、興味を持って貰える可能性は出て来る。で、それを読むためには、やっぱりあなたもちょっとお金払ってねと少しは言えるのかなと思っています。








 対談を終えて(上西)

 今回、取材の機会を頂き、私達が求める踏み込んだ記事はどうすれば生み出され得るのか、考える手掛かりを掴む事が出来た。

 1つは、組織的育成の重要性と、育成した記者に存分に書く場を与える事だ。

 私達は踏み込んだ記事が少ないことを、政権への忖度や政権からの圧力ではないかと考え勝ちだ。勿論それも考慮に入れる必要があるのだろうが、同時に、踏み込んだ記事が書ける記者は如何に育つのか、という視点も欠かす事は出来ない。
 記者は記者職を得たからと言って、最初から踏み込んだ記事が書ける訳では無い。番記者として張り付いてベタ記事を書き、経験を積み、人脈も形成し、そうして要約踏み込んだ記事が書ける様になる。そうやって育った記者に字数を気にせず、紙面バランスも気にせずに存分に書けるデジタル記事の場を提供したのが、統合デジタル取材センターと云う新たな部署の設置だったのだろう。

 政治部、経済部、社会部など、夫々の部署で育って来た一騎当千の記者が、夫々に書きたい記事を企画し提案し、一人の署名記事で存分に書き上げる。デジタル記事であるが故に単独の記事の評価がPVにも表れる。相互に刺激し合いながら活躍出来る場を組織として与えれば、これだけの結果が出せると云うことが、毎日新聞の組織再編によって示された訳だ。
 存分に書ける場だけなら、数多くのネットメディアがある。けれども、充実した記事を書くには、それが書けるに至るまでの経験の積み重ねが必要だ。ネットメディアはその経験を積むだけの環境を提供出来るだろうか。

 そう見て行くと、記者クラブと云う場への評価も変わって来る。寄り添う経験を経たからこそ、本音を聞き出す事もでき、後に突き放した記事も書ける。そして、突き放した記事を書いても孤立し困窮しなくて済むように、新聞社と云う組織があり、有料購読の仕組みが支えて居る。
 そう考えていくと、もう1つ大切なことは、ネット記事を私達がサブスクリプション(有料購読)によって支える事だ。良質な情報は有料で入手するのが、過つては当たり前だったと云うことを、もう一度思い出したい。

 「これだけ大事な記事なのに、何故有料記事の扱いなのか」と云う声をツイッターでは好く聞く。けれども、ネット記事を支えるのが広告収入だけであれば、より扇動的な記事が跋扈し、悪貨が良貨を駆逐する状況にも為りかねない。
 組織が記者を育てるように、有料購読も記者を育てる。それによって私達が、踏み込んだ記事を読めるように為る。私たちがそれを読むことで、踏み込んだ記事が書き続けられるシステムが維持される。そんな好循環を回すことに、私たちも関わっていくことが必要だろう。



 【齊藤信宏氏】1991年早大卒、毎日新聞社入社。長野支局、社会部などを経て、2002年から経済部。証券、金融業界や財務省、金融庁などを担当し、07年秋から4年間、北米総局(ワシントン支局)特派員。12年春から経済部デスク、18年春から東京経済部長。19年春から現職。

  <対談構成/HBO編集部>

【上西充子】Twitter ID:@mu0283 うえにしみつこ●法政大学キャリアデザイン学部教授。共著に『就職活動から一人前の組織人まで』(同友館)、『大学生のためのアルバイト・就活トラブルQ&A』(旬報社)など。働き方改革関連法案について活発な発言を行い、「国会パブリックビューイング」代表として、国会審議を可視化する活動を行っている。『緊急出版! 枝野幸男、魂の3時間大演説 「安倍政権が不信任に足る7つの理由」』の解説、脚注を執筆。新刊『呪いの言葉の解きかた』(晶文社)が好評発売中


   ハーバービジネスオンライン  以上


 




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